510 :
('A`):
電車で毎朝見かける少女。
長い黒髪で、眼鏡で、いつも文庫本を読んでる。
おれの職場のある駅にある女子校の制服を着ている。
あんまり毎日同じ車両に乗り合わせるもんだから、顔を覚えてしまった。
今日もいつもの車両に乗り込むと、あまり混んでいない車内に彼女がいた。
反対のドア側に立って、文庫本を読んでいる。
一瞬、彼女がこちらをちら、と見る。視線が絡み合う。
おもわず会釈すると、顔を真っ赤にして文庫本に視線を落とす。
次の駅でいつものように、反対側のドアから乗客が、どっ、となだれ込んでくる。
彼女は勢いに流されて、おれの立っているあたりまで押されてくる。
おれのコートの胸元に、彼女の身体が、とん、とぶつかる。
「…あ、すいません」
小さな声で彼女が謝る。おれは赤くなった彼女の頬を見て、「いいえ」としか
答えることができない。
混む車内。彼女がおれに押しつけられる。おれは一瞬だけでも彼女を守りたくて、
身体を緊張させて、少しでも彼女の周りにスペースを作ろうとする。
カーブでぐらりと揺れる。車内の群が一瞬バランスを失う。彼女の手が俺のコートを
きゅ、と掴む。
少しでも彼女を守りたい。そんな毎朝20分だけのナイト気取りだ。
電車が俺の職場の駅に止まる。人の群が、どぉっと俺と彼女を押し流す。
二人が流される。引き裂かれる恋人のように。
彼女が俺の目を見る。俺も彼女の目を見る。そのままホームに降りて、
俺たちは別々に歩いていく。
いつもの通勤風景だ。いつもの。
ただ、ひとつだけ今日は違った。
コートのポケットに、小さな箱が入れられていた。
おれは不思議に思い、駅のベンチにしゃがんで箱を開く。
中には小さなチョコと、
『毎朝のあなたへ、感謝とその他をこめて』と書かれたメッセージカードが入っていた。
ああ、今日はバレンタインデー、か。
おれはこの小さなチョコの大きな甘さに、胸が一杯で、しばらく立ち上がることもできない。
…なんてことないかなぁ。