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読売新聞2004/1/1の鈴木Pと押井監督の対談コピペしまつね
新春アニメ対談 鈴木敏夫vs押井守 (司会:原田)
鈴木:実は最近、『風の谷のナウシカ』を二十年ぶりに見たんです。
改めて感じたのは、ナウシカは傷ついた地球をたった一人で
救おうとしている。背負ったものが、大きいんですね。当時は
『宇宙戦艦ヤマト』のように、どれも壮大なテーマだった。だが、
最近の宮さん(宮崎駿監督)の作品で言うと、例えば『もののけ姫』
の主人公アシタカは非常に個人的な理由で旅立つ。
押井:ええ。
鈴木:非常に個人的な理由が映画のテーマとして支配している。
押井さんの場合はどうかなあと思ってね。
押井:『ナウシカ』の当時、アニメは地球の運命や人類の運命を
背負ってたんですね。学園ものシリーズでも、映画化されると、
突然「地球だ」「人類だ」になっちゃう。
当時、僕は『うる星やつら』をやっていましたが、何かというと
「地球だ」「人類だ」というのが嫌だった。
記者:宮崎さんも人類を救うというテーマではもう作ってないですよね。
押井:一つには年をとったからでしょう。年齢は作品に大きくかかわる。
特にアニメは、作る人間の意識がもろに出ますから。僕自身は、
これまでどうやって抵抗するのかということを作品づくりの根拠に
してきた。ところが、だんだん年取ってきて、何となく首から
上(頭)と下(体)で考えることが、一致しなくなってきた。生理的に
求めているものと、作ってきたものが、どうも違うんじゃないかと。
記者:『イノセンス(今年3月公開の押井監督の最新作)』で?
押井:前の『攻殻』が終わったころから。
鈴木:時代を追うテーマがあるとしたら、現代において何を作るべきか、
ということです。僕の子供のころは本当に貧しい子がいっぱいいて、
当然映画も「貧乏の克服」が大きなテーマ。それを一番うまく
やったのが黒沢明です。ところが、衣食住が行き渡った途端、
黒沢が持っていたテーマは意味を失い、彼はファンタジーとしての
貧乏を描き始める。それで苦しむ。そんな時代に宮崎駿は自然の
問題を取り上げ、「貧乏は克服したかもしれないが、
その結果として何が起きたんだ」というテーマで新しい娯楽映画を
作った。ところが、気がつくと、その宮さんのテーマも個人的な
ものになってきている。『千と千尋の神隠し』が
非常に象徴的ですけれど。でも押井さんはもともと、
人類や地球とは無縁にやってた訳でしょう。
押井:胡散臭いと思ってたんです。大上段に振りかぶった言い方や考えが。
鈴木:僕は団塊の世代で大学闘争の世代ですよ。押井さんは、
そのころ高校生。大学生が大規模デモを組織するのを社会は
許したが、高校生は許されない。その差は決定的だと押井さんが
言ったんです。その恨みをずうっと抱き続けてるんだよねえ。
記者:だから、ずっとアンチテーゼを発表し続けている?
鈴木:押井さんは人間を描くことに興味はないと言う。
押井:正確に言うと、人間という「現象」や「存在」には興味がある。
でも、個々の感情や心理といったことは、文学に任せとけと。
鈴木:押井さんは、小津安二郎なんて全然評価しないんです。
杉村春子が、ある気分を非常にうまく出す。そういうのが
好きな僕を、「だから新しい映画にかかわれないんだ」と批判する。
映画の基本は人間を描くことだと思う。ところが押井さんは、
「いや、俺は人類を描く。歴史を描くんだ。」と言う。
『ナウシカ』は人類を描いているんだけど、
それを押井さんはどう思っていたのかなあ。
押井:でも、結果的にお客さんは
『ナウシカ』という女の子を見ている訳でしょう。
鈴木:僕は押井さんに頼まれて映画に一本出ているんです。
自分としては演技を頑張ってカメラマンもいいショットが
いっぱいあると認めてくれた。
ところが、押井さんは、僕の名演技を全部カットする。
押井:ハッハッハッ。
鈴木;いい演技に目を奪われないような作品にするんですよ。
それが僕は疑問でね。
押井:いや、あれは本人が勝手に名演技と思っているだけで・・・。
あるアニメーターに「あんたに千と千尋は絶対作れない」って
言われたんです。要するに、お前の映画には人間の感情がない、
情緒がないと。こっちは「その通りだよ。それのどこが悪い」と。
鈴木:僕は『天使のたまご』という映画にかかわりながら、
本当に驚いたのは、この映画はこの映画は観念の具体化だと思った。
情緒がないんです。男女二人が出てきながら、官能性が一切ない。
記者:今度の『イノセンス』も、その方法論なんですか?
押井:それが突然ね、首から下が気になり始めた。自分の生活の実感がね。
今までどうでもいいと思っていたのに。
鈴木:杉村春子はどうでもよかったのに。
押井:そう。自分が生きているという実感みたいなものが、
けっこう生々しくなってきた。
たぶん、年のせいもあると思うんだけど。
鈴木:今、宮さんは『ハウルの動く城』を作っていて、
毎日イライラしているんです。なぜかと言うと、
宮さんは登場人物の気分や感情を出そうとする。ところが、
最近の若い人たちは、それを描けない。で、若い人たちが
描いた動きを「違う!」と言っては描き直している。
ところが押井さんは、「そんなの分かっていなかったのか。
今の若い人たちはとっくにそうなっている。」と。
押井:きっと、今の時代、自分の体はないも同然なんです。
携帯やインターネットで感覚の延長戦上にあるものは
膨大に広がった。でも、自分の存在がまさに
この体なんだという感覚がない。
鈴木:『イノセンス』には、人間の肉体を持った人がほとんど
登場しない。主人公に脳みそだけが残っていて、
あとは全部機械。まさに現代の人間なんですよ。
記者:やはり、押井さんも時代の空気を吸っている。
押井:切実に自分の体の衰えを意識し始めたからなんです。
それと、犬と暮らし始めたから。犬って、すごく温かいし、
柔らかい。犬の心臓は不整脈なんです。コッ、コココッと動く。
いつ止まるんだろうと思って冷や冷やする。
記者:いずれにしても現代人は、人間のあり方として歪になっている。
すると、優れたアニメーターにもなれない?
押井;アニメーターって基本的には感覚を再現する仕事なんだよね。
鈴木:『踊る大捜査線』を見た時に本当にびっくりしたんです。
登場人物が汗をかかない。これは、感覚を失った
若者たちの映画だし、実写の演技もずいぶん変わってきた。
押井:監督の意識がそうなんです。最近の日本映画、
特に若い監督の映画で食事のシーンが消えたね。
鈴木:飯を食うのは、極めて人間的な行為なのにね。
押井:ある人が言ったんだけど、最近の日本映画に出てくる
若い女の子は幽霊みたいだって。いつどこで寝て食べて
生活しているのか分からない。要するに体がない。
記者:かつて押井さんがやったことを、
他の監督さんが無意識に始めている?
押井:僕は意識的にやったつもりなんだけどさ。
鈴木『マトリックス』のキアヌ・リーブスも汗をかかない。
押井:うん。本来、アニメーションは汗をかいたりとか、
におい立つようなとか、そういう表現が苦手だった。
着ているものが「青」だったら「彼」だといった記号で
成立している。キャラクターを抽象化しやすいというかね。
記者:でも最近はアニメーションの中で登場人物が
演技できるようになってきましたよね。
押井:実写の方がどんどん後退していって、宮さんは、
アニメ情緒的な存在を描こうとしている。
実写とアニメが、微妙に逆転しているんです。
鈴木:小津安二郎の作品を、同時期の日本映画と比較すると、
面白いことが分かるんです。何より、台詞の喋り方が遅い。
溝口健二の人物は、それこそ喜怒哀楽をあらわにして、
日本語が速いし、歩き方も明らかに速い。飯もかき食らう。
押井:増村保造の登場人物も、それこそ情緒もヘチマもなくて、
台詞も棒読み、ものすごい勢いで喋る。
余計な感情的な芝居は全部排除。
そこに出てくるのはドラマの本質だけなんですね。
鈴木:今の時代だったら増村の映画を普通に見られる訳でしょう。
押井:そう。
鈴木:押井さんの時代が来たということかなあ。
記者:でも、押井さんはそこで自分の路線を変えようとしている。
押井:ちょっと違うんじゃないかって気がしてきたんです。
だからといって、外へ出て走りまわれとか、山に登れとか
ではないんですよ。体を失ったら失ったで、その場合の人間の
ありようがあるはず。『攻殻』を作ったとき、
この鈴木敏夫をいう男が何と言ったか。
鈴木:忘れた。
押井:コンピューターと結果する女の話なんか、
信じてもいないことをやるなと。僕は大真面目だったの。
言ってみれば、その先に何かあるはずだっていう思いですね。
でも、人間は「昔は良かった」と振り返る方がなじみやすい。
記者:宮崎監督は、人間回復を信じているのでは?
押井:うん。宮さんの作品にノスタルジックなにおいがするのはそのせい。
やっぱり「昔はよかった」人間なんだ。僕に言わせると、
それはちょっと違う。人間の底が抜けて中身がドボドボこぼれてる
ような現代じゃ、そんな考えは何も寄与しないよ。
ただの妄想かもしれないけど、体を失った人間は、
失ったなりの新たな人間性の獲得というのがあるんじゃないか。
鈴木:『イノセンス』はまさに、
押井さんの肉体が衰えたことによって発想された映画なんです。
記者:犬が重要な役割を演じているんですよね。
押井:失われた体の代替物としてね。それともう一つ。「人形」なんです。
人間が作りだした、言ってみれば観念としての体、
その象徴的な存在が「人形」なんです。
記者:この映画を(無垢を意味する)『イノセンス』と
名付けた鈴木さんは、やはり押井さんの最大の理解者では。
押井:そこがこの男と付き合う面白さなんです。映画を作る人間は、
どこかしら無意識でやってる部分があるから、それを言葉にして、
意義付けしてくれる。ただ、同時に危険な面もあってね。
映画を語ることは、その映画を決定づけることに等しい。
鈴木:今回『イノセンス』と『ハウル』にかかわって、両方の映像を
見ていると面白いんですね。演技は違うし、
テーマへのアプローチの方法も違うが、いずれも根っこは
「これから人間はどう生きるべきか」ということなんです。
『ハウル』はソフィーという十八歳の女の子が、いきなり魔女に
九十歳のおばあちゃんにされて、彼女がハウルという青年に恋を
してだんだん若返っていく。で、彼女の最後の選択は、
人間は他者とどういう関係を持つのかということなんですね。
『イノセンス』は主人公が犬と暮らす選択をするのですが、
演技も題材も違うはずなのに、なぜか共通した部分がある。
押井:『ハウル』はぜひ見たい映画なんですが。それにしても、
宮さんのはずいぶん艶っぽい話ですね。昔は女の子が出てきて、
出会った瞬間、いきなり相思相愛。やっぱり年月を感じるなあ。
鈴木:雑な言い方をすると、「ナウシカ」の時は自然を破壊する人は
悪い人、という単純明快な論理で作ればよかった。
でも、『もののけ』では、
「もうそれだけじゃ無理だ」という宮さんの悩みがそのまま現れた。
押井:でも、一方であの映画には宮さんならではの爽快感がない。
鈴木;「おれも悩んでる」っていう映画なんだよ。
押井:そういうの、誰も望んでないって。
鈴木;今は「家族の崩壊」と呼ばれてますが、今の家族制度なんて
室町以降せいぜい500年の歴史しかないと言う説もある。だから、
新しい時代に新しい家族のあり方を模索するのは当たり前だと。
その中で、いろんな人を巻き込んで一緒に暮らそうよというのが
宮さんであり、押井さんは相手が犬でもいいだろうと言っている。
記者:やっぱり、二人は、方法論は違うが、
家族なり、人間のあり方を描こうとしている。
鈴木:誰と一緒に暮らしていくかという問題ね。
押井:僕の言葉で言うと、他者ですね。
鈴木:やっぱり人間は一人では生きられない。誰か必要なんです。
押井:今起こっているいろんなことは、過渡期の時代錯誤なんだ。
引きこもりや友達をいじめたといった形でそれが噴出して、
犯罪的な側面ばかりが新聞やテレビに登場するが、
それだけじゃない。例えば、四十過ぎの一人暮らしがゴマンといる。
結婚の必要の無い男が山ほどいるんですよ。
鈴木:これは古くて新しいテーマなんですが、
この時代に何を作っていったらいいんですかね。
押井:僕も教えてほしいよ。少なくとも映画というのは、
嫌でもなんでも、自分が生きてる「時代」が必ず入りこんでくる。
鈴木:時代の洗礼からは誰も逃れられない。
押井:それにどう対処していくのか。
それが、監督の個性とか作風とかと言われるものの正体だと思う。
鈴木:まあ、いろいろ言ってますけれど、
押井さんは昨今珍しくまじめに作ってる人だから。
押井:とりあえず、今回はうまくいくかどうかは別にして、
この方法でやるしかない。自分の実感に近いものをやっているしね。
コンピューターと結婚する女の話は、
確かに突拍子もないが、それに実感を添えるとどうなるのか。
鈴木:そう、そこですよ。だから見やすいものになっているんです。
押井:そうしたら、
飛躍した物語も実感として理解出来る作品になるはずだ。
鈴木:ほんと、今どき、「人間とは何か」っていう映画を
作っているんですから。古典的ですよ。
実写でも放棄している人が多い中ね。
そんな作品が二つ。面白いですよ