★★ 「あの世」について語り合いませんか ★★

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覚悟を持っての「霊魂論」
週刊現代3/16号では、「全国民必読…東大病院救急部長が語る『死後の世界』」という特集記事があります。サブタイトルは「あまりにも多くの『最期の瞬間』を見てきた医師の結論」と銘打たれている。

小難しい記事でもないので、引用、要約します。青色文字は引用です。

http://blog.livedoor.jp/ussyassya/archives/51972320.html  ←

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106↓ ↓ ↓:2013/05/05(日) 11:23:26.77 0
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「あなたはどう思いますか」 週刊現代10月29日号
なぜ生命があるのか。死後の世界は存在するのか。多くの患者を見てきた第一線の臨床医が語り尽くす、生と死の神秘。万物を動かす大いなる意志の正体を知れば、人生は豊かに、終焉は穏やかになる。

「人は死なない、そこにいる」
  矢作直樹氏 東大病院救急部長の体験的告白
〜「心霊の世界と科学の考え方は決して対立するものではない」と語る矢作氏

死後の世界はある

私はこれまで、小さな医療施設から大病院まで、臨床医としてさまざまな場所で働いてきました。
一刻を争う救命医療から、最期が近い患者さんを穏やかに見送るための緩和医療まで、人が亡くなる“現場に”、数え切れないほど立ち会っています。
その中で次第に、科学では解明できない現象について、関心を深めていきました。
特に、生命とは何かという問題について思索を進めた結果、今では
「寿命が来れば肉体が朽ち果てるが、霊魂は生き続ける。その意味で、人は死なない」と考えるに至りました。
人間の本質は、肉体から独立した非物質的なものです。肉体をまとっていれば、それは「魂」と呼ばれ、肉体から脱け出した(他界した)後は、「霊」と呼ばれるのです。
死後の世界や霊性の領域があることを示す例は、実は数多くあります。
私は古今東西の文献を読んだだけではなく、実際に体外離脱や臨死体験をした人たちに会って話を聞きました。
交通事故で重傷を負い、肉体が危機に瀕したとき、意識が体外離脱した人がいます。
気がついたら、10mくらい上から、メチャクチャになった事故現場と傷だらけで倒れている自分の身体を見ていたというのです。
また臨死状態に陥った人は、その間、安らぎや開放感を覚えたり、強烈な光を感じたり、急速に天空へ駆け上がるような感覚を経験したりするそうです。
実は臨床医にとって、臨死体験を含め、患者さんに関連した超常現象に出くわすことは珍しくありません。
医師が自宅で寝ている枕元に患者さんが現れ、「どうもありがとうございました」とお礼を言った。
まさにその時刻に、その患者さんが病院で亡くなっていたーーといった出来事などもあります。
私も何度かそのような経験をしましたが、中でも忘れがたいのは他界した母のことです。
亡くなった母の霊と、私は2年前、会話することができたのです。

-----こう語るのは、東大病院救急部・集中治療部部長で東大大学院医学系研究科救急医学分野教授の矢作直樹氏(55歳)。
生と死が交差する臨床の現場を知り尽くした専門家である。

‘56年生まれの矢作氏は、’81年に金沢大医学部卒業。
以後、麻酔科、救急・集中治療、外科、内科、手術部などを経験し、分子生物学も研究した。
東大工学部精密機械工学科教授などを経て、’01年より現職。
霊性について考察した著書「人は死なない」が先日刊行され、日本人が古来持っていた死生観を医師が正面から論じた本として注目を集めている。-------

母は’07年5月、独居していたアパートで亡くなりました。
安否確認のためにアパートを訪れた弟が、浴槽で亡くなっている母を発見したのです。
その2年後の’09年3月、強い霊能力を持つ A さんという60代の知人女性から連絡があり、
「お母さまが矢作さんと話したがっていますが、どうしますか」と尋ねられました。
私は迷いましたが、日を決めて霊媒になってもらい、母と交信することになりました。
その日、交霊が始まると、A さんは突然母の口調になって、私に心配をかけたことを詫びてきました。
私はびっくりしましたが、「元気でやっています。心配はいりませんよ」と答えました。
その後「お母さんはどうして亡くなったの?」「心臓発作らしいの」「お祖父さんに会った?」「会ったわ」といったさまざまな会話をしました。
このとき、母は確かにその場にいました。長い時間ではありませんでしたが、圧倒的な体験でした。

私は一人のときにも、非日常的現象を体感したことがあります。
ハードな登山に熱中していた若い頃のことです。
23歳のある日、冬の北アルプスの稜線で足を滑らせ、急斜面を一気に数百mも滑落してしまいました。
左膝を負傷しただけで奇跡的に一命はとりとめ、何とか自力で下山してバスの発着所にたどり着いたとき、突然、山の方からこんな声が聞こえました。
「もう山には来るな」
幻聴ではありません。こだまのようなこの声を聞いた瞬間、私の思考は停止しました。
そして、即座に「もう山はやめる」と決心し、以後、登山は一切していません。
したいと思ったこともありません。
そのかわり、医師の仕事に没頭して今に至っています。
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死んだらどうなるのか

当時の私は、身体能力の限界に近い登山をしていました。そのまま繰り返していたら、多分事故死していたでしょう。
あの「声」は、愚かな行為を繰り返す私のような者にもまだこの世でやることがある、というメッセージとして、大いなる意志から発せられたのではないか。
今ではそう思ったりもします。
私はもともと子どもの頃から、「人は死んだらどうなるのか」「何のために生きているのか」という根本的な疑問を持ち、その答えをあれこれ考えていました。
小学校3年のときには、自転車に乗っていて車にはねられ、頭から道路に落ちて入院しました。
はねられた瞬間からしばらく後のことはまったく覚えていません。
退院前、主治医が母に「お子さんは小学校卒業までに亡くなるかもしれませんが、生き延びたらその後は大丈夫でしょう」と説明したのを私も横で聞いていました。
そのときから一層、人が死ぬことの意味を考えるようになりました。
死後の世界を具体的に意識し始めたのは、高校時代に読んだ本がきっかけです。
死んだ少女がピアノを使って母親と交信する様子を描いた本で、「この世は他の世界の投影だ」とわかりやすく説明していたのが強く印象に残っています。
こんな話をしたり、「人は死なない」のような本を書いたりすると、
「医師が心霊を論じるとは意外だ」といった感想をときどき聞きますが、私にとっては別に変ったことでもありません。
本に対して批判的な声もありません。楽しみしているんですが(笑)。
何でも「ある」ことを証明するのは簡単ですが、「ない」ことの証明は困難です。
霊性や死後の世界に否定的な人も、それが「ない」ことは証明できないので反論しにくいのでしょうか。

臨床医は知っている

今の日本は、死というものが見えにくくなっている社会です。
時代とともに核家族化が進み、身近な人の死を体験する機会が減っています。
そのため「生・老・病・死」の流れの中で、死を迎えるという、誰にも訪れる最終段階に実感が持てない人が増えている。
中には「病院に行けばあらゆる病気が治り、死ぬことはない」と思っている人もいます。
昔はそんな人はいませんでした。私が医師になってからわずか30年の間にも、日本人の死に対する感覚は確実に変っています。
そのため人が死ぬと、残された家族にとって、その死を受け入れることは難しくなっています。
昔は多くの人が、良い意味で淡々と、従容として自分や身内の死を受け入れていた。
ところが死が日常と切り離されたため、本人も周囲も、いざそれに直面したときに心の安寧を保てなくなってしまった。
その様子は気の毒なほどです。
そういう現代人にとって、「人は必ず死ぬけれども、死は終わりでなく、魂は生き続ける」と考えることは、救いにもなるはずです。
死は未体験の世界ですが、無意味に恐れるべきではありません。
もともと日本人にとって、「死後の世界」の考え方は最近までごく当たり前のものでした。
肉体を離れてあの世に行った霊に対し、追善や供養が営々とおこなわれていました。
108↓ ↓ ↓:2013/05/05(日) 11:46:34.75 0
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普通に「人は死なない」と考えられていたのです。
私もそういった日常生活の影響に加え、親に話を聞いたり本を読んだりするうちに、心霊の存在を自然に意識するようになっていったと思います。
その後、成人して医師の仕事をする中で、「医学にはまだまだ限界がある」ということを常に痛感するようになりました。
感染症の患者さんを前にして、原因菌がわからないこともありますし、救急外来の患者さんや ICU(集中治療室)に収容された患者さんには、
病態の複雑さゆえに手探りの治療になることもある。
臨床の現場にいると、特にその限界がよくわかります。
医学に限らず科学全般に言えますが、世界について科学で解明できていることはごくわずかに過ぎません。
科学は、自然現象や生命現象をいくつものパーツに分解して、理解しようとします。
そのやり方には有効性があったし、だからこそ現代の科学や医学はここまで進歩してきました。
ただしその反面、科学は現象を全体的に捉えることが苦手です。
また科学は、自然現象や生命現象が「どのように」起こっているかを説明できても、それが「なぜ」起きているかは説明できません。
なぜ生命があるのか。なぜ生態の異なる多様な生物が存在しているのか。。。。そういう根源的な疑問に科学では答えられません。
つまり、科学は物事の一つの見方に過ぎず、別に万能ではないのです。
結局、この宇宙のあらゆることは、人間の知恵を超えた巨大な力で動いているのだと思います。
先に述べた、若い頃の私に「もう山に来るな」と命じたのと同じ、大いなる意志の力です。
この力を私は「摂理」と呼んでいます。
摂理は万物の動きを司るもので、人間を含むすべての生物は、これによって生かされています。
つまり摂理は「神」と言い換えることもできるでしょう。
ただし、神と同じ意味だからと言って、摂理を宗教の枠組みで捉える必要はありません。
確かにかつては、人間が死後の世界や霊について知るのに、宗教は一定の役割を果たしていました。
それは普通の人にとって、他に摂理を理解する術がなかったからです。
しかし今は摂理の研究も進み、情報も得やすくなっています。
特に18世紀の天才学者エマヌエル・スウェーデンボルグの心霊研究をはじめ、さまざまなリサーチや知見の積み重ねによって、
多くの人が、特定の宗教の力を借りなくても摂理を理解できる時代になったのです。
誤解なきように説明しますと、私は宗教が不要だと言っているわけではありません。
科学についても、限界はあると述べましたが、無力だと主張しているわけでもありません。
摂理について多くのことがわかってきたのも、実は科学に追うところが大きいのです。
科学の原点は経験主義です。
未知の経験を解明しようとして、科学は発展してきました。
摂理についても、スウェーデンボルグ以来、科学者たちが250年以上研究してきた結果、わからなかったことが次々と明らかにされてきたのです。
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永遠に死なない

では、そんなに摂理の力が絶大で、人はそれに生かされているだけの存在であれば、なぜ医療は必要なのかーーと疑問を持つ人もいるかもしれません。
人知を超えた力によって生き、人生を終えるのであれば、どうせ霊魂は死なずに残るのだし、わざわざ肉体的な生命を延ばさなくてもいいのではないか、と。
しかし人間は、魂がこの現世にあるうちは、より健やかに生きることを考えなければいけません。
それはとりもなおさず、人間が摂理によって動いている世界の一部だからです。
他者と共存、調和して、この世界を少しでもよりよいものにするために、身体をいたわる必要があります。
かつて私は救急医療の現場で、ろくに休みもせず、がむしゃらに働いてきました。
それを見た母から、「そんなに新々をすり減らしてまでする仕事なんてないでしょう」と注意されたことがあります。
母が私の仕事に何か言うことはほとんどなかったので、驚いたことを覚えています。
その半年後、母は亡くなりました。
以来、私は規則正しい生活に改め、空いた時間は長距離走と自転車走を楽しむようになりました。
おかげで新々の余裕ができ、集中力が高まり、考え方は積極的になって、良い気分で毎日を過ごせるようになりました。
そのせいで、周囲の人もいくらか気分が良くなっていると思います。
こうして、わずかでも世界を良くすることに貢献できるのは素晴らしいものです。
人間の一生は、長い長い宇宙の歴史から見れば、一瞬の夢のようなものです。
しかし摂理を忘れず、「人は永遠に死なない」と思えば、勇気を持って人生を送り、穏やかに最期を迎えることができます。
その間、先に他界した人の霊と、すぐそこで出くわすかも知れません。
そうやって読者の皆さんが真に生を全うするために、私の思索がお役に立てば、これほど嬉しいことはありません。
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