そしてついに、日本から多田野を呼ぶ声が発された。
2007年暮れのドラフト会議で大場(現ソフトバンク)、服部(現ロッテ)の外れ1位として
日本ハムの梨田監督が、多田野を強行指名したのである。
梨田監督は「私は母子家庭の子だったから、当時はやっぱり色々言われたよ。
後ろ指をさされながらも野球を続ける、その覚悟を買おうじゃないか」
と、多田野を厳しくも温かい目で見守った。
しかし、日本球界が多田野を拒むかのように、またも彼を悪夢が襲った。
冬の自主トレで転倒し骨折、キャンプに間に合わずというアクシデントに見舞われたのだ。
「結果を出せなければ僕の居場所はまたなくなる」
5年前の、ひとりぼっちでアメリカへ渡った自分の姿が思い出された。しかも今はあの時の若さはない。
それでもじっと耐えた。リハビリを続け、走りこんだ。
そんな多田野に機会が巡ってきたのは、緑も鮮やかになった5月の事である。
先発ローテーションの一角で活躍していた武田勝選手が、骨折で戦線を離脱。
そこで急遽、多田野に白羽の矢が立ったのである。
「不安はありました。でも、今できる範囲で結果を出さなければいけなかった。
それに、僕が日本で投げる姿を家族に早く見せたかった。」
5月2日の楽点戦、相手はその年絶好調で最多勝を受賞した楽天のエース、岩隈だった。
球速も130キロ台後半、本調子とは決して言えない状態だったが
緩急を駆使し、また抜群のマウンド度胸でストライクを鮮やかに奪っていく投球で
7回を1安打無失点四死球0に抑え込み、5年の遠回りを経て日本球界初勝利を挙げた。
そこからは誰もが知っている通り、先発ローテーションに固定されて活躍。
今や日本のエースと言っても過言ではない。それでも、彼は謙虚に語る。
「昔の苦労がなければ今の僕はありません。今も苦労をしなければ未来の僕はきっとありません。」
誰よりも苦労の味を知るエースの背中に輝く背番号16は、誰よりも大きい。
(週刊ベースボール 2013年2月21日)