アレクサンドル・ソクーロフってどうよ

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1名無シネマさん
最近注目してるんだけど、なんか凄いよね、この監督。
2名無シネマさん:2001/07/29(日) 00:14
ちょー退屈。あの長廻し、なんとかせんかい!
3名無シネマさん:2001/07/29(日) 00:16
最高だと思う。
とにかくスゴイ。
別に、惹かれない人は全く見る必要性なし。
だからウンヌンする必要全くなし。
4名無シネマさん:2001/07/29(日) 00:18
最低だと思う。
とにかくヒドイ。
別に、惹かれる人も全く見る必要性なし。
だけどウンヌンする必要多いにあり。
5名無シネマさん:2001/07/29(日) 00:37
1だけど画面から霊感みたいなものが漂ってくる感覚は
テオ・アンゲロプロス以来、久々に感じたよ。
6名無シネマさん:2001/07/29(日) 00:40
>>5
オレもそう思った。
ちょっと前にアンゲロプロスのスレ立ち上げたものです。
7名無シネマさん:2001/07/29(日) 08:16
>>1
最近注目って何観たの?
8名無シネマさん:2001/07/29(日) 09:37
>>7
「ロシアン・エレジー」と「ヒトラーのためのソナタ」。
今度、チョト遅れるけど「モレク神」がやっと観れる。
9名無シネマさん:2001/07/29(日) 20:19
「観客が映画を選ぶのではない。映画が観客を選ぶのだ。」
ソクーロフ監督自身の言葉です。
大多数のひとりにすぎなくても、この方の映画に選ばれたことを誇りに思う。
唯一無二の映画監督だ。

そーゆーわけでさようなら。他行ってね。>>4
10名無シネマさん:2001/07/29(日) 20:24
祝・ロシア映画の全貌2001!
「マザー、サン」がないのは切ないが、「孤独な声」上映は嬉しい。
いつかビデオ化されないかなあ。
11名無シネマさん:2001/07/29(日) 20:42
>>9
ぎゃはははははははははは!!!!!!
12名無シネマさん:2001/07/29(日) 22:26
>>9
俺ソクーロフ好きだけど、9の人はイタイ…。
13名無シネマさん:2001/07/29(日) 22:33
>>12
うん私も。
カイエや映画芸術読んで選民思想にふけってそう。
美術ファンほどじゃないけれど、映画ファンにも結構
いるよね、このタイプ。
14名無シネマさん:2001/07/30(月) 09:41
ソクーロフってビデオとかDVD出てないの?
15名無シネマさん:2001/07/30(月) 09:58
>>4
ひどいって言うだけではわからん。
何処らへんがいかんと思うの?
16画狂人うひょひょ:2001/07/30(月) 10:22
でも、>>9の人の気持ちは分かる。「大多数の一人に過ぎなくても」と書いている
あたりの謙虚さは笑っちゃ気の毒・・・ あ、言っとくけど自作自演じゃありませんよ。
蓮實重彦の講演付きの上映で初めてソクーロフの映画(「日蝕の日々」)を見て
驚嘆して以来、この人の映画は追いかけています。

『天才』という言葉がこれほど相応しい人も珍しいのでは・・・
とりわけ「静かなる一頁」には全身全霊で打ち震えました。

こんな表現でものを言うと、私も選民思想にふけっていると思われかねないけれど
でも、>>4に対する侮蔑を込めて以下に言わせてください。

ソクーロフの素晴らしさが分からない自称・映画ファンは、まるで
字が読めない自称・読書ファンである
17名無シネマさん:2001/07/30(月) 11:34
>>16
ソクーロフがわからない人は映画ファンやめなきゃいけないの?
いい加減、そういう傲慢な言い方よそうよ。蓮實教(=狂)の人って、
なんでこうまで物事を断言しちゃうんだろう。コワイよ、マジで。
18名無シネマさん:2001/07/30(月) 11:43
>>16
自分のすきな映画を褒め称えたいキモチはわかるが、なんで、そういう
物言いしかできないの?俺には、アナタのような人が映画ファンを名
乗るのが腹立たしく思えるよ。
19画狂人うひょひょ:2001/07/30(月) 12:27
>>17>>18
だから、なんでそういう100%予想通りの反応をするかねぇ〜

それに蓮實氏の講演に行った者イコール蓮實教(=狂)と勝手に決め付けているのも
君の言う「物事を断言」と似たり寄ったりじゃないのかい?

>>自分のすきな映画を褒め称えたいキモチはわかるが、なんで、そういう
>>物言いしかできないの?
そういう物言いしかできない、という決め付けも「物事を断言」ですな。
私は「こんな表現でものを言うと・・・」と前フリしてるでしょ。
わざと極端で、ある種の人にはカチンとくる表現をしたんだよ。

ところで>>17>>18は、ご自分がソクーロフをどう思っているのか全く触れて
いませんね。
ソクーロフの素晴らしさが分からない自称・映画ファンなの?
それで気に障った?

分からなければ分からないで構わないんだよ。分からなくったって
人に迷惑をかけるわけじゃないんだから

ただ、自分の理解が及ばないものに対して、自分の能力(この能力と
いう表現も誤解を呼びそうだが感性なんて言葉よりはマシ)の至らなさに
思いを馳せることなく、肥大した自我を満足させるために安易に罵倒に回る奴に
対しては一言申し上げなければ、と思い立つ気持は分かってもらえまいか?
言う迄もなく、安易に罵倒に回る奴とはここでは>>4を指しているのだが…
20名無シネマさん:2001/07/30(月) 12:37
>>19
ソクーロフファンはこんなやつばっか、みたいな色眼鏡で
みられそうでなんか迷惑。

安易な罵倒とかいってるけど自分だってなんの合理的説明もしてないな。

>ソクーロフの素晴らしさが分からない自称・映画ファンは、まるで
>字が読めない自称・読書ファンである
21名無シネマさん:2001/07/30(月) 12:40
この人の映画、普段からかすれたような画面なのに加えて、暗く見づらくて
よくわからず、いい印象にならない時があるんだけど、そういうとき皆さんは
どんなよさを見出してるんですか? 画面以外の部分?
それとも観たBOX東中野の映写機の調子が悪かったのかな?
これで駄目だったのは「静かなる一頁」「ストーン」です。
22画狂人うひょひょ:2001/07/30(月) 13:28
>>20
あなたはソクーロフ・ファンなの? 私は自分がソクーロフの映画を敬愛して
いることを伝えるときにに対してファンという表現は使えないのだけれど・・・

もうこの話題に対して反論に反論で帰すことは疲れるからしないけれど、
私の
>>ソクーロフの素晴らしさが分からない自称・映画ファンは、まるで
>>字が読めない自称・読書ファンである
          という言い回しは
ソクーロフが多くの映画観客に理解され、多くの観客を集め、多くの映画ファンの
注目を集めている映画作家ではないことを前提としているんだよ。
  当たり前でしょ 娯楽映画作家じゃないんだから
ほとんどの観客はソクーロフの映画を見て、何も理解できないか、居眠りするか、
自分の理解を超えたものを見たことによって自分の頭がよくなったような気分に
なるだけか・・・ いずれにしてもこの監督の映画に深く感銘する観客なんて、
ごく僅か、

選民思想じゃないよ。 どう客観的に考えても、それは単なる事実でしょう。
そんなことは、ここに書き込みをする人なら(ごく一部を除いて)自明の理と
しているだろう、と思っているからこそ、「字が読めない自称・読書ファンである」
などという大袈裟でハッタリめいた言い回しをしたんです。

つまり、ソクーロフが分からない映画ファン → 多
    字が読めない自称・読書ファン   → いない(点字、音読を除く)
それぞれのファンにおけるパーセンテージがが両者では極端に違うから
現実味を帯びない表現にになることを前提としているんだよ。
こんなこと説明させないで欲しい・・・

なんだか自分で言ったギャグのどこが面白いか説明しているお笑い芸人みたいな気分…

>>20さん、私の>>19を読もうが読むまいが、ソクーロフが分からない者は分かる者を
色眼鏡で見てるんじゃないですかね。 知的ぶってる、とか ハイブローな
映画ファンのフリをしている、とか そういうのって、ありがちでしょ。色眼鏡で
見られるのがイヤですか? いくら色眼鏡で見られたってソクーロフの映画から
得られる感銘には代え難い、と私は思うのだけれど・・・・
23名無シネマさん:2001/07/30(月) 13:35
>>21
1だけど、わざと画面を暗くしたり、ザラつかせたりしてカタチの意味をぼかす
ことによって純粋なカタチの美に近づくことができるのでは?
カオス状態って凄くクリエイティブで刺激的だと思う。
24名無シネマさん:2001/07/30(月) 14:30
>>17>>18>>19>>20
は、ソクロ−フの映画を嫌いでない
点では一致しているのだから、
変に揉めないでいいのでは?

>>20さん、粘着質で挑発的な文章で
他人を挑発するのは良くないですよ。
掲示板を活性化させるため、
意識的におこなっているのでしょう。
でも罵りあいで活性化するのは嬉しくないです。
2520:2001/07/30(月) 14:39
>>24
>粘着質で挑発的な文章で他人を挑発するのは良くないですよ。

あのね、おれは20しか書いてないよ。粘着質で挑発的な文章書いてる
>>16 = >>19 = >>22とは別人。
2624:2001/07/30(月) 14:49
>>25
ごめんなさい!、20さん。
打ち込むときのミスでした。
変な人と間違えてしまい大変申し訳ありません。
非礼をお詫びします。
27画狂人うひょひょ:2001/07/30(月) 15:35
ソクーロフの『映画』についてこそ熱心に語りたかったのですが・・・・
なんだか我ながら虚しい結果に・・・・
そして遂に「変な人」呼ばわりですか。
活性化とやらはアナタがたに期待します。
ご安心下さい。 二度とここに書き込みしないことを固くお約束します。
28名無シネマさん:2001/07/30(月) 19:48
うは
29名無シネマさん:2001/07/30(月) 19:50
19さんって相当自我が肥大した人みたいね。
こういう人とは映画のハナシしたくないな。徹底的に相手をバカに
しそうだもん。
30 :2001/07/30(月) 19:52
このスレみてるとどんどんソクーロフが嫌いになってくから不思議だね
31名無シネマさん:2001/07/30(月) 19:56
>>30
そうだね。19さんが登場してからね(w
32名無シネマさん:2001/07/30(月) 22:32
1だけど、なんかディティールにまで踏み込んだレスが
まだ出てないような・・・。
33名無シネマさん:2001/07/31(火) 06:49
ソクーロフの名に惹かれて期待してここに来ましたが、ナンですか、ここは・・・
ソクーロフを敬愛している人をコケにするための板ですか?

>>9さんが高らかにソクーロフへの想いを表明すると、サルどもが、ぎゃはははと笑い、
イタイと言われ、こともあろうに選民思想(意味知ってんのか)などという言葉を持ち
出される。 で、>>16の画狂人うひょひょ氏(このネームはどうかと思うが)が
>>9氏を擁護し、サルにも分かりやすいように誇張した表現でソクーロフを称揚すれば、
その意図もわからない頭の悪いサルが絡んでくる・・・

画狂人さんもよくないです。 知能は無いが自我はあるサルにいちいち反論して説明な
んかしようとするから・・・  サルどもなんか無視してソクーロフについて語れば、
ここを有意義な板に出来たかもしれなかったのに……この人こそが最もソクーロフに
ついて熱っぽく語れそうだったのに・・・ 

で、画狂人さんを追い出した後もサルどもがうじうじうじうじ画狂人さんの悪口を言っ
てやんの。クラスに突出した生徒がいると寄ってたかってイジメル性根の腐った小学生
みたいだ。 で、このサルども、ソクーロフに関しては何一つ言えないんでやんの。
サルはサルなりにソクーロフについて何か言ってみろ。言えないんだったら人を批判
するな。黙っていればいいじゃないか

ここを立ち上げた方には申し訳ないのですが、こんなサルどもをのさばらせるために
この板を作ったのですか。勿論そうではないでしょう。
失敗でしたね。 私もソクーロフを尊敬していますから残念です。
私も2度と書き込みません。と、いうか 2度とここには来ません。
34名無シネマさん:2001/07/31(火) 08:15
俺も二度と来ません
35名無シネマさん:2001/07/31(火) 13:35
1だけど、ソクーロフの映画って言葉(脚本)でみて考える映画というより、
眼でみて感じる映像詩っぽいよね。
だから語りにくいのかな?
論評はつまらんので観た人が何を感じたかを知りたい。
36kuzen:2001/07/31(火) 13:51
馬鹿に分かる映画じゃないですよ。
馬鹿は馬鹿らしく大人しくスピルバーグでも見てれば?
37名無シネマさん:2001/07/31(火) 13:53
>>36
そうします(W
ソクーロフは僕には難解で。
38kuzen :2001/07/31(火) 13:56
>>37
そうしてね。
芸術映画って、結局選民的にならざるを得ないジャンルだと思うんですよね。
悪いけど本当に映画の事を知らない人にはここにきてほしくないな。
39名無シネマさん:2001/07/31(火) 13:59
>>38
温かいご進言ありがとうございます(藁)。
アナタはせいぜいソクーロフのおもしろさを宣伝してください。
本当に映画を知っているようなので(藁)。
40kuzen :2001/07/31(火) 14:06
>>39
粘着質ですね。
去るなら黙って去ってね。
41名無シネマさん:2001/07/31(火) 14:07
>>36
あのさあ、俺ソクーロフ好きだけど、上手く言葉に出来ないんで
ここに来たんだけど、なんでこういう高踏的な言い方しかできな
い人が出てくるの?なんか萎えるんですけど…。
42kuzen:2001/07/31(火) 14:08
>>41
勉強してから出直してね。
43名無シネマさん:2001/07/31(火) 14:11
Kuzenさん、アナタは哀れだ。
44kuzen:2001/07/31(火) 14:11
偽者めが!!
おれが本物
45名無シネマさん:2001/07/31(火) 14:12
ソクーロフって誰?
46kuzen:2001/07/31(火) 14:12
>>43
ははいそうですね。

>>44
誰ですか?
勝手に人のHN名乗らないように。
47名無シネマさん:2001/07/31(火) 14:13
どこにでも現れる害虫、空前氏ね
48kuzen:2001/07/31(火) 14:19
俺がほんものだ信じてくれ
のっとられる〜〜〜〜
49名無シネマさん:2001/07/31(火) 14:20
>>48
おい!ボディ・スナッチャーかい!
50kuzen:2001/07/31(火) 14:21
ソクーロフ?見た事ないですね
51名無シネマさん:2001/07/31(火) 14:22
ふうん、これが空前か。すごく頭が悪そうだな(笑
52名無シネマさん:2001/07/31(火) 14:23
>>51
有名な荒らしなの?
53kuzen:2001/07/31(火) 14:23
>>48
>>50
は本当にやめてください。
ここはソクーロフについて論じる場所であって、
HNの真贋を問う場所ではない。
もし私のHNを語るのなら、
それなりの見識と意識を持ってからにしてください。
お願いします。
54kuzen :2001/07/31(火) 14:26
>>51
そういうあなたはきっとさぞかし頭がよいのでしょうね。

>>52
荒しではありませんよ、ご心配なく(笑)。
55名無シネマさん:2001/07/31(火) 14:26
>>52
見ての通りだよ。自分の選民性をアピールすることしか頭にない
一種のパフォーマーだな。
56名無シネマさん:2001/07/31(火) 14:27
>>54
お前よりはマシかもな。
57kuzen:2001/07/31(火) 14:28
馬鹿馬鹿しいスレですね・・・。
58にせkuzen:2001/07/31(火) 14:35
というわけで、今日はお開き!
59名無シネマさん:2001/07/31(火) 15:49
ソクーロフをまわりで語れる人がいないんで楽しみにスレッドひらいてみたら
>>19といい>>33といいなんでこんな高圧的な人間ばかりなのか?
19と33が別人だとしたらソクーロフを選択する人間には同じ特質があるのか
そして自分もそれに含まれるのかとおもうとぞっとするな。
2ちゃんではごくあたりまえの茶々に過剰に反応して、スレッドをめちゃめちゃ
にしてしまうあたり単にネット素人という気もするが。
単に極端であることを表現したいだけなら、ソクーロフファンである事を卑下して
表現すればなごやかに切り抜けられたのにね。
60名無シネマさん:2001/07/31(火) 15:54
↑まともなひとだ。
質問。
ソクーロフ入門に最適な一本は何?
61名無シネマさん:2001/07/31(火) 16:21
>>60
自分は全部を見てるわけではないが
とりあえず『静かなる一頁』をお勧めしておきます。
1カット1カットがフォルマリスティックすぎる感じはあるけど
かなり自立した時間・空間が構築されています。
62名無シネマさん:2001/07/31(火) 16:41
あと一応解説しておくと「観客が映画を・・・」はキリストの言葉のもじりですが
「優れている」から選ばれるわけではなくて、「虐げられ疎外され欠落し飢えている」から
選ばれるという逆接的な物言いです。念のため。
6360:2001/07/31(火) 16:55
>>61
ありがとう。今度見てみるよ。

>>62
まあなんでもいいじゃん。
64名無シネマさん:2001/07/31(火) 17:46
>>62
ソクーロフの言った「・・・映画が観客を選ぶのだ」という言葉はキリスト教的な
選民の思想とは関係ないよ。文字通りの意味です。

それにしても、このスレ、本当にソクーロフが分かる人、語れそうな人はすぐに
去っていきますね。 で、実はソクーロフの映画が良く分からない人が
分かる人のことを高圧的だとか、高踏的だとか文句ばっかり言ってる・・・ 
65名無シネマさん:2001/07/31(火) 17:55
>>64
他人のふりしてしつこく居座ってるみたいね。
2度と来ないとか言っておきながらどうしても気になるようだな。
66名無シネマさん:2001/07/31(火) 18:02
もういいって言ってんだろうがヴォケ!!
67名無シネマさん:2001/07/31(火) 18:07
>>64
キミみたいなのがこのスレの印象を悪くしてるのがわからんのか?
6859:2001/07/31(火) 18:10
>>64
違います。あくまでキリスト教思想にのっとった上での発言です。
でなければわざわざ聖書の言葉をもじる必要もないし、なにより
ソクーロフの映画自体がそれを証明しています。単に文字どおりの
意味しか読み取れないとしたら失礼ながらあなたはソクーロフについて
全く分かっていないのではないかと勘ぐらざるを得ませんが。

あと高圧的うんぬんというのはソクーロフが分かる分からない
以前の基本的なコミュニケーションリテラシーが欠落している
という意味なのでお間違えのないように。
69名無シネマさん:2001/07/31(火) 18:41
>>65
>>66
>>67
私、別人なんですけど・・・ ご自分(たち)はそうした書き込みでこのスレの印象を
悪くしていないとでも? くだらない書き込みはいいから、ソクーロフについて語って下さい
>>60
ソクーロフの入門にはスタンダード時代よりもスコープ時代の作品の方がいいかも・・・
特に初めてのソクーロフ初体験が「ストーン」や「セカンド・サークル」だったら
誤解されそうです。(この2作が劣っているというわけではありません。念の為)
私が入門としてお勧めするのは「日々は静かに発酵し・・・」です。
「静かなる一頁」は「罪と罰」を読んでいない人にはツライかも・・・
>>68
「観客が映画を選ぶのではない。映画が観客を選ぶのだ。」という言葉の
キリスト教的解釈を分かり易く説明してください。 もちろん著作を読めば分かることですが、
あなたなら独自の解釈からソクーロフ作品の創作の秘密に到達できることでしょう
70名無シネマさん:2001/07/31(火) 18:50
>>69
そうなの?同じような物言いのソクーロフ愛好家が次から
次へとよくあらわれるもんだね。まじでこんなんばっかなのか。
71名無シネマさん:2001/07/31(火) 18:55
>>70
あのぉ〜 あなたがどんな物言いをする方なのか非常に興味がありますので、
ソクーロフについて語って下さい。 ご存知無かったのかもしれませんが、
ここ、ソクーロフのスレなんですよ。
7269:2001/07/31(火) 19:00
付け加えますと、ドキュメンタリーの「マリア」もお勧め
73名無シネマさん:2001/07/31(火) 19:01
>>64=>>69=>>70、あともっともっと前もそうか。
アンタさあ、もう2度とこないって言ったんだから、最低限それ
ぐらいは守りなよ。アナタが食いついてくるかぎり、このスレ
はこんな応酬ばっかだよ、きっと。
ちなみに俺は本当にもう来ません(藁)。
74名無シネマさん:2001/07/31(火) 19:02
>>73
きてるじゃん!
75名無シネマさん:2001/07/31(火) 19:08
>>73
いちおう別人って言い張ってるんだからそういうことにしとこうよ。
76北九州在住:2001/07/31(火) 21:03
テオ・アンゲロプロスに匹敵するとおっしゃるソクーロフか。
これは、観ないと。
でも、ビデオ屋に置いてないもんな。
どうすればよいか? 教えて下さい?
77名無シネマさん:2001/07/31(火) 22:51
前に渋谷のユーロスペースで「マザーサン」を見たときに
殆どの人が寝てた。
78名無シネマさん:2001/07/31(火) 23:05
本人が言います。 正しくは >>64>>69>>71>>72 である。
>>73は偉そうに暴いたつもりで間違ってる・・・賢い人ではなさそうだ。

で、ソクーロフに関して何か言いたいことは?

>>73>>74>>75って何のためにここにきているの?
自分の気に食わない奴を見つけてはイチャモンをつけるためだとしか
見えないのだけど・・・ そんなことは他でやってくれないかな?

そうじゃないなら、そろそろソクーロフのことをどう思っているのか
書いたらどうだろう。

>>73アナタが食いついてくるかぎり、このスレはこんな応酬ばっかだよ、きっと。

どうみても見当違いな応酬に励んでいるのはあなたなんだけど・・・
何がたのしいの?

もう一回言うけど、そういうことは他のスレでやれ!
79kuzen:2001/07/31(火) 23:07
アレクサンドル・ソクーロフdausuki
80名無シネマさん:2001/07/31(火) 23:46
>>78さん、 いきなり決め付けちゃぁ悪いけど、あなたパソコン初心者でしょ。
少なくとも2チャンネル初心者であることは間違いありませんね。

老婆心ながら申し上げますが、2チャンネルには、ごく一部のスレを除いて
>>73 >>74 >>75 のような連中はウジャウジャいます。
ご推察の通り、こいつらは他人にイチャモンをつけるのが楽しくて楽しくて仕方が無い
のです。 しかも掲示板上で同類と徒党を組むと狂喜するのです。

無視しなさい。 無視するのがこうした場所での暗黙のルールなのです。
それを肝に銘じなさい。

>>そろそろソクーロフのことをどう思っているのか書いたらどうだろう。
こういう挑発は完全にあなたのルール違反です。 そもそもあなただって気付いている
はずです。 こいつらソクーロフの映画なんて一本も見ていません。

こいつらからこういう密かな楽しみを奪うと陰惨な犯罪に走りかねません。
その場合、あなたの家族や友人や恋人が被害者になるかもしれないんですよ。
そういう風に考えて、こういう奴らは無視するのです。
81名無シネマさん:2001/07/31(火) 23:51
1だけど、芳しくないので質問させてね。
ソクーロフって何にピントを合わせて世界を捉えていると思う?
或いは、ソクーロフの映画を観るとき何にピントを合わせれば
美味しく観られると思う?(当然、何が正解って訳じゃなく)

ちなみにオレは >>23 に触れたように「カオス状態を味わう」
8268:2001/07/31(火) 23:54
>>69
本人でも別人でもどっちでもいいけど、その独善的なスタンスがスレッドの荒れに
つながってるのがわかってないみたいですね。

>「観客が映画を選ぶのではない。映画が観客を選ぶのだ。」という言葉の
>キリスト教的解釈を分かり易く説明してください。

とりあえず元になったのは「あなたが神を選んだのではなく、神があなたを選んだ.」
というヨハネの福音書の一節ですが、選民思想も他民族に虐げられてきた歴史のなかで生まれてきた
ものだし、キリスト教においても苦しみの状態、苦悩した状態にあるからこそ救われるというのが
前提として上の言葉が語られてるわけです。
当然ソクーロフの言葉においても、知的好奇心を満たすために映画を撮っているわけでも、観客の
知性を選別しているわけでもなく、苦痛や苦悩の表れとその救済、癒しの行為であるということの
明らかな態度表明ととらえるべきでしょう。
もちろんデミウルゴスとしての創造物=映画というメタファーが含まれているのは言うまでもありません。

むしろあなたがソクーロフからわざわざキリスト教的思想を排除して、文字どおりの意味として
とらえたことのほうが不自然に思うんですが。なぜそう思ったのかわかりやすく説明してください。
83名無シネマさん:2001/08/01(水) 06:52
>>69
自分で訂正します。「日々は静かに…」ではなく正しくは「日々はしづかに発酵し・・・」
でした。
ところでソクーロフの2000年の映画「牡牛座」(原題)のビデオが3000円ほどで
買えるのだけど、どうもロシア版みたいです。 もし興味がある方がいらっしゃったら
もう少し詳しく調べて、ここに書き込みますが・・・ 私は絶対に買いたいのですが、
ロシア版のビデオって日本のデッキやテレビの方式で正常に再生できるのでしょうか?
それが心配です。そのあたりについてご存知の方、どうか教えて下さい。

もし、この書き込みも、「独善的なスタンス」とみなされるのなら、私は写経の旅に出る・・・
84名無シネマさん:2001/08/02(木) 01:05
でろ。
85名無シネマさん:2001/08/02(木) 21:45
『ドルチェ』は良かった。
ものすごく怖いカットがあったりして。
86名無シネマさん:2001/08/05(日) 14:26
>>83
http://www.rosianotomo.com/
↑のサイトだと方式変換して販売してくれるみたいですよ。
「牡牛座」も扱っていました。
87名無シネマさん:2001/08/07(火) 18:27
>>82の人ってタルコフスキーについて語っているんですよね
それならば、あなたのおっしゃるとおりです。

そうじゃないとすれば、そんな教科書的な決まりきった陳腐な言葉で
ソクーロフのことを分かったつもりにならないで欲しいな。
あなたに対して悪感情を抱いているわけじゃないけれど、本当にソクーロフの
映画から言葉に出来ないような何かを受け取った者なら、
そんな つまらない定型句は吐けないはずですよ。
88名無シネマさん:2001/08/07(火) 18:28
なんでこの手の監督には気色の悪い信者が湧くんだろうか…
89名無シネマさん:2001/08/07(火) 18:42
信者と理解者を混同しちゃいけませんよ。
理解できない者にとっては、自分が理解できない者を理解できる人間が
気色の悪い者に見えるのは・・・必定

大昔からそうです。  理解できる者になれる資質が無いのなら
大人しく愚民でいなさい。
90名無シネマさん:2001/08/07(火) 18:45
↑ 理解できない者 → 理解できないもの
91名無シネマさん:2001/08/08(水) 11:35
>>88
このスレ、こんな下らない混ぜっ返しばっかり。もう飽きたよ。

同じ奴が書いてンのか知らないが、同じような文体で能も無ければ芸も無い。
しかも、この反応の速さは何なんだ。気に食わない書き込みを見つけては慌てて
茶々入れするために日夜モニターを見つめつづけているのか?

もう一度言う。似たような茶々入れや混ぜっ返しには飽き飽きだ。
せめて何か芸を見せてくれ
92名無シネマさん:2001/08/08(水) 13:22
91に同意。
下品な荒らしも迷惑だが、
上品ぶった荒らしも迷惑である。
93名無シネマさん:2001/08/08(水) 14:54
というわけで終了。
ソクーロフはまた、薀蓄くんが消えたときにでも
マターリいこうや。
94名無シネマさん:2001/08/13(月) 15:56
アレクサンドル・ソクーロフ『精神の声・第3話』をビデオで観る。やっぱ、ソクーロフってとんでもない作家だ。今ごろになって驚くのは10年遅いのだけど。
3話では、国境警備隊の駐屯地から山頂にある哨所まで昇ってゆき、そこで1日を過ごす兵士たちの日常が描かれている。兵士たちは服装も装備も1人1人バラバラで、なかには短パンに横縞のシャツ、なんていう兵士もいる。兵士たちが描かれる、といってもその距離感は微妙なものがあって、撮影クルーは決して兵士に話しかけないし、兵士も、カメラの方を見ることはあっても、クルーに声をかけたりはしない。かといって特にカメラを邪魔にしたりもしない。時にカメラは兵士たちの相当近くまで寄っていくのだが、そのことを大して気にしている様子もない。勿論、そこにカメラがあるということは絶対に強く意識しているはずなのだが。
相変わらず、どこを狙っているのか、何を撮ろうとしいるのかよく分らないフレーミングで、これはもしかしたら、回しっぽなしのカメラをそこらへ放置しておいて、たまたまそこに写った映像を使用している部分さえあるのではないかと思わせる。ただひとつ言えることは、ソクーロフは常に、兵士たちを兵士「たち」として捉えていて、決して1人の兵士にカメラの関心が集中してゆく、ということがない。と言うより、ソクーロフは「個人」とか「人間」とかいうことに興味がなくて、視点が焦点化されたり人称化されたりすることを、何よりも避けようとしているように思える。そこにあるもの、は、人物も植物も動物も、無機的な物質も、あるいは風も天候の変化も、全てを同等のものとみなして、その全てに対して最大限に開かれていようとしている。しかし通常は、そんなことをしたら作品は「作品」として成立出来ないだろう。たとえひとつの中心をつくることを避けて、複数の焦点の交錯によって作品を成立させようとしたとしても、そこには幾つかの「焦点」が必要とされる。しかしソクーロフのフレーミングは文字どおり「焦点」が定まっていないのだ。何かを捉えようとする時の「起点」が存在しない、というか。これはあらゆるものを受け入れることのできる自由さを示しているとともに、作品としてはぎりぎりまで弛緩してしまって、崩壊寸前であるということでもある。どうしてこんな風に撮影されたものが、ちゃんと作品として成立してしまうのか。あるショットがどうしてそういうフレームをもつのか。そのショットがどうしてそれだけの時間、持続するのか。そのショットの次にくるショットが、他でもなく「それ」であるのは何故なのか。それらを決定する法則のようなものは、作品の内部にはどこにも見当たらない。その選択を保障するのは「作家」としてのソクーロフの判断しかないのだけど、しかしそれはたんに「作家」の個性だとか感覚だとか言って済まされるようなものとは違う。
95名無シネマさん:2001/08/13(月) 17:19
このスレ下げ気味でいかない?
また荒らされると嫌だし。
961:2001/08/14(火) 10:40
>>94さんありがとう。
ソクーロフを味わうための、こういうレシピが欲しかった。
97名無シネマさん:2001/08/14(火) 10:43
ソクーロフが大島渚のドキュメンタリーを撮ったの知ってた?
まだ編集中らしいけど。
98名無シネマさん:2001/08/14(火) 10:46
今日初めてここに来ました。 ほとんど死にかけているスレだから
死者を鞭打つような真似はしたくないけれど・・・

いや、まだまだ生き返ることが出来るかもしれません。 そう願って私も書き込みます。

このスレでは、ソクーロフを尊敬している人間が、ソクーロフを称揚する言葉を
高らかに宣言すると批判されるのですね。
批判者曰く「イタイ…」「選民思想にふけってそう」「傲慢なアナタのような人が
映画ファンを名乗るのが腹立たしく思えるよ」「変な人」「自我が肥大」「高踏的」
「高圧的」「気色の悪い信者」「薀蓄くん」

こういう批判者って、自分には理解できないソクーロフを理解している人間が
妬ましくって仕方がないのでは? 

自分には分からない文体で自分には分からない映画を持ち上げるハスミ氏を
毛嫌いする人と同質のものを感じます。
もっとたくさんの本を読み、もっとたくさんの映画を見れば、やがて分かるように
なるのに、そういう努力はしたくなくて、でも自分のことを映画ファンだと
思い込んでいたい人たち・・・・
先に引用した批判の言葉はむしろ自分達にこそ相応しいことが分からない人たち・・・

あ、言っときますけれど、私もこのスレを最初から最後まで、ざっと読んだ上で
こんな文章を書いています。
このスレの中で、こんな書き込みがどんな目に遭うか承知の上で書いているので、
以前にあったのと同じような言葉で批判しないで下さいね。そんなのは退屈ですから。

極端なことを言いますが、>>16のひとが「ソクーロフの素晴らしさが分からない自称・
映画ファンは、まるで 字が読めない自称・読書ファンである」という少々過激な
スローガンを掲げたとき、ソクーロフが分からない人は全員ここから出て行ってくれて
いれば、このスレ、面白くなっていたかも… 理解者と、今は理解できないけれど
理解できるようになりたいと謙虚に願っている人だけが残っていれば・・・
あ、こんなことを書くと私が>>16と同一人物であると執拗に思いたがる人が出て
きそうだけど(そんな人がいたじゃないですか)、違いますからね。
99続き:2001/08/14(火) 10:47
>>93さんは「薀蓄くんが消えたときにでもマターリいこうや。」とおっしゃいますが
薀蓄大歓迎ではないでしょうか。薀蓄しか言えない人は困りものですが、薀蓄すら
言えず批判ばかりの人よりはマシですから。

私はソクーロフの映画から言い知れぬ感銘を受けた経験があります。
それは かけがえの無い経験です。こんな言い回しを笑いたい人は笑って下さい。
そういう人のことを私は深く軽蔑します。

なんでしたら>>88の表現を借りて気色の悪いソクーロフ信者と呼ばれても構いませんが
ソクーロフを尊敬している人たちは ソクーロフの素晴らしさが分かる人が
少ない状況に もどかしさを感じているのではないでしょうか。
映画評論家と名乗る人の中にもソクーロフを正当に評価している人は僅かです。

こういう状況に対するイラだちがあるから、ここでの書き込みも
「傲慢」「高踏的」「高圧的」にならざるを得なかったのかもしれません。
「ソクーロフの素晴らしさが分からない自称・映画ファンは、まるで
字が読めない自称・読書ファンである」なんてスローガンもそうした状況を
背景として捉えないでどうしますか。 (もう一度言ッとくけど同一人物じゃないぞ)

さて、私が書いたこの「自我が肥大した」「高踏的」で「高圧的」で
「傲慢な」書き込みが、どんな反応を引き起こすのか、
でしゃばるようですが、このスレの行く末を占うことになるかも・・・

またもや知性を欠いた軽蔑すべき茶々入れや混ぜっ返ししか来ないのかどうか・・・

ところで>>94の人に言いたい。それがコピペだということは分かっています。
どのHPからのパクリかも私は知っています。 2チャンネルって所詮
そんなものかもしれませんが、ちょっと呆れました。
100また続き:2001/08/14(火) 10:55
>>97さん、それ本当ですか? いつ頃の大島を撮ったのでしょう。
もう少し詳しく教えて下さい。または詳しいことが分かるHPをご存知でしたら
ぜひ教えて下さい。 タルコフスキーのドキュメンタリーも撮っているから意外では
ないけれど、ソクーロフと大島・・・ちょっと不思議な感じです。
101名無シネマさん :2001/08/14(火) 10:57
私はソクーロフのことは何も知らないけど、少なくとも99のような
人とは友達にはなれないな。読んでて不快です。
人との触れ合いかたとか知らないんじゃないのかな?
10294:2001/08/14(火) 11:02
『ドルチェ-優しく』ソクーロフが恐ろしいほどの動物的な嗅覚をもった天才であることは疑いようのないこと。
例えば正方形という画面の形態にしても、練りに錬った「狙い」でも刺激的な「試み」でもなく、
何の言い訳もなしに「いきなり」正方形な訳で、そしてその「いきなり」が、後からみれば画面が正方形をしていることが特異なことだという事実をふと忘れてしまうくらい、
納得のいくものになってしまっている。
ソクーロフというのは「映画史」によって支えられなくても映画がつくれてしまうような人なのではないか、
映画史はソクーロフを必要としても、ソクーロフは映画史など必要としない、
今、たまたま映画と関わってはいるが、映画と関係のない場所にいても、いつどんな状況においても、
鋭敏な嗅覚は、本質的なものを掘り当ててしまい、それをどのような形ででもモノにしてしまえるのではないか。
103名無シネマさん:2001/08/14(火) 11:04
>>98 >>99 >>100 を書いた者です。

で、これが最初の反応ですか・・・
長々と書き込みしたのは徒労だったのだと今、思い知りました。

ところで皮肉でも嫌味でもなく単純な疑問ですが、
「ソクーロフのことは何も知らない」のに、何に惹かれてここにきたのですか?
皮肉じゃありませんよ

それから私、このスレで友達募集はしていないのだけれど・・・
10494:2001/08/14(火) 11:05
スクリーンの両側に黒い余白が出来てしまう正方形の画面は、どこかポラロイドカメラによる写真を思い起こさせるもので、
正方形という形態から、いつも以上に画面は静態的で動きがないのだが、しかし、四角く区切られたフレームの内部は、
いわゆるアクションとは全く別種の、画面内部の粒子のひとつひとつが常に細かく振動しているような、
静かなようでざわざわしているような、不思議な動きでみたされている。
複雑な多重露光と現像処理によるのだろうが、画面のトーンは常に微妙なムラを含んでいて、
明るさや色調も常に少しづつ変化している。冒頭の、舟の先っぽのソクーロフらしい人物の後ろ姿と、ラスト近くのあの素晴らしい嵐の山のショット以外は、
ほとんど全て室内で、一人芝居のように生い立ちを語る島尾ミホの姿(いや、語ってるのではなく、はっきりと演じている)を、
ゆっくりゆっくりとショットを重ねながら追ってゆく。
島尾ミホの声(正直言うとぼくはこの声をあまり好きではない。好きではないと言うか、どこか安心できないような、なにか神経を常に引っ掻かれるような感じがする声。
声と言うより、口調がそうなのかもしれない。演じることに慣れていない人が演じている時の口調。)、
廊下がしなる音、畳を足の裏が擦る音など、その場で見えるものが発している音の他に、
ノイズと混じった潮騒が強くなったり弱くなったりしながらずっと持続していて、それがふと気がつくといつの間にか雨音に変わっている。
島尾ミホの語りを追い掛けるように、ソクーロフのナレーションが少しズレてかぶさる。
途中何度か、画面が見えない状態(実際には見えているのだが、見ていても見えていない状態)になり、
音だけを聞いている感じになる。ふと、画面と音とがほとんど無関係に存在しているのではないかと思えてくる。
その時にはっきりと、これはドキュメンタリーではなく、演じられた語りであり、つくられた時間なのだということを確信する。
105:2001/08/14(火) 11:07
ソクーロフは、これまでに何回か来日しているが、94年に日本を訪問したときの印象を、ロシアの映画雑誌に、このように書き記している。

「・・・・私は、日本から帰ったばかりです。驚いたことに、私は日本でいかなる異国情緒も感じませんでした。かの地で私は、世界のどんな国でも見たことのないほど多くの疲れた人々を目にしました。もしロシア人が、日本人のように疲れているのなら! あんなに疲れた民族を、いままでに一度も見たことがありません。疲労のあまり人々が泣くのを目撃しました。疲労からですよ。明日も今日より楽にならないゆえに、明日も明後日も今日のように辛いゆえに。きっとロシアでは想像もつかないでしょう・・・・一人の人間が疲れているのはわかります。でも、民族全体が疲れているなんて・・・彼らは敬服にあたいします。地上の空間でせめて誰かが疲労の十字架を背負っていることは、きわめて重要なのです。おそらく私たちみんなのために、彼らはこの十字架を背負っているのでしょう、そう見えます。実際なんの罪もないのに、少なくとも人類を前に、ロシアの住人に比べて日本人のほうが、ずっと罪は小さいのです。私たちロシア人も疲れていると言われますが、日本人には及びません。

 私たちは、困難な時代に生きています。なぜなら、人々のこのような疲労困憊の要因が、現在ほどドラマチックで巨大だったことは、いまだかつてなかったからです。このような現象の後には、きっとなにかが起こるでしょう。こんなことが長く続くはずがない・・・なにかが起こるにちがいありません。」

 雑誌の掲載が12月号ですから、発言そのものは、遅くても11月以前でしょう。

 これはまさに、詩人の予言。95年に、日本でどんなことが起きてしまったか。それを考えると、ぼくは慄然とせざるをえないのてす。
10694:2001/08/14(火) 11:13
 セカンド・サークル
「この映画は1990年頃のソ連を象徴する」とアレクサンドル・ソクーロフ監督自身が記者会見で語ったこの話。
収容所の所長だった父親の孤独な死と、何年かぶりかで家に帰ってきた息子が生まれて初めて体験する近親者の死と、葬儀の進行。
この一見単純に見える物語のなかに、旧ソ連としての”父親”の死を連想することもできるだろう。
芸術の役割は人々が人生の困難に立ち向かうための勇気を与えることだ、とソクーロフは語る。『セカンド・サークル』でソクーロフはまさにそれをなすべき物語を見つけた。彼は「死」だけに取りつかれているわけではない。社会の状況を見据えているのだ。「死」が何の意味を持たなくなったとき、その社会は完全に崩壊する。「死を意識することができるとき、ようやく人生と人間であることの意義があらわになる。さもなければ死と生の境界は無いに等しいのだから」
107モレ神:2001/08/14(火) 11:14
ロシア映画界が生んだ傑出した才能、アレクサンドル・ソクーロフ監督の新作が登場する。戦争と国家。愛と憎悪。二十世紀の負の遺産であるヒトラー侵略の記憶を持つ都市ペテルスブルグで撮影された。
ヒトラーを徹底的に"ひとりの男"に引きずり降ろさなければ、歴史の悪循環は断ち切れないとソクーロフは言う。現在、本作から始まる4部作(次作『牡牛座』は1920年代のソ連とレーニンの晩年を描き、 3作目は"ヒロヒト"について、4作目はゲーテ『ファウスト』とトーマス・マン『ファウスト博士』についての映画となる)を準備中。 "モレク神"とは、古代セム族に子供を人身御供にして祭らせた恐ろしい犠牲を要求する神の名前。旧約聖書では悲惨な災い、戦火のシンボルと記されている。
'99年のカンヌ国際映画祭では、ヴィスコンティ監督の『ルードヴィッヒ神々の黄昏』と並ぶ傑作と絶賛され、最優秀脚本賞を受賞した。
108名無シネマさん:2001/08/14(火) 11:20
>>99 を書いた者です。 前言を撤回して心より謝罪します。
94さん、どしどしコピペして下さい。 非常に興味深いです。
あなたのおかげで初めてこのスレが、読むに値するものになっています。
109:2001/08/14(火) 11:23
――「モレク神」ではヒトラーとエヴァ・ブラウンのとある数日間が描かれています。人物が人物だけにキャスティングは難航したのでは。
実際のところ、並大抵のことではなかった。キャスティングから演技指導まで全てにおいてだ。こういう作品はとても危険なところがある。ヒトラーは皆が知っている人物だけど、実際に会ったことはない。自分の頭のなかにいる人物像を役者に当てこんでいくのは非常に難しいことだよ。探し回った結果、ペテルブルグの俳優たちにお願いすることにしたんだけど、まずリハーサルに3ヶ月を費やした。台詞はロシア語ではなく、ドイツ語でね。言葉が違うと口の動きが変わってくるからだ。本作で気がついたんだが、言語というのは性格も動きも変えてしまうものなんだね。

――演技指導はどのように?
カメラの横に立って、ヒトラーならどうやって歩くのか、どんな風にハンカチを持つのか、自分の直感に従うしかなかった。俳優に『なぜ?』と聞かれても『聞かないでくれ』と言いたくなった。全て直感だったよ。

――政治的な圧力を感じたことは。
  間接的な形ではあった。それは何を意味するのかと言うと…ナチズムは消えたわけではない、ということだ。1930年代にあったものは、いまだにドイツに潜んでいる。ウィルスのようにね。わたしたち人類にとって不幸なのは、存在していたものが完全に消え去ることはないということだろう。
「モレク神」を始めた時、方々から脅されたよ。一方ではナチズムに殺されるぞ、もう一方ではユダヤの秘密警察に殺されるぞ、とね。実際にロシアのナチストには脅された。
でも、歴史的な不幸に立ち向かう時、人は深く考えて掘り下げていくしかない。ある境界線を越えるためには政治や思想だけでは解決しない。芸術だけがその解答を与えるんだ。
110:2001/08/14(火) 11:24
――今回あらゆるヒトラーの記録映像に目を通したそうですが、ここでの発見は作品に何らかの変化をもたらしましたか。
いいえ。私が語ろうとしていた未来の映像(劇中のヒトラー)と違うことはなかった。この映像での確認はとても喜ばしいことだったね。自分の直感というのは正しいと確信したよ(笑)。こうした作品の場合、間違った解釈、過ちを冒すことは許されない。でも、作品の在り方を見誤ることはないなと確信したね(笑)。

――本作に続き、スターリンを描いた「牡牛座」、昭和天皇を描いた「ヒロヒト(仮題)」が控えているそうですが。歴史上の人物に焦点を当てた理由を。
映画に課された役割は人々に忘れ去られてしまう可能性のあるものを、連れ戻し、記憶させていくこと。そもそもロシア人というのは基本的に歴史が好きな民族だし、私自身、歴史というコンテクストなしに物事を考えられないように思う。世界を見る第一歩は大学の歴史学科で培われたからね。歴史と個人的な生活とは全く無関係に思えるが、実は深い結びつきがあるんだよ。

――ヒトラー、スターリン、ヒロヒト、この3人を選んだのは。
20世紀で最も悲劇的な人物だからだ。彼らの周辺には死や戦争といったさまざまな罪が渦巻いている。そんな彼らだが、映画の中ではただの人間になってもらおうと思った。権力の頂点にあった男も私たちと同じ人間なのだと伝えたかったんだ。
111:2001/08/14(火) 11:25
――昭和天皇を描く「ヒロヒト」は日本語?
  もちろん。1945年秋のとある2日間を描いた作品になるだろう。今回の来日で周辺取材もしていくつもりだが、日本からの資金援助がないと難しい企画だ。だから、右翼の天皇崇拝の人々は安心していい(笑)。今のところ、実現のチャンスは少ないから。私としては当然、ヒロヒトを賞賛したり、逆に批判的に捉えるつもりは全くないんだけどね。

――以前、ロシア雑誌のインタビューで「日本という国は民族全体が疲れきっているように見える」と答えていました。そう感じたのはなぜ?
そういう風に見えたんだよ(笑)。よくインタビューで『黒い犬をあそこで登場させたのはなぜ?』なんてことを聞かれるけど、本当のところ“たまたま犬が通ったから。なんとなく撮ってみた”としか言いようがない(笑)。それと同じだよ。……うーん、疲れているように見える、そう、見えたんですよ。その理由は日本人の方がよく知っているんじゃないかな。もし、疲れてないならそうじゃないと教えて欲しい(笑)。

――インターネットであなたの名前を検索すると日本語のHPがたくさん出てきます。あなたを神のように崇めるファンもいるんです。そんなファンにメッセージを。
まず、第一に心から感謝します。この世の中で生きていくのは簡単なことではないし、そもそも人生は短すぎる。私のために人生の時間を割いてくれることを嬉しく思います。
世の中には埋もれてしまいそうなほど、たくさんのインフォメーションがある。今は娯楽が発達しているけど、テレビやビデオを観る以上に、本をもっと、もっとたくさん堪能して欲しい。私は日本に何度も来ているし、この国がとても好きです。だからこそ、より強くお願いしたいですね。
112:2001/08/14(火) 11:27
5月4日より、モスクワでアレクサンドル・ソクーロフ監督の新作「Телец(ティリェツ)」(牡牛座)が、やっと一般の映画館で(細々と)公開されました。2001年のカンヌ映画祭の一般コンクール作品に早々とノミネートされ(ノミネートされた唯一のロシア映画です)、その後ペテルブルクで試写されたのが、恐らく2001年2月1日だったと思います。しかし、その後いつまでたっても公開されない。3月になっていきなりビデオが発売されてしまいました。いままで全然映画館では上映されていなかったのです。

それで勇んで出かけた映画館ですが・・・ガラガラでした(涙)。観客も、ちょっと見たところ、なんとなくインテリな雰囲気が伝わってくる人が多かったです。

この映画は(歴史人物?)「4部作」の第二作目です。第一作目「モレク神」(Молох)では、ヒットラーの死の数ヶ月前を描いたのに対して、今回はレーニンの死の直前が、つまり同様のコンセプトが貫かれています。

それに関して、ロシア版「プレミア」(映画雑誌)に面白い比較がなされていました。
記事によると、

「「モレク神」も「ティリェツ」も同じ路線であり、同じシーン(リフレイン)が出てくる・・・昼食のシーンとか、ピクニックのシーンとか・・。しかし、「モレク神」の舞台が、冷たく湿った空間であったのに対して、「ティリエツ」の空間にはまだ人間の温かさが保たれている−食べ物とか薬の臭いさえする。」

そういう意味で

「「ティリェツ」は、同じように「生と死の境界」にいる人間を描いた8年前のソクーロフの作品「ストーン」(Камень)を思い起こさせるが、主人公たちのベクトルはまったく別の方向を向いている・・・つまり、レーニンが死の世界に落ちていこうとしているのに対して、「ストーン」のチェーホフ(作家)は戻って来ようとしている・・・」

と分析しています。
確かに、「ティリェツ」は「モレク神」にくらべて柔らかい、暖かい雰囲気がしましたし、そういう視点で見ると、一連のソクーロフ作品の一貫したテーマが見えてくるような気がします。
113名無シネマさん:2001/08/14(火) 11:37
う・・・うおぉっっっっ!!!
1週間ぶりに来たら、このスレ、とんでもないことになってるぞっ
このコピペの嵐、はっきり言って面白い!!!

「PLAY DEAD」や「ロシアンぴろしき」のような私も知っているHPからの
コピペもあったりするけれど、そんなことぁ構いません。  どしどしやって下さい

だから>>101 のような人は遠慮してね。
教えといてあげるけれど あなたはあなたが批判した文面の中で予め批判されているんだよ
よく読んでごらん。

と、いうわけで私も邪魔しないように退散します。
このスレ、見捨てないでいて良かった。
114:2001/08/14(火) 11:49
私は映画人ではないし、畏敬の念で映画に接していませんし、たいした芸術だと思ってもいません

――なぜ自己表現の手段として、映画を選択したのですか?
Alexandr Sokurov:スタート地点に戻れるものなら、映画は撮らないでしょうね。しかし、そうなってしまったのですから仕方ありません。実を言えば、私は映画ではなく、ラジオ局でラジオドラマの仕事をしたかったのです。そう映画が好きなわけではないのです。私は文学の方が比較できないくらい好きです。私は映画人ではないし、畏敬の念で映画に接していませんし、たいした芸術だと思ってもいません。何かの仕事を選ばねばならなかった時期に、他のものでなく映画を学んだので、この仕事をすることになったのです。私の家は豊かではありませんでしたから、自分で活路を見つけなければならず、正しい道かを考えている余裕はありませんでした。今こそこういう人生を送っていますが、もともと映画の世界に入るつもりはなかったのですよ。
――あなたは映画制作者でありながら、未だに映画は固有の言語を確立していない、と考えているそうですね。
Sokurov:それは私の主観的な意見ですから、賛成する映画人はいないでしょうね。映画は芸術で、すなわち固有の言語があるということはもはや常識のようになっています。しかし、私の印象では、映画には固有の言語はありませんし、それどころか芸術のジャンルのひとつとしてもまだ確立されていません。私は、文学や視覚芸術の歴史の発展について注意深く観察し、考察した結果、こう言っているのです。トーマス・マン、ジョージ・ゴールスワージー、ディケンズ、チャイコフスキーらに匹敵する個性を持つ人は、まだ映画の世界には現れていません。芸術とは、すなわち芸術家の個性の規模のことなのに。
 映画は、自分の考えを形にし、印象を観客に伝達するために、他の芸術の経験を利用しなければならない、というのは私の個人的な意見ですから、他人に押しつけるつもりはありません。映画監督は、文学畑の人が書いた文学台本、音楽畑の人が作曲した音楽を使い、映像には絵画の経験を採り入れます。また、監督が知的な人物である場合にはモンタージュにポリフォニーの原則が応用されることがあります。構成においては文学や演劇が提示したドラマツルギーの経験を活用します。映画制作とは二次資料の組み合わせのようなものです。
115:2001/08/14(火) 11:50
――あなたはすでに固有の言語を創造しているように世界的に認識されていますし、興味は当然あるのではないでしょうか?
Sokurov:いいえ、興味ありません。映画を制作している時にはその世界に没頭していますから。人間の感情の世界にはまりこみ、映画の言語の問題など考えているゆとりはありません。いつか、落ち着いた生活を送るようになり、心を注がなければならない仕事の量が減ったならば、映画に固有の問題について考えることもいいでしょうね。しかし実際、映画について言語の欠落を感じているということこそ、状況を説明しているように思います。私は自分の作品を他人に見せるのがあまり好きではありません、それはビデオでもフィルムでも同じです。理想的な出来ではないし、個人的な仕事だとも思いますので、上映することで自分の美学を他人に押しつけることになるのが嫌なのです。結局映画を見せ、つまり、イメージを観客に押しつけますが、好意的な人ばかりではないですから、非常に悪い反応を受けることもあります。ですから、全く見せない方がいいんです。私たち人間は家の窓を通し世界を見ますから、それはすでに遺伝子に組み込まれているものなのです。私は、現実の経験にまさるものはないと思っています。
――それは面白いですね、日本には、伝統的に決まった窓のサイズというものはありませんから。
Sokurov:そんなことはないでしょう。障子を開け放てば、ちょうど大きなスクリーンのサイズになると思いますよ。日本を何度も訪れて気がついたことですが、日本の特殊性というのは、幻影です。実際には、日本の人々の世界のとらえかたや、日本文化の多くが、世界の芸術と共通するものを持っています。レンブラントやデューラーと比べても、違うものより共通するものの方が多いのです。
――あなたは島尾ミホの映画を撮るために奄美大島を訪れたり、日本で現在までに四度、撮影をなさっています。日本に興味をしめされたきっかけは……。
Sokurov:具体的な日本の友人の影響です。私に好意を持ってくれる日本人がいて、私もその人たちが好きだというところから始まったのです。率直に言って、日本のお伽話や風景を夢見たことは一度もありません。私たちは人々を通して異質なものに近づきます。異国との出会いは、絵画の規則や宗教を通してではなく、人々の愛を通してのみ可能なのです。私はそう考えます。
116:2001/08/14(火) 11:51
――あなたが、信頼できる人間関係の中でのみ仕事をなさる方だということは、レオニード・モズゴヴォイからも聞きました。あなたがスタッフを選ばれる際の基準になるのは何ですか?
Sokurov:難しい問題ですね。監督と俳優の間の信頼の度合いは非常に重要です。もしも俳優が監督を信頼せず、心を開かないとしたら、何かができあがる希望は閉ざされています。互いに尊敬しあう関係があってこそ、創作の可能性がうまれるのです。これはビジネスライクなものではなく、深い人間的な愛情であると思います。作品が芸術的な成功をおさめるためには、良い俳優が不可欠です。しかし、その人たちは「俳優」ではない、「人間」なのです。レオニード・モズゴヴォイのような人物は、私に近く、私も彼のことをよく理解している。彼は非常に真剣で、思考型の俳優です。極めて深刻な、大きな課題を捉える能力をもった、希有な俳優です。
――「殺人」についてお尋ねします。あなたは、殺人の原因が聖書の時代から現在まで変わっていないとおっしゃっていましたね。日本では今16、7才の若者が何の原因もなく、あるいは全く個人的な理由の為に殺人を犯す事件が起きています。あなたは殺人をする意識についてどのようにお考えになりますか、また文化間の差異については?
Sokurov:どのようにお答えしていいのかわかりませんが、私は殺人を映画のモチーフとして使ったことはありませんし、これからもしないでしょう。ドストエフスキーの作品をモチーフに作った映画『静かなる頁』一本だけです。殺人は禁じられたテーマだと思います。芸術作品であるかぎり、殺人に訴えるべきではありません。映画という芸術では、なおさらのことです。人間を殺す人間、これは永久に存在する問題です。残念ながら、解決されることはないでしょう。
 映画やテレビ制作者たちは、大きな罪を背負うことになりました。彼らは死を、あるいは死への過程を、当たり前の光景にしてしまったのです。映画人やテレビ王の手によって、死は、ごくありふれた外見を持ち、恐るるに足らぬものだと思われるようになりました。以前、人間にとって死とは恐ろしく正視できないものでした。宗教は殺人は邪悪なことだと教えますが、映画とテレビが若い世代に、死の恐ろしさを忘れさせたのです。映画監督は、責任をとるべき立場にあると思いますよ。これは、現代芸術の恐るべき罪、恐ろしい間違いです。死が恐ろしいものでないのならば、なぜ試してみてはいけないのか? スクリーンには完璧なまでに魅力的な殺人者が現れますが、倫理的な考察はなされていません。これは泥沼化した現実なのです。世界中がどっぷりとつかっていて、もう誰にも手は差し伸べられません。すべての文明社会は殺人と死の美学に支配されています。
――映画『モレク神』で、あなたはテレビ的な死のイメージから逃れようとしたのですか?
Sokurov:この作品は、何の関係もありません。どうして考えたこともないものから逃れようとしなければいけないのですか。ヒトラーは、自ら手を下して人を殺したことはありません。昭和天皇も同じことですし、スターリンも誰も殺さなかったし、他にもいくつでも例をあげることはできます。ヒトラーやスターリンについての問題は、倫理に関わる深いものなのです。
117:2001/08/14(火) 11:52
――歴史には、証言されなかった多くの空白・未解決の部分があります。あなたは目撃者のいない出来事、証人のいない歴史に興味がおありですか?
Sokurov:難しいですね。第一に、歴史とは証人がいるからそう呼ばれるという側面があります。何かについて知っているのは、誰かがそれを見て証言を残したからなのです。他方、誰にも見られずになされた決定というものも確かに存在するでしょう。大統領執務室を想像してみてください。安楽椅子、大きな机、いくつもの電話、などというものがあるしーんとした部屋の中、高価な背広、白いワイシャツを着た大統領は権力のシンボル、国旗を背にして座っています。電話のベルが鳴り、相手の声を聞いた大統領はたったひとこと「了解」と言う……そして戦争が始まり、人が死ぬのです。それとも、大統領はすぐにはうんといわないかもしれない。秘書を呼んで、「誰それに承諾の返事をするように……」と言うのかもしれない。軍機が飛び立ち、諸都市への爆撃が始められる……。
 私もいくつか重要な決定に立ち会ったことがあります。私はただ一人の証人でしたが、誰にも、そのことを話しません。なぜなら、決定を行った人は私を信用してそうしたのだから。もしも、倫理が重要ではないとしたら、それがどんなに簡単なことかを私は目撃しました。現代は、個人が歴史を創造するのはもはや不可能ですけれども。シェイクスピアの時代には、人間が歴史を創造したのです。今の時代では、政治家が個人的な責任をとることはないでしょう。彼自身が歴史を創造することはなく、彼はたんに歴史の惰性の中にいるのです
118:2001/08/14(火) 11:52
――芸術作品においては、個性というものはしばしば結果よりも大事なものです。力強い作品に出会い、その作者に会うとがっかりすることがあります。その反対の場合もあります。あなたにとって重要なのは作家ですか、その作品ですか?
Sokurov:奇妙なことに、人間は自分自身よりも高度なものにも、低いものにもなれます。個人は、彼がつくり出す芸術よりも偉大なこともそうでないこともありえるのです。芸術に携わる人々の大部分は混沌とした人格を持っているものですし、破滅性をあわせ持っている人も最近は多いように見受けられます。このような人々は真面目な仕事に就いたことがなく、むしろそれを軽蔑し、将来も真面目に仕事しません。
 芸術家の大部分の目的は調和ではありません。彼らは派手で、繊細ではないので、芸術にも実生活にも調和を求めることはありません。これは、創造的文化人と言われる現代芸術家が抱える大きな問題です。
 芸術家はいつも孤立していようとします。私が言うのはヨーロッパの芸術家のことです。日本の芸術家はもっと繊細ですし、国内と国外では全く振る舞いを変えますね。これはまた別の話になりますね。芸術に限らず、日本国外における日本の一般的性格・特徴についてです。
 すべての芸術の基本である古典芸術の主要な法則は、調和を志向することです。現代の芸術家たちが忘れている重要なことです。もしも調和を目指さないのなら、存命中に、ある種の結果に素早く到達できます。しかしそれは袋小路へ向かう道で、そこには未来はありません。芸術において、人は高度に成長すればするほど、あたかも挑発されるかのように、芸術は彼から遠のき、もっと作れ、もっと創作に励め、もう一歩と、落ち着き穏やかになることはけっしてありません。
――90歳になったとき、あなたはまだ映画を作っておられるでしょうか?
Sokurov:きっと、その年齢まで生きないと思いますよ。日本人は世界で誰よりも多く働いていますが、私の方がもっと働いている気がします。私はそうする必要があるのです、いい人だからというのではなく、ただ必要だからです。90歳になる前に、私は疲れてしまうでしょう。何も受け取らず、充電もしないで、こんなにも長期にわたって与え続けるのは不可能ですから。私の大きな問題は、何も受け取っていないことです。映画とは、すべてが自分に集中する媒体です。最新作(『牡牛座』)では、監督とキャメラの両方を務めており、自分で撮っています……。いつの日にか、自己を克服し、ある線を越え、映画界から去ることを期待しているのです。もしも私に映画を捨て去る力が残っていて、その可能性が生じるのなら、急いでそうしましょう……。
――他のフィールドを見つけますか?
Sokurov:ええ、その可能性があるのなら……。
――文学ですか?
Sokurov:とんでもない! レフ・トルストイ、ドストエフスキー、トーマス・マンの後に……。文学で私に何ができるというのでしょうか? 人々は、彼らの作品をまだ読んでいないのですよ、その上さらに……。
――子供時代はどんなでしたか?
Sokurov:多くを覚えていません……。そんなに健康でなかったからでしょう。他の人々と一緒にいるより一人でいることが多かった孤独な生活でした。社会の一部だったためしがなく、そうしたかったのに、できなかったのです……。
119レオニード・モズゴヴォイ:2001/08/14(火) 11:55
――レオニードさんは舞台俳優としての教育を受けていらっしゃいますが、ミュージカルコメディー劇場に5年いた後、ソクーロフ監督の映画にでることになりました。そのきっかけは?

僕はレニングラードの有名な教師ボリス・ゾーンの下で学んだ。彼はスタニスラフスキーから直々にこのシステムの教えを受けた。ゾーンは、現代のトフストノゴフのように戦前非常に人気が高かった監督であったが、毎週汽車でスタニスラフスキーのところに通っていた。ミュージカルコメディー劇場に5年いたが、映画にはソクーロフ監督とやるまで出演したことはなかった。あるとき知人が「ソクーロフ監督がチェーホフ役の俳優を探しているの。あなたなら適任だと思うわ」と言うから、行ったんだ。それが1991年8月8日のことだった。それでソクーロフと2時間近く話した。劇場のこと、映画のこと、人生のこと……。話し始めて5分も経たないうちに、彼は僕を採る、何もかもうまく行っている、僕は映画に出演することになるんだと、目つきで分かった。

ソクーロフとの出会いは偶然だったが、偶然に対しては一生準備を整えておかなければならない。酔っぱらってはいけないこともあった。僕は酒飲みではないんだが、まあそれは重要ではない。他のことに熱中することもできず、自分の個性を持たなければならなかった。映画に出たいと思った時期もあり、はじめの頃は全ソ国立映画大学を受けていた。ボロトヴァ、ニコネンコ、グベンコらと一緒に受けていたんだ。うまくいかなかったが、もしかしたら却って良かったのかもしれない。僕は入れなかったことをむしろ喜んでいる。その結果、スクリーン上の光のしみではなく、内部に蓄えを持ち合わせて、スクリーンに出ることができたのだから。
 我々はお互いを見つけ出した。撮影の時、僕はひどく幸せだ。驚くべきことだよ。98年、そう、あの年だ。99年はフェスティバルの年だった。ソチもあったし、カンヌもあった。
 赤い階段を歩くのは気持ち良かったが、エヴァを演じたレーナ・ルファノヴァのような威勢はなかった。撮影している時の方が良かった、面白かった。大変だったが。3、4ヵ月間毎日12時間ずつ撮っていた。実質、4ヵ月で映画を撮影したんだ。今までの人生の中で去年程たくさん僕について書かれたことはなかった。ソクーロフに感謝しているよ。
 多くの場合、不思議なことに、というか、逆説的なことに、主人公は自伝的である。彼はとにかく全てに自分を入れている。チェーホフを撮っていた時に、彼はある時「チェーホフはおれだ」と言ったことがある。彼はちょうど同じ年齢だった。マリアンナ・ヴェルチンスカヤもあるインタビューでヒトラーについて「ソクーロフ監督の非常に私的な映画のようだ」と言っていた。
 僕に言わせれば、ソクーロフは本質的に哲学者だ。ペテルブルグ大学哲学部の友人に頼まれて、僕が彼と話をして、5年ぐらい前に彼が学生に講義をしたことがあった。まだ『モレク神』も撮っていなかった頃だ。彼がテーマとして選んだのは「芸術家と権力」だった。
 ソクーロフはエリツィンに関するドキュメンタリー映画を2本撮った。ソクーロフはエリツィンの側にいた。ソクーロフのいるところで、極めて重要な問題の決定がなされ、彼はそれがどのように行われるか見ていたのだ。しかも、彼が興味を抱いたのは、一番困難な時期のエリツィンだった。大統領になる前で、ゴルバチョフに至るところから追い立てられていた頃の。彼が興味を抱いたエリツィンは、意外性に富んだ独創的な人物だった。それでも大統領在職期間は、エリツィンはソクーロフの興味を惹かなくなっていた。
120吉増剛造:2001/08/14(火) 11:58
ロシアの映画監督アレクサンドル・ソクーロフさんを一昨年宮古島におつれした.私の中にロシアと日本の南島というこれまでに考えられたことのない道筋がたどれるという確信が生じていた.その過程で,日本の南島文化に本質的にかかわった島尾敏雄,ミホさんの世界とソクーロフのさらなる出会いが生まれていた.
 ミホさんは島尾敏雄夫人であったとともに,名作『海辺の生と死』『祭り裏』に代表される南の地の宇宙が,これからさらに深く理解されるであろう重要な作家で,両者は全く違う世界の住人であるけれども,おそらく「文学」をとおして,回転軸が回るように両者はつながるはずである.不思議な結びつきのように,本質的にどこかで相通じるものがあるのではないかと,介添えでもありメディアでもあるわたくしは考えていた.
 こうして織りなされた複数の予感から,この映画『ドルチェ─優しく』ははじまっていた.これは島尾敏雄作品を,丁寧に,静かにくくっていく,ミホさん,娘のマヤさんの見えない指先であるとともに,その静かな神のそよぎ,ゆらぎは,ソクーロフさんによって,はじめてひらかれていく,「書物」の扉の印象であったのかもしれなかった.
121:2001/08/14(火) 12:00
私はソクーロフ作品はこの『マザー・サン』が初見だったのですが、まずなによりも、ワンカット毎の映像を造り込んでいくその手法が印象に残りました。そして、その造り込まれた映像が、「(ちょっと抽象的な言い方になってしまいますが)どこにも繋がっていかない」事に、些かの驚きと失望も覚えてしまったのです。私には、あの美しい映像は、美しい映像それ自体の為に置かれている様に感じられました。

映画は「活動写真」ですから、例え同一のカットの中と言えども、時間の経過と供に何らかの活動が発生し、そうした活動は「物語」を構成する要素となります。観客である私達は、そうした要素を元に物語を組み上げていく訳ですが、普通監督は、監督の意図した通りの物語を観客に組み上げてもらうため、様々な指標を作品の中に残していくものです。

それは台詞やカメラワークやカットの反復など、所謂「映画的文法」と呼ばれる様々な技法にあたると思うのですが、そうした諸々が、『マザー・サン』の中では不思議と機能していないのです。これはソクーロフ監督が映画の文法を駆使していないという事ではなく、そうした技法を全て、映像と音響とによる、カット毎の「美しい瞬間」を造り出すための指標として使っているのだと、私は解釈しました。

例えば、『マザー・サン』の中のクローズアップの扱い方。人物の表情に肉薄し、雄弁な一要素となりうる台詞と感情をダイレクトに伝え得るクローズアップのショットを、しかしソクーロフ監督は、場面全体に観客の意識を拡散させることに心を砕きます。SEによる子供の声や草木のざわめきの強調、画面の遥かかなたの、しかし一番目立つ所を歩いていく人影など、ソクーロフは様々な夾雑物をショットに配して、そこで台詞を呟く俳優自身よりも、その俳優を含めた場面全体を提示しようとしていたようです。

そうした姿勢が、映画の全編に渡って感じられます。画面に映し出される、注意深く配置され手を加えられた被写体。被写体を取り巻き、一幅の絵画として画面を形成する風景。更には画面とその周囲を取り巻く音響による、ある種の「気配」とその場を流れていく「時間」さえも動員して、ソクーロフは映画というフォーマット上で創造しえる「美しさ」(または「美しさ」と同様に鑑賞するものの意識を揺さぶる類のもの)を追及したのではないでしょうか。

そのような追及は、ショットそれぞれの美しさではなく、積み重ねられたショットの連続と蓄積によって提供される、映画においての「物語」手法とは相いれない部分が必ず出てきます。それは多分「物語ろうとする意志」と、「表現しようとする意志」の争いなのでしょう。ソクーロフは何よりも「表現」に心を砕き、自身のイメージを伝える為に映画の方法論を利用している様に思えます。やはりそれは芸術活動と呼ぶに相応しい行為なのではないでしょうか。

以上の様な印象が、私に「ソクーロフは物語を犠牲にして映像を追及している」と思わせたのですが、○○さんの感想の後段を拝見して、ひとつ成程と思ったことがありました。

それは単なる映像を超えて、「物語」が生起している。彼の、偏執狂的な映像は、母と息子の異常な物語(それはある意味普遍をも喚起するんだけど)をしっかりと生み出し、それを過剰なまでに「物語っている」と思うんだ。

私自身は、あの映画からは「母と息子の異常な物語」を読み取ることは出来ませんでした。ソクーロフがそうした「物語」を語ろうとしたのか、という事も、受け手の側からは判断不能だと思います。しかし、○○さんの切り口から見た『マザー・サン』は、立派にひとつの物語として成立し得るものでした。

そしてそれを"過剰なまでに"物語るのが、ソクーロフがすべてを犠牲にしてでも追及しようとした「映像」それ自体である、ということ。物語に絶対必要な筈の形式を放棄して磨き込まれたそれぞれの要素が、実は「物語の断片」としてなら立派に機能していた、というのは、非常に興味深い発見です。観客である私達は、その断片を使って、より自由度の高い「自分の物語」を組み上げる事が出来る。"映像をつなげた時に生まれてしまう"物語というものは、実はつなげる主体というものを選ばないのではないか。そのような事を考えさせられました。
122朝日新聞 2001年4月4日:2001/08/14(火) 12:02
−ソクーロフ監督の映画「モレク神」公開−
ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督が、ヒトラーと愛人エバの山荘でのひとときを、独自の詩的な映像美でつづった映画「モレク神」が、東京のラ ピュタ阿佐ケ谷で上映されている。強大な権力を振るった独裁者ではなく、病んだ卑小な人間としてヒトラーが描かれている。5月下旬まで。
雲上の神殿のような山荘に側近を連れて休暇に来たヒトラーを、エバが迎える。2人きりになると、ヒトラーはベッドに潜り込み「私はがんだ」「最低の 男だ」とうめく。エバは「聴衆がいないとふ抜けになる」と冷淡に返す。
画面は動きが少なく、薄緑のもやがかかったような色調。「フィルターやガラスを使って撮影した。映画という表現手段を使っているが、自分の作品は絵 画の延長線上にあってほしいと思っている」と監督は語る。
この映画のヒトラーは、ピクニックで上機嫌に踊ったかと思うと、訪ねてきた聖職者をののしる。むら気で弱々しくどこか病的だ。
「ヒトラーは子供時代から自分に満足できず、他人への悪意を募らせていった不幸な人間だった。彼を選び、支えた人々も、恐らく不幸な人間だったんだ ろう。権力者がその座にふさわしい人間かどうか、一人一人が考える一助になれば、とこの映画をつくった」
20世紀の権力者を描く3部作の第1作にあたる。レーニンの1日を追う次作はすでに完成。最後は、終戦前後の昭和天皇に焦点を当てる。
「戦争が終わり、どんな運命が待っているかはっきりしなかった時期の苦悩を描きたい」。日本映画は長らく、近現代の天皇を描くことを避けているが、 「歴史的事件について、触れてはいけない『神聖なもの』など何ひとつない。私たちは皆、歴史について考える権利があるのです
123アマゾン:2001/08/14(火) 12:07
1. ドルチェ-優しく―映像と言語、新たな出会い
A.ソクーロフ (著), その他 単行本 (2001/05/01) 岩波書店 価格(税別): ¥2,500

2. アドルフの食卓―ヒトラー・ソクーロフ・モレク神
単行本 (2001/04/01) ラピュタ阿佐ケ谷 価格(税別): ¥1,524

3. チェーホフが蘇える アレクサンドル・H. ソクーロフ (著), 児島 宏子 (翻訳) 単行本 (1997/10/01) 書肆山田 価格(税別): ¥2,000

4. ロシア・ソビエト映画史―エイゼンシュテインからソクーロフへ 山田 和夫 (著) キネマ旬報社 価格(税別): ¥2,524

5. ソクーロフ リュボーフィ アルクス (編集), 西 周成 (翻訳) 単行本 パンドラ 価格(税別): ¥8,000

6. ソクーロフとの対話―魂の声、物質の夢 アレクサンドル・ニコラエヴィチ ソクーロフ (著), その他 単行本 河出書房新社 価格(税別): ¥1,942

7.ユリイカ 特集・ソクーロフ 在庫切れ 価格(税別): ¥1,165
124 :2001/08/14(火) 12:22
おいおいこれ著作権抵触してるって…リンクだけ貼っとけよ…
125名無シネマさん:2001/08/14(火) 12:49
野暮なことを・・・
126名無シネマさん:2001/08/15(水) 02:33
ロシアのインテリって渋いよなー。
フランスのゴダールとは大違いだぜ。
127通行人:2001/08/15(水) 02:59
いきなり荒れてるね。このスレ。

というか・・・・>>2>>3両方書いたのが、そもそもいらんことだったな・・・


面白かったよ。おれ的には。「モレク神」
こんど、もっとみてみよう
12897:2001/08/15(水) 13:39
>>100
遅レスになってしまいスマソ。

月刊誌「ユリイカ」の2000年1月号の特集「大島渚2000」に
4ページに渡ってソクーロフの談話が載っています。

それによると、ソクーロフが大島渚を撮ったのは95年で(随分前ですね)、
大島の作品を分析する訳ではなくて、大島を通して日本人について
考察する作品になるそうです。ソクーロフが日本人について思考を
めぐらせなければならない為に時間が掛かっているという話です。
完成を楽しみに待ちましょう。
129よどがわながはる:2001/08/16(木) 12:43
■静かなる一頁

これほど呼吸の長い映画はなかった!
アレクサンドル・ソクーロフ監督(ことし四十三歳)の一九九三年作。一時間十七分。日本で初めての監督の作、しかもまだ若い。
若いというのは、この映画、老人の監督作を思わせる。しかしまた逆に、若い学生の卒業記念作をも思わせる。
ひとりの若者が老人を殺してしまって、苦しみまどい生きる力もうせてさまよう映画。
ひとめでドストエフスキーの「罪と罰」が目に重なる。

アレクサンドル・チェレドニクがその生きる力を失った若者を演じるが、映画はその彼の演技よりも、
ソクーロフの貪欲な演出と、その彼の貪欲に従うキャメラのアレクサンドル・ブーロフの、むしろこれは映画作品。
向こうからこちらの石の像へ悩み苦しみながら歩いてくる男。この途中、なぶられたりからまれたりのこの哀れしょぼくれた男が、足もともおぼつかなく画面手前の石像にまで来て倒れ伏すまでに三時間がかかると思うばかりのエンエンたる長廻しのキャメラ。
げっそり、見ているこちらがぶっ倒れそう。

やがて悲しい少女のシーンもあるものの、映画は波止場の入江らしきその“水”“石”“かもめ”、これらをヌラリクラリと移動する。芸術映画とはこれと言いたい実はソクーロフの演出個性。
ところが、見ているとこの監督の映画純粋に打たれてくるだけでなく、この監督が「映画」をなめずり廻って「映画」を淫している、それに見とれてしまう。

近ごろこれほど映画にどろどろと監督自身がよろめき、楽しみ、酔いしれた映画を見たことがない。ワン・カット、そのシーンが美術写真。
ワン・カット、そのシーンの主演者のポーズそしてマスクが芸術写真。こうなるとアレクサンドル・ソクーロフ、この監督の名が(映画の目)という印象を深めて忘れられなく、
こんな映画ばっかり撮っている狂人かと思って本人に遭ってみたところ、次回は「椿姫」ですよと優しく笑った。ほんとかねえと聞くと強く頭をタテに振った。

 ところで、この男の中編「マリア」、なるほどこれは美しく、優しく、女の哀れをしみじみと見せていたよ。
(映画評論家)
130:2001/08/16(木) 12:47
他の名高い映画監督に違わず、ソクーロフに関しても様々な神話がある。その有力なひとつは、ソクーロフがタルコフスキーの正統な後継者である、というものだろう。
超越的・宗教的な色彩が強いタルコフスキーの作品との違いは認められるものの、その神話の根拠としては、両者に共通する特徴と見做される「荘厳な映像美」や「マジック・リアリズム」(スーザン・ソンタグ)などが挙げられている。
私はここでソクーロフがタルコフスキーの後継者かどうかの議論をするつもりは全くないし、そのような議論が不毛であるとも思っているが、しかしソクーロフの映画が「荘厳な映像美」を持つという意見には少なからず異論がある。
この映画の「物語」は、主人公ジーマに小包が届くところから始まると言ってもよい。だが、その「物語」が始まるまで、我々は冒頭からしばらくトルクメニスタンの街の風景を観なければならない。
その映像はドキュメンタリー的に撮られたもので、その街が主人公たちのいる場所であることを示す以外は、後の「物語」とは何ら関係のない描写である。「物語」を求めていた観客にとって、その過剰なまでの「本当らしさ」は、何か居心地の悪い雰囲気を感じさせるであろう。
「物語」はその後、理由が明確にならないままの姉の訪問や、スニェガヴォイの自殺、グバリのジーマ宅侵入と官憲によるグバリの射殺、等々と進行していく。それらがすべて不条理な出来事として発生しているのは興味深い点だが、
それよりも我々はそのような「物語」の進行に伴い、次々と出現する「ドキュメンタリー的描写」に目を向ける必要がある。
作品中に頻出するこの描写は、端的に言えばタルコフスキーのような美しい映像ではない。「物語」を進行するかのように見える映像も、主人公たちが交わす言葉とは別の次元の対象を執拗に追い、我々を苛立たせる。
この作品の映像は、「ドキュメンタリー的描写」の過剰な侵犯と別次元の凝視により、ずたずたに切り裂かれることとなるのである。それは、「ドグマ95」のような見せかけの「本当らしさ」ではなく、「物語」の進行機能自体の危機を招くのである。
取り返しのつかない「映像の醜さ」を抱えたまま、「物語」はジーマの友人ヴェチェロフスキーを見送る場面へと到る。だが「物語」はそこでも宙吊りにされたままであり、トルクメニスタンの街が消滅するショットでこの映画は終わる。
それは決して「大地への回帰」などではなく、過剰な「醜さ」によって回復不能なまでに変容したトルクメニスタンの姿なのである。
131:2001/08/16(木) 12:50
二人が森を歩いている)

ソクーロフ)
きのこですよ、何でしょう?

ソルジェニーツィン)
わたしはきのこにはあまり詳しくありません。南の出身ですから。きのこは見かけませんでした・・・。
ですから「きのこ通」ではないんです。

ソクーロフ)
人は緑色に惹かれますよね。

ソルジェニーツィン)
ああ・・・、わたしがカザフスタンの流刑から帰ってきたとき、モスクワの郊外にやって来たんですが、カザフスタンではいつも太陽が照っていて、厳しい暑さが続きます。
そしてこの森に来ました。雨のあとでした。
わたしはほとんど気を失いかけて、我に帰ることができませんでした、なんという美しさ・・・。このどんよりと湿った感じ・・・、なんという満足感でしょう。
わたしはこの大地に触れることで生きている気がします。街中の高層住宅にはたえられません。自分が刑務所の中にいるような気がします。
わたしは内務人民院のアヴァクーモフが、なぜ、緑色を憎んでいたかに興味をもちました。なぜならば、彼自身が自然に反した人間だからですよ。
(うながして)こちらへ行きましょう。

ソクーロフ)
自然に反するとは?

ソルジェニーツィン)
それは自然と敵対しているということです。残酷な人間・・・、もちろん、彼一人ではありませんが・・・。

ソクーロフ)
なぜ人は悪人になるのですか、生まれつきでしょうか?

ソルジェニーツィン)
両方です。ロシヤの自然は大きな意味をもっています・・・、とても大きな。
どのような人間になっていくかは私たち自身の問題であって、状況によるものではありません。

ソクーロフ)
常にそうですか?

ソルジェニーツィン)
ええ、ほとんどの場合、その人間しだいなのです。

ソクーロフ)
人は、自分が悪人だと自覚しているものでしょうか?

ソルジェニーツィン)
(きっぱりと)いいえ、自覚していません。

ソクーロフ)
どのような状況でも?

ソルジェニーツィン)
いいえ、どのような状況においてもというわけではありません。たとえば、シェイクスピアに登場する極悪人は自覚していますよ。しかし、彼らにはそれなりの理由があります・・・。
ベンチに腰掛けましょう。
132:2001/08/16(木) 12:54
ヴェンダースと異なり映画史と呼ばれる大地に一切信頼を寄せないソクーロフはしばしば(モダニズム芸術としての)映画が芸術的に未熟であるとの苛立ちを表明する一方、絵画や音楽への羨望を隠そうとしない。
『罪と罰』の翻案である『静かな一頁』ではフランスの廃墟趣味の画家ユベール・ロベールが参照されていたが、今回はドイツ・ロマン派の画家フリードリッヒの絵画をモチーフに画面構成を行っている。
つまり先に触れた例外的に貴重な動きが認められるとしても、彼の映画が一貫して「静止」への志向を見せる事実に変わりはない。ただし前田英樹氏も指摘するように(「存在の静止について」)、
彼の映画(モーション・ピクチャー)における「静止」は写真への回帰とはならず、むしろ絵画への根拠を欠いた跳躍となるだろう。もちろんヴェンダースらが示す映画の前史としての写真へのノスタルジック愛着とのあいだでここでも興味深い対照を示すことになる。
 ソクーロフによると、映画作家にとっての最大の敵は「時間」である。タルコフスキーやアントニオーニにとって「時間が流れている」が映画作りの基盤となるが、
彼は「じっさいには、時間は一定のところにとどまっている、ひとつの点の周辺を回っているように思えます」と異論を唱える。つまり彼にとって時間は「不動である」。こうした時間把握の仕方が、彼の映画をどこか「独創的」な場所へ導いていくのだが、
ここではただ「中編」とでも呼ぶしかない絶妙な上映時間内で繰り広げられる母と子の静謐なドラマを、デヴュー作『マリア』から続く作家の母性回帰的な志向(母なるロシアの大地!)に結びつけるよりも、
むしろ母と子という異質な時間で育まれた二つの「文明」の浸透もしくは交渉のドラマとして鑑賞すべきであろうとだけ告げておく。
133:2001/08/16(木) 12:58
アレクサンドル・ソクーロフはヒトラーを主人公にした映画に、この神の名を着けた。だが恐るべき神の名を題名にし、ゲルマン神話を継承するヴァーグナーの『神々の黄昏』の<ジークフリートの死の主題>を序曲とするこの映画には、
善なるものだろうと破壊神だろうと、"神"の姿は一切写っていない。
映画がこれまで描いてきた、史上最悪の独裁者、天才と紙一重の狂気を宿した極悪人の影はまるで見えない。ソクーロフが描くのは、あまりにも惨めで、コンプレックスとパラノイアに囚われた中年男としてのヒトラーでしかなく、
彼はその姿を、そんな男でも(いや、そんな男だからこそ)最後まで愛し、共に自殺した女エヴァ・ブラウンの眼差しから描いている。

エヴァにとっては"偉大なる総統"もまた、自分がたまたま愛してしまった男に過ぎない。滑稽なまでに自信がなく、怯え、虚勢を張るヒトラーは、モレク神という自らに課した虚像に押しつぶされた男だ。
彼は自分もまた"ただの男"であること、彼女に対してさえ認めることができず、ただちょっと胃が悪いだけなのに、「私は癌だ」と言い張るのだが、エヴァはあっさりと「医者はあなたが喜ぶ病名を言っているだけなのよ」とそれを退ける。
舞台はヒトラーが数少ないプライヴェートな時間を楽しめるように作った山荘"鷲の巣"**。だがそこですらヒトラーの寝室は大理石の巨大な机の置かれた書斎に直接連結し、側近マルティン・ボルマンの部下が食卓で自分の発する言葉をすべて速記している。
常に自分を演じなければならない立場に置かれたヒトラーだが、実はその演じることでしか自分の不安を覆い隠すことができない男でもある。エヴァは、愛するが故にこの男の本質を見抜いており、その展開が最後はどこに行き着くかまでも、恐らく見通している。
映画を通して我々はそれを知り、戸惑う。この男は悪魔であったはずだ、あるいはドイツ民族の救世主たる天才であったはずだ……。
134:2001/08/16(木) 13:00
もちろんこの映画を見る誰もが、歴史上の実在の人物として知っているはずのヒトラーに結び付けずにはいられないだろう。
この映画が展開する24時間が1942年のある日であることを知れば、ロシア人のソクーロフがなぜこの時間に映画を設定したかについても想像が及ぶ――
42年の秋からのスターリングラード攻防戦は、第三帝国にとって最初の大敗となる。
この前年からユダヤ人問題の"最終的解決"が始っており、だからヒトラーが「アウシュヴィッツ」という言葉にあえてとぼけてみせる姿には薄気味悪いユーモアが漂う。
42年の5月には、ヒトラーの後継者と目され、件の"最終的解決"の立案者ハイドリヒがプラハで現地レジスタンスに暗殺された。
政権奪取、ラインラント進駐、オーストリア併合、ポーランドとフランス占領と、成功続きだったヒトラーの命運は、この42年を頂点に崩壊を始める。

だが"歴史"として我々が知っていたヒトラーと、ソクーロフの描くヒトラーの落差はなんだろう? 今まで老人や死に行く人、戦場の兵士たちを人間的な慈しみを込めて写し取ってきたのとよく似た、絵画的にボカされた作り込まれた画面と、
水の音が漂い古ぼけたレコードのような音楽が響く精緻で有機的な音響空間に、今ヒトラーが写り、そのかなり悪趣味で、恐怖とコンプレックスの裏返しとしか思えない妄想狂的な言葉が響く。
ソクーロフはあっけない一言でその目的を語る――「ヒトラーもまた人間であり、彼とエヴァとの間に起ったことはどんな人間にも起こりうることだ」と。
ヒトラーとナチズムは決して天から降って来た災厄ではない、そこにもまた極めて人間的な理由があったのだと、ソクーロフは断言する。
135ZEROES:2001/08/16(木) 13:04
136名無シネマさん
>>128
レスを有り難う