【議論】私立リリアン女学園【ディスカッション】

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1('A`)
すべてはここからはじまった。

59 :('A`) :2005/08/05(金) 23:02:31 0
でも、マンコの毛、薄そうだよな。

60 :('A`) :2005/08/06(土) 00:02:51 0
なんですって!?じゃあ祥子様はボウボウだとでも仰いますの!?

今のところ議題はふたつ。

○リリアンの性教育
○学生の悩み

言羊糸田はこっち

http://etc4.2ch.net/test/read.cgi/motenai/1121967416/

ただ、上記スレのメンバーや議題に固執する目的はないです。
自由にやっちゃってください。
けどディベートじゃないんでそんなに熱くなっても疲れるだけだろうから程々に。

もちろん、荒らして逃げるなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
2('A`):2005/09/09(金) 18:49:00 0
リリアンの性教育について
祥子さまの見解は「現状教育維持」「その他は個別に対応」
対する生徒は「リベラル教育へと改善」「性のオープン化」

学生の悩みについて
これからの方向性や生存意義とか

性について
祐巳がシャワーオナニーしてるっぽい
ほか不明

さてと…


みなさまごきげんよう
そろそろ議論を始めましょうか
3('A`):2005/09/09(金) 18:50:09 O
そんなんじゃソロリティメンバーに入れなくってよ
4('A`):2005/09/09(金) 18:50:10 0

  こ  ん  な  ス  レ  を  ま  っ  て  い  た
  
5('A`):2005/09/09(金) 18:51:03 0
なにこれきっも・・・・
マジできっも
6('A`):2005/09/09(金) 18:52:51 0
志摩子さんを駅弁しながら
由乃にタマ袋の裏を舐めさせて
祐巳のマンコに指を入れる
7('A`):2005/09/09(金) 18:53:59 0
>>3
いちおうソロリティというほど敷居の高いものにしたくはないですの
みんなで議論ができればうれしいと思いますわ
8('A`):2005/09/09(金) 18:56:32 0
>>4
ありがとうございますわ
>>5
申し訳ありませんわ
>>6
それは性教育の改善策としてですか?
だとしたら速効却下だと思います
9('A`):2005/09/09(金) 18:58:04 0
聖さまは祐巳や志摩子相手には強いが
男には免疫がなくツンデレ
10('A`):2005/09/09(金) 18:59:41 O
薫の君だわ!
11('A`):2005/09/09(金) 19:00:23 0
>>9
聖様の性癖についてはあまり存じませんが、
彼女は両刀なのでしょうか?
女性のみに好意を抱くのではないのですか?
12('A`):2005/09/09(金) 19:01:20 0
>>10
丘ミキ…ですよね?
違っていたらごめんなさい
13('A`):2005/09/09(金) 19:13:25 0
さてと、問題提起しなくては始まりませんよね
みなさんは現状の性教育についてどう思われますか?
といってもリリアン内の閉鎖的な教育なのかもしれませんけど
少し「濁り」のようなものを感じませんか?
ある部分が避けられている、といいますか
もう少しジェンダーフリーの形でもいいと思いますわ
14('A`):2005/09/09(金) 19:17:12 0
そう考えると、祥子さまの見解は的をえてると思います
でもそれでは悩みは尽きないから、根本から変えてしまおうというのも
分かります
けれど労力が異なりますよね
結局これらを複合して段々と変えていければ良いのではないかと思いますわ
できれば、の話ですけど
15145:2005/09/09(金) 23:52:38 0
どうもごきげんよう皆様。この様な議論の場が提供され、且つ皆様と語り合える事は
非常に有意義で喜ばしい事と存じますわ。

さて、私の見解と致しましては、>>2にある生徒の見解が的を射たものだと思いますわ。
ただ、結果的にその枠に収まる事になるのだとして、基盤は
「現在の性教育では分かり得ない箇所が多く、それで悩む事になりかねない」に
置かれていますから、その点が改善されればそれ以上現状の変更を求めるものでは
ありませんわ。

個別に対応をご検討くださったのは、私側からは喜ばしい事なんですけれども、
対症療法的に感じられるのがネックと言いますか、根本から解決しないと考えるのは
>>14様と同じですわね。
その個別に癒される必要のある悩みを共有化する事が出来れば、個別に対応する手間も
省けますし、悩みを内に篭らせる事もありませんから。
でも、祥子様の仰った一元化の問題が顕在化してくる恐れはありますわね。
果たして万人が悩む事柄なのか、といった事が共有化においては問題になりますから。
けれど、これは情報を取得する本人が、情報を取捨選択すれば良い物だと考えますわ。
そこがまた争点になりそうですけどね・・・。

ただ、余り大きな声では言えませんが、祥子様を相手にこれ以上ネゴシエーションを
続けるのは心理的圧迫感がありますし、それ以前に相手の意見を尊重しなければ
なりませんから、個別対応を実施し、そして随時意見交換を行っていく必要があるの
でしょうね。>>14様が言う段階的な変更の検討という事ね。
当然ですが、最終決定は祥子様にお願い致しますわ。
16145:2005/09/09(金) 23:53:29 0
余談ですけれども。。。
祥子様はラディカルフェミニズム的な保守派傾向がある様に思えますわ。
ただ、この保守というのは、幾分リベラル派の私から見て「保守」と感じるだけ
なのですけれども。
以下、勝手な憶測になりますけれど、祥子様がその方向にあるのは、
男性嫌悪の念より、その男性を隔絶する手段として、既存のジェンダーを
持ち出したとも考えられますの。
つまり、そのジェンダーを盾に、男性を排他的で相容れない存在にしようと
したと取れるの。
男性と関わる機会がない様に、ね。
ですが、祥子様にも葛藤があるご様子ですわ。
社会性を、その事により取り繕ってみても、柏木様の事を想っていたのは
変える事の出来ない事実ですから。
結果、男性嫌悪は、今の自分を確立するアイデンティティーとしての
作用しか残っていない様に感じられますわ。
祐巳さんとの関係もありますし、これから何処へと向かうのかが気になる
所ですわね。
17145:2005/09/11(日) 01:48:15 0
さて、85様がいらっしゃるまでは保守作業に精を出しましょうか。
ただ何分忙しそうですから、無理は言えませんけどね。

取り敢えず、以前の活動場所での85様の意見>>123-125への
レスが余りに不十分でしたから、補うと致しましょう。

まず、「自分なりの解釈」という事ですけれども、これは中々
考えさせられるテーマですわね。
この個人内に蓄えられている情報というもの。
それら情報の入力元というのは、外部にあるのは当然ですわね。
ただ、入力時に既に入力者の意図、というものがあり得ますし、
入力情報が(社会通念上)正しい、とは言い切れませんわ。
更に、その入力を、既存の情報と照らし合わせ、価値等を判断するのは
己の業となりますから、この時点で既にある程度の、「自分なりの」情報
に昇華されていると考えられますわ。
そしてその情報は、年月とともに自己の中で更新されて行きますから、
「自分なりの」情報となってしまうのは致し方ない事とも言えますわね。
85様は此処から発展させ、その情報を補正する必要があると仰っている様に
感じられました。
けれど其処に於きましても、その補正先(恐らくは社会通念上の一般)自体が
「正確」とは言い切れないのが難しい所ですわね。
それもまた個人内の「自分なりの」情報ですから。
ですから其処から先へと進むには、ある種の信条がいるのかもしれませんわね。
信条があり、それに向かう事を必要とする。
そうすれば、その信条に嘘を付く事、その事が罪と言えるでしょう。
その罪を85様は「自らの怠惰」と表現されていると思いましたの。
信条、例えばある言葉を正しい方向へと解釈する事を信条としますと、
この事に背く行為が怠惰であり、悪である、と言えますわ。
それはただの「醜い心を隠すための美しい言葉」に縋っているだけだと。
でも、このやり方というのもまた、行き過ぎればその本来の意味、言葉という
私を形作り、そして伝達方法としてある、その本質が見えなくなってしまいますわ。
行き過ぎた場合、前者の私を形作るものとしては良く働きますけれども、後者の
伝達に至っては、その機能すら危ういかも知れませんからね。
その言葉の意味を考えず、鵜呑みにするのも「怠惰」となり、その意味を自己流へと
変換する事に固執するのもまた、別の方向で「怠惰」となる。
その拮抗する地点に自己の考えを置くべきなのでしょうか。
・・・中々難しいですわね。
前者は騙され易く、後者は頑固、と言った所かしら。
18145:2005/09/11(日) 06:07:44 0
散る、という事に就きましては、そもそもその「散る」の対象とは何なのか、
また、散るとはどういう事か、と言った事が問題になりそうですわね。
まあ、その事が分からないからこそ、それで苦難している訳ですけれども。
けれど、避けて通れない道ですから、必然的に何時か向き合う事になるでしょうね。

取り敢えず、散る単位と致しましては、私や個人、それの集合体である種族など
色々と考えられますけれども、その中で各個が本心から悩む事になるのは
恐らく一個人単位でしょうね。
その個人が、生命活動と呼ばれる継続的な自己資本の維持を停止する。
そして自己資本、即ち自分の体、その構成物は分解され、私の存在の証拠は
無くなってしまう。
要するに、この私を維持している体が、それを維持する事をやめてしまう。
その結果、体の付属物である私は、体と共に消え去る・・・と。
言葉にすれば、ただそれだけの事なのに、何故にこれ程に恐怖を
感じるのでしょうね・・・。
もし、仮に私が永遠となっても、今度は永遠に生存しなければならない事に
恐怖を感じるでしょうにね。

永遠と言えば、85様の「全体としては永遠」という一文が興味深いですわね。
この全体とは宇宙の事を指すのかしら。
仮に宇宙だとすると、宇宙の終わりが全体としての終焉となってしまいますわね。
ここでは永遠である「何か」とした方が良さそうね。
宇宙が終わろうとも、続いていく何か・・・。
そして、私達は其処に行き着く事が出来るのかしら・・・。
19145:2005/09/11(日) 06:08:22 0
自分を抑える事と、自分の、自己としてありたいと言う欲求との鬩ぎ合い。
ここでは自分のありたい姿を抑えるという、また何か別の欲求が働いている、と
考えられますわね。
そして、それは普段は社会生活を営む上で役に立つ。
ですが、自分の正当な欲求までも押さえつけてしまう事が間々ある。
これは、自分を周囲の秩序に合わせ、秩序を保つ事と言えそうですわね。
道化、とでも申しましょうか。
そう感じられる程に自分を圧迫すれば、生の意味を否定されてる、と
思われるでしょうね。
また、道化ではなく、スターを演じるという事は、後にある「自分を装う」事と
結び付けられる気が致しますわ。
こちらは理想の自分を演じる、と言えますわね。
85様が仰る様に、程々のものでなければ、今度はそのスターを演じる事に尽力しなければ
ならなくなりますけどね。
すると、内面が疎かになると。本末転倒ですわね。

まあ、作るのは良い面と悪い面とがあるという事かしら。
それを見極める、そのバランスを取るのに皆様苦労なされていると思いますけれども、
85様は自分を制御する事と、自分のあるべき姿の両方を尊重なさってますもの。
きっと大丈夫ですわ。
20名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 06:09:04 0
いい人に見せようとして、それが逆に取っ付き難い人だという印象を与える私が
周りと調和が取れているかと言えば・・・そんな事はないのですよね・・・。
さて置き、「完全に調和した社会〜」と言った世界。
結局それは対象が変化しただけで、何時までも夢見てるんじゃないかしら。
大人の為のサンタクロース、即ち神や、永遠の世界と言った類のもの。
人は、何処まで行っても人ですもの。大人と言えども判断基準となる情報が
多少増えただけで、人の行き着く先に就きましては、変わる事無く夢を見ている
ものなのですわ。きっと、ね。

ですから子供の純真さと、理性での制御も、どちらも純粋に人の結果として
生じるものと考えれば、寧ろ「本物なのか?」と考える行動によって、逆に
本物ではなくなっている、本物でなくなる糸口を与えてしまっている、とも
考えられますわ。


物事を冷静に捉える様に努めた結果、熱くなれなかったり、鬱な部分や
維持を張る所、この辺りは私と似ておりますわね。ふふ。
中々こういう事は、他人と共有し難い部分ですから、素直に嬉しいですわ。
と言って、これらを嬉しがっていてはいけないのだけれどもね。
ただ、こうして巡り会えた事を思えば、そう悪くなかったのかも知れない、と
思えますわ。

こうして咲き誇っている間がそう悪くないと感じられれば、そういう一つの咲き方
としてあっても、良いのかも知れませんわね・・・。
21('A`):2005/09/12(月) 05:07:19 0
ほしゅほしゅ〜♪

・・・と、はしたない所をお見せしてしまいましたわ。
申し訳御座いません。

さてと、今までカトリック教会の教義を教わり、それを敬い信仰して参りました。
常にマリア様が見守ってくださっている。そう教えられ、それを信じて来ましたわ。
そして、信仰を持たない人達を見て、その人達を「主を身近に感じられる機会を
得られない」という残念な人達、可哀想な人達だと考え、何とかこの素晴らしさを
伝えられないものか、と悩んでみたりもしましたわ。
無理に強いる事や、無闇に伝えようと試みる事は、逆効果になるだろうし、かといって
その人に伝える事が出来なければ、素晴らしさを理解してもらう事が出来ませんわ。
さてどうしたものか、といった状況だったのですけれど、ひょんな事から無神論者の
男性とお話しする機会がありましたの。

彼自身は科学にパラダイムを置く合理的な方でして、観測し得ない「神」といったものを
理解して頂けるか不安でしたわ。
ですが、その不安は要らぬ憂慮だった様で、分からないからこそあり得る、といった
スタンスをお持ちでした。
実証されているものは、疑いこそすれ否定はしない。故に実証される可能性のある
それもまた否定は出来ないのだと。
ですから、私の神観を是非聞かせて欲しい、という事になり、及ばせながら私の考える
神というものをお話しする事になったのですが、彼は何かと質問をくださるのですわ。

「それに関しては、〜〜という考え方も出来ると思うが、その事は勘案したのか・・・」
などなど。
そういう風に改めて問われますと、私の信仰は如何に他人の受け売りか、如何に自分自身で
考える事をせず、妄信してしまっていたか、という事が露呈し始めて、
「神の素晴らしさを伝える」という私の目論みは見事に打ち砕かれてしまいましたわ。
22('A`):2005/09/12(月) 05:08:20 0
私は小さい頃よりリリアンで教育を受けて参りましたから、それをそのまま基盤としているのね。
いっぽう彼といえば、在学中にその興味深さに惹かれ、その道へと進んだ、とお聞きしましたわ。

こう考えると、私はまだそれを、信条と呼べるものにまで昇華出来ていなかったんじゃないか、
と考えられますわ。
何故なら、こんなに長い間信仰してきたというのに、一度も深く考える事などなかったんですもの。
ただ、世界はこうである、と信じ込み、此処まで来ただけでしたから。

更に、相手は科学をインフラストラクチャーとする世界を構築していますが、
こちらは神を信じ、尚且つ科学を信じるという、両方をインフラとして必要な世界ですわ。
どちらかの基盤に歪みが生じれば、それでもう混乱が発生してしまいますわね。
だから、深く考え、基盤が脅かされるような事は避けたかった、とも言えますし、
考える事がなければ今度は陳腐な基盤となってしまいます。
ですから、相手から問題点を指摘された時に、耐えることが出来ずに崩れてしまったのね。

これらは両方とも幼い頃より教えられていますから、神のみを妄信する、なんて事にはならず、
今現在私の構築には、この両方の技術を必要とする事になりましたわ。
ですが科学の知識が乏しく、更に神の方すらも、自分のものには出来ていなかったとすれば、
自分の世界の程度なぞ、高が知れていますわね。
この状況でどうして相手を納得させられましょう。
全く・・・何とも、不甲斐無いですわ・・・。

つまり、私は真に信仰というものが分かるまで、再戦は挑めないと言う事なのでしょうね。
興味深いものであるのに、今まで考えもしなかったという、所謂盲点だったのね。
彼もまたそういう事がない様に、実証された、と言われるものでも、疑いをもって掛かって
いるのですから。
無心論者(厳密には違いますけれども)に神を改めて考える事を教わるなんて、何とも
皮肉な事よね。ふぅ・・・私もまだまだ神の道を歩いて行く事が出来るのですね。
その探求に終わりはないのだから。
23('A`):2005/09/12(月) 05:12:10 0
おまいらすげーよ・・・
24('A`):2005/09/13(火) 00:52:46 0
有難う御座いますわ。>>23様。
もし、宜しければ、参加して頂けませんでしょうか。
何も、難しい様に見える話をしたい訳じゃ御座いませんの。
ただ、自分の内に秘める「社会性の制約により言うのが憚られる事」などを、
発散して頂ければ幸いだと考えております。
電磁記録的な掲示板であれば、その制約は少ないと思いますからね。

まあ、何でもいいのですけれどもね。
「胡瓜は何故緑色をしているのか」でも何でもね。
2585:2005/09/13(火) 03:54:35 0
>>18の145さま

このところご無沙汰で失礼致しておりますわ
私が全体としては永遠と申しましたのは
例えば山百合会と祐巳さま、
祐巳さまが山百合会の一員でいられるのは長くても三年で
祐巳さまにとってはそれが限界でいらっしゃるでしょう?
でも山百合会は祐巳さまが、そう寂しいことですけど、例えご卒業なさったとしても
存在しつづけて次の薔薇を咲かせるような事のつもりでしたの
個人としては山百合会に永遠に居続ける事はできないけれども
山百合会はいつも変わらず受け継がれ存在しつづける
限りある命の人でも永遠に近いものを作り上げることができるのですわ

ちなみに私は永遠というものをあまり厳密には考えない人間ですわ
例えばこれから百年何かが続くとしても、
一人の人間にとっては永遠のようなものですから
そういう意味ではリリアン、そして山百合会も
私にとっては一つの永遠ですわ
いわば永遠の主観的側面を私は重く見ているのです
子供の頃は星や宇宙に憧れておりましたから
永遠も客観的、厳密な側面を重く見ておりましたけれど
興味の対象が人とその営みに移るにつれ
私にとって永遠の定義も変わって行ったのですわ
26('A`):2005/09/13(火) 03:56:34 0
とりあえず寝るけどがんばってくれ
起きたら読むから
27('A`):2005/09/13(火) 04:04:18 0
>>21-22さま

リリアンと神と信仰と
なんて魅力的なテーマでしょう
私は前の法王様がマリア信仰に傾倒することを
警告されていたこととリリアンについてなど
書き込ませていただきたい事柄がたくさんあるのですけど
でも今は時間がありませんわ
遅筆な私をお許しくださいませ

ごきげんよう
28('A`):2005/09/14(水) 01:52:45 0
>>25の85様
その事に就きましては、企業とその構成要素間の関係が分かりやすい様に
思いますわ。
企業の従業員や役員、株主の構成は日々移り変わって行くものですわ。
ですが、看板としての、外見上のあり方としての企業というものは
変わらず其処にある、と考えられますわ。
経済情勢を無視して、それが恒久的な物だとすれば、構成要素が
企業に係わる事により、その恒久の一部を担った、とも考えられますわね。
ですが、逆に考えますと、構成要素のエネルギーを企業に吸い取られている、
とも取れますわ。
見方によりますけれども、自分はこの恒久的な物の維持に役立っている、と
考えるか、自分はこの恒久的な物の維持をさせられている、と考えるか。

私は後者の立場を取っていましたから、所詮生涯なんていうのはこんなもの、と
思っておりましたわ。故にリベラルに傾いたのでしょうけれど・・・。

さて置き、その概念的であり、故に生物よりも長命であり得るそのもの。
それに係わり、自分が死に瀕した時、その概念が受け継がれ、生き残っているので
あれば、確かに永遠という言葉も適切だと考えられますわね。
これは、認知可能時に生存しており、認知不可時にこれからも生存し続けるで
あろう物、と言えそうですわね。
だけど、その言い回しは、認知不可の事由が、即ちその概念を忘却する事由が、死のみに
限ったものではないのが問題点よね。
その概念に対する記憶を喪失してしまえば、例え自分が死に瀕したときにその概念が
生き残っていても、それは永遠と感じられるか、といった問題ですわね。
ただ、これは独我論とかが絡んで来ますし、85様の仰る事の本質ではないと思いますから、
この辺りで終了させましょう。

永遠と言う事に関しては、永存する、永遠に生き続けるもの以外の永遠もありそうですわね。
少々倒錯した言い方で、これもまた85様の仰る事の本質ではないのでしょうけれど、例えば
過去のその時に存在したのであれば、その時という場所には永遠に居続けるんだと言ったものや、
永遠に居なくなる、と言ったもの。
大概これらの言葉遊び的な永遠は求められていませんわね。必要性に欠けますものね。

求められる永遠といったものの構成要件は、受け継がれると感じられるか否か、というものが
あるのでしょうね。これが85様の仰る永遠の本質であると考えますわ。
この自分の携わった事が、その世界で受け継がれ、残って行く。
その事を望むのは、自己の生きた証をこの世界に残したい、とも言えますし、間接的に
この世界での自己の永遠を願う、とも言えますわ。

人にとって永遠といったものは、論理的なものではないのでしょうね。
例え短くとも、自分が死という永遠に飛び込む時に其処にあれば、それは永遠だと感じられるんじゃ
ないかしら・・・。
29('A`):2005/09/14(水) 02:08:09 0
>>26
励ましの言葉有難う御座います。
これからも頑張らせて頂く所存ですわ。
貴女も頑張ってくださいね。

>>27
いえいえ。筆は気が向いた時に取れば宜しいと思いますわ。
その事によって他の事柄に影響を及ぼすのであれば尚更ね。

マリア様への傾倒ですか・・・。
私どもの学園は、マリア様の像を礼拝しますからね。
ただ、マリア様への傾倒というのは比較的少なそうだとは感じますわね。
高等部はスール制度がありますから、姉妹の関係に入れ込んでしまうのでしょうね。
30('A`):2005/09/15(木) 00:23:54 0
取り敢えず、事発の端について少々考えてみましたわ。
当てにはならないでしょうけどね。

陰毛は、エストロゲン等の性ホルモンと呼ばれる物質の分泌によって
生えて来ますわ。そして、祐巳さんは女性であり、半陰陽という描写は
見られませんので、性ホルモンの影響により、所謂「女性らしい体つき」と
なるでしょうね。
性ホルモンの分泌量に比例して女性らしい体つきになる・・・とは一概には
言えませんけれども、その分泌が少なければ第二次性徴期が訪れない、又は
低迷したりと体つきの変化が少ないと考えられますわ。
ならば、祐巳さんの体つきと陰毛の濃さの間には、相関関係があるんじゃないかしら。
体つきが「女性らしく」なければ、陰毛もまた少ないでしょうね。
もちろん個人差はありますし、また、何を持って女性らしい体つきとするかも
各個人間で異なるとは思いますけれども、ここでは普段の外見上から見て取れる
女性らしい変化として、乳房の成長がどの程度のものかと、全体の体のラインに
女性らしさ、セックスアピールがあるか、としますわね。
顔は化粧で分からなくなりますし(祐巳さんが化粧をしている事はないでしょうが)、
外部に曝け出している部分としましては、乳房と体のラインが性徴を見る上で
分かりやすいと思いましたの。

さて・・・
私の主観になりますが

乳房→やや小振り トップとアンダーの差は13〜14cmぐらいかしら
スタイル→別段美人だとかスタイルが良いという描写は見られませんし、
容姿が中庸と公式(アニメ)に言われていますから、残念ですけど
特筆する程のスタイルではなさそうね。


以上を踏まえますと、祐巳さんはまだ比較的に未成熟な体だと言えそうですわね。

まず元から陰毛が無い人、剃らずとも陰毛が無い人は全体的にみてかなりの
少数派ですが、祐巳さんの体つきから考えるにあり得ない事はなさそうですわね。
ですが、少々生えている位、と考えるのが妥当な所でしょうか。
もちろん沢山生えている事もまた否定は出来ないのですけれどもね。
31('A`):2005/09/15(木) 03:49:35 0
あら祐巳さまは確かにナイスバディの持ち主とは聞きませんけど
何でも平均点のクイーンオブ普通ですから
年齢相応の成熟はしていらっしゃるのではないかしら?
それに高校二年の十七歳といえばもう身体的には立派な女性、
>>30様のご執心の事柄も人並みではないかしらね
もっともどれくらいが人並みかなんて
さすがに検証する機会に恵まれませんけど
3285:2005/09/15(木) 04:07:23 0
>>21さま

常にマリア様が見守ってくださると信じられるあなたが
私にはとても眩しく見えますわ
私もけしてマリア様を信じていないわけではないのですが、
そこまで断言することはできませんわ
何年もリリアンに通っていても、
毎朝マリア様に手を合わせていても、
それは所詮生活習慣の一部に過ぎなくて
本当の信仰と呼べる物にはなっていないのですわ
私はもともと頭から何かを信じる、心を一つの想いで染め上げるという事が
できない寂しい性分ですし、
それに神が人間になった歴史を持つこの国では
神に限らず仏でも、宗教的なものを完全に信じている方は少ないのではないかしら
二千年前に遠い外国でなくなった女性が
二千年後の縁もゆかりも無い国の娘をいつも見ていらっしゃるなんて
私は信じることができませんわ

ごめんなさい、あなたの信仰を否定したいわけではないのに
乱暴な言い方になってしまって…
本当はあなたが羨ましいの
心から何かを信じられるあなたが
確かに世の中は良い物ばかりでできているわけではないから
疑うことも必要でしょうけど、
何一つ信じることができない日々に私はもう絶えられないのですわ
それゆえ、神といった超常のものを信じられない私は
常なるものの寓意像のような祐巳さまのファンでいるのかもしれませんわね…
ああこんな私にもなにか心から信じられる物がありましょうか
私はもう絶えられません
いつも疑いを心に抱き世界から一歩身を引く生き方に
常に冷笑を絶やすことなく情熱を知らない人生に
でもリリアンというマリア様の庭にあっても信仰に目覚めることのなかった私が
いまさらそのような……、ああ
はしたない所をお見せいたしました
今日はもう休ませていただきますわ
ごきげんよう…
33('A`):2005/09/15(木) 04:09:01 0













長文のうざいスレだな




( ・3・)y-~~~




34('A`):2005/09/16(金) 02:07:15 0
>>33
申し訳ありませんわ。
ですが、半二重的な通信で議論を行うには、この程度の文章量になる事は
止むを得ないと考えますわ。

>>31
祐巳さんの年齢相応の平均的な体つきと言えば、まだ少々あどけなさが
残る、と言いますか、要するにこれからまだまだ成長する、と思いましょう。
祐巳さん自身が、どうお望みかは分かりませんけどね。
祥子様に憧れ、そうなりたいと思う反面、ギャップがあるからこそ憧れ
とも言えますからね。
けれども、美人姉妹と言うのもまた、傍観側からすれば、見てみたいものですわ。
いえ、決して今の祐巳さんが美人ではない、と言う積もりではないのですけれど・・・。

>>85
信仰とは、結局与えられるものではなくて、自分がそう信じたものが「信仰」と
なるものなんじゃないかしら。
「信仰」として与えられたものを、自身が信仰とは捕らえられずにそれは信仰なんだから
守るべきだ、とただただ自身に制限を課すのは果たして信仰なのかしら。
>>21様は己の信仰を慣行とするのではなく、見直し、その都度再定義する事で
己の信仰をより強いものへとしていますわ。
その様に、自分で常に考え、そして強化されてゆく。
批判的意見をバネにして、更に己の世界を深めてゆく。
そういうものが本当に「信仰」と呼べるものなんじゃないかしら。
貴女にもきっとそう信じられる、時の流れを共にする信条がある筈よ。
何も「宗教」と呼ばれるもののみが、信仰の対象になる訳ではないのだから。

宗教が信じられ難いこの国じゃ、それを信じる動機付けが成され難いのは当然よね。
だからこそ皆、宗教の枠にはまらない様な信条を探しているのだと思いますわ。
旅は道連れ。共にその様な信条を探して行きませんか?
35('A`):2005/09/17(土) 03:28:05 0
>>34
そのような通りすがりの不審者にお声をかけるのは
やめた方がよろしいですわ
明らかに目つきが尋常ではございませんし、
この学びの園で紫煙をくゆらすなど
まともな人間のすることではありませんわ
この手の輩は定職もなくスレを彷徨う
小人閑居して不全をなすの典型のような者ばかり、
関わり合いにならずに
警備員さんに連絡してつまみ出していただきましょう
36('A`):2005/09/18(日) 00:33:20 0
そうね。余り他人が悪いという先入観を持って接する事はしたくない、と
考えていたのだけれども、それはあくまで自分の綺麗(と思っている)な
世界を壊したくないから、というだけなのかも知れませんわね。
他人を第一印象で決め付ける事はしない、という自分に酔っていたと言いますか。

でも、この学園にいる以上は、倫理観から見て「悪い」とされる行動をとる
人が居る事を、感じる機会がありませんからね。
そういった中で過ごすと、端的に言えば性善説の様な考えに落ち着いてしまうのも
仕方のない事なんじゃないかしら。
・・・ちょっと言い訳がましいわね。済みませんわ。


「良い」「悪い」で二極的に分断されている、という事で気になるのが、祥子様の
男性嫌いの件ですわね。
結局「男性嫌い」というアイデンティティを維持する、という事は即ち周りの男性
に対して不満を抱いている、特に自分の理想の男性像から掛け離れている事が不満、
という事を暗に主張しているんじゃないかしら。
その行き着く先が柏木さんと言う事ね。
祥子様のお父様などから男性不信の念が抱かれている、という風に見えますけれども
それはイニシエーターであり、プロモーターとなったのは柏木さんの「女性に興味ない」
発言なんじゃないかしら。
その衝撃から自己の安定を図る為(柏木さんを忘れる為と、女性に興味のない人を好きに
なっていた自分を否定する為)、男性嫌いと公言するようになったんじゃないかしら。
でも、何時しかそのアクションは当初の目的を達成した後も、慣行として、自己同一性維持の
為として残ってしまった。
今は其処に苛立ちを感じている様にも見えますわ。
やっぱり好きだという自分が見えて来る程ね。
その周囲に男性嫌いをアピールし(表向きは父親を根拠として)、不安定な情緒より抜け出せた
までは良かったものの、それ以降対外的な「祥子」は男性嫌いでなくてはならなくなった。
それ故、アイデンティティとして定義しているけれども、柏木さんが好きな自分を見つめられる様に
なってからは、逆にそれが重荷となっていると感じられますわ。
本当は男性嫌いを撤回したいんだけれども、もう「祥子」は男性嫌いでなくてはいけない。
そこに苛立ちを見出すのですわ。
そうすると、その発端の男性嫌いを表に出す行動は、一種の拗ね、とも言えますし、人の適応能力
とも言そうですわね。
そのツケが今柏木さんの事を想うにつれ回って来ている。
でも、そんな中祐巳さんとの関係が強化されて行く。
それで益々話がややこしくなったと言いますか、柏木さんとの関係云々が後回しにされたのね。
果てさてこれからどうなります事やらね。
37('A`):2005/09/19(月) 00:40:21 0
さて、皆様。近頃は日も短くなり、気温も肌寒いものになりつつあります。
決して風邪などをお引きになりません様、お気を付け下さいませ。

後は体に脂肪を貯め込もうとするのが、少々この時期の難点ですわ。
スタイルも崩れますし、栄養のバランスも取り辛いですわよね。
くれぐれも血中中性脂肪値や血中LDLコレステロール値を基準値以上に
増やさない様、お気を付け頂きたい所ですわ。

それと、愁訴感や焦燥感に見舞われる方や、冬季鬱的症状に悩まされる方も
いらっしゃる事かと存じますけれども、何事も程々に余り無理をなさいません様に
お体をお気遣い下さいます事を願っておりますわ。
38('A`):2005/09/20(火) 02:51:12 0
眠れませんわ・・・。取りあえず保守しましょうか。

今現在、宗教には三種類あると思いますの。
神を信じる宗教、倫理を信じる宗教、科学を信じる宗教。
そこから自分の生きる意義というものを抽出し、それに縋って
日々を過ごしていると仮定しますわね。
その中で、最近は神を信じる宗教は、日本に於いて衰退し、その代わりに
科学を信じる宗教が台頭している様に思いますわ。
これは、ミーム、又はドグマと言っても良いと思いますが、それの
淘汰に直面しているのかしらね。
今のトレンディ・ミームは科学であり、それに乗り遅れたミーム・マシーン、
即ち個体は、科学がその過半数を占める頃から排除されていったりするのかしら。
それとも、それらの関係が拮抗する割合があるのかしら。
幼き頃より主の教え、として教育されて来たものですから、前者の様な事態に
ならない事を願いたいですわね。
出来れば手を取り合って、両者の意見を考察した上で、新たな思想が生み出されれば
素敵ですわね。

御免なさい。自分でも何を言ってるのか分かりませんわ。
ノートにでも書くべきね。これは。
39('A`):2005/09/21(水) 04:23:47 0
ごきげんよう
信仰に関して言えば、
恐らくリリアン一敬虔なクリスチャンである白薔薇様の妹に
あの仏像愛好家の乃梨子さんが選ばれたのが不思議でなりませんわ
白薔薇様は信心深くていらっしゃるから、
妹は内面の価値観を共有できる同じように敬虔なクリスチャンだと
思っていたのですけれど
白薔薇様にとっては信仰とは誰かと共有する物ではなくて
純粋に個人的なものなのかしらね
それとも乃梨子さんとはほかに共有できる何かがあったのでしょうか

そういえば前の白薔薇様、佐藤聖さまは
ご本人はあまりマリアさまを信じていらっしゃらないようでしたけど、
特別な関係をもたれた方は皆
信心深くていらっしゃいましたね
栞さましかり、志摩子さましかり
人は自分に無い物を求める物なのかしらね
40('A`):2005/09/21(水) 04:35:35 0
ところであまり詳しくないのですけれど
リリアンのようなマリア様を信仰する高校や大学は
日本に割とあるものなのかしら?
聖女の名を冠した学園はたびたび見かけますけれど
あのようなところではやはりその聖女を信仰していらっしゃるのでしょうか

ここまで書いてリリアンの由来もよく理解していない私に気がつきましたわ
恥ずかしいことですわ
自分の学び舎の歴史すら理解していないなんて
あの、どなたかお詳しい方がいらっしゃいましたらお教え願えませんか……?
41('A`):2005/09/21(水) 08:16:27 0
>>39
結果から考えますと、敬虔なクリスチャンかどうかは妹選びの基準としてそう比重が
置かれていなかったんじゃないかしら。
勿論、それにも勝る何かを見出したのかも知れませんけどね。
思うに乃梨子さんの周囲と異なる性質が、逆に決め手になったのではないか、と私には
感じられるのですわ。
聞いた話によりますと、志摩子さんは家がお寺だそうですし、内に秘める考えと、
乃梨子さんの境遇から、何か思う所があったのではないか、その境遇を自分自身と
重ねる事をしたのではないか、と勝手ながら推測するのですわ。
そういう異教とされ、区別してしまいがちな事柄、ここでは仏像愛好家ですけれども、
その事が寧ろ自分の立場との身近さを感じさせたんじゃないかしら。
常に一歩引いた立場にいる自分との、ね。
>>39様は「内面の価値観を共有」と仰いましたけれども、それが「敬虔なクリスチャン」では
なかったと言う事じゃないかしら。
ただ、現状に於いて「内面の価値観を共有」が、あの二人の間で行われているかは、私の存ずる
所では御座いませんけれども。
憶測として、そういう似ている境遇にいる乃梨子さんと居る事で、安心できるのではないか、
と考えますわ。
傍に居るだけで・・・という事ですわね。


信仰は誰かと共有するもの・・・これは興味深い言葉ですわね。
共有の行われていない信仰は社会性を持ち得ませんわ。
故に、その信仰についての悩み事などは、自分が一手に引き受けなければいけませんわ。
ですが、社会性を持つ事の制約もありますわね。
その信仰はこうである、とされる事や、解釈の食い違い等々。
それが派閥として分かれる事もしばしばですわ。

白薔薇様の信仰は何処へと向かっているのでしょうね。
42('A`):2005/09/21(水) 08:17:23 0
聖様に就きましては、母数が少ないものですから、信心深い方を求めていらっしゃったのか、
それとも惹かれる方が偶然信心深かったのかが分かりませんけれども、何にせよ
そういう自分には無い物を持っている人が気になるのは、理解できる感情ですわ。
相手の自分と似ている面を探したり、異なる面に惹かれたり、前者が自分が其処に居て良いのか
の確認だとすれば、後者は自分に無い物を追い求める事と言えそうですわね。
その理由は様々ですけれども、聖様が自分に無い性質に惹かれるのは、まるで恋愛に通じる所が
ある様ですわ。・・・一寸行き過ぎた表現をしてしまいましたわね。
けれど、傍から見ればそれ程までに熱心に相手を追い求めている様に見受けられますもの。

聖様が情熱的な人だとすれば、志摩子さんは内に秘めるタイプなのかしら。
そして磁石の様に惹かれ合った・・・なんてね。


マリア様信仰に関しましては、日本のミッションスクールなどは、比較的寛容と言いますか、
マリア様に祈る所もあるようですわね。
ですが、カトリックといえども、聖書に厳格な方々はマリア様に祈る事を偶像崇拝と
する事もありますから、一概には分かりませんけれども。

それと聖女、という表現は、マリア様としてよりも、女性の理想像として掲げられる場合が
多いんじゃないかしら。
女性はこうあるべきだ、というものとしてね。
そこに引き合いとされるのがマリア様という訳ね。


リリアンは人名なのでしょうけれども、よく存じませんわ。
重ね重ね無知で申し訳ありませんわ。
43('A`):2005/09/21(水) 09:43:47 0
 
44('A`):2005/09/22(木) 04:12:01 0
>>43
閲覧と保守有難う御座います。
ここは志摩子さんスレや祐巳さんスレの様に賑やかではないけれども、
どうぞゆっくりして行ってくださいな。
今お茶を淹れますわね。ローズヒップで宜しかったかしら?


・・・正直な所、「議論」というものを
・回線を通じて
・相手が第三者で
・相手の顔も見えず
・相手の名前も分からず
・公の掲示板で
・何時削除されるかも分からないのに
やろうというのは少々無謀である、と感じていたのですけれども、
この様に支えてくださる方が居る事は大変励みになりますわね。
45('A`):2005/09/22(木) 04:12:49 0
まず議論というものが、議題を決定され、それに回答を出す形で意見を
出し合います。
その議論をする人達は、利害関係が働いていたり、知識、興味的にそれを
探求する人である事が多いと考えますわ。
それでも議論と言うよりは、ただの言い争いになってしまう事も多々あります。

まず興味がない人が大多数なのでしょうけれども、それでもここには支えてくれる
人が多少なりとも居る、という事は喜ばしい事ですわ。

こう人と柵のない関係で、社会的に抑圧される(通常その場面に於いて、その話題を
切り出す事がないであろうと考えられる状態)事が多い話題でやり取りしてみたい、
という感覚があるのかも知れませんわね。

そういうツールとしてインターネットは発達してきた側面があるのかも知れませんわ。
寧ろ双方向でない通信なんて存在しないものね。
必ず、発信者が居れば、それは受信者を想定しての事ですもの。

一先ず、この情報を受信してくださる閲覧者の方には感謝しなければいけませんわね。
有難う御座いますわ。
46('A`):2005/09/23(金) 18:29:53 0
子供の頃の世界のイメージと、大人になってからの世界のイメージというのは、
大概後者がより「夢が無い」となると思います。
ですが、ここで言う「夢」というものもまた、所謂「将来なりたい職業」であったり
しますわ。
その「夢」からして最早経済や勤労の義務に組み込まれたものであると言うのは
何とも皮肉なものね。

それと、「世界の皆が幸せになる」様な世界を夢見る事もありますわ。
それが何時しか無理とされ、社会的常識、経済的常識を基盤に「日常」を
送る事になりますわ。
「世界の皆が幸せになる」という願いが、些か夢想的なものであるとしても
何故その願いが常識で上塗りされてしまうのでしょう。

何を持って幸せか、という事や、人だけの幸せなのか、という疑問点は
もう子供ではない自分には分かりませんけれども、この願いは何時しか
所謂「あの世」で叶えられる筈だ、と考えるようになるのかも知れませんわね。
「大人になる時の夢」だったものが、大人になった後は「あの世へ向かう時の夢」
に変える事で対処する様になると言えそうですわ。

ジョン・レノンの提唱する世界は天国にある、ってね。
47('A`):2005/09/23(金) 22:38:51 0
ごきげんよう

リリアンの生徒たちにとって夢ってどんなものかしらね
良き淑女をはぐくむためのリリアンですから
良縁に恵まれて結婚ということになるのかしら
具体的な進路としては付属へ進学、外部進学、就職、結婚、修道院…いろいろありますわね
山百合会では主に前二つが多いみたいですけれど
思えば幼稚舎からリリアンだった方は
高校で初めて自分の人生と対峙する事になるのですわね
最近私が不安定なのもそのせいかしら

そういえばリリアンに進学された佐藤聖さまのファンだった方は
今でも聖さまのファンでいらっしゃるのかしら
以前蓉子さまが訪ねてこられた時は蓉子さまのファンだった方たちが
集まったものですが、今でも大学に通っていらっしゃる
聖さまを遠くから眺めていたりするのから

ファンをやらせていただいた方が進学して、就職して、
そして自分もリリアンを去ったあと
私はあの方のファンでいられるのかしら
お互い、いえあの方は私のことなど認識していらっしゃらないでしょうけれど
新しい生活に引き裂かれて離れ離れになって
あの方のことを忘れてしまう日が来るのかしら
この想いも冷めてしまう日が来るのかしら
それはとても悲しいことですわ寂しいことですわ
冷めてしまう想いなど、それは本物と呼べるのかしらね
ああいつまでもここにいられたら…時が止まってくれさえすれば…
48('A`):2005/09/24(土) 00:15:21 0
夢、と言うのは、こういう社会で何々をしたい、と社会に束縛される面があるとはいえ
まだ自由度がありますけれども、良縁に恵まれて結婚と言う事になりますと、最早ある種の
強迫観念の如く、自分を縛る事にもなりかねませんわね。
夢は自分が勝手に思っていた、としてまだ諦めの方向に持って行く事も出来ますし、それを
見直す事も出来ますけれども、結婚、と言うものは必ず成就しなくてはいけないもの、という
認識がありますし、また現状においては社会的なコンセンサスもあるでしょう。
それをその通りに出来れば宜しいのでしょうけれども・・・上手くいかなかった時は
沈み込んだり、反社会的行動を取ってしまう事もありますわ。
特に不安定なこの時期ですから、もっと他人のサポートが得られると良いと考えるのですけどね。

今まではトントン拍子に進学して来たのだけれども、初めて此処で自身にこの先の進路を
問われる事になりますわ。すると、右に倣い進学する者、モラトリアムに浸りたいが為に進学する者等
それが本当に進むべき道か、と考察する事も無く進路を決めてしまう事もあるでしょう。
そこでもっとオープンに進路の悩みを話し、聞く事が出来る雰囲気作りや、不明瞭な
(そして広告だらけの)進路の像を明確にして行く必要があると思うのですけれど・・・今は
それらは自己責任で行わなければいけませんよね。
うーん・・・・。
49('A`):2005/09/24(土) 00:16:15 0
ファンで居る、という事は果たして永続性を持つのか疑問ですわね。
極端な例を挙げれば、その人が死んでもファンで居られるのか。
でも、それはその人のファンである自分を固定化して保存する、とも言えるのかも知れませんわね。
死せばそれはそのままの姿で神格化される事が多いですものね。
寧ろ離れ離れになった方が、ファンという気持ちが薄れそうですわ。
離れ離れになった時、その新環境への適応という溶媒の増加に対し、ファンである自分と言う溶質が
薄められてしまう、と言った現象ですわね。
その時、ファンと言う自分が別の器に入っていれば、薄まる事もないのでしょうね。
言わば慣習と化している事が要求されるのかしら。
慣習と言っても、対外的なアイデンティティを保つ為の慣習であれば、それは環境が変わった時に
共に変わってしまうのでしょうね。
でも・・・慣習化していなければ保たれないその「ファン」には疑問が浮かびますわね。
醒める事がファンで無いとすれば、醒めない様努力しなくてはいけないと思いますけれども、それは
ファンと言えるのでしょうか。
それだと手段が目的化していると言えますし、実はファンとして活動する事よりも、ファンと言う
肩書きの維持に必死になっているだけの様な気がしますわ。
結局はファンである自分を捨てたくないだけ、変化への恐怖や失望に過ぎないのでしょうか。
モラトリアムを得る為に進学する様に、自分もまたファンである事を辞めたくないだけ、その変化を
認めたくないだけなのでしょうか。
醒めるのが人の適応に拠るもので、故にそのファンである自分に熱されたのも、所詮は適応の結果、という・・・。
御免なさい。私にももう少し考える時間を下さい・・・。
50('A`):2005/09/25(日) 07:19:24 0
「ファン」というものは、その存続に何を要求するのかを考えて行きましょう。
まずファンを認識する人物、ここでは私としますわね。
それとファンの対象となるもの、これを祐巳さんと致しましょう。
そしてそれらの間に何らかの関連が存在し、その関連のある部分を「ファン」の
要件と定義しますわね。
そこでは私がファンを行うもの、祐巳さんがファンを行われるもの、と言う事が出来ますわ。
次にどの様な関連をファンと呼ぶかに就いてですけれども、その人の良心に基づき、ファンの
対象者に好意的な言動を示し、またその事により自分が対象者に好意的に見られる事を望む、
その一連の活動と定義しましょう。

この時に、ファンが破綻する条件と、その事による私への影響に就いて考えて行きたいと
思います。
51('A`):2005/09/26(月) 06:34:55 0
ファンと言う活動の根本にある物はなんなのでしょうか。
私はそれが「欲求」だと考えますわ。
食欲、睡眠欲と言った様な欲求と同じく、それを実行し快楽を得る手順がファン活動に
限定されている欲求。
それがファンと言う物だと言えるでしょうね。
そしてその欲求が発現しなくなった状態が、ファンが破綻する引き金となるのでしょう。

では何故その状態へ遷移するとファンが破綻するのでしょうか。
それはファン状態を維持する為には、ファンの欲求が連続して現れなければいけない
からだと考えますわ。
ですがある欲求が永続しないように、そのファンの欲求もまた永続しませんわ。
ですからその欲求とは異なる欲求を生み出し、その欲求に「ファン」というラベルを貼り、
あたかも「ファン」が連続性を持っているかの様に振舞わせるのですわ。
具体的には私が祐巳さんのお役に立ちたい、と言うファンの欲求があるとしますわね。
そしてその欲求が満たされるか若しくは挫折したとしましょう。
このまま欲求が萎んでいき、更に別の欲求も発現しなければ、ファンと言う状態自体が
破綻してしまいますわ。
そこで新たな欲求を生み出し(例えば祐巳さんとデートしたいなど)、その欲求を
ファン維持の為の「ファンの欲求」と定義し、そこにファンの連続性を見出す。
言わば「ファン」と言ったバトンを欲求から欲求へと受け渡す、と言う所でしょうか。
これがファンを継続させる基本なのでしょうね。

そして何時しか様々な物が「ファン活動」の範疇に含められていくのでしょう。
「祐巳さん」と言う接頭語を付けると全てファン活動になる、なんていう認識を固定化
させてしまえば、あらゆる活動が「ファン」を維持する助けとなるでしょうからね。
祐巳さんの絵を描こう。
祐巳さんの献立を創造して料理を作ろう。
などなど。
52('A`):2005/09/26(月) 06:35:49 0
では何故ファン活動には連続性が要求されるのでしょうか。
例えばファンを継続させる事が出来ずに途中で中断してしまった場合、その一連の流れでは
無くなった「ファン」は程度が低いとされますわ。
一度ファンを止めたのに、またファンに戻ってくるなんて本当のファンじゃないわ!と
言ったものですわね。
欲求と言う観点から見ますと、これは複数の欲求に対し「ファン」ラベルを受け継いでいかなければ
ならず、決して効率は良くありませんわ。
けれども社会性と言う概念が持ち出された時には、そこに欲求の効率を持ち出しても排除される
だけなのでしょう。
社会性を重んじ、欲求を社会性の為に犠牲にする事が出来るか否かが人の淘汰に関係して来たの
ですから。

ですが今度は社会性から抜け出す事が出来なくなった様に感じられますわ。
継続してファンを行わなければ、対外的にも対内的にも「私が祐巳さんのファンである」と言う事が
認められずに自己同一性を損なってしまいますからね。
そして社会性に縛られるが故に、ファンの連続性を絶つ事ができず、私は困惑する事になりますわ。
そこには「絶ってはいけない」と言う幾分社会的な暗黙の了解がありますからね。

その時、それらを受け止めた自己と言う物がどう反応するかは個人差がありますけれども、
どう反応すれば良いか、という定石は無いのが現状ですわ。
こればっかりは個々のよりベターと感じる方向に進むしかなさそうね。
53('A`):2005/09/28(水) 02:22:09 0
ごきげんよう

一人の方へ一途な思いを貫くのも
複数の方を渡り歩くのも
どちらも優劣がつけられるものではないのでしょうね
一途な方から見れば移り気な方は
想いが不純で上辺だけの浅はかな方に見えましょうけど
それはまだその方が本当に愛すべき方に
めぐり合っていないが故の不幸な迷走とも取れますし、
その意味では可哀想な方といえるかもしれません
また恋多き方から見ればお一人に執着なさある方は
人の心の自然なありようを無視して
執着することに価値を見出し、
結局純粋な思いからファンを続けているのではない哀れな方に見えるかもしれませんし

どちらにも理があることですから、難しいことですわ

ちなみに私は一人の薔薇さまを私にとっての絶対的なスタアとして認識して
ファンを自認しておりますが、
他の山百合会の方々もそれぞれすばらしい面をお持ちですし、
触れ合う機会があれば喜んでそれを活用させていただいております
…よく言えば中庸ですけど、かの薔薇さまにとっても
他の山百合会の方々にとっても
不実といえば不実ですわね…
ああ、でも私の求め崇める美しく誇り高い魂はけして
一人の方のみに存在するわけではないのですから…
ああ言い訳ですわね罪深き子羊をお許しくださいマリアさま…
54('A`):2005/09/29(木) 00:36:14 0
それぞれの立場の言い分があり、また客観的に見たメリットデメリットも
あると言う事ね。
けれど複数の方々を好きになるのは、別に攻められる様な事じゃないと思いますわ。
攻める方もいらっしゃると思いますけれども、その一つの見方のみに固執した主張に
余り深く囚われる事も御座いませんわ。
それにそれを不実として考え込む事も、それを改善して行こうとする現れですもの。
頭の痛い事柄に目を向ける事がどうして罪になりましょうか。
寧ろそれを注視せずに、ずっと誤魔化し続ける方が不逞でしょう。

さて、質問と見当外れな考察宜しいかしら。
>>美しく誇り高い魂
とありますけれども、結局の所、貴女がどの様な「魂」をお求めになっておられるのかを
教えて頂けませんか。

私が思うに己が、自分より高位であると位置付ける者に対して求めるものは「神聖さ」では
ないでしょうか。
ここで「神聖」とは、何か良く分からないのだけれども完全性を保ち、ただ「神聖」と言う
言葉のみで表せるもの、と定義しますわね。
ここで神聖という至高のものに、完全性が求められるのは当然と考えますわ。
また良く分からないと言う不確定性に就きましては、その理由として、神聖の
構成要件として様々なものを言葉的に挙げる事が出来れば、その構成物に対し反論される
可能性が出現し、全体としての完全性が損なわれてしまう事が挙げられるでしょうね。

この様な「神聖さ」を求めるのだとすれば、何ゆえ「神聖」でなくてはならないのでしょうか。
また「神聖」を求める理由は何なのでしょうか。
55('A`):2005/09/29(木) 00:39:10 0
今、私たちがファンとしてその対象者に求めるものを、完全性と仮定致しましょう。
事実、対象者には何かしらの完全性を求めている筈ですわ。
ですが対象者に完全性を求める時、最早言葉の組み合わせである評価(優しい、綺麗、素敵等)
ではそれを得る事が出来ないと考えますわ。
そこで、完全性は神聖さと言う言葉に置き換わる事になります。
「完全」と言った時に、それをいきなり信じる事は難しいでしょうね。
しかし、神聖と完全の間に「何か良く分からないけど凄い」と言うステップを置いているのであれば、
(そのステップを信じる必要がありますが)それを信じる事は完全を信じる事より容易いと考えます。
これは(神は“とにかく”私達を見守ってくださる、と言う言葉の様に)ドグマと呼べそうですが、
自己はそれを必要としてるのではないでしょうか。

自己は、己を安定させるもの(ここではファンの対象者)を求めているのだけれども、言葉で
言い表す事が、求める基準から考えると非常に難しいと思いますわ。
だから、神聖を用いて、そしてそれを信じる事で、自己を安定させられる。

完全はあり得ないけれども、完全を求める。
その矛盾を埋めるのに「神聖」と言う言葉が必要となってきます。
自己を安定へと導くオピニオンリーダーとしての、自己の中に置かれた規律、軌範といった
イデオロギーの体現者としての「神聖な対象者」が存在する。
それをこの目で確認する事が出来れば、翻って私と言う(それを神聖と思う)ものが安定系で
あると確認できるのではないでしょうか。

それを得る事に腐心しているとも言えますわね。
ファン活動と言ったものは。
56('A`):2005/09/29(木) 00:40:13 0
それと、複数人想い人が居る事は、一途に想う事のリスクというものが無い、即ち分散処理に
近いと言えるのではないでしょうか。
ですが、仮に想い人の一人が貴女にとってデメリットになったとして、貴女は
その人を嫌いになれますか?と言う問いを突きつけられる可能性が複数に分散しているとも
言えたりするのかしら。
言葉は悪いですが、不安の元凶が複数ある、とも。。

と言った所で中の人が臨界点に達してしまった様なので御機嫌よう。
57('A`):2005/09/30(金) 02:01:03 0
>>54さま

私の求める美しく誇り高い魂というのは
平たく言ってしまうとその方のすばらしい長所みたいなものですわ
そのすばらしい魂の前には自然に頭が下がり
賛美の気持ちが湧いてくるような良き心の、人としての在り様…

聖さまで言えば栞さんを愛した時のような情熱
祐巳さんで言えばいつも変わることの無い素朴さ、普通さ、虚栄の無さ
由乃さんで言えば令さまに依存しすぎることの無いよう自分を戒める自律心
祥子さまで言えば常に自らに妥協を許さない厳しさと強さ
令さまで言えば常に堂々とした凛々しさ
乃梨子さんで言えば良い意味で冷静な落ち着きと知性
蓉子さまで言えば調和の取れた完全さ
江利子さまで言えばキレイな額と髪の生え際…

その魂に対しては確かに相手の方を高位と認め
神聖な存在として敬っているといえますわね
確かに>>55さまがおっしゃるように
所詮厳密には人間に完全は存在しませんけれど、
その一部に関して言えばほとんど完全と言ってもよいような美徳
それこそが私の求める美しく誇り高い魂のようですわね
そして少しでもそれに近づきたいという想い、憧れが
私をあの方達のファンたらしめているのでしょうね

有難う、あなたのおかげで自分の想いをより深く自覚することができましたわ
議論というのは、人の意見というのはありがたいものですわね
それにしても私は恋多き女ですわね…我ながら将来が心配ですわ……
58('A`):2005/09/30(金) 02:03:04 0
ところで私にとっての一番の人、かけがえの無いスタアは
今のロサギガンティア、その名も麗しき志摩子さんなのですけど
私が志摩子さんのファンでいるのは
ただすばらしい魂をお持ちであるというからだけではないということに
ここまで思い巡らせて初めて気がつきましたわ

確かに志摩子さんは美しく気品があり
高貴で凛々しくそれでいて愛らしく優しい方ですけれど、
私が志摩子さんに抱いている特別な感情は
尊敬とか崇拝といった高位の存在に対するものだけではなく、
傲慢かもしれませんが脆さ儚さゆえの守って差し上げたくなるような
愛おしさがあるのですわ

志摩子さんが抱える悩み、
知らず知らずに周囲との間に作ってしまった壁、
常に抑制することを強いられた心、
それはとりもなおさず私の悩みでもあって、
だから志摩子さんの苦しみは誰よりもよくわかるのです
そして悩みに負けまいと健気に美しく立っている志摩子さん
だから誰よりも守ってあげたい、優しくして差し上げたいと
心から想うのです

これこそが私にとって志摩子さんが
他の誰とも比べられない特別な存在である理由
私にとっては必ずしも神聖さだけが
ファンをさせていただく理由では無いのかもしれません

このように例えファンをさせていただいている方に
欠けている所があっても私は特に拘りませんわ
人は現実の存在であるがゆえに、
一つの理想である完全さは達成することができるわけがありませんし、
器の小さい発想ですけれど
自分と同じ欠点などがあるとますます親近感が湧いてしまう物ですから…

これ以上私の心の卑しさを晒すのは恥ですわね
今宵はひとまず、ごきげんよう
59('A`):2005/09/30(金) 23:48:10 0
そうね。御免なさいな。
少々強引過ぎたようね。
一寸神聖の方向に倒錯して、ファンと言うものの本質を疎かにしてしまったみたい。

神聖がイコール高位、即ちその個人が定義する様々な上位属性を含みうる、は
良いにしても、ファンの要素が全てその個人の上位属性で構成されている、とは
限りませんものね。

>>必ずしも神聖さだけが
>>ファンをさせていただく理由では無いのかもしれません

>>58様が言う様に、神聖と言う自己を見守り救ってくれるような要素等は
確かにファンの構成要素となりえますが、人を惹き付けるのは何も
そういったカリスマ性だけではないものね。
「弱さ」と言ったものもまた人を惹き付ける要因となりますわ。

ファン⊃神聖さ

と言う事かしら。
これを前述の例に当てはめれば、「自己に似た弱さを持つ」者と親密にする
事により、翻って自己を保護(安定化)する効果と「自己に似た者」を保護する効果が
あり一石二鳥と言えますわね。
若しくは「自己の保護要素を刺激する」者と親密になろうとする、とも言えますわね。
これは上記の効果と、(その個人内に形成されている)倫理的環境や、また保護すべき
者、例えば自分の子供など、が持つ要素をその保護対象者も持つ事により、錯覚して
保護している、と言う可能性も否定できませんわね。
60('A`):2005/09/30(金) 23:49:00 0
これらの「守りたくなる」要素に「神聖さ」の様な素敵な部分、所謂上位属性
が付属すれば、それはファンの対象になりうるのでしょうね。
上位属性が無ければ、愛玩動物のような、所謂「可愛い」という評価に
なるのでしょうね。

そういう風に、私の模範としてもありうるし、また自己と同化させたり、保護なども
出来る者、そんな方がファンの対象として最適(寧ろそれが絶対条件?)なのでしょう。

更に、相手が上位属性を持つ=相手の方が能力的に高位置にある(これはファン状態による
能力の重み係数のインフレ等もありましょうが)、と判断出来るため、自己は自分の時間資源
などを削ってでも、相手に尽くす事にもなりうるのでしょう。

神聖さ等、そういった上位属性による安定性も求めるし、そして自己と言う(かなり独自な、レアな)
系の情報を持つ(と判断する)事により、親近感も湧きますわ。
これは自己と言うものの内に存在する情報を安定化させ、以って自己個体の安全を守る事を図る、
と言った様なミームの淘汰の影響を減らすと言う(自分の子を可愛がる遺伝的理由にも似た)事に
起因するのでしょうが、それはさて置き、自己系の情報に似た情報を持つであろうと考えられ、
更に自己より高位な上位属性も持っているのであれば、それはファン活動を行う事が有利(自己に
とっても)だろうし、それを崇める事も必然的なのかもしれませんわね。
そして、それは自己に於いて高い重要度を占めうる(えてして自分よりも!)のでしょう。
61('A`):2005/10/01(土) 00:03:15 0
・・・それとこれは突っ込み所なのかしら。

>>江利子さまで言えばキレイな額と髪の生え際…

何か他の山百合会メンバーとの差異を感じるのだけれども・・・。
これは私の気にし過ぎなのかしら。
御免なさいね、神経質で。

それと、

>>それにしても私は恋多き女ですわね…我ながら将来が心配ですわ……

との事ですが、確かに「ファン」は「恋する」に置換が可能でしょうね。
これは構成要素が似ているからなのか、恋する事をファンと置き換えた
事に由来するのかは分かりませんけれども、それよりもお聞きしたい事が
あるのですが宜しいでしょうか?

あのお気に触ったら申し訳無いのですけれど・・・
貴女はその・・・ヘテロセクシャルではなかったりするのですか?
その・・・恋と言う表記が気になったものですから・・・。
いえ御免なさい。これも私の神経質な故ですわ。
失礼をお許し下さいな。
62('A`):2005/10/02(日) 03:59:41 0
>>59さま

>これを前述の例に当てはめれば、「自己に似た弱さを持つ」者と親密にする
>事により、翻って自己を保護(安定化)する効果と「自己に似た者」を保護する効果が
>あり一石二鳥と言えますわね。

というのはまさしく私の志摩子さんに対する想いの一面ですわね
ただ私はいつも想うのです
結局のところこの想いは自己愛の投影に過ぎず
本当に志摩子さんを愛しているというわけではないのかもしれない
むしろ自分の弱さをごまかすために、
志摩子さんを利用しているだけなのではないでしょうか?
そう思うと自分がとても卑しく愚かな生き物に見えてくるのです……
結局私は自分の弱さを認めて向き合うこともできず
自分をごまかしつづけているだけではないのかしら
現に志摩子さんに乃梨子さんという妹ができた時、
そしてマリア祭で秘密を告白された時、
祝福すると同時に寂しさ、疎外感、拒絶を感じてしまいましたわ
本当に好きならその人の幸せを祈れるはずなのに、
私は心のどこかで志摩子さんに以前のままでいて欲しいと願っていたのですわ……ああ…

ところで江利子さまに関してですけれど、
確かに半分はそうやって指摘していただけるかと内心ちょっと楽しみでしたわ
でも半分は本当に江利子さまの中に私が求める誇り高い魂を
見出すことが最後までできなかったせいでもありますの
決して江利子さまにそれが無かったと言いたいわけではありませんの
ただ江利子さまに関してはあまりにもその人となりなどの情報が少なすぎて
私の中ではっきりとしたイメージが浮かばない方なのですわ
一般的にはタイの結び方は学園一美しく、何でもクールにそつなくこなす方という評で
私もそれは確かにそうだと想いますけれど……
江利子さまとはどのようなお方なのか、もしご存知でしたら教えてくださいませ
63('A`):2005/10/02(日) 04:13:32 0
ただ江利子さまの額と生え際の美しさは紛れも無い真実だと想いますわ
あの滑らかで優雅でどこかドキドキしてしまうような額の曲面と
形の良い生え際の調和は
まさしく芸術だといえますわ……私って体の変なところでドキドキしてしまう癖があるのですわね……

ドキドキといえば私は「恋」という表現を使いましたが
確かにファンをやらせていただいている方たち、
特に志摩子さんのことを思い描くと
頭の中が桜色に染まって柔らかな光に満ちて
ドキドキして胸の中に幸せな高鳴りを覚えますわ……ああ志摩子さん……
この感情を男の人に抱いたら、それは恋と呼ぶのかもしれません
けれど私は今まで異性の方とそれほど深く関わったことが無いので、
正直いわゆる恋心というものを正確には知りませんから……
ですからその……ヘ、ヘテロセクシャル……かどうかも、…
その…よくわかりませんわ……
ああでも同性しか愛せないなんて、マリアさまはお許し下さらないでしょうね……
以前お見かけした花寺の生徒会の方々に対しては
特に何の感慨も抱きませんでしたけど……
ああ、でも新しい生徒会長さん、祐巳さんの弟さんでしたっけ
あの方は少し印象に残っております、本当に祐巳さんに良く似ていましたから、驚いてしまって……
……これは恋心とは言いませんわね
64('A`):2005/10/02(日) 04:22:59 0
昔の僧侶の方などは同性ばかりの環境ですから
お稚児さんのように同性を愛してしまうこともあったようですけれど…
そういえばリリアンも一部の先生方以外は女性のみの環境、
そういう方は意外と多いのかしら……自覚していないだけで
>>61さまは……自分がどちらなのかご存知ですの?
65('A`):2005/10/02(日) 17:05:53 0
それら行動が「自己の弱さに起因する」とされていて、更に「弱さはいけない」と
される事の源流は何処なのでしょうか。
この事は、自己の安定に背いている様に感じられますわ。

これも極論してしまえば、集団倫理、秩序と言った個々の安定を多少犠牲にしても
守らなければいけない社会性、とも言えるんじゃないかしら。
それは守らなければ、守っている時よりも、自己の被害が大きいと考えられますものね。

そしてその社会性の伝達として、幼き頃の「人には優しく」とか、
「強い子だから泣いちゃ駄目」などの社会性一般教育として、受け継ぐんじゃないかしら。
多少世襲的ですけれども、反抗期、としてそれに反発する機会もありますわ。
ただ、親の教育的行動の反対の行動に靡くだけ、とも言えますけれども。

また以上の事柄は、「社交性のあるソルジャーを育成する」為の社会的要求としてある、
とも言えるんじゃないかしら。
それは所謂「弱くないソルジャー」の方々に、社会が有利に働く事からも推察出来うる
かも知れませんわ。
そして、少数の文民がそれをコントロールすると言った側面がある事を否めないのでは
ないでしょうか。
その中で、「弱い者」は上位に組み込まれない様、また優秀なソルジャーと区別する為に
色々なレッテル(社会不適合や、精神薄弱者など・・・?まあ昨今は鬱が多少社会的地位を
得始めましたが)を貼られかねませんわ。
ただ辛い位置は何も「弱いソルジャー」のみでは無く、「弱い文民」もまた社会的に
居辛い場所へと隔離されてしまいますわ。
一体どれだけの無職ドクターが居る事でしょうか。
以上を鑑みますと、少子化という淘汰は時代の流れなのかも知れませんわね。
66('A`):2005/10/02(日) 17:06:28 0
話を元に戻しましょう。
結局の所、上記より弱さは避けるべきなのでしょう。
そして弱さとは、社会的に認められ難い可能性を持ちうる行動全般を指すのでしょう。
>>志摩子さんを利用する、と言った下手をすれば村八分にされかねない行動も、そう
言えると思います。
ですがそれが何故自己に起因すると考えるのか、はまだ明確ではありませんわね。
倫理感に譲歩する事により、以って自己の利益となす、つまり自己が不利益を被らない様に
事前・事後に行動を評価し、そこから行動を改定する、という可能性が高そうですが、
その時「果て、そもそもこの行動は弱さなのか」と考える、弱さの基準と言ったものが
問題になりそうですわ。

そもそも、その行動は客観的に見て「利用」に適合するのかどうか。
それを履き違える事により、寧ろ自分の首を絞めてしまう事があるんじゃないかしら。

それを善しとする社会という概念、またそこに住んでいる人は皆そのレベル
を求められていると言う人間像、それらの意識が貴女の中に巣食っており、
もしそれが客観との差異を含むものであった場合、それは貴女の首を絞めかねない、と
言った所でしょうか。

その基準は本当に最適化されたものであるのか。
この事を再考する事も必要なんじゃないかしら。

しかし、それは貴女の中で揺ぎ無い「正」であり、その基盤が無ければ自己という存在を
確立出来ない、とも言えましょうね。
ですが、再考すると言う事も、その人の安定と言う面では必要なのではないでしょうか。
常にそれが正確とは限りませんから。
67('A`):2005/10/02(日) 17:07:16 0
例えば、インターネットで使われるドメイン名(仮に"www.example.jp"と言った文字列とします)
はIPアドレス(仮に"192.168.0.1"と言った数列とします)に関連付けられていて、この関連付けを
制御しているDNSサーバと言ったコンピュータがあります。
私たちがブラウザで、"www.example.jp"にアクセスしようとした時、DNSサーバに問い合わせて
"192.168.0.1"と言うIPアドレスを返してもらい、それを用いてアクセスしています。
この時、問い合わせたDNSサーバは、"www.example.jp"="192.168.0.1"と言う関連付けを
キャッシュ(保存)します。
そして、もう一度"www.example.jp"に対する問い合わせがあった場合、即キャッシュを
返します。

これは効率化の為の機能ですが、当然その関連付けは変わる可能性があります。
そこで、キャッシュには生存時間が決められております。
その時間を超過したキャッシュは無効となり、DNSサーバは新たに関連付けを検索します。
こうしてキャッシュは最新のものへと置き換えられます。

以上の様に、インターネットの仕組みとして、人がそこにはオートポイエーシス的機能を
求めるのに、自己には要求しないと言うのは可笑しいと考えられませんでしょうか。

自己内の情報の固定化、特に流動的情報分野の流動がパターン化し、それ以外の
パターンのインプットを排除する。
これではその固定的情報に不備があった場合、その煽りをずっと受け続けなくてはなりませんわ。
前述の例で言えば、ずっとそのドメインにアクセス出来ない事になってしまいます。

上記の理由により、
>>本当に好きならその人の幸せを祈れるはずなのに
この時の「本当に好き」と言う事の必要条件に、「その人の幸せを祈る」と言う事を
挙げておられますけれども、その条件と言うのは何処から齎されたものなのかを再考
して見るのも宜しいのではないか、と再編成を薦めさせて頂きましょうか。
68('A`):2005/10/02(日) 17:07:17 0
このスレッドの言語は難解すぎる!
69('A`):2005/10/02(日) 17:09:59 0
>>68
申し訳ありませんわ。
難解にしようとしている訳ではないのですけれども・・・。
何にせよ、ご意見有難う御座います。
反映出来る様努力させて頂きますわ。


・・・所で江利子様についてですが、「凸」様と表記されている事があるの
ですけれども、これはどういった意味なのかしら。
「トツ」様・・・?
果てさて、私には何の事だかさっぱりですわ。
70('A`):2005/10/02(日) 17:11:17 0
>>この感情を男の人に抱いたら、それは恋と呼ぶのかもしれません
それを恋と呼びうると貴女が考えるのであれば、それはその気があるのかも
知れませんわ。
以上の事を男性に感じるのが所謂ヘテロセクシュアルなのですから、
女性に感じたとすれば、バイ、若しくはホモセクシュアルの可能性が・・・。

若し、これから男性にも感じる事があれば、バイセクシュアル、
感じる事が無ければ、ホモセクシュアル・・・?

あ、ご、御免なさい。一人で勝手に話を進めてしまいましたわ。
貴女の重大な問題なのに・・・一寸興奮しちゃって・・・。

あ・・・それと、
>>自分がどちらなのかご存知ですの?
これは・・その・・・
まだ確信は得られてないのですけれども・・・・
わ、私は多分・・・そっちの気が・・多分ですけれども・・・あると思います・・・・。

え、えっと・・・・
今まで議論して来たのに、こういう事を気にした事がありませんでしたね・・あはは・・・。
え、と・・・。


そ、その・・。
よ、宜しければ、き、今日は一緒に帰宅しませんか?
あ、あの・・・家が近くだったらですけれど・・・・。( (*´Д`)ハァハァ
71('A`):2005/10/02(日) 17:12:07 0
それと、
>>それほど深く
この件について詳細を希望致しても宜しいでしょうか。
72('A`):2005/10/04(火) 02:52:36 0
こんな時間ですけれど、ごきげんよう

>>69さま
凸様というのは江利子さまの愛称の一つですわ
江利子さまの美しく艶やかですらあるその額、お凸に由来する…
私もときどき使わせていただいておりますわ

>>65さま
ああ、あなたの意見は私の呪縛を一つ解いてくれましたわ
確かに何故私はかくも「弱さ」を軽蔑し
自分から遠ざけようとしていたか、
考えたこともありませんでしたわ
それは物心ついたときからの
私の行動原理の一つでしたから
そう知らず知らずのうちに刷り込まれていた呪縛

それで思い巡らせてみました
何故私は「弱さ」、
私の場合でしたら周囲との壁を作って自分の殻に閉じこもってしまう弱さ、
その現実を直視せず志摩子さんを使って正当化しようとする弱さ、
それらを何故嫌悪するのか
それは多分、誰にも弱みを見せたくないからですわ
弱みを見たら攻めずにはいられない、
それこそが人間の醜い本性なのだから、少なくとも私はそう信じているから
そんな人間の中で生きていくために私が選んだ、
選ばざるを得なかった道が「弱さ」を徹底的に自分から無くす道なのですわ
なんて歪んだ悪意に満ちた人間観でしょう、
自分で自分が恐ろしくなりますわ…

余談ですが祐巳さまの妹候補の松平瞳子、
彼女はいつも明るく元気に見えますけど
実のところ私に近い人間観の持ち主ではないかと想うことがありますわ
学園祭前の演劇部の練習での一件などを耳にしますと…
73('A`):2005/10/04(火) 02:53:23 0
話を戻しますと、
でも「弱さ」それ自体を無くすことはどうしてもできなくて、
それでも「弱さ」の存在は常に意識の隅にあって、
だから人と触れ合えば自分の「弱さ」を晒してしまうのではないかと
私はいつも恐れていて、
だから他人を遠ざけていつも心は孤独でいっぱいで
それはあたかも以前の聖さまのように
「だから私は黙り込む、誰も私に触れるな、私のことなど忘れてしまえ!」

でも志摩子さんに私と同じ「弱さ」を見つけたことで
私はとても救われました
一人じゃないんだって自分を慰めることができたのです…
それはただ気持ちいいだけの心の罠だと解っていても、
私はそうせずにはいられませんでした
ただ苦しみから逃れたい一心で彼女を崇め、求め続けたのですわ


さて>>65-66さまの仰るように
私の中の思い込み、固定観念といった呪縛が何であるのかは
自覚することができたのですけれど、
確かに>>66さまの仰るように
それまでゆるぎない「正」だったものがなくなってしまうと、
一体私は何に頼って自分を支えればよいのでしょう
所詮呪縛ではありましたけれど
それを土台に私という楼閣は建っていたのですわ
土台を失った私はこれからどのように生きてどのように人と接すればよいのでしょうね…
74('A`):2005/10/04(火) 03:01:17 0
>>70さま
こんな私の顔で良いのなら…いつでもご一緒させて頂きますわ
いつも一人だった私ですから
なにぶん人との話し方を知らないふつつかものですけど……それでも良ければ…
ああ、これが普通の友人と過ごす学園生活なのでしょうね…
もうとうに諦めた融けあう夢を、少しでも見ることができるのでしょうか、マリア様……

>>71さま
正直に申し上げます
見栄ですわ
それほどどころか全く関わったことなどありませんわ
物心ついてからずっとリリアンですし、
それに男性は女性よりも攻撃的ですから、
いつも弱みを攻められまいと身構えていた私が
関わるはずもございませんわ
75('A`):2005/10/04(火) 03:02:50 0
それでは>>70さま、
放課後マリア様の前でお待ちしておりますわ…ごきげんよう
76('A`):2005/10/05(水) 00:08:46 0
ごきげんよう、>>75様。
何時からお待ちでしたの?
随分と待たせて無ければ良いのだけど・・・。

>>72
お凸様ですか・・・。
けれど、凸には侮蔑的な意味合いもありますからご本人の前では、とても
使用できませんわね。

さてと>>72様の仰る要点を纏めますと、

「弱さ」は周囲の攻撃を誘う危険性があるので、そう取られる様な行動を
周囲に示してはいけない。
しかし、「弱さ」を無くす事は出来ない。
以上を踏まえて、自分から「弱さ」が滲み出るリスク回避の為、周囲と
距離を置く事にした。
しかし、孤独と言う別の問題が生じた。
だけど、「弱い」のは私だけではなく、憧れの志摩子さんにも同様の「弱さ」を
認める事が出来た。
そこから、自己と似た行動様式を、憧れの人が示す安心感が生まれる。
それが根本の解決にならない事は分かっていても、その安心感に浸っていたい・・・。

こういう感じになるかしら。
相変わらず猪突猛進な文章ですから、間違っていたら申し訳無いのですけれども。
77('A`):2005/10/05(水) 00:09:58 0
この時、志摩子さんに自分と同様の弱さを感じ取る事が出来た、自分と似た弱さを
持っていると認識したのであれば、「周囲と距離を置く」以外の弱さの克服方法を
志摩子さんから見出せるんじゃないかしら。

まあ何であれ、その修正を行う期間「土台を失う」事が問題視されるべきでしょうね。
ではこの問題を解決するにはどうしたら宜しいのでしょうか?
私は「弱さ」克服に、その事の再考を進めましたけれども、この問題を解決しない事には
不可能でしょうしね。

まず再考を行う場合、それを再構築する過程という不安定な期間が存在し、また構築の
最終形態も不明瞭ですわ。
これでは、再考しようという発想が実行される事は無いでしょうね。
それは明らかにリスクの方が大きい様に考えられますものね。

そこで議論と言う物が一つ挙げられるんじゃないかしら。
議論であれば、自己内の構築を崩さずに、考えのみを出力、そして濃縮して行き、
最終的にそれを「良い」考えだと判断出来れば、それを適用する。
そうすれば移行期間は短い物となり、そのリスクも抑えられるでしょうね。

ただ、それは傷つき難い分有利ではありますけれども、相手方の意思に支配される面が
ある事も忘れない様にしないといけませんわね。

それを加味し、考慮した上で、議論を構成する事が出来れば、上手く行くと考えますわ。
78('A`):2005/10/05(水) 00:11:09 0
ここで、この土台作成の議論に、志摩子さんにも間接的に、主に観察の結果、私達が胸に
抱いた思いとしてですけれども、参加して頂く事にすれば宜しいんじゃないかしら。
そして、納得が行くまで議論すれば良いと思いますわ。
その議論そのものが楽しく、また結論としても上出来であればこの上無いですわね。
まあそんなに上手く行くとは限りませんけれどもね。

それと、志摩子さんがどう考えるか、どう考えているのかを、志摩子さんの弱さが露になった
時の行動から計慮して、それを骨組みとするのは、貴女に於いて有益になると考えたのだけれども、
これはお節介だったかしら。
この辺りの方針は、貴女に決めて貰う事に致しますわね。
79('A`):2005/10/05(水) 00:11:55 0
>>ああ、これが普通の友人と過ごす学園生活なのでしょうね

どうなのでしょうかね。
私も学園生活は孤独でしたから、言い表し様が無いのですけれども、
私が「普通」かどうかは貴女の判断に委ねますわ。
それで貴女の気分がよろしくなるのでしたらね。

えっと・・・取り合えずどちらの方角へ足を進めれば宜しいのかしら。
貴女のお家の方角はどちらなの?
80('A`):2005/10/06(木) 21:50:29 0
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ
送受信送受信送受信送受信送受信送受信送受信送受信
送受信送受信送受信∧_ ∧送受信送受信送受信送受信送受信
送受信送受信ウェェェェ(´;ω;`;)ェェン!!送受信受信拒否送受信送受信
送受信送受信   | ̄ ̄||_)__送受信送受信送受信送受信
送受信送受信 /旦|――||/ //| 送受信送受信送受信送受信
送受信送受信 | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| |送受信送受信送受信送受信
送受信送受信 |_____|三|/ 送受信送受信送受信送受信
送受信送受信送受信送受信送受信送受信送受信送受信
送受信送受信送受信送受信送受信送受信送受信送受信
81('A`):2005/10/06(木) 22:20:56 0
そもそも、

電気刺激(発案に当たる)
↓ コンバート
言葉
↓ 組み立て
論理的文章
↓ アウトプット
掲示板
↓ インプット
電気刺激(視覚情報)
↓ 関連付けられた言葉を検索
言葉
↓ 読み解く・組み立て
論理的文章
↓ 自己内データベースとその文章を掛け合わせ考察
電気刺激(感情の発現)

という一連の流れがあるとして、これが最終的に元々の電気刺激を復元出来るか
と言えば、それは不可能でしょうね。
まずハードウェアとソフトウェア(回路)の構造が違いますわ。
更に言葉の関連付けも個々で異なりますものね。
82('A`):2005/10/06(木) 22:21:34 0
まず、その内的な電気刺激を外部に表そうとして、言葉にコンバートします。
その時点で多少の誤差が出てくるでしょう。
何故なら、言葉という社会的に定義された別の情報系に置き換えなければ
ならないのにも係わらず、それは電気刺激全てを網羅するものではありませんからね。
ですが、独自の系の伝達方法では他個体に伝わりませんわ。
ですから、例え情報が劣化しようとも、電気刺激をそれに対応すると思われる現存の
類似の言葉に置き換えなければならないのですわ。

そして、伝わった別の個体の「インプット→言葉にコンバート」の流れとしても、
その個体はその文章の論理性から訴えを類推しなければなりませんからね。
そこでも、元の刺激との誤差が生じるでしょう。
83('A`):2005/10/06(木) 22:22:05 0
こうした一連のプロトコルが定められ、何千年も経った今でも、それは通信に於ける
パリティも無ければ、完全性も保障されない不完全と言わざるを得ないものですわ。
ただ、不完全であると言う事がここまで続くと言う事は、それは必要性が無い故に
発展が無かったのだろうと考えられますから、現状で十分人という種族レベルの行動は
保持されていると言う事なのでしょう。
でも不便ですよね…。


と言う訳でこれしかありませんわ!!

__________________   _______________
|テレパス-ダyo!|   |テレパスィ-...|
~~V~~~~~~~~~~~   ~~V~~~~~~~~
  。<<< ピピピ >>>。
  /           ∧
[・Д・]         (-Д-)
84('A`):2005/10/07(金) 02:15:21 0
ごめんなさい>>79さま
最近課外活動で忙しくて…
今私は何度目かの、ささやかな人生の分かれ道
いえ迷い道に入り込もうとしておりまして…
ああシスターを目指す志摩子さんのように迷い無く進めればよいのでしょうけれど、
私はこのように弱い人間ですから…

そういえば志摩子さんは自らの抱える問題を乃梨子さんを妹にすることで解決されましたが
そのことと関連するのかはわかりませんけれど
最近志摩子さんはシスターになることに迷いが生じているらしいですわね
志摩子さんの心を推し量ることはできませんけど
人は葛藤から自由になることは永遠にできないのかもしれませんわね

一つの悩みが終わったら別のそれまで何とも無かったことに
悩むようになったりして、
それはあたかも人の欲に限りが無いごとく
私達は常に自分を改善したいという欲望に捕われているのから
悩みは尽きないのかもしれませんわね

悩みとの戯れの果てに何があるのか、
志摩子さんが示して下さることを期待してみたりもいたしますけど…
いいえ、志摩子さんはもう充分私に教えてくださいましたわね
これ以上は私が自分で考えるべきでしょうね
志摩子さんに依存して利用するだけの関係はもう終りにしなくては

さて>>79さま、私の住まいはM駅から電車で小一時間ほどですわ
とりあえず駅へ参りましょうか…
85('A`):2005/10/07(金) 07:35:04 0
>>84
あらあら。
お忙しい所をお相手してくださっていたのね。
そうとは気付かずに・・・御免なさいな。
こんな風に気が利かないから私は孤独なのですわね・・・。
ううん。今は貴女が居ますものね。

>>今私は何度目かの、ささやかな人生の分かれ道

ご苦労を察しますわ。
これは素直に応援すべきでしょうね。
頑張ってくださいな。

ですけれど、以下の様な懸念も御座いますの。
ただ、お忙しい様なので、以下は聞き流してくださいな。
まあ、忙しくなかろうとも目にする価値があるとは言い難いですけどね。
あくまで私見に過ぎませんから。

まず、「人生の分かれ道」と言った考えが、貴女の中にどの様に形成されたのか。
また、それの現状との適合度を思慮した妥当性はどの程度か。
そして、もし道の選択を失敗した状態になればそれはどの様な弊害を引き起こすのか。

それらを考えて、と言うよりは、そういう客観的な視点を頭の片隅に置いて頂きたいのですわ。

それをしくじった、と「思い込」み、更にもう駄目だと「思い込」む事により、
本来行かなくてもいい所まで、自分を落とす(落ちたと思い込む)事になる。
そうなれば、不必要な苦労までする事になりかねませんわ。

例えば修士として、博士課程に進むか就職をするかと言う二者択一(と考えられる)状況に
置かれたとして、そこで「その道に進む人が少なかった」という事実を、まるで全ての終焉の様に
「思い込」む事が御座いません事を願っております。
その様な事で、ご自分の人生を悲観されない様にね。
86('A`):2005/10/07(金) 07:36:15 0
案外人は屈強でしぶとい・・・と言うよりは、元々道なんて曖昧で無い様なものですから。
そんな不透明な目の前に、私達より前に生きた人々が、漠然と骨格の様なものを作ったのだ
とも言えましょう。
その道と言う概念は、例え大まかな基本的部分は変える事が出来ない(変える事での社会不適合性が
極端なデメリットとなる)としても、それは細部に於いて自己レベルでも改善が可能なものだと
考えますわ。

ですが、その道に乗れない事を拒否する姿勢もまた、(幾分それに従属的に従う事が皮肉られるとしても)
社会性を持ちたる人の適確な行動なのでしょう。
既存の人の行動システムがあるとして、それは適当であるが故に、今人の行動システムとして機能して
いるのですから。
勿論そのシステムは、個体差がありましょうし、環境的要因によっても変化しうるものでしょうけどね。
故に独自にカスタマイズ出来るのでしょう。
ならば、余り自分に不都合なものに変える事は推奨されませんわよね。

何度も何度もしつこくはありますが、要するに余り悲観なさらないで、という所に収まるかしら。

ただ、道が無い事に苦しむ事もあれば、ある事に苦しむ事もある、と言うのは事実ですわね。
土台がカチカチで融通が効かないのも、緩々過ぎてすぐ流されてしまうのもいけないと言う事かしら。
貴女の言う「中庸」という事でしょうかね。

まあ何であれ、良き結果を待ち望んでおりますわ。
87('A`):2005/10/07(金) 07:37:08 0
>>私達は常に自分を改善したいという欲望に捕われている

これは至極真っ当にその通りなのでしょうね。
論理性と社会性から鑑みるに、そういう方向に欲求をコントロールすべきだ、そして
それらのある割合は公共の福祉に還元されるべきだ、という情報が流布されている様に
感じられますわ。
そして、それは従うに値する情報だと。
ただ、欲求をその様に「昇華」出来なかったとしても、自己にも欲望にも別段問題点は
無いと考えますわ。
「昇華」でない、という一点を除いては、ね。
例え「昇華」出来なくとも、それは多数分散している「私に適応すべき情報群」の
見込みの一つに過ぎませんし、
>>悩みとの戯れの果てに何があるのか
の様に、改善等の自己変容の繰り返しの先に何があるのか、という事が主題になるべきですわね。

ただ、最終的な「先」とすれば、死生観が付いて回るのは避けられないでしょうから、
言及は一般にし辛いのですわよね・・・というのは私の頭が固いのかしら。
先を見れば、そこには道があり、最後には闇へと繋がっている、という固定観念に由来する
それ、と果て=最終地点とするそれ、の相乗作用としての頭の固さなのでしょうね。
ここでの果て、とはこういう事(悩みとの戯れ)を続ける事の意味合いを求める上での
強調、風刺、アイロニーとして作用するのかしら・・・。

これの回答と言ったものは、各個がそれぞれ追い求め、ある位置に安定(年と共に徐々に)
する傾向のあるものですから、これは各々が文献等を漁り、それぞれの最良を見出すしか
ないのかしらね。
こういう所に関しては、道が定められていませんものね。
ですから色んな派閥や混乱が出てくるのも尤もなのでしょうし、定めれば猶の事混乱、反発が
出てしまうものなのでしょう。

ここは、お互い頑張りましょう、位にとどめておきましょうかね。
88('A`):2005/10/07(金) 07:37:57 0
>>さて>>79さま、私の住まいはM駅から電車で小一時間ほどですわ
>>とりあえず駅へ参りましょうか…

(え・・・これはもしかしたら誘われているのかしら・・・(*´Д`)ハァハァ
何も聞かずに行き成り「駅へ参りましょう」だなんて・・・
結構積極的なのね。

>>志摩子さんに依存して利用するだけの関係はもう終りにしなくては

これは今度は「私に依存」するという意味だったりして・・・
なんてね・・・ふふふ・・・・。)

え、ええ
参りましょうか。
89('A`):2005/10/08(土) 03:45:50 0
>>88さま、
申し訳ありませんが私事情で
三日ほどこちらに顔を出すことができなくなりそうですの
無礼なお願いとは存じますけれど、どうかそれまで此処を保守して頂けませんか
必ず戻って参りますから
この私の大切な巣なのですから
だからどうか…
90('A`):2005/10/08(土) 08:48:55 0
>>89
相分かりましたわ。
>>この私の大切な巣なのですから
こう言って頂けるのが嬉しいですわ。
それではお気を付けて行ってらっしゃいませ。
91('A`):2005/10/09(日) 07:06:07 0
さてと・・・じゃあ少し息を抜きましょうか。

あら、ここで中の人からのお便りが届いておりますわ。
えーと・・・
「リリアンでは生物や歴史の授業から進化論が導き出せると思います。
(根拠→高等学校学習指導要領)
ですが、聖書では創造論が説かれています。
この辺りの矛盾をリリアンの学生さん達は如何お考えなのでしょうか。」

ではこの件について三日にわたってお送り致したいと思いますわ。
ご期待下さいませ。
(以上は都合により変更される場合が御座います。悪しからずご了承ください。)
92延期のお知らせ:2005/10/09(日) 22:07:14 0
予定しておりました文章に就きましては、野球延長により延期される事となりました。
何卒ご了承下さいます様お願い申し上げます。
尚文章に就きましては、随時CGIに送信させて頂く所存で御座います。
93('A`):2005/10/10(月) 02:04:19 0
はい、皆様御機嫌よう。
自作自演の時間がやってまいりましたわ。
今回の題目は「進化論と創造論の矛盾」に就いてですわ。
これは私達リリアンの生徒にとって、ただ諦観している訳にもいかない、常に付き纏いうる
問題ですわね。
勿論私共だけではなく、科学を基とする社会と、その社会で神を敬う宗教という信条をお持ちの
方々には同じく問題となりうる事柄だと思いますわ。

さて、まず手始めに、そもそもこれら二つの理論は同一の土台に位置するのか、と言った点が
注視されるべきでしょうかね。
理論として、異なるパラダイムであるのに、それを比較するのは、その比較者の定量化のアルゴリズムに
全く依存しますからね。
それでは比較、などという行為自体が愚かだと考えられますわ。
まあ、その定量化アルゴリズムをオープンにし、客観性を基に複数人で評価・構築を繰り返せば、
多数の人に受け入れられるであろうアルゴリズムの生成は出来るかも知れませんが、しかしそれとて
絶対では無いでしょうね。
万人に受け入れられる理論があろうものなら、そもそもこの様な不毛な争い(その理論から見て)は行う
必要性がありませんからね。
(ただ、基盤として、元々人は全てを受け入れる事が可能でしょうね。けれども、席は有限なんですよね。
容量としても、入力効率としても、生存時間としても、とても全ては入りきらないでしょう。
だからこそ、自我が確立しうると考えられるのですけれどもね。自己内の情報に依存するという・・・。)

第一、これら二つの理論は、各々思想の基礎となる、言わば人の思想インフラの構築に寄与するものだと
考えられますから、これを比較し、選択するのは「法律の方が良いんだ。いや、倫理の方が良いんだ。」の
様に、比較し得ないものを比較しどちらが良いかを思い悩んでいる姿を彷彿とさせますわ。
結局の所、「レセプタの様に先に入り込んだ者勝ち」といった「互いは相反する」という考え自体が、
的を射ていないのではないでしょうか。
その考えは、あくまで「効率化の為の先入観」というレッテル張りに過ぎないと。
94('A`):2005/10/10(月) 02:06:04 0
では、その(幾分操作されているやも知れない)先入観の先に、どの様な理論を提唱する事が出来るのでしょうか。
また、その理論は独り善がりのものになってしまわないでしょうか。
これは各個間の内部情報の差異が(当然)ありますから、多少その人のオリジナリティとなるのは仕方の無い事なの
でしょうが、これら二つの理論は社会的コンセンサスを得ている事を鑑みますと、多少なりとも、他個体に
受け入れられる(理解できる)事が可能だろうと考えますわ。
(対比として、自己内の表出という哲学が挙げられると思います。別段、どちらが良いという積もりは、毛頭ありません
けれども、その独自に定義した文章を論理的に著したそれは、読み手の(ある程度パブリックな)言葉の定義から
元々の意を復元するには少々難解になる、若しくは復元不可で、読み手のデコードに依存した結果が出力されて
しまいがちですわ。故に、その読解によっても派閥が作られがちですわね。
聖書は、神学部神学科という教育機関を設ける事により、それらをある程度回避しているようですけれども。
ただ、既に作られているカトリック、プロテスタントetc...といった聖書を基とするツリー構造は、
その概念を内に持ち、外部に勢力としてアピールする人々が居る限りは、そこに存在し続けるのでしょう。
可不可は別にしてね。まあ、それで争いが無く、それぞれが神の救いを受けられれば、本来それで十分なのでしょうけど、
そこは各教団上位が生物的に「安定」した安心できる場所である故に、その既得権は放せないのでしょう。
態々、日本から猛獣の居るサバンナに移住するという事は少ないでしょうからね。)
95('A`):2005/10/10(月) 02:08:21 0
まあ、前提とする言葉遊びはさて置き・・・。
進化論と創造論は以下の様な理論付けも可能でしょう。

まず、地球誕生より、原始のプール→アミノ酸→RNA→DNAといった過程を経て、私達の設計図となる基礎が
出来上がったと仮定しましょう。
特にこれらの過程に固執する目的はここではありませんので、適当に補完して頂くとして、ここより、進化論的に
淘汰され、進化の過程でより良い遺伝子が残っていったとします。
そして現在までそのシステムは続き、結果として人という大脳皮質の発達した生命体が誕生に至りました。
そこでは、人は遺伝子の頸木にあり、その進化論のシステム内に組み込まれています。
これを進化論の大綱と致しまして、以って進化論システムと致します。
ここでは、遺伝子と、対する淘汰によって、試行錯誤的ではありますが、徐々に合理化が図られて行きます。
(人自体は、試行錯誤は行動の上ではなく、脳内のシュミレーションとして行う必要がありますけどね。
行動→淘汰と言った遺伝子的やり方(ハード的)と、行動に於ける死亡等のリスクを避ける為、脳内でシュミレートする
人的やり方(ソフト的)と言った所でしょうか。)

そして、仮定の一つとして、この進化論システムを作成し、またサポートする、という立場に於いて、それを神が創造した、
と言う事が出来るでしょう。
これを創造論とします。
ここで、「神」と呼ばれるそれは、ビッグバン〜終焉まで、これらを設計・設定・監視し、また時には遺伝子プール内に
遺伝子を追加するなどの進化論システムの補助を行ったりします。
その目的に就きましては、ここでは言及する必要がないので端折りますけれども、結果として、進化論システム
(と其処に位置する人)は、円満に機能し、また其処には創造論があり得るでしょう。

ただ結局、以上は比較的定義の変更が可能な創造論の方を、進化論の下地として、少々整形しただけですけれども、
これもまた、一つの在り方として、そこに在り得るでしょう。


・・・と、分かり辛いコンテキスト構造で申し訳有りませんが、
以上の文章より、貴女方のインスピレーションのお手伝いを出来るならば、幸いですわ。
96('A`):2005/10/11(火) 03:36:43 0
はい、皆様御機嫌よう。
自己レスの時間がやってまいりましたわ。

>>93
>>定量化アルゴリズム〜〜

確かに、定量化して単一の単位上で比較すれば、単純な大小関係等で処理する事が出来ますが、
それら細部の処理結果を総合する時は、その重み付けが問題となるでしょう。
また、定量化が難しい、または、定量化がそれを行う人の内的情報量・質等に依存するのは確かですけれども、
まず第一に、定量化というプロセスを経ずに、両者を何らかの形で比較する事が多いんじゃないかと
思いますわ。
幾分定性的と言えるでしょうか。
ただ、これはその人の内的情報への依存がより大きくなりますから、結論付けは早いのでしょうが、
>>レッテル張り
となる事は否めないでしょうね。

故に、先入観をまず無くしてから、その両者を眺めた時に見えてくる世界を、真としようと試みるのは
多少理に適っているとは思いますわ。
ですが、そこから「両者を統合」する事が、何故出て来るのかが疑問ですわね。
「レッテル張り」より抜け出した時に、その二者を問題提起として与えられた場合、それが「統合」に向かう
事が必然と言う訳でも無いでしょうから。
ただ、先入観を無くす事で、評価の為の(幾分重み付けが不当なまでに偏り、イデオロギーやアジテーションに
右顧左眄されがちな)情報を無くす事にも繋がりましょうから、比較が困難になりうるのでしょうね。
だから、比較の道は捨て、統合に向かったのだと。
流石に
>>「法律の方が良いんだ。いや、倫理の方が良いんだ。」〜〜
という比較批判のみでは、パンチが弱いでしょうね。
97('A`):2005/10/11(火) 03:38:03 0
>>万人に受け入れられる〜〜
これは、万人に受け入れられる理論だからと言って、実際に万人に受け入れられるかは別問題ですわ。
また、その理論があったとして、その事により二者の争いが絶えると言う理由も無いんじゃない?

バッシングついでに、もう一つ指摘しておこうかしら。
両者を比較し、優越を付ける事自体が盲目的で、真で無い、と仰り、「比較」などの為に、
>>多数の人に受け入れられるであろうアルゴリズム
を作成したとしても、「比較」自体が真で無いのだから、結果として全体が真で無い理論となる、と
主張する貴女は、そのままこの言葉を返されかねないでしょうね。

>>しかしそれとて絶対では無いでしょうね。


>>(ただ、基盤として〜〜

ここでの「全て」とは、無限に近くある、言葉の組み合わせ(理論)の事を言うのかしら。
元々、人はその居住環境に最適化された(そして言葉に比重を置く)ハードですから、入力されたもの全てを
受け入れられるとは考え難いものね。
それこそ、全てが入りうるのであれば、「神の器」とも言えましょう。
まあその為(全てが入れば神になりうるが、しかし、容量、入力効率、生存時間等と言った制限がある)に、
輪廻転生を繰り返し、叡智を蓄積し、神に近づく、と言う理論も提唱されうるのでしょうけど。
それを貴女の意見に当てはめれば、その理論が入り込む人も居れば、容量が一杯で入らない人も居る、
また、既存の情報とのアレルギーを引き起こす事もある、となりましょうか。
それら固有の情報蓄積を「自我」(特に、最後のアレルギー行為なんかは、他者から見て、その個体に自我がある、と
再認識する閾値が低いでしょう)と呼ぶ、と。
98('A`):2005/10/11(火) 03:39:10 0
>>94
>>これは各個間の〜〜

受け入れられる為には、その元々の社会的コンセンサスに便乗する必要があるとすると、受け入れられる理論を作成する為に、
ビクビクしながら、周りの目を窺いながら理論を組み立てて行く事になるんじゃないかしら。
それは果たしてオリジナリティ、なのか、単に複数の既存の言葉を組み合わせただけ(そして時にそれに著作権を主張する!!)
なのか疑問ですわね。

>>(対比として〜〜
確かに、哲学は「個体内のみに通用する理論」と言われる程、社会的コンセンサスとは遠い距離にある様に思われますわ。
ですが、それを著して、それが社会に受け入れられた後はどうでしょうか。
それは社会的コンセンサスを得られている、とは言えないかしら。

まあでも、「〜〜哲学」と、看板は一緒でも、実態は各個のデコードによりますから、
各個間の差異がありますし、しかも、「読解による派閥」内であってもこの差異はあり得るものですわ。
この点に於いて、それらはオリジナリティと呼べるのでしょうね。
そしてそれは、上述の「自我」としてのオリジナリティなのでしょう。

ここから、自己の唯一性と言う、個体と言う「自我」と、その自我が用いる情報の看板である、
言葉で表された「概念」は別々に分けた方が効率が良さそうだと考えますわ。
自我は各個間で、絶対的に異なりますけれども、概念は、その自我間に於いて、便宜を図る為に用いる
(通念上の)「共通の物差し」なのですから。
その物差しに、自我内の情報を関連付ける。
だから、外部の表現としては、一致して見える訳ですわ。
内部が異なろうともね。
99('A`):2005/10/11(火) 03:42:42 0
所謂カトリック、というのも大まかな概念として、物差しとしてあり、落とし込めば、
聖書を云々〜、という人々の集合体として成り立つでしょう。
だから、その人達が居て、また、そうだと主張する時、更に、そう「レッテルを貼られ」ている時にも
それは在るのでしょうね。

>>そこは各教団上位が

権力はえてして、飢餓等に遠い場所に位置しますものね。
では、現状の私、というのも既得権であり、故に死地に赴こうとはしない。
だけれども、現状が利益足り得ない時は、自殺しうる・・・という理論もアリなのかしら。
なんてね。



>>95
これは、創造論と進化論を掛け合わせる為の、一つの仮定として描いた理論ですから、どうこう言う事も
ないでしょうね。

ただ、この世界を説明するものとして、進化論と創造論、これ以外の概念があったとすれば、新たにそれとの
統合を思考してみるのも面白そうですわね。
100('A`):2005/10/11(火) 03:53:44 O
ゲヘへ
101('A`):2005/10/11(火) 04:04:17 0
>>100
おめでとう御座いますわ。
102('A`):2005/10/12(水) 01:35:40 0
>>90さま

私が帰ってくる間保守して下さった事、心より感謝いたしますわ
この数日、私はとある友人と気分転換の旅行に行ってまいりましたの…
旅ではいろいろな事を学び考えましたけれど、
一つ心に決めたこと、それは

こんな想いをするくらいなら 二度と他人を求めたりしない

ということですわ
旅とは常に予想のつかないことの連続
それらに対して常に決断を迫られる
そしてそこには常に意見の対立の萌芽があるということ

そううまり、私の数少ないお友達と信じていたその方と
あまりにも私の考え方が違いすぎるという事が明らかになったのです
たびたび起きる意見の対立にいつしかお互い疲れ果て
気分転換の目的が全く果たせぬまま、虚しく旅は終わりましたの

今まで私が友情と信じていた、いえ信じようとしていたものは
形だけの偽物に過ぎず、
そのメッキははがれて醜い地金を晒したのですわ
所詮私達の関係は友情を演じていただけのもの
だからお互いそれが壊れるのを恐れるあまり
意見の対立に真剣に向き合ってこなかった
それが一つの限界だったのでしょうね

本当の友情というのは美しいばかりの物ではなく
醜い部分を晒して共有してこそ
本物となるのでしょうね
志摩子さんと乃梨子さんを見ているとつくづくそう想いますわ
どなたでしたっけ志摩子さんと祐巳さんの関係は
つながりが穏やか過ぎて面白くないと仰っていたのは
今ならその理由がなんとなくわかりますわ
それはあのお二人はお互いの心の闇を知る機会が無かったからではないでしょうか
それゆえにどうしても表層的な関係に見えてしまう…

>>90さまは私と一緒に帰宅したいと仰ってくださいましたけど、
はたしていつまで私達の関係は美しいものでいられるのかしら?
そう思うと私は不安でなりません
何か、そう確実な証を立てることはできませんでしょうか?
それが無理ならせめてこの美しい現在を永遠にすることはできないでしょうか?

(そう、多分>>90さまが以前仰っていたように
物事は終わることでその存在を永遠に変わることの無いものに
することができるというのは恐らく真実
そう、今私に出来るのはこの美しい現在を永遠に変える事

私はそれを静かに そして永遠に眠らせることにした

聖さまと栞さんができなかったことを、
今私達がやり遂げてみせますわ…ふふふふふ、ふふふ、あっはは)
ふふふははは

ごめんなさい>>90さま、驚かせてしまいましたか?
私の家までは電車で小一時間ほどですけれど、
今日はもう少しご一緒させてくださいませんか…
電車に乗って、できる限り遠くへ参りましょう、誰にも邪魔されないくらい遠くに
そこで一緒にお薬……いえなんでもありませんわ
大丈夫、貯金をおろしますから、電車代は心配しないで下さいね
103('A`):2005/10/12(水) 05:30:46 0
>>102
お帰りなさいませ。
少々お疲れの様ですが、大丈夫でしょうか。
・・・そう、ご友人とですか・・。
余り気を落とさずに・・・。
うーん、そうですわね・・・。


まず、友人と言うものが作成される過程と、その必要性、また定義に就いて考えてみましょうか。

友人の基本的概念を以下と致しましょう。
身近に居る者と、相互利益関係を築く事の利益が、そうでない時より多いのであれば、それを
築く事が自己(そして恐らく相手にも)有利になる故、それを構築しようと試みる。
しかし、それが足かせ、デメリット等になるのであれば、また、後にデメリットの方が
多いであろうと(一方的に)判断される場合は、その関係を遮断しようと試みる。

それと、定義に就いてですが、大抵「友人関係」という状況は、社会的に定義されている事が多いですわ。
「友人を作ろう」の様な教育的スローガンを掲げる際に、その意味合いが、各社会構成員間に伝達されている
必要がありますものね。

ですから、それを学習して、実行している「友人作成を試みる社会構成員」は、その通りに行っている間、
特に不満は抱きませんが、それとは異なる現状に対した場合、戸惑い、また、人によりデメリットを感じ、
それが「友人関係」の定義に当てはまらないものだと考えた場合、その友人関係は終わりを迎えましょう
(終わりの時もまた、その人の気質に依存しますけどね。)。

また、友人であってもなくても、社会一般に用意されている「社交用の会話群」の中以外から、会話を起こすのは、
双方がその会話を承認していない限りは、常に排他されうる危険性を持つものだと考えますわ。
「友人作成の手順」以外の手順で「友人関係」が生成され難い様に、社会では、不用意な発言をした場合、
社会構成員としての要素が欠損している、として排他されかねない危険性が付き纏います(刑法等にも
規定されていますしね。)。
しかも、その「排他」状態が、鶴の一声で起こりうるのがまた、この社会のヒエラルキーを大きくしているのでは
ないでしょうか。
筆頭株主の様に、明文化された権限を持ちうる訳ではないのですけれども、その場を持って行く
(幾分生物的な)能力がある者の行動ですわね。
それは、明文化されていないが故に、その行使が特に問題となる事もなく、ただその力の向かう「社会を乱す者」への
制裁のみが待つ事でしょう。
そういう社会的規制無き行動、それは幾分生物的なレベルの事柄であって、どうこう言おうが、長いもの(強いもの)には
巻かれた方が、危険を冒さない分有利、だと言う事になろうかしら。
104('A`):2005/10/12(水) 05:32:38 0
そうね、こういう感じかしら。
その会話を起こしたものは、時にはその「第一審判者」によって、落とし込まれる事が多々あります。
その審判者が流れをまた「社交用の会話群」に戻そうとする事もあれば、それを非難し、
その事を根拠に人間的ランクを一つ落とそうと行動するものもいます。
そして、それはえてして社会性レベル(悪い人、駄目な人等)でも、生物性レベル(弱者、下等生物等)どちらでも
落とし込まれる事になります。
以上の裁量が、その場の「第一審判者」に任されています。

これは、生物的に見て、適していない遺伝子を残さない様にする手段なのでしょう。
それが社会を構築する生物の、人にも残っている、と考えるのが妥当なのかしら。


さてと、友人の事に話を戻しまして、そもそも友人を作成する尺度というものが、個々に備わっておらず、
社会性に全てを委ねる、委託する必要があるのが問題になるのかしら。
まず、相手の力量を量ると言うアルゴリズムは、人では余り発達していない様に思います。
相手の力を履き違えようと、捕食されたりする事がありませんからね(多少痛い目は見ましょうが)。
ですが、故に「友人」という概念を作り、その中身を制定したとして、それが各個間に、
その通りに適用される筈も無く(「友人」と、言葉は共用ですが、自己内では異なりますから)、
その擦れの範囲によって、友人関係の破棄に納得が行く者と行かない者とに分かれたりしますし、
こういう事柄は、例え民事で争って和解しようとも、弁護士が法を基にどうこう言おうとも、
納得できないものなのでしょう。

逆に、友人と非友人を分けてしまう作用により、異なる個体に対して余所余所しくなる(これは相手の素性が
分からない以上、適した行動だとも言えますが)傾向もありましょう。

友人ではないから〜〜、というフレーズが用いられるそれですわね。
105('A`):2005/10/12(水) 05:34:12 0
以上、短絡的ではありますが、社会に形作られた「友人」に就いてでしたけれども、当然それ以外にも、
友人に似た行動を示す間柄はありますわ。
同一の遺伝子を共有しているかも知れない血縁関係なんかはその例でしょう。
しかし、それ以外の者達と常に争っていたのでは、リスクが大きいですわ。
ですから、様々な規定と罰則を設け、社会生活を営むようになったのでしょう。
そこでは、争う事はメリットになる(と称される)活動(経済、政治等)に限定され、
普段は異なる者同士がスペースを共有(社会を設ける事で、そこまで個体数が増加する事が出来た)しなくてはいけない。
そこで、血縁関係をモチーフに、「友人関係」や、「社交関係」などの諸々を制定し、イデオロギーが
生まれたのでしょう。

ですが、それら間柄が、「友人関係」等に限定されている筈でも、それは希望論に過ぎず、
幾分利己的な人間達は、互いの利益の為相反するものなのでしょうかね。
106('A`):2005/10/12(水) 05:35:13 0
お薬?
お医者様依存になってしまうので、処方して貰いに行く事は余り無いのですけれども、鬱な時はそれを和らげる方法として、
芳香、音楽、食品、薬品等色々御座いますわ。
残念ながら、余りお医者様に掛からないので、お薬の事は良く分からないのですが、食品の方でしたらセントジョーンズワート、
亜鉛、EPAなどが宜しいかと思います。

(えーと、えーと、・・・ベンゾジアゼピン系だと・・致死量が多いから、多量に服用しないといけないし・・・
気付かれる可能性も大きいから・・・。
でも、バルビツール酸系は今じゃ殆ど出回って無い筈だし・・・。
いやでも、処方される薬だけとは限らないかな・・・。
・・・殺虫剤とか・・?
でも、人としての威厳から、それらは余り用いられないだろうし・・・。
そもそも、こっそり混入するだけとは限らないから・・。
私に同意を求める・・・?
ああもう・・・・。

疑って掛かっちゃいけないのだろうけれども・・・。
でも、もしもの事があって、それを止められずに相手に後遺障害を残すなんて事があっちゃいけないし・・・。
嗚呼・・私はどうすれば・・・・。)

あ、あら、そういう事じゃないのかしら・・。
あはは・・・御免なさいね。

えっと・・・、
取り敢えず参りましょうか・・・・。
107('A`):2005/10/13(木) 00:00:26 0
ねえ>>106さま、
あなたもやはり出逢いと別れはセットで
別れるのを恐れて関わりをもたないなんて味気ないと
想うタイプかしら?

確かにそれは理屈の上では正しいのでしょうけれど、
感情の上では別れなんてこなければいい、
ずっとずっとこのままでいたいって
誰しも想うものでしょう?

これは子供の理屈でしょうけれど
それゆえに人の根源的な感情でもありましょう?
大好きな人とは別れたくない
いつまでも美しいままの関係でいたい

ああでも確かに美しいまま保存するために
それ以上の関係の変質を避けるために
あえて別れを選択するという道もありえますわね
先代の薔薇様がたは卒業後も以前と変わらない
仲のよさでいらっしゃるみたいですけれど、
よほどのことがないかぎりそれは何時までも変わらない
美しい関係が一つの永遠として保存されているのですわね

それでも私は不安なのです
例えそういう形で永遠をてにいれたとしても
それは所詮は仮初の永遠
絶対確実なものではありませんから
ましてやその関係の半分を構成するのが
この不安定な私であれば猶の事

それを解決するためには、一般論、
あくまで一般論ですけれど
時には無様な生よりも美しい死が必要だとは想いませんこと?
老人の死に価値などありませんが
若い私達が友情のために選ぶ死、それはすばらしいものだとは想い……あら、私ったら
ごめんなさいちょっと興奮してあらぬことを言ってしまいましたわ
お恥ずかしい…
108('A`):2005/10/13(木) 01:59:05 0
>>107
そうですわね・・・。
寧ろ私と致しましては、

何らかの外部刺激により、内部の「関係データベース」の更新を余儀なくされる(更新しない事は、
行動の最適化に影響を及ぼす)、として、その時、その関係の変化の結果を考慮し、「悲観」の
モジュールを走らせる事自体、何故必要なのか分からない節がありますから・・・。


確かに、関係を断ち切れば、その後、関係の劣化を観測して、「関係データベース」に泥を塗る様な
トランザクションが出現する、という事もありませんからね。

ですが、そのデータベース自体が、ある程度用いられていなければ、劣化し、また、データを読み取る事や、
アクセスする事が出来なくなるのかも知れません。
また、例え関係が既に亡き者となっているとしても、自己がそのDBに上書きしてしまう事だってありえますわ。
この点確かに
>>仮初の永遠
ですわね。

恐らく貴女は、上記の言葉をこの様な意味で用いている訳じゃないのでしょうけれど。
これはあくまで一例であって、もう少し大局的な意味合いを持つのでしょうね。

例えば、「関係データベース」の関係に関する記録と、現状の関係が一致している(まだ関係は存続している、
もう関係は存続していない、どちらも一方の値を取る時。)場合、ここではどちらも「まだ関係は存続している」の
値を取るとしますが、そうとして、もしこれが続けば、それは貴女の言う“永遠”に値するのでしょうか。
値しないのでしょうね。
何故なら
>>絶対確実なものではありませんから
ね。
109('A`):2005/10/13(木) 02:00:42 0
ただ、上記のDB側の変数と、実際の関係と言う変数(どちらも同じboolean型)、その値によって、プライオリティが
変化するのは、事実としてありましょう。
二つの変数の値が異なる(現状を認識し、それをDBに適応しようとしない。現状を見定めるのに失敗した等)場合は、
まずプライオリティ云々ではなく、行動が周囲に適したものではない、と言う混乱が起きますからここでは省くとしますが、
「まだ関係は存続している」値を取る状況の方が、「もう関係は存続していない」値を取る時よりも、プライオリティは
高いでしょう。

「まだ関係は存続している」という事は、正しくそのDBの内容如何によって、行動(しかも幾分クリティカルな)を
決定付ける事となりましょうから(その関係関連の状況に於いては)、重視されるのは当然と言えましょうが、
「もう関係は存続していない」のであれば、それは使われなくなった骨董品、精々リポジトリとしてデータマートを
作成する、または思い出に浸る(この時、場合によっては上書きされうる。美化された思い出等)等のクリティカルとは
言えない用途に使用される程度(全く使用されない事すら)ですから、プライオリティは低くなりがちでしょう。


さてと、本題に入りましょうか。
果たして、「美しい死」を遂げた時に、その「美しさ」は何処に行くのでしょうか。
その永遠となるであろうデータは何処に格納されると言うのでしょうか。
以下仮説として・・・、
私達の脳以外に、見えない、不可視のDBがあると仮定します。
それには、私達の長年の経験が格納されています。
このDBは、勝手に「叡智」とか、「魂」などと置き換えても宜しいでしょう。
それは基本的に、こちらからデータを一方向に渡すだけであり、あちらからはデータを持ってくる事が原則出来ません。
ただ、例外もあって、それが所謂いたこさんだと致しましょう。
別段、FBIの超能力捜査官でも宜しいのですけどね。
で、そのDBは宇宙云々の原理とはまた別・・・なのか、ダークマター的存在なのかは分かりませんけれども、
兎に角、輪廻云々があるとすれば、その情報もここに格納されているのでしょう。

そうすれば、「美しい死」は、ここに永遠(かは分かりませんけれども)に記録されうるのでしょうか・・・。
そしてそれによって、その記録が「完全」に近づくのでしたら、それも悪くはありませんわね・・・・。
110('A`):2005/10/13(木) 02:01:39 0
・・・私もね、疲れたと言えばその通りなのですわ。
「私」というプロセスは、常に外部の刺激に備えて無くてはいけない、所謂デーモン(サーバと言った方が分かりやすいかしら)
プロセスですから。
安らぐのは停止している睡眠時か、若しくは私をロードするハードウェアの故障か何れかですもの。
はぁ・・・。
その癖「私」に与えられている権限はそう多くはないし、視覚的入力情報・・ううん、入力情報全般だって、大半が「私」には
伝えられませんから・・・。
プライオリティも小脳等の感情とかの割り込みで、直ぐ退避(しかも、復元されるとは限らない!!)される程低いものですから。
所詮、「私」はこの個体生存のプログラムに過ぎないのでしょうね・・・・。


そうね、「生きたい」「死にたくない」と言わざるを得ないのは、社会的なドグマもそうですが、何より
“生き長らえても、ただただ現状が続くだけですが、生き長らえなければ、もう貴女は生まれて来ませんよ。”と言う
誘導尋問に掛けられているからなのかしらね・・・。
111('A`):2005/10/13(木) 02:11:26 0
page.freett.com/yakinori/FMC4_sakuhin.htm
ぬっるrぽp・・・¥・\\\/。。
112('A`)
>>111
ガッ!
と言った所でお早う御座いますわ。
>>111は一寸動揺してて・・・。
はしたない所をお見せしてしまいましたわ。

でも、はしたないも何も、その時は正にそうだったのですから。
後々、それを見て、社会性より「はしたない」などと判断しようとも、
だから何だと言うのでしょうか・・・。
外部に表出し、それを目撃した、他の社会性を持っているであろう個体に弁解して、
社会性との擦れを取り繕い、また、同じ様に活動して行く為の「それ」。

はぁ・・・。
そうですわね・・・。
例えばこういう状況で、果たして「何が出来る?」とは言いますけれども、それ以前に
私達には「何か出来る」のでしょうか。
私なんぞはただの電子回路の一片ですし、それはまた、全くこの60兆程度の細胞によるものです・・
・・なんて・・・ふふふ、だからどうしたのでしょうね。
あはは、そんな事実と呼ばれるであろうと考える言葉を組み合わせて、そこに何か「説得力」の様な
ものを垣間見、それによって、自己の主張を押し通そうとし、また、通す事により、利益を得る、
というプロセスを体現して何を訴えようと言うのでしょう。
ふふふ、可笑しい・・・。
何時まで経っても「私」は「私」としてしか足り得ないのですね。
バカ正直に、「私」でしかないと言う・・・。
まあ、精々100年足らずの制御回路じゃそういうものなのかな。


・・何であれ、もう乗り掛かった舟なのですから、
後は、ブラックホールの様に、外部からは「黒」として観測しうるのだけれども、その実
全てが終わっていると言う、其処に向かって進むしかないわよね。
ふぅ・・・なんか、悩むのもバカらしくなってきたなあ・・・・。