もうすぐ学園祭だというのに、俺はいつも以上に憂鬱だった。
学園祭の雰囲気は好きだ。一人での行動も慣れている。
なのに憂鬱なのは、やはり耐え難い屈辱と、願望の板ばさみなのか。
学園祭のためだけに結成されるロックバンドのギター担当として、
あらゆる応募者の殺意を一心に受けながら選ばれたのは一月前。
孤独を紛らわせるために引き続けたギターの腕は、
ある条件を持って認められることとなった。
それは、顔を見せないことだった。
俺が、どこの誰だかわからないように顔を隠してステージに立つことが条件だと。
俺みたいな不細工が、学園祭のバンドに立つのは不似合いにも程があるが、
顔を隠すなら、その腕を買ってもいいという、見下ろされた条件だった。
それでも二つ返事で、作り笑いを浮かべながら受けた自分が嫌だった。
応募者は俺が選ばれたことを誰も口外しなかった。
俺みたいな不細工に、ギターの腕で負けたことを知られたくないらしい。
まったく、不細工というのは生きるだけで限界だ。
それでも、スポットライトを浴びられる嬉しさもあり、
紙袋を頭から被って演奏するのも慣れてきた。
聴衆からの冷ややかな目線も想像に難くない。
イケメンぞろいのバンドメンバーとの落差も最高だ。
いつものように練習をするために夕方の体育館に向かった。
すると、見慣れない大型トラックが体育館裏手に停めてあるのが見えた。
10トンウイング車からは、正体不明の機材が下ろされている途中。
その機材は次々と体育館に運び込まれ、みるみるうちに荷台は空になった。
ウイングが下ろされ、そのトラックには目立たないように書かれてた。
「project VOCALOID」
心臓が口から飛び出しそうになった。
テレビで見たことがあった。
ボーカル専用アンドロイド「VOCALOID」。
すでにCDも発表され、人間のアイドルと同様に扱われていた。
彼女の名前は、「初音ミク」。もちろん顔も知っていた。
そのVOCALOIDと記されたトラックから下ろされた大量に機材を見て直感した。
「彼女が、なぜかはわからないが、ここに居る!」
俺は、動機も収まらないままに体育館に飛び込み、控え室へ急いだ。
ノックもせずにドアを開けると、バンドのメンバーと、VOCALOIDのスタッフらしき人達、
そして、部屋の中央に置かれた専用のチェアらしきものに座る彼女だった。
息が止まるような思いだった。
彼女はうつむいて眼を閉じ、身体にはたくさんの配線が接続され、
その先にはコンピュータや測定器が大量に並べられていた。
本物だ。本物の初音ミクがいる。
コンピューターの向こうではスタッフ達が初音ミクに調整や設定を施していた。
俺は、しどろもどろになりながら、メンバーに問いただした。
なぜ、初音ミクがここに居るのかを。
そして返って来た答えは、やはり学園祭のスペシャルゲストだったのだ。
初音ミクのフィールドテストの一環で、何とギターコーラスとして参加するらしい。
一瞬、俺はバンドをクビになると思ったが、人間が弾くギターも要るそうなので、
一応バンドには置いてもらえることで安心した。
俺の中で希望の炎が燃えてきた。
いくら不細工でも、ギターのおかげで初音ミクと競演できると思えば、
紙袋を被ってても一生の思い出だと思った。
ミクの傍らに置かれていたのは専用のギターだ。
ツヤのある黒いボディと、グリーンのピックガードがミクのギターだと直感させた。
スタッフの作業が落ち着き、その場で設定が発表された。
初音ミク、ギターコーラス設定、ジャンルはロック、テンションは高め、
内臓バッテリーで公演一回作動、パンツはしまパン。
すぐにスタッフが起動準備に取り掛かり、起動テストとなった。
一瞬、室内の照明が消えた。起動時の電圧降下か。
そして、部屋の真ん中で、音もなく、ミクはその眼を開いた。
「メンバー認識します。」
スタッフの声と共に、ミクは顔を上げた。
可愛らしい顔だった。深いグリーンの瞳は人間のそれより澄んでいた。
ミクは立ち上がり、深くお辞儀をした後に、首を少しかしげて微笑んだ。
それだけで、俺の心臓は破裂しそうに鼓動した。
「皆さん、始めまして。初音ミクです。よろしくお願いします。」
可愛い声で、少し舌足らずな挨拶だった。
そして、メンバーに歩み寄り、ひとりひとり握手を交わした。
そうやって彼女はメンバーを読み込んでいるらしかった。
俺の正面に来た。
初音ミクが来た。
テレビの向こうにいたアイドルが、目の前に来た。
俺の顔を見ている。
じっと見ている。
不細工で、忌み嫌われた顔を見ている。
自分で一番嫌いな顔を見ている。
ギターにかけた努力さえ半減させる顔を見ている。
彼女は、優しく微笑むと、小さな右手を差し出した。
反射的に、握り返した。
かすかに暖かい、柔らかい手だった。
女の子の手なんぞ握ったことが無いので、実際はわからないが、
素直に、何て柔らかい手なんだろうと感動した。
目前で、可愛い女の子が、俺に微笑んで握手を求めてきただけで十分だった。
俺は、初音ミクに恋をしてしまったのだ。
つづきぅううう
規制に巻き込まれた!
初音ミクの滞在時間は、1週間。
早速学園祭のリハーサルが始まった。
メンバーはボーカル、俺はギター、ベース、ドラム、照明、音響、VOCALOIDスタッフ、
そしてギターを携えてステージに立つ初音ミク。
見物人が体育館にやってくるが、スタッフが追い返していた。
これで、ミクの存在は隠蔽される。
もっと隠蔽されるべきは、俺の存在なのだろうが。
どれほどの実力なのか、この眼で見るのは初めてだった。
挨拶代わりにミクは華麗なギターソロを演奏して、
くるりと一回転してみせた。元気なバンドガールという設定だろうか。
その動きに一同息を呑んだ。ステージ前には設定を調整するためのスタッフが常駐し、
ミクの動きに調整を加えるようだ。
茶色い長髪をなびかせてドラムがイントロを打ち始めた。
合わせて俺をバッキングを開始。リズムに乗って、ボーカルがまだいない観客にアピールする。
ミクは軽やかにステップを踏みながら合わせて来る。
そこからは、本番どおりの展開にミクが加わった。
ボーカルと肩を並べてコーラスする姿に、すでに俺は嫉妬を覚えた。
メンバーに嫉妬するとすれば顔の作りと人生設計程度だったが、
決定的な差を感じてしまった。
俺はすでに、本番どおりに紙袋を被っていたのだ。
最初、ステージに立ったミクは紙袋を被った俺をメンバーとして認識できなかった。
だから、紙袋を被ったままの俺を再度上書き認識したのだ。
ミクの記憶から、俺の顔は消えた。
記憶から消えてもよかったのかもしれない。
眼の部分にだけ穴を開けた紙袋のほうが、まだ見られる顔だろう。
いや、最初に俺の顔を見てミクは微笑んでくれた。
それもプログラムどおりの動きだろう。
でも、俺の心は揺らされた。
彼女に俺を見て欲しいと思ってしまった。
俺のギターを知ってほしいと思ってしまった。
俺の演奏は観客になんか向いてない。
ミクに聴いてほしいから、紙袋の屈辱に耐えて弾いたのだ。
紙袋の中では、汗以外に大粒の涙が顔を伝っていた。
恋愛なんて美男美女がするもんさ。
どこかの有名人が言ったらしいが、まったくその通りだ。
生まれて初めて、好きになった女の子の記憶から消えた俺は、
狂ったようにギターを弾き続けた。
リハーサルが過ぎ、本番が近づくまでに、俺の音色がミクに残るように。
ミクはアンドロイドだ。機械だ。わかっているのに、やめられない。
俺はステージは紙袋を被り、照明は一度も当てられない。
メンバーとして紹介もされず、ただのギターを弾く人形のような扱いなのに。
ミクはスタッフが少し手を加えれば、全ての記憶が消えるロボットなのだ。
俺の事なんて気にもとめない、機械なのだ。
なのに、俺の心をどうしてここまで揺らすんだろう。
彼女は、人間なんかじゃないのに。
夜な夜な、寝入りばなにミクの微笑みが脳裏に浮かび上がり、
右手に残った柔らかい感触が俺を苦しめた。
頭から、ミクのことが離れない。眠れそうもない。
どうして、こんなにミクのことが好きなんだろう。
可愛いのは当たり前だ。人工物だもの。
優しいのは当たり前だ。人工物だもの。
透明感のある歌声は、頭に残って心を揺らし、胸を締め付ける。
彼女はそういうふうに作られている。
誰もに愛されるように作られている。
自問自答を繰り返し、朝が来てしまう。
学園祭が明日に迫っているのに。
そして、俺はその日、学校を休んだ。
慣れないパソコンを立ち上げ、眠気にも襲われず、
俺は生まれて初めて、誰かに捧げる歌を作った。
俺が書く歌は、誰にも聞かせたことが無いし、
誰にも歌ったことが無い。
生まれて初めて、胸に詰まった想いを捧げたい相手に出会った。
たとえ、俺の事を覚えていなくても、すぐに忘れてしまっても、
歌うために産まれてきたミクに、聴いてほしかった。
願わくば、歌って欲しかった。
ただの紙袋が、この世に何か残せるわけもないのに、
醜い顔を隠して、こっそり生きていく人間なのに。
想像以上にてこずったが、形にはなった。
俺は、顔が醜いし、喋るのも下手だ。
自分の思いは伝えられないし、何か言えば曲解される。
ありとあらゆる場面で、俺はダンゴムシのように丸まっていた。
だから、どんな屈辱にも耐えられたし、諦めも早い。
何事にも本気にならないから、感動も無い。
何も感情が動かない。
俺が踏みにじられるのは当たり前だと思っていたから。
151 :
('A`):2009/07/30(木) 19:25:37 0
初 音 ミ ク っ て 何 ?
音
ミ
ク
っ
て
何
?
ミク、君が好きな理由がわかった。
君は、平等なんだ。
機械だからこそ、本当に平等なんだ。
ありがとう。
俺は、作った歌をUSBメモリーに入れて持ち、自宅を出た。
時刻は夕暮れ、体育館では最終リハーサルの準備が行われていた。
バンドのメンバーは俺が学校を休んだことを知らないのか、
いつもどおりに演奏を進めていた。
ミクは、俺を紙袋だと思い込んだまま、実に楽しそうに演奏した。
日に日に人間らしい動きに近づき、ハイテンションな演奏を披露するミク。
ボーカルと同じマイクを共有して顔を寄せ合って歌ったり、
飛び跳ねながら観客を煽ったりと、実に多芸じゃないか。
ライブは大成功の予感を残して、最終リハーサルを終えた。
俺は、機材を片付け、帰宅したフリをして体育館の中に隠れた。
息を潜め、全員が体育館を出るのを待った。
全ての人間が去ったと確信した今、俺はミクが待機している控え室に忍び込んだ。
ミクは、専用のチェアーに座り、眼を閉じていた。
電源が入っていないのだろう。
手を触れたら何かの警報が作動するような気がして、触れるのはやめた。
華奢な身体と、グリーンの長い髪が夕焼けに照らされている。
俺は、なぜか息を止めながら、ミクを見つめていた。
俺の目的は一つだった。
生まれて初めて、女の子に自分の想いを告白する。
物心ついたときから、自分の醜い姿は自覚があった。
だからこそ、地べたを這いながら、愛を得る期待などせずに生きてきた。
それがどうだろう。俺は自分勝手に暴走して、勝手に歌など作って、
学校の体育館に忍び込み、無防備なミクの目の前に立っている。
俺は、USBメモリーを取り出して、彼女が座るチェアーの傍らに置いた。
彼女が目覚めたときに、これを読み込んでくれるだろうか。
その可能性はゼロに近いだろう。
スタッフが気が付いて内容をチェックして廃棄するだろう。
結局、俺の記憶はミクに残らないだろう。
でもいい。俺は自分勝手な人間なんだ。
俺は小声で、ミクに伝えた。
「ありがとう。」
153 :
('A`):2009/07/30(木) 23:01:32 O
つづきぅううあああ
155 :
('A`):2009/07/31(金) 19:14:10 O
_,,..-‐v―‐--、 , クヘ
, =、/:::::::::;:':::::_:::::::::<<:「`ヽ、
l〔冫:ヾ‐:::::::::::ヘ:::::-、:::ヾヽ :::::\
冫:::::::::::::::::ヾ:::::::::::::::::Vノ/:::!:::::::::::ヽ
/::/:::::::ト、 ::::::|\_::::::::::::V、__!!、::::::::::ヽ
/::/!:::::::;L_\::::l ´>=、:::::::lr'rニ1!::::::::::::::ヽ
{::/::|::::::::レ \! r=ァ、:::川jレ,ハ:::::::::::::::::ヽ
∧!:∧::::::ハ,r=ァ lVベラ´ ';:::::::::::::::::ヽ ますたー?まーすーたー?
/:::冫::;ヘ::: ∧ 'ー=‐'_, ルく !::::::::::::::::::ヽ
/::::::::: /::;!ヽ{_ > 、_ イノL`ヽ !:::::::::::::::::::ヽ
,' ::::::::::;:::::! ,r┘‐‐ ' >、_ l::::::::::::::::::::ヽ
/ ::::::::::;::::::! ,.-‐ <,ム、 /´ ヽ l:::::::::::::::::::::ヽ
学園祭の当日、バンドの全員が見守る中でミクは起動した。
眠りから覚めたミクの傍らに、昨日おいたメモリーは無い。
当然処分されただろう。
収録されている楽曲と、演奏パターン、振り付けを確認し、
テンションを調整して行動パターンも設定する。
もちろん、控え室から遠隔操作で設定変更も可能である。
バッテリーも十分に充電され、準備万端。
俺以外のバンドメンバーはこの一週間で仲良くなり、
円陣まで組んでいる。その中にミクは参加していた。
全員の手が重なり、掛け声と共に解けた。
俺は、黙って紙袋を被った。
ステージは緞帳が下ろされ、その向こうから観客のざわめきが聞こえる。
俺は全身黒い服装にして目立たないようにした。
ギターも黒く塗ってやった。もはや、ヤケクソだった。
ステージの右端に立ち、ミクは左端だ。真ん中にボーカル、
俺の斜め後ろにはドラム、ミクの後ろにはベースが控える。
ステージ上の照明こそ俺を照らすが、スポットライトは当たらない。
司会者の紹介と共に、緞帳が上がっていく。
俺はうつむいた。
次の瞬間、黄色い声援とざわめきが襲ってきた。
ボーカルに向けられた女の観客が悲鳴にも似ている。
そして、甲高い声援と同時に、観客はやはり驚いていた。
初音ミクの存在だ。
司会者がミクを紹介する。
それを待って、ミクは満面の笑顔で観客に手を振って挨拶。
ざわめきは大声援に変わった。
やはり本物のアイドル、雲の上の存在、俺はステージで孤独感を感じていた。
もうかまわない。
俺はただのギターだ。ギターそのものだ。
俺がどこの誰だろうと、気にも留めない石ころだ。
ちくしょう。どうしてこんなことに。
悲しんでいるうちに、ミクがイントロを弾き始めた。
俺は、ミクのことだけを考えて、合わせていった。
ミクが俺の事を知らなくても、それでもこのステージで一緒に居られる。
そんな幸せな事を噛み締めながら、俺はギターを弾くことにした。
当然のように、観客は大いに盛り上がっていた。
俺を除いてイケメンだけのバンドに、本物の初音ミクという豪華な布陣だ。
これでしらける奴はどうかしている。
俺はしらけそうだがそれを押さえつけてテンションを上げていた。
紙袋に開けた小さな穴から、ミクのことを見ていた。
息もつかせぬまま1時間の予定時間を迎え、
アンコールにも無事応えた。
初音ミクのソロを聴きたい客も居たとは思うが、
そういう設定になってないので仕方が無い。
一番それを聴きたいのは俺だったのかもしれない。
アンコールで2曲をこなしたあと、バンドのメンバーはステージに横一列に
並んで観客に挨拶をする手はずであった。俺以外は。
俺は、全ての演奏が終わったら、目立たずにステージ脇に引っ込む予定だ。
予定だった。
大歓声とスポットライトの熱さの中で、俺以外の全員がステージに並び始めた。
そこで、全員手をつないでお辞儀をして幕が降りる。
これを最後に俺はギターを、やめようと思った。
もう、これ以上やることはない。
スポットライトを浴びずに、あらゆる努力が否定され、
おいしいところだけ持っていかれる現実に、俺は耐えられない。
しかし、予定通りには行かなかった。
俺がひとり落ち込んでいると、ミクが傍に来ていたのだ。
ライブ中には立ち位置の関係で、全く接近しなかったのに。
何が起こったかわからず、俺は固まっていた。
観客も同じように固まっていた。
ミクは俺の右手を握り、引っ張った。
ミクは、俺をバンドメンバーと同じように並ばせようとしていたのだ。
これはリハーサルには無かった。
俺は混乱した。俺は、ここに居てはいけない人間なのに。
スポットライトを浴びてはいけないのに。
俺は、ミクの引っ張る力に抵抗した。
すると、次の瞬間、ミクは左手を伸ばして俺が被っている紙袋を、
勢いよく奪ってしまった。
その表情は、怒っているようにも見えた。
会場は、凍りついた。
ミクに当てられていたスポットライトと一緒に、
俺の顔にもスポットライトがもろに当たってしまった。
一瞬の静寂の後に、ざわめきが起きた。
ざわめきは、徐々に大きくなり、観客から徐々に怒声が飛んできた。
恐らく、ギタリストのオーディションに落ちた奴らだろう。
そして、そいつらを支持していた奴らだろう。
怒声は徐々に大きくなり、体育館一杯にブーイングが起き始めた。
怒声と、悲鳴と、悪意が充満した。
ボーカルが慌てて場を納めようとする、
ベースが走ってきて、俺の頭に叩きつけるように紙袋を被せた。
そして、そのままステージ脇に押し込まれてしまった。
ミクは、その場で固まっていた。
固まっていた。
本当に固まっていた。
さっきまで生き生きと、楽しそうに演奏していたミクが、
パソコンがフリーズするように停止していた。
その表情からは何も読み取れなかった。
「は、初音さん。」
俺は、思わず声を出してしまった。
ミクには聴こえていないかのようだった。
瞳の焦点は合わず、どこか遠くを見ているのか、近くを見ているのか、
それすらわからないほどの表情だった。
ミクは機械だ。
ミクのプログラムに、このような観客の反応は想定されていただろうか。
こだまする怒声、ブーイング、投げつけられるゴミ、
彼女は、それが俺に向けられたものだと理解できるだろうか。
ミクは無表情のまま、一筋の涙を流した。
両目からあふれ出したそれは、ほほを伝って床に落ちた。
何滴も、何滴も。
次から次へとあふれ出してきた。
透明な、涙だった。
かすかな電子音がして、ミクは、俺のほうを向いた。
眼と眼が合った。
「オイル漏れだ!」
控え室から慌てた声がした。
緞帳がすぐに下ろされ、スタッフによってミクは回収された。
両手両足が固まったまま、けが人のように担架に乗せられていった。
俺は、呆然とそれを眺め、ボーカルに顔面を蹴飛ばされて鼻血を噴いた。
心が痛くなってきた…
きみ、才能あるよ。
それほどでもないと思います^^
鼻血を流しながら控え室に戻ると、予想通りの展開だった。
バンドメンバーと、俺の仮面を取ってしまったミクのスタッフとが揉めていた。
ミクが最後にあのような行動を取らなければ、全てが丸く収まった。
だが、俺の中では違っていた。
俺が居なければよかったのだ。
調子に乗って、こんなバンドのギタリストを受けたからだ。
激しい後悔の念が襲ってきた。
同時に憎悪も沸いてきた。
屈辱に耐え切って、役目を果たした最後に、このような光景は見たくなかった。
一番見たくない、ミクの涙。
いや、オイル漏れか。
俺は、何もすることも出来ず、その揉め事を眺めていた。
ミクの行動の原因がスタッフから推定された。
俺が、バンドのメンバーであるという認識が「なぜか」リハーサル時より強くなり、
最後の挨拶に誘おうとした。そして、右手を握ってしまった。
その時に、一度読み込んだ俺の右手の指紋と、紙袋が「なぜか」一致せずに
再度俺の顔を読み込もうとして紙袋を剥ぎ取った。
その後の観客が激しくブーイングしたが、それに対する対応が全く
プログラミングされていなかった。表情の制御回路は混乱を起こし、
内部の油圧制御を誤りオイル漏れが発生。そのまま緊急停止。
チェアーに座るスタッフのチェックが施されている。
そして、俺のほうをスタッフが一瞬見た。
バンドメンバーの怒りは、俺に向いた。
控え室を出た俺は、バンドメンバーに散々になじられた。
これでもかと言うほどに。言葉で人が殺せるなら、俺は三回は死んだ。
周囲は学園祭の楽しい雰囲気だというのに、白昼堂々と俺は言葉で殺された。
そう、通行人も俺を見ると厭らしい笑いや、汚い言葉を吐いてきた。
そのうち、怒りのボルテージは上がり、俺の顔面はさらに整形された。
バンドメンバー全員に殴られてしまった。
ひとしきり殴られた後に、顔に唾を吐かれて全てが終わった。
疲れてしまったが、荷物を取りに控え室に戻った。
控え室に戻ると、ミクが起動していた。
「初音さん。無事だったんですね。」
俺は、口の中の痛みに耐えながらスタッフに尋ねた。
すると、スタッフから申し訳なさそうに謝罪されてしまった。
俺の顔があまりにも酷かったせいだろう。
チーフとみられるスタッフは以外にも若かった。
実際に調整している技術者のほうがもっと年上に見えた。
年のころは30前半、痩せた物腰の柔らかい男性だった。
「君の扱いが、あまりにも不憫だったので、再度顔を読み込んでおいたんだ。」
思いがけない話だった。
「君に危害が及ばないように説明したかったが…。申し訳ない。」
俺の右手の指紋に対して、紙袋の俺と、素顔の俺、
両方のデータを初音ミクに読み込んだらしい。
「ミクは君が紙袋のままでも認識できていたし、演奏も完璧だった。
リハーサルと違ったのは、ミクが君に対して抱いていた好奇心、
親近感がステージ上で急激に高まった。だから、君をバンド
バンドのメンバーとして引きずり出そうとした。」
「ミクは君の右手を持った瞬間、素顔の君を確認しようとしたんだ。
紙袋は君の本来の姿じゃないと、ミクは判断したんだ。
しかし、あそこまでやるのは我々の調整ミスだった。
本当に申し訳なかった。許してくれ。」
でも全てがもう遅い。
「もういいんです。初音さんを責めないで下さい。」
「待った。君にも責任の一端はある。」
俺は心臓が止まるような衝撃を受けた。
「ミクが君に対して急に強い興味を持った理由だ。」
心当たりがあった。
脚は振るえ、毛穴は開いて冷や汗が出てくる。
もはや立っている事さえ難しい。心臓が鐘を打つように鳴り、
耳も聴こえないほどに。ヘタをすると失禁してしまいそうだ。
「君のギターが、ミクに影響を与えたんだ。ありがとう。
ミクの行動が、より人間に近づいたんだ。」
「は?」
「意地悪を言ってすまない。責める気はないよ。
それに、こういうのは嫌いじゃない。」
見覚えのあるUSBメモリーを取り出した。
「いい曲だった。歌詞を付けてくれないか?」
いいぞもっとやれ
俺は、チーフの言うことがよく理解できなかった。
俺は昔から人から言われたことを理解できずに、
突拍子もない反応をしてしまうことがよくある。
「ぼっぼぼっぼくは!勝手に初音さんに自分の歌をプレゼントしようと
しました!勝手な事してすいません!
歌ってもらいたいとまで思ってました!
ぼくのせいで!初音さんが壊れてしまったら、責任取れないのに!
すいません!すいません!ヒー!」
直立不動で身体を反らしつつ、鼻血を垂らしながら絶叫してしまった。
俺の奇怪な振る舞いにチーフも苦笑いをしていた。
「ミクが見てるぞ。」
チーフが言った。
もちろん俺はさらにテンパッた。
他の技術屋さんに肩を揺さぶられて、やっと正気に戻った。
チーフに促されて、椅子に腰掛けて向き合った。
「もう一度言おう。」
俺はもう一度聴くことにした。
「朝、ここに来たら見慣れないUSBメモリーがミクの傍らに置いてあった。
誰かの忘れ物かと思って、内容をチェックしてみたら、いい曲が入っていた。
しかし、プロの作品とは思えない出来だったので、身内じゃない。
よく聴いてみると、耳に覚えのあるフレーズがたくさんあった。
それはこの一週間に何度も聴いたギタリストのものだった。
いい曲だったので、作曲者に会いたくなった。わかるな?」
「は、はい。」
チーフは、ゆっくりと俺にわかるように話してくれた。
「君のギター、鬼気迫ってたよ。」
「ああ、あ、ありがとうございます。」
そして、チーフは表情を曇らせた。
「でも、ああいう結果になってしまったな。
これから、君が大変な学生生活を送ることになると思うと、
取り返しのつかないことをしたと思う。」
「そんなこと、ないです。慣れてますよ・・・。」
「もう解ってるとは思うが、どんな善行を積んでも、
何をやったかじゃなくて、誰がやったかでこの世は動いてる。
君は残念だと思うけど、理解はしてると思う。」
「痛いほど・・・。」
俺は、鼻にティッシュを詰めた状態で苦笑いした。
「責任を取らないとな。」
チーフはミクのほうを向いた。
「我々は、明日夜に撤収する。
それまでに、歌詞を作ってきてくれないか。
君の歌を、ミクに歌わせてくれ。」
チーフの言うことがようやく理解できた。
「は・・・はい!」
「15時にここに来てくれ。ギターも持って来いよ。」
「特別なんだから、口外するなよ?」
「はい!」
チーフは柔らかく笑った。
「ギター、やめるなよ?」
俺は答えに詰まった。
「やめないで。」
俺の心臓は再び爆発したように鼓動した。
ミクがこっちを見ていた。
「私と、歌ってください。」
ミクに話しかけられてしまった。
もう俺は、身体の痛みを忘れて飛び上がるような気持ちった。
「ああ言ってるぞ。な?
弾けよ。そしてこっちの世界に来い。」
俺の両目から、滝のように涙があふれ出た。
鼻血も鼻水も垂れ流しだった。
醜い顔がケガを負って腫れ上がり、それが声を上げながら泣いている。
ものすごく酷い顔だっただろう。
しかし、その場に居たチーフも、技術者の皆さんも、そしてミクも。
誰も俺の事を笑ったりはしなかったんだ。
全俺が泣いた…
いいな。
またすげえのがきちゃったな…
前スレで橋の下に捨てられたミク軍団のバトルロイヤル書いた人でしょ?
今回のも超いいよ!もっともっと!
いや、このスレ初めて。
今は仕事してるので、深夜にクライマックス。
こうまで文体や方向性や世界観が違って同じ人だったら天才すぎるw
俺は興奮もさまやらぬまま帰宅し、作詞にかかった。
ギターだけだった曲に、胸にたまった想いを詰め込もう。
期限は少ないが、驚くほどに言葉が湧いてきた。
これほど、何かを伝えたいと思ったことはない。
すらすらと言葉は詩をつづった。
曲に合わせて文字数も合わせた。
気が付いた時、それはミクへの手紙になっていた。
好きという言葉がない、不器用なラブレター。
遠回しな、伝わりにくいラブレター。
自分勝手だと思った。
歌うのはミクなのに。
ミクはこれを入力されて、どんな反応をするだろう。
いや、ロボットは恋心を理解できないだろう。
言葉はただの記号。
何から何まで自分勝手な俺は、最後まで自分の満足を求めるのだろう。
「だからモテないんだよ。」
声に出してみた。
複雑な気持ちを残したまま、俺は翌日までギターを練習した。
翌日に俺はアコースティックギターを抱え、体育館の控え室に来た。
学校は休みで誰も居ない。
扉を開けるとチーフが振り向いて招き入れてくれた。
俺は丁寧にチーフの好意に感謝を伝えた。相変わらず喋るのは下手だったが、精一杯の言葉を伝えた。
チーフは笑って聞いてくれた。
それだけでも、俺の心は救われた。
出されたコーヒーを飲み終える頃、チーフから切り出された。
「できたか?」
俺は頷いて、メモリーを出した。
「お願いします。」
メモリーを渡すと、パソコンに読み込んだ。
チーフは歌詞を読んだ。
「甘酸っぱい青春の思い出。」
急に恥ずかしくなった。
ラブレターを読まれたと同じだ。
「俺にもそんなものが欲しかった。」
チーフが言った。
俺はチーフからそんな言葉が出るとは思わなかった。
「ミクが君の心を揺らしたなら、今度は君がギターでミクを揺らしてくれ。君にはその力がある。アンドロイドに影響を与えられる何かを持ってる。」
チーフは言うと、目を閉じているミクに視線を向けた。
「やるか。」
息をつくと、ミクへの入力と設定が始まった。
技術者たちは真剣な面持ちで設定を加えていった。
俺はこれから始まる夢のような時間に期待を膨らませた。
小一時間経ち、夕焼けが見え始める頃、設定は終わった。
初音ミク ギターボーカル
ジャンルはポップス
学習機能最大、フルオートモード。
チーフは俺に説明した。
ミクは俺のギターを聴いて、開発者の想定を越えた行動を取った。
これから始まるのはもはや実験に近いらしい。
「まだ実験段階だが、君にはフルオートのミクに会ってもらおう。」
「何が違うんですか?」
「君とミクはこれからステージで一曲セッションする。
我々はミクの行動をモニタリングするが、何も調整しない。この部屋の外にも出ない。
ミクは自分で考え行動する。危害を与えたりはしないが、何をするかはわからない。
ミクはこれから君とセッションすること、それだけしか理解してない。
この部屋から出たら、帰ってくるまで、君はミクと二人きりだ。」
息を呑んだ。何が起きるか、開発者もわからないのか。
「ミクを頼んだぞ。」
チーフは微笑んだ。
「娘を嫁に出す気分だわ。」
年配の技術者も笑った。
「フルオートに会える最初の人間だぜ〜」
若い技術者も笑った。
みんな、これから起きる事態が読めないのに、軽い。
「そんな責任重大な事だと思ってませんでした。」
俺は正直怖じ気づいた。
「責任?何が起きるかわからないのに責任取れとは言わないよ。強いて言うなら、楽しんでこいよ!」
チーフは明るく言った。
「今までのミクは言うなれば操り人形。だが、オマエが今から会うミクは、本当のミクだ。頼むぜ旦那!」
年配の技術者は胸を張った。
「今から起動するが、君とミクが部屋を出たら、フルオートに切り替わる。後は君次第だ。」
俺は恐怖と期待が入り交じる気持ちで喜ぶべきか怖がるべきか。
時間はすでに1630で夕焼けが辺りを包み始めた。
その柔らかな光を浴びながら、ミクは静かに眼を開いた。
すぐに俺と眼が合い、優しく微笑んだ。
心臓が高鳴る。徐々に期待が膨らむ。
「ミク、今日も頼むよ。」
チーフが言う。
「はい、マスター。」ミクは立ち上がり、俺の右手を握った。顔を見た。確信めいた表情で言った。
「喪男さん、よろしくお願いします。」
ミクから名前でよばれて天にも昇る気分だ。俺は挙動不審気味に頷くとミクと部屋を出た。
部屋を出たらミクはフルオートだ。何が起きるのか。
ミクは挨拶したら手を離したのだが、部屋を出ると再び手を繋いだ。
今度はミクは左手、俺は右手。手を繋いで並んでステージに向かった。
ミクは必要以上に歩くのが遅かった。
ステージには椅子が二脚。ミクは向かって右側。ギターがスタンドに立ててある。
俺は左側か。
ミクの手は柔らかく、いつまでも手を繋いでいたかった。
椅子の前にたどりつくと、ミクの方から手を握る力を強めてきた。
しかも、離そうとしない。
「初音さん…?」
俺は恐る恐るたずねた。
ミクは俺の方を見上げた。
その顔は今にも泣き出しそうな表情だった。
そして、ミクは言った。
「お別れなんて嫌…!」
「喪男さんのくれた歌、これはお別れの歌です…。」
ミクは歌を知っている。
「初音さん…。」
「このセッションが終わったら、わたしの記憶はリセットされます。」
ミクは手を離して向き合った。
「わたし、喪男さんのこと忘れたくないです…!」
俺はもう泣いていた。
「初音さん、ありがとう。」
俺はミクに心底感謝した。
「君のおかげで、俺は救われたんだ。」
「君が俺を忘れても、俺は忘れないよ。大丈夫。」
ミクはうつむいて、椅子に座ろうとしない。
「絶対忘れられない、そんな時間にしよう。」
「喪男さん…。」
ミクは正面から倒れ込むように体を預けてきた。
「喪男さんのこと忘れないように、たくさん読み込みさせてください…。」
ミクは俺に抱きついて手を背中に回し、力を込めた。
俺は、ミクの頭をなでてあげた。
柔らかい髪だった。華やかな香りもした。
「初音さん、この歌は、お別れするけど、また会えるように祈る歌なんだ。」
ミクは俺を見上げた。
「ほんとう?」
「ああ。だから、必ずまた会おう。」
口からでまかせを言う。
涙が溢れてミクの顔に落ちる。
俺が頭を撫でると、ミクは落ち着いた様子で微笑んで椅子にゆっくり座った。
「喪男さんのためだけに、歌います…。」
ミクは微笑んだ。そしてギターを構えた。
ミクはコード、俺はソロを弾く。
夕焼けに照らされたミクの顔は、心なしか微笑みの中にさびしさが見えた。
息を合わせて、心重ねて、瞳を反らさず、ギターを構えて。
夢の時間が始まった。
ラブレター 〜ミクへの手紙〜
http://piapro.jp/content/b98ki2zwydkhgry5 少しだけでいいよ 気が向いたなら
ぼくを思い出して
だけど きみはぼくを忘れるだろう
避けられない運命の歯車
さよなら するけど
この世のどこかで また会おう
あなたのために祈りたい
笑顔忘れないでね
熱い想いを届けたい
いつまでも元気でね
きみのことを思うたびに
胸が強く痛むんだ
だけど きみはぼくを知らないだろう
きみの記憶に残れないぼくなんだ。
さよなら するけど
この世のどこかで また会おう
あなたのために祈りたい
笑顔忘れないでね
熱い想いを届けたい
いつかまた歌おうね
あなたの明日を祈りたい
笑顔忘れないでね
熱い想いを届けたい
いつまでも元気でね
あなたのために祈りたい
ぼくを忘れないでね
最後にぼくにその笑顔
ひとりじめさせてね
ボロボロ泣きながら、俺はギターを置いた。
ミクは名残惜しそうにギターを置き、うつむいた。
「ミク、ありがとう。」
俺はミクを名前で呼んだ。
「わたし、喪男さんのこと、忘れません。」
ミクは強く言った。
そして、俺とミクは腕を組んで控え室へ歩いた。
扉の前で、終わりを確信した。夢のような時間は終わった。
ミクは最後に腕に力を込めて、「また会おうね。」と小さく言った。