モーニング娘。が解散して数年後、
「なっちの家の地下室に下りただべか」
「ああ」と、刑事。「降りたよ」
「なっちは石灰を使ってたべ」と、安倍は言った。「あることのために」
「なんのことに使っていたんだ?」と、刑事が訊いた。
「下水の湿気がひどかったし、……
それから……あんたたちがそこで見つけたもののためだべ」
その時撮られた上半身写真には、
茫然自失といった顔つきの女が写っている。
安倍のぶくぶくした顔の整った目鼻立ちはたるみきっており、
皮膚の下には骨がないような印象をあたえていた。
じっとカメラをのぞきこんでいるのだが、
その目はどんよりと曇って、うつろだった。
精神異常の人間、あるいはドラッグをやった人間そっくりだ。
ワイドショーや新聞に声だけの出演をした近所の人々は、
安倍なつみは社交的で、町の事をよく考え、気前が良かったと語った。
町内のごみ掃除をいっしょになって進んでしてくれ、
近所の車道まですっかりきれいにしてくれた、と。
自分の住むその町に街灯を設置するため、安倍は労を惜しまず必死に
はたらきかけてくれた。
毎夏、安倍は四百人を超える人々を集め、自腹をきって、
恒例の誕生日パーティを開いていた。
そして――無償で自分の時間をさき、病院をおとずれ歌をうたい、
病気の子どもたちを愉しませた。モーニング娘。の衣装を着て。
安倍が尋問を受けているあいだも、近所の人たちは
リポーターから質問攻めにあっていた。
いや、安倍は狂っているようには見えなかったな、と彼らはいった。
時々はしゃぐ事はあっても人並みだったし、
たまに、はしゃぎ過ぎても、ちょっと声が大きくなったり
陽気になったりするだけだった。
安倍は自分自身と、昔モーニング娘。だったことに
誇りを持っていて、ちょっぴり自慢げに話すこともあり、
近所の人達に時々嫌味を言ったりしたが、
当人はつねに笑顔を絶やさなかった。
安倍の家宅捜索令状がおりた日、
警察官と証拠班は安倍の家に誘拐の証拠を捜しにきていた。
警官達は家に入り、リビングルームのクロゼットのなかに落とし戸を発見した。
それは土底の暗い床下につながっていて、
底にはどうやら水がたまっているらしかった。
側にあったポンプで水を汲み出し、
水が引くと、警官は床下の泥のなかに降り立った。
床下は八十センチ足らずの深さだった。
よつんばいになり、南に向かって這っていった。
家の南東の隅に、ふたつの長いくぼみが見えた。
それぞれ長さ百八十センチ、幅四十五センチ。
墓の大きさだ。
西のほうに這いすすむと、灰皿大の水たまりが三つあることに気づいた。
そのひとつはくすんだ紫色をしていた。
ほかのふたつには、五センチほどの細くて赤い虫がうようよわいていて、
警官が照明をあてると、柔らかい泥のなかに潜りこんでしまった。
警官はまず南西の隅を掘ってみることにした。
膝をついて体をふたつに折り、シャベルを泥のなかに突きたてる。
耐えがたい悪臭が地面からたちのぼり、床下に充満した。
二回目にすくった土に、ぬめっとした屍蝋のかたまりがふくまれていた。
ほとんどラード同然の、白くてぬるぬるした腐った肉。
屍蝋とは科学的風化の産物で、そうなるまでには一年かそれ以上かかる。
死体は捜している少女のものではない。
となると、安倍は複数の殺人を犯している可能性があるということだ。
警官が最後のひとすくいを掘ると、何か硬いものにあたって、
人間の腕の骨らしきものがあらわれた。
白骨と化した遺体だった。
しばらく前に生きているのを目撃された少女のものではありえなかった。
警官は、上にいる警部補に向かって叫んだ。
「死体が見つかった! 殺人だ!」
警部補が叫び返した。「なんだって!」
二人の証拠専門家が床下に降りた。
そのじめじめとしたせまい場所にたちこめているにおいは、
床下にあるものを想像するのとおなじくらい耐えがたかった。
「ここには子どもたちが大勢埋まっている」と、警官がいった。
安倍なつみの家の地下室で、最初の死体を発見した日から二日後に、
最初の二遺体が引き上げられた。
腐敗から生じるメタンガスで、
警官達はとても家の中にいられたものではなかった。
道徳的な嫌悪感とは別に、実際、吐き気と一種のめまいにおそわれたのだ。
何年も床下に埋められていたので、
遺体のなかには一部が屍蝋と化しているものもあった。
分解してラード状になったものはすさまじい悪臭を放ち、
いったんその臭気を浴びた衣類は捨てるしかなかった。
警察は、集まったジャーナリストに向かって、
遺体はすべて少女のもので、
さらに二十体が埋められているかもしれない、と語った。
夕方のニュースには、安倍の家から死体袋を運び出している
警官達の姿が画面に流れた。
なかには死体袋よりはるかに小さい遺体もふくまれていた。
最終的に、全部で二十九体の遺体が運び出された。
安倍は、厳しい、心理学的、精神医学的な鑑定を受けた。
安倍に対する心理テストを担当した医者は
報告書の行動的印象の欄に、こう記している。
「安倍なつみは非常に愛想がよく、友好的で、
インタビューにはきわめて饒舌に答えた。
話し上手であることに誇りをもっていて、
それをタレントという仕事に利益をもたらす長所と感じている。
彼女の饒舌にはコントロールという基本要素があり、
自分が話したいことのみをことこまかに話す。
あきらかに、安倍は自分が不利にみえないように真実を歪曲していた。
目の前に事実を突きつけられてはじめて、
社会的には容認しがたい行為について認めるのだ。
一般的な印象としては、流暢な話し手であるとともに、
誤りをごまかそうとする人物でもある」
安倍へのインタビューとテストの結果について、
医者が“もっとも印象的”と感じたのは、
「自分の身に起きたことに関する責任をいっさい否定する点だった。
彼女はあらゆるものについて“アリバイ”をつくりだせる。
環境を非難する一方でその犠牲者を演じ、他人を非難しながら、
自身を捕らえようとする他者に虐げられているふりをする。
これはパラノイドとも解釈できるが、私はそうは思わない。
むしろ、安倍は、敵意に満ちた状況に左右される弱者として
自分を描くことによって、同情をひこうとしている。
彼女の思考における大きな目標とは、他人を出し抜き、
優位に立たれる前に優位に立つことである」
モーニング娘。が解散したとき、なつみはそれまでの事務所に残った。
グループの仕事には将来性が無かったし、なつみはソロをはじめたかった。
しかし事務所の返事は歯切れが悪かった。
なつみは事務所の言うとおり、レッスンを受け、
ソロデビューの機会を窺いながら、タレントの仕事をした。
一年ほどして、タレントの仕事も軌道に乗ってきた頃、
なつみは、矢口真里と会うようになった。
そして、真里とのユニットを考えるようになっていた。
安倍の友人、矢口真里が見るかぎり、安倍なつみは明るく仕事熱心だったが、
いつも感情が安定しているタイプではなかった。
彼女がうろたえているのを真里がはじめて目にしたのは、
なつみと連絡を取り合うようになった年の大晦日だった。
なつみは真里の肩に顔をうずめてあたりかまわず泣き、
モーニング娘。の解散を思い出すだけで耐えられない、と言った。
「なっちはモーニング娘。の解散には納得できていませんでした。
あまりに突然すぎたし、理由もわからなかったし。
どうしても悔いが残ると言ってました」
真里がおぼえているかぎり、なつみは、毎年、大晦日になると
メロン記念日も出場している紅白歌合戦の会場に観覧に出かけた。
そして、そのたびにいらついて帰ってきた。
なつみと頻繁に会うようになった年の大晦日がいちばんひどかった。
いつまでたっても泣きやまず、まったくといっていいほど取り乱していた。
そのわずか一週間後、安倍なつみは三十三人に及ぶ犠牲者の
最初のひとりを殺した。
病理学者達は、安倍なつみが殺したと思われる
三十三人の犠牲者の遺体をひとつひとつじっくり調べた。
検死官によれば、すべての遺体は、著しく腐敗しており、
かろうじて人間の骨とわかる状態であった。
腐敗がそこまで進んでいたので、三十三遺体のうち十体は
はっきりした死因を特定できなかった。
六体は、脊椎の首のあたりにロープがからまった状態で発見された。
あたらしくてあまり白骨化してないほかの遺体は、喉の奥に布がつめこんであった。
すべて、公判前の安倍の供述、説明、“もっともらしい話”と一致していた。
なつみは、自分が罪を犯したのかどうか正直言ってわからない、といった。
最初のほうの犠牲者たちはある程度記憶もあるのだが、
自分がべつの人間になってながめているような、
事件を目撃しているような感じしかなかった。
やがてすべてがおぼろげになって翌朝まで記憶がなくなり、
目ざめてはじめて、またしても首にロープが巻きついた死体を見つけるのだった。
なつみは、少女たちは“ロープで自殺したんだべ”といった。
もっと早い時期の供述では、“もうひとりのなっち”が
ロープで絞め殺したにちがいないといっていた。
ただ、朝になってはじめて“なっち”が死体を発見したので、
あくまで推測にすぎないけどね、と。
朝になると、少女たちは前の晩とおなじ場所に横たわって死んでおり、
首にしっかりとロープが巻きついているのだ。
なつみにできることといえば、死因を“もっともらしく考えてみる”くらいだった。
もし自分がほんとうに殺したのだったら、死体を動かすときに
口から血が洩れないように喉に布をつめこんだのだろう、となつみはいった。
それが真相かどうかはわからなかったが、じつにもっともらしい説明ではあった。
検死官たちが出した結論は、安倍なつみの供述どおりだった。
すべての犠牲者は絞扼死あるいは窒息死を遂げていたのだ。
唯一の例外があって、その犠牲者の死因は
“胸部の複数個所の刺し傷”、つまり刺殺だった。
安倍なつみが殺した最初の少女であった。
精神科医や、心理医はよってたかって最初の殺人に興味を示した。
最初の殺人が理解できれば、他のすべてが理解できるだろうと考えたからだ。
ばかばかしいべ。なつみは彼らにそういった。
最初の殺しは正当防衛だったさ。
事実がわかれば誰だって同意してくれるはずだべ。
寝室で包丁をもった人と向きあえば、だれだってそうしたべさ。
どうして最初の殺しがパターンからはずれているとわからないんだべ。
なつみの話ではこうだった。
一月六日の夜中、なつみは仕事を負え、家に向かっていた。
疲れてはいなかったので、少しドライブする気になった。
車で街を流しながら、通行人を観察していた。
なつみは事務所に頼まれたわけではなく、
勝手にスカウトのような事を時々していた。
といっても、かわいい子を見つけると声をかけ、芸能界の話をして、
興味があるかどうか聞く程度の事だった。
少女を拾ったのは偶然だった。最初の殺しは事故だったのだ。
なつみは車を寄せ、窓をあけ、思い出せるかぎりでは、
「何やってるんだべ?」とかなんとか声をかけたはずだ。
その少女はほぼ申し分なかった。
中肉中背だが少しがっしりした体格で、若く、おそらく十五か十六歳で、
髪の色は茶髪だったか金髪だった。
「べつに。始発まで時間をつぶさなきゃいけないんだ」
少女はなつみに気がつかないようだった。
「ちょっとドライブでもしないかい?」と、なつみはたずねた。
「モーニング娘。って聞いたことあるべ?」
ふたりは車を走らせながら、芸能界についてはなした。
なつみの記憶ではたしかオーディションの話になって、こう訊いたおぼえがあった。
「うちの事務所に来てみる気はあるかい?」
少女がうんといったか、いいえといったかは忘れてしまったが、
とにかくそんな話をして、
ふたりとも、いちど事務所で話をしようかという結論に達した。
まあ、そんなところだった。
とにかく、少女はおなかをすかしていたので、二人は最終的になつみの家に行って、
なつみが食べ物をつくってやった。ハムのサンドイッチだ。
なつみはハムの大きな塊を切った。いつも安くつくので塊で買っていたのだ。
というわけで、大きな肉切り包丁でハムを切った。
ふたりの話題はまたしても芸能界になり、モーニング娘。のことをいろいろ訊かれた。
さんざん話をして、なつみは疲れきってしまい、
「なっちは寝るから」といった。
少女には、泊まっていけばいいじゃないか、と勧めた。
駅まで送ってあげるよ、といって。
なつみは自分のベッドに入るとすぐに寝入ってしまった。
やがて――「朝の四時かそこらだったべ」――びっくりして目をさました。
物音が聞こえたのかもしれない。人の気配を感じたのかもしれない。
とにかくなつみは目をさました。
ドアのほうを見ると、逆光になった部屋の明かりのなかに少女が立っていた。
夢を見ているようだったが、少女は肉切り包丁
――なつみがハムを切った包丁だ――を手にもって、
ゆっくりとベッドに近づいてきた。
その話になるといつも実感がわかない。
なつみはテレビで観たことを話しているのかもしれなかった。
とにかく、あのときはうろたえてしまった。
「いったいどうしていいのかわからなかったべ」
気がつくと、なつみはベッドから跳び起き、少女に向かって突進し、包丁をつかんだ。
夢だったのかもしれない。
ふたりはもみあった。これはなんなんだべ、なぜなんだべ、となつみは思った。
包丁がなつみの腕に触れて肉が切れた。いまだに傷痕がのこっている。
ふたりはおたがいに話し合ったのかもしれないし、どなりあったのかもしれなかった。
まったくおぼえていなかった。が、たとえ何かいったとしても、
「いったい何をしてるんだべ? なんでこんなことをするんだべ?」
といったところだろう。
なつみの腕の傷口から血が流れ、ふたりはもみあい、包丁を奪いあった。
それはまさにテレビで観るような光景だった。
ふたりとも足もとがおぼつかなかったし、
なつみは故意に少女を刺したわけではなかったのだ。
「あのこは床に倒れたんだけど、まともに包丁の上に倒れこんだんじゃないかい。
包丁で自分を刺したんだよ。だって、なっちはあのこの手をつかんでいて、
包丁をあのこのほう、あのこの胸と胃のほうに向けて内側にねじっていたんだべ。
そしたらあのこは包丁の上に倒れこんで、その上になっちがのしかかる格好になったべ」
どんな順序で起きたのかは判然としなかった。
こまかい点はおぼえていなかったし、思い出せたとしてもあまり鮮明とはいえなかった。
なつみの物語にはぼんやりとした霧がかかっていた。
たとえば、ふたりが倒れたあと、少女はそこに横たわっていたが、
もしかすると、もみあっている最中になつみが包丁を奪っていたかもしれなかった。
“四、五回”刺したかもしれなかった。それも胸を。
というのも――なつみはそういった細部を懸命に思い起こそうとしているようだった
――そのとき少女の着ていたシャツが少しはだけていた記憶があるのだ。
だから、なつみは胸を刺したのかもしれないと思った。
倒れこんだあと、少女は身じろぎもしなかった。
なつみの心の中では、すべてが漠然としていた。
少女のかたわらで包丁をもったまま立ちあがったことだけはおぼえている。
バスルームに行って包丁の血を流し、それから自分の体についた血を洗い流した。
寝室に行くと“ゴボゴボ”という音が聞こえてきて、いつまでも鳴りやまないような気がした。
なつみはキッチンまで歩いていき、包丁をもとの場所に戻した。
寝室をさけながらバスルームに引き返したものの、
そのあいだもゴボゴボいう音はやまなかった。
ようやくその音が聞こえなくなり、なつみは寝室へ戻った。
少女は石のようにじっと横たわり、一言も発しなかった。
死んだべ、とおもって、なつみは対策を考えはじめた。
少女が襲ってきたのだから、警察に連絡してもよかった。
いや、だめだ、それはできない。
マスコミが事件のことを騒ぎ立てるだろう。
そうなるとタレント活動は絶望的だ。
警察に電話するわけにはいかなかった。
なつみは自宅でみずからの命を守った。
そしてそれを秘密にしておくことにした。
そういった考えや感情はなかなか思い出せなかった。
何年ものあいだ、頭のなかからみごとに追いだしていたのだ。
あの日、計画的でなかったことはわかっている。
何もかもが現実だとは思えなかった。
血と死体以外は。
なつみはまず血をきれいに拭きとった。
それがすむと、少女を寝室のクロゼットまで引きずっていき、
床下に通じる落とし戸のふたをあけ、“ただそこに落とした”。
なつみ自身は床下に降りられなかったので、ふたをもとの位置に戻した。
あのときは、そのほうが楽だったのだ。
なつみは歩きまわって、拭きのこした血痕がないかどうか調べた。
そして仕事に行く時間になった。
仕事先で、スタッフの一人がなつみの腕の傷に気づいた。
「どうしたの?」と、スタッフはたずねた。
なつみは嘘をついた。いままでたくさん善行をしてきて、
悪いことはほとんどしてないのであれば、人は嘘をつかなければならない。
あまり深く考えないことが肝心だ。
まったく考えなければ、それに越したことはない。
なりゆきにまかせて説明しよう。
なつみは嘘と嘘つきが大きらいだった。
「けさ、カーペットをカッターで切ってて、カッターがすべったんだべ」
スタッフは心配した。傷は深手で、縫う必要があったし、
放っておくと傷口から感染するかもしれなかった。
すぐに医者に診てもらったほうがいい、とスタッフは忠告した。
そのときに学んだ教訓がひとつあり、
なつみは無意識にそれを身につけていたのかもしれない。
人を殺しても顔には出ない、ということだ。
証拠といっしょに恐怖や困惑や良心の呵責を隠しさえすれば、
他人はいつもどおりに見てくれるのだ。
正当な殺人がひとりの人間の人生に影響をあたえていいはずがなかった。
それは、話しかけてくる人びとの目を見ていればわかる。
こちらがけがや病気をしているときはなおさらだ。
病気は、相手がどれほどこちらを気づかっているかを測る道具になりうる。
たまに気にかけてもらうのはいい気分だ。
ときどき、人は心からだれかに気にかけてもらう必要がある。
なつみはスタッフの思いやりに感謝し、その忠告を受け入れた。
仕事をはやくきりあげ、病院の緊急治療室へ駆けつけた。
腕を縫ってもらうと、なつみは家に帰り、落とし戸のふたをあけて、
わずか七十数センチしか余裕のない床下に降り、
体をふたつに折りながら浅い墓を掘って、少女の遺体を埋めた。
というわけで、なつみは床下に死体を埋めるようになった。
なつみが勝手にスカウトまがいのことをするので、
事務所は何度かなつみにやめるように注意をしていた。
しかしなつみはあいかわらず、出会った少女にいいかげんなことを言っては
事務所につれてきて、問題を起こしていた。
しかも少女のなかには、なつみに暴力を振るわれたというものもいた。
なつみは、行き違いで軽いいさかいになっただけだといっていたが。
事務所はなつみと矢口真里のデュオについては
なつみのソロよりは可能性があると考えていたが、
なつみが事務所に迷惑をかけていることもあって、企画はなかなか進まなかった。
デュオの計画を立てる一方で、タレントの仕事もいそがしくなり、
なつみは不安と疲労でぼろぼろになった。
たえず働きづめで、自分を見つめたり眠ったりするひまはなく、
へとへとになるまで仕事をしていた。
安倍なつみがあさみ(仮名)に会ったのもちょうどその時期だった。
あさみは十五歳だった。
なつみの事務所に一ヶ月ほど前にはいってきた、歌手志望の少女だった。
ある日、なつみとあさみは事務所でふたりきりになった。
なつみはあさみに、家に遊びにこないかと誘った。
「安倍さん、モーニング娘。時代の話をききたくないかっていったんです」
と、あさみはいった。「私は“都合がわるくて行けません”ってことわりました」
なつみはソファにすわろうと誘った。そしてお茶を注いで、あさみに勧めた。
「そうしたら安倍さんは歌のレッスンをしてあげるといいだしたんです」
なつみは家にカラオケの機械もあるといった。
結構です、とあさみはいった。
なつみはさらにプレッシャーをかけてきた。
「この業界じゃ、先輩のこと立てなきゃやっていけないべ」
あさみは「断わって、ずっと断わりつづけました」と、いった。
やがてふたりは仕事に戻り、
なつみは、今のはちょっとした悪ふざけだよといった顔をしていた。
ひと月たって、あさみは家にいた。両親は旅行で留守だった。
あさみは前日に足をくじいてしまい、
なつみは、あさみがひとりで家にいるのを知っていた。
だから、夜、なつみが訪ねてきたときも、見舞いにきてくれたのだろうと思った。
深夜零時ごろで、なつみはパーティ帰りだと告げた。
ワインの瓶をもっていた。
少女と先輩がワインを飲みはじめて三十分ほどたったとき、
なつみは、パーティでモーニング娘。のビデオを観てきた話をした。
ビデオは車のなかにある。観たいかい?
なつみが“あまりにもしつこく”訊くので、あさみは「はい」と答えた。
それは「Memory 〜青春の光〜 コンサート」のビデオだった。
ビデオが終わると、なつみは少女をつかまえて“ダンスの振り”をはじめた。
あさみの記憶では“子供がふざけてやるようなもの”で、
アドリブをまじえた、まったくのお遊びだった。
少女は先輩に恥をかかせまいと気にかけていたが、一分ほどすると、
なつみが“左手に手錠をかけようとしている”のを感じた。
あさみは右手を振りまわしてもがいたものの、なつみはその手をつかみ、
やっとの思いであさみにうしろ手に手錠をかけた。
それまではふたりとも立っていたのだが、いまやなつみは少女を床に押し倒していた。
あさみはうしろ手に手錠をされたまま仰向けになった。
なつみはキッチンに入っていった。
なぜなつみがその場を離れたのか、キッチンでなにを捜しているのか、
あさみにはさっぱりわからなかった。
少女は右手の手錠がゆるんでいることに気づいた。
なんとかはずしたが、彼女は手錠をかけられているふりをしてそのまま横たわり、
キッチンの戸口をながめながら待った。
なつみが部屋に戻ってきたとき、あさみは相手の膝にタックルをかけた。
必死だった。
少女は“右手からはずした手錠”をなつみの手首にはめた。
あさみは、鍵をなつみの手から奪ったのか、ポケットからとったのか思い出せなかったが、
「鍵を見つけて左手の手錠をはずしたんです」
なつみをうつ伏せにしておくため、
あさみはうしろ手にねじあげた相手の手首にその手錠をかけた。
彼女は先輩をそのまま一、二分押さえつけ、やがて立ちあがった。
なつみは五分ほど敷物の上にうつ伏せに横たわっていた。
やがてふたりは話をはじめた。罵ったり脅したりではなく、
とても理性的なものだった、とあさみは記憶している。
「彼女が帰るということで話がついたんです。私は立たせてあげました。
彼女、そのときは何もしませんでした。おとなしく帰っていきました」
なつみが帰ったあと、あさみは思った。なにが奇妙だといって、
うしろ手に手錠をかけられた先輩が、リビングルームの床に横たわったまま
最初にいったせりふほど奇妙なものはないな、と。
「手錠をはずしたのはあさみがはじめてだし、ましてや、それをなっちにかけるとはね」
と、なつみはいったのだ。
まるでいつも人に手錠をかけているみたいな口ぶりだった。
あさみにはさっぱり意味がわからなかった。
「まったくわけがわからなかったです。妙だとおもいました」
ほぼ一週間後、安倍なつみの事務所のべつの所属タレント、
りんね(仮名)は手錠をはずすのに失敗し、
以来、生きている姿を二度と目撃されなかった。
りんねは十六歳で、一年前になつみの事務所に入り、
今から売り出そうという新人歌手だった。
なつみとは親しくしていて、仕事が終わってから、夕食を一緒に食べるときもあった。
なつみがマンションから今の家にうつったとき、りんねは引越しを手伝ったりもした。
あるとき、りんねは頼りにしている腕利きのマネジャーを、
なつみが自分の担当にしようとしていることを知った。
おなじ事務所の友人に相談すると、友人はりんねの味方になるといってくれた。
その夜、りんねはふたりの友人を連れてなつみの家に向かった。
なつみの記憶では、りんねが友人とやってきたとき、
なつみは少し酒を飲んでいた。
「りんねたちは、なっちがひどいことをしたみたいに責めたんだべ」
なつみは早口でまくしたてた。
「りんね」と、なつみはいった。
「なっちはそんなことしてないべ。たまたま矢口とのデュオの話をしたら、
それに興味を持ってくれただけだべ」
なつみはりんねと友人たちを説得した。
「マネジャーが、もしなっちの仕事をやりたいといったとしても、
きっとなっちは断わってたべ」
りんねはいった。
「今が大事なときなんです。他の仕事に誘うようなことはやめてください。」
「本人が決めることだべ。なっちにはどうすることもできないさ」
妥協案が出た。
マネジャーはりんねの担当を続ける。
なつみはマネジャーに相談にのってもらうことはあっても、
自分の担当にするようなことはしない。
「りんねと仲間は同意したべ」と、なつみはいった。
「で、みんなでビールを飲んだべ。
なっちたちは納得できる結論に達して、ビールを飲んで、
それからりんねたちはみんなで帰ったのさ」
ひとり家にのこったなつみは、ビールで酔っ払い、
そのままソファで眠りこんでしまった。
なつみは目をさまし、なんとなく車に乗り、いつものように街を“流して”いた。
「べつにりんねを捜していたわけじゃないべさ」
と、なつみは当時を振り返っていった。
いつもの場所をうろうろしたが、その夜は何もなかった。
なつみはあきらめて家のほうに引き返したのかもしれないが、
最後に流すところがもう一個所あり、
それは帰り道からわずかにそれた場所だった。
たぶん、なつみは幸運だったのだろう。
なつみが暗い通りに目を光らせていると、道の角で、
りんねがふらふらと車から降りるのが見えた。
なつみが車を停めると、
「ちょっと話があるんだ」と、りんねがいった。
なつみも飲んでいたが、少女もかなり飲んでいるのは一目瞭然だった。
「乗るべさ」と、なつみはいった。
「急ぐべさ、だれかに尾けられてるんだべ」
りんねはろれつがまわらないほど飲んでいた。
そして、もう一杯飲みたいといいだした。
ポケットを探ってみたものの、財布は見つからなかった。
なつみは、今はお金を持ってないといった。
なつみの家に帰って飲むのなら問題はなかった。
後年、安倍なつみはあの夜の会話の細部までおぼえている、
とドクターたちに話した。
車を停めて家に入ったのをおぼえていたし、
りんねにビールを勧めたことも記憶にあった。
すべてが鮮明だった。
りんねはさらに一杯飲んだせいで正気を失い、
あらたな怒りを燃えあがらせた。
「あんたがなぁ」と、少女は叫んだ。
「マネジャーを引き抜こうとしてたことは知ってるんだ!」
なつみはなだめる口調でいった。
「そのことはさっき話しあったべ。みんなで話して納得したべさ」
なつみの話では、少女は泥酔していて、
けんか腰になったかと思えば、つぎの瞬間には謝っていた。
「なんとか……抑えなけりゃやばいと思ったんだべ」
後年、安倍なつみは、りんねにどうやって手錠をかけたかを実演しながらいった。
手錠――一週間前にあさみに使ったものだ――は
リビングルームの戸棚に置いてあった。
たいていそこに置いてあるのだ。
なつみは、とっておきの面白い話でもするように、楽しそうにいった。
「あ〜あ、見せたかったべ。りんねを乗せる直前、
おまわりさんが男の人を車にたたきつけて手錠をかけてたんだべ。
ねえ、ぜひ見せたかったべ」
りんねはむっつりとすねていた。「それがどうしたの」
「いいや」といって、なつみは手錠を戸棚からとりあげた。
「見せたかったべ」
立ちあがり、手錠を右手に持ってぶらぶらさせる。
「そのおまわりさんがどうやったか見せてあげるべ」
「なんでそんな必要があるの?」
「見ればわかるべ、さあ」
安倍なつみは少女の右手首に手錠をかけた。
「よーし、左手をうしろにまわすべさ。ほら、見せてあげるから……ちょっと待つべ」
少女の両手にしっかり手錠がかけられると、
なつみはもはや猫なで声でしゃべる必要はなかった。
「さあ」と、なつみはいった。
「これでじたばたできないし、暴れて物を壊すわけにもいかないべ」
なつみは少女の声をまねていった。
「ちくしょう、手錠がはずれたらぶっ殺してやるからな」
なつみはすぐに偉そうにいった。「はずれないべさ」
「ぶっ殺してやる」
「まあ、落ち着くべ。りんねの酔いがさめるまで手錠はそのままだべ。
ひと晩かかるっしょ」
りんねがむなしい努力を重ねて手錠をひっぱっていると、
そのうちバランスを崩してつまずいてしまった。
なつみは、「手を貸して床に寝かせてやったべ。
だって、よろよろしてたし、テーブルの角に頭をぶつけて、
けがをするかもしれなかったべ」
りんねが仰向けになると、なつみは、
しばらくその少女の腹の上にすわっていたような記憶がある。
「手錠がはずれたら、ぶっ殺してやる」りんねがすごんだ。
「ぶっ殺されるのはりんねのほうだべ。酔いをさますべさ、いいね?」
そのあとお酒を飲んだべ、と安倍なつみはドクターたちに語った
――「酔ってたうえにさらに酔っちまったべ」――それからりんねのとなりに寝た。
なつみがドクターたちに話したことを信用すれば、一晩じゅう添い寝をして、
怒り心頭の酔っぱらった少女が正気に戻るまでそうしているつもりだった。
「確か夜中の三時ごろだったべ」となつみはいった。
酔った少女に添い寝するという最後の憐れみの情。
それが、その夜の最後の記憶だった。
なつみは自分のベッドで目ざめた。
自分がどこにいるのかわからないほどの二日酔いで、
思わずあたりを見まわしたほどだった。
なつみはバスルームへ行ってから、
ふらふらとキッチンに入り、なにか食べるものを捜した。
ごくふつうの朝だった。
リビングルームにはまだ明かりがついていたので、
なつみは、だれが点けっぱなしにしたんだべ、と思った。
彼女は思った。りんねだ。りんねがまだそこにいるのだ。
安倍なつみはそう思った。
もう起こして、朝食をつくってやってもいいだろう。
なつみは、ドクターたちにそう話した。
死んでいる少女に朝食をつくってやるつもりだったと話したのだ。
安倍なつみは、りんねはまだ生きていると思っていた。
なつみが明かりを消すためにリビングルームへ入ろうとしたとき、
ドア口ごしに、床に横たわっているだれかの足と膝が見えた。
そして……りんねがそこにいた。
うしろ手に手錠をかけられ、仰向けになったりんねが、
安倍なつみが置き去りにしたままの格好で横たわっていたのだ。
ただし、首にはロープが巻きつけられ、目を閉じていたが、
顔は青みがかった赤い色で口をあんぐりあけていた。
なつみは少女のそばに膝をつき、まずロープをはずしてやった。
“ただ気を失っているだけ”だ、と信じこもうとした。
顔を少女の胸にあて、鼓動を聴こうとした。何も聴こえない。
なつみは顔をあげることができず、しばらく耳をつけていた。
ロープが巻きついていた首のあたりをマッサージしながら、
口うつしで人工呼吸をしてみようかとも思ったが、
冷静に考えてみるとばかばかしいことに気づいた。
りんねは死んでいるのだ。
少女をうつ伏せにして手錠をはずしてやると、
死体は硬くなってはいたが、完全に硬直しているわけではなかった。
なつみは早朝の静まりかえった家のなかを見まわした。
今回は、少なくとも拭きとるべき血痕はのこっていなかった。
どう説明したらいいんだべ?
なつみは少女の首にロープを巻かなかったし、強くひっぱらなかったし、
死ぬところを見てもいなかった。
でも、ゆうべはほかにだれもいなかったから、彼女がやったに違いない。
でも、なぜおぼえていないのだろう?
どうして何も思い出せないのだろう?
そして、なぜ同情をおぼえないのだろう?
おなじ事務所の少女がいて、いっしょに食事をし、引越しを手伝ってくれたのに、
彼女は死んでしまって、なつみはもう生きていたその少女の姿を思い描けないのだ。
どんな死にかただったにしろ、りんねの死はもう終わったことで、
だれも二度と口にしないに違いない。
それが、なつみが死体について考えたことだった。
むろん、やらなければならないことがあった。
なつみは床下に、苦労しながら十分な大きさの穴を掘り、死体を押しこんだ。
それからなつみは土をかぶせ、表面を平らにならした。
それっきり二度とりんねのことを考えずにすんだ。
りんねの両親は、朝になってもりんねが帰ってこず、何の連絡もないことを不審に思った。
いつまでたってもりんねが帰ってこないので、両親は警察に電話をかけ、
娘は安倍なつみという名の事務所の先輩のところへ行くといっていた、と伝えた。
安倍は、警察がりんねについて訊きにきたことをおぼえていた。
彼女はありのままに話した。
少女は数人の友だちを連れてやってきて、しばらくいいあらそい、
やがてすべてがまるく収まった。りんねは友だちと帰っていった。
その点については友だちに訊けばわかるはずだ。
逮捕され、ドクターたちの鑑定を受けるまで、
安倍は、りんねが死んだ夜、その少女をひっかけたことを忘れていた。
警察はりんね家に、娘さんは家出したのだろう、と告げた。
家族は、家出したにしてもあまりに状況がおかしい、といいはった。
なにも持たずに家出する人間がどこにいるというのだ?
ちがう、家出したのではない。家族は娘の安否を気づかった。
両親が安倍に電話をすると、協力は惜しみませんという答えが返ってきた。
安倍は、仲のよかった後輩が家出したことを残念がっていた。
りんね家は毎週のように警察に電話をかけ、
安倍の家を訪ねてもう一度事情聴取してほしいとせきたてた。
二年間で百本の電話を受けた警察は、
これ以上電話をかけてくれるなとりんね家にいいわたした。
安倍なつみが考えるには、そのとき、ひとりの連続殺人犯が生まれた。
彼女はなつみが知らない<もうひとりのなっち>であって、
なつみのなかに住み、こそこそ隠れ、チャンスをうかがっていた。
やがて、そのなっちは殺人を犯した。
なつみはドクターたちに、ほんとうに五人の死しか知らない、
実際に埋めたのは五人だ、と告げた。
最初は正当防衛で、そのときは最初から最後までずっとなつみだった。
つぎがりんねで、朝になると、理由もないのに
少女の死体がリビングルームで見つかったのだ。
なつみはまったくおぼえていなかったし、
少女がどんなふうに死んだのかもわからなかった。
<もうひとりのなっち>が現れると、
安倍なつみの世界はゆらぎはじめて真っ暗闇になるのだ。
殺しをやる自分の内なる存在についてはまったく記憶がない。
思い出せるほかの三人についてもおなじだった。
なつみは些細なことをおぼえていたし、少女たちがうしろ手に手錠をかけられ、
首にしっかりロープを巻きつけられて死んでいたことも記憶にあった。
安倍なつみと矢口真里のデュオの計画は、長いあいだ検討されていたが、
結局中止になり、その原因はなつみの歌唱力不足だった。
なつみは歌をうたう仕事がしたいと言う一方で、歌のレッスンにはほとんど行っておらず、
真里がその矛盾を指摘しても、理解していない様子だった。
真里はべつの道に進むことにきめ、殺人はますます頻繁に起きるようになった。
床下のスペースはいっぱいになってしまい、
安倍なつみが殺した最後の四人は、埋められてすらいなかった。
全員、なつみの家から車で一時間半走ったところにある橋から、
下の川に投げ落とされていた。
なつみが最後の少女を拾ったときに、たまたま数人の目撃者がいて、
警察の本格的な捜査を受けることになった。
警察、心理医たち、そして弁護士たちですら、
なつみに本当のことをいうようにプレッシャーをかけた。
あるドクターは、嘘をつくのはやめなさい、真実を語ってくれないと
医学的にも証人席でも力になってあげられない、といった。
精神科医や弁護士からなる弁護側チームはよってたかってなつみを攻め、
強硬な態度をとった。
弁護側チームはなつみの命を救うために<もうひとりのなっち>に会う必要があった。
――もしいるとすれば、きっとうろおぼえの夢のようになつみの心のなかに潜んでいるのだ。
弁護側チームはなつみに、すべての殺しの再現をさせたがった。
なつみはがんばった。真剣にがんばった。
ばかばかしいと思いながらも、彼らのいいなりになった。
なつみは椅子に前かがみにすわり、頭を横にかしげて目を閉じる。
眠っているのかもしれない。
眠っている人間、あるいは眠ったふりをしている人間がやるように、
なつみは軽くいびきをかきはじめる。
何分かが経過する。
ようやくいびきが止まり、なつみはぎこちなく眠りからさめて、重そうに体を動かす。
「よーし。手品を見せてあげるべ」
なつみは右手に持っているものを差しだす。
「手にとってはめてみるべさ」
「手錠?」少女は不安そうにたずねる。
「手品用の手錠さ。秘密のボタンがあるんだべ。どうやってはずすか教えてあげるべ」
「くるっとまわってみるべ。ちゃんとはめられたかどうか見せてみるべ」
なつみは少女の手首を見おろす。
それぞれの手錠をたしかめ、ほんの一瞬、にっこり笑ってその場に立つ。
やがて、顔がゆがむほど力を入れ、両手で手錠をぎゅっと締めつける。
「ほんとに痛いよ」少女はいまにも泣きだしそうだ。
「ボタンはどこ? どうやってはずすの?」
「冗談だべ。ボタンなんかありゃしないんだべ」
なつみはきわめて単純な手順を愚か者に説明しているのかもしれない。
「鍵がいるんだべ」なつみは忍耐づよく説明する。
その声には笑いを噛み殺している気配がかろうじて感じられる。
「ねえ、お願い」少女はあわれっぽい声を出す。
「はずしてよ。痛いよ」
「黙るべさ」なつみは穏やかな声でいう。
「その手錠をはずしてもらいたいかい?」と、なつみがたずねる。
「うん、お願い」全面降伏だ。
「だったら」――なつみはいま、正気の極致にいる――「いいというまで食うべ」
「全部食べたら手錠をはずしてやってもいいべ」
少女はもう何回も吐いたあとでぐったりしている。
ついに少女の懇願する声が聞こえてくる。
「ねえ、ねえ、もう帰ってもいいっていったよね」
「嘘をついたんだべ」なつみが穏やかにいう。
なつみは少女を仰向けにして、その上に力いっぱいとび乗る。
「腹筋が弱いといい歌がうたえないべ?」
なつみはそうたずねるものの、返事はなく、
痛みをこらえる途切れ途切れの叫び声がするばかりだ。
なつみは夢中になっている。
そしてまた少女の腹を力いっぱい押す。
長く悲しげな金切り声があがるが、それもやがて聞こえなくなる。
「楽しくないかい?」
なつみは、幼い子どもか愚か者に話しかけるようにたずねる。
「そろそろ楽しくなったんじゃないかい?」
とにかく、少女はおなかをすかしていたので、二人は最終的になつみの家に行って、
なつみが食べ物をつくってやった。ハムのサンドイッチだ。
なつみはハムの大きな塊を切った。いつも安くつくので塊で買っていたのだ。
というわけで、大きな肉切り包丁でハムを切った。
ふたりの話題はまたしても芸能界になり、モーニング娘。のことをいろいろ訊かれた。
さんざん話をして、なつみは疲れきってしまい、
「なっちは寝るから」といった。
少女には、泊まっていけばいいじゃないか、と勧めた。
駅まで送ってあげるよ、といって。
74 :
スレッド再生委員会:2000/10/30(月) 05:00
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
細心の注意を払っていたにもかかわらず、
>>73 でミスってしまいました。
依頼者の方、申し訳ございません。
73に来るはずなのは
>>74 です。それ以降は通常通り続きます。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
「汗をかいてるみたいだべ。きれいにしてあげるべ」
なつみは少女の上から立ちあがる。
「バスルームまで歩いていけるっしょ」
「無理だよ……歩けないと思うよ」
「だったら」なつみはいらだたしげに説明する
――どうしてこのこらは何もかもむずかしくするんだべ――「這っていくべ」
なつみは膝をついてバスタブの蛇口をひねり、少女を見おろす。
これからやらなければならない仕事がある。
徹底的に浄化し、清めるのだ。
なつみはやさしく円を描くようにして少女を洗いはじめる。
「痛くないべ?」
なつみは思いやりをこめて訊き、少女は長く続くすすり泣きで答える。
「ただの洗面用タオルだべ」
なつみはやさしい声でいう。「痛くないさ」
なつみがいきなり同情的になったせいで、少女は堰をきったように泣きはじめる。
「悪かったべ」なつみは心から謝る。
「痛かったんなら、ごめんよ。きつくこすりすぎてるなら、いうべさ。これでいいかい?」
なつみは返事を待っているが、少女は何もしゃべらない。
「なんとかいってほしいべさ」
返事はなく、それがなつみをいらだたせる。
親切にしてやってるのに無愛想にしてるべ。
ただ目を閉じて横たわり、気絶したいとか死にたいとか考えてるべ。
なつみはバスルームの明かりから目をそらし、少女の頭を水のなかからひっぱりあげる。
たちまち、力なく咳きこみながら空気を求めてあえぐ声が聞こえる。
「ああ」少女は息もたえだえに嘆願する。「ああ、助けて」
なつみは少女の頭をつかみ、じっと光を見あげる。
「都会はなまら汚れてるべさ。室蘭の自然のように清らかにならないといけないべ」
「まず」と、なつみはいう。「浄めなければいけないべ」
そして少女の頭を水のなかに突っこみ、光を見あげる。
人には息を止めていられる限界というものがあるから、
なつみが三回目に水中から引きあげるころには、
少女の顔のまわりには泡がぶくぶく立ちのぼっている。
なつみは少女に肺から水を吐きだす時間をあたえ、
それから、あえいで真っ赤になっている少女の顔を
自分の顔のすぐそばまで引き寄せる。
「まず浄めなければいけないべ」
そういって、少女の頭をまた水のなかに突っこむ。
そして儀式は延々と続く。
突然、あらたな考えがひらめく。
「なっちは腹ぺこだべ。なんか食うかい?」
その声にはひょうきんな響きがある。
なつみが冷蔵庫をあけると、うまそうなものがぎっしり詰まっている。
「サンドイッチを食うかい?」
なつみが呼びかける。が、返事はなく、「じゃあ、なっちが食っちまうべ」
サンドイッチを食べ終えると、またちょっと仕事に戻る。
寝る前に二つ三つ片づけることがあるのだ。
「よーし」なつみは椅子から立ちあがり、少女が横たわっている寝室へ歩いていく。
「あしたは早起きなんだべ。もう帰ったほうがいいべ」
なつみは思いっきりあくびをする。
「行くよ」少女が弱々しい声でいう。
「だれにもいわないよ……」
「わかってるべ」と、なつみ。
「だって、もうひとつ手品があるんだべ。きっと気に入るべ。ロープの手品なんだべ」
なつみはロープを手に取った。
「これが最後のゲームだべ」と、なつみはいう。
なつみはとても誠実な人間で、
いまはちょっと疲れているが、これはまじめな手品なのだ。
「終わったら車で送ってあげるべ」
なつみは少女の首にロープを巻きつけ、絞めながらいう。
「アーティストにとって喉は命だべ。こうやって鍛えてあげるんだべ」
これはゲームだ、少女は考えた。十代で死ぬ人なんていないのだから。
これはただのゲームで、自分は死なない。死ねないんだ。
自分はまだ十代で、これはただのゲーム、ただの手品、“最後の手品”なんだ。
「お願い」少女があわれっぽい声でいう。「お願い、ちょっとゆるめてよ」
ついに少女が息絶えると、すべてが終わり、なつみと少女はやっと解放される。
「こんな弱い人間は歌う資格はないべ」と、なつみはつぶやく。
なつみは少女の喉のなかに布を押しこみながらいう。
「もっと強くならなきゃだめだべ」
裁判では、検察側も弁護側も、安倍なつみが多重人格だとは考えなかった。
弁護側は、なつみは精神異常であると訴え、法的に責任能力がないと主張した。
裁判官は、精神異常の答弁を退け、有罪判決を下した。
安倍なつみは、死刑を宣告された。
なつみはいった。「ひとり残らずおぼえてるべ。三十三人全員をね」
「すべてを知ってるのはなっちひとりだべ」
安倍なつみは、ドクターも弁護士も信じていなかった。
だから、なつみはドクターたちに一部始終を話したわけではない。
隠しておいたことがあるのだ。
まだいくつかちょっとした秘密があって、
まぬけな弁護士やドクターや警官たちはだれも知らないのだ。
秘密をもっていると、なつみは気分がよかった。
が、その反面、秘密というものは、こちらが出し抜いていることを
相手にわかってもらわないかぎり、まったく面白くない。
安倍なつみは検察側がすでに知っていることしか話さなかった。
あとのことは思い出せないといいはった。
しかし、なつみがなぜ最初の殺人についてしゃべったのかは説明がつかなかった。
警察も、その殺人のことは何もわかっていなかった。
少女の身元すらいまだに確認されていなかった。
あの日、なつみと少女は眠った。
なつみは自分の寝室で、少女はべつの部屋で。
が、そこで何かが食い違っていた。
その殺人に関する最新の説明のなかで、なつみは、
目をさましたとき、少女が右手に包丁をもってベッドのそばに立っているのに気づいたのは
午前四時ではなかった、と強調した。
もう日は昇っていて、朝になっていた。
なつみは少女の声を聴いたのだろう。
少女は実際に手を伸ばして、なつみの足にさわったのだろう。
なつみを起こそうとして、そっと揺すったのかもしれない。
なつみに見えたのは包丁だけだった。
彼女は少女に向かって突進し、包丁をもっている手をつかんだ。
が、包丁を奪おうとして取っ組みあいになったわけではない。
とにかく、その最新の説明ではそうなっていた。
少女はびっくりして脅えているみたいだったし、
まったく抵抗しなかったべ、となつみはいった。
なつみが少女の手首に手を伸ばしたとき、
少女は身を守るように体のわきから包丁を持ちあげた。
包丁がなつみの手のひらの肉厚な部分をざっくり切った。
なつみは手を流れる血から目をそらすことができなかった。
“爪先から脳天まで力がみなぎった”感覚をはっきりおぼえていた。
「なっちはもう弱い人間じゃなかったべ。いままでより十倍は強くなった気がしたべ」
その力は両手に集中した。
両手が異常に大きく力強くなった感じが満ちあふれた。
「こんなやつに負けないべ、やっつけてやるべ、と思ったさ。
体じゅうの血が顔にのぼっていくのがわかったべ。
目なんか顔からとびだしそうだったべ」
いってみれば一方的なけんかだったが、なつみは、
少女が“包丁の上に倒れたり自殺したりしたのではない”と認めざるをえなかった。
巨大な両手で少女をつかみ、思いきり壁にたたきつけてやったべ、となつみはいった。
少女は頭からぶつかって、包丁を落とし、ゆっくりと壁ぞいにずり落ちた。
なつみは少女の胸をまたいで立っていた。
左手で少女の金髪をひっつかみ、頭を床に打ちつけていた。
包丁はなつみの右手にあり、その包丁が少女の胸に突き刺さっていくのが見えた。
熱くてぬるぬるした血が流れた。
部屋がぐるぐるまわっているみたいだったべ、となつみはいった。
わけのわからない音がしていた。
包丁のぴしゃぴしゃいう音、苦痛と恐怖の金切り声、
ぱっくりあいた胸の傷口から聞こえる“ゴボゴボ”いう不気味な音。
少女がようやくおとなしくなると、なつみは死体を転がしてどけた。
「なっちは疲れきって、くたくただったべ」
しかしなつみは戦いに勝ったと思った。
その達成感のすさまじさになつみの頭はしびれた。
「そのとき、死は究極の勝負だってわかったんだべ」
寝室からいつまでも聞こえてくる“ゴボゴボいう音”のせいもあったが、
その天啓のせいで、
「なっちはわけもなくうろうろと歩きまわったべ。身も心もへとへとだったべ」
ふと気づくと、なつみはバスルームで、自分の体と、
どうやら持ち歩いていたらしい包丁を洗っていた。
包丁がきれいになると、彼女はキッチンへ持っていって“もとの場所”に戻した。
なつみはそのとき、テーブルにふたり分の食器類が用意されているのに気づいた。
なつみが用意したものではなかった。
カウンターには卵のパックが置いてあって、
まないたの上にはベーコンの大きな塊がのっていた。
ベーコンはまだスライスしていなかった。
少女はふたり分の食器を用意し、
うっかり包丁をもったままなつみの部屋へやってきて、
彼女を起こそうとしたのだ。
おそらく、ベーコンを食べるかどうかなつみに訊いたのだろう。
「あのこはなっちをやっつけようなんて気はなかった。
あのこは気のきいたことをしようとしてたんだべ」
だから、最初の殺人は事故だったのだ、
これっぽっちもなつみの責任ではなかったのだ。
だから彼女は警官たちにその話をした。
いっさいの罪がなかったから。
「なっちは『ギネス・ブック』に載ってるんだべ」
そういったなつみは、あからさまに誇らしげだった。
「あのこらを殺すのは簡単だったべ」
最初の十二、三人がすぎれば、あとは赤子の手をひねるようなものだった。
最後のほうの何人かにはルールを変えたさ。
「たとえば、手錠すらかけなかったのが何人かいたべ。
ロープの手品だけしか使わなかったんだべ」
あのころが絶頂期で、充実感に満ちた楽しい時期だった、となつみはいった。
逮捕されてから六年後、最高裁判所は、安倍なつみの有罪判決と死刑宣告を支持した。
死刑判決をうけた安倍なつみは、その七年後に延期願いが出され、
二年後のいまなお死刑囚監房で刑を待つ身である。
「埋もれた夢」終わり
97 :
漂流記:2000/10/30(月) 05:02
「モー娘。の世界珍料理ツアー」のロケにいく途中、娘。達の乗ったセスナは海へ墜落した。
娘。達十人だけが浜辺へ流れ着いた。
「みんなよく聞いてほしい。いろいろ考えるのには、時間がいる。
すぐに何をしたらいいのか、私には決められへん。
もしここが島でなかったら、すぐに救いだしてもらえるかもしれん。
ここが島かどうか確かめる必要がある。みんなはこの付近で待っていてほしい。
どこにも行かないでもらいたいんや。
うちらのうち、だれか三人がこれから山に登って、事実を確かめてくる。
でかけるのは私と、かおりとそれから……」
熱意に燃えた顔を、彼女は見つけた。
「それから加護」
加護は、かろうじて助かった荷物のなかから大きなナイフを取り出してうなずいた。
98 :
漂流記:2000/10/30(月) 05:02
果物も水もみつけていたので、すぐに困ることはなさそうだった。
海岸はあたり一面椰子でおおわれていた。
海の水は澄みきっていて底まで見え、
熱帯の海草や珊瑚が花のように多彩に輝いていた。
一種の魅惑的なものが三人とあたり一帯の光景の上に漂っており、
三人はそれを感じて幸福感に充たされていた。
太陽はさんぜんと輝いていた。
99 :
漂流記:2000/10/30(月) 05:02
中澤は手をかざして、山へ通じているごつごつした岩の連なりを見た。
このあたりの砂浜が、今まで彼女らが見てきたどこよりも、山へ登る近道のようであった。
三人はよじ登り始めた。
途中で、くねくねと上のほうへと向かって登っている狭い小道が時として見られた。
三人はその小道沿いにじりじりと登っていった。
「この小道はなんの足跡なんやろう?」
加護はひと息ついて、顔の汗をぬぐった。
中澤は息をきらして彼女のそばに立っていた。
「人間やろか?」
加護は首を振った。
「動物やねん」
山頂に立ち、丸い水平線を見渡すと、三人は自分たちが島にいるのがわかった。
「人家の煙もないし、ボートもないね」と、中澤はいった。
「もっと確かめないとはっきりいえんけど、どうも無人島らしいわ」
「食料を確保する必要があるねん」と、加護は大声でいった。
「狩をしなくちゃあ。いろんなものを捕らえるんや……そのうちに助けがきますわ」
飯田は二人を見た。何もいわず、ただうなずくばかりだったが、
その黒い髪が、前やうしろにばたばた揺れるほどだった。
「お腹が空いた」
飯田が空腹を訴えると、他の二人もそのことに気づいた。
「さ、いこう」と、中澤はいった。「これでだいたいわかった」
暗くなるほど茂った森の入口にさしかかり、
疲れた足どりで小道をとぼとぼとたどっていたとき、
急にある――物音、動物のきーきー鳴く声――が聞こえ、
地面を蹴る激しいひづめの音が聞こえてきた。
三人が突進していくと、その悲鳴はいよいよ激しく、
しまいには、狂気のような叫び声になった。
網の目のようになったつる草に絡まれた仔豚が、恐怖のあまり、気違いのようになって、
弾力性のあるそのつるに向かってわれとわが身をぶっつけているのだった。
その悲鳴は細く、突き刺すように鋭く、必死だった。
三人はさらに突進した。加護は、一閃、ナイフをひらめかした。
彼女は、ナイフを握った手を高く揚げた。
が、その瞬間その手はそのまま、くぎ付けになったように静止してしまった。
依然として豚は悲鳴を上げ続け、つる草は依然としてぐいぐい動き続け、
加護の腕のせん端に掲げられた刃は、きらきら光り続けた。
加護のじっと静止していた時間が長いといっても、要するに、
もし刃をうち下ろした場合どんな恐ろしい事態が起こるかもしれないということを、
彼女らが理解できる程度の長さであった。
そのうちに、仔豚はつる草から身を解き放ち、かん木の下生えの中へ逃げ込んだ。
彼女らはそのあとただ顔を見合わせ、
流血の修羅場になりかねなかったその場所を、見つめていた。
加護の顔は真っ青で、気がついてみると、まだナイフを振り上げたままだった。
腕をおろし、ナイフの刃をさやにおさめた。
それから、三人は照れくさそうに笑って、またもとの小道のほうへと下りはじめた。
三人とも、なぜ加護が殺さなかったか、その理由はわかっていた。
ナイフを振って相手の生身を切るということのものすごさ、
見るに堪えぬ流血の悲惨ということ、それが理由だったのだ。
「もう少しで殺すところやったのに」と、加護は悔しそうにいった。
やがて、三人は日のあたる場所にでて、そこらにある果物などを探しては食べ、
断崖の所へ下り、さらに砂浜の高台、みんなの集まっている所へと下りていった。
十人は高台に倒れていた椰子の幹に腰をかけていた。
「うちらは島のなかにいる。うちら三人は、山の頂上へいって、
ぐるっと海に囲まれているのを見てきたんや。
家も煙も足跡も船も人間もみえんかった。
つまり、ほかにだれも人の住んでない無人島にうちらはいるわけや」
加護が、言葉をさしはさんだ。
「でも、豚がいるねん。」
加護は、つる草に絡まれたもがいていた紅色の動物のことを、
なんとか説明しようとやっきになった。
「うちらは見たねん――」
「きーきー鳴いてた――」
「そいつは逃げちゃった――」
保田が立ちあがった。
「裕ちゃんの話のじゃましないの。一番たいせつな話をまだしてないよ」
「うちらがここにいるのを、だれが知っていると思う? え?」
彼女は、そこで言葉をきったが、それは効果があった。
「うちらが現在どこにいるのか、だれも知らないんだよ」と、保田はいった。
顔色が少し青ざめていた。
「どこへ向けて飛んでいこうとしてたかは、知ってるだろうね。
でも、目的地に着かなかったんだから、
現在うちらがどこにいるか、だれも知らないと私は思う」
中澤が話しだした。
「そう。それをいおうとしてたんや。
うちらのいる場所はだれにもわかっとらん。
ここには長い間いることになるかもしれん」
完全な沈黙が続き、呼吸の音さえ聞きとれるほどだった。
「そんなわけで、うちらはここに長くいることになると思うんや」
だれも、何もいわなかった。中澤は、突然、にやっと笑った。
「でもここはいい島や。食べ物も水もあるし――」
中澤は続けていった。
「救助を待っている間は、この島で結構楽しくすごせるやろ」
「あの蛇みたいなものはどうするんですか?」
と、突然石川がいった。
「蛇みたいのってなんや?」
「獣みたいなものです。私、見たんです」
「どこで?」
「森の中でです」
あたり一帯を吹きぬけてゆく風のせいか、それともおそらくは日のかげったせいか、
木陰がいくらか涼しくなった。
少女たちはそれを感じ、おちつきを失ったようであった。
「このくらいの島に、獣だか、蛇だか知らんけど、そんなものいるわけないやろ」
と、中澤はさとすように説明した。
「そんなのはアフリカとかインドみたいな大きな国にいるもんや」
「でも見たんです。獣が暗闇にまぎれてやってきたんです」
「それじゃ、見えんかったはずやろ」
矢口が笑いだした。
「それでも見たんです。一度やってきて帰っていっていったけど、
またやってきて、私を食べようとしたんです」
「夢を見ていたんやないんか」
中澤は、笑いながら、一同に向かって同意を求めるような顔をした。
「悪夢を見ていたんやろ、きっと」
「獣みたいな、蛇みたいなものを見たんです。今晩もやってくるんでしょうか?」
「でも、獣みたいなものなんておらへんって」
「その獣は、朝になったら、木に登って枝にぶら下がっていたんです。
今晩もやってくるんですか?」
「獣なんかおらへん」
こんどは、だれも笑わなかった。
「ところで一番たいせつな話がある。実はさっきから考えていたんやけど。
山に登っていたときにも実は考えていたんやけど」
彼女は、つれの二人に眼くばせして、にやっと笑った。
「つまり、それはこういうことや。うちらはここでおもしろく暮らしたいということ。
それから救助されるのを待っていたいということ、こういうことや」
賛成の意を表わす激しい声が、会衆から起こって、波のように彼女を襲った。
「うちらは救助されるのを待っていたいと思う。
そしてもちろん、救助されるにきまっとる」
喝采と喜びの声が、またもや鳴り響いた。
「もう一つ、いいたいことがある。
それは、うちらを救助してくれるのに、うちらも協力できるってことや。
船がこの島の近くにきても、うちらに気がつかんかもしれん。
だから、山の頂上で煙を上げておかんといかん。
のろしを上げていないといかん」
「火だ! のろしを上げるんだ!」
たちまち、半数の少女たちは立ち上がった。
加護も、その仲間に入って叫んだ。
「さあ、行くで!」
椰子の木陰一帯は、騒音と動きでいっぱいになった。
中澤も立ち上がり、静かにしろと叫んだが、だれも耳をかす者はなかった。
たちまち、群集は山のほうへなびいてゆき、姿が見えなくなった
――加護の後を追っていったのだ。
中澤は、ただ保田と二人だけになっていた。
「まるで子供みたいじゃない!」と、保田は侮蔑をこめていった。
「あんなふうに行動するんじゃ、まるで子供の集まりじゃない!」
中澤は、彼女を怪訝そうに見ていたが、急に山を見上げた。
「裕ちゃん! ちょっと! どこへ行くの?」
中澤は、すでに断崖の最初の崖崩れの所にとっかかっていた。
ずっと前方からは、バリバリいう音や笑い声が聞こえていた。
保田は、不愉快な面持で彼女を見つめていた。
「まるで子供の集まりじゃない――」
彼女はため息をつき、身をかがめ、靴紐を結んだ。
われさきにと急ぐあの連中のざわめきの声が、山の上のほうへ消えていった。
子供たちのただ意味のない興奮のお供をしてやらなければならない親のように、
殉教者みたいな表情を浮かべながら、彼女はライターの入っている荷物を拾い上げ、
森のほうへ向かって進み、やがて崩れ落ちた断崖の一角から登りはじめた。
山頂の反対側の下のほうに森が茂っている高台が見えた。
「あそこの下のほうやと、木はいくらでも手に入りそうやな」
山の険しい側の、そこからおよそ百メートルくらい下に、
いわば薪の貯蔵所とでもいえる地点があった。
「今から薪を積むで。さ、始めや」
彼女らは適当な小道を探して下りてゆき、枯れ木を引っぱり上げ始めた。
そよ風が吹き、叫び声が聞こえ、高い山には太陽の斜光が射していたが、
そういう情景のただ中にあって、再びあの光輝が、
友情と冒険と満足にみちみちたあの不思議な、眼に見えない光が、漂っていた。
薪の山ができ上がったのを知るにつれ、一人ずつつぎつぎと薪をとりに行くのをやめ、
紅色のぼろぼろの岩肌をみせる山頂につっ立っていた。
薪に火をつけると、初めはほとんど見えなかった炎も、
やがて一本の小枝をつつみ、勢いをえて色づき、大きな枝に燃え移った。
鋭い音をたててその大枝ははじけた。
炎は高く燃えあがり、少女たちは喜びの喚声をあげた。
薪は朽ち果てていたので乾いており、
激しい勢いで枝ごとごっそり黄色い炎にのまれていった。
炎は上へ上へと燃えあがり、高さ五メートルもある一大火炎の柱となって天にそそり立った。
火の周辺数メートルの所では、まるで溶鉱炉の熱風のような熱気があふれ、
一陣の風はそのまま一条の火花の流れであった。
中澤が叫んだ。
「もっと薪を! みんなで、薪をもっともってくるんや!」
火勢との競争が始まった。少女たちは、上のほうの森の中へどっと散らばっていた。
山頂に、いわば完全な炎の旗をへんぽんと翻すことだけが当面の目的であって、
だれもそれ以外のことは考えなかった。
風が少し出てきて、汗でぬれた顔に夕風をうけた少女たちは、
働くのをやめ、清涼の感を味わっていた。
と、急に自分たちが疲労困憊しているのに気がついた。
ぼろぼろに崩れ落ちている岩と岩との間に横たわっている影の中に、
彼女らは自分たちの体を投げだした。
炎の柱も急激に小さくなり、そのとたんに、
薪もにぶい燃えがら独特の音をたてて、内側へと崩れ落ちた。
火花の大きな柱がぱっと上がり、それも傾いたかと思うと風下のほうへ流れていった。
中澤は、両腕に抱えていた頭をもたげた。
「これじゃ駄目やね」
矢口は、まだくすぶっている灰を見つめていた。
「どういうこと?」
「煙がたたんかったやろ。ただ炎ばかりでな」
保田は、岩と岩の間にさっきから身をおいていて、腰をおろしていた。
「あんなのじゃ火を燃やしたことにはならないよ」と、彼女はいった。
「あれじゃ役にたたないよ。あんな火を燃やしつづけられないよ、
どんなに一生懸命になってもだめだろうね」
「そんな言いかたすることないべ。」と、安倍は強い調子でいった。
「裕ちゃんだって一生懸命やってるべ。あとからそんなこと言うのは簡単だべ」
保田は黙ってしまった。
「生の枝をくべればいいんだよ」と、矢口がいった。
「煙をたてるのにはそれが一番いいんだよ」
中澤は、ぐるっと、周囲の少女たちを見まわした。
「交替でのろしの番をする必要があると思うんや。
いつ船がすぐそこまでこんとも限らんからね」
――と、いいながら、中澤は、一直線に張ったような水平線のほうに向かって腕を振った。
「監視をおいて、もし船があそこに見えたら、生の枝をくべればいいんや。
そしたら煙が上がるはずや」
少女たちは、濃紺の水平線を見て、西へ落ちてゆく太陽を見た。
急に彼女らは、夕方というものが、光と暖かさの終りを意味するということに気づいた。
後藤は、暗い表情でみんなを見わたした。
「ずっと今まで海を見てきたんだけど、船の通る気配なんかぜんぜんなかったよ。
救助される見込みなんて、まずないんじゃないかと思うんだけど」
ものすごい見幕でぷりぷりしながら、保田はいった。
「いいかげんにしなよ、後藤。いつかは救助されるに決まってるでしょ。
ただそれまで待たなきゃいけないってことだよ。のろしを上げて。
だいたい裕ちゃんも、小さなのろしを燃やそうっていいながら、
まるでキャンプファイアみたいな薪の山を作って――」
彼女は急に口をつぐんで、立ったまま、少女たちの背後、つまり山腹の無気味な側にある、
枯れ木がたくさん見つかった広い地面のほうを、じっと見下ろしていた。
枯れた、または枯れかかっている木を彩るように、それに絡みついているつる草の間から、
煙があちらこちらに立ちのぼっていた。
見ていると、一塊の枝の下の所から、めらめらと火の手が上がり、煙も濃くなった。
小さな炎が、ある木の幹のあたりをなめ始め、樹葉や枝の間を這いまわり、
分れたり勢いを増したりした。
煙はもうもうと立ちこめ、いたるところへ入りこみ、外側へうねっていった。
炎の芯は、軽々と木と木の間隙をぬって飛び、並んでいるすべての木に沿って
揺れ、動き、ゆらめき、つぎつぎとそれらを燃えたたせていった。
少女たちの下方にある、二キロメートル四方の森林は、煙と炎の修羅場となっていた。
いろんな場所で起る火の爆音は、今や一大轟音と化し、山全体を震撼させるかに見えた。
「あんな大きな火を燃やすから――」
中澤は恐怖を感じていたため、かえって、ひどく狂暴になっていた。
「ちょっと黙っといてや!」
保田も不安そうに地獄のそれのような劫火を見下ろしていた。
「あれは、あのまま、燃えつくすまで放っておく以外に手はないね。
あそこは、あたしたちにとっては薪の山だったんだけど」
彼女は唇をかんだ。
「今はどうすることもできないね。これからはもっと用心しなくちゃいけない」
安倍は、火事から眼をそらしながらいった。
「いつでも後からそんなこというんだべ」
安倍はくすくす笑いながらいった。
「ほら、のろし、のろしって、あんなに煙が上がってるべ」
煙幕が、島から数キロにわたって張りめぐらされていた。
まわりの少女たちもくすくす笑い始めた。まもなく大声をあげて哄笑しだした。
保田は、腹を立てた。
「みんな、ちょっと聞いて!
最初にあたしたちが作らなきゃいけなかったのは、浜辺の小屋なんだよ。
夜になったら、浜辺はひどく寒かったじゃない。
それなのに、裕ちゃんが、のろしだ、っていうとわあわあいってこの山へやってくる。
まるでこれじゃ子供じゃないの!」
みんなは、いつの間にか、彼女の演説に耳を傾けていた。
「初めにやるべきことを初めにしないで――ちゃんとなんにもやってないで、
どうして救助されるっていう見込みがたつのよ?」
「それから、ここへきたら、なんの役にもたたないのろしなんかを上げた。
もう少しで、島全体を火事にするところだったじゃない。
島が全部燃えてしまったら、おかしいじゃ済まないよ。
焼けた果物があたしたちの食糧になるんだよ、それから焼き豚も。
笑いごとじゃないんだよ! 裕ちゃんはリーダーなんだ。
それなのに、裕ちゃんにゆっくりものを考える余裕を与えてない。
ちょっとでも裕ちゃんが何かいうと、すぐ飛びだしていく。
まるで――」
彼女は、息をついた。
「そういえば荷物は? さっき誰かが枯れ木のところにもっていったんじゃない?」
少女たちは不審そうに互いに顔を見合わせた。
「――いったい、荷物はどこにあるのよ」
彼女らの足もと、つまり山腹の無気味な側では、轟音がまだ続いていた。
加護は、体を二重に折り曲げていた。
湿っぽい地面すれすれに鼻をくっつけて、
短距離走者のような格好で前かがみになっていた。
周囲はただ一面の下生えであった。
ここには、ほとんど小道とはいえぬくらいかすかな跡が、あるにすぎなかった。
つまり、折れた小枝と、ひづめの、それもその片側の跡だけしかなかった。
彼女はあごを低くして足跡を見つめ、
無理にでもその足跡に口を割らせるような面構えを示した。
それから、犬のように四つん這いになり、その窮屈さもものともせずに、
五メートルばかりそっと進んでいって、止まった。
そこにはつる草の輪があり、その茎の節から一本の巻きひげが垂れ下がっていた。
巻きひげの下の部分が擦りへっていた。
豚がつる草の輪をくぐって行くときに、
その剛毛の生えた横腹でそれをこすっていったに違いなかった。
この手がかりを文字どおり眼の前にして、加護はうずくまり、
前方の茂みの薄暗がりの中をじっと見つめていた。
髪は、以前みんなといっしょにこの島に流れ着いたときに比べれば、
ずっとのびていたが、今では色はずっと明るいものになっていた。
肌は、日焼けで皮がむけかかっていた。
ナイフで先をとがらせた、およそ1.5メートルの長さの棒を、右手で引きずっていた。
彼女は眼をつぶり、頭を上げて、大きく開いた鼻孔からゆっくり息を吸った。
暖かい空気の流れから、何か情報をつかもうとしていたのだ。
森も静かだった。彼女も静かだった。
彼女はやがて長いため息をついて、眼を開けた。
その眼は、事態が思うとおりにならないので、射るような、ほとんど狂的な光を帯びていた。
乾いた唇を舌でなめ、なんの応答もない薄情な森を、じっとにらみつけた。
それからまたごそごそと前進し、地面をあちらこちら調べた。
暑さよりも、森の静寂のほうが、いっそういらだたしかった。
この真っ昼間というのに、虫の鳴き声一つ聞こえなかった。
灰色の幹に青白い花をつけた一本の大きな木の樹身のところで彼女は立ち止まり、
眼をつぶって、もう一度暖かい空気を吸いこんだ。
こんどは彼女の息づかいは速く、顔面には蒼白な表情さえかすめるように現われたが、
すぐ元気な顔色がみなぎってきた。
真っ暗な木の下を、影のように過ぎてゆき、うずくまり、
足もとの踏みつけられた地面を、じっと見た。
糞はまだ温かかった。それは、踏み荒らされた地面にうずたかく積まれていた。
オリーヴがかった緑色を呈し、なめらかで、しかもまだ湯気さえ少しのぼっていた。
加護は顔を上げ、小道の上を縦横に乱れ入りくんでいる、
容易に近づきがたい山のようなつる草を見つめた。
それから、槍をさし上げて、そうっと近づいた。
つる草の向こう側で、小道は豚の通る道と合体していた。
加護がからだをのばして立ち上がったとき、
その道の上を何かが動いている音が感じられた。
彼女は右腕をふりしぼり、全力をあげて槍を投げた。
豚の道から、ひづめのすばやい、固い音が、カスタネットのような音が聞こえてきた。
それは、よだれを催すような、狂気を誘うような――つまり食肉を約束する音であった。
彼女は茂みの中から走り出て、槍をつかんだ。
パタパタという豚の駆ける足音は、遠方へ遠ざかっていった。
汗にまみれ、いくすじもの褐色の泥にまみれ、
一日じゅうの狩猟のもたらした一喜一憂によれよれに汚れ果てて、
加護はそこにつっ立っていた。
罵詈雑言を吐きながら、小道からそれ、帰路を求めて茂みをかき分けて進んだ。
やがて森が少し開け、真っ暗な屋根のような梢を支えているはげた幹の代わりに、
ふわっとした椰子の木の、明るい灰色の幹と頂とが現われた。
それらの椰子の木のかなたには、海のきらめきが見え、
そこからは少女たちの声が聞こえてきた。
中澤と飯田が、椰子の幹と葉で作った妙なしろもののそばに立っていた。
つまり、それは海に面して作られた粗末な小屋だったが、今にもひっくり返りそうだった。
中澤が加護を呼びとめた。
「あんたも手伝いや。今日でもう何日もかかって、こんなんやで!」
小屋が一つ、とにもかくにも建ってはいたが、いかにもがたがただった。
今やっているのは、初めからあばら家だった。
「みんな逃げまわってばかりいるんや。手伝ってんのはかおりと圭坊くらいや。
他の連中は、みんな泳いだり、果物を食ったり、遊んだりしてるんや」
彼女は、加護の足もとに身を投げだした。
「あんたも狩りに行くとかで、すぐいなくなるし」
加護は、さっと赤い顔をした。
「肉を手に入れたいねん」
「うん、でもまだ少しも手に入れてないやろう。
それはそれとして、うちらには小屋がいるんや。
それに他の子らも、あんたが狩りに誘って連れまわしとるらしいな。
何時間か前に戻ってきて、それからずっと泳いどるけど」
「手伝ってもらってただけや」
「でも失敗やったんやろ」
「でも、こんどは必ず! この槍に逆とげをつければいいねん!
一匹の豚を刺したけど、槍がすべったんや。逆とげさえつけたら――」
「必要なのは小屋なんや!」
二人とも、顔を紅潮させており、互いに顔を合わせることができなかった。
「うちらが小屋が必要な理由は――」
彼女は、ちょっとの間、口をつぐんだ。
「あんたも気がついてるやろ――みんなが怖がってること」
彼女は、加護の怒っている、汚い顔をのぞきこんだ。
「みんなは夢を見るらしいんや。夜、聞こえるやろう?」
加護は、首を横に振った。
「夜中に、ごそごそ話をしたり、うなされては悲鳴を上げたりしてるんや。まるで――」
「まるで、この島がまともな島じゃないみたいにってことでしょ」
突然、横からそういわれたのでびっくりして、二人は飯田の真剣な顔を見た。
「まるで」と、飯田はいった。
「獣が――獣みたいな、蛇みたいなものが、ほんとにいるみたいにってわけだよね。
覚えてる?」
獣とか蛇とかいう、このぞっとする言葉を聞いたとき、二人はぎくっとした。
この言葉は、今まで口にはだされていなかったし、口にだすべき言葉でもなかったからだ。
「まるでこの島がまともな島じゃないみたいに、か」
と、中澤はゆっくりいった。
「まったくそのとおりや」
加護は、腰を下ろし、両脚をまっすぐにのばした。
「そんなのおかしいで」
「うん、おかしいな。うちらが山に登ったときのこと、覚えてるか?」
二人は顔を見合わせて笑った。
最初の日のあの魅惑的な幸福感を思いだした。
中澤は続けていった。
「ま、そんなわけで、うちらには小屋がいるんや。一種の家として」
加護は両脚を引っこめ、両膝を合わせ、何かものをはっきりいおうとして、顔をしかめた。
「でもやっぱり――森の中で狩りをしてるとき、まるで――」
彼女は、突然赤面した。
「逆に――自分が狩られて追っかけられてる、そういう感じがするねん」
三人は、再び沈黙した。
飯田は、厳しい表情を見せ、中澤は、半信半疑のような表情を表わしていた。
「とにかく、うちらにできる一番いいことは、救助してもらえるように努力するってことや」
救助がどういうことか、思いだすのに、加護は一瞬とまどった。
「救助って? ああ、そうか。でもやっぱりまず豚を手に入れたいねん――」
彼女は、槍をつかんで、ぐさっと地面に突き刺した。
不透明な、狂気じみた表情が、彼女の眼に表われた。
二人は、浜辺のほうに下りてゆき、水際でふり返って、例の紅色の山を見上げた。
細い煙が、底の知れないほど青く澄んだ大空に、白いすじを一本あげてたなびいていた。
それは高く上がっては揺れ、淡く消えていった。中澤は苦々しい顔をした。
「あれやと十キロ先くらいからしか見えんな。あれじゃ、煙が少なすぎる」
細い煙の根もとの所が、急に濃くなって煙の柱となり、天高く舞いのぼっていった。
「生の枝をくべたんかな?」と、中澤はつぶやいた。
彼女は、眼を細くして、くるっと反対の方向を向いて水平線を探した。
「見つけた!」
加護の大声に、中澤は飛び上がった。
「何を? どこや? 船か?」
しかし、加護が指さしたのは、山から下の平坦な地区にのびている、
かなり上のほうにある下り勾配であった。
「そうやったんか! あそこにおるのんか――暑いときはあそこでじっとしとんのか――」
中澤は、彼女の憑かれたような顔を、困惑した気持ちで凝視した。
「船かと思ったで」
「そっと登っていって一匹の豚に近づいて――顔に何か塗ったら豚にもわからんやろ――
みんなで囲んでそれから――」
憤慨した中澤は、自制を失った。
「私は煙のことを話してたんやで! あんたは救助されたくないんか?
あんたが話せるのは豚以外にないんか!」
「でも、肉がいるねん!」
日の照りつける浜辺で、二人は、感情の摩擦にわれながら驚いて、
にらみ合ったままつっ立っていた。
「仕事せんといかん」
中澤は、小屋のほうに戻りかけた。
「少し手伝う」と、加護はつぶやくようにいった。「泳ぐ前に」
二人が小屋のところにきてみると、飯田の姿は見えなかった。
中澤は、加護に向かっていった。
「うんざりしたんやな、きっと。それで、泳ぎにいったんやろ」
中澤は、渋い顔をした。
「かおりは不思議なやつなんや。変わったやつなんや」
加護は、相手のいうことならなんでも承認するといった調子で、うなずいた。
二人は、暗黙のうちに小屋を離れ、海のほうへ歩いていった。
二人はいっしょに歩いていった。
しかし、この二人は、体験も感情もまったく異なる、
そしてそれを互いに伝えることのできない、いわば平行線をたどる二つの存在であった。
「豚さえ手に入れられたらなあ!」
「小屋をはやく作らんと」
二人は、愛情と憎悪にかられ、とまどった気持ちで互いに顔を見合わせた。
海の温かく塩辛い水だとか、みんなの歓声や笑い声や水しぶきなどの中にまぎれこむと、
いつの間にか二人の心はまた元のようにとけ合った。
当然そこにいるはずの飯田の姿は、海でも見当たらなかった。
さっき、中澤と加護が、浜辺へくだって山をふり返って見ようとしたとき、
飯田は実は数メートルをへだててその後を追っていたのだが、
その途中で立ち止まってしまったのだった。
だれかが、ちっぽけな家というか、とにかく、小屋を砂で作ろうとしている浜辺の砂山を、
彼女は嫌な顔をしながら見下ろして立っていた。
それから、くるりとそれに背を向けて、何かはっきりとした考えがあるようなようすで、
森の中へ入っていった。
彼女は断崖をこえ、それから右に折れて森の中へ入っていった。
果物のなっている広々としたその森の中を、彼女はいつもの足どりで歩いていった。
そこでは、充分ではないにしろ腹を満たすだけの食事なら、
たやすくとることができるのだった。
同じ一本の木に、花と果実がいっしょについており、
いたるところで熟した果実の香りが漂い、
花にたかっている無数の蜂の唸り声も、そのあたりに漂っていた。
飯田は、そこから離れ、かろうじてそれと見分けがつく細い道を見つけ、
それをたどっていった。
たちまち、ものすごいジャングルの中へ入っていった。
あたり一帯は暗く、つる草が、
あたかも沈没した船の索具のようにぞろぞろと垂れ下がっていた。
日光が多少明るく照っている場所へ、やがて出た。
ジャングルの中のそういう開けた所の一隅に、
つる草が絡み合って大きなむしろのようになって垂れ下がっていた。
この全区域は、ぐるっと、暗い馥郁たる香りのする茂みで囲まれており、
いわば熱気と日光のあふれるすり鉢然とした場所だった。
飯田は、立ち止まった。
彼女はふり返って自分の背後が閉ざされていることを知り、
ぐるっとすばやくあたりを見まわし、今や完全な孤独であることを確かめた一瞬間、
彼女の動作は、まったく人目を盗むような素振りを示した。
それから、かがみこみ、つる草のむしろの真ん中へもぐりこんでいった。
真ん中におちついてみると、
そこは、わずかの葉で外の空間から遮断された小さな小屋といった観を呈していた。
彼女は坐りこみ、茂った葉を押し拡げて、外を見た。
動いているものといえば、この暑気の中を、
互いに戯れるように飛びかっている二羽の華麗な蝶以外には何ものもなかった。
彼女は、息をのみ、聞き耳をたてて、じっとこの島から響いてくる音を聞こうとした。
夕闇が島のほうへ、どこからともなく忍び寄ってこようとしていた。
色彩豊かで奇怪な鳥の鳴き声、蜂の唸り声、
それに、角ばった崖の中にあるねぐらに帰るかもめの叫び声でさえも、
今ではかすかになっていた。
数キロかなたの珊瑚礁に打ち寄せ、そしてくだける大海のにぶい波の音も、
今では、血液の囁きの声よりも、まだかすかなものとなっていた。
飯田は、幕のように垂れている木の葉の茂みをもとのとおりにした。
斜めに射してくる幾条もの蜜色の夕日の光も、しだいに淡くなった。
茂った木の下では、暗闇が濃くなった。
光があせてゆくにつれ、眼もくらむような多彩な色合いも死んでゆき、
酷熱も、あえぐような雰囲気も、しだいに涼しくなっていった。
もう日光はきれいにこの空間から去り、空からも姿を消してしまっていた。
暗黒が漂い、木々の間の道をかき消し、あたりはただ海底のような、
漠々たる、そして、奇怪な、雰囲気に包まれていた。
大きな白い花が開き、それが宵の明星に続く星々の
ちかちかするような光芒をうけて輝いていた。
花の芳香が大気いっぱいに流れ、島全体をおおっていった。
後藤と吉澤は、午後になり、のろし監督の役目から非番になって、
ひと泳ぎしようと山から下りてきた。
後藤はさっさと海へ向かったが、吉澤は椰子の木陰を浜づたいにぶらぶら歩いていた。
「よっすぃー」
十メートルばかり離れた所の木の下に、加護が立っていた。
吉澤が彼女を見た瞬間、日に焼けたその皮膚の下を、ある暗い影が冷たくすぎ去った。
加護はもちろん何も気がつかなかった。
彼女は、ひどく気がせいて、いらいらしていて、しきりに手招きしていた。
仕方なく、吉澤も彼女のそばに近づいていった。
小川の端のほうにプールがあった。
といっても、要するに砂でせきとめられた小さな池で、
そこでは白い睡蓮の花や針のように細い葦が、いっぱい茂っていた。
ここで、安倍が待っていた。
日光を避けて、加護は池のほとりにひざまずいて、もっていた二枚の大きな葉を開けた。
一つには白粘土、もう一つには赤粘土が入っていた。
そのそばに、のろしの所からもってきた一本の木炭が、転がっていた。
そういったものを取り出しながら、加護は吉澤に説明した。
「豚は、うちらの臭いなんて分からへん。ただ姿は見えると思うねん。
木の下に、なんだか橙色のものがいるってふうに」
彼女は、粘土を塗りたくった。
「緑色の粘土があったらよかったねんけど」
彼女は、粘土を塗りたくり、半分他人のものになったような顔を、
まだ意味が分からずにぽかんとしている吉澤の顔の前につきだした。
「これ、狩りに必要なんや。ほら――迷彩ってやつや。
何かほかのもののように見せるってやつやねん――」
うまくいおうとして、彼女はいらいらしていた。
「――木の幹にとまっている蛾みたいにや」
吉澤は、意味が分かって、無表情な顔をしてうなずいた。
彼女は、顔の赤と白のくまどりの間を、木炭の切れはしでこすった。
池の面に映った自分の顔をのぞきこんだが、どうもおもしろくなかった。
しゃがみこみ、生温かい水を手に二度ほどすくって、ごたついたくまどりを洗い落とした。
吉澤は、つい笑った。
「ごちゃごちゃで、きもいよ、その顔」
加護は、新しいくまどりを考えついた。
一方の頬と一方の眼のまわりを白く塗り、顔の他の半分に赤い粘土をすりこみ、
こんどは、右の耳から左のあごにかけて、木炭で黒い線を一本引いた。
彼女は池の面をのぞいて、驚愕した。
自分の姿というより、恐るべき奇々怪々な姿がそこにあった。
飛び上がり、笑いながらはしゃぎだした。
池のそばで、彼女が一つの仮面をかぶって立っている姿には、
確かに、他の仲間の眼を奪い、威圧するものがあった。
彼女は踊りだしたが、彼女の笑いは、しだいに血に飢えた唸り声に変わっていった。
安倍のほうへ飛んでいった。
仮面はそれだけで一つの生き物のようであった。
その背後に、加護は恥辱と自意識から解放されて、潜むことができたのだ。
赤と白と黒の色彩でくまどられた顔が、空中に揺れ、踊りながら安倍へ近づいていった。
安倍は、笑いながら飛び上がった。
加護は、吉澤のほうに突進した。
「さ、いこう!」
「なんで――」
「いくで! うちは這っていって、刺してやんねん」
仮面の前には、抵抗するすべはなかった。
中澤は、海から上がってきて、浜辺をよぎり、椰子の木陰に腰をおろした。
大儀そうに、水平線の張りつめた青い一線に沿って、視線をはしらせた。
次の瞬間、彼女は、はね起きて、叫んだ。
「船や! 船や!」
船は、水平線上に、ぽつんと小さな塊のように見えた。
中澤は独り言をいいながら、真っ青な顔をしていた。
彼女は、はっとしてふり返り、山頂を見上げた。
そして、自分で自分を傷つけたような凄まじい絶叫を上げた。
中澤はたちまち、熱くなっている白い砂をよぎり、椰子の木の下を通って走りに走った。
まもなく、ほとんど断崖をおおいつくそうとするほど錯綜している茂みにぶつかり、
苦闘しはじめた。
中澤は断崖の内陸側の端に到着すると、はあはあと息せききって、
罵詈雑言をひとりでつぶやいていた。
つる草の中を無茶苦茶に走ってきたので、腕や脚はつる草の枝でかきむしられ、
一面血に染まっていた。
火は消えていた。中澤は、それをただちに見てとった。
いわば故国の船が手招きしていたとき、浜辺から彼女が見て直感したとおりの実状が、
今や眼前に示されていた。
火は完全に消え、煙の跡かたもなかった。
のろしの番人たちの姿もなかった。
まだ燃やしてない薪の束が、くべるばかりの状態のまま、捨ておかれていた。
中澤は、海のほうを眺めた。
水平線は、彼女の苦悩も知らぬげに再び広々と拡がり、
ほんの小さな点を残したまま漠々として横たわっていた。
「引っ返すんや! 引っ返すんや!」
彼女は、断崖に沿って、顔を沖のほうに向けたまま、あちこちと走りまわった。
その叫び声は、狂気のごとく激しくなった。
「引っ返すんや! 引っ返すんや!」
「畜生! のろしを消しやがって!」
彼女は、山腹の無気味な側を見下ろした。
片方の手の拳を固め、顔を真っ赤にした。
恐ろしいほどの凝視と、痛烈な声の響きで、彼女はいった。
「あんなところにおる」
遥か下のほうの、水際近くに点々と転がっている紅色の岩屑の間に、
隊伍を整えた一団の姿が現れていた。
足場のいい所へくると、きまったように、彼女らは一斉に棒を頭上に掲げた。
歌を歌っていたが、それは、少しよたよたしながら
二人の少女が大事に担いでいる荷物と何か関係がありそうであった。
こんなに離れていても、中澤の眼には、加護の姿は一目瞭然だった。
背が低く、隊伍を指揮するのが板についていた。
中澤は、黙って、隊伍が近づくのを待っていた。
歌声が聞こえたが、離れていたのでその文句は分からなかった。
加護の背後に吉澤と石川が歩き、肩に大きな棒を担いでいた。
その棒からは、臓腑を抜かれた豚の死骸がぶらさがり、
二人がでこぼこの地面をよたよた歩くはずみに、重そうに揺れていた。
首のつけ根にぱっくり開くほどの大きな傷をうけていたその豚の頭は、
地面に何か落しものを探しているような格好で、揺れていた。
やがて詠唱の文句が、すり鉢の底のような、
真っ黒に焼けただれた木と灰の山腹のかなたから、はっきり漂ってきた。
「豚ヲ殺セ。喉ヲ切レ。血ヲ絞レ」
歌の文句がはっきり聞こえかけたとき、行進はひどく険阻な場所へさしかかったらしく、
一、二分間歌声もやんだ。
粘土を顔じゅうに塗りたくった加護が、まず初めに山頂へ姿を現わし、
槍を高く掲げ、意気揚々と中澤に呼びかけた。
「どうや! 豚をしとめたんや――そっと近づいたねん――ぐるっと囲んだねん――」
狩猟隊の少女たちが、わっと一斉に喚いた。
「ぐるっと囲んで――」
「這っていったんだよ――」
「豚は、悲鳴を上げたんだ――」
真っ黒な臓腑を岩の上に垂らしながら、豚の死骸は吉澤と石川に担がれて揺れていた。
安倍は、例によって、一つの熱狂的な笑いに取りつかれているようであった。
加護は、一時に何もかも中澤にしゃべろうとしたが、結局何もいわずに踊りだした。
しかし、ちょっと跳ねただけで、それをやめ、ただにやりと笑いながらつっ立っていた。
彼女は、両手にこびりついている血糊を見て、嫌な顔をした。
それをぬぐうものを探したが、結局服でごしごしぬぐい、そして声をたてて笑った。
中澤が口を開いた。
「あんたたち、火を消してたやろ」
なんの関係もないことをいわれたという感じで、少しむっとした加護は、
ちょっと立ち止まったが、なにしろ嬉しさでいっぱいだったので、そう頓着しなかった。
「火ならまた燃やすやん。いっしょにくればよかったのに。
おもしろかったで。梨華ちゃんなんか蹴っ飛ばされちゃって――」
「うちら、豚をやっつけたんだべ――」
「――私、頭からつんのめっちゃった――」
「うちが豚の喉を切ったんや」と、加護は、自慢そうにいったが、
そういいながら、からだをぴくっと引きつらせた。
少女たちは、しゃべり合い、踊りまわった。
「血がどくどく流れたねん」
と、笑いながら、しかも身震いしながら、加護はいった。
「裕ちゃんにも見せたかったべ!」
「これからは、毎日豚狩りにいくつもりやねん――」
中澤は、かすれた声で再びいった。彼女は、ずっと前の所に立ったままだった。
「あんたたち、火を消してたやろ」
同じことを二度も繰り返しいわれて、加護は不安にかられた。
石川と辻のほうを見、それから中澤のほうへふり向いた。
「豚狩りには、のろし当番の二人も必要やったねん」と、彼女はいった。
「でないと、人数が少なくて包囲できなかったねん」
彼女は、失策に気がついて、赤い顔をした。
「火が消えたっていっても一、二時間のことやんか? またつければいいやん――」
彼女は、中澤の傷だらけのからだに気がつき、
中澤が無気味に沈黙しているのに気がついた。
自分が嬉しくてたまらないので、その喜びをともにしたいという気持ちから、
自分の経験したことをしきりに伝えたがった。
心の中が記憶でいっぱいだったのだ。
つまり、必死にもがく豚をみんなでとり囲んだときに彼女らが経験した事実、
生命をもった動物をうまくだしぬき、自分たちの意志をそれに押しつけ、
ゆっくり舌で味わう美酒のようにその生命を舌なめずりしながら奪い去ったという事実、
についての生々しい記憶でいっぱいだったのだ。
彼女は両腕を大きく広げた。
「あの血を見せたかったで!」
狩猟隊の少女たちは、かなり静かになっていたのだが、
血の話を聞くと、またがやがや騒ぎだした。
中澤は、髪をうしろへはね上げた。
片手は、影一つなく果てしなく拡がっている水平線をさしていた。
その声は強く荒々しく、みんながはっと静かになるほどだった。
「船が沖を通ったんやで」
加護は、中澤の言葉にあまりにも多くの恐ろしい意味が
同時にこめられているのを知り、たじろいだ。
逃げるようにして豚の所へゆき、片手でそれに触りながらナイフを取りだした。
水平線をさしていた手を、中澤はおろした。拳を固く握りしめ、声を震わせて、いった。
「船が沖を通ったんやで。ちょうどあのあたりや。
のろしはずっと燃やしておかないとあかんのに、それを消してしまっとるやないか!」
彼女は、加護のほうへ一歩近づいた。
加護もふり向き、二人は面と向き合った。
「船からは、うちらが見えたかもしれないんや。
もしかしたらうちらは故郷へ帰れたかもしれなかったんや――」
中澤は横を向いて、ちょっと黙っていた。
それから、自分でも制しきれないような激情にかられた声で、いった。
「船が沖を通ったんやで――」
狩猟隊の中にいた辻が、泣きだした。
やっと残酷な真相が、すべての少女の心にしみとおっていったのだ。
豚をナイフで切りつけたり、えぐったりしていた加護の顔面は、紅潮していった。
「こっちの仕事だって大変やったねん。人手が全部ほしかったんや」
中澤は、彼女のほうを向いた。
「小屋ができ上がってたら、人手はみんなあんたに貸してやれたはずや。
それなのに、無理に狩りに出かけるもんやから――」
「肉が必要やったねん」
加護はそういいながら、血のついたナイフをもったまま立ち上がった。
この二人は、互いに顔をつき合わせた。
片方には、狩猟と駆引きと恐るべき歓喜と技術のすばらしい世界があった。
他方には、願望と挫折した常識の世界があった。
加護は、ナイフを左手にもちかえた。
そして、額にぴったりはりついた髪を押さえつけようとして、血をべったりくっつけてしまった。
「済んだことをいってもしょうがないべ」と、安倍がいった。
「あのときに今日の分まで煙を出してしまったんだべ。いやっていうほど」
それを聞いて、あの大量の煙を思いだし、狩猟隊はみなどっと笑った。
加護は、それに勇気づけられた。彼女はそのときの様子を声で真似した。
みんなの笑い声は、ヒステリックな哄笑へと、一転していった。
中澤は、自分の口もとが、ぴくつくのを自分でもどうすることもできなかった。
こうやって妥協してゆく自分自身に対して、腹がたった。
彼女はつぶやいた。
「こんなんないやろ」
加護は、ふざけていたのを急にやめて、中澤の前にきて立った。
そして怒鳴るような声でいった。
「分かったよ、分かったよ!」
彼女は狩猟隊のほうを見、中澤を見た。
「ごめんなさい――火を消しちゃって。それは、うち――」
彼女は、しゃんと居ずまいを正した。
「――うち、謝るよ」
狩猟隊から、ざわめきの声が起こったが、それは、
彼女のこの殊勝な振る舞いに対する賞賛の声であった。
彼女らの意見は、加護は立派な振る舞いをした、
悪びれずに謝罪をすることによって正しい行為をした、
そして、なんとはなしに、こんどは中澤のほうが悪いということらしかった。
当然それ相応に立派な答えが、中澤からあるものと、彼女らは期待した。
しかし、中澤は、答えをしようにも喉がそれを拒否するのを感じた。
加護は失態を演じたにもかかわらず、それをごまかそうとして、
言葉のさきだけでうまいことをやっただけではないか、という釈然としない気持ちが動いた。
火は消えていたし、船も去ってしまった。
連中にどうしてこんなことが分からないのか。
立派な答えどころか、怒りの言葉が彼女の喉もとから飛びだしてきた。
「こんなんないやろ」
みんなは、山頂に立ったまま、しーんと静まりかえった。
ある不透明な表情が、加護の眼に表われ、消えていった。
中澤が最後にいった言葉は、無作法なつぶやきの言葉であった。
「ええわ、もう。火を燃やすんやね」
山頂で十人は、キャンプファイアのまわりに集まる少女の一団のように、円陣を作った。
全員、火が消えている間に船が沖合いを通りすぎてしまった、という事実と、
それを中澤が怒っているのを知っていたので、しゅんとなっていた。
まもなく、数人の者が傾斜面をくだって、薪を集めに駆けていった。
加護は、そのあいだ、豚の肉を切り刻んでいた。
豚のからだを丸ごと棒にのせ、火であぶろうとしたが、
豚が焼けるより先に棒のほうが焼けてしまった。
そこで、肉片を枝の先に串ざしにして、炎の中であぶることにした。
そうした場合でも、肉が焼けるより先に、へたをすると少女の丸焼きができそうだった。
中澤は、豚肉は食べるのを断わるつもりだったが、今まで果実や木の実のほか、
妙な蟹や魚ばかり食べてきた関係上、肉への誘惑には抵抗しがたかった。
とうとう、矢口が沈黙を破った。
ほとんど大抵の者がいっしょにつりこまれてくるような話題へと、話をもっていった。
「この豚、どこで見つけたの?」
石川が、山腹の無気味な側を指さした。
「豚があそこに群れでいたんです――海辺近くに」
平静に戻っていた加護には、自分の手柄話が他人に横取りされるのは、
我慢できないことだった。
彼女はせきこんで、話の中にわりこんできた。
「うちらは、ぐるっととり囲んだねん。うちは四つん這いになって忍び寄ったねん。
槍をいくつも投げたけど逆とげがないから突き刺さらんかった。
この豚、逃げまわって恐ろしい鳴き声を上げてたねん――」
「急に向きを変えて、とり囲んでいるうちらのほうに駆けてきたねん、血だらけになって――」
少女たちは重苦しい空気から解放され、興奮して一時に話し始めた。
「うちらは、囲みをせばめていった――」
156 :
名無し娘。:2000/11/01(水) 23:17
最初の一撃で、豚はうしろ半身が麻痺したらしかった。
それでずっと囲みもせばまり、あとは殴りに殴るだけだった――
「うちが、豚の喉をかき切ったねん――」
安倍は、笑いながら、飛び上がってぐるぐる走りまわった。
他の少女たちもそれに加わり、豚の断末魔のうめき声の真似をしたり、絶叫したりした。
「頭を一つ殴るんですぞ」
「おもいっきりがあーんと一発!」
吉澤が、豚の真似をしてきーきー喚きながら、円陣の真ん中へ出て走りまわると、
他の狩猟隊の少女たちは、ぐるぐるまわりながら彼女を殴る真似をした。
踊りながら、歌を歌った。
「豚ヲ殺セ。喉ヲ切レ。殴リ倒セ」
中澤は、羨望と憤意にかられて、彼女らを見守っていた。
みんながげんなりして歌がやむまで、一言も口をきかなかった。
「今日は、話し合いをせんといかんな」
一人ずつ、しだいに踊りまわるのをやめ、立ったまま中澤を見た。
「場所は下の高台や。みんな集まってや。じゃ」
彼女は、きびすをかえして歩み去り、山をくだった。
更新下げです
警報発令中なので不躾ですが保全させて頂きます。
「のろしのことや」
中澤が、かすかに喘ぐようにして弱いため息をつくと、
会衆もそれに応じるかのようにため息をついた。
加護は木片をナイフで削り始め、辻に何かささやいた。
辻は他のほうに眼を転じた。
矢口と後藤はのろしの当番で、ここにはいなかった。
「のろしの問題は、この島で一番たいせつなことなんや。
よほどの幸運がない限り、どうやって救いだされるとあんたらは思う、
もし火を燃やし続けておらんとしたら?
火を燃やすことが、そんなに手に負えん仕事やろうか!」
彼女は、片腕を前につきだした。
「よく自分らのことを考えてや! いったいうちらは何人やと思う?
こんなにたくさんいて、しかも火を燃やし続け、
煙をたて続けられないってことが、あるやろうか。
まだあんたらには分かってないんやろうか。
火を消すようなことがあれば、むしろ――むしろ死んだほうがましなくらいや、
ということが分からないんやろうか?」
狩猟隊の間から、照れたような忍び笑いが起こった。
中澤は怒って、そちらのほうを向いた。
「よく笑えたもんやな! けど、あんたらにいっておくけど、
のろしの煙のほうが豚よりももっとたいせつなんや、たとえ豚を何度殺してもや。
私のいうこと、みんなよく分かってくれたか」
彼女は両腕を広く上げて、まわりに坐っている少女たちを、ずっと見わたした。
「あの山頂で煙をだしておかないといかんのや――でないと、うちらは死ぬしかないんや」
「それから、もう一つ」
彼女は言葉をきって、考えた。
「みんなが話している獣のことや。その話をはっきりさせるということや。
よく話し合って、この恐怖の正体をはっきりさせようやないか。
時には私やって怖い。でも、それはナンセンスやと思う」
保田が、話しはじめた。
「もし獣が一匹でもいたら、誰かが見たはずでしょ。
実際には、そんな獣は、この森の中にはいないんだよ。
だって、獣がいるとしても、どうして森の中にいられる?
何を食べて生きてるの?」
飯田が立ちあがって、口を開いた。
「森の中には獣なんかいないのははっきりしてるよ。
問題は、このもやもやしている恐怖心のことで、獣のことじゃないよ。
獣がいるとしたら、うちらがそうなんだよ」
石川が飯田の話をさえぎった。
「獣は海からやってくるんじゃないんですか?
お父さんがいってたんですけど、まだ海中の生物はみんな分かっているんじゃないって」
無意識のうちに、中澤はうしろをふり返った。他の少女も、彼女につられて視線を転じた。
そして、茫々と拡がる大海原、遥かなる大洋、
無限の可能性をもつ未知の藍色の世界、のことを考えた。
珊瑚礁から響いてくる低いざわめきの音に、じっと耳を澄ませて聞きいった。
一陣の突風が吹き、椰子の木が音をたてた。
暗闇と静寂の中では、その音は異様なほど大きく響いた。
二本の灰色の幹が互いに擦れ合って、昼間にはだれも気がつかなかったような、
はなはだ無気味な悲鳴のような音をたてた。
加護がしゃべった――あまりに声が大きかったので、みんな飛び上がるほどだった。
「獣なんか怖くないねん! うちらは強いんや――うちらは狩りができるんや!
獣がいたらやっつけてやんねん! みんなで囲んで殴って殴って殴って――!」
彼女は、大声でわぁっと叫び、青白い砂浜へ飛び下りていった。
あっという間に、高台は喧騒と興奮の坩堝と化し、
取っ組み合いや絶叫や笑い声がいりまじった。
会衆は統制を失い、ばらばらになって椰子の木の所から波打ち際へ、
そして浜辺づたいに、闇にまぎれて定かならぬかなたへ、と勝手に散らばっていった。
164 :
名無し娘。:2000/11/04(土) 23:13
ばらばらになっていた連中は、砂の上でいつのまにか固まって、
真っ黒な塊となってぐるぐるまわっていた。
彼女らは何か詠唱らしいものを歌っていた。
「しっかりしないと、リーダー」
保田がすぐ近くまで顔をすりよせて、いった。
「どう思う、圭坊? ほんとに獣はいるんやろか?」
「もちろん、そんなものいないよ」
「でも、かりにおったとしたら?
かりにそんなのが、どこからか、うちらを見張っていて待ち伏せしとるとしたら?」
中澤は激しく身震いして、保田にからだをすりよせた。
二人は、ものにおびえたように飛び上がった。
「そんなこというのやめてよ! 裕ちゃん!」
踊ったり歌を歌ったりしていた少女たちも、踊りつかれ歌いつかれ、
今はその歌も、言葉にもならないただリズムだけのものになっていた。
娘。を乗せてきたセスナのパイロットは、山腹の林の端にある高い木に、
パラシュートが引っ掛かって、長い間、そこにぶら下がっていた。
そして、少女たちが踊りをやめたころ、なにかの拍子に落下し、地面に横たわった。
ところが、山頂ともなればやはり軟風が吹いており、
パラシュートはばたばた揺れたり、ぶっつかったり、引っぱられたりした。
そのために、両脚をうしろに引きずった格好の人影は、
そのままずるずると山頂のほうへ引きずられていった。
風が吹くたびに一メートルずつ、その人影は草の上を通り、丸石や赤い石の所をこえ、
しまいには山頂の崩れた岩石の間にからだを縮こまらせて止まった。
このあたりの風の吹き方は気紛れで、そのためパラシュートの紐が
むやみと絡み合い、もつれ合ってしまった。
その人影は、ヘルメットをかぶった頭を両膝の間につっこみ、
複雑怪奇な絡み方をした紐に操られて、腰をおろしていた。
風が吹くと、紐が強くぴーんと張り、そのはずみで頭部と胸部がまっすぐにつっ立ち、
その結果、ちょうど山の端のかなたをじっと見つめているような姿になった。
かと思うと、風がやむたびに、紐が緩み、その人影は前にばたりと倒れ、
頭を両膝の間に沈めてしまうのであった。
そんなわけで、星が夜空を駆けめぐる間、その人影は山頂に坐って、
お辞儀をしたり、前につんのめったり、お辞儀をしたり、していた。
まだ暗い早朝だった。山腹から少し下の所の岩のそばで、ごそごそ音がした。
二人の少女が、積み上げた小枝と枯れ葉の山の中から、転がり出たのだった。
二つの小さな影は、何か眠そうに話し合った。
この二人は矢口と後藤で、のろしを見張る当番だった。
理屈からいうと、一人が眠って、一人が不寝番にたつべきはずだった。
しかし、なぜか、二人とも眠りこけてしまっていたのだった。
さっきまでのろしの火が燃えていたはずの黒々としたたき火の場所へ、
あくびをしたり、眼をこすったりしながら、慣れた足どりで二人は近づいた。
そばへ行ったとたん、二人はあくびどころでなくなり、
後藤はあわてて小枝と葉を集めに走っていった。
矢口は、ひざまずいた。
「やっぱり、消えてる」
両手に棒切れを握って、いじくりまわした。
「だめだ」
矢口はからだを横たえ、たき火に唇をくっつけ、静かに吹いた。
そのうちに、小さな火がぱっと明るくなった。
後藤が、その熱くなった所へ火つけ木のかけらをくべ、ついで枝を一本くべた。
火の勢いはまし、枝が燃えだした。後藤はどんどん枝をくべた。
「危ないとこだった」
「裕ちゃん、知ったら――」
「かんかんになったろうね」
「うん」
矢口はどすんとあぐらをかいて、後藤がしきりに火をおこすのを見ていた。
後藤は、枯れ木をテントみたいに積み上げた。
火はもう消える心配もないくらい燃えだした。
矢口は、炎を見つめていた。
すると、彼女の心の中に、あの最初の火事のことが、山腹の険しい側の、
ここからすぐ下の所で起こったあの火事のことが、浮かび上がった。
そこは、今は完全な暗闇であった。彼女は、それを思いだしたくなかった。
で、遥か山頂のほうへ眼を転じた。
そして、ぼんやり火の向こうを眺めながら、そこいらにある岩が、
長く地面に影をおとしているのを見、
その岩が昼間はどんな格好だったかな、などと考えていた。
あそこに大きな岩がある、あそこには例の三つの石があり、裂けた岩があり、
すぐその向こうに亀裂があり――ちょうどあそこに――
「ごっちん」
「うん?」
「いや、なんでもない」
炎が小枝をなめつくし、樹皮がひんまがって崩れ落ち、木がぱちぱち音をたてた。
積み重ねられた枝の山が、内側へ陥没し、
そのはずみに、大きな光の輪が山頂をくっきり照らしだした。
「ごっちん――」
「うん?」
「ごっちん! ごっちん!」
後藤は、矢口の顔を見た。
矢口があまりに必死に凝視しているので、その見ている方角がすぐ分かった。
後藤はそれには背を向けていたのだった。
彼女は、ごそごそと火のそばをまわって、矢口のそばにあぐらをかき、
その方向を見ようと眼をこらした。
二人はからだを硬直させ、互いの腕を固く握りしめた。
四つの眼は瞬きもせず一点を見つめ、二つの口は開いたままだった。
ずっと下のほうでは、森の樹木がため息をつき、かと思うと唸り声を発した。
二人の額にかかる髪が風になびき、炎が横なぐりに燃えた。
二人のいる所から十五メートル離れた上手で、
風に吹かれて開いた布地のすぽっすぽっという音がしていた。
どちらの少女も、悲鳴は上げなかった。
ただ相手の腕を痛くなるほどつかみ、口をとがらせているだけだった。
おそらく十秒くらい、そんな格好でうずくまっていたかもしれなかった。
その間、ばさっばさっと燃え上がる火が、煙だの、火の粉だの、
時に明るく時に暗くなる光の波を、山の頂上まで投げかけていた。
それから、二人は一つの恐怖心をともにしているかのごとく、
岩をこえて一目散に逃げだした。
中澤は夢を見ていた。
枯れ葉の中に埋もれて、がさごそと眠れない数時間――と彼女には思われた
――をすごしたのち、ぐっすり眠りこけていた。
他の小屋から起る夢魔に襲われている声も、彼女にはとどかなかった。
「起きて! 裕ちゃん!」
枯れ葉が海のように唸っていた。
「起きて! 裕ちゃん!」
「どうしたんや?」
「うちら、見たんだ――」
「――獣なんだ――」
「――はっきり見たんだ!」
「――あんたら、だれや? 矢口か?」
「うちら、獣を見たんだ――」
「静かにしいや。ちょっと圭坊!」
枯れ葉が、まだものすごい音をたてていた。
保田が、転がるようにして中澤のそばへきた。
中澤が、小屋の四角な隙間から見える、青白くなった星を目あてに出てゆこうとすると、
矢口と後藤はしがみついた。
「出たらいけない――恐ろしいやつなんだよ!」
「なあ、圭坊――槍はどこや?」
「ほら、聞こえる――」
「じゃ静かにするんや。じっと伏せときや」
彼女らは身を伏せた。
しーんと静まりかえる沈黙の合間合間に、
あえぐように矢口と後藤が話すくわしい描写に、
彼女らは初めは半信半疑だったが、
のちには震え上がるような思いをしながら、耳を傾けた。
たちまち、そこいらの暗闇の世界が獣の鋭い爪にみち、
ぞっとするような不可解なものや脅威にみちみちてきた。
173 :
名無し娘。:2000/11/05(日) 23:25
果てしなく続くかと思われた夜明けがやがてきて、星の光も淡く消えてゆき、
ついに、物悲しいような灰色の光が、小屋の中へ忍びこんできた。
小屋の外の世界は、まだ度しがたいほど危険だったが、彼女らは動き始めた。
水平線に近く、幾条にもたなびく雲が薔薇色に輝きはじめ、
椰子の木の羽毛のような梢が緑色に変わった。
中澤は、小屋の入口にしゃがみこみ、用心深く周囲を見わたした。
「矢口、後藤、みんなに、すぐ集まるようにいってや。
そおっと行くんやで。さ、行くんや」
矢口と後藤は、からだを震わせながら、互いにしがみつき合ったまま、
隣の小屋までの数メートル、一生懸命に駆け、恐ろしいニュースを伝えた。
中澤は立ちあがった。
少し背中が痛んだけれど、威厳を保つために高台のほうへつかつか歩いていった。
更新下げです
話し合いは錯綜した。
加護は、獣を槍でやっつけると言い張った。
中澤は、木の槍では役にたたないといった。
保田は、どこにも行かないほうがいいといった。
獣は、この辺まではこないだろうから、と。
中澤は、のろしが一番たいせつなことなんだといった。
加護は、一ヵ所だけまだ行ったことのない場所に獣が住んでいるかもしれないといった。
たくさんの岩が山のように積み重なっている、この島の一番端の所に。
そこにある大きな岩が、まるで橋のようになっていて、そこだけしか通れないと。
中澤は、槍をもって行き、そこを調べ、獣がそこにいない場合には、
山の上に行ってよく見てみて、火も燃やそう、と決めた。
中澤は、前面に立ちはだかる草をかき分け、前方を見た。
石だらけの地面は、わずか数メートルだけで、
それからは島の左右の両側がほとんど合流していた。
本来なら当然そこに岬の先端ができあがっていそうな地形であった。
ところがその代わりに、幅数メートル、長さ約十五メートルの岩棚が、
島から突出するような形で海中にのびていた。
この島の基盤となっている紅色の四角な岩の堆積が、そこに露出していた。
断崖には亀裂があり、頂上には、ちょっと押せば転がるように見える、
大きな岩の塊がごろごろしていた。
中澤の背後では、丈の高い草むらの中に、少女たちが立っていた。
吉澤が、加護を見た。
「獣を探しに行くんでしょ」
加護は、顔を真っ赤にした。
「分かっとんねん。だいじょうぶや」
何ものかに、中澤の心の底に潜む何ものかに促されて、彼女は思わずいった。
「私がリーダーや。私が行く。問答無用や」
彼女は他の少女たちのほうを向いた。
「あんたたちはここに隠れてるんや。私が帰ってくるまで、待ってるんやで」
自分の声がともすれば細く消えてゆこうとするか、とてつもなく大声になってゆこうとするか、
そのいずれかになりそうなのを中澤は感じた。
「じゃ、行ってくる」
懸命に足を動かしているうちに、とうとう橋のようになっている所へ出た。
そこに立つと四方八方、いわば切り立つ大気の断崖に囲まれている感じだった。
身を隠す場所は、どこにもなかった。
しかも、彼女はこのまま進んでゆかなければならなかった。
下の海は、広い大洋の余波をうけて荒れていた。
中澤は、赤い断崖のほうを見た。
うしろのほうの茫々とのびた草の中では、少女たちが、
彼女がどうするかをじっと見つめて待機中であった。
気がついてみると、てのひらの汗がもう冷たくなっていた。
本心では、獣に出くわすなんてまったく考えてもいないということが自分でも分かり、
われながら驚いた。
よしんば出逢ったところで、さてその獣をどうしたものか、
その点もぜんぜん見当はついてはいなかった。
断崖をよじ登ることはできそうだったが、その必要はなかった。
岩が四角なので、断崖をとりまく一種の台石のような格好となっていた。
したがって、右のほうを岩棚のへり伝いに少しずつ進んでゆき、
角の所で曲がればこちらから見えない向こうへ出られるわけであった。
それはむずかしいことではなかった。
で、まもなく彼女はその岩角を曲がって向こう側に出、
そこの光景を眼にすることができた。
紅色のごろごろした丸石があり、
その上に砂糖衣のように一面に糞化石がこびりついていた。
そこから急な傾斜が、崖の頂上にあるぼろぼろに崩れた岩へと続いていた。
急に背後に物音がしたので、彼女はふり返った。
加護が岩棚のへりを伝ってくるところだった。
「一人じゃ危ないと思ったねん」
中澤は、何もいわなかった。
先にたって岩場を進み、穴のようにややへこんだ所を調べてみたが、
そこには一塊の腐った卵のほか何も恐ろしいものはなかった。
彼女はやがて腰をおろし、周囲を見まわし、槍の台尻で岩をたたいてみた。
加護は興奮していた。
「砦にはもってこいや!」
二人は肩を並べて最後の、一番高い所を登っていった。
そこは頂上へゆくに従って狭くなっている所で、石がうずたかく重なっており、
壊れた石が一つぽつんとその頂上にあった。
加護が手近な石を拳固でたたくと、少しぎしぎしゆらいだ。
加護は、早口でしゃべった。
「この石の下に椰子の木の幹をつっこんで、もし敵がきたら――なあ、見てみ!」
三十メートル下のほうに、さっきの橋のようになっている狭い岩場があり、
その向こうに石だらけの地面があり、その奥に少女たちの頭が点々と見える草地があり、
さらにその奥に森があった。
「ちょっと石を押し上げたら」と、有頂天気味の加護が叫んだ。
「たちまち、どっすーんや!」
彼女は、片手で石が落ちてゆくようすを示した。
中澤は、山のほうを見た。
「どうかしたん?」
中澤は、加護のほうを向いた。
「のろしが上がってないんや。何も見えんのや」
「のろしばっかりやねんな」
ぴーんと張った青々とした水平線が、二人をとりまき、
それを断ち切っているのは山頂だけであった。
「のろしだけが望みの綱だからや」
彼女は、槍をゆらゆらしている岩にたてかけたまま、
両手で髪を抱えるようにして、うしろへなでつけた。
「後もどりしてあの山へ登ろう。獣をあの二人が見たといったのは、あそこやから」
「獣なんか、あそこにはおらんねん」
「じゃ、ほかにどうすればいいんや」
草地の中で待っていた他の少女たちは、中澤と加護が無事なのを見て、
自分たちの姿を白日の下へ現わした。
彼女らは、探検ということで興奮してしまい、獣のことなんか忘れてしまっていた。
わあっと固まって橋を渡ってきて、たちまち岩に登るやら、大声を上げるやら、の始末だった。
中澤は、片手を巨大な赤い岩に当てて立っていた。
その岩はまるで水車のような大きさで、これ自体大きな岩が崩れてできたものらしく、
ぐらぐらしていて不安定だった。
不機嫌そうに、彼女は山を凝視していた。
拳固をかためて、すぐ右手の赤い岩壁をごつんとたたいた。
口を固く閉じていた。
その眼は、何かあるものを求めていた。
「煙や」
彼女は、血のにじんだ拳固を唇に当てて吸った。
「なあ、加護! さ、行くで」
が、加護はそこにはいなかった。
今まで気がつかなかったが、一団の少女たちが大声をだしながら一つの岩を押していた。
彼女がふり返った瞬間、その岩の土台ががくんと音をたて、
大きな塊がごっそり海中に転落していった。
轟然たる音が響き、高く水しぶきが上がり、それが絶壁の中腹まで濡らした。
「やめや! やめんか!」
彼女の声で、一同は急に静かになった。
「煙はどうするんや」
怒りの念がわいてきた。
「うちらには煙がいるんや。それなのにあんたらは時間を消費しとる。
岩を落としたりなんかしとる」
吉澤が叫んだ。
「時間はたくさんあるじゃないすか!」
中澤は、それをしりぞけた。
「さ、山へ行くんや」
叫喚がまた爆発した。
ある者は浜辺へ帰りたいといい、ある者はもっと岩を転落させようといった。
太陽はこうこうと照っていた。
暗闇が消滅するとともに、恐怖の念も消滅し去っていた。
安倍が、中澤の所へやってきた。
「どうして、もうちょっとここにいちゃいけないんだべ?」
「どうしても、だめなんや」
「砦をここに作ろうよ――」
「すばらしい砦になるのにな」
「岩だって落とせるし――」
「ちょうど橋の真上に――」
「出発やといっとるやろ!」と、中澤はものすごい見幕でどなった。
「はっきり確かめる必要があるんや。さ、行こう」
「ここにいようよ――」
「小屋へ帰ろうよ――」
「疲れちゃった――」
「やめんかい!」
あまりに強く岩にぶつけたので、中澤の拳の指のところの皮がむけてしまった。
しかし、そうひどい傷ではなかった。
「私がリーダーや。はっきり確かめんといかんのや。あんたらは山が見えんのか。
のろしがぜんぜん上がっとらん。今だって、沖に船が通っているかもしれんのや。
みんなおかしくなっとんのか?」
反抗を明らかに示しながら、少女たちは黙っている者もあれば、ぶつぶついう者もいた。
中澤が先頭にたって岩をくだり、橋を渡っていった。
保田は岩場で足を軽くひねっていた。
飯田が保田に付き添って、小屋に帰ることになった。
残りの者は山を登っていった。
加護が、茂みの中から大声で叫んだ。
「みんな、こっちきてみ!」
豚の通る道のすぐ近くで、地面が掘り返され、
そのあたりに、まだ湯気が出ている糞が落ちていた。
加護はからだをかがめて、いかにも大好物だといわんばかりに、
その近くに顔をくっつけた。
「獣を追っかけるのも大事やけど、肉も大事やねん」
と、いいながら中澤を見た。
「間違いなく豚が見つかるんやったら、すぐ狩りをしてもいいで」
彼女らは再び出発した。
また獣のことが話題にのぼったので恐怖心をかきたてられ、
狩猟隊は前よりいっそう寄りそって一団となり、
加護は先頭にたって獲物の跡をつけた。
一同は、中澤が考えていたよりも、はるかにのろのろと進んだ。
しかし、ある意味では、彼女はぐずつくのもありがたく思われ、
槍を抱きかかえながら進んだ。
加護が策略上の何か急な事態にぶつかったらしく、たちまち行進が中止された。
中澤は、とある木にもたれかかった。
とにかくこの狩りの責任者は加護なのだし、山へ着くまでにはまだ時間があるのだ――
前方の草むらが、凄まじい音を立てた。
少女たちは、騒然として豚の道から飛びのき、悲鳴を発しながらつる草の中でもがいた。
加護が横ざまに突き飛ばされて倒れるのを、中澤は見た。
と、豚の通る道を自分のほうへ向かって突進してくる一頭の動物が、眼についた。
牙を光らせ、威嚇的な唸り声をだして走ってきた。
思いがけなく、彼女はその距離を冷静にはかり、目標を定める余裕があった。
その野豚がわずか五メートルに迫ったとき、
彼女はもっていた役にたちそうもない木の槍を投げつけたが、
それは相手の大きな鼻づらに当たり、一瞬間だがそこに突き刺さっていた。
野豚の唸り声は悲鳴に変わり、身をよじらせて茂みの中へ逃げこんだ。
道は、喚きちらす少女たちでいっぱいに塞がった。
加護が走って戻ってきて、そこの茂みの中をつつきまわした。
「ここを通って――」
「でもまた向かってくるよ、きっと!」
「何いってんの、ここを通って――」
野豚は、のたうちまわって彼女らから逃げようとしていた。
最初たどってきた野豚の通る道と平行してもう一本の道があるのが分かり、
加護は後を追っていった。
中澤の心は、恐怖と心配と誇りとでいっぱいだった。
「私がやったんや! 私の槍が突き刺さったんや――」
加護があたりを見まわし、不安そうな顔を示した。
「逃げてもうた」
中澤は、興奮してしゃべり続けた。
「私がやったんや。槍が突き刺さったんや。私が傷を負わせたんや!」
彼女は、狩猟も案外いいものだと感じた。
「豚が道をこっちに走ってきたんや。それで槍を投げたんや、こんなふうに――」
安倍が、彼女に向かってうっうっと唸った。
中澤は、芝居気たっぷりに、安倍を突く真似をした。みんなは笑った。
たちまち、一同は、突進する真似をする安倍を突き刺すふりをしはじめた。
190 :
名無し娘。:2000/11/08(水) 05:42
加護が叫んだ。
「まるく輪を作るねん!」
円陣が、ぐっと小さくなった。
恐怖に襲われた真似をして、安倍は悲鳴を上げていた。
中澤は、どういうのか、突如として激しい興奮に襲われ、
矢口の槍を引っつかんで安倍をそれで軽く突いた。
歌がいかにも儀式的な調子で始められたが、
ちょうど舞踏か狩猟の終るときのそれのような調子であった。
「豚ヲ殺セ! 喉ヲカキ切レ! 豚ヲ殺セ! 殴リ殺セ!」
加護が喉を切る真似をした。
波のように、円陣を作って揺れ動いていた少女たちは、わぁっと歓声を上げ、
豚の断末魔の唸り声をまねた。
加護がいった。「おもしろい遊びやなあ」
「ただの遊びやったけどな」と、中澤がいったが、なんとなく不安そうだった。
再び、一同は、山を登っていった。
しかし、近道をしようとしてかえって時間がかかり、途中で日が暮れてしまった。
一同は立ち止まり、山の頂のまわりに瞬いているいくつかの星を眺めた。
「さあ、いよいよ山やで」
少女たちは、不安そうに互いに顔を見合わせた。中澤は決心した。
「これから、まっすぐうちらの高台に帰って、明日山に登ることにする」
一同は、それに賛成の意をぼそぼそと表わした。
しかし、加護がすぐそばに立っていた。
「うちは山へ行く」
痩せたからだをこわばらせ、今にも突きかからんばかりに槍を握りしめて、
彼女は挑戦的に中澤を見つめていた。
「うちは、獣を見つけに山へ登るねん――今すぐにや」
それから何気ない、しかも痛烈な言葉。
「一緒にくるのは?」
この一言で、他の少女たちは小屋へ帰りたいという気持ちを吹き飛ばされ、
二人の人間の摩擦をまた目撃するのかと思いながら暗闇の中できびすをかえした。
この言葉は実に適切で痛烈で、これくらい相手を巧みに威圧するものもなかった。
したがって二度と繰り返す必要もなかった。
いよいよ小屋へ帰れる、礁湖の静かな心温まる海辺へ帰れる、という思いで
心がなごやかになっていたやさきだっただけに、
中澤はこの一言で痛い所をつかれた思いだった。
「ああ、行くわ」
冷静に、何気なしに自分の声が出てきたのに、彼女はわれながらびっくりした。
加護の皮肉に秘められていた痛烈な力は、とたんに無力なものとなった。
加護がまず歩きだした。
二人並んで、他の黙りこくっている少女たちの注目を浴びながら、山へ向かって出発した。
中澤が立ち止まった。
「うちらはあほなことしてるで。なんで二人だけで行かなあかんの?
もし何かに出会ったら、二人だけやと間に合わんよ――」
少女たちのこそこそ逃げてゆく音が起った。
その逃げてゆく流れに反抗するように、驚いたことだが、一人の少女の黒い影が浮かんだ。
「吉澤か?」
「うん」
「これで三人ってわけやな」
彼女らは山の傾斜面を再び登りはじめた。
暗闇が、潮流のように、彼女らのまわりを通って流れてゆくように感じられた。
一陣の風が吹いてきたかと思うと、三人とも口からぺっぺっと何か吐きだした。
中澤は、涙で眼が見えなくなった。
「灰やね。焼け跡の端にきたってわけや」
三人が歩いてゆくにつれ、時おり風が吹くと、小さな灰燼の嵐がまき上がった。
再び休息したとき、中澤は咳をしながら、またもや、
なんと自分たちは馬鹿げていることかと思わざるをえなかった。
もし獣がいなければ――獣がいないのはほとんど分かりきったことだが――
それはそれでまあいい、しかし、もし何ものかが山頂で待ち伏せしていたら――
たった三人くらいで、なんの役にたつというのだろうか?
それにこの暗闇だし、ただの棒切れしかもっていない有様ではないか。
「うちらはまったく馬鹿げてるで」
暗闇の中から、返事がかえってきた。
「怖いんや?」
いらいらして中澤は全身をゆすぶった。みんな加護のせいやないか。
「もちろん、そうや。でも、やっぱりうちらは馬鹿やと思うで」
「行きたくなかったら」と、嘲笑的な声が聞こえてきた。
「うち一人で登ってもいいねん」
中澤は、自分を愚弄してかかっている相手の態度が分かり、
加護に対して憎悪の念を覚えた。
灰が眼にしみるし、疲れているし、恐ろしいし、そんなこんなで彼女は無性に腹がたった。
「じゃあ勝手に行きや! うちらはここで待ってる」
沈黙が続いた。
「行かんのか? 怖くなったんか?」
暗黒の中の一点が、つまり加護の人影が、離れてゆき、遠くへ消えかかった。
「行くねん。じゃあ」
その人影はまったく消え去った。その代わりに、他の人影が近づいてきた。
中澤は、膝が何か固いものに触れるのを感じた。
それはとげとげしい感じのする黒く焼け焦げた木の幹だったが、
彼女はそれをゆすぶってみた。
そこへ、たぶん樹皮だったに違いない、先のとがった燃えがらで、
膝の裏側をだれかが突っつくのを感じ、吉澤が腰をおろしたのに気がついた。
手さぐりで吉澤のすぐそばにしゃがんだ。
木の幹が、眼には見えないが灰燼の中でぐらぐらするのが分かった。
吉澤は、何もいわず黙っていた。
彼女は獣のことで何も意見をいわなかったし、
この気違いじみた探検になぜ参加する気になったのかも、中澤にはいわなかった。
そして、ただ坐って、ゆっくり幹を揺り動かしていた。
中澤は、それから、ばさっばさっと無茶苦茶に何かをたたく物音を聞いたが、
それは、吉澤が例のまったく馬鹿げた木の棒で何かをたたいている音だった。
そういうふうにして、二人は坐っていた。
幹を揺り動かしたり、何かをたたいたりしている、少しも動じない吉澤と、
やきもきしている中澤。
見まわすと、重くのしかかるような空一面に星がちりばめられていたが、
ただ、問題の山がぬうっと黒々と夜空にそびえているあたりだけは、別だった。
ずっと上のほうで、何かが滑り落ちる音がした。
だれかが、岩か灰燼かの上を、危険をものともせず大股で駆け下りてくる音だった。
たちまち、加護が現われ、二人を見つけたが、彼女はからだを震わせており、
いつもの彼女とは似ても似つかぬしゃがれた声をだした。
「頂上にいるねん、何か」
彼女が幹につまずく音がし、その幹が激しく揺れる音がした。
ちょっとの間、彼女はじーっと横になっていたが、それから低い声でいった。
「よく見張ってて。追っかけてきてるかもしれんねん」
灰燼がさーっと上がり、彼女らのまわりに落ちてきた。
加護は、からだを起こして坐った。
「山の上で、何かがふくれ上がるのを見たねん」
「そう思っただけなんやろう」と、震える声で中澤がいった。
「だってふくれ上がるものなんておらんからね。どんな生き物やってそんなことせんやろう」
吉澤が口を開いた。二人は飛び上がった。
吉澤がそこにいたことを、忘れていたからだった。
「蛙がいるよ」
加護はくすくす笑い、身震いした。
「そういえば、蛙の一種かもしれん。音もしたねん。
なんていうか、すぽっすぽっといったような音がしたねん。
それから急にふくれ上がったねん」
中澤がわれながら驚いたことは、自分の声の質――それは平静そのものだった――
よりも、自分のいわんとしている内容のもつ虚勢ぶりだった。
「見に行こうやないか」
彼女は幹を離れ、ぽきぽき音をたてる焼けぼっくいの間を通って、
先頭をきりながら暗黒の中へ進んでいった。
他の二人もついてきた。
肉声が沈黙すると、こんどは理性のささやく内なる声が、その他さまざまな声が、
彼女の耳もとで話しかけてきた。
保田が、裕ちゃんは子供だなあ、と呼びかけていた。
他の声が、そんな馬鹿な真似をするのはよせ、といった。
暗黒と必死の冒険に身をまかせていると、
夜が、一種異様な非現実感を漂わせているように感じられた。
最後の斜面にさしかかると、加護と吉澤が近づいてきた。
以心伝心というか、三人は申し合わせたように立ち止まり、一団となってうずくまった。
加護がささやいた。
「四つん這いになって進もう。ひょっとしたらあいつは眠ってるかもしれんねん」
一同は平坦な頂上にきたが、そのあたりの岩は手や膝の感じではひどくごつごつしていた。
ふくれ上がる生き物。
中澤は、片手を冷たく、柔らかい、火の消えた灰燼の中へつっこんだ。
あわてて叫び声をだすところであった。
手と肩が、この思いがけないものに触れたためにびりびり震えた。
今にも吐きそうになったが、たちまちそれは消えてしまった。
吉澤は彼女の背後にからだを横たえており、
加護はその口もとを彼女の耳のそばまで寄せていった。
「ほらあそこなんや、岩の割れ目のあったところやねん。こぶみたいなもの――見える?」
消えた火の灰が、もろに中澤の顔に吹きつけた。
割れ目も何も見えたものではなかった。
吐き気がまたもや起って、だんだん激しくなるようだった。
山頂が左右に滑り落ちてゆく感じだった。
少し離れた所から、また加護が低い声でいうのが聞こえた。
「怖いん?」
怖いというより、からだが麻痺していた。
だんだん小さくなり、ぐらぐら動いている山の頂上で、
彼女のからだは釘づけになっているのだった。
加護が、彼女からすべるようにして離れていった。
吉澤がどすんと倒れた。
しーっといいながら、手さぐりでごそごそしたかと思うと、前のほうへ進んでいった。
二人が何かささやいているのが聞こえた。
「何か見える?」
「ほら、あそこ――」
彼女らの前方、わずか三、四メートル離れた地点の、
もともと岩などなかったはずの所に、岩のような塊があった。
中澤は、どこからか小声でぼそぼそ話す声を聞いたが――
たぶんそれは、自分自身の口から洩れたものであったかもしれなかった。
意を決してしゃんとした。
そして恐ろしさと嫌だなあと思う心を、むりやり憎悪感にまで強めながら、
すっくと立ち上がった。
重い足どりで二歩前進した。
202 :
名無し娘。:2000/11/09(木) 23:38
彼女らの背後には、細い月が水平線の上に低くかかっていた。
彼女らの前方には、大きな猿みたいなものが、
頭を両膝の間につっこんで坐ったまま眠っていた。
すると、風が森の中でごうーっと唸り、たちまち暗黒の中にざわめきが起り、
その生き物は頭をもたげた。
そして彼女らのほうにその潰れた顔をじっと向けた。
気がついてみると、中澤は灰の中を大股で走りぬけていた。
他の者が何か絶叫しながら飛び上がるのを、聞いた。
暗い斜面を、とても人間業とも思えぬ勢いで駆け下りていった。
まもなく、山には人影一つ見えなくなった。
残ったものは、捨てられた三本の槍と、頭を垂れているあの“もの”だけであった。
203 :
名無し娘。:2000/11/09(木) 23:40
駄作だな。ゲラゲラ
204 :
名無し娘。:2000/11/10(金) 07:59
面白いぜ!作者さん頑張って!
保田は、悲しそうに、夜明け前の蒼白い浜辺から、黒々とした山を見上げた。
「ほんとなんだね? 嘘じゃなく、ほんとうにほんとなんだね?」
「何度いったら分かるんや!」と、中澤はいった。「うちらがちゃんと見たんや」
「ここなら、あたしたちはだいじょうぶなんだね?」
「そんなこと私に分からん!」
中澤は、急に彼女のそばを離れて、浜辺づたいに数歩あるいた。
加護はひざまずいて、人差し指で砂の上に何か丸い図形を描いていた。
保田の変に押し殺したような声が、彼女らの耳に聞こえた。
「で、これからどうする?」
中澤は、恐怖に襲われて死に物狂いで山腹を駆け下りたことを、思いだした。
「あんな大きなもの相手やと、どうやっても勝てんと思うんや。
どこかに隠れたほうがいいと思う」
加護は、まだ砂を見つめていた。
「うちの狩猟隊やったらなんとかできるねん」
中澤は、加護の言葉を無視した。
水平線の上に漂うほのかな黄色い空模様を彼女は指さした。
「明るい間ならまだ大丈夫や。でも、暗くなったらどうするんや?
それに、あれはのろしのそばに坐りこんで、うちらが救助されるのを妨害しとる――」
中澤はそういいながら、無意識のうちに両手を固くねじ曲げていた。
「のろしを上げることもできなくなったんや……もううちらはだめや」
黄金色に輝く一点が水平線の上に現われ、たちまち空全体がぱっと明るくなった。
「うちの狩猟隊をどう思う?」
「武器やいうたって、棒切れやないか」
加護は立ち上がった。そして歩いていったが、その顔は真っ赤だった。
保田は、中澤の顔をのぞきこんだ。
「だめだよ、裕ちゃん。あんないいかたしたら」
「圭坊は黙っといてや!」
全員が高台に集まった。
「いろいろたくさん問題があるんや」と、中澤がいった。
「あんたらも知ってるとおり、うちらは例の獣を見たんや。
うちらは這って登っていって、すぐ近くまで行った。
獣は起き上がって、うちらのほうを見た。
どんなことをするやつか私には分からん。
どんな獣かもうちらには分からん――」
彼女は森の中で感じた身震いを思いだしたが、それがずっと昔のことのようにも思われた。
「次に問題になるのは、獣をどうすることもできんということや」
「そんなことないねん!」
高台の上で一種のため息が漂ったが、それは一人残らず、
次にきたるべきものがなんであるかを、知っているようなため息だった。
なおも続く加護の言葉は、震えてはいたが断固たるものをもっており、
自分に同調しようとしないみんなの沈黙につっかかってゆく調子が、こめられていた。
「怖がりやから、隠れるなんていうんや! 山の上でも怖がって動かんかったねん」
「私やって、出ていったやんか!」
「それは後からや」
「私やって出ていった」と、中澤がいった。
「その後に逃げたんや。あんたも逃げたやんか」
加護は、顔を赤くしてそっぽを向いた。
顎をうしろへ引いていた。眉を苦々しげにひそめていた。
「もう分かったよ」と、彼女は意味ありげな、というより威嚇的な調子でいった。
「分かったよ」
彼女は、人差し指をしきりに振りながらいった。
「うちに賛成なのは、だれとだれや?」
彼女は、まわりにいる少女たちを、ある期待をいだいてじっと見た。
彼女らはすくみ上がっていた。椰子の木の下、死のような静寂が漂った。
「手を上げるんや」と、強烈な口調で彼女はいった。
「うちと同じに思うんやったら」
静寂が続いた。息のつまるような、重苦しい、そして恥辱にみちた静寂だった。
徐々に、加護の頬から血の気が退いたが、また急にぱっと赤くなった。
それは苦痛にみちたものだった。
唇をなめ、頭を少しもたげたが、それは他人の眼とかち合うきまり悪さを避けるためだった。
「何人くらい――」
彼女の声は、最後が聞きとれなかった。両手が、震えていた。
210 :
名無し娘。:2000/11/11(土) 23:13
咳払いをすると、大きな声でいった。
「もういい、分かった」
彼女の両方の眼尻から、屈辱の涙があふれていた。
「もういっしょにやるのは嫌や。もうたくさんや」
大多数の者はうつむいて、草を見るか自分の足を見ていた。加護は、再び咳払いをした。
「うちは、ひとりでここを出てくねん。豚もかってにとればいい。
うちが狩りをするときいっしょにきてやりたかったら、きてもかまわんねん」
彼女は、白い砂浜へ出る坂のほうへとぼとぼ歩いていった。
「加護!」
加護はふり向き、中澤の顔を見た。
一瞬、ためらったが、次の瞬間には、とても甲高い、憤怒にみちた声でどなった。
「――嫌や!」
彼女は高台から飛び下り、浜辺づたいに走っていった。
とめどなく涙があふれた。
彼女が森の中へ飛びこんで姿が見えなくなるまで、中澤はじっと見つめていた。
保全下げです
保田はぷりぷりしていた。
「だから私がいってたじゃない、裕ちゃん。
それなのに、黙ってつっ立ってばかりいて、まるで――」
中澤は保田のほうを向き、しかし彼女の顔を見ようともせず、静かにつぶやいた。
「帰ってくるやろ。太陽が沈んだらきっと帰ってくるやろ」
「まあいいや!」
保田は中澤を非難するのをあきらめた。そして、話そうとしていた話題にたち返った。
「問題は、現に獣がいるってことだね、といっても、
まだ私にはなかなか信じられないんだけど。
獣がいるとなると、あたしたちはこの高台からできるだけ離れちゃいけないってことになる。
で、これからどうするか、それをはっきり決めなきゃならないと思うんだ」
「どうしようもないで、圭坊。万事休したんや」
しばらくの間、彼女らは暗い気持ちになって黙りこくっていた。
すると飯田が立ち上がった。中澤が飯田を見上げた。
「みんなで、山へ登ってみないといけないと思う」
みんなは戦慄を覚えた。
飯田は、それだけぽつんというと、わけの分からないことをいうやつだといった表情で
自分を見つめている保田のほうに、向き直った。
「その獣のいる所に登っていくといったって、それがなんの役にたつの?
裕ちゃんや他の二人だって何もできなかったじゃない」
飯田は、静かに答えた。
「だって、他にどうすることもできないから」
言いたいことは言い終ったので、彼女は、少し離れた所へ行って坐った。
保田がこんどは話し続けた。
「今私がいいたいのは、何があたしたちにできるか、
それを決めなきゃいけないということなんだ。
たぶん裕ちゃんが次にいうと思うけど、この島で一番大事なのは、煙のことだということ。
そして火を燃やさなければ煙はたたないということ」
中澤は、いらいらしてからだを動かしていた。
「それはだめや。あいつがあそこにおるから」
「山の上で火は焚けないよ。でも、低いこのあたりで火を焚くのはかまわない、と思うんだ。
前と同じようにして煙を上げようよ」
「そうだ、そうしよう!」
「よし、煙を上げよう!」
「あそこの岩の上がいい!」
少女たちは、がやがやしゃべり始めた。
いよいよやるべきことが決まったからには、彼女らは一生懸命に働きだした。
彼女らは高台のそばの何もない砂の上に、
葉や小枝、大枝や丸太を、ピラミッド形に積み重ねた。
保田が火をつけると、まもなく、ぽうっと煙が一条たちのぼり、
寄せ集めた小枝が黄色い炎に包まれた。
少女たちは凄まじい勢いで快活に働いたが、時間がたつにつれ、
ある者は海のほうへ、ある者は果物をとりに、そしてある者は小屋のほうへ、
こそこそと消えていってしまった。
中澤は、砂の中にどさっとからだを投げだした。
「かおりはどこにおる?」
保田は周囲を見まわした。
「たぶん……いや、かおりが一人で森の中へ行くなんてこと、ないと思うんだけどなあ」
中澤は飛び起きて、大急ぎで火のまわりをぐるっとまわって保田のそばへきた。
彼女は保田の顔を見ようとはせず、何気ないふうにいった。
「辻と吉澤はどこやったろ」
保田はからだを前にのりだして、小さな木切れを火の中に投げ入れた。
「たぶん行っちゃったんだよ」
保田はしゃべり続けた。
「あの子たちは、うちらが木を集めていたときに、こそこそ逃げていったよ。
あっちのほう、加護と同じ方角へいったよ」
中澤は、あたりのようすをうかがった。
彼女らの間に生じた大きな変化に感応したのか、
空のようすが今日はいつもとは違っていた。
すっかりもやがかかったみたいで、
ある所などその辺の熱い空気が白っぽく見えるほどだった。
丸い太陽でさえ、いつもより近くに接近しているみたいで、
鈍い銀色に光り、あまり暑くはなかった。
それでいて、空気は息がつまりそうだった。
「あの子たちはまったくいつも世話をやかせるじゃない、ね、そう思わない?」
なおもしゃべり続ける声は、彼女の肩の近くまで近づき、不安にみちた響きを発していた。
「なんとかなるよ、そのうち。ね、そうだよね?」
中澤は砂の上に坐ったまま、一言も口をきかなかった。
彼女は、保田が矢口の所へ行って何かその耳もとにささやくのも見なかったし、
その二人がいっしょに森の中へ入ってゆくのも、気がつかなかった。
「さ、もってきたよ」
彼女は、飛び上がるほどびっくりして、われに返った。
保田と矢口が、そばにいた。果物をいっぱい抱えていた。
「元気をださなきゃいけないよ」と、保田がいった。
二人も腰をおろした。とてもものすごいほどの果物だった。
一つ残らず、ほどよく熟していた。
中澤が少しばかりそれをとって食べかけるのを見て、二人はにっこり笑った。
「ありがとう」と、彼女はいった。
それから、いかにも思いがけなかった、といわんばかりの喜びにみちた語調でいった
――「ありがとう!」
「なんとかうまくやっていけるよ」と、保田がいった。
中澤は、さっきから気がかりになっていたことを思いだした。
「かおりはどこにおるんや?」
「知らないよ」
「まさか山へ登ってるんやないやろな」
保田は大声で笑いだして、果物をもっととろうと手をのばした。
「かおりのことだから登ってるかもしれない」
彼女は、口いっぱい頬張った果物をごくっと呑みこんだ。
「何考えてるのか分からないからね」
飯田は、果物の木のある地帯を通って進んでいた。
つる草の間を進み、やがて空き地のそばの、
大きくつる草で編まれてむしろみたいになっている所へ出、その中にもぐりこんだ。
とばりのようになっている緑の葉の向こう側では、日光が強く照りつけており、
その真ん中で蝶がいつ果てるとも思えない踊りを踊っていた。
彼女はひざまずいた。光線が彼女の頭上に突き刺さるように照りつけた。
以前ここへきたときは、ここの空気は酷熱で揺れ動いているように思えたものだったが、
今日は自分を脅かしているような気がした。
まもなく汗が、長くのびた髪から滴り落ち始めた。
じれったそうにからだを動かしてみたが、太陽の光線を避けることはできなかった。
ほどなく彼女は喉の渇きを覚えた。
時がたつにつれ、その渇きはいっそう激しいものになっていった。
彼女は、じっとそこに坐り続けた。
ずっと遠く離れた浜辺で、加護は少女たちの小さなグループを前にして立っていた。
いかにも嬉しそうな、晴れ晴れした表情をしていた。
「狩りをしようと思うねん」と、彼女はいった。
そして、前にいる少女たちを、調べるような眼で見た。
安倍、石川、吉澤、辻がそこにいた。
「うちらで狩りをしようやんか。うちがこれからは隊長や」
一同はうなずいた。あっけなく危機は通りすぎた。
「それから――あの獣のことやけど――」
彼女は身じろぎして、森のほうを眺めた。
「いや、うちがいいたいのは、もうこれからは、獣のことは気にしないことにしよう、
いうことやねん」
彼女は、彼女らに意味ありげにうなずいてみせた。
「獣のことは忘れることにしたいねん」
「それがいいよ!」
「賛成!」
「獣のことは忘れよう!」
あまりに彼女らが意気ごんでいうので、加護も驚いたらしかったが、
それを顔にはださなかった。
221 :
名無し娘。:2000/11/13(月) 23:18
「それから、ここではあんまり変な夢は見ないと思うねん。
ここは島の一番端のとこやから」
彼女らは、心の底から熱烈にそれに賛成した。
みんなめいめい秘められた苦悩をいだいていたのだ。
「それから、あとであの岩の砦のところに行こうと思うねん。
その前に、豚をとってきて、宴会を開こうと思うねん」
彼女はここで言葉をきって、それからまた、前よりもっとゆっくりした口調でいった。
「獣のことやけど――うちらが獲物をとったら、その一部を獣にとっといてやろうやんか。
そしたら、あまりうちらのことをかまわないでいてくれると思うねん、たぶん」
突如、彼女は立ち上がった。
「さ、森に入って、狩りをしよう」
彼女はくるっと向き直って、すたすた歩いていった。
一瞬ためらったのち、他の少女たちもおとなしく彼女の後についていった。
彼女らは、森の中へ入ると、すぐ不安そうに散開した。
と、たちまち、加護が、豚のいることを物語る、
掘り返されさんざん踏み荒らされた木の根を見つけた。
そこの道を今さっき豚が通ったこともすぐ分かった。
他の狩猟隊員に、静かにしているように合図をして、自分一人で前進した。
彼女は幸福だった。
かつて着た昔の衣装でも着ているかのように、
今、森の湿っぽい暗さを身にまとっていた。
坂道を這い下り、海辺の岩や木がごろごろしている所へ出た。
水ぶくれした脂肪の塊みたいな豚が、幾頭も木の下でその日陰をだらしなく楽しんでいた。
風がなく、豚は少しも警戒していなかった。
すっかり熟練していた加護は、影のように静かであった。
もときた道をそっと引き返してゆき、隠れていた仲間に指図を与えた。
まもなく、彼女らは、深い沈黙と酷熱の中に身をさらし、汗を流しながら、じりじりと前進した。
木陰で、片方の耳を意味もなくぴくぴくさせている豚がいた。
他の豚から少し離れて、群れの中で一番大きな豚が幸福感にひたって寝そべっていた。
豚の群れから十五メートルの所で、加護は立ち止まった。
彼女の腕はまっすぐのばされ、その豚を指さしていた。
全員が彼女の意図を了解しているかどうかを確かめようとして、
彼女は探るような眼つきで周辺を見まわした。
他の者たちは、彼女に向かってうなずいた。
みんなは一斉に右手をふりかざした。
「今や!」
豚の群れがざわめきたった。
わずか十メートルの距離から、火で先端を固くした木の槍が、
目標に選ばれた豚に向かって飛んでいった。
豚は、あえぐような叫び声を上げながら、
だらっとした横腹に二本の槍を打ちこまれていきりたった。
少女たちは、喚声を上げて突進した。
豚の群れは右往左往し、目標の豚は、向かってくる狩猟隊の隊伍を破り、
凄まじい音をたてて森をめざして逃げていった。
「あとを追うねん!」
豚の通る道に沿って彼女らは追跡したが、
森の中はひどく暗く、それにひどく錯綜していたので、
結局加護はぶつぶつ言いながらみんなをおしとどめ、木の間をじっとうかがった。
彼女がしばらく一言も口をきかず、ただ激しい息づかいをするばかりだったので、
少女たちは畏怖の念を覚え、不安と賞賛のいりまじった気持ちをいだいたまま、
互いに顔を見合わせていた。
まもなく、彼女は地面を指で示した。
「ほら、見てみ――」
他の者たちが血痕を調べるか調べ終わらないうちに、加護は足跡を見つけ、
折れた枝に手を触れたりして、ぐいと違う方向へ曲がった。
彼女はそういうふうにして、実に不思議なくらい的確に追跡していった。
狩猟隊の少女たちは彼女の後からついていった。
ある茂みの前までくると、ぴたりと彼女は立ち止まった。
「この中や」
彼女らはこの茂みを包囲したが、
結局、豚は横腹にさらにもう一本の槍を突き刺されたまま、逃げていった。
突き刺さった槍を引きずっているので、思うように逃げられなかった。
そのうえ、鋭い、目の交差した切っ先の痛みが、ぐいぐい食い入るようであった。
豚は木にぶつかったが、そのために、槍の切っ先はいっそう内部へ食いこんだ。
もうこうなれば、鮮血の痕をたどってこの獲物を追っかけてゆくことは、
誰にもできる容易な仕事であった。
午後の時刻がしだいに経過していった。
じっとりとした暑さにもうろうとなるような、血なまぐさい午後であった。
少女たちの前方をよろめきながら、豚は、絶えず血を流し、気が狂ったように逃げていった。
その跡を追う少女たちは、いわば情欲的なものによってその豚と結ばれており、
長時間の追跡と滴り落ちている鮮血によって、興奮しきっていた。
彼女らはいよいよ豚を間近に見ることができるようになり、
ほとんど追いつくばかりになったが、
相手は最後の力をふりしぼって駆けだし、再び彼女らを引きはなした。
しかしその豚が、華麗な花が咲き、蝶が輪を描いて飛びかい、
大気が灼熱し静まりかえっている空き地までよろめいて逃げこんだとき、
少女たちもすぐその後に迫っていた。
ここまできて、暑さにへこたれてしまい、その豚はぶっ倒れてしまった。
少女たちはわあっと押し寄せた。
思いがけない世界からのこの恐るべき襲撃に、豚は狂乱していた。
叫び、飛び上がった。
あたり一帯には汗と騒音と血と恐怖の渦がまき起った。
吉澤はうずくまった豚のまわりを走りまわり、
その肉の裂け目を見つけしだい、槍で突いてまわった。
加護がその上に乗っかかって、ナイフをぐさっと突き刺した。
吉澤がそれから、ここぞと思うある所に槍の切っ先をぐいぐい突きこんだが、
しまいには自分の体重でよろけるほどだった。
槍は一寸きざみに肉の内部へと食いこみ、おびえきった豚の悲鳴は、
やがて耳をつんざくような断末魔の絶叫となった。
それから、加護は喉もとにとどめを刺し、温かい血を両手いっぱいに浴びた。
豚は、ついに彼女らの手にかかってあえなく最期をとげた。
彼女らは重苦しい、そして充たされた感じを味わった。
蝶は、空き地の真ん中で無心にまだ舞い続けていた。
ついに殺戮の衝撃は静まった。
少女たちは後ろへ下がり、加護は立ち上がって両手をつきだした。
「見てみ」
彼女はくすくす笑った。
みんなが血だらけの彼女のてのひらを見て笑っているとき、そのてのひらをうち振った。
彼女はそれから、辻を捕まえてその頬に血をなすりつけた。
吉澤は、槍を豚のからだから引き抜きにかかった。
彼女がそんなことをしていたことを、はじめてみんなはそのとき知った。
こんどは、辻と安倍が、豚と豚を殺す役を二人で演じた。
突っかかってくる槍を避けようとする、豚の必死の努力の真似をする辻の演技が、
あまりに滑稽だったので、少女たちは一斉に笑いこけた。
やがて、この馬鹿騒ぎも、気が抜けたようにおさまった。
加護は、岩に手の血をこすりつけた。
それから、その豚の処理にかかり、腹をさき、
妙にけばけばしい色をした温かい臓腑を引きずりだし、それを岩の上に山のように積んだ。
そのあいだ、他の者はじっと見ていた。
仕事をしながら、加護はしきりにしゃべった。
「この肉を、浜辺づたいに運ぶねん。そんで、高台に行って宴会に招待してやんねん」
吉澤がいった。
「火はどうするの?」
加護は、どすんとあぐらをかき、豚の死骸を渋面を作って見つめた。
「火はとってこよう。顔に何か塗って忍びこむねん。その後で――」
彼女は、そこまでいって立ち上がり、木の下の暗い影を見た。
再び口を開いたとき、その声はいっそう低くなっていた。
「でも、獲物の一部は残しておいて、あいつに……」
「そうや! 棒の両端をとがらせればいいねん」
加護は棒切れを一本とってきて、その両端を削いだ。
それから、彼女はまた豚のところで膝をついて、せっせとナイフを動かした。
少女たちは、そのまわりに集まっていた。
まもなく彼女は立ち上がった。
その両手には、血の滴る豚の頭が抱えられていた。
「さっきの棒は?」
「ここにあるよ」
「棒を地面に打ちこむねん。違う――そこは岩や。あそこに、そうや」
加護は豚の頭部を抱え上げて、棒の先端にその柔らかい喉の所をぐいと突き刺すと、
先端は口のあたりまで貫いた。
彼女は少し後ろへ退いた。
豚の頭はその先端にさらされ、血が少し棒切れを伝って滴り落ちた。
本能的に、少女たちも少し離れた。
森はまったく静かであった。
みんなはじっと耳をすませた。
一番うるさい物音でさえも、ごっそり積み重ねられた臓腑の上にたかっている
蝿のぶんぶんいう音くらいであった。
加護は、ささやくような声でいった。
「さ、豚を担ぐねん」
吉澤と石川は、死骸に棒切れを刺しこんでもち上げ、次の命令を待ったが、
ぐったりした死骸の重さがひしひしと感じられた。
静寂が彼女らの身に迫った。
乾ききった血痕の上を踏んで立っていると、
急に何かうしろめたい感じに襲われたらしかった。
大声を上げて加護がいった。
「この頭はあの獣にやるねん。うちらからの贈り物や」
静寂は、この贈り物を受けとった。
少女たちは慄然とした。
棒切れの上に豚の頭は静止していた。
眼をどんより開き、かすかに笑いをもらし、
血を歯に真っ黒にこびりつかせてじっとしていた。
と、たちまち、少女たちは駆けだしていた。
まったく一目散に、森を抜けて、広く開いた浜辺に向かって懸命に走っていた。
そこには飯田のほかだれもいなかった。
木の葉に隠されて外からはほとんど見えない像、それが飯田だった。
たとえ眼をつぶっても、豚の頭部は、依然として残像のように眼底に残っていた。
半ば閉じられたその豚の眼は、無限のシニシズムをたたえてぼんやり霞んでいた。
その眼は、何もかもだめじゃないか、と飯田に訴えかけていた。
「分かってるよ」
飯田は、自分が独り言をいったのにびっくりした。
彼女はすばやく眼を開けてみた。
眼前には、不思議な光を浴びて、豚の頭が楽しそうに笑いかけていた。
自分にたかっている蝿も、積まれた臓腑も無視し、
棒切れの先にさらし首になるという屈辱も無視して、平気なようすだった。
彼女は眼をそらし、乾いた唇をなめた。
獣への贈り物だって? だいたい獣がとりにくるわけがないよ。
豚の頭も、彼女の意見に賛成しているらしいように、彼女には思われた。
その頭は言葉にはださなかったが、さ、逃げるんだ、
他の少女たちのいる所へ戻るんだ、といっていた。
どうしてそう心配するのだ?
おまえはまったく考え違いしていたんだ、それだけの話なのだ。
ちょっとした頭痛みたいなものだったのだ。
さ、いい子だからお帰り――と、豚の頭は黙って彼女に話しかけていた。
236 :
名無し娘。:2000/11/15(水) 23:57
飯田は顔を上げ空を凝視した。
今日はどうしたわけか、空に雲がかかり、それが大きな塔のようにふくれ上がり、
島全体の上におおいかぶさるようにその触手をのばしていた。
それらの雲は頭上にうずくまり、苦しくて息のつまるような熱気を、
じわじわと吐きだしているようであった。
例の猥雑なものがにたにた笑っては血を滴しているこの空き地からは、
蝶でさえ逃げだしていた。
飯田は、用心深く眼を閉じたまま頭を垂れ、片手で眼をおおった。
木の下には影もなかったが、いたるところ真珠色の静けさがあった。
現実的なものも、夢幻的なとりとめのないもののように見えた。
飯田の面前には魔物が棒切れの上にさらされ静まりかえってにやにや笑っていた。
ほどなくついに飯田は絶望的になって、うしろを向いた。
白い歯と霞んだ眼と血は、依然として眼中から離れなかった。
そして、その彼女の凝視は、あの古くから人間につきまとっている、
のがれるすべのない認識の体験によって、釘づけにされたままだった。
彼女の右のこめかみの所がずきずき痛みだした。
中澤と保田は砂の上に寝そべって、火を見つめながら、ぼんやりと、
その煙のたっていない真ん中の部分に、小石などを投げこんだりしていた。
むくむくと天高くそびえている雲の間で、雷が砲声のようにとどろいた。
「どしゃ降りになりそうやな」
中澤は、寝たままからだを一回転させた。
「な、圭坊、いったいうちらはどうしたらいいんや?」
「あの子たちを、なんとかする以外ないよ」
「でも――問題は火なんや」
燃えきれないまま、枝の端が、乱雑に残っているたき火のあたりを見ながら、
彼女は苦々しい表情を浮かべた。
「うちは怖いんや」
彼女は保田が顔を上げるのを見、まごつきながら、しゃべり続けた。
「あの獣が怖いんやないんや。いや、あれだってそりゃ怖い。
でもほかに、だれものろしのことを分かってくれないってことが、怖いんや。
溺れているときに、だれかが綱を投げてくれたら――
これを飲まんとあんたは死ぬで、さ、これを飲めって医者が薬をくれたら、
だれだってそうするに決まっているんやないか? つまりやね――」
「もちろん、私ならそうするよ」
「あの子ら、なんでそれが分からんのやろう?
その理屈がどうして分からんのやろう?
のろしを上げていないと、うちらはここで死ぬんやで。
ほら!」
一陣の熱風が灰燼の上で震えていたが、煙は一条もたってはいなかった。
「ちょっとたき火をしてもすぐ消えてしまうやろ。
あの子らはそんなことまったく平気なんや――」
二人のすぐそばの森から、急にものすごい騒ぎが聞こえてきた。
顔を白と赤と緑でくまどった異形の者たちが、喚声を上げて躍り出てきた。
矢口と後藤は、悲鳴を上げて逃げだそうとした。
保田までが逃げようとするのを、中澤はちらっと見かけた。
二人の異形の者が、火のほうへ突進してきたので、中澤は身構えた。
しかし、その二人は立ちはだかったまま、中澤を見つめていた。
それが、加護と吉澤だということはすぐ分かった。
中澤は、おちつきをとり戻して口を開いた。
「で、どうするつもりや?」
加護は、中澤を無視して槍をふり上げ、大声でどなった。
「うちらは、平らな岩の近くに住んでるねん。
狩りをしたり、ご馳走を食べたり、遊んだりしてるんや。
うちらの仲間には入りたかったら、くればいいねん」
彼女は、言葉をきって、あたりを見まわした。
くまどりがいわば仮面の役割をしていたので、
彼女には恥ずかしさもなければ、自分にこだわることもなかった。
そしてそこにいる少女たちの一人一人を、ずっと見わたすことができた。
「今晩、うちらはご馳走を食べるんや。
豚を一匹殺したから肉がたくさんあるんや。
なんなら、食べにきてもいいねん」
頭上で、深い峡谷のような格好をしている雲間から、雷鳴がまたもやとどろいた。
加護と吉澤が、ぎくっとして空を見上げたが、すぐおちつきをとり戻した。
二人は、半分焼けた枝を数本つかんだと思うと、浜辺づたいに走り去った。
「おまえはまったく馬鹿な子だね」と、魔物はいった。
「まったく無知で馬鹿な子だよ、ほんとに」
飯田は腫れ上がった舌を動かしたが、言葉にはならなかった。
「そうおまえは思わんのかね?」と、魔物はいった。
「おまえはほんとに馬鹿な子だと、自分でも思わないのかね?」
飯田は彼に答えたが、それは相手と同じく沈黙の声を通してであった。
「なるほど」と、魔物はいった。
「じゃ、おまえはすぐここから走っていって、他の者といっしょになって遊ぶんだな。
みんなはおまえが変だと考えてるだろう。
中澤に変だなんて思われたくはないんじゃないのか?
おまえはとても中澤が好きだろう? え?
それから保田も、加護だって?」
飯田は、頭を軽く上方に傾けた。
眼はどうしても前方からそむけることはできなかった。
魔物は、依然として彼女の眼の前にさらされたままこちらを向いていた。
「おまえはたった一人で何をここでしているのだね?
わたしが恐ろしくはないのかね?」
飯田は頭を横に振った。
「おまえを助けようという者も一人もいないじゃないか?
そうしようというのはわたしだけなんだよ。
それにわたしは“獣”なんだよ」
飯田は口をしきりにもぐもぐしていたが、
ついに明瞭に聞きとれる言葉を吐いて、いった。
「うん、棒切れの上にさらされている豚の頭だよ」
「“獣”を追っかけて殺せるなんておまえたちが考えたなんて馬鹿げた話さ!」
と、その豚の頭はいった。
その一瞬、森やその他のぼんやりと識別できる場所が、
一種の笑い声みたいな声の反響にわきたった。
「おまえはそのことは知ってたのじゃないのか?
わたしはおまえたちの一部なんだよ。
おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ?
どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、
それはみんなわたしのせいなんだよ」
笑い声が、また震えるように反響した。
「さあ」と、魔物はいった。
「おまえはほかの子の所へ帰るがいい。
そして、わたしらは何もかも忘れようじゃないか」
飯田の頭はくらくらした。
棒切れの上にさらされているその猥雑なものの真似をするみたいに、
彼女は眼を半ば閉じていた。
244 :
名無し娘。:2000/11/17(金) 23:41
魔物が風船のようにふくれ上がった。
「おまえのやり方はまったく滑稽なんだよ。
下の海岸の所でだって、おまえはやはりわたしに会うんだよ
――それもおまえにはちゃんと分かっているはずだがね――
だから逃げようたってだめな話さ!」
飯田のからだは弓なりに硬直した。
「しようのない子だよ、おまえは。
わたしよりも利口だとおまえは思っているのかね?」
飯田は、自分が巨大な口の中をのぞきこんでいるのに気がついた。
その内部は真っ暗だった。
拡がってゆく暗黒の世界がそこにあった。
「わたしは、おまえに、警告を発しておく。
わたしらはこの島でおもしろおかしく暮らしてゆきたいのだ!
だからもうあまりしつこく邪魔しないでくれ!」
飯田は相手の口の中に呑みこまれた。
彼女はぶっ倒れ、意識を失った。
ゴラァー!!
関西弁がへんなんじゃ〜!!
このにせもんが〜もっと勉強しろや〜っ!!
確かに関西弁も北海道弁も知らない。
語尾を変えてるだけだ。
っていうか、リアル関西弁にしたらかえってリアルじゃなくなるんじゃ〜!! (たぶん
保全書き込みを行います。974619003
島の上では、相も変わらず厚い雲がいっこうに消えずに漂っていた。
むくむくと動く気体の巨大な塊が、静電気を作り、大気は今にも爆発しそうなようすであった。
夕方になるにはまだ時刻は早いのだが、もう太陽が隠れ、
鮮明な日光の代わりに真鍮色のにぶい光が漂い始めていた。
海面から流れこんでくる空気もまだ暑く、いっこうに爽やかではなかった。
水も樹木も岩礁の紅色の表面もしだいに色あせていって、
ただ白と褐色のまざった雲だけが、あたり一帯をおおっていた。
一切が生気を失っていたが、例外は、
豚に真っ黒にたかっている蝿の群れだけであった。
積み重ねられた臓腑が黒光りしていて、まるで石炭の塊のように見えた。
鼻の血管が破れて飯田は鼻血をたらたら流していたが、
それでも蝿の群れは彼女にはいっこうに見向きもせず、
豚の強烈な臭いのほうへ惹きつけられていた。
彼女はむしろのように拡がっているつる草の上に寝ていたが、
その間にもしだいに夕暮れは迫りつつあった。
相変わらず轟音は響き続けていた。
やがて、彼女は眼を覚まし、自分の頬にくっついている暗い地面をぼんやり眺めた。
それでもなお身動きせず、顔を斜めに地面につけ、
眼をだるそうに前方に向けたまま、じっとからだを横たえていた。
それからからだを回転させ、両足を曲げ、起き上がろうとしてつる草をつかんだ。
つる草が震えると、蝿の群れは、無気味な唸り声をたてて
臓腑からわっと一斉に飛びたったが、まもなく再び元どおりにたかった。
飯田は立ち上がった。
あたり一帯の光は、なんとなく異様だった。
魔物は、真っ黒なボールのような格好で、棒切れの上にじっと静止していた。
飯田は、空き地に向かって大声でいった。
「ほかにどうすればいいっていうの?」
だれも答える者はいなかった。
彼女は空き地から向きをかえて、つる草の間を通り抜け、森の中の暗い所へ出た。
彼女はうつろな表情を示し、口や顎のまわりにこびりついた血もそのままかまわずに、
木の幹の間を寂然として歩いていった。
ただときどき、網のようによじれているつる草を払いのけたり、
土地の傾斜から判断して自分の進む方向を選ぶときなど、
口の中で何かぶつぶついっていたが、それも結局はっきりした言葉にはならなかった。
まもなく、つる草が木に絡みついているといった光景もいくらかまばらになり、
梢をとおして空から射してくる真珠色の光線も、ちらほら見られるような場所に出た。
地面の傾斜に導かれるままに、彼女は上の方へと進んでいったが、
森もしだいに開けていった。
疲労のために、ときどきよろめいたりすることはあっても、
けっして留まることなくひたすら進んだ。
いつもの輝きが彼女の眼からは失われていた。
ちょうど老人のそれのような、不機嫌に思いつめたようすで、ただ歩いていった。
一陣の風が吹いてきたので、彼女はたじろいだ。
気がついてみると、岩層の上にある空き地に立っていた。
空は真鍮色だった。
両脚が弱りはて、ずっとそれまで舌がひりひりしていたことにも気がついた。
風が山頂に吹きつけると、あることが起った。
褐色の雲を背景にして、青いものがひらひらするのを見たのだ。
彼女は前に進んでいった。
前よりも強い風が吹いてきて、森の梢を殴りつけるようにかすめてゆくと、
その梢は折れそうになり唸り声を発した。
飯田は、背を丸くしたある“もの”が、山頂で急に身を起こし、
自分を見下ろしているのを見た。
彼女は顔をおおって、なおも進んでいった。
蝿も、すでにその人影を見つけていた。
生きているもののように動くその動作に驚いて、蝿は一瞬離れてゆき、
その人影の頭部のまわりに黒い雲のようにうごめいた。
それから、パラシュートの青い布がだらりと緩むと、その肥った人影は、
何かため息をつきながら、前方へお辞儀をするかのごとく頭を垂れるのだった。
蝿がそのたびにたかった。
飯田は、膝が岩にぶっつかるのを感じた。
なおも這ったまま進んでゆき、まもなく事態を了解した。
紐のもつれぐあいを見たとたんに、このパロディのからくりが彼女には分かったのだ。
彼女は、相手の白い鼻骨、歯、腐敗から生じたさまざまな色の変化を、じっと見つめた。
無残にもゴムや布地が幾重にも絡み合っているために、
腐りかけている死骸が妙なぐあいに縛りつけられているのを、彼女は知った。
また風が吹いた。
そのからだは起き上がり、お辞儀をし、彼女に向かって嫌な息を吹きかけた。
彼女は四つん這いになった。
吐き気を催し、すっかり吐いてしまった。
それから、紐を手にとって、岩からはずしてやった。
死骸は風に翻弄される屈辱からまぬがれることができた。
255 :
名無し娘。:2000/11/19(日) 23:31
しばらくして、彼女はそこから眼を転じ、遥か下の浜辺を見下ろした。
高台のそばのたき火は消えているらしく、いや、少なくとも煙をだしてはいないらしかった。
浜辺に沿って遠く離れた、小川の向こうの、大きな板のような格好をした岩のある所で、
細々とした一条の煙が空に舞い上がっているのが見かけられた。
彼女は両手をかざしてその煙をじっと見つめた。
こんな遠方からでさえも、少女たちの多くがそこにいるのが、充分見られた。
してみると、みんなはキャンプを移した、獣から遠い場所へと移した、に違いなかった。
飯田はそう考えながら、自分のそばで悪臭を放って腰をおろしている、
見るも無残な死骸へ眼を転じた。
この獣は危害を加えはしないが、恐ろしいことに変わりはなかった。
できるだけ早く、このニュースをみんなの所に伝えなければならない。
彼女は山を駆け下りようとした。
足が、がくんと崩れた。
いくら用心深く走ろうとしても、ただよろめくばかりだった。
保全です
「もっと涼しくなるといいんやけどな」と、中澤はいった。
保田は、気味悪くおおいかぶさってくる空を、しきりに気にして見ていた。
「この雲が気に食わないな。うちらがここにきてすぐ後に降った雨のこと、覚えてる?」
「また、雨になりそうやな」
中澤は、まわりを見わたした。
「みんな、どこにおるんやろ? 矢口は? 後藤は?」
保田は、高台の向こうを指さした。
「みんなが行ったのはあっちのほうだよ。加護たちの所だよ」
「行きたかったら行けばええわ」と、中澤は少し不安そうにいった。
「かまわんわ。少々肉が食べられるもんやから――」
保田は、砂をしきりに引っかきまわしていたが、中澤のほうは見ようとはしなかった。
「あたしたちも、結局行かなくちゃならないんじゃないのかな」
はっとして、中澤は彼女を見た。保田は顔を真っ赤にした。
「ていうのはね――何とかしなきゃいけないってことだよ」
中澤と保田には、加護たちの所へ近づくずっと以前から、
連中の動静が物音で分かっていた。
森と海岸の中間に椰子の木立ちにはさまれた広い帯のような芝生の所があり、
その下にある、礁湖のほうへ向かってのびている岩場の上では、たき火が燃やされていた。
そこでは豚肉があぶられ、その脂がほのかな炎の上にぽたぽた落ちていた。
中澤、保田、飯田、それに豚をあぶっている石川と辻を除いた五人は、
芝生の上に一団となってかたまっていた。
笑ったり、歌を歌ったり、寝そべったり、あぐらをかいたりしていたが、
みんな両手に食べ物をもっていた。
脂で汚れたその顔から判断して、
もう肉を食べる宴会もあらかた終りに近づいているようであった。
中澤と保田が、この芝生の端の所まで近づいた。
それに気がついた少女たちは、一人ずつ黙りこみ、加護もからだをこちらへ向けた。
しばらく、彼女は二人を見ていた。
ぱちぱちいう火の音だけが聞こえ、
珊瑚礁から響いてくるにぶい音よりも遥かに鮮やかに響いていた。
ちょうどそのとき、火のそばで料理をしていた辻が急にぐいと大きな肉片を引きちぎって、
芝生のほうへ走りだそうとした。
ところが、すぐに転び、辻は肉が熱くて、
たちまち唸り声をだすやらぴょんぴょん飛びはねたりする始末だった。
それを見た中澤や少女たちの一団は、わっと笑いだし、
おかげで和気あいあいたる空気が生じた。
中澤は肉を食べながら火を凝視していた。
薄暗い光の中で炎だけがはっきりと見えるのを、
ただぼんやりとわけもなく彼女は見ていた。
もう夕暮れだった。
けれども静かな美しさではなく、
今にも凶暴なことが迫りそうな不安が、あたりに漂っていた。
加護は立ち上がり、草地の端までゆっくり歩いていった。
そして、くまどりをしている仮面のような顔から、じっと眼をそそいで中澤と保田を見つめた。
いわば権力が、彼女の褐色の腕の上にどっしりと構えていた。
権威がその肩の上に宿り、その耳もとで猿のように何ごとかを彼女にしゃべりかけていた。
加護は少女たちのほうへふり返った。
「うちのお陰で肉が食べれたねん」と、加護はいった。
「それに、うちの狩猟隊のお陰でこれからもあの獣から守ってもらえるはずやねん。
うちの仲間になるんやろ?」
「私がリーダーや」と、中澤がいった。
加護は、中澤を無視した。
「うちの仲間に入って、いっしょに楽しくすごしたい人は?」
「リーダーは私なんや」と、声を震わして中澤はいった。
「たき火はどうするつもりや?」
森の向こうで一閃稲妻がひらめき、割れるような雷鳴が起った。
大粒の雨が、ばさっばさっと、はっきり一つ一つそれと数えられるほど
音をたてながら降ってきた。
「嵐になりそうやないか」と、中澤はいった。
「うちらがここにきたときみたいな大雨になりそうや。
あんたたちの小屋ってのはどこにある?それはどうするつもりなんや?」
狩猟隊の連中は、強い雨脚にたじろいで、空を心配そうに見上げていた。
内心の不安がつぎつぎに伝わって、
少女たちはただわけもなく、あちらこちらへと動きはじめた。
閃光はますます強くなり、殴りつけるような雷鳴は
もうほとんど我慢できないほどになっていった。
加護は砂地に飛び下りた。
「さ、うちらのダンスをするねん! さ、始めよう! 踊るねん!」
彼女は、ぼくぼくする砂地に足をとられながら、
火の向こうの広い空き地になっている岩場のほうへ走っていった。
稲妻がとだえている間は、あたり一帯は暗くものすごい状況を呈していた。
がやがやと喚きながら、少女たちは彼女の後からついていった。
吉澤は、豚になって唸りながら加護に突進していった。
加護は、ひょいひょいとそれを避けた。
狩猟隊の者は、槍をとり上げ、残りの者は薪を棒切れ代わりにもった。
みんな輪になってまわりだし、同時に歌を歌いはじめた。
無気味な空模様の下で、中澤と保田は、
この気違いじみたしかし半ばは安定している団体の中に参加したい、
という気持ちにしきりにさそわれた。
恐怖心を閉じこめ、その逸脱を抑えている人垣の背に触れて、
二人はほっとした気持ちになった。
「獣ヲ殺セ! ソノ喉ヲ切レ! 血ヲ流セ!」
詠唱が初めのうわずった調子から醒めて、
おちついた脈拍のように一定の律動をうち始めるにしたがい、
輪を描く動きも、しだいに規則的なものになっていった。
吉澤は豚の真似をやめ、自分も狩猟隊の一員となったので、
輪の中央は、がらんと空いたままになった。
このようにして同じ動作を繰り返すことによって、
自然に、ある安定感が生じるもののようであった。
ある一つの生き物がそこに息づき、足を踏み鳴らしているようであった。
引き裂くような青白い稲妻によって、真っ暗な空が震えおののいた。
と、その次の瞬間、巨大な鞭でぶちのめすかのように、
少女たちの頭上に轟音が鳴り響いた。
詠唱は、苦痛にうちひしがれたような甲高い調子になった。
「獣ヲ殺セ! ソノ喉ヲ切レ! 血ヲ流セ!」
いよいよ恐怖にかられて、ある欲望が――
激しい、追っかけられるような、盲目的な欲望が生じた。
「獣ヲ殺セ! ソノ喉ヲ切レ! 血ヲ流セ!」
再び青白い稲妻が彼女らの頭上にひらめいたかと思うと、
硫黄の臭いをともなった落雷のものすごい音がとどろいた。
少女の中の一人は、悲鳴を上げ、あわてふためき、少女たちの輪を乱した。
その輪は馬蹄形になった。
そのとき、ある何ものかが森の中から這うようにして出てきた。
それは暗く、はっきりと見分けのつかないものであった。
その獣を前にして起った鋭い悲鳴はまるで苦痛の叫びであった。
その獣は彼女らの馬蹄形の陣の中へ転がりこんだ。
「獣ヲ殺セ! ソノ喉ヲ切レ! 血ヲ流セ!」
夜空をつんざく青白い稲妻は絶え間なく続き、轟音は堪えられぬほどだった。
飯田は、山の上にある人間の死骸のことを、何かしきりに喚いていた。
「獣ヲ殺セ! ソノ喉ヲ切レ! 血ヲ流セ! 殺ッツケロ!」
棒が振り下ろされ、新しく円陣を作った少女たちは槍で突き刺し足で蹴り、絶叫していた。
獣は円陣の中央にひざまずき、両腕で顔をおおっていた。
痛烈無残な騒音に負けまいとして、
その獣は、山頂にある死体のことをしきりに叫んでいた。
やがて必死になって這いだし、輪の一角を突破し、
岩場の端の急な崖から、波打ち際の砂の上へ転落した。
たちまち、少女の一団はその後を追って殺到し、崖を下り、
獣のからだに体当たりでつっかかり、絶叫し、殴り、蹴り、突き刺した。
だれも一言も言葉を発せず、動作といえば、ただ殴り蹴り突き刺す動きだけであった。
すると急に雲がきれ、雨が滝のように降りだした。
雨は、山頂から奔流のように流れ落ち、樹木の葉や枝を引きちぎり、
いわば冷水のシャワーのように砂地でもつれ合っている少女の群れの上に降りそそいだ。
たちまち、その群れはちりぢりになり、人影は逃げるようにして散らばった。
後には、波打ち際から数メートルの所に静かに横たわる獣の姿だけが残った。
どしゃ降りの雨の中でさえも、その獣がいかにも無防備なものであることが、
少女たちの眼にも映った。
そのとき、もはや血が砂地をどす黒く染めていた。
強い風が吹き始め、雨は横なぐりに降りだし、
滝のような流れが樹木からものすごい勢いでたぎり落ちてきた。
山頂では、パラシュートが風をはらんで動きだした。
人影はずるずると動き、立ち上がり、くるくると舞い、
びしょ濡れの広い空間のただ中をあちらへこちらへと揺れ動き、
高い梢の上をよたよたと飛びはねていった。
それから、下のほうへ、下のほうへと下りてゆき、さらに浜辺へ向かって降下していった。
少女たちは、悲鳴を上げて暗闇の中へ逃げこんだ。
パラシュートは、人影をなおも引きずってゆき、
礁湖の面を横ぎり、珊瑚礁の上をこえ、遥か沖合いの海へと去っていった。
真夜中に近く、雨はやんだ。
雲は流れ去った。
夜空にはちょっと前までは考えられそうもなかったようなさん然たる星が、
再び点々とちりばめられていた。
風もやがてぱったりやんだ。
音もなく、ただ聞こえるものは、
ぽたりぽたりと岩の割れ目から落ちる水滴の音だけであった。
空気は、爽やかで湿りを帯び、澄みきっていた。
と、その水の滴り落ちる音さえもぴたりとやんだ。
獣が青白い浜辺にからだを縮めこめて横たわっており、
血だけが少しずつ四方へと流れ、拡がっていった。
澄みきった海面には、澄みきった空と
いやにくっきりと斜めに浮かび上がった明るい星座とが、映っていた。
浅瀬の浜辺に沿って、打ち寄せる透きとおった海水の中には、
不思議な、月光のような発光体をもち、燃える火のような眼をした生物の群れが、
いっぱい泳いでいた。
あちこちで、小石がぶくぶく泡をふいており、
あたかも真珠をちりばめた衣のような装いでおおわれていた。
潮がしだいに高まり、雨で穴だらけになっている砂地へ打ち寄せ、
すべてのものを銀一色でおおいつくそうとしていた。
波は、たたきのめされた死骸からにじみ出て、点々と散らばっている血痕へと、
その中でも一番手近な血痕へと、触手をのばしていった。
272 :
名無し娘。:2000/11/21(火) 23:41
水かさはいよいよ増してゆき、飯田の長い頭髪に光彩をそえていった。
彼女の頬の線は銀色に輝き、肩の丸みは大理石の彫刻のような色を帯びていった。
死骸は、砂からほんのわずか浮き上がった。
その口からは、ごぼっという音をたてて泡が一つ吐きだされた。
それから死骸は静かに波の中で寝返りをうった。
礁湖の大波は、ますます大きく打ち寄せ、水かさもますます増していった。
燐然たる生物に囲まれて、飯田の死骸は、夜空に微動だにせずかかっている星座の下で、
自らもまた銀色に輝く姿となって、ゆっくり外海へと流れ去った。
保全書き込みを行います。974932203
保田は、近づいてくる人影を、注意深く見守っていた。
中澤は椰子の木の森から出てきた。
すっかり汚れきった姿で、くしゃくしゃの髪からは、枯れ葉が何枚かぶらさがっていた。
彼女はちょっと立ち止まって、高台の上にいる人影をじっと見つめた。
「圭坊? 残ってるのはあんただけか?」
「矢口もいるよ」
「ほかには、おらんのか?」
「いないみたいだね」
しばらく、二人は黙ったままであった。
やおら中澤は咳払いをして、何か低い声でささやいた。
「え、なに?」
中澤は声を大きくしていった。
「かおりやったんや」
保田は何もいわず、ただまじめな顔をしてうなずくだけだった。
二人は、きらきら輝いている礁湖を、いつまでも見つめていた。
「なあ、圭坊」
「うん?」
「どうしたらいい、うちらは?」
保田は中澤を見ながら、うなずいてみせた。
「みんなを集めて――」
「みんなを集めろってかい?」
中澤はそういいながら、引きつったような笑い声を上げた。
保田は苦い顔をした。
「裕ちゃんはまだリーダーなんだよ」
中澤はまたもや笑った。
「そうなんだって。うちらに命令しなくちゃ」
「一番年上やからかい」
「裕ちゃん! そんなふうに笑わないでよ! 他に何だって思ってるの?」
やがて中澤は笑うのをやめた。
彼女はからだを震わせていた。
「な、圭坊」
「え?」
「あれはかおりやったんやな」
「さっきも、裕ちゃんがそういったじゃない」
「な、圭坊」
「え?」
「知ってて殺したんやね」
「やめてよ!」と、鋭く保田はいった。
「そんなふうに話をして、なんの役にたつの?」
彼女は飛び起きて、中澤に向かって立った。
「あのときは暗かったんだよ。それにああいう――
ああいう血なまぐさい踊りを踊ってたんだし。
稲妻だとか、雷だとか、雨だとかもあった」
保田は、中澤の顔を見て声をおとした。
「あれは事故だったんだよ」
中澤は自分の膝を抱いたまま、からだを左右にゆっくり揺り動かしていた。
「いい? 裕ちゃん。
このことを、うちらは忘れなきゃいけないんだよ。
くよくよ考えたって、ろくなことはないんだよ。分かった?」
「私は怖いんや。自分たちが怖いんや。家に帰りたいんや。ほんとに、家に帰りたいんや」
「あれは事故だったんだよ」
と、保田はなおも執拗にいった。
「それだけなんだよ」
彼女は、露わな中澤の肩に手を触れた。
中澤は人に触られて、ぎくっと身震いをした。
「それから、いっとくけどね、裕ちゃん」
と、保田はからだをそっと近づけていった。
「あたしたちがあのダンスに加わっていたことは、矢口にいわないほうがいいよ」
「でも、うちらは加わってたやないか! みんなそうやないか!」
保田は、頭を横に振った。
「あたしたちはおしまいまで加わってたんじゃないんだよ。
矢口は、暗くて気づかなかったと思うんだ。
あたしたちは何もしなかったし、何も見てないんだ」
保田は言葉をきって、しばらくして、また続けた。
「うちらだけで暮らしていこうよ。うちら三人でさ――」
「うちら三人か。これやと、たき火を燃やすのやって足りんな」
矢口が、枝の束を森の中から抱えてやってきた。
中澤は、がばっと飛び起きた。
「矢口!」
矢口は中澤を見てひどく驚いていた。
顔を赤くし、中澤の顔を避けるようにして、その背後の空のほうを見た。
「突然だから、びっくりしちゃったよ、裕ちゃん。
今、森の中に木をとりにいってたんだけどね。
あたし、昨日の晩、道に迷っちゃって」
中澤は、自分の足もとをじっと見つめていた。
「あんたは――例の――あとで、道に迷ったいうんか……」
矢口は、何か押し殺したような声でいった。
「肉を食べた後でね」
「あたしたちは早く切り上げちゃった」と、保田は大急ぎでいった。「疲れてたもんで」
「あたしもそうだったんだよ。すごく疲れてたからね――」
矢口は、額のかき傷に手をやったが、あわててその手を離した。
「そうなんだよ。すごく疲れてたんだよ」
と、矢口は同じことを繰り返していった。
「だから、早く切り上げちゃったけど、おもしろかった? あの――」
みんなは知っていたのだ。
ただそれをいわないだけの話で、そのため重苦しい空気が漂っていたのだ。
矢口はからだをねじ曲げた。
と、口にすべからざる言葉が、思わず飛びだした。
「――あのダンスは?」
ここにいるだれもが加わらなかったはずのダンスの記憶にさいなまれ、
この三人は身をぶるっと震わせた。
「あたし、早く切り上げちゃったんだ」
岩の砦と島の本土とを結ぶ狭い橋まで吉澤がきたとき、
突然声をかけられたが、彼女は別に驚きもしなかった。
島を襲った恐怖に拮抗しようとして、
この島で一番安全な場所に仲間のうちのだれかがいるはずだと、
実は昨夜からずっと考えつづけていたからだった。
声は頭の上から、つまり、しだいに小さくなっている岩がつぎつぎにうまく平衡を保って
積み重なっているあたりから発せられた。
「だれだべ?」
「吉澤」
「よし、進んでいいべ」
吉澤は進んだ。
「だれだか見れば分かるのに?」
「隊長が、だれでも確認するといったんだべ」
吉澤は、上のほうを見上げた。
「もし無理矢理登ろうとしたら、防げないだろうな」
「防げないって? じゃ登ってきてみるといいべ」
吉澤は、はしごのような崖をよじ登った。
「ほら、見てみるべ」
一番上の岩の下に、丸太が一本押しこまれており、その下にはてこがおいてあった。
吉澤が軽くそのてこの上に寄りかかると、岩はぎしぎしいった。
精いっぱいに力をふりしぼれば、
その岩が轟然たる音をたてて橋の上に落下してゆくのは明らかであった。
吉澤は感心した。
「隊長はすごいね」
安倍はうなずいた。
「狩りに、うちらを連れてってくれることになってるんだべ」
吉澤は、岩の反対側を洞窟のほうへと下りてゆき、仲間の者と合流した。
隊長は、顔を白と赤でくまどって、そこに坐っていた。
配下の一隊が、彼女の前に半円形を描いて坐っていた。
吉澤も、他の連中といっしょになってあぐらをかいた。
「明日、もう一度狩りをするねん」
と、隊長はさっきからの話を続けた。
彼女は、蛮人一人一人に向かって槍をつきつけた。
「それから、入り口の番人は他の者が忍びこまないように
注意して見張ってないといかんねん」
一人の蛮人が手を上げた。
隊長は、ものすごい、色彩をべたべた塗った顔を、そちらへ向けた。
「どうして他の者が忍びこもうとするの、そのわけは?」
隊長の答えは漠然としていたが、熱心は熱心だった。
「きっとくるねん。うちらの邪魔をしにきっとやってくるねん。
それから――」
隊長は言葉をきった。
「――それから、あの獣がやってくるかもしれんねん。
覚えてるはずや、あいつが這いだしてきたのを――」
半円形を描いて坐っている者たちは、身震いをし、一様に低い声で相槌をうった。
「獣は――変装してきたねん。
獲物の頭をやって食べさせても、きっとまたくるかも分からん。
だから、よく見張っててほしいねん」
辻が、質問したいことがあるといったようなようすを、指の格好で示した。
「なんや?」
「でも、やっちゃったんじゃないかな。やっちゃったんじゃ――?」
彼女は身もだえして眼をふせた。
「違うねん!」
つづいて沈黙があったが、どの蛮人も自分たちの記憶からしきりに逃げようとしていた。
「そんなことないねん! どうしてうちらが――殺せたっていえるんや――あいつを?」
まだまだ恐怖が続いて起きるのだと悟って、
半ばほっとするような、半ばがっかりするような気持ちに襲われて、
これらの蛮人どもは再びがやがやと低い声で話し始めた。
「だから、山のことはそっとしとくねん」
と、隊長は重々しくいった。
「狩りをしたら、そのとき獲物の頭をそいつにやればいいねん」
辻は、またもや指を上げた。
「獣は変装してた、ってことなんだね」
「うん、たぶんそうや」
と、隊長はいった。
ある一つの宗教的な想念が頭に浮かんだ。
「あいつを怒らせないほうがいいと思うねん、とにかく。
何をするか分かったものやないからな」
287 :
名無し娘。:2000/11/23(木) 23:44
「とにかく明日は狩りをして、ご馳走を食べるねん――」
後藤が手を上げた。
「火はどうするの?」
隊長の顔は赤くなったが、それも白と赤のくまどりでだれの眼にも見えなかった。
「火はとってくればいいねん。
今晩、よっすぃーと、ののといっしょに行くねん」
夜、浜辺の曲線に沿って、三人の人影が岩の砦のほうへどんどん急いでいた。
彼女らは森からできるだけ離れ、波打ち際に沿って歩いていた。
時々低い声で何か歌った。かと思うと、飛びはねたりした。
先頭には、しっかりした足どりで隊長が歩いていた。
彼女は首尾よく目的を達したので、意気揚々としていた。
彼女は、今こそまさしく隊長と呼ぶにふさわしい存在であった。
槍で何かを突く動作を繰り返し示していた。
その左手には、ライターが握りしめられていた。
288 :
火の元 戸締り ガス注意:2000/11/24(金) 05:45
火の元 戸締り ガス注意
.
夜明けどきには、束の間だが、冷涼のときがあった。
ちょうどその頃、三人は、火がもう燃えつきてしまって、
ただ真っ黒になっているにすぎないたき火の所に、ぐるっと輪になって集まっていた。
中澤は、ひざまずいてしきりに火を吹いていた。
灰が、彼女が息を吹きつけるたびごとに飛んだが、
いっこうに火が燃えつく気配もなかった。
保田と矢口は心配そうにそれを見つめていた。
「やっぱりだめや」
急に怒りがこみ上げてきて甲高い声になった。
「あいつらが盗みやがったんや!」
「これでもう、のろしも上げられん。
くれといったら、私やって火ぐらいやったはずや。
それなのに、こそこそとライターを盗みやがって」
「ちゃんといってやらなきゃね」
と、保田がいった。
「なにが正しいのか、教えてやらないと」
「行くんだったら、槍をもっていったほうがいいよ」
と、臆病そうに矢口がいった。
「もっていきたかったらもっていけばいいよ。私はもっていかないよ。」
「でもあの連中は顔に何か塗ってるよ! 分かるでしょ、どんなにそれが――」
他の二人はうなずいた。
素顔を隠すくまどりが、人間をいわば野蛮性へといかに解放するものであるか、
彼女らは知りすぎるほど知っていたからだ。
「とにかく、私はもっていかない。野蛮人じゃないんだから」
と、保田はいった。
彼女らは、浜辺づたいに出発した。
岩の砦に行けばあの連中に会えることを疑う者は、一人もいなかった。
敢然と、中澤は前進した。
彼女は一面に立ちはだかっている草をかき分けて、
橋のほうへ通じている小さな空き地へと、どんどん歩いていった。
彼女は岩のほうへ動いていった。
彼女らの頭上の塔のような岩の所から、突如として声が聞こえてきた。
「だれだよ!」
中澤は顔をそらして見上げ、岩の頂上に吉澤の黒い顔を認めた。
彼女一人しかいないようだった。
「私がだれだか分かるやろ!」と、彼女は叫んだ。
「馬鹿な真似はやめるんや!」
沈黙。
吉澤は小石を一つ拾って、
保田と矢口の立っている場所の中間に、わざと当たらないように投げた。
二人はびっくりして飛び上がった。
とくに矢口は危うく転ぶところであった。
何かしらある力の源が、吉澤のからだの中で脈うち始めた。
突然、中澤の背後からある声が話しかけてきた。
「なんできたねん?」
彼女はふり返った。
顔に黒と緑の塗料を塗った加護が、森の中からこちらへ出てくるところであった。
そのあとから蛮人どもがついてきたが、いろんなものを塗りたくっているので、
だれがだれだか分からないほどだった。
一団の背後の草原には、豚の首のない屍が、放り出されたままごろっと横たわっていた。
加護は叫んだ。
「ここはうちの場所やねん。じゃませんといて。
かまわんでほしいねん」
「あんたはライターを盗んだやないか」
と、中澤は息もつかずにいった。
「あんたはライターを返さんとだめやろ」
「返さなくちゃって? だれがそういってるねん?」
「私がいってるんや! 私がリーダーや!
実際あんたのやり方は汚いで――ほしいといえば火くらいうちらはやったはずや――」
血が頬にのぼってくるのが感じられた。
「いつでも火くらいくれてやったんや。
それなのにあんたは頼むどころか、
まるで泥棒みたいにこっそりやってきて、ライターを盗んでいったんや!」
「もういっぺんいってみいや!」
「泥棒や! 泥棒!」
加護は走りかかって、いきなり中澤を槍で殴ってきた。
中澤は相手の腕の動きをちらっと見て、その槍のくる位置の見当がついていたので、
自分の槍の台尻でそれをはねのけることができた。
二人は胸と胸をつき合わせ、息せききって互いににらみ合い押し合っていた。
「だれが泥棒なんや?」
「あんたにきまってるやないか!」
加護は身をひるがえして、中澤に打ってかかった。
お互いに協定でもしているみたいに、二人は槍を刀のようにして用いていた。
つまり致命傷をあたえる槍の先端は用いないようにしていたのだった。
どちらも激しく息をついていた。
保田は海のそばの岩の陰から、しきりに中澤の注意を惹こうとつとめていた。
「裕ちゃん――うちらがなんのためにきたか忘れちゃだめだよ。
火のことじゃない。それからライターのことでしょ」
中澤はうなずいた。
今にもつかみかかろうとしていたからだの筋肉をゆるめ、
楽な姿勢で立ったまま槍の台尻を地面におろした。
加護は、怪訝そうに、塗りたくった顔の表情をこわばらせて彼女の挙動を見つめた。
中澤はちらっと頂上のほうを見上げ、それから蛮人の一隊に向かっていった。
「みんな聞いてや。うちらは、こういうことがいいたくてきたんや。
第一にライターを返してほしい。火がないとうちらは助からんのや――」
くまどりをした蛮人たちはくすくす笑った。
中澤の心はひるんだ。
「それから、たき火のことや。
あんたらのただ一つの希望は、
まだ明るいうちは、のろしを燃やし続けることにかかってるんや。
そうしていたら、どこかの船が煙を見つけてみんなを助けにくるかもしれん。
でも、もしその煙がなかったら、
みんなは船が何かの偶然でやってくるのを待つしかないんや。
何年も待つことになるかもしれん――」
蛮人たちの震えるような、現実離れのしたような笑い声が、拡がり反響して消えていった。
憤激の念にかられて、中澤はからだを震わせた。
声がかすれた。
「なんで分からんのや。三人だけでは人数が足りんのや。
たき火を消さないようにやってみたけど、結局だめなんや。
それなのに、あんたたちは狩りなんかして遊んでばかりや――」
彼女は相手の沈黙と、眼の前の連中の彩られた仮面が
いったいだれなのか見当もつかないという事情に負けてしまい、しゃべるのをやめた。
沈黙と静止。
しかしその沈黙の中を、空中をよぎる妙な音が中澤の顔のすぐ近くでした。
彼女はそれになんとはなしに注意を払った――と、また音がした。
かすかな「しゅっ」という音だった。
だれかが小石を投げているのだった。
投げているのは吉澤だった。
片手をてこにかけたまま、小石を上から投げおろしていた。
「私にもいわせてよ!」
保田の声が、中澤の耳をうった。
「私がいいたいのはこういうことだよ。
あんたたちのやってることはまるで子供みたいだってこと」
蛮人たちは叫びはじめた。
「どっちがいい――あんたたちみたいに顔にいろんなものを塗って
野蛮人みたいにしてるのと、裕ちゃんみたいに理屈をわきまえているのと?」
大きな叫喚が、蛮人たちの間から起こった。
保田はさらに叫んだ。
「どっちがいい――規則を守って仲良くやっていくのと、狩りをしたり殺したりするのと?」
叫喚が再び起こり、再び――「しゅっ」という音。
騒音に負けまいとして、中澤が叫んだ。
「どっちがいい、のろしを上げて救助されるんと、狩りをしたり全てを壊したりするんと?」
今では加護も喚いていた。
中澤がいくら叫んでもその声はだれにも聞こえなかった。
加護は、蛮人の一隊を背後にひかえて立っていた。
襲撃の気構えがしだいに生じつつあった。
少しずつ気勢を上げていた。
敵を、邪魔者を追っぱらってやるんだ。
嵐のような音が急に襲った。
それは憎悪の呪いであった。
頭上高くいた吉澤は、一種の錯乱状態に陥って
自分の全身の重さをてこの上にかけたのだ。
中澤は、目撃する前から頭上の大きな岩の動く気配を耳で感じた。
足底を伝わってくる地響きに気づいた。
絶壁の頂上にある石が砕ける音も聞こえた。
あっという間に、ものすごく赤い岩が橋の上に跳ねるようにして落下してきた。
蛮人どもは悲鳴を上げた。
その岩は顎から膝にかけてかすめるようにして保田のからだにぶつかった。
彼女は言葉はもちろん、唸り声一つたてる余裕もなく、
岩から少し離れていっしょに空中を落下していった。
落下しながら、くるりと回転した。
岩は二度ほど跳ね上がって木の茂みの中へ姿を隠した。
保田は十メートルの下へ墜落して、海中に出ていた四角な赤い岩の上に仰向けに落ちた。
彼女の頭が割れ、中身が飛びだし、真っ赤になった。
彼女の腕や脚は、殺された直後の豚のそれのように少しひきつった。
それから海は再びゆっくりため息をつき、海面は白く赤く泡立ってその岩を洗った。
海面が再び低く退いたときには、もう保田の屍体は消えていた。
彼女らをこんど襲った沈黙は、まさに沈黙そのものだった。
中澤の唇は何か言葉にだしていおうとしたが、声が出てこなかった。
突然、加護が蛮人の中から飛びだしてきて、狂ったように喚きはじめた。
「邪魔するからやねん! 邪魔するのが悪いねん!」
彼女は前かがみに走ってきた。
「捕まえるんや!」
蛮人どもは、その隊長の例にならって喚声を上げ、突進してきた。
矢口はあっという間に捕まり、押し倒された。
凄まじい勢いで、槍が中澤めがけて飛んできた。
その先端が中澤の肋骨の上の皮膚と肉をえぐり、そこを引きちぎった。
中澤はひざまずいたが、苦痛というよりは恐怖を感じた。
斜めに飛んできたもう一本の槍が彼女の顔をかすめた。
吉澤のいる高い所から、もう一本の槍が、飛んできた。
誰とも見当のつかない悪魔の顔、顔、顔が、群がってこちらへ押し寄せてきた。
中澤は、くるっとうしろを向いて走りだした。
かもめの鳴き声のような凄まじい音が、背後に迫った。
自分にあるとも思えなかった、ある本能の命ずるままに走ってゆき、
空き地に出たときしきりに方向を変えて走った。
槍はみなはずれた。
それから、彼女は草むらや小枝をかき分けて突進し、
まもなく森の中へ姿を消すことができた。
304 :
名無し娘。:2000/11/25(土) 23:23
矢口は縛られ、地面に転がされ、呆然としていた。
加護は、矢口を見下ろした。
「うちらの仲間になるねんな」
「離してよ――」
加護は残っていた槍の一本をとって、矢口の肋骨の所を突っついた。
「うちらの仲間になるねん」
吉澤が加護の横を通って前に出た。
「邪魔やねん」と、加護は怒って彼女にいった。
吉澤は、まじまじと加護の顔を見た。
「あたしがやる」
死刑執行人のもつ無気味さが、彼女のまわりにこびりついていた。
加護はそれ以上何もいわず、後ろへ下がった。
矢口は深く静かな恐怖にかられたまま、じっと上を見上げながら横になっていた。
吉澤は、ある名状できない権威を行使する者のごとく、矢口の上にのしかかっていった。
保全sage
臨時書き込みです。
このスクリプトの是非も考え直すべきかも知れないけど、とりあえず975417745
保全書き込みを行います。975580211
保全書き込みを行います。975673834
保全書き込みを行います。975765633
久々に読みにきたらすごい展開になっている……。
保存屋さんのを読んで、続きあるかなーと見に来たら、こんなことに・・・。
おもしろすぎるよー。続きがよみたいよー。というか生き残るのは誰? 気になるっす。
保全書き込みを行います。975864620
他の所からきた人は知らないのかな?
今、2chモー板は大変なことになっているのです。
>>313 知ってるよー。忘れさせてくれよー。自◎派だけどカミングアウト
できないんだよー。閉鎖までに完結してくれますように(超希望)
俺はモー板を信じたい。
だから10日すぎるまでは次の更新はしないです。
中澤は、受けた傷のことを気にかけながら、茂みの中に横たわっていた。
右側の肋骨の上に直径十センチ近くの打撲傷があり、
槍をまともに受けた所には、腫れ上がって血のにじんだ傷ができていた。
全身が、森を抜けて逃げた際に受けたかき傷や打ち身でおおわれていた。
ようやく呼吸が整うにつれ、こういう傷には当然必要な水洗いのことなど
当分あきらめるよりほかにはないということが、はっきり分かった。
もし水の中に入ってばしゃばしゃやっていると、
裸足で近づく足音をどうやって聞き分けることができる?
小川や海岸にいたらどうして自分の身を安全に保つことができる?
中澤は、じっと耳をすました。
あの岩の砦からそう遠くまで逃げきっていないことは、はっきりしていた。
初め恐怖心に襲われていたときには、追跡の足音を確かに聞いたように彼女は思った。
しかし、狩猟隊というか、とにかくあの追跡してきた連中は、
うっそうたる茂みの端の所までたぶん槍をとりにこそこそとやってきただけの話で、
茂みの下の暗さに怖気づいたのか、そのまま明るい岩の所に大急ぎで帰ったようであった。
午後の時間がたっていった。
岩の砦のうしろからは足音一つ響いてこなかった。
そこで、中澤はこそこそとしだの茂みの中から這いだし、
例の橋に面している茂みの端の所までじわじわと進んだ。
その端にある枝の群れをかき分け、彼女は細心の注意を払って前方をうかがった。
見ると、断崖の頂上で安倍が見張りに立っている姿が眼に映った。
安倍は左手に槍をもち、右手で小石を放り上げては受けとめていた。
彼女の背後には、もくもくと煙が立ちのぼっていた。
それを見た中澤は、その日初めて今さらのように空腹を感じた。
だれだか見当がつかないが、もう一人の少女が安倍の近くに現われて彼女に何かを与え、
またくるっと向きを変え、岩の背後にひっこんでいった。
安倍はそばの岩に槍をおいて、両手で何かを抱えこむようにして食べ始めた。
それでみると、饗宴は始まっているらしかった。
見張りにも分け前が与えられたというわけだ。
当分の間、自分が安全だということが中澤にも分かった。
貧相だがとにかく食事にありつけるという思いに引かれて、
果樹の間を足を引きずりながら歩いていったが、
彼女らのご馳走のことを考えるとさすがに癪にさわった。
今日もご馳走、明日もご馳走か……。
連中は自分を放っておくかもしれない、
もしかしたら、自分を追放者として遇するかもしれない、とも思ったが、
別に自信はなかった。
むしろ、無気味な予感めいたものが再び彼女を襲ってきた。
保田と飯田が殺されたこと、この事実が、瘴気のように島全体の上に立ちこめていた。
顔じゅうに泥絵具を塗りたくっている蛮人どもは、どんなひどいことだってやるに違いない。
彼女は立ち止まった。
恐怖が背筋をつき抜けるように感じられ、からだを震わせたかと思うと、大声で怒鳴った。
「そんなことあるかい。あいつらはあんなことするほど悪いやつやない。
あれは事故やったんや」
彼女は枝の下にもぐり、不格好な姿勢で走ったが、しばらくして立ち止まり耳をすました。
彼女は踏み荒らされた果樹園地帯へ出て、意地汚いくらい貪り食った。
腹いっぱいつめこむと、彼女は海岸のほうへ歩いていった。
夕日が、小屋の近くの椰子の木に斜めに射していた。
例の高台もあった。
一番いいことは、自分の胸中に鉛のようにわだかまっているこの感情を無視して、
彼女らの常識、彼女らのいわば昼間の正気を、信頼することであろう。
しかし、連中が食事を終わってしまって、さて次に何をするかといえば、
もう一度自分を追跡してくる以外にはないだろう。
それに、とにかく、もう誰もいないこの高台のそばの空っぽの小屋で
一晩じゅうすごすということは、とうていできないことだ。
彼女は全身に悪寒を覚え、夕日を浴びて身震いをした。
火もない。
煙もない。
救助の見込みもない。
彼女は向きを変え、森を通って、
この島における加護の領土のほうへ、足を引きずって歩いていった。
緑の光が水平線から消え、夜の闇がすっぽりあたりを包んでしまった頃、
中澤は岩の砦の前面の茂みの所へ戻っていった。
のぞいてみると、岩の頂上にやはりだれかいるのが分かった。
だれだかはっきり分かるはずもなかったが、
万一に備えて槍を構えている姿は、はっきりこちらの眼に映った。
樹影の下にうずくまって、彼女はしみじみと自分の孤独をかみしめた。
あの連中は野蛮人だ、それに間違いはない、けれども、やはり人間は人間なのだ、
それに、何が迫っているか分からない深い夜の恐怖が、
じわじわと自分をとり囲もうとしている。
中澤は、弱々しくうめいた。
疲れてはいたが、彼女らが恐ろしくて、
やはり気持ちをおちつけて眠りの流れに身をまかせることはできなかった。
大胆に砦の中へ歩いて行って、
「私、もうやーめたっと!」
とかなんとかいって、朗らかに笑い、いっしょに眠るってことはできないものか?
あの連中はまだ子供なのだ、
この間まで「お母さん、お母さん」といっていた、
そして制服を着て学校に通っていた生徒なのだ、
というふうにあくまで考えてはいけないのか?
これが昼間なら、そりゃそうだ、といえるかもしれない。
が、暗闇と死の恐怖は、そうじゃない、といっている。
暗闇の中に横たわったまま、彼女は自分が追放者であることを知った。
岩の砦の背後から、いろんな物音が聞こえてきた。
海のうねりに今まで気をとられていたが、
よく注意して聞いてみると、その物音は聞きなれたあのリズムだった。
「獣ヲ殺セ! 喉ヲ切レ! 血ヲ流セ!」
あの連中は踊っているのだ。
この絶壁の向こう側のどこかで、黒い人影の群れが、
輪を作り、火を焚き、肉を食べているのだ。
うまい食べ物に舌鼓を打ち、安全な境遇にみちたりた思いをしているのだ。
すぐ近くで起こった物音にびっくりして、彼女は身をすくませた。
蛮人が岩の砦の頂上へ登ってゆくのが見えた。
その声も聞こえた。
数メートル前のほうへと、彼女は忍びよってよく見ると、
岩の頂上の人影は交替し、前より小さな人影になった。
ああいうふうに動いたりしゃべったりする者は、
この島ではたった一人しかいないはずだ。
中澤は頭を両腕に埋め、この新しい事実を承認せざるをえなかった。
それは傷口のようにうずいた。
矢口も、今では連中の一味なのだ。
自分を寄せつけないために、今は岩の砦の見張りにたっているのだ。
矢口を救いだし、島の反対の一角に、追放者だけの一団を形成する見込みはもうない。
矢口も他の者と同じく蛮人になってしまった。
保田は死んだ。
飯田ももういない。
そのうちに前の番人は岩を下りてゆき、
あとに残った一人は、岩の暗い一部のようにそこにへばりついていた。
彼女の背後に星が一つ現われ、
それが何かが動くはずみで瞬間的についたり消えたりした。
中澤はまるで盲人のように、でこぼこの地面を足で探りながら、前方ににじりよった。
下には休みなく激動し続ける海が横たわっており、
それが深い竪穴のように、今にも自分を呑みこみそうな気がした。
中澤は這ってゆくうちに、入り口の所の岩棚にぶつかったのが手の感触で分かった。
見張りの者はすぐ自分の頭上におり、槍の先端が、岩からはみ出ているのも見えた。
彼女は静かに叫んだ。
「矢口――」
返事はなかった。
もっと大声で呼ばなければ、声は届きそうになかった。
しかし、そうすれば、たき火のまわりでご馳走を食べている、
縞模様の彩りをした恐るべき仇敵どもをおびきよせることになる。
彼女は歯を食いしばり、ただ手足の感じだけで足場を見つけながら、岩を登り始めた。
やがて矢口と同じ高さまでたどりついたとき、かろうじて話しかけることができた。
「矢口――」
彼女は、あっという叫び声を聞き、矢口が狼狽して岩から離れる気配を感じた。
「私や、中澤や」
矢口が走りだして警報を発するのを恐れ、
中澤は力いっぱいにからだを引き上げ、頭や肩を岩の頂上につきだした。
「ほら、私や、中澤なんや」
やっとのことで、矢口はからだをかがめて中澤の顔をのぞきこんだ。
「あたしはてっきり――」
自分は、今はある者へ新しいそして恥ずべき忠誠を誓っているという事実が、
一瞬彼女の念頭をかすめた。
矢口は沈黙した。
「私は、あんたに会いにきたんや」
彼女の声はかすれていた。怪我はしていなかったが喉が痛んだ。
「私は、あんたに会いにきたんや――」
いろいろせつないことがあり、それをいいたかったが、言葉では表現できなかった。
中澤は黙りこんだ。
「ここは安全じゃないんだよ、だから、裕ちゃんは行ったほうがいいよ――」
矢口は、不安そうにからだを動かした。
「――あの連中にあたしは仲間にされちゃったんだよ。
あたしはひどい目にあわされたんだ――」
「だれに? 加護にか?」
「違うよ――」
矢口はからだを中澤のほうに曲げ、声を低くしていった。
「帰ったほうがいいよ、裕ちゃん――」
中澤が再び口を開いたとき、その声は低くかつあえいでいた。
「私が何をしたっていうんや?
私はただ、うちらが救助されることだけを考えていたんや――」
矢口は、必死の面持ちで頭を横に振った。
「裕ちゃん、よく聞いて、そんなこと忘れるんだよ。
――自分だけでも助かるようにここを逃げるんだよ。
明日、裕ちゃんを探すことになってるんだ。
一列に並んで島を一方からずっと、見つけるまで進んでいくんだよ」
彼女は、初めははっきりと意味がつかめなかった。
が、すぐさま恐怖と寂寞が彼女の心を苦しめた。
「私を見つけたら、あの連中はどうしようっていうんや?」
矢口は黙っていた。
「いったいあいつらは何を――ああ、でも、私ほんとに腹ぺこなんや――」
高くそびえている岩も、彼女の足もとでぐらぐら揺れるように思えた。
「つまり――どうしようっていうんや?」
その質問に、矢口は間接的に答えた。
「すぐここから逃げるんだよ、裕ちゃん」
「矢口、私といっしょにこんか? 二人なら――
うちら二人なら、勝つチャンスもあると思うんや」
一瞬の沈黙ののち、矢口は押しつぶしたような声でいった。
「吉澤のことを知らないからだよ。あいつは恐ろしいやつなんだ」
矢口は、急にすくみ上がった。
連中のいるほうから、だれかが矢口のほうへ向かって岩を登ってきたからだ。
「あいつは、あたしが見張りをしているかどうか見にやってくるんだ。
さ、急いで、裕ちゃん!」
中澤は、崖を下りようとしかけ、はっと気がついて、いった。
「私はすぐこの近くに隠れるつもりなんや。
ほら、あそこの茂みの中、あそこや」
と、彼女はささやいた。
「だから、あの連中をあそこに近づけんようにしてな。
あいつらやってそんなに近い所を調べようなんて、考えんと思うんや――」
「さ、これを」と、矢口が突然いった。
「これをもっていって――」
中澤は、大きな肉の塊を押しつけられた。
彼女はそれを引っつかんだ。
「でも、あいつら、私をつかまえてどうするつもりなんや?」
頭上からは、なんの返事もなかった。
独り相撲みたいでわれながら馬鹿げているように思われた。
岩を下りていった。
「いったいあいつら、どうするつもりなんや――?」
大きくそびえている岩の頂上から、なんだかわけの分からない答えが聞こえてきた。
「吉澤は棒切れの両端を削いでいたよ」
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名無し募集中。。。:2000/12/10(日) 12:32
頑張ってね
更新されていたんだ……ああ、閉鎖なんか夢でありますように!