第9章 後編
敗れたことない誰かがまた裸の負け犬を叱る。嘘っぽい真実よりもインチキな現実の方が暖かい
− 篠原 美也子 −
「よっすぃ〜・・・。何で・・・」
「いや?梨華ちゃん」
「ウウン。でも・・・」
「じゃあ、もう一回・・・」
吉澤は、小首を傾げながら梨華の顔を覗き込む。そしてもう一度その唇に触れ
てみた。今度は、長くしなやかに伸びる腕を梨華の体に巻きつけてみる。更に
は、梨華の縮こまる掌に指を絡めて押し開けてみた。
吉澤の巧みな指使いで梨華の指がゆっくりと解ける。そして一杯に広がったそ
の手に、吉澤の指が悩ましく絡んだ。
「梨華ちゃん・・・。」
「ウッ・・・、よっすぃ〜・・・」
吉澤は、一度梨華の唇から離れた。そしてその華奢でか細い梨華の指先に
唇をつけてみる。すると梨華の空いた手が吉澤の髪の毛に伸びて優しく手
櫛をはじめた。
吉澤は、少しだけ大胆になる。指先へのキスから舌先を伸ばし梨華の掌全
体を舐め回してみた。梨華は恥かしそうに身を縮めたが、吉澤の舌技に酔
いしれ次第に自分の中の意識が違うレベルに入った事を感じていた。
「よっすぃ〜、ダメだよ。」
「こういうの、いや?梨華ちゃん?」
「・・・そうじゃなくて。女の子同士でこういう事・・・」
「そんな事無いよぉ。じゃあ、こうしちゃお」
吉澤は一転して、少し力を込めて梨華の体を抱きしめてみた。梨華は、され
るがままその身を吉澤に預ける。すると吉澤は、梨華の顔を両手で支えつつ、
鼻先に唇で一度だけ軽く触れると、今度は舌先で上唇を少しだけ舐めてみた。
梨華の眼が蕩けるに潤み出したのを見て取ると、吉澤の唇は、勢いと激しさ
と厭らしさを見せながら梨華の咥内に容易く侵入し始めた。
梨華は、吉澤のそうした欲望を容易く受け入れていた。身体を少し硬直
させてはいるものの、抵抗せず、むしろ自ら能動的な気持ちを見せなが
ら吉澤の唇に合わせていた。
吉澤は、触れ合う肌の感覚からそうした気持ちを汲み取り喜びを感じて
いた。
そして少し焦らすようにわざと唇を外し、もう一度梨華の顔を見つめる。
少し潤んだ梨華の目が吉澤の心に侵入してくる。梨華の鮮やかな髪の毛
を梳きながら優しく語りかけた。
「・・・梨華ちゃんは悪くないよ。」
「でも・・・」
「それに・・・良かったじゃない。もう怖くないでしょ?」
「ウン・・・。もう、大丈夫だよ」
「だったら、いいじゃない。・・・それとも梨華ちゃん、あの人の事、警察の人に
言うの?」
「ウウン!そんな事言わないよ!言う訳ないよ、よっすぃ〜。だって私の事を
助けてくれたのに・・・」
「それなら梨華ちゃんが苦しむ事ないよ・・・。それに・・・、もう終わった事だよ、
梨華ちゃん」
「よっすぃ〜・・・」
吉澤は話し終えると、再び梨華の唇を貪った。ピチャピチャと、梨華と
吉澤の唾液の混ざり合う音が部屋中に響き渡る。吉澤は、梨華の舌に自
らの舌を絡め始めた。
もはや吉澤は、貪欲な自分の欲望を隠さなかった。梨華の顔を支えてい
た両手を離し、その艶やかな肢体に伸ばし始めていた。
「元気そうでしたよ…」
「…」
「年明けには一度帰ってくるって…」
「…」
「…髪の毛少し、切ったのかな?」
「えっ?ウン…」
二人は木で覆われたリビングルームの一室で対峙していた。間もなく日付
の変わる時刻を迎えようとしているにも関らず、先程から掴み所のない会
話を続けている。薄明かりのライトの下で、彼は真希の心を探っていた。
「今日はお休みですか?」
「…」
「…どうしたのかな?何か私のせいで迷惑な事でも、…ん?」
真希は彼の言葉をさえぎり、ポケットから小さな茶封筒を取り出し、テー
ブルの上に置いた。彼は即されるようにその封筒を開ける。
「今日、これを渡しに来たの」
真希は、脇に置いてあったキャリングポーチの中から大きめな白い封筒
を差し出した。その中には、封の切られた手紙が一通、そして鈍く輝く
シルバーのリングが入っていた。
彼はそのリングを大切そうに握り締めながら、手紙を黙読した。そして
やや顔を上にあげ何か想いに耽ったかと思うと、手紙をその封筒に戻し、
握り締めていたリングを真希に差し出した。
「えっ?」
「これは、返しておきます」
「・・・なんで?だって逆でしょ?」
「?」
真希は唐突に言い返した。するとやや顔を斜めに傾けて、言葉を続けた。
「・・・ごめんなさい。私宛に来たから、中身読んじゃったの」
「そうですか」
「姉ちゃんには、こんな大事なリング、合わないよぉ。自分でも手紙で
書いてあるジャン。それにさ、そのリングは・・・あなたが最初のコンクールで
成績が良くて先生から貰ったものなんでしょ。だったら・・・」
「いいんですよ。それにこれは貰ったんじゃなくて、預かっていただけ
なんですから。・・・真希さんの方から、返しておいて貰えますか?
一度あげたんだから、ね?」
「でも・・・」
「いいから。お願いしますよ」
彼はそういうと立ち上がり、ワゴントレーの上に載せてあったティー
ポットを取って、真希の前に置かれたカップに並々と注いだ。その時、
居間の時計が大きく鐘を打った、と同時に、寝室からケタタマシイ猫
の鳴き声と思われる機械音が鳴り響いた。
「何の音?」
「しまった。切ってなかったんだ・・・」
彼は慌てて寝室に駆け込んでいった。その様子を可笑しそうに眺めな
がら真希は手紙とリングをバッグにしまう。その時、その奥に仕舞わ
れていた忌々しいもう一枚の封筒が顔を覗かせた。
その封筒を見た瞬間、真希の顔は強張った。そして乱雑にその封筒を
バッグの奥に再び仕舞い込んだ。
「いや、ごめんなさい。タイマーを切ってなかったんで・・・。
そうだ、真希さん入りますか?お土産なんですよ。よかったら・・・」
「いいよ、別に。気にしないで」
真希は何事も無かったかのように彼に言葉を返した。彼はそうした真希
の変化に気付かないように話を止めなかった。
「いやね、朝倉に買って来たんだけど、入らないって、言われましてね。
でも可愛いんですよ。見てください」
彼は急いで寝室に戻ると、手に乗る様な位の大きさの猫の形をした時計を
3個ほど持って来た。
何れも色違いで、しかもその表情が微妙に違っている。真希は、それを手
にとると、喜んで眺めていた。
「アハ、ホントだ、可愛いね。全部表情なんかも違うんだぁ」
「でしょ?やっぱり、分かる人には分かるんですよ。それ全部あげますから・・・」
「全部?そんなにいいよぉ」
「小さいから場所もとらないし、それにこれなら簡単に誰かにあげられるでしょ?
今ケース持ってきますから・・・」
再び彼は寝室に戻り、意外にしっかりとした木製のドールケースの様な
箱を持ってきた。そしてその中に時計を入れて真希の横に置いた。
「ほら。こうすると何か凄そうでしょ?」
「ホントだね。」
「よかったな、お前たち!可愛い女性のトコにいけて!」
相変わらず猫になるとそれが生きていようが、置物であろうが、擬人化
して話し掛ける彼の態度に変わりはなかった。その様子に真希は、少な
からずの喜びを感じていた。
「そういえば、ネコちゃんいないね?」
「・・・ええ。そうなんですよ。風邪を引いっちゃってね。今さっき、
病院に預けてきたんですよ」
「そうなの。大丈夫なの?」
「ええ。医者は大丈夫だと言っているんですがね。まぁ、何か合ったら唯じゃおかないですけど(笑)」
「そんなぁ。でも、直るといいね」
「そうですね。ありがとうございます。」
真希は変わらない彼と、そして彼との会話を楽しんでいた。しかし、心
の奥に淀んでいる漆黒の闇を払いきる事は出来ずにいた。
時間は過ぎていく、真希の心は揺らいでいた。再び一人であの闇の中に
戻るのか、それとも・・・。
しかしその闇を取り除ける人こそ、今、真希の眼の前にいる、彼以外に
ないのも事実であった。
真希は今、彼に全てを預けてしまいたい衝動に駆られていた。しかし今
までは、そうした気持ちを押さえ込む事が自分の生き方でもあった。
変わりたいけど変われない、脆い自分の心を一人抱えて、真希は時が過
ぎさるのをやり過ごす。
大時計が鐘を打つ。彼は応接間で忙しなく電話を掛け、タクシーを呼ん
でいる。真希の気持ちを整えきるには、余りに時間が少なかった。
(どうしよう・・・、でも・・・。会えるのはこれが最後かもしれないのに・・・)
生まれて初めて自分の弱さを見せられるかもしれないのに・・・。真希の心は
千地に乱れていた。
「梨・・・華・・・ちゃ・・・ん」
「イヤッ・・・、ダメよ、よっすぃ〜。キスだけ・・・」
「気持ちよくない?」
「アッッ・・・、でも・・・ダメなの」
トレーナーの上から探る梨華の体は、それだけで吉澤に伝わる程、豊かで
いて、悩ましかった。吉澤は梨華の首筋に舌を這わせながら、その肢体を
さすり続けた。
膝を崩し座り込む梨華の下半身にその手が伸びる。トレーナー越しに梨華
の臀部を優しく愛撫する。梨華は高まる自分の鼓動を必死に抑えながら、
その身をくねらせて、叫んでいた。
「ダメ!・・・よっすぃ〜、もうやめようね。もう、ダメだよぉ」
「梨華ちゃん。私の事嫌い?」
「ウウン。そんな事ないよぉ。でも、そういうのと違うの。だから・・・アッ!」
言葉で吉澤の行為を拒絶する梨華。しかし吉澤の掌がジャージ越しとは
いえ、梨華の秘めた部分の上に置かれている。吉澤が厭らしくそこをさ
すり続けると、梨華の口からは、喘ぎ声しか伝わらなくなっていた。
「アッアッ・・・。よっすぃ〜、・・・アン」
「脱がしてあげる」
吉澤はいきなり立ち上がると梨華のトレーナーを一気に脱がし、その
まま部屋の片隅に放り投げた。
「よっすぃ〜止めて!・・・ダメ、見ないで。・・・恥かしい」
「そんな事ないよぉ。梨華ちゃん、キレイ・・・」
吉澤は、天井にぶら下がる電燈のスイッチを数回引っ張り、豆電球だけ
を燈した。
部屋の中は、暗闇に薄オレンジ色が混ざり、視界を曇らせる。梨華の眼
には、自分の前で立ちすくみ、着ているカッターシャツのボタンをユッ
クリと外している吉澤の姿をどうにか捉えていた。
吉澤は、全てボタンを外し終わると、そのシャツを梨華のジャージ同様、
部屋の片隅に放り投げた。肩紐の無い白いブラジャーが梨華の眼を射抜
く。
梨華は必死に自らの両手で自分の乳房を隠していた。しかし吉澤の眼に
は、薄紅色のブラジャーの下で激しく息づいている梨華の豊満な乳房を
しっかりと捕らえていた。
< 以下、描写が詳細な為、自粛/第9章 後編の後半に続く >
244 :
名無し娘。:2001/06/27(水) 03:43 ID:9V16mn9A
保全
「梨華ちゃん、もう忘れられたよね?」
「ウン・・・。もう全部忘れたもん・・・。何も知らない。何も聞かなかったの・・・」
「そうだね、私もみんな、忘れたからね。」
「ねぇ、よっすぃ〜。もう少し、こうしていてもいい?」
「勿論だよ、梨華ちゃんがいいと思うまでね」
「よっすぃ〜。・・・今日は私の事、さっきみたいに梨華って呼んで。お願い・・・」
「わかったよぉ。・・・梨華、いつまでこうしていて、いいよ」
「ウン、ひとみちゃん・・・」
互いに傷を舐め合う二人の饗宴は、朝日が昇るまで続く。街が漸く目
覚め起き始めた時、全裸の少女二人は、互いを抱き合いながら、湿り
きった床の上でスヤスヤと眠りに落ちた。
<ここまでが自粛部分/以降 9章 後半へと続く。*この部分は、最終的には補完の予定アリ。>
「今日はすいませんでしたね。こんな遅くまで」
「ウウン。」
二人は少し大きな通り沿いでタクシーが来るのを待っていた。3ヶ月
前に初て会って以来、彼は真希のいろいろな顔を見てきている。
今、彼の横で口数少なく俯きながら、時を過ごしている彼女を見れば
何かを感じぜずにはいられないは明らかだった。
それに先程、部屋の中で少しだけ横目に入った真希の乱雑な素振りも
彼の心に引っかかっていた。彼は、動揺を鎮めながら何気なく真希の
真意を探ってみた。
「そういえば・・・、真希さん、朝方に来ましたか?」
「えっ?ウウン、いってないよぉ。どうして?」
「いや・・・なんでもないですよ。」
(あれ?真希さんじゃなかったのか・・・。じゃあ、誰だろう?)
彼は真希の答えに拍子抜けし、やや気勢を削がれたが、気持ちの体
勢を立て直して、質問を続けてみる事にした。
「・・・真希さん、最近はどうですか?」
「どうですかって?」
「体調の方なんかは?」
「ウン。もう大丈夫だよぉ」
「そうですか・・・。それじゃあ、心の方は、どうですか?だいぶ楽に
なりましたか?」
「・・・」
真希は言葉を返さなかった。質問が核心をついたからであろう。その
場には、やや気まずい空気が流れたが、それは承知の上で話をしたの
だ。彼は、そうした空気を引き裂くような鋭い言葉を投げ掛けた。
「今日は本当に、あのリングを届けに来ただけだったのかな?」
「・・・」
「何か、他に理由があったような気が・・・」
「・・・ないわ。何も。関係ない!」
断言だった。それは、短いセンテンスに凝縮された真希の強い意志を
感じさせる言葉であった。真希の横顔には、全てを決している気持ち
が滲み出ていた。
(そうだな。もういいんだね。それに俺には、もうこれ以上の時間はないのだから・・・)
彼は、その決意を汲み取り、これ以上探るのを止め彼女の意思に従っ
た。すると闇の中から、拡散された光の集合体が近づいてきた。どう
やら待っていたタクシーが来たようだ。彼は、持っていた時計の入っ
た木製のケースを改めて真希に手渡した。
「これ、どうぞ。」
「ウン・・・」
彼は、真希に最後の言葉を言葉を掛けた。それは、永遠の別れを告げ
る最後の挨拶だった。
「そういえば、私も仕事の関係で、近い内にここを離れる事になりましてね。
ですから、真希さんとお会いするのもこれが最後になるかな・・・」
「・・・」
「今までありがとうございました。それじゃぁ、さようなら」
「・・・」
彼は、握手を求め右手を差し出したが、真希はそれに目もくれず、漫
然と道路を眺めていた。彼は、ひとつ軽く息を整えると差し出した手
を引っ込めた。
するとその手を上げて、大きく振る。近づきくる光に向い、自分たち
の存在を確認させた。
次第に光は大きくなり、舗道に佇む二人の姿を照らし出す。車のヘッ
ドライトであるのが目視で捉えられる距離まで近づいてきた。その車
の運転手が漸くと彼ら二人を確認したらしく、寸前でハザードランプ
が点けて、キキッという音を立てて急停止した。
するとタクシーの後部座席のドアが何も言わずに静かに開いた。彼は、
車内を覗き込んで運転手に行き先を告げると、ポケットから財布を取
り出しお金を手渡した。
「これで足りるかな?」
「いやいや・・・。十分ですわ」
「そう?おつりはいいから・・・。その替り無事に届けてよ。大切な人なんだ」
「ハイ。もちろんで」
彼は、やや関西風の訛を持つその運転手の肩を軽く叩き謝意を述べる
と、体を起こして後ろを振り返った。
しかし未だ真希は、舗道の端っこで時計の入ったケースを抱えたまま
立ち尽くしていた。彼は即するように真希を手招いた。
「真希さん。どうぞ。行き先も告げてありますから」
「・・・」
「どうしました?そんなにケース重かったかなぁ?・・・荷物持ちましょうか?」
彼は真希のもとに近づくと、先ほど渡したケースを持ち直そうとした。
すると真希が懸命に力を込めて、それを持たさせない。彼は、怪訝な
顔つきで真希の顔を見つめ直したが、その表情に大きな変化は見られ
なかった。
(さっきの余計な質問で怒らせてしまったかな・・・最後の最後で俺は何をやっているんだ・・・)
彼は、やや後悔の念を強くして、その場から少し遠ざかり、真希とタ
クシーから距離をとり、後退りをするような感じで、少し歩き始めた。
そして曲がり角の手前で立ち止まると、少し大きな声で真希に話し掛
けた。
「それじゃあ・・・、先に帰ります。お気をつけて!さようなら」
「・・・」
彼は、そう言葉を残し、少し沈んだ気持ちのまま家路に着こうと体を
反転させた。その時、彼の背後から、真希のうめく様な声が聞こえて
きた。
「いつも、さよなら、さよならって・・・。そんなにわたしと別れるのが楽しいのぉ?」
「・・・」
「助けてよ・・・お願い・・・。あなたしか、いないんだから・・・」
「・・・真希さん」
彼は真希の告白を聞くや否や踵を返し、急いで真希の元に駆け寄った。
そして正面に立ち、真っ直ぐと真希の目を見つめた。真希は、少しだ
け瞳を潤ませながら、ポツリポツリと言葉を漏らした。
「助けて・・・。もう、いやなの、こういうことの繰り返しは・・・」
「何がですか、真希さん?」
「また、どうでもよくなって来ちゃった・・・。」
「どうしたの?」
「これよ。ホントバカみたいなんだけどね」
真希は抱えていたバッグの中から、先程奥まで押し込めた封筒を取り
出すと彼に手渡した。するとその中からポラロイドカメラで撮られた
と思われる安っぽいスナップ写真がハラリと落ちた。
彼はそれを拾い上げてその写真を見た。その刹那、今までの落ち着い
ていた彼の顔色が一瞬にして変わり、冷徹な厳しさを見せ始めた。
「・・・あいつかい?」
「・・・」
「いつ?」
「・・・昨日。ポストに入ってたの」
「それで・・・」
「電話があって、雑誌に売ってもいいのか、だって」
「・・・何か言ってきたの?」
「ウン。何かお金みたい?・・・よくわかんないけど」
「・・・真希さん」
「でもね、あの人は、わたしに会いたい、ていうかやりたいだけなんじゃないの」
彼は、あの日の事を思い出していた。ここの庭で真希の姉と一緒に全
てを燃やし尽した筈だったのに・・・。どこで見落としたのか・・・。
彼は、自分の行動の落ち度を自覚し、悔恨のほぞを噛みしめていた。
「別にいいんだぁ、あいつとやるのわね。それに別にお金あげんのも、
どうってことないし・・・」
「・・・」
「でもね、雑誌に売られるとか、実家に送りつけるとか言うのは・・・。わたしだけで
いいジャン。何であのバカは、みんなに迷惑をかけちゃう様なコトすんのかなぁ・・・」
「すいませんでした。あの時、全部片付けたと思っていたんだが・・・。」
「いいの。悪いのはあのバカとそれを好きになった私だし・・・」
彼は掛けるべき言葉を懸命に探していたが、ナカナカ見つからなかっ
た。それ程に、先程の写真が彼に与えたインパクトは強烈であった。
彼は暫く立ち尽くしていたが、漸く息を整えきると、タクシーに向い
運転手へ一言、二言言葉を掛け戻ってきた。するとタクシーは静かに
走り出し、再び闇の中にその姿を消し去った。
「後でもう一回きてくれ、て頼みましたから。少し話しましょうか?
・・・そこのベンチでいいですか?」
「・・・ウン」
曲がり角の少し先にある古びたバス停の停留所に置かれた、木製の壊
れかけのベンチに二人は腰を下ろした。彼は写真を真希に返すと、荷
物となった時計を入れたケースを自分で持ち直した。
「それで・・・、どうしたいですか?」
「えっ?どうしたいって・・・」
「多分、また体を許せば、それを餌にしてまた要求は増すばかりですよ」
「・・・」
「話し合っても、分かり合えない時、どうするか・・・」
彼は独り言を呟く様に言葉をその場に投げ出した。そして立ち上がる
と、背伸びをして大きく深呼吸をした。そして体を真希の方に正対さ
せた。
「真希さん。私に時間をくれませんか?」
「いいのよ。別に・・・。何かしてくれ、いう話じゃないの。話を聞いてくれただけで
良かったんだから。」
「助けて、という言葉は?」
「あれは少しオーバーだったよぉ。そこまでの事じゃないから。また、あいつと
セックスするだけの事だもん。」
「それは真希さんの人生だから、私がとやかく言う気はないです。でもね・・・」
彼は一度そこで言葉を区切ると、少しだけ真希に近づいて囁く様に呟
いた。
「私も少しだけ、あなたの大事な人生の選択に関った責任がある。
あなたの為に、そして私の為に、ケリをつけなきゃいけない事です。
だから私に時間を下さい、少しだけでいいから・・・お願いします。」
「・・・でも」
「お願いします」
彼は、真希の瞳を見つめたまま、離さなかった。真希も同様に彼の瞳
を見つめたまま離さない。彼は、何かをいいかけたが、寸での所で思
いとどまった。
この間、真希と会った時、最後の別れの時に胸に襲ってきたあの感覚
が再び彼の胸を締め付ける。しかし彼はそうした気持ちをどうにか押
し止め、再び真希に話し掛けた。
「別に私が何をする訳じゃないですよ」
「・・・」
「ただ、これ以上、真希さんには迷惑はかけさせませんから」
「そんな事出来るのぉ」
「大丈夫ですよ。今までだって、真希さんの願いは、叶えてきたじゃないですか」
「でも無理しないでよぉ。大した事じゃないんだから・・・。それに・・・」
と言いかけて、真希は少し言い淀んだ。最近、身の回りで起き続
けた、不可思議な事故の話が頭をよぎる。もしかして・・・という気
持ちを閉じ込めて、真希は笑顔で話し掛けた。
「でも、いいの。あなたにはこれ以上、迷惑はかけ・・・」
「迷惑じゃない。全然迷惑なんかじゃない。大丈夫です」
彼にしては珍しく、声を大きくして真希に対して断言的な口調で
語りかける。真希は、少しだけ彼との間隔を詰めて、続く言葉を
待った。
「真希さん。私はあなたといて迷惑だ、何て思った事は一度もないですよ
今度も同じです。それに、もうあの男の子に言いように振り回されるのは、
止めましょうよ。もういい加減、いいでしょう?」
「ウン・・・そうだけど・・・」
「だったら、それでいいんです。」
彼は、再びいつも通りの優しい語り口で真希に話し掛けた。
そして真希の肩に手を掛けて頷いて見せた。真希も同様に
頷くとその手の上に自分の手を重ねた。
静かで穏やかな時が過ぎる。それは思いを決めた二人の間
にしか流れない濃やかな時の積み重ねであった。
いつの間にか通りの向こうには、先程のタクシーがハザードを出して
止まっている。彼は真希の手を取り立たせると、そこまで連れ添って
歩いた。
つながれた二人の掌は、どちらともなく知らぬ間に指と指とを絡ませ
て、きつく、きつく握られていた。真希は少しだけ彼に腕にしなだれ
て寄り添った。
交わされる言葉はないが、彼の心に真希の気持ちが痛いほど通じてい
た。彼はそれを確認するかのように、強く強く、真希の手を握り返し
ていた。
「心配しないで下さいね。」
「無理しないでね・・・。あんまり」
「大丈夫ですよ。無茶はしないですから」
「それならいいんだけど・・・。でも」
「大丈夫です。ご迷惑はかけませんから」
「・・・ホントに、今日はありがとね。」
「いえ、こちらこそ。・・・そうだな、確かにさよならは、未だ早かったですね。
・・・いい話を持って、近い内に必ず伺いますから。待っていて下さいね。」
「ウン、待ってるよ。ずっと、ずっと待っているから・・・」
微かにエンジン音を上げて、真希を乗せたタクシーは、静かに動き始めた。
その時、後部座席のウインドウが慌しく開けられると、真希が顔を出した。
彼は少し歩きながら、車に近づきつつ声を掛けた。
「どうしました?」
「忘れ物だよぉ」
一旦動き出した車が静かに止まる。彼は長い背を丸めて、車内を覗き
込むように身を屈めた。すると真希は、窓から身を乗り出して、彼の
顔の前に自分の顔を突き出した。
「何かほかに荷物ありましたか?」
「ウウン。そうじゃないの」
そういうと真希は眼を閉じて、自分の唇を彼の唇に静かに重ねた。彼
は驚きのあまり、微動だに出来ず、そのままの体勢で固まってしまっ
ていた。
「お礼だよぉ。私なんかのキスでゴメンネ。でもこれ位しか、ないんだもん」
「・・・」
「じゃあね!」
「・・・」
彼の驚きを残したまま、止まっていたタクシーが再び動き出した。真
希は、目一杯の笑顔を見せ、窓枠にぶつかりそうな位大きく手を振っ
て、別れを惜しんでいた。
彼は、呆然と立ち尽くしていたが、ハッとしてその様子に気が付くと
真希に合わせて、手を振った。そしてその姿が見えなくなるまで見送
っていた。
暫く遠くを眺めたままであった彼が、漸くと歩き出す。しかし帰路へ
向うべき曲がり角を曲がらず、そのまま前方を突き進んだ。そして真
っ暗に覆われた針葉樹の森の中にある遊歩道を抜ける。
すると眼の前には、漆黒の闇に覆われた海原が眼下に広がっていた。
激しく叩きつけられる波の音だけが、遠くから絶え間なく聞こえてく
る。その大きな波の波頭の白さだけが月明かりに照らされ、不気味に
光っていた。
彼は、誰もいない砂浜に腰をおろし、そして大の字で寝転んだ。夜空
は黒く覆われ、星屑の欠片さえも見れない。ただ、月の光だけが妖し
く夜空を、そしてこの砂浜を照らし出していた。
彼は自分に残された時間が少ない事を分かっていた。刻々と"許され
た日々"が過ぎていく中で、初めてその時間の短さを呪った。
しかしそれは、彼が再び生きる事への執着を感じていた事に他ならな
かった。
彼の頬に雫が伝う。母の死、そして妹の死・・・、あの時以来、失って
いた"心の痛さ"への感覚が全身を貫いていた。
「死にたくないよ・・・。神様、もう少しだけ、時間をくれないか・・・」
彼は流れる涙を抑えることなく、夜の砂浜で泣き尽くしていた。そし
てそのまま、波の音に包まれながら、そっと静かに目を閉じた。
いつかくる朝の為に・・・。
<第9章 了>