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最終章

愛しさを聞かせてよ、恋しさを聞かせてよ、他人じゃないなら、なおさら・・・

− 中島みゆき −


「キレイなところだわ」
「本当ですね」

高々と聳え立つ山脈の中をその列車は幾分と速度を緩めながら
走っていた。ガタンと大きな音を立てながら左にカーブを切る。
味わい深い色彩を帯びた木製の車体が大きく傾いた。

左手直下には、遠くアルプスの彼方からいづる清流が脈々と流
れるのが鮮やかに見える。その清流の遥か遠くに見える山々の
頂きには、永遠に消えないであろう白い結晶の塊が残っている。
その列車は、大きく左に曲がりながら長いトンネルに入った。
48321-2:2001/08/03(金) 04:29 ID:gMhTjWg.

人影まばらな車内では、愛想なく無言でワゴンを押すウエイ
トレスがやる気なさそうに狭い廊下を何度も往復している。
トンネルに入ると直ぐに天井に備え付けられた薄暗いライト
が燈った。

このトンネルを越えれば違う国に入るというのに、何ら煩雑
な手続きは要らない。この事は、今いる場所が緩やかな統合
を目指すヨーロッパである事を改めて感じさせる瞬間でもあ
った。

国境をまたぐトンネルにより眼の前に広がっていた壮観な景
色を奪われてしまった二人は、手持ちぶたさに辺りを見回し
ていた。するとどちらともなく目が合い、しばらく見詰め合
う。すると壮年の女性のほうが声を出して笑い声を上げて、
その気まずい空気を掻き消した。
48421-3:2001/08/03(金) 04:31 ID:gMhTjWg.

「後藤さん。そういえば、あなたは今度日本に帰るのはいつの予定?」
「お正月過ぎた頃に一度帰ろうかなと思っています」
「そういえば、あなたの妹さんのいるグループ、解散するらしいわね」
「そうらしいですね。私もこの間、聞いたばかりで・・・」

「そうなの。ところであなた事務所の方に戻らなくていいのかしら?」
「いけませんか?私、先生のところにいては・・・」
「そうじゃないわ。あなたが良くやってくれているのは、スタッフから
聞いています。私の都合じゃなくて、あなたの都合を聞いているの。
本当にいいの?妹さんの事、心配じゃないのかしら?」
「いいんです。もうあの子も大人ですから。」

「そうなの?まぁ、あなたが良いというならいいけど。それに
その方が私たちの学校としても、助かるから。これからも頼むわね」
「ハイ。こちらこそ、これからもお願いします。それに・・・」
「そういえば・・・、あなたに渡したいものがあるの、忘れていたわ」
48521-4:2001/08/03(金) 04:33 ID:gMhTjWg.

「先生」と呼ばれているその壮年の女性は、後藤が言いかけ
た言葉を押さえ込む様に、手元にあるバッグから一つのカセ
ットテープを取り出すと彼女の眼の前にそれを差し出した。

「これ、あなたにあげるわ」
「なんでしょう?練習生の誰かですか?」
「いいから。後で聞いてくれたらいいわ。感想を聞かせて。」
「そうですか。・・・それなら、今でもいいですか?」
「えっ?フフフッ、別に構わないけど」
「それでは・・・」

後藤はウォークマンをバッグから取り出すと、そのテープを
セットしてイヤホンを装着して耳を澄ました。そこから聞こ
えてくる音楽は後藤の意に反して、クラッシックのそれでな
く、ポップスチックなピアノの調べであった。

メロディアスに流れるバラードの調べに心が鎮まる。彼女は
そのテープが入っていたケースを見詰めた。そのケースには
特徴的な文字で「LIFE IN A ONCE TIME」
と書き込まれていた。
48621-5:2001/08/03(金) 04:38 ID:gMhTjWg.

「ライフ イン ア ライフタイム・・・。これがタイトルかな?
見覚えのある字だけど・・・。それにしてもきれいな曲」

壮年の女性は、後藤が独り言を呟きながら満足そうにその曲を
聞き入っている顔を眺めながら、笑みを浮かべて窓の外に目を
移した。いつの間にか列車は、長いトンネルを抜けていた。

まっすぐに走り続けるその列車の前に広がる風景は、トンネル
を抜ける前とは一変して、雲一つない快晴の空の下、牧歌的な
田園風景が眼前一面に広がっていた。

「いい曲ですね。これは先生のオリジナルですか?」

彼女は5分少々のその曲を聞き終えるとイヤホンを取り、の
どかな風景を愉しげに眺めている「先生」に声を掛けた。
48721-6:2001/08/03(金) 04:43 ID:gMhTjWg.

「聞き終えた?なかなか面白い曲でしょう?」
「面白いというよりも・・・。本当にきれいな曲だと思います。
でも、どちらかというと、ポップスに近い感じがしますね。」
「誰の曲だと思う?」
「さぁ・・・先生ではないのですか」

「まさか、私はピアノの弾き方を教えるだけ。曲を書くなんて出来ないわ。
そうね、それじゃあ、ヒントを上げましょう。あなたの知っている人よ」
「えっ?今の生徒なんですか?誰かしら・・・」
「今の生徒じゃ、ないわね」
「でもそれでは、わたしには、分かりませんよ。」
「そうかな?分からないかな?」
48821-7:2001/08/03(金) 04:45 ID:gMhTjWg.

壮年の女性は、珍しく悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、彼
女の顔を眺めていた。太陽が傾き始めた午後。日本のそれ
と違い、太陽の眩しさは鮮やかに彩られ、目の奥を刺激す
る。

そしてその鮮烈な輝きを増す太陽へ向うかのように依然と
して列車のスピードは、速まる事無く広がる景色同様、緩
やかに進んでいた。

談笑を続ける二人の日本人女性を乗せながら、その列車は
進路をやや南西に変えて、深まる広葉樹の中を潜り抜けて
いた。日本より遥か西の彼方、安らいだ空気を乗せて、二
人の邂逅は続いていた。
48921-8:2001/08/04(土) 03:33 ID:4w1zncCg
「なんか、もったいない気もするね」
「それじゃ、あなた住む?」
「えっ?・・・いや、それはやめとくよ。・・・余りにもこの家には、
ヤツの思い出が多すぎる」
「・・・そうね。ホントに」

朝から続いていた業者による査定と見積もりも漸く終わり、
再び辺り一面は静けさに包まれていた。遠くから波が砂浜に
打ち寄せる音が聞こえ、カッコウの鳴き声が背後に聳える小
高い山中から聞こえてくる。

夕暮れの刹那、がらんどうの一軒家、2階のコテージに唯一
残されたテーブルと椅子が2つ。そこには、手持ち無沙汰に
座っている男女が二人佇んでいた。
49021-9:2001/08/04(土) 03:35 ID:4w1zncCg

「朝倉君、そういえば・・・、今の彼は?具合、相当悪いの?」
「あぁ、この間電話したら、地元の病院に入院したらしいよ。
どうも少し記憶のほうも・・・曖昧になっているみたいだわ。」
「そうなんだ・・・。もう寝たきりなのかしら」
「いや、そうでもないらしいよ。何でも暇な時には、小児病棟の
子供達相手にオルガン弾いて遊んでいるらしいから」

「そんな元気あるんだ。・・・ねぇ、それで手術の話、した?」
「えっ?・・・いや、してない」
「何で?杉原君の紹介、効いたんでしょ?割り込み成功したって・・・」

朝倉は胸ポケットから煙草を取り出すと、安物のライターで
その先を燈した。忙しなく煙を吸い込むと、少しむせた様に
咳き込んだ。
49121-10:2001/08/04(土) 03:44 ID:4w1zncCg

「大丈夫?少し吸う量減らしたらぁ?」
「大丈夫だよ・・・ゴホッ。ウッウン。少し痰が絡んだだけだから。」

「それで。・・・何で言わなかったの」
「前に言ってたんだよ、アイツのお袋さんが死ぬ前だったかな、
母さんに悪い事したって。お袋さんの希望も聞かないで、
医者に言われるまま、スパゲッティみたいなチューブで
グルグル巻きにされて・・・。どうせなら、お袋さんの自由に
させてやりたかったって・・・」
「・・・」
「そんな話聞いたら、俺には何もいえんよ」
「・・・」

彼女は、朝倉の言葉に何も返す言葉もなくただ俯いたまま
だった。朝倉は彼女の沈黙を受けながらも話を続けた。
49221-11:2001/08/04(土) 03:49 ID:4w1zncCg

「これはあいつが選んだんだから、俺たちにはどうにもできんだろ。
それに生き残ったら、生き残ったでどうするよ?最近だけど、
警察も動いてんだし。お前のトコにも来ただろ?」
「ウン。でも、何か変な感じだったけど、あの人。刑事って感じ
しなかったし、上手く言えないんだけど、」

「それは確かに俺も思った。何か変な男だったが・・・。
まぁそれは、それで良いとしてさ、とにかく、これがあいつの
希望なんだから、それはそれでOKだろ」
「でも、何かそれって・・・。彼を見殺しにするみたいな感じが
するんだけど・・・。少し嫌な気分が残るわね」

「それはね、君が例え動物相手でも、医者に違いがないからさ。
まぁ、あんまり気にすんなや」
「でもあなた、気にならないの」

「それは聞くな。忘れる事にしたんだ」
「朝倉君・・・」
49321-12:2001/08/04(土) 03:51 ID:4w1zncCg

彼女は立ち上がると手摺に寄りかかりながら、庭先を眺めた。
主を失ったその場所は雑草が生い茂り始め、綺麗に生え揃え
ていた芝生の姿を覆い隠していた。

彼女は溜息を一つつくと大きく背伸びをして、振り返る。長
い月日を感じさせる深い味わいが漂う木製の壁面。悲しげな
気持ちが少し押し寄せては消えていく。彼女の眼差しは宙を
浮き始めていた。
49421-13:2001/08/04(土) 03:53 ID:4w1zncCg

「この次ここには、だれが住むのかね?」
「エッ?・・・ウン、そうね、どんな人かな?」
「もう、ここにくる事もなくなるわな」
「そうだね、寂しくなるね」

「そうだわね。・・・人生は出会いと別れの繰り返しですか」
「中島みゆき?古いわよ(笑)」
「古くて悪かったな。それしか知らないんだから、仕方ない」
「あなたも可笑しいわね。男の癖に中島みゆきしか聞かないなんて」

「いいじゃない、別に。好きなんだから仕方ないだろ」
「まぁ、いいわ。わたしも嫌いじゃないんだから」
49521-14:2001/08/04(土) 03:54 ID:4w1zncCg

少し前までは、太陽の光が眩しかった時刻だというのに、高
く広かるその空に太陽の影はなく漆黒の闇が覆い始めていた。
妖しく光る月の影がうっすらと見える。光と闇の狭間に懸命
に煌く星たちが点在する秋の空が高く広がる。過ぎていく想
い出を掻き集める様に、他愛のない会話を交わす二人に海か
らの風が優しく包んでいた。

海から押し寄せる季節の気配は、最早夏のそれではなく、そ
の冷たさと共に改めて秋の気配を感じさせる。秋の風に支配
され、空一面が暗闇に覆われようとも、その二人の会話は尽
きる事無く続いていた。
49621-15:2001/08/05(日) 02:55 ID:jP/Lry.k

「よっすぃ〜、こっちだよぉ」
「梨華ちゃん、待ってよ!」
「ねぇ、これって、似合うかな?」
「ん〜、似合うんでないかい。梨華ちゃん、かっけーよ!」

「ホント?じゃあ、かっちゃおう。すいません、これ3つ・・・」

梨華は店員を呼ぶと、手に持っていたシャツを差し出して会計
を頼んだ。

「エッ?梨華ちゃん、3つも買うのぉ?」
「ウン。だって、よっすぃ〜が似合うって言ってくれたんだもん。
ダメかな?」
「ダメじゃないけど・・・。いいのぉ」
「いいの。インナー替りに着るから。いいんだもん」

梨華はそういうと人目もはばからず吉澤の腕に寄り添った。吉
澤は少し照れくさそうにしながら梨華の身体を押し返しつつ、
声を落として梨華の耳に囁いた。
49721-16:2001/08/05(日) 02:56 ID:jP/Lry.k

「梨華ちゃん、嬉しいけど・・・。マズイよぉ。他の人も見ているから」
「そうかなぁ」
「そうだよぉ。ちょっとマズイよぉ」
「それじゃあ、手をつないぐのわぁ?それならイイ?」

「もう、梨華ちゃんたら・・・。しようがないなぁ、いいよぉ、」

吉澤はそういうと梨華の手を強く握り締めて少し振りながらレ
ジまで歩き出した。少し遅れて付いて歩く梨華の眼には、青系
に彩られたボーダーのシャツを着こなす吉澤の背中姿が入る。

オフホワイトのパンツを巧みに着こなす吉澤の姿は梨華のとき
めきは増すばかりだった。
49821-17:2001/08/05(日) 02:57 ID:jP/Lry.k

会計の最中にも、梨華の直ぐ背後で佇んでいる吉澤の姿、そし
てその柔らかく漂うその香りに、梨華の心は奪われていた。か
さばる梨華の荷物を吉澤が半分引き取る。そして梨華は、空い
たその掌を吉澤の腕に絡ませた。

「梨華ちゃん。ダメダヨ。皆、見てるから・・・」
「いいから、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよぉ」
「いいの。わたしは大丈夫!」

梨華の佇まいは、少し薄めのピンクのワンピースに身を包みな
がら、これまた桃色の帽子を目深にかぶり、薄い橙色のサング
ラスをかけて芸能人らしく雑踏の中にその存在を消し込もうと
していたが、凛とした風情の吉澤と一緒にいる事で、尚更辺り
にいるその他の人々とは明らかに一線を画す輝きを増させ、自
然と周りの視線がこの二人に集まっていた。
49921-18:2001/08/05(日) 02:59 ID:jP/Lry.k

しかし梨華はそうした周囲の眼を一切気にする事無く、純粋に
吉澤と手を繋いで歩いているこの時間を楽しんでいた。吉澤も
また、そうした時を共に楽しんでいた。

「よっすぃ〜は、この後どうするの」
「実はね、梨華ちゃんごめんね。実はこの後ボイトレなの。
だから、お昼一緒に食べられないんだよぉ」

「ウウンいいよ。こうして、お買い物に付きあってくれただけで。
私もこの後、ラジオあるから」
「また今度だね・・・。そうだ、今度は私の買い物付き合ってくれる?」
「勿論!!いつでも言ってね?」
「ウン。梨華ちゃんにこうしてまた会えるのいつになるかな?」

「今日の・・・夜はダメ?ボイトレの後・・・」
「よる〜?夜に会って梨華ちゃん何したいのかなぁ(笑)」
「そんなんじゃないの、違うよ。お話したいなって・・・」

梨華は顔を真っ赤にして「否定」したが、吉澤には「誘い」以
外にその言葉の意味を取れなかった。吉澤は少し笑いながら梨
華の腕を少し強く握り返して言葉を続けた。
50021-19:2001/08/05(日) 03:00 ID:jP/Lry.k

「フフフッ、いいよ!それじゃ、今夜、梨華ちゃん家、行っていいかな?」
「勿論だよっ!待ってるから。何か食べたいものとかあるぅ?」
「なんでもいいよぉ。梨華ちゃんが作ってくれるなら」
「ホント?最近ね、少しずつだけど料理とか覚えてるの」

「そうなのぉ〜。梨華ちゃんは、いいお嫁さんになるねッ!」

吉澤の言葉に思わず梨華は反応した。俯きながら、囁くように
してながらも、ついその口から出た言葉は、心の奥底で眠って
いた本心だった。

「よっすぃ〜のが・・・いいな」
「ウン?梨華ちゃんなんか言った?」
「ウウン、何でもないよぉ」

二人は互いも垂れあうように、ショッピングモールの中を歩い
ていた。するとその出口付近で自然に足が止まる。そこには、
透明なガラス張りの部屋があり、その中には可愛い子猫たちが
所狭しと駆けずり回っていた。
50121-20:2001/08/05(日) 03:01 ID:jP/Lry.k

二人は思わずガラスケースの前にしゃがみ込んでその猫たちの
遊ぶ姿を眺めた。

「かわいいな!」
「ホントだね!」
「そういえば・・・梨華ちゃん今、猫飼ってるんだよね?」
「ウン。そうなの・・・。実はね」
「ウン?実は?」

梨華は少し息を整えると吉澤の顔を見つめ直した。吉澤も梨華
の気配が少し変わったことに気付き、その眼を見つめ返す。徐
に梨華の口が開いた。

「あの人の猫なの。・・・私が替りに預かってきちゃったの。」
「そうだったの・・・。あの人は今・・・どうしているのかな」

梨華は吉澤の問いにただ首を振るだけだった。吉澤は少し目を
落とすと、梨華の腕を少しだけ強く握った。梨華は思わず吉澤
の顔を見返す。俯き続けている吉澤の口が少し開いた。
50221-21:2001/08/05(日) 03:04 ID:jP/Lry.k

「そうなんだ。でもね梨華ちゃん。わたし嬉しかった、この間の
梨華ちゃんの電話。あの人もいなくなって、それからごっちんと
喧嘩しちゃって。何か世界中で独りぼっちみたいな気になっちゃって。
嬉しかった。梨華ちゃんの声聞いた時、涙が止まらなかった」

「梨華も同じだよ。私のせいでみんなに迷惑かけて・・・。あの時、
もしよっすぃ〜が電話に出てくれなかったら、どうなっていたか、
分からないから」

「でも梨華ちゃんも私も・・・。迷惑かけちゃったね」
「ウン。でもそれじゃ、ダメだって。動物病院の先生に言われ
ちゃった。元気出してって」

「梨華ちゃん強いな。わたしなんか全然ダメ」
「わたしも同じだよぉ。でもね・・・、前にあの人に言われたの。
いい事だけの人生なんてつまらないよって。悲しい事があるから、
いい事があった時、嬉しさも倍になるって。
だから辛い時ほど前向いて、笑っていなきゃダメだよぉって。
嬉しい時は、自然に笑顔になるんだからって…」
50321-22:2001/08/05(日) 03:05 ID:jP/Lry.k

「そっか。ポジティブだね。わたしもそうなんなくちゃ」
「ウン、ポジティブ。泣いてばかりいたら、あの人も悲しむだけだもの」
「そうだね。何か今日の梨華ちゃんは、カッコイイナ!」
「そんな事ないよぉ。カッコイイのはよっすぃ〜だもん」

忙しなく行き交う人々が彼女らの後ろを通り過ぎる。しかしそ
うした周囲の喧騒は今の二人の少女には、全く届いていなかっ
た。二人は愉しそうにじゃれあいながら、ウインドウガラスの
前で、はしゃぐ猫たちをいつまでもいつまでも見続けていた。
50421-23:2001/08/07(火) 02:26 ID:2gbmAsSo

島の西端にこんもりと浮き上がるその丘は、山と呼ぶには
いささか大げさな感じが漂うが、島の人から鬼山と呼ばれ
るにふさわしい歴史を持っている事に違いはなかった。

数千年前にこの島で起きた大噴火は、辺りの地盤をことご
とく砕き散らし、その大半を海の底に沈めさせた。今、島
として姿を現している部分は、あくまでも沈みいった地盤
の欠片の一角に過ぎない。鬼山の数千年の沈黙は、この島
に新たな生命と文明を齎せたが、その沈黙の限りを知るも
のは誰もいなかった。
50521-24:2001/08/07(火) 02:28 ID:2gbmAsSo

鬼山の中腹までは、なだらかな坂が続く。その周囲には島
の人々のたゆまぬ努力により、火山灰が堆積するその地に
緑をもたらせた。

その努力の結晶である高々と生い茂る木々のトンネルを抜
けると、この島で、と言うよりも、この辺りの島々一帯で
唯一の3階建ての総合病院が眼に入ってくる。

ただ総合病院といっても、ベッド数は10に満たず、専門
の医師も片手に足らない有様であるが、本土並みの診療が
受けられるのはここしかなかった。

その病院の3階にある個室病棟の端には、小児患者専門の
遊戯室があった。その一室の中央に置かれている小さなオ
ルガンを前にして、数人の子供たちが椅子に座りながら、
その音に合わせ大きな声で歌っていた。
50621-25:2001/08/07(火) 02:30 ID:2gbmAsSo

そして鮮やかな手付きでオルガンを弾きながら、やや疲れ
た表情を見せながらも愉しげに子供たちの歌う姿を眺めて
いる彼の姿がそこにあった。

その部屋の片隅では、笑顔を絶やさず見届けていた白衣を
着た女性が佇んでいる。彼女は漸く子供たちの唄える歌が
一巡したのを見計らうと、手を叩きながら、その子供たち
に声をかけた

「さ、みんな、時間ですよ。戻りましょうね」
「えっ〜、もうぉ?」
「ハイ、お昼寝の時間ですよぉ〜。早く寝ないと注射しちゃうぞぉ」
「それはいや〜!」

バタバタと音を立てながら子供たちが病室に戻っていく。
彼は目を細めながらその姿を眺めていた。若い女医は、子
供たちがいなくなるのを確認すると、彼の横に近づきやや
心配そうな口振りで話し掛けた。
50721-26:2001/08/07(火) 02:37 ID:2gbmAsSo

「大丈夫ですか、具合の方は?食欲もないみたいですし。
余り無理しないで下さい。」
「無理はしてしていないですよ。それにベッドで寝ているだけでは
ツマラナイですし。いい息抜きなんですよ」
「そうですか。あなたも病人なんですからね。お気をつけて・・・」
「いいんですよ。どうせ直ぐ死人になるんですから。
それで検査の結果は?」

彼は自嘲気味に彼女に問い掛けた。女医は、彼のその問いに返す
べき言葉を失い言いよどんでしまった。

「それは・・・。あの・・・、そうですね・・・」
「入院した時、正直にとお願いしましたよね?」

彼の鋭い問い掛けが耳をつく。彼女は苦しげに言葉を返した。

「・・・あまりよくは、ないみたいです・・・」
「そうですか。ありがとう。・・・いつまで、かな」

彼はそういうと寂しそうに窓の外を眺めた。彼女は少し俯
きながら掛けるべき言葉を失っていた。彼女は場の空気を
変える様に少し咳き込みながら、本来伝えるべき事を彼に
話そうと、言葉を放った。
50821-27:2001/08/07(火) 02:38 ID:2gbmAsSo

「そういえば、あなたにお客様が来ているみたいなんですよ」
「私に?」
「ええ。とっても綺麗な女性ですよ。驚いちゃいました。
もしかしたらあなたの恋人かしらなんて・・・医局でも持ちきりですよ」

「いやいや。そんな人、私にはいませんよ。いったい誰かな?」
「それが、あっ・・・もう来ているんだ?」

彼女はそう言うと、廊下の片隅に佇んでいる少女の姿を見
つけ、こちらに手招いた。その少女は、少しの間逡巡して
いるようであったが、息を整えるように軽くその場で弾む
と、俯き加減にゆっくりと歩を進め部屋の中に入ってきた。
50921-28:2001/08/07(火) 02:40 ID:2gbmAsSo

大きく開いた窓から秋の風が柔らかく吹き抜ける。少女の
少し明るめの茶髪がその風に吹かれて優しくなびいた。青
系統に統一されたチェックのロングスカートに白いカッタ
ーシャツが眩しく光って見えた。

彼は、最近とみに落ちてきた視力のせいで掛け始めた眼鏡
を胸ポケットから取り出し、その少女の顔色を窺った。オ
ルガンのハス向かいに少女が近づく。手を伸ばせば届く位
置まで少女が近づいた時、漸くそこで初めて薄橙色のサン
グラス越しながら互いの眼と眼が合った。

彼は自分の視界がままならない瞬間から、その少女が誰で
あるか本能で確認していた。薄れ行く記憶の中ですら、彼
の本能が彼女の事を忘れる筈などあり得なかった。

鮮烈な夏の記憶が彼の脳裏に蘇る。彼はそうした想いに後
押しされる様に、静かに口を開いた。
51021-29:2001/08/07(火) 02:42 ID:2gbmAsSo

「こんにちは。」

敢えてよそよそしい口調が二人の間に流れた日々の積み重
ねを感じさせる。少女は一度合わせた眼を外しながら言葉
を返した

「こんにちは。」
「久し振りで・・・」
「ホントに・・・」

言葉が続かない彼らを見かねて、女医はそこに言葉を挟んだ。

「それじゃあ、何かあったら下の医局にいますから呼んで下さい。
私は戻りますので・・・」

そういうと医者は、少し足早に部屋を立ち去り階下にある医局へ
戻っていった。残された二人は、何もする事も、言う言葉もなく、
その場に竦んでいたが、医師の姿が完全に消えたのを確認すると、
彼はその少女に椅子を勧めた。少女は彼に示されたまま、その差
し出された椅子に腰を下ろした。
51121-30:2001/08/07(火) 02:43 ID:2gbmAsSo

「朝倉に聞いたのですか」
「・・・」
「そうですか・・・。随分と遠かったでしょ。すいませんね、気を使わせて」
「・・・」
「わたし痩せましたでしょ。いや、痩せたと言うより、やつれたのかな」
「・・・」

少しダルそうに話す彼の言葉が少女の耳に悲しげに届く。
少女は何も言わず立ち上がると、彼の真横に置かれていた
パイプ椅子に腰掛けた。

軽やかな香水の香りが彼の鼻を刺激する。その香りは、今
までの彼女のそれとは違い、やや大人びた高貴な香りを漂
わせていた。彼は少し戸惑いながらも言葉を続けた。
51221-31:2001/08/07(火) 02:45 ID:2gbmAsSo

「香水替えられたのですね?」
「えっ?」
「替えましたでしょう?違いますか?」
「ウン。圭ちゃんに言われて・・・替えてみたの」

「そうでしたか。少し大人びた香りですね」
「そうかな」
「似合ってますよ。」
「ありがとう」

「そういえばですね・・・」
「もういいよ」

やや苦しげに言葉をつつけようとする彼の表情を横目で見な
がら、少女は彼の言葉を遮り、話し掛けた。

「もう無理して話さないでいいよ。・・・今日はこれを渡しに来たの」
「?」

少女はそう言うと、手にしていた英国製のこじゃれたバッ
クからカセットテープを取り出し彼に差しだした。
51321-32:2001/08/07(火) 02:46 ID:2gbmAsSo

「これ・・・。あなたに」
「ライフ イン ア ワンスタイム・・・。どこかで見覚えが・・・。これは?」
「お姉ちゃんが貴方にって」
「お姉さんが?彼女がどうしてこれを俺に・・・。わからないな」

「聞いてみれば・・・」
「そうだね。今ここで聞いてもいいかな?」
「私は別に」
「そう。それじゃ・・・」

彼は立ち上がり、部屋の片隅に置かれている古びたコンポ
にそのテープを入れて、再生ボタンを押した。暫くの沈黙
の後、スピーカーからは優しいピアノの調べが響き渡って
きた。
51421-33:2001/08/07(火) 02:47 ID:2gbmAsSo

彼はコンポの前に立ち竦みながら、頭を擡げてその曲に聞
き入っている。懸命に記憶を手繰っている様がパイプ椅子
に座る少女にも伝わってきた。彼女はそうした彼の様子を
やるせなく見つめるしかなかった。

ピアノの調べがAメロを数度リフレインし中途に来る最初
の盛り上がりの部分に差し掛かると、少女は自分から彼に
声をかけてきた。

「この曲、あなたが作ったんだって。覚えていない?」
「私が?ホントに?・・・しかしそれを何で君のお姉さんが?」
「杉村先生て言う人から貰ったみたい。」
「そうなの。・・・あっ、そうか、君のお姉さんは・・・そうか、いや、何で・・・」

彼は混乱し続けている頭の中を懸命に整理していたが、ど
うやら答えは見つけられそうもなかった。

首を横に小刻みに振りながら、オルガン前の椅子に戻る。
ピアノの調べが再びAメロをリフレインする。彼は溜息
をつきながら、独り言を呟くようにうめいた。
51521-34:2001/08/07(火) 02:49 ID:2gbmAsSo

「何も思い出せないよ・・・。何にも・・・何一つ。」
「・・・」
「もう少しすれば、私は君の事も忘れてしまうのかな・・・。」
「・・・」
「そんな事、耐えられないね。そうなら死んだほうがマシだよ・・・」
「・・・」

少女は何も言葉を返せなかった。俯いたまま、ただじっと
膝に置かれた自分の手を見つめ続けるだけしかなかった。
彼は彼女の沈黙に耐え切れず、再び立ち上がると窓際に佇
み、眼前に広がる広大な海を眺めていた。

ピアノの調べが静かに消えて、部屋の中に沈黙が流れる。
彼は少し息を整え振り返ると、少女に声をかけた。
51621-35:2001/08/07(火) 02:51 ID:2gbmAsSo

「そうだ、海を見に行きませんか?」
「えっ?」
「裏からいくと意外に近いんですよ。どうですか?」
「でも、大丈夫・・・」
「いつも散歩している道だから・・・。この島の海は透き通る様に
綺麗なんですよ。見に行きませんか?」
「ウン。」

彼はやや重い足取りながら、自力で歩く事は出来ていた。
ゆっくりと彼女の横を通り過ぎる。その時、少女は思わず
彼の手を掴み、まるで彼を支えるように力強く握り締めた。

「ありがとう」
「ウウン」
「いきましょうか」
「ウン」

彼は少女に引率されるように、一緒に歩き出す。少女の掌
のひんやりとした感覚が心地よかった。彼の脳裏には、彼
女と最後に会った時の感覚が鮮明に蘇っていた。

しかしあの時の自分と今の自分を比べるには、余りにも自
身の存在が軽くなった事を認識せざるを得なかった。彼は
情けない今の自分を半分受け止め、半分認められずに、少
女の後を歩いていた。
517作者:2001/08/07(火) 03:37 ID:2gbmAsSo

A series is the schedule of an end by the end of tomorrow.
51821-35:2001/08/08(水) 01:53 ID:Pld5.r2A

「綺麗でしょ。ちょうど太陽が傾きかける時間だから、尚更だよ」
「ホント。」
「ここに座ろうか?」
「ウン」

彼はずっと浜辺に放置されて錆び付いている軽トラックの
荷台に腰を掛けると、真横の空いたスペースを手で砂を払
い少女が座るのを即した。少女は即されるままその場に座
る。

眼の前には水平線以外は何も見えない、大海原が視界一杯
に広がっていた。少女は遠い眼をしながら、その大海原を
眺めていた。横に座る彼は、その横顔を優しく見つめてい
た。
51921-36:2001/08/08(水) 01:55 ID:Pld5.r2A

「元気そうでよかった。それだけが気になっていたのでね」
「それだけって?」
「貴方の事が、とても心配だったので」
「人の心配している場合なのぉ?」

彼は少し笑みを浮かべながら、言葉を引き継いだ。

「確かにね。でも、もういいんですよ。後は来るべき時を
待つだけですから。それよりも、大丈夫?仕事の方は?」
「ウン。今は大丈夫」
「そう。それならいいんだ。」

「そうだ。これ・・・持ってきたの」

彼女は慌てたようにバッグの中から一枚の写真を取り出し
た。そのフレームの中には、可愛らしい黒猫の姿が溢れて
いた。
52021-37:2001/08/08(水) 02:01 ID:Pld5.r2A

「クロだね!久し振りだなぁ。」
「朝倉さんが、渡してくれって」
「そう?これは嬉しいな」

彼はニコニコと笑いながら、飽きる事無くその写真を見つ
めていた。少女はその様子を愉しげに見つめている。彼は
そうした彼女の様子に気付くと、少し照れ笑いをしながら
話し続けた。

「そうだ、海の水、触ってみます?まだね、ここいら辺りは
そんなに冷たくないんですよ」
「ホントにぃ?」
「ホントですよ。波打ち際まで言って見たら?暖かくて驚きますよ」
「へぇ〜、じゃあ、見てみようかな」

そういうと彼女は、ピョンピョンと跳ねるように波打ち際
まで歩いていった。彼はネコの写真をポケットにしまう。

彼女のはしゃぐ後姿を遠い眼で眺めなていると、今朝同様、
波のように襲って来始めた激しい頭痛に耐えながら、うめ
く様にポツリと一つ言葉を呟いた。
52121-38:2001/08/08(水) 02:02 ID:Pld5.r2A

「本当は・・・俺は・・・」

彼はポケットから財布を取り出すと、カード入れの奥に入
れてた母と妹の写真を差し抜く。そしてそのまた奥に大事
そうにしまわれている一枚の写真を取り出した。

そこにはベッドの上でパジャマ姿で物憂げな眼差しをしな
がら笑顔を取り繕う少女の姿があった。その少女こそ彼の
眼の前にて、波打ち際で海水と戯れるその少女の姿だった。
52221-39:2001/08/08(水) 02:04 ID:Pld5.r2A

「真希さん・・・ありがとう」

彼の呟きは空しく浜辺に残された。遠く水平線に夕陽が傾
き始めると海の藍と空の橙が妖しく混ざり溶け込む。間も
なく訪れる闇が迫り来ることを予感させていた。

ロングスカートをたくし上げながら波打ち際を飛び跳ねる
真希の姿が暮れなずむ浜辺にて一際鮮明に輝いている。は
しゃいでいる真希の弾む声が浜辺に響いた。

「ホントだ、暖かいね!・・・あれ?・・・ウソ・・・だよね・・・?」

真希の声にならない絶叫が夕闇迫る海岸に鳴り響いた。砂
の上に蹲り、尽き果てている彼の横には、真希の写真が落
ちていた。浜辺を柔らかく吹き抜けた風に乗りその写真が
空高く舞い上がった。
52321-40/♪君住む街へ:2001/08/08(水) 02:05 ID:Pld5.r2A

そんなに自分を責めないで
過去はいつでも鮮やかなもの
死にたいくらい辛くても
都会の闇へ消えそうな時でも

激しくうねる海のように
やがて君は乗り越えていくはず

その手で望みを捨てないで
すべてのことが終わるまで
君住む街まで 飛んでゆくよ
ひとりと 思わないで いつでも

君の弱さを恥じないで
みんな何度もつまづいている
今の君も あの頃に
負けないくらい 僕は好きだから

歌い続ける 繰り返し
君がまたその顔を上げるまで

あの日の勇気を忘れないで
すべてのことが終わるまで
君住む街まで 飛んでゆくよ
ひとりと 思わないで いつでも
52421-41:2001/08/08(水) 02:06 ID:Pld5.r2A

長い人生の上で、人には必ず忘れられない夏が来るという。
真希は水平線に沈む凍える太陽の照射を浴びながら、生涯
忘れ得ぬであろう過ぎ去っていったこの夏の日々を胸に抱
きとめていた。秋の太陽に包まれながら・・・。

< 完 >