俺の童貞理論を聴いてくれ その2

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4隊長@八玉子煩悩隊 ◆/kE0mQLT0k
例示
1.日本人は機会の均等と結果の均等を誤解している。非モテをつかまえてきて「あなたも恋愛できる」と言っている人は、学業不振者をつかまえてきて「あな
たも東京大学を受験できる」と言って努力を強いているようなものだ。自由恋愛とはモテるやつはますますモテ、モテナイやつはますますモテナイというスパ
イラルを表す言葉でしかない。つまり、機会の均等という意味では「非モテも恋愛できる」は正しいが、結果のという意味では「非モテも恋愛できる」は例外
はあるが大抵の場合間違っている。結果は不均等である。世間一般で言う自由恋愛とは「自由に相手を拒める」という意味でしか万人に妥当しない。
2.日本人は恋愛の価値を誤解している。恋愛は別になくても人生は成り立つものだし。競馬や読書、竹馬といった当事者以外にとっては取るに足らない、いく
らでも代替可能なものの一つに過ぎない。ところが、現実には恋愛について否定的なことを書くと「悲しいわ」なんて反応を返される。世間が恋愛の価値を誤
解している証左だ。
3.モテナイやつは一生モテないのだから、恋愛といういつまでたっても手に入れられないものを「手に入らない手に入らない」と苦しむよりは、ほかの楽しい
ことをやった方がいい。手に入らないものの事は忘れましょう。
4.「機会と結果の均等の誤解」「恋愛の価値の誤解」は非モテに苦しみとプレッシャー迫害を与えている。「結果として誰でもできるものだ」という誤解があ
るからできない自分から自信を奪い。「特別なものだ」という誤解があるから手に入れられないことを嘆く。世間に「結果として誰にでもできるもの」という
誤解があるから、恋愛社会から離脱した人間をつかまえて「フィギア萌え族」などと犯罪者予備群のごとく扱う迫害がまかり通る。
5.これら非モテを苦しめる誤解は恋愛というマーケティングに非常に都合がよいため、メインカルチャーでは是正されない。小売業界、飲食業界、広告業界、
自動車業界、製菓業界、服飾業界、映像業界、またそれらに原材料を供給している業界、流通業界etc一次産業から三次産業まであまりにもこの「恋愛マーケテ
ィング」に関わって商売しているところが多いのだ。彼らは誤解が解けては困るので、広告等を使ってかえってその誤解をあおるのだ。お客が一人でも減って
もらっては困るので「いや恋愛なんてなくていいでしょう」というわけにはいかないのだ。
6.非モテが現代市民として解放されるには、これら恋愛にまつわる誤解(恋愛教)を打倒しなければならない。
5隊長@八玉子煩悩隊 ◆/kE0mQLT0k :05/02/21 02:15:47

 この国において自由恋愛という概念は比較的新しいものです。
 それまでの世界というものは、突然「今日からこの人があなたのだんなです」みたいな感じで、家と家が結ぶ条約みたいな形で、本人の意向はお構いなく家
庭というものは作られていました。
 もちろん、相手がブサ面であろうが何であろうがお構いなしです。
 なぜなら、個人というものが経済的に「家」から独立しておらず、生殺与奪が握られていて拒否権が無いのです。
 武家は家柄、農家は土地、商家は暖簾、固定的な世襲の時代ですから「家」から放り出されたら生きていけないのです。
 ですから、社会から放り出されるのを覚悟でそこから脱しようとした人は例外的にいたかもしれませんが、たいていの人にとっては心中ものなどのフィクシ
ョンの世界だったわけです。
 そもそも、黒船、維新を経て明治時代になり外国から言葉や概念が大量に輸入されるまで、「愛」とか「個人」とかいう概念すらなかったのですから。(明
治期の偉大な学者が漢字を当てただけでちっとも日本人のものではない)
 日本人にとって恋愛は「あって当然」というものではないのです。むしろ無かったほうの歴史が圧倒的に長いのです。
 さて大戦後、高度成長期を経て日本史上かつてなかったほど豊になりました、工業化が進みその労働力を埋めるため人の居住移動は流動化し、労働力の要請
などから女性の社会進出も進みました。
 個人が豊かになり、経済的に「家」というバックボーンがなくても生きていける世の中になったのです。
 そうなると、自分の意にそぐわない事を家から押し付けられても拒否できる「自由」を持ったのです。
 別の言い方をすると、自分のパートナーは自分で決めれるということです。
 経済の独立という力添えを得て、明治に輸入された恋愛という概念は昭和の末に実体を結ぶのです。
 1970年代後半、恋愛結婚は見合い結婚を追い越します。(ま、そんな最近になるまで日本は伝統的価値観が生きていたということですが)
 さて、ここに誤謬があります。あえて放置された誤謬といったほうがよいでしょうか。
 繰り返しますが、自由に選べるということは、意にそぐわないことは拒否できるということです、「家」が家名存続のために無理やりにでもくっつけてくれ
た時代と違って、誰にも選ばれなければ、それでも誰も何とかしてくれないのです。
 自由に選べるのですから、モテるやつはますますモテ。
 意にそぐわない事を強制されないのですから、モテナイやつはよいよもってしてモテないのです。
 機会は均等でも結果はちっとも均等ではないのです。
 そんなことは「お前に言われなくともわかっている」と、ここで読者諸兄は思われるでしょう。
 では、わたしはそんな非モテの諸兄に問いたい、「なぜ、わかっていて得られない結果を望むのですか。そんなことして楽しいですか」
 あぶれるのです。必ずあぶれる人間はいるのです。
 何をどうしようと、雄として選ばれない人間は一生選ばれないのです。どうあっても。
6隊長@八玉子煩悩隊 ◆/kE0mQLT0k :05/02/21 02:17:50
 意にそぐわない事を強制されないのですから。
 ここが誤謬です。
 機会の均等をもってして「誰もが(自分も)恋愛の主体になれる」と勘違いしているのです。
 繰り返しますが、機会は均等でも結果はちっとも均等ではないのです。つまり、「均等」の意味において誤謬があるのです。(まぁ、これは恋愛に限らずい
ろんなことに当てはまりますが、ある意味「戦後平等社会」の病理です)
 非モテは一生非モテなのです。
 高い服を着ても、高いプレゼントを贈っても、高い車に乗っても非モテは非モテなのです。
 最初から雄として見られていないのですから、どうしようもないのです。
 女の人への一次接触をモテがやれば「スキンシップ」、非モテがやれば「セクハラ」もしくは「痴漢」「強姦」。女の人に熱意を持って好意を伝えることを
モテがやれば「情熱的な人」非モテがやれば「ストーカー」なのです。
 何をどうしようと無駄なものは無駄なのです。
 ところが勘違い誤謬は非モテを苦しめます。「誰もが(自分も)恋愛の主体になれるのに、どうして自分は恋愛関係をつくれないのか」やがて、「誰にでも
できて自分にできないのだから自分はダメなのではないか」と、自信すら奪っていきます。
 本来、その誤謬は誰かが正さなければならないものでしょう。
 恋愛ができないということは、竹馬ができないということと同程度の取るに足らないことだと。
 機会の均等という意味では「だれでも竹馬に乗れます」けれど、現代社会で結果として竹馬にのれる人は少数ですし、一般的な大人は竹馬にのれないからと
いって困ったり悩んだりしません。この世界には竹馬に代わる遊具はいくらでもあるのですから。
 恋愛も同じです。恋愛に代わる楽しみはこの世の中に無限にあります。
 金儲けもよし、読書もよし、テレビゲームもよし、睡眠もよし、美食もよし、競馬もよし、あまりの選択肢の多さにどれを選べばいいのかわからないほどに。
 恋愛なんて当事者以外にとって取るに足らない、いくらでも代わりのきくものの一つに過ぎないのです。できてもできなくてもいいものなのです。
 何だって恋愛ができないからといって、世の中から欠格者扱いを受けなければならないのでしょう。
 何だって恋愛ができないからといって、自己否定に陥るほど思い悩む人がいたりするのでしょう。
 竹馬に乗れないからといって、いじける大人がいるでしょうか。わたしはみたことがありません。
 つまり、恋愛の価値だけ不当に高くし、個人には恋愛というものがあって当然という、「意図的にばらまかれた誤謬」があるのです。
 わたしはそれを恋愛教と呼んでます。
 恋愛教はこの世界のいたるところにあります。
 歌謡曲、ドラマ、映画、新聞、広告、デパート、スーパー、百貨店、ホテル、外食、学校、職場・・・・・etc
7隊長@八玉子煩悩隊 ◆/kE0mQLT0k :05/02/21 02:18:30
 歌謡曲やドラマは恋愛を賛歌し、クリスマスのきれいなイルミネーションを施された街の情景をテレビや新聞が全国に流します、デパートやスーパーなどは
セールを行い、ムーディーなデートコースなど紹介した雑誌が溢れ、学校でも職場でも恋愛の話題が挙がります。
 明治期には存在すらしなかった恋愛という概念が、今では所狭しと溢れているのです。
 ここまで身近だと、「自分も恋愛の主体になれる」と勘違いしても仕方がないでしょう。
 また勘違いし続けてもらわなければならないのです。
 高度に発展した資本主義経済は消費主体としての大衆を必要としています。GDPの6割強を個人消費が占めていることがその証左です。
 大衆の中から「自分は蚊帳の外だからそんなものにお金は使いません」という人が増えてもらっては困るのです。
 だから大衆には「自分も恋愛の主体になれる」と勘違いしてもらって、異性の気をひくためにプレゼントやムーディーなレストランや洋服etcでお金を落とし
てもらわないと困るのです。
 あまりにも恋愛教で商売をしている人が多いのです。
 その大事な恋愛を「いやその他大勢の一つだよ」といってしまっては、彼らはまた莫大なお金を払ってマーケティングをし直さなければならないのです。(
広告宣伝マーケティングにどれだけ莫大なお金が掛かるか、電通や民放ネット局がとんでもなく大きな社屋を誇っているという一点を見ても容易に想像がつく
はずです)
 わたしが「意図的にばら撒かれた誤謬」といっている意味がお分かりになりますでしょうか。
 その本来誤謬である恋愛教が、意図的に正されず、当たり前のものとして世の中に蔓延しているからこそ、某評論家がわれわれ3次元に相手にされない人間の
ことを「フィギア萌え族」などと犯罪者予備群のごとく取り扱う言質がまかり通るのです。
 だからといって、世俗の都合でしかない誤謬をいつまでも非モテが個人レベルで持ち続けて、唯々諾々と迫害を甘んじ続けなければならない道理がどこにあ
りましょう。
 これらの誤謬から解放されねばなりません。
 恋愛など取るに足らないものなのです。
 そして、個人としての尊厳を守るために我々を迫害する恋愛教なる価値観とは断固として戦わなくてはならないのです。
 恋愛ができなければ、ほかのことをして楽しめばいいのです。
 できないできないといって、苦しむことはないのです。
 我々が異性から雄として見られることがないのであれば、我々もまた異性を雌として見なければさまざまな軋轢・葛藤は生まれず、生き易くなるのではない
でしょうか。
 我々非モテもまた、個人としての尊厳があり、苦しむためではなく、楽しむために生きているのです。
 得られないとわかっている結果を得ようとして苦しむより、自分が得られるもので楽しんだほうが建設的な人生じゃありませんか。
 そのほうが、健康的だし、楽しんでやっているから人生に深みが増すはずだし、結果、人としての魅力も増すとわたしは思うのですがいかがでしょう。