alone

このエントリーをはてなブックマークに追加
41520-1

第13章

むくわれない 束の間の夢ならば せめて偶然の時だけでも
はかない、うたかたの恋ならば、せめて君の声だけでも・・・

− 山崎まさよし −


「ウソなの?」
「・・・」
「それじゃ、ホントなの?」
「・・・」

「ねぇよっすぃ〜、どうなの?あの高森っていう人は、
よっすぃ〜は全部知っているかも、て言っていたよ」
「・・・」
「ねぇ?どうなの?教えてよぉ。何で黙っているの?」
「・・・」

吉澤は答えられなかった、いや答えたくなかった。苛立ちを
隠さない真希の問い掛けが胸に刺さる。遥か遠くに見える高
層ビル群の谷間に初秋の夕陽が沈んでいく。

遠浅の干潟の彼方、水平線の先から伝わる少し冷ややかな秋
の風が、浜辺に佇む二人へと優しく吹き抜けていた。
41620-2:2001/07/25(水) 02:27 ID:HTjGVu6s

いよいよ明後日から始まる娘。としては最後になるツアー
リハーサルが終わった。各々がそれぞれの想いを抱えて、
全てが終わり、そして始まろうとしている。

練習後、吉澤は意を固め真希に誘われるがままここへ立ち
寄っていた。この場所に来るまで、嫌な胸騒ぎが終始消え
ないでいたのは、リハーサルの最中から終始虚ろな眼をし
ていた真希の姿を見ていたからだった。

リハの合間、元気のない真希の事を気遣う保田の横で、吉
澤はただただ見て見ぬフリを決め込んでいた。私は知らな
い、知りたくない。吉澤は自ら心に鍵をかけて、眼の前の
現実から出来うる限り遠くへ逃げたかった。

しかしリハ終了後の帰りしな、地下の駐車場で不意の真希
の呼び掛けは吉澤にとって、現実を突きつけた瞬間であっ
た。予想されていた事とはいえ、遂に来るべき時が来た事
を告げる、苦しい瞬間であった。
41720-3:2001/07/25(水) 02:48 ID:HTjGVu6s

それは昨日の事だった。唐突に吉澤の家を訪れた高森と
いう名の男の話は余りにも生々しく、そして核心めいた
ところを突いていた。

その男は、吉澤の想像していた通りの事をそのまま反復
した。ただ最後まで、その男の最終的な目的が今一つ分
らなかっただけに、吉澤の不安感はより一層増していた。

当然あの男の話の内容から推し量れば、吉澤の家に来た
という事は、当然真希の所にも、そして梨華の所にも訪
ねてきたに違いない。

実際に梨華は、リハーサル中にそれとなく何度も何度も
吉澤の所に来ては、何かを言いたそうにしていた。多分
吉澤が少しでも水を向ければ、怒涛の勢いで話し始めた
に違いなかっただろう。
41820-4:2001/07/25(水) 02:49 ID:HTjGVu6s

そうした事を分りきった上で、あえて吉澤は、いつもの
ような他愛の無い話に終始した。吉澤の眼には落胆を隠
せない梨華の切ない表情を感じ取ってはいた。

思わず梨華を抱き寄せて、その華奢な身体を包み込みた
い感情が押し寄せる。しかし吉澤は心を鬼にして、その
気持ちを押し殺した。リハ終了後には自らの携帯電源を
わざとオフにし、梨華との接触を完全に断ち切った。

今だけは、そうしていなければ、吉澤は自分の心が耐え
切れなくなるのが分っていた。自分のツマラナイ邪な行
動のせいで、一人の人間を再び犯罪に走らせ、二人のか
けがえの無い「愛すべき人」を傷つけてしまったのだか
ら。

しかし現実は吉澤を逃避させてはくれなかった。鮮烈な
秋の夕陽の照射の中、吉澤の前には決断を迫る真希の姿
がある。

いつか伝えなければばならない事は永遠に残ったままだ
った。吉澤は心の鍵を解き、漸くとその重い口を開いた。
41920-5:2001/07/26(木) 05:40 ID:NujWNZok

「ごっちん、あの警察の人が言ってた事、多分ホントだと思う。」
「・・・」
「あの人に最後に会ったの、わたしなの。その時に・・・」
「その時に?」

「・・・話したの。今までの事、それからこれからの事を。」
「どんな話だったの?教えてよぉ」
「もう安心してていいよって。それから・・・」
「それから?」

真希は食い入るように吉澤を見つめ返していた。その激しい
眼差しが吉澤の瞳を貫く。その勢いに押され吉澤のたどたど
しい口調は、更に重さを増していた。しかし真希の追及は、
吉澤には抗し難い程、冷たくそれでいて厳しかった。
42020-6:2001/07/26(木) 05:45 ID:NujWNZok

「それから、よっすぃ〜、どうしたの?何を話したの?」
「今までした事。それからこれからする事・・・」
「何をしたのぉ?それで・・・何をするの?」
「・・・それから、ごっちんに伝えて欲しい事があるって」
「わたしに?」

吉澤はここで一度言葉を区切ると、呼吸を整え再び話し始め
た。

「ウソついてゴメンネ、真希ちゃんにはもう会えないって・・・。
わたしから、ごっちんには、さよならを伝えてくれって・・・」
「それってどういう意味?」
「もう一度ごっちんに会うと、・・・心が揺らいでしまうんだって。だから」
「だから、何よぉ?」

「だから・・・永遠にさようならだって・・・」
「ふ〜ん、それでよっすぃ〜は、あの人と最後に話したんだ。いつ?
それっていつの事?」

吉澤は答えに窮していた。それはあの日、真希と夜を共にしたあ
の日の前の日だったから。吉澤は、この事を隠し続けたまま真希
と肌を合わせていた、そうあの日の前夜だった。

消せない事実が眼の前に聳える。吉澤が真希を欺いてまで自らの
欲望を剥き出しにした事実は重く残った。
42120-6:2001/07/26(木) 05:47 ID:NujWNZok

「・・・あの日だったんでしょ?」

唐突に放たれた真希の冷たい言葉が吉澤の小さな胸に突き刺さる。
全ては真希に見透かされている様だった。しかし吉澤は敢えてそ
れに答えなかった。沈黙によってでしか、今の自分を肯定できな
かった。それでも真希は、容赦なく吉澤を責め立てた。

「ズルイ!よっすぃ〜ヒドイッ!そんな大事な話、何で今まで黙ってたの!」
「タイミングがね・・・なかったから」
「ウソだよぉ、そんなの。だってよっすぃ〜聞いたんでしょ?今までの
事を全部。だったら・・・分る筈じゃない!私とあの人の間にあったこと
・・・ねぇ、これって違う?私の言ってる事おかしい?」

「ウウン。でも・・・」
「でも何?」
「だって、あの人・・・。もう・・・その時に全て決めていたみたい
だったから」
「それだからって・・・。それに、そのままあの人のする事を止めない
のもおかしいよ。だって、あの人が何するか分っているでしょ。
それなのに」

「でも・・・ごっちん。大丈夫だよ。ていうか、もう・・・、」
「もう、どうしたの?もう何よ!あの人死んじゃうから、どうでも
いいって言うの?どうなの?ハッキリ言ってよ!」
42220-8:2001/07/26(木) 05:54 ID:NujWNZok

「多分あの人はもう、いないかもしれないから・・・」
「ねぇ、それって死んじゃったって事?ねぇ?そういう事なの?」

吉澤は今まで見た事の無い真希が見せるあからさまな怒りの
表情に対して、ただ途方にくれていた。

真希の厳しい視線が吉澤の身体を突き刺す。吉澤自身、真希
が「彼」との再開を心待ちにしていた事を知っていただけに、
その悲嘆に暮れる真希の様子は痛いほど心の奥まで伝わって
いた。

しかしそれ以上に吉澤にとっては真希との絆が大切であり、最
後の拠り所でもあった。幾ら身体を重ねても、吉澤の思う以上
の気持ちが真希に伝わらないのが哀しかった。夕陽の染まる浜
辺の際で、二人の少女のやるせない気持ちが激しくぶつかって
いた。
42320-9:2001/07/26(木) 05:55 ID:NujWNZok

「もういいよ。よっすぃ〜なんて、もういいから」
「ごっちん・・・」

真希はくるりと反転し吉澤に背をむけると、波打ち際の方へ
すたすたと歩き始める。その背中からは強烈な意思を感じ取
れずに入られなかった。

吉澤は真希のそうした態度につられるかの様にその後を追う。
まるで捨て猫が飼い主を探す様に、痛々しい姿を晒しながら
その後を必死に追っていた。
42420-10:2001/07/26(木) 05:56 ID:NujWNZok
「ごっちん、待って。わざと黙っていた訳じゃないんだよぉ。
お願い、わたしを信じて・・・」
「もういいの。いいよ、別に怒ってないから。別にいいよ」

言葉に反し明らかに真希の言葉は怒りに満ちていた。吉澤には
その真希の怒りが単純な苛立ちや衝動から来ているものではな
いのは痛いほど分っている。

吉澤は脱げそうなミュールを引きずりながら、絡みつく砂に何
度も脚を取られながらも、必死に真希の後を追いかけていた。
42520-11:2001/07/26(木) 05:59 ID:NujWNZok

「待って!ごっちん、そうじゃないの。違うんだよ。そうじゃ・・・」
「何が違うの?よっすぃ〜、ズルイ。こんな大事な事を黙っていて、
それで私としたんだ、あの日・・・」
「ごっちん・・・」
「それじゃさぁ〜、よっすぃ〜もアイツらと同じじゃん。セックスだけ
だったんじゃん」

「ごっちん!そんな事言わないで。あいつ等と一緒だなんて、
ヒドイよ!!」
「でも一緒じゃん。それじゃあ、どこが違うのぉ?違わないじゃん。」
「ごっちん・・・」

「・・・そういえばあの刑事みたいな人も言ってたよ。あの人は、
わたしとよっすぃ〜の為に間違いを犯したんだって。・・・多分、
アイツのこと、あの人殺しちゃったんだよ。私達のために、そして・・・
私達のせいであの人は死んじゃうんだよ」

吉澤の心は今にも張り裂けそうだった。真希から投げかけら
れる言葉の激しさよりも、ドンドンと遠ざかっていく真希と
の心の距離感に焦燥感を掻き立てられていた。
42620-12:2001/07/26(木) 06:03 ID:NujWNZok

「ごっちん、そう言ういい方良くないよ。そんな事ないから」
「何で?だってそうじゃない?どこか違う?・・・私があの人にどれだけ
会いたかったのか知ってたでしょ?。それなのに・・・」

「ごっちん・・・、わたしの言う事聞いて、ちゃんと説明するから・・」
「もういい、もう帰るから、もういいから。さよなら!」

真希は、うな垂れる吉澤をその場に残し、足早に立ち去って
いった。確かに吉澤は真希が「彼」の事を想い慕い続けてい
るのを知っていた。嫌というほど・・・それを知っていた。

夜を共にしたあの日以来、事あるごとに真希の口からは、
「彼」の話が途切れる事無く続いていたのも知っていた。だ
からこそ吉澤は言えなかった、いや言いたくなかったのだ。

しかしその邪な気持ちが結果的に自分と真希の間を強烈に引
き裂いてしまったのも事実だった。消せない事実と現実が、
吉澤に今、襲い掛かっていた。
42720-13:2001/07/26(木) 06:11 ID:NujWNZok

無邪気にじゃれ合っていた愛しい日々が脳裏に浮かぶ。ただ
一緒に入られただけで楽しかった時が懐かしく胸を焦がす。

吉澤にはそうした美しい想い出を手繰り寄せ、それに縋るし
か術はなかった。悔恨と虚無感が心の奥底に溜まり始めてい
た。

いつの間にか吉澤の凛とした表情は崩れ、その美しい瞳から
は透明な雫が流れ落ち始めていた。悲しい雫が吉澤の透き通
るような白さを保つ頬を伝った。

「ごっちん、わたしが悪かったの・・・だって、だって・・・」

その人工的に作られた砂浜には、強烈な西日が差し込んでいた。
一人取り残された吉澤の全身に容赦なく初秋の太陽が照らし出
す。

取り残された想いだけが募り、そして心の奥底に積み重なって
いく。吉澤は、どこかで狂ってしまった感情の歯車が虚しく心
の中で回転しているのを感じていた。

「もう終わっちゃう・・・、終わっちゃうのにな。わたしって、バカだな・・・」

吉澤の悲しい呟きが虚しく浜辺に響いていた。悲しみに包まれた
その姿のみが沈む夕陽の中に柔らかく溶け込んでいた。
42820-14:2001/07/27(金) 05:49 ID:ZSq7sLpQ

「お疲れ様でした!」

梨華の明るい口調がスタジオ内に響く。梨華は中年女性のマネー
ジャーに引きつられ深夜の撮影スタジオを小走りに駆け抜ける。
古びた銀色の大扉を開く。既に漆黒の闇に包まれていた屋外は、
ノースリーブの梨華には、幾分の肌寒さを感じられずにはいられ
なかった。秋が近づいたのを、肌身で感じさせる夜だった。

スタジオの裏側にある平面駐車場では、大きなワゴン車の前で更
にもう一人の若い女性マネージャーが梨華たちが来るのを待って
いた。小走りに駆け寄ってくる梨華の姿が見えてくる。その待ち
人は大きく手を振ると大きな声でそちらに向け叫んだ。
42920-15:2001/07/27(金) 05:52 ID:ZSq7sLpQ

「早く!早く!ラジオの収録間に合わなくなっちゃいますよ!」
「ほら、梨華急いで!」
「ハ〜イ。待ってくださいよ〜」

梨華の甲高い声が人影のまばらな駐車場に響く。梨華はヨロメ
キつつも息を切らしながらワゴン車の後部座席に急いで入った。
続いて中年の女性マネージャーが助手席に慌てて座る。その様
子を見届けた若いマネージャーは漸く運転席に戻ると、急いで
エンジンを回した。

車が少し動き始めると後部座席にいた梨華は、前部座席との間に
あるカーテンと更に車窓に備え付けられたカーテンその全て閉じ
た。

すると取っ手に吊るされていたダークスーツを手に取り、勢い良
く走り出すその車内で着替え始めた。カーテン越しに中年の女性
マネージャーの厳しい声が飛んでくる。
43020-16:2001/07/27(金) 05:54 ID:ZSq7sLpQ

「梨華!早く着替えて。そうだ、局に着いたら真っ先に雑誌の取材
があるからね。」
「ハイッ。何の取材ですか?」
「えっとね・・・。東京1週間かな?今度の映画の事だからね。それから
ツアーの事も話すのよ。ね、わかった?」
「ハイッ。」
「ちゃんと、頭の中でいいたい事まとめてから話すのよ!」
「ハイッ・・・わかってますよぉ〜」

梨華は激しく動く車内でどうにか着替え終わると、奥の席におい
てあった自分用の大きなバッグを引き寄せた。その中からブラシ
とハンドミラーを取り出し、少し乱れた髪の毛を梳いていた。
43120-17:2001/07/27(金) 05:57 ID:ZSq7sLpQ

その時だった。工事中の道路を走っていた為に激しく揺れたせいで
バックの中にしまわれていた一通の封筒がヒョコンと顔を出す。梨
華の眼がそれを捕らえるや否や、梨華は髪の毛を梳くのをやめ、そ
の封筒を即座に手に取った。

「・・・」

昨日の夜、その封筒は梨華の家に届いたものだった。それは一枚
の写真と共に・・・。綺麗なか細い文字が書き連ねてある便箋と共
に・・・。

封筒の裏側に書かれた差出人の名前は、浅川優子と記されていた。
可愛い動物の絵が施された便箋をゆっくりと取り出す。梨華はブ
ラシを置き、昨日来何度も何度も読み返していたその文面を改め
て黙読し始めた。
43220-18:2001/07/27(金) 05:58 ID:ZSq7sLpQ

「突然のお手紙、ごめんなさいね。驚いたかな?実はね、あの人から
あなたのお家の住所聞いていたの。それよりも梨華ちゃん、お元気で
すか?

お仕事大変そうだけど、無理をしていないかしら?そうだ、クロチャ
ンも元気にしているかな?

あなたが置いて行ってくれたお手紙読みましたよ。あの子もあなたの
トコロにいた方がいいかもね。何かあったら、私の病院に連れてきて
ね。ペットホテル代わりにも使ってくれていいから、遠慮しないでね。
43320-19:2001/07/27(金) 05:59 ID:ZSq7sLpQ

さて今回改めてお手紙を出したのは、他でもありません。あの人の話
で梨華ちゃんに言い忘れていた事があったからです。

それはね、あの人の病気の事。梨華ちゃんも何となく分っていたと思
うんだけど、あの人は命に関る大きな病を抱えています。

その病気はね、命を削るのと同時に、頭の中にある記憶すら徐々に薄
れてさせてしまう怖い病気です。悲しいことなんだけど、あの人は今、
もう自分の名前まで忘れているかもしれないの。

これは脳腫瘍という病気の大きな特徴。この病気は自覚症状が無くて、
着実に病理だけが進行していく。彼の場合も気付いた時には、レベル
で5という、引き返せない所まで進行していた。本当に残念だった。
43420-20:2001/07/27(金) 06:01 ID:ZSq7sLpQ

この間は言えなかったけれども、今あの人は、ある島でその病気と向
かい合っているみたいです。最後の時は、一人で静かで、というのが
あの人の希望みたいなんだ。

それに、何よりもそういう自分の哀しい姿を私たちに見せたくないと
いう気持ちも少なからずあると思う。

それでも梨華ちゃんが、どうしても会いたいと言うのであれば、朝倉
君のトコロに行ってみて欲しい。彼ならば、その島の場所を知ってい
ると思うから。

実はね、わたしは聞いてないの。いや、そうじゃないわ、聞きたくな
かったから、朝倉君とはそれ以上の話しなかった。

だって私には自分の名前も分らないかもしれない、今のあの人に、会
う勇気も、そして話す勇気も持っていない。あの人の事をこれ以上知
りたくない、というのが正直な気持ちだった。
43520-21:2001/07/27(金) 06:03 ID:ZSq7sLpQ

あの人が梨華ちゃんに宛てた手紙にも書いてあったと思うけど、もう
全ては終わった事だと思う。人間だから何事もなかった様に振る舞う
のは無理かもしれないけれども、時間が全てを解決する筈だと思うよ。

これは経験を踏んだ大人の意見だと思って、聞いて欲しい。あの人も
書いていたでしょう?傷付いた心は、時間以外に癒せないって。

もう済んだ事だもの。過ぎた日の想いではみんな捨ててしまうしかな
いわ。梨華ちゃんには、後ろを振り向きながら生きていて欲しくない。

それはあの人も言っていた事、梨華ちゃんには元気良く歌っている姿
が良く似合うって。結果的に心を乱す事も無くなった訳だし、辞める
必要はないでしょう?だから引退する何て言わないで、これからグル
ープは解散しても、元気に頑張って歌い続けて欲しい。それが彼から
預かった梨華ちゃんへの最後の伝言よ。
43620-22:2001/07/27(金) 06:07 ID:ZSq7sLpQ

梨華ちゃんが輝き続けている事、それが音楽が大好きだったあの
人への最高のプレゼントだと思う。

ミュージシャンになれなかったあの人の夢を、違った形だけれど
も梨華ちゃんが叶えてくれるのを私も陰ながら見守りたいと思っ
ています、楽しみにしているね。

何かあったら、いつでも話してくれると嬉しいです。長い手紙に
なってゴメンネ。これからも忙しいと思うけれども、体調に気を
つけて頑張ってね。今度またどこかで会いましょう、浅川でした。」
43720-23:2001/07/27(金) 06:08 ID:ZSq7sLpQ

梨華はその便箋を読み終わると、静かに眼を閉じた。便箋と共に
封筒にしまわれていた写真がヒラリと座席に落ちる。そこにはい
つの日か彼が撮った、朝倉の飼っていた犬を抱えている喜色満面
の梨華の姿が写っていた。

その写真の裏側には、須らく左に傾く癖のある彼の字でこう書か
れていた。

「ありがとう・・・さようなら・・・」
43820-24:2001/07/27(金) 06:11 ID:ZSq7sLpQ

ワゴン車は静かに走り続ける。静かに目を明けた梨華のその瞳は、
軽く潤んでいる様だった。どうしようもない悲しさや、胸の奥底
に迫り来る甘い記憶と、やるせない想いを乗せながら、車は夜の
東京を走り抜けていた。

梨華の心の奥底には、いままで感じ得ない様な奇妙な安息感が支
配し始めていた。梨華は、きっかりと目を見開くと、再びハンド
ミラーを手に取り、少し茶色がかった艶やかな髪の毛を梳き始め
た。先程まで潤んでいた瞳はすっかりと乾き、強い意志を感じさ
せる様な鮮烈な厳しさを漂わせていた。
43920-25:2001/07/28(土) 05:34 ID:XryCOD6Y

「どうした、ごっつあん?ホントに来たん?わたしんちに来るなんて
珍しいんじゃない?」
「さっきは急に電話してゴメンネ。」
「まぁいいから、ハインなよ」
「いいの?」
「いいよ、そのつもりで来たんでしょ?部屋ん中、ちょっと汚いけどね」

保田は戸惑いを隠しながら真希の事を迎え入れた。真希は勧めら
れるがままに、こじんまりとしたダイニングにある可愛らしい木
製のデザインチェアーにピョコンと座った。

真希は保田がキッチンで忙しなく動き回る姿を漫然と眺めていた。
その保田の姿を見ている内に真希の心には得も言えぬ安らぎが支
配し始め、それと同時に懐かしい無邪気な昔の自分の姿を思い出
していた。
44020-26:2001/07/28(土) 05:34 ID:XryCOD6Y

「コーヒーでいい」
「ウン」
「テキトーに何か出しといて。そこの棚にあるから」
「ここ?」
「そうだよ。ちっと待っててね〜、何か用意するから」

「へぇ、圭ちゃん、料理なんかできるのぉ〜。」
「後藤さん、何かいったぁ〜(笑)ちょっと、来なさい」
「ふふふぅ。何も言ってません〜。」
「ごっつあんもこっち来て、手伝いなさい。命令だわよ(笑)」
「ふふふぅ。わかりましたわ。圭さま〜」

今にして思えば、昨年の冬に保田が娘。をやめてから真希の彷徨
が始まったのかもしれない。甘えられる大切な女性。失ってから
気付いた保田の存在の大きさを真希は改めて噛み締めていた。
44120-27:2001/07/28(土) 05:35 ID:XryCOD6Y

何気ない息抜きの時間が日々の生活から欠落した時、人は日常の
中に非日常を求め、その魔力の力に吸い寄せられ、心の深遠まで
堕ちていくかもしれない。

真希にとって保田の存在こそが日常であり、心休まる場所だった
のかもしれない。久方に交わす他愛ない会話の一つ一つが真希の
心を鎮めていく。

今までの真希は、自分だけが取り残されたような疎外感だけが
心に棲み付き、心に、そして身体にも深い傷を追いながら、駆
け抜けていたのかもしれない。しかし漸くと真希は、自分の居
場所をこの場所に見つけていた。
44220-28:2001/07/28(土) 05:37 ID:XryCOD6Y

「圭ちゃん、からいよぉ〜」
「そう?そんな事ないじゃない・・・ゴホッ、ゴホッ」
「ほら〜、辛いんじゃない。こりゃあ奥様、失格だわねぇ〜」
「後藤さん、ウルサイワヨ!黙って食べなさい!食べられない事も
無いんじゃない?」
「ふふふぅ。わがっだ、わがっだよぉ〜、保田さま〜」
「もう、ごっつあんたら!あんたねぇ、バカにしてんのぉ?」

保田の作った料理をつまみながら、楽しい時間が過ぎていく。保
田は真希に突然の訪問の真意を敢えて何も聞かずに、ただただそ
の他愛のない楽しげな会話を続けていた。

夜の帳が落ち、時計の針が12時を回っても、二人の語らいは止
まる事が無かった。真希は尽きる事のない積もり続けていた想い
の全てをこの瞬間に重ねていた。
44320-29:2001/07/28(土) 05:39 ID:XryCOD6Y

「君は・・・吉澤さんだっけ?」
「・・・」
「久しぶりだねぇ。どう、元気?」
「・・・」
「そうじゃなさそうだな。どう?入っていく?」
「・・・」

「何かさぁ、ずっと黙られてちゃ、分かんないんだけどね」
「あの・・・あの人は、何処にいるんでしょうか?」

朝倉の眼の前には、黒のダークスーツに身を包んだ吉澤の姿があ
った。俯いていて、はっきりとは目視できなかったが、憔悴して
いるのは簡単に見て取れる。

朝倉は心配そうに顔色を窺うように吉澤の顔を覗き込むと、やや
諦めに近い口調で言葉を掛けた。
44420-30:2001/07/28(土) 05:42 ID:XryCOD6Y

「君もかい?あいつの何処がそんなにイイのかねぇ」
「君もって?」
「石川さんだっけ?それから後藤さん?彼女たちも最近来たわね。
まぁバラバラにだけどね・・・。あいつは何処にいるのかって」
「それで、みんなはどうなんですか?」

朝倉は奥にある古ぼけたチェストに置いてあった小物入れを指差し
ながら、吉澤に話し続けた。

「二人とも渡して欲しいものがあるからって。それだよ。昨日は後藤さんが
来てそれ置いてったけど。まぁね、今のアイツがそれらを見て、何の事だか
分かるかねぇ。・・・で、君は何の用?だって君は知ってるでしょ、あいつの病気の事は?」
「何となく・・・ですけど」

「それなのに、どうしたい?・・・な〜んか、嫌な事でもあった感じだねぇ?」
「・・・」
44520-31:2001/07/28(土) 05:44 ID:XryCOD6Y

朝倉は、遠慮せず吉澤の急所をつく言葉を放つ。吉澤は依然上手
く言葉を返せないでいた。

しかし朝倉は、そうした吉澤の態度にも少しの戸惑いを見せずに、
傍にあった小汚い壊れかけのベンチに腰掛けると、ポケットから
取り出した煙草に火をつけ、上手そうに吸った。

暫くその味を楽しんでいたが、意を決したように吸殻をテーブル
の上に置かれたちゃちな銀色の灰皿に押し付けると、立ち竦む吉
澤に向け、再び声を掛けた。
44620-32:2001/07/28(土) 05:48 ID:XryCOD6Y

「まぁいいよ。俺なんかに言わなくてもさ。それにしても、傍目で
見ている限りでは、君、しっかりしている様に思えたんだけどなぁ。
・・・それにしたってアイツ以外に君の悩みを相談できる人は、幾らでも
いるんじゃないの」
「・・・そんなんじゃないんです。何となく、話したくなって」

「何となくねぇ・・・。でもさ、もういいんじゃない?あいつの事はさ。
どうせまた会うと、同時に嫌な事も思い出すっしょ?あの子たちにも
言ったんだけど、アイツの事は、なるたけ早く忘れた方がいいよ。
まぁ交通事故にあったみたいに考えてさぁ」
「交通事故ですか?」

「そう。偶然アイツの人生と君たちの人生が瞬間だけ重なっちまった
だけよ。単なる事故みたいなもんだから」
「・・・」

「君も石川さんも、それから後藤さんも、みんな必死になって生きて
いる訳でしょ?人生なんちゅうのは、生きているだけで素晴らしい事
な訳よ(笑)
生きてるだけで丸儲けなんだわさ。それ以上の幸せは、幾ら探しても
この世にはないんだから。だってあいつを見ていたら、尚更そうは、
思わんかいな?」
「・・・」
44720-33:2001/07/28(土) 05:53 ID:XryCOD6Y
朝倉は笑いながら席を立つと、吉澤の肩をポンと叩いてリングに
向かった。そして後ろ向きながら吉澤に言葉を掛けた。

「人生はバランスだよ。生きてりゃ、次のチャンスが必ずやって来る
もんだわね。死んでるように生きたくないっつてカッコ付けても、そ
いつだって生きてるから言えるんだわね。そういキザな言葉がさ。
まぁ長い間生きてりゃ、いい事ありゃ、嫌な事もある、下り坂があれば、
必ず上り坂もある。せめてさ、上向いて生きようや、折角の一度きりの
人生なんだからさ。どうだい?」
「・・・」

「まぁいいや。あんたみたいなキレイな人に、こんな汚い場所は合わ
ないよ。早く帰りなや。それに俺も話す事なくなっちまったし」
「なんかゴメンナサイ。お邪魔してしまって。」
「ハイよ、気にすんな!元気でな。」
「ハイ」

「なんか声が小さいねぇ。もっと大きな声でさ」
「ハイッ!」
「そう。それでいい。これで安心だわね」
「ありがとうございました。さよなら・・・」

「ハイ、サイナラ」
44820-34:2001/07/28(土) 05:56 ID:XryCOD6Y

朝倉はゆっくりと部屋の奥に向け歩き出す。その背後で吉澤が立
ち去った気配を感じていた。朝倉は隣室にあるトレーニングルー
ムに向かいその中央に鎮座するリング上に登った。

そして唐突に相手なく素手でシャドーボックスを繰り返す。少し
の動きで朝倉の額には玉のような汗が吹き出ていた。朝倉のパン
チは、空を切りながら、鋭い音を立てて、その無人の空間にこだ
ましていた。

雑踏ひしめく夕暮れの街並みを吉澤は一人歩いていた。言葉には
表せない様な複雑な思いが胸の中を去来する。

しかし今の吉澤には、前に踏み出せる小さな勇気だけは芽生え始
めていた。迫り来る別れの日まで、悔いを残さない事を心に密か
に誓うとその顔付きはキリっとした凛とした表情に戻っていた。

幾分と歩みを速めながら、雑踏の中を掻き分けて進むその吉澤の
姿が鮮烈な夕陽の中に溶け込んで、そして消えていった。
44920-35:2001/07/28(土) 05:56 ID:XryCOD6Y

周囲を海に囲まれたその南海の孤島の南端にある誰もいない入り
江付近の平坦な砂浜では、粉々に散った車の破片を掻き集める彼
の姿が沈む夕陽に溶け込んでいた。

彼は、その破片を砂浜に停泊している中型のボートに詰め込んで
いる。あらかた大きな鉄屑を詰め込み終えると、自らそのボート
に乗り込み、その太陽の沈む方へ漕ぎ出した。
45020-36:2001/07/28(土) 05:57 ID:XryCOD6Y

水平線には燃え盛る太陽がその身を傾け、空には綺麗な星が瞬き
始める。鮮烈な太陽の橙と澄み切った夜空の藍とが交じり合い、
得も知れぬ不可思議な時間が過ぎていく。

誰もいない海原に漕ぎ出す彼は、その美しい様に見とれて深く溜
息をつき、櫓を静かに置いた。かすかな波の流れにボートはその
体を預ける。

全ての終わりの時を告げるように、海原の果ての方からは、渡り
鳥の嘶きが彼の耳に届いてきた。
45120-37:2001/07/28(土) 05:57 ID:XryCOD6Y

今までのやるせない日々の積み重ねを思い出し、残した想いを振
り切るかのように、彼は静かにその眼を閉じた。

夏が終わる。暑かった喧騒の夏の何もかもが今、終焉の時を迎え
ていた。

<第13章 了/次章・最終章へと続く>