1 :
王大人(代理):
沈んだかな?
芸道を極めし者「亜 威盆」
第四回殴弟子怨で「妄無素」に追加された四拳士の一人「亜 意凡」。
「乃 納魅」と共に齢若くして難関を突破した強者である。
その若さ故に、先輩の言う事を聞かずに何度も同じ失敗を繰り返してしまう
という一面があった。(これについては、指南役である「呉 糖巻」の
怠慢だったという説もある)
また「亜 意凡」は他者の動きをそっくりそのまま真似して自分の物に
してしまうという拳術の使い手であった。実際、「華 王倫」や「知 瓶婆」の
武術を本人の目の前で再現してみせ驚嘆させたこともあったという。
敵に回すと恐ろしいが、味方にすれば非情に頼もしい存在だったようだ。
だが、この模倣の才が災いし、他の拳士から反感を買ったのか、「手礼都」で
定期的に行われていた「他目誤賭」という演武会には全く参加させて
貰えなかったらしい。
なおこの拳法は「亜 意凡」の出身地に因んで「名羅拳」と呼ばれていたらしく、
現在日本語で使われる「習う、倣う」という動詞の語源にもなっているという。
(民明書房刊 「必ず最後に亜依は勝つ」より)
「倍背鋼」
古代中国で大いに活躍した「富乳妄忍」だが、玄穐十二年の夏、
大規模な中華大陸巡業を行っていたという記録が残っている。
そのときに使用していた乗り物がかの有名な「倍背鋼」である。
恐らく「背丈の倍ほどの長さの鋼の乗り物」という意味から名付けられたと
思われる。どういう外観であったかは謎だが、かなりの速さを誇ったという。
また「富乳妄忍」はこの「倍背鋼」に乗りながら相手を攻撃する「死国四拳」
なる奇拳を体得していたとも伝えられている。
なお興味深いことに「富乳妄忍」はこの「倍背鋼」を使って、なんと日本や
北米大陸にまで到達していたという学説が最近注目を浴びている。
それによると、東京都足立区やアメリカ国内で当時の「富乳妄忍」の武具が
出土したとか、英語の「バイシクル」の由来は「倍背鋼」であるとかいうことだが、
情報の信憑性は低い。
(民明書房刊 「モーリングよりツーリングを!」より)
地味にsageでやってくつもりです。
次回は「四 素射」、「李 活乳」の秘密に迫ります。
期待してますです。。。
楽しみにしてます☆
8 :
名無し募集中。。。:2000/12/12(火) 13:59
立
初 て
め て
て み
駄 わ て
ス か
レ る
か
圖 な
Λ_Λ
( ´∀`) <食いつくヤツは逝って良いよ・・・
( )
「四 素射」と「米愚留」
「四 素射」。第四回殴弟子怨で「妄無素」に追加された四拳士の一人として知られる。
加入当初から古参「妄無素」戦士に勝るとも劣らない力量を誇っていたらしいが、
その力の源は一説によると「米愚留」という食料にあったという。
「米愚留」とは「四 素射」の故郷に代々伝わる戦闘時の非常食で、その原料や
製法などは一切、秘中の秘とされていた。
「四 素射」はこの「米愚留」を食し、なんと三体の分身を作り出す奥義を持って
いたという。三体の分身はそれぞれ「厳辞異」「非意太亜」「零故」と呼ばれていて、
すべてが独自に全く異なる拳を使う。分身を含めた四人で敵を包囲し「怒寸!」の
怒声と共に敵を瞬殺するという恐るべき戦術を使っていたらしい。その勇猛な
戦い振りは、時の皇帝突九帝をして「天才的也」と言わしめたという程。
元々は、四身一体の拳術を使うことから「四 私射」と呼ばれていたが、
師匠の「知 瓶婆」によって「四 素射」に改名されたという記録も残っている。
(民明書房刊 「ベーグル普及委員会埼玉支部広報誌」より)
懐かしいな。復活したのか。
復活したのか。
大感動sage
早く書いて・・・
魅尼妄忍
中国東部手礼都の朝暁寺に伝わる奥義の中でも秘伝とされているのがこの「魅尼妄忍」である。
基本的には三身一体の連携奥義であるが、体格の小さい者(150cm以下といわれる)ばかりで
構成されていたようだ。
歴史上唯一文献に残るこの奥義の使い手は「知 瓶婆」「乃 納魅」「亜 威盆」である。
秘伝ゆえに奥義の仔細を記した文献は少ないが、その掛け声に関する記録が残っている。
「壱、弐、参、死、魅尼妄忍、異影異影」
この掛け声からは、その小さな異影を見たものは必ずや死に至るこの奥義の壮絶さが伺える。
(民明書房刊 「拳法における体格差とその克服の歴史」より)
とりあえず保全。。。
15 :
名無し募集中。。。:2000/12/17(日) 02:00
あ
いいね、ネタスレ万歳!復活ありがとう
17 :
名無し募集中。。。:2000/12/18(月) 22:20
哀 鵜異種
18 :
名無し募集中。。。:2000/12/18(月) 23:19
ねたすれかよ
速攻ブックマーク
これは懐かしい、、、
でも僕には才能がないので書けない。ネタ職人頑張ってクレ
「弥魔叉鬼」
幾多の伝説を残す「妄無素」ではあったが、
その功績の裏には富を貪り生き長らえたと伝えられる妖怪
「弥魔叉鬼」の存在があったとされる説がある。
弥魔叉鬼はその妖しげな音色で人の心を支配する魔笛
「幽衛笛」を奏で、妄無素を操っていたと言われる。
しかしながら、いかに幽衛笛の魔力をもってしても
屈指の武道集団たる妄無素を直に操ることは至難を極めたという。
そこで弥魔叉鬼は時の権力者である突九帝をその魔力で支配下に治め、
突九帝の意にそぐわない命令を妄無素に与えていた。
幽衛笛の響きに魅せられた者は弥魔叉鬼の富を得る目的にのみ
生きることを許され、役に立たなくなれば「陰体」と呼ばれる
再起不能の状態にて葬られるという惨いものであったと伝えられる。
陰体から甦る方法はただ一つ、「雷波掌念」の使い手による蘇生である。
現代においても、九死に一生を得ることを「サム得る」と言うのは
この極めて稀な蘇生に成功した武道家の名が由来とされている。
(民明書房刊 「T&Cよ、お前もか」より)
22 :
名無し:2000/12/20(水) 02:07
>>21 相当に上手い。オリジナルスレのネタ職人が復帰したの?
安打の書
その昔、弐番孟板という修行道場があり、日夜熱心に孟学に励む若者が多数詰めていたという。
そこでは修行者同士により孟妊愚に当時存在した旧七派と新四派のどの派が一番なのか
際限のない争いが日々続けられていた。
そのような状況下、道場の中で一際異彩を放つ団体があった。
その団体は全ての発言の末尾に必ず「安 打」と付ける事を定められ、
その発言は全て書物に書き留められ、書庫に保管されたという。
その書物は一冊目からと百二十二冊目からの二冊があり、二冊が合体するとき弐番孟板に
何かが起こるとして語り継がれた。
その書物が百十五冊目に差し掛かった頃、突然「安 打刑」なる人物が現れ、
書物にいくつかの予言をした。江無棲手における合図もそのひとつである。
その後の江無棲手での合図も微妙であるが行われたとの記述があり、その百十五冊目は
伝説の書として封印されたという。
(民明書房刊 「ダーヤスありがとう。でも(`.∀´)付き」より)
やっぱこういうのはいいね。スゲーうまいよ。
つーか書いてる人すごいよ。
モーニング関係とモー板の全てを把握してるかのようだ・・・
25 :
Dr.クマルマンガラム:2000/12/20(水) 22:48
「李 活乳」はまだか・・・
すげーおもろい。最高
27 :
いとう:2000/12/21(木) 23:56
保全age
28 :
M:2000/12/22(金) 03:21
「哀憂為酒」
中国東部手礼都周辺に伝わる銘酒がこの「哀憂為酒」である。
この銘酒の名前の由来には一つの伝説が有る。
玄穐12年9月に行われた御前試合において朝暁寺の武道集団「妄無素」は元師範でまとめ役でも
ある「中 裕姐」に習って酔拳(「呉州北流」と言う流派らしい)を取り入れた奥義で臨んだ。
しかしながら未成年が大半だった妄無素は慣れぬ酒に酔い潰れ、大惨敗を喫してしまう。
この時、妄無素の面々があおった酒を朝暁寺の人々は惨敗の哀しみをこめて「哀憂為酒」と名付けた。
これが現代まで伝わり銘酒として愛好家の口を楽しませているのである。
余談ながら酔った妄無素の面々は試合に敗北しながらも上機嫌で
「嗚呼、素晴ラシキ哉人生、素晴ラシキ哉人生」
と歌い続け対戦相手や試合の立ち会い人達を呆れさせたという。
(民明書房刊「酒と泪と男と女〜哀しい酒の話」より)
>>28 「哀憂為酒」を呷って繰り出される酔拳は各人の特技を活かし、多種に渡っていた。
「四 素射」は体内の気を掌に集めて一気に放出する技を得意とし、
特に強靭な頭部による頭突きは対峙する者を威圧したが、
御前試合では惜しくも失敗し、額から流血の末敗戦した。
「妄無素」の中でもまだ未熟であった「乃 納魅」は
独自の型を持たず、正統派酔拳を継承していた。
腕を頭上に振りかざし、首を左右に揺らしながら体を沈め、
再び元の体位に戻るという、相手の意表をつく動きを徹底していた。
しかしその未熟さ故、それ以上の動きをすることはなく
繰り返すのみに留まったため、動きを読まれ敗戦に終わった。
「中 裕姐」による酔拳の継承者の中で、
最も畏れられていたのが「亜 威盆」である。
「亜 威盆」が発する超高音の声とともに相手の体が
真っ二つに切断され、即座に死体と化してしまうという
伝説の技「体切二死体」を「中 裕姐」に伝授されていたのである。
無論「亜 威盆」はこの技を御前試合にて繰り出したのだが、
完全にこの技を体得していなかったために失敗し、敗戦した。
「体切二死体」は、正しい音程による発声が必要であったという・・・。
(民明書房刊 「知られざる酔拳の秘奥義」より)
>>28の漢文引用みたいな文が好きだ。
なんかすごい恐い感じする。なんかわかんないけど
31 :
名無しさん:2000/12/23(土) 01:21
復活に感動・・・やっぱ上手いよ
我思自身死スベシ…
34 :
M:2000/12/23(土) 04:10
「新生短放砲〜御投刃衆」
これまで大中小3人による連携奥義と思われていた「短放砲」であるが、新たに発掘された文献から
小柄な体格の者もう一人を加えた4人による連携も存在することが判明した。
この4人による短放砲の仔細は未だ解明されてていないが今回の文献研究で帽子と傘状の暗器を用いる
技の存在が明らかになっている。
この技は「御投刃衆」と呼ばれ、読んで字の如く4人が一斉に敵に向かって暗器を投擲するものであった。
文献に残るこの技の代表的使い手は「華 王倫」「知 瓶婆」「李 活乳」「亜 威盆」である。
この4人が呼吸を合わせての傘状の暗器の投擲、受け渡しはほぼ百発百中であり見事なものだったという。
しかしながら連携奥義全体としての4人による「短放砲」には慣れぬ内はややギクシャクしたものがあった
ようで「張切当日、履高下駄大失態」と、失敗を記した文献も残っている。
(民明書房刊「古代における欧州と亜細亜の文化交流〜パスタの起源は中国だった!」より)
35 :
名無しさん:2000/12/23(土) 13:52
ネタ職人は何人なの?
36 :
名無し殿下:2000/12/24(日) 01:32
保全
ぶっくまーくしましたよ、当然。
38 :
名無しさん:2000/12/24(日) 22:33
保全
「李 活乳」
「李 活乳」は第四回殴弟子怨で追加された拳士の中で
最も体術に秀でた武道家であった。弐番孟板の書物に散見される、
「ソノ歌稚拙ナレド、コト舞踏ニオイテ才ヲ発揮セシメリ」
というくだりは「李 活乳」に関するものだという説が有力である。
その体術は、七日に一度開催されていたという「茶令妄忍」なる
忍術の修行道場にていかんなく発揮された。
「長野天挑五輪大武會」の閉會式を司ったという伝説の忍者
「欽 茶無」が開祖とされる歩行術を「李 活乳」は体得していたのである。
(道場の名は「欽 茶無」の名を冠して創設されたと言われる)
完全に気配を消し去り、「静カナルコト唖ノ如シ」とも謳われたその姿は
「茶唖身」と呼ばれ、忍びの極意として語り継がれていった。
(ちなみに上記くだりは、彼女が喋ったときの周囲の反応のことを謳った
とする説もあるが、真偽のほどは定かでない)
その歩行術の極意は、玄穐十二年十二月に勃発した
「恋愛革命」において兵卒の間に広く伝授されていくことになる。
その極意を啓蒙するための号令、「歩意!」は
革命の乱世にあって最も広く普及した言葉であったという。
(民明書房刊 「挑戦、それは、バラドルへのプロローグ」より)
>>5 すまん、待ちきれずに俺が書いちゃった・・・。
41 :
オ・マンコ:2000/12/26(火) 05:49
妄無素の拳士たちの私生活の多くは謎に包まれているが、
なかには結婚し子までもうけた者もいたらしい。
黒江彩という拳士は西洋における最も主要な体術である「蛮怒」の
「怒羅夢」の使い手であった神夜なる者との恋と妊娠が原因となり
朝暁寺を追われたとある。ただ彼女に関しては、
”民明書房刊 「みんなも社長さんも分かる陰陽道」”に
おいて非常に美化された形での記述が残っているが、現実は拳士たちの
恋愛を禁じていた朝暁寺の長老や突九帝が、恋愛を原因として
追放するという形では世間体が悪いので歴史家たちに改ざんさせたようである。
同様の改ざんと思われる書物には彼女が「福蝕出財名亜」なる拳技を極めるため
朝暁寺を出たという記録もある。
また、黒江彩に関する数少ない伝承としては彼女が、「赤流威!」なる奇術
の使い手であったことを紹介している。この奇術がいかなるものであったかは
書物は黙して語らぬがどうやら気合の声の一種であったらしく、聞くものは
なぜか苦笑してしまう類のものであったらしい。
(民明書房刊「鼻ピアスの現代的位相とその変遷」より)
頑張ってちょうだい
このスレはあるだけでも価値があるとおもいますです。。。
43 :
名無しさん:2000/12/26(火) 22:39
>>42 激しく同意。今やモー板唯一のネタスレだからね。
今日もほぜーむ
44 :
一日:2000/12/27(水) 11:48
1回は更新していて欲しいスレだよね。
sageでもいいから頑張ってくださいませ。
45 :
名無しさん:2000/12/28(木) 00:13
ほぜーむ
46 :
名無しさん:2000/12/28(木) 00:29
爆笑問題は長者番付にのるような金持ちには見えない
「知 瓶婆」の成長
いかに卓越した「知 瓶婆」の才能をもってしても、
奥義「世苦死光波」(民明書房刊 「中国奇拳百選」参照)
の習得に至るまでには想像を絶する修行をくぐりぬけてきたという。
「偉 地位」「安 打刑」らとともに朝暁寺に入門したばかりの頃など、
才を発揮する十分な場は与えられず、同期生の三人で寄り集まっては
師範代の「中 裕姐」に対する怒りの感情を込め、
「腐殴裕!、音痴裕!」などと言い合っていた。
(その事実を知っていた兄弟子達は、
心を鬼にして厳しい指導を余儀なくされていた状況を
「可愛クナレナイ我哉」と嘆いていたという)
その後、秘めた才能を見出された「知 瓶婆」に、徐々に活躍の場が与えられる。
「世苦死光波」の原型となる「目盛青春光波」を習得した「知 瓶婆」は、
当時棟梁であった「菜 通知」の補佐を努める大役に抜擢された。
その後、技を繰り出す際に多大なの熱量を体内で消費しなければならない
「真夏光波」も習得し、苦難の末「世苦死光波」の体得に至った。
「真夏光波」の習得には兄弟子である「華 王倫」さえも挫折し、
その熱量で「熱射病」にかかったという逸話は有名である。
(民明書房刊 「光波の多様でメラニン増加」より)
なるほど、この人は歌詞ネタが得意なんだな。
体切二死体爆笑sage!!
49 :
名無しさん:2000/12/30(土) 01:00
今夜もほぜーむ
価値あるスレだな