第9章 前編
これまでの歳月の為に、そして喜びと涙の為に。君よ、一緒に歌ってくれないか・・・
― エアロスミス ―
「いいから…」
「本当にいいのかな…」
「私としたくないの?」
「そりゃあ・・・、したいさ!」
少年は、がむしゃらにその華奢でありながら艶めかしい美しい肢体を弄った。
彼女はされるがまま、ワンピースを乱暴に脱がされ、ベッドに押し倒された。
はちきれんばかりの欲望を剥き出しにして、少年は彼女の短く切り揃えられ
たばかりの髪の毛を獰猛に掻き毟り彼女の全身を手繰り始めた。
「あああ・・・、いいよ・・・、」
「・・・、もっと、いいよぉ!好きなようにしていいから・・・」
彼女の叫びに敏感に反応した少年は、自ら着ていたシャツを脱ぎ去り、そして
彼女のブラジャーをも剥ぎ取った。
小振りながら弾むような柔らかさを保つその乳房にムシャブリツク。早くもツ
ンと勃っている乳首を指でつまみながら、舌腹で貪り付いていた。
「ア・・・、ウン・・・」
「ひとみ・・・、ひとみ・・・」
少年は呪文のように彼女の名前を呟きながら、彼女の体に食らい付いていた。
吉澤は、視点の定まらない眼差しを宙に浮かせながら、今自分の体を犯してい
る男とは違う、他の誰かを頭の中に思い浮かべていた。
「アンッ!」
「いいかい、ひとみちゃん?ほら、ここはどう?」
「ンンンッ!アアアッ!」
吉澤はその想いとは裏腹に、体だけは少年の行為に反応していた。いつの間に
か全裸にされた吉澤の体を脚の先から舐め回す。彼女は、やるせない顔で天井
を眺めていた。
次第に獰猛に、貪欲になる少年の愛撫の感覚が、意識から鈍く遠ざかっていく。
「あっ、あっ、どうだ・・・」
「アン、アッ!・・・ウン、ウン、ウン・・・」
吉澤の体は、少年の稚拙なだけの激しく行為に犯されていた。体の芯に彼のペ
ニスが到達し、むやみに突くだけの虚しい時間が過ぎていく。
吉澤は身も心も壊されていく・・・。後は、自分勝手な欲望の放出をただ待つだけ
だった。
その時、吉澤の瞳からこぼれ落ちた美しい雫が赤く染まる頬を伝った。しかし、
少年はそうした吉澤の気持ちを置き去りにしたまま、ただただ彼女の身体を貪
っていた。そのあまりの稚拙な激しさに吉澤の凛とした端正な顔が歪んだ。
「イヤッ!イタイ・・・」
「ハァハァ・・・、いいぞ、あっ・・・。ひとみ、どうだいいだろ・・・」
少年は喘ぎながら自分だけの快楽に浸りきっていた。吉澤はあまりの激しさに
耐えかね、思わず自分の指を噛んだ。
すると一筋の鮮血が腕を伝い、激しく揺れる乳房に垂れた。それを見た少年は、
さらに興奮を増し、乳房に落ちた血を舐め、そしてそのまま乳首を頬張った。
「ヤメテッ、・・・。もう・・・。」
「あっ!出るよ、出るよ・・・。出すからね・・・」
「イヤッ!イヤ・・・」
「いいじゃん・・・、あっ!出る!」
「ダメ!、イヤッ!!」
吉澤は渾身の力を振り絞り、腰を浮かせながら脂ぎっていた少年の身体振り払
った。漸く二人の身体が離れた刹那、大量の白濁色の液体が、彼の先から弾け
て、こぼれ出た。
その様子を眺めながら吉澤は、呆然とベッドの下にうつ伏してその場で泣き崩
れていた。ベッド上では欲望の放出を漸く終えた少年が、息を乱しながら、ま
るで痴呆の老人の如く腰を抜かした様に座り呆けていた。
「私には、やっぱ出来ないよ・・・、」
吉澤は嗚咽の中で、愛する人に語りかけていた。夜が明ける前に、急がなくち
ゃ・・・。
吉澤は、全裸のまま立ち上がると、窓際に歩み寄り、窓の外を眺めた。高層ビ
ルの隙間から輝く朝日が眠りから覚めつつある町並みを静かに照らしていた。
きっとこの街のどこかにいる筈の愛する人へ向け、吉澤は心の中で叫んでいた。
「会いたいよぉ・・・。」
暦の上では秋を告げたと言うのに、まだ暑苦しい夜が続いていた。明日も、明
後日も・・・。まだこの苦しさは続くのだろうか・・・。吉澤は一人、自分に問い掛
けていた。
「何だよ・・・これ?、土産って・・・」
「文句があるなら返せよ。」
「いやいや。でも・・・こんなの貰ってもねぇ」
テーブルの上には、猫の形をした時計が大小様々に並べられていた。それぞれ
がぜんまい仕掛けになっており、時が丁度を告げる度に、リングの代わりに猫
の鳴き声が騒がしく鳴り響いた。
「おいおいっ、勘弁してくれよ。時報の度にこんなんじゃ堪らんよ。」
「まぁ、まぁそう言わずにさ。可愛がってよ、あれだろ、タイマー切れば大丈
夫だろ。貸してみてよ・・・。これかな・・・、あれ?どうなってんのかな・・・」
「もういいよ。一個だけ置いて、後は引き取ってくれ。」
「何だよ、野良猫捨てるみたいに言って。悲しいなぁ・・・」
彼は不服そうに頬を膨らませると、シブシブと言った感じで、並ばれた時計を
片付け始めた。
朝倉はヤレヤレという表情を見せながら、部屋の奥にある台所に姿を消した。
「おいっ!何色の猫がいい?」
「何でもいいよ!鳴かないんなら」
「そうぉ?じゃ、黄色にするかな?」
「いやいや、黄色はイヤだ。他のにしてくれ!」
「何だよ、希望があるなら言えよ・・・。じゃあ、青はどうだ」
「青?。ああ、それでいいわ・・・」
彼は久し振りに朝倉のジムに来ていた。かれこれ半年振りになるだろうか?古
びた、いや錆び切った室内の様子に変化は無く、今にも切れ落ちそうなサンド
バッグが所狭しと吊るされている。リング自体も相当の年季モノであり、そこ
でスパーリングでもすれば、忽ち部屋中に埃とミシミシという残響が覆い尽く
られるのが目に浮かんでくるようだった。
彼は昔を思い出し、ユックリとサンドバッグにパンチを放った。鈍い音が部屋
中に響き渡る。
彼はその拳に、かつでは感じ得なかった鈍痛を味わった。曇り切った一面張の
ガラスの向こうには、これから夕食の支度に忙しない主婦らの姿が散在してい
る。曖昧な季節の夕暮れが今、過ぎていた。
「ホイ。まぁ飲めや。」
「何だよ、昼間から酒か?」
「違うさ。根性ジュースだ」
「何、それ?」
「いいから、飲んでみろ。意外に美味いんだ」
「そうかな。とても美味そうには、見えないがな・・・」
「騙されたと思って飲んでみろ。うちの練習生なんか1日3杯飲むのが日課だ
からな」
彼はおそるおそるグラスに口をつけると、小首をかしげつつ、そのまま勢いよ
く飲み込んだ。段々と顰めた顔になる彼の顔を見て朝倉は高く笑った。
「どうだい!美味いだろ」
「・・・完全に騙された。飲めるか、こんなの」
「だから根性ジュース。これ飲んで根性つけるんだよ」
「そんなんで、ボクシング勝てるんだった苦労しねえよ。」
「当たり前だ。だから苦労してるんだよ(笑)」
ひとしきりの団欒が終わると、二人の男は緩んだロープにもたれかかり、リン
グ上で佇んでいた。
朝倉は相変わらず煙草の火を絶やすことなく、煙を吐き続けていた。彼は漫然
とウインドウ外の行き交う人々を眺めていた。
「・・・それにしても、海外に行っていたなんて、知らなかったな」
朝倉がポツリと呟いた。クーラーの調子が悪いのか、外の冷めやらぬ熱気が部
屋中の冷気を押し出していた。彼は頷きながら、遠い眼をしたまま、答えを探
していた。
「・・・小杉先生の生徒がローザンヌでコンクールに出てね。その応援だよ」
「そうなのか。・・・教室での仕事、本決まりになったのか?漸く堅気の仕事につ
いたのは良かった。」
「いや、そうじゃないさ。単なる応援だよ。それに会いたかった人もいたしね」
「ああ。あの子の姉さんか?」
「うん。元気そうにしていたよ。」
朝倉はややハスに構えながら更に質問を続けた。
「・・・お前、彼女に何かあるのかい?」
「いや、そうじゃないさ。何となく気になってね。それに妹の事を報告したか
ったし」
「そうか。そうならいいが・・・。ところで、ローザンヌて、何処にあるんだ?
ガキの頃から地理が苦手なんでさ・・・。」
「ヨーロッパのど真ん中、まぁイタリアの傍だな。ジュネーブとかあの辺だよ。」
「そうか・・・。と、いうと国で言えば、スイスかい?」
「ああ。よく知っているじゃないか?」
朝倉は、逡巡していた気持ちを押さえ込み、いよいよ用意していた確信の問い
を放った。
「まあね。そういえばお前が出かけている間に、そこいらで事故があったんだよ。
知らなかったか?」
「いや・・・。そうかい。どんな事故だい?」
一切眼を合わせずに会話を続ける彼に対し、朝倉は言葉を投げ続けた。
「日本人が乗っていたチャーター機が、山の中で吹き飛んだらしいよ・・・」
「そんな事があったのかい。あっちじゃ、あんまりニュースは見ていなかったからな。」
彼の返事を上手く流しながら、朝倉は核心をつく言葉を続けた。
「乗っていた人間、誰だと思う?」
「・・・死人には興味無いね」
彼の返事には冷酷な意思を感じさせた。朝倉は彼を見遣る。そしてうめく様に
呟いた。
「この間の公園、屋形船、タンクローリー、そしてチャーター機・・・。みんな
消えた訳だ・・・」
「何度でも言うが、死んでいった人間に興味は無いよ」
「そうかい。実は俺の知り合いに奴等に身内を殺された奴がいてね。そいつが
復讐の為に、やったんじゃないかな、て思ったんだがね・・・。」
「・・・」
朝倉はここで言葉を区切り、大きく息を吐いた。そしてリング上に腰をかけ、
とっくに灰が落ちきってしまっていた煙草を投げ捨てると、新たな一本に火を
つけ、話を続けた。
「一つ疑問があるんだよ。公園で木っ端微塵に吹き飛んだ男、あいつは何でかなってね?
あいつだけは、その男の身内が殺された時は、まだアメリカから帰ってきてなかったんだ。
奴等に限りなく近い人間だが、関係は無かった。何んでだろうな?」
「・・・」
「どうしてなのかな・・・。俺の心当たりにある奴は、無駄な殺生をする男じゃない筈なんだ。
それなのに・・・、いや、違うんだよ。まず最初に吹き飛んだのはそいつだったんだからな・・・。
最初に奴からだったというのがね・・・」
絶え間なく問い掛ける朝倉に対し、彼は返事をする替りにその横に座ると、彼
の手から煙草箱を取り出した。
そしてそれから一本取り出すと徐に口に咥えた。朝倉は、黙ってその煙草に錆
びたジッポのライターで火をつけた。
「まずいね・・・。久し振りに吸うと。」
「何故、俺に頼まなかった?何で、一人で片付けた?俺が反対するとでも思ったか?」
朝倉の言葉は遂に直情に走った。熱い眼差しで彼を見つめる。しかし熱気を帯
びる朝倉に反し、彼の言動は終始静かで穏やかさを保っていた。漸く彼が話を
始めた。しかしその口振りは、まるで他人事のように冷静さを保ち続けていた。
「さっきから、どうして、とか何でとか、疑問ばっかりだな。お前が何の話しをしているのか、
俺には判らないよ。」
「いいだろ、もう。終わったんだから。全て話してくれてもいいんじゃないのか・・・」
「朝倉。俺はお前に何も話すことなんて無い。」
彼は断言すると煙草を燻らせながら立ち上がった。そしてリングのコーナーサイ
ドにある丸椅子に腰掛けると、対角線のコーナーを見遣った。
「懐かしいね。血が騒ぐよ」
「・・・一人で全部抱え込むな。誰も褒めてはくれないぞ。」
彼は朝倉の言葉を飲んだ。そして俯きリングのマットを眺めた。そこは汗で汚れ
たシミや飛び散った血の跡など、このジムで積み重なった歴史が刻み込まれてい
た。彼は、軽く呼吸を整えると、朝倉を見て語り始めた。
「・・・お前、1・2週間前に会った後藤さんと同じグループにいる女の子、覚えているか?」
「確か・・・吉澤さんとかいったけ、あの子かい?」
「いや、その子の事じゃない。神楽坂の教室で俺を訪ねに来た子だよ。」
「・・・!ああ、覚えているよ。かすみちゃんにそっくりな子だろ?」
「彼女の家の傍なんだよ。あの爆破のあった公園はね。」
「それが?」
「お前の疑問が、何なのかは知らないが、俺が知っている答えもあるな・・・。
あの公園で死んだ男達は、生きている価値の無い、屑のような人間だ、て事さ」
「・・・」
朝倉にとって彼の告白は、少しの驚きとやるせなさを、感じさせずにはいられ
なかった。辛く哀しい告白は、なおも続いた。
「自分の欲望の為に、何の罪の無い子を傷つけて、辱める様な、最低の人間だ。
この世に神様なんていないのは身に染みて分かっている。生き死にの順番が不
平等だって事もよく知っている。
彼は、ここで1回言葉を区切った。そして最後に言葉を吐き捨てた。
「・・・だが、あんな男たちが、のうのうと生き晒す様を見るのはゴメンだ。」
「・・・お前。」
「少なくても、生きている内にああいう男の死に目を見られて、俺は幸せだね・・・。
良かったよ、自分の命が間に合ってね・・・。」
「・・・」
「朝倉よ・・・。お前がいつか言っていた、恨む相手が消え去っても、結局は何も
鎮まらないという話は、本当だったな。・・・結局復讐なんてのは、自己満足でし
か無いんだな・・・。結局は何も変わらない。虚しさだけが残るんだ・・・」
「そうかい・・・。」
朝倉は冷徹に刻まれた彼の独白を黙って聞くより他に道は無かった。暮れなず
む街並みを行き交う人の群れがジムの前に淀み始めていた。
「でも、そうじゃない気持ちがあるって事も良く分かったよ。俺は今、少しだ
け幸せなんだ。・・・悲しい顔を見ないで済む、ていう、安心した気持ちが残って
いるんだ。」
「・・・」
「あの子の悲しい顔だけは、見ないで済む。それだけで俺はもういいんだよ。
かすみの事も、俺の事も、もういいんだ、終わったんだよ・・・。」
「・・・」
「だから、俺はもう帰るよ。・・・」
「どこにさ。そんな場所あるのかよ。・・・それより、お前、死ぬ何て言うなよな。
それは俺が許さんぞ。」
「・・・お前が許してくれなくても、もう神様は許してくれているよ」
ジムの裏にある自動販売機では、ロードワークを終えた練習生二人が喉を潤し
ていた。するとその一人が、裏口にあるベンチで膝を抱えて蹲る少女の姿を捉
えた。
薄いピンク色の麦わら帽子と白のワンピースが彼の眼を射抜く。小汚いジムの
外見に全く不釣合いなその端麗な容姿は、その場で際立っていた。
「ん?何か用ッスカ?」
「・・・なんでもありません!」
少女は、突然の練習生の呼びかけに驚き、飛び上がるような仕草を見せると、
少し潤んだ甲高い声色を残しその場を立ち去った。
「・・・どっかで見たことある顔なんだよな〜」
「そう?」
「帽子被ってたんでよく顔見えなかったんだけど、雰囲気がね・・・」
「誰だろうな?」
「誰だっけなぁ・・・」
細長く曲りくねる、如何にも下町らしいその裏道を少女は、懸命に駆け出して
いた。人込みの中、激しくその波に飛び込んで、掻き分け、懸命に走っていた。
(やっぱり、あの人が・・・助けてくれたんだ・・・。でも、でも・・・)
少女の眼から流れる涙は、喜びのものでもあり、そして悲しみ、悔恨の涙でも
あった。台風が過ぎたというのに、未だ残る夏の残像の暑さだけが、街の中を
支配していた。そして一人走る少女の姿がそのまま沈み行く夕陽の中に溶けて
いった。
「どうしたの梨華ちゃん?」
「ううん。なんでもないよぉ」
吉澤の前で懸命に台詞を読んでいる梨華の姿は、誰の眼で見ても明らかな位、
憔悴感が漂っていた。
台詞の読み方が余り上手くない梨華は、その事を心配した吉澤を相手にして、
グループ自体に"卒業"を記念して撮られる今度の映画の台本を何度も何度も
読み返していた。
梨華と吉澤は、久し振りに二人きりの時間を過ごしていた。テレビ番組の収
録の帰り道、引っ越したばかりだという梨華の新居に吉澤は立ち寄っていた。
梨華は、最近覚えたという手作りのクッキーと吉澤が大好きなベーグルを用
意して迎えていた。
「梨華ちゃん、もう止めようよ。疲れているみたいだし」
「ううん。よっすぃ〜、大丈夫だよ。もう1回本読みしよう」
「・・・ダメ、梨華ちゃん。今日はここまでだよ」
吉澤はそう言うと自分の台本を閉じ、そしてその勢いで梨華の台本も閉じだ。
そして、ひときわ大きな声で語りかけた。
「ホラ、梨華ちゃん食べよ!クッキー焼いてくれたんでしょ?」
「ウン・・・」
「オイシィ!梨華ちゃん上手だね!いつ覚えたのぉ〜」
「ウン・・・」
梨華はせっかくの吉澤の優しさに応えられなかった。俯きながら眼を合わせる
事無く、自分の焼いたクッキーを一つ摘んだ。吉澤は悲しげに梨華を見つめる
とテーブルの上に置いてあるティーポットを空のカップに注いだ。
「梨華ちゃん、砂糖は?」
「ウン。ありがとう・・・」
「・・・」
吉澤は、的を得ない梨華の返事に少し窮した。そして何かを決した様に立ち上
がると、徐に梨華の正面に座り直し、両手を梨華の肩に置いた。
「梨華ちゃん、話して。何かあるなら」
「・・・」
「黙っているんじゃ分らないよぉ。梨華ちゃん、はなし・・・」
「よっすぃ〜、どうしたらいいのかな・・・私」
梨華は堰を切ったように泣き崩れ、吉澤の身体に倒れ掛かった。吉澤は一瞬だ
け梨華の重さによろめいたが、しっかりとその身体を抱き抱えた。
「どうしたの、梨華ちゃん?」
「わたし、私のせいで・・・、どうしよう・・・」
吉澤には、訳もわからず泣き崩れている梨華を、ただただ抱き締めて慰めるよ
り他になかった。吉澤は梨華の髪の毛を手で梳くと、そのまま梨華の顔を優し
く撫でた。
「梨華ちゃん。良かったら私に話して・・・。」
「でも・・・」
「いいから。何でも聞いてあげるから、ね?」
「ウン」
「梨華ちゃん私に甘えてみて。構わないから・・・」
梨華は吉澤の胸に埋めていた顔を漸くと上げて、潤んだ瞳で吉澤の顔を見つめ
た。そしてまるで子猫が親猫に甘えるような甘えた仕草で吉澤の身体に纏わり
ついた。
「いいの?よっすぃ〜」
「いいよ、話してみて」
「ウン。でも、どこから話せばいいんだろう」
「梨華ちゃんの話したい順番でいいんだよ。夜は長いんだから・・・」
梨華は思い切り吉澤にその身を投げて寄り掛かっていた。吉澤はそうした梨華
の身体を優しく撫でながらまるで昔話を子供に聞かせるような母親の様に、優
しく梨華を包んでいた。
「半年前なの・・・。レコーディングの帰り道だったかな・・・」
梨華の哀しくそして辛い告白が始まった。吉澤は、その驚くべき話を聞きなが
ら何度も何度も慟哭せずには入られなかったが、なるべく態度には示さぬよう
に細心の注意を払っていた。しかしそれでも、梨華の話は余りにも強烈で、悲
しく、また痛々しいものであった。
「・・・それで、気付いたら私、裸にされていたの・・・。そしたら、その男の人も裸で・・・。ウウッ・・・」
「梨華ちゃん、大丈夫?」
「ウン。少しだけ思い出してしまって・・・。でも、いいの。」
「梨華ちゃん・・・」
たどたどしくも、引き続かれて話される、聞くに堪えない梨華が受けた辱めは、
吉澤の眼に大粒の涙が溜めさせ、それは今にも零れ落ちそうになっていた。吉
澤は梨華の顔を、そして髪の毛を何度も何度も手で梳きながら、一生懸命慰め
ていた。
「でもね、それを最初に許してしまった私がいけなかったの・・・」
「梨華ちゃん、違うよ。そいつが、そいつだけが悪いんだよ。梨華ちゃん全然悪くない!」
「そんな事ないよ・・・。やっぱりわたしが・・・」
「そうじゃない、・・・あの時、私が先に帰ってなかったら・・・ゴメンネ、梨華ちゃん。」
「いいの。だって私じゃなかったら、よっすぃ〜やののとかあいぼんだったかも・・・」
「許せないね。絶対許せない!」
「だってね、あの男、私の前はごっちんも・・・。」
「ホントなの!梨華ちゃん!!」
「ウン・・・。」
梨華の告白を聞く吉澤の心の中には、強烈な憎悪の気持ちが沸々と湧き上がり、
その狂おしいまでの殺意に似た感情が体全体を支配し渦巻いていた。最近、梨
華と真希が何かにつけて一緒の行動が多かった事が思い出される。吉澤は、そ
うした気配に何一つ気付かない自分の感覚の鈍さに腹立たしさを覚えていた。
「梨華ちゃん。それで・・・。もしかしたら、また・・・」
「違うの・・・。違うの・・・」
「どうしたの、何が違うの?」
「・・・、私がいけないいの。だから・・・、」
いつまでもいつまでも、梨華の涙は止め処なく流れていた。しかし涙を枯れ果
てさせた後に待っていた梨華の告白は、吉澤にとって驚愕以外の何物でもなか
った。
「えっ?どういう事なの、梨華ちゃん?・・・あの人が人殺しだなんて」
「ウッウッ・・・わたしの為に・・・あの人を悪い人にしてしまったの・・・私のせいなの」
「よくわかんないよ、梨華ちゃん!もっと上手く説明して」
「わからないのは、私も同じなの!・・・でも・・・でも・・・」
彼女の胸中に流れる複雑な想いを乗せ、時が過ぎていく。梨華の話は途切れ途
切れに続き、その気持ちだけが上滑りし、空しい想いだけが積もっていった。
「大丈夫です?、ねえ、ホントに・・・、あの・・・」
「もう・・・ただの風邪よ。そんなに心配しないで。」
「本当ですか?疑う訳じゃないんだけど、食事もしないし、水だって飲まないし・・・」
「私を信じないのぉ?」
「いや、そういう訳じゃ・・・。でもね・・・」
薬品や金属機器が所狭しと並ぶ一室。白衣の女性が忙しなく動き回る中、彼は
ベッドの上に横たわる愛猫の様子を見守っていた。いつもの様な元気はなく、
シュンとしておとなしく寝ている愛猫に話し掛けていた。
「ゴメンネ、クロ。こんなになるまで放っておいて。ゴメンよ」
「本当だわ。大体、一人暮らしの癖に、海外旅行なんかに行くからいけないのよ!
ちゃんとホテルに預ければ良かったじゃない?」
「そうなんだけど、緊急な用で・・・」
「とにかく入院させるわね。点滴しないと。ねっ?・・・えっとこの子名前なんだっけ?」
「クロだよ」
「あ、そうだった。そのまんまだったわね(笑)はい、クロちゃん、大丈夫ですよぉ〜」
この動物病院の院長でもあり、唯一の医師でもある淺川は、誰もいない待合室
で落ち着きなくうろつく彼の様子を事務室で眺めながら呆れた様に笑っていた。
(猫の事になると、こうなのね・・・。昔から変わらないわね)
10数年来の友人としての関係を振り返っても、彼のこうした戸惑う表情はナ
カナカ見られない。妹の死、そして母の死。その時ですら、いつもの様な冷静
で毅然とした態度で臨んでいた彼の唯一の例外が、飼い猫に関しての事だった。
この猫の親でもある母猫が数年前に死んだ時、彼がこの待合室で人目を憚らず、
声を上げて泣き崩れたのを思い出していた。
「はい、じゃあ、これお釣り。」
「どうも。それじゃあ、お願いしますね。明日も来た方がいいかな?」
「もう・・・。別に来たければ、何時でもいいわよ」
「そう?朝は、何時からやってるんだっけ?」
「11時からだけど・・・。外来もあるんだから、勘弁してよぉ。そんなに前に来ないで。」
彼女は不服そうに異議を唱える。彼もまた不服そうに同意する。他愛のない言
葉のキャッチボールが続いていた。
「分かりましたよ。それじゃあ、昼過ぎにでも・・・」
「何かあったら電話するから・・・」
「何かあったらでは遅いよ。ありそうな前に電話を・・・」
「言葉のあやよ。何もないから安心してっ!」
「分かったから怒るなよ。くれぐれも・・・頼むよ。」
彼はそういうと彼女の方をポンと叩いた。彼女は笑いながら、外まで見送るた
めにスリッパからサンダルに履き替えた。改めて彼の横顔を見る。最近まで良
く見かけていた陰のある笑顔ではなく、昔と何も変わらない、明るい表情でだ
った。
「・・・それにしても、何も変わらないわね、あなたは」
「えっ?何が?」
「ううん。昔と同じだなって」
「そうかな?随分変わった気がするけどね、お互いに」
「失礼だわ(笑)外見は変わったわよ。でも中身は変わんないでしょ、お互いにね」
「・・・そうかな。」
「そうなのよ」
「そうだな。人間って、そうは簡単に変えられるものじゃないよね、確かに」
彼は少し神妙な面持ちで彼女の問いに答えた。彼女は少し口調のトーンを変え
て次の話を始める。少し茶化すような口ぶりで、彼の背中に言葉を投げてみた。
「・・・そういえば、この間、そこの海岸で楽しそうに女の子と遊んでいたんじゃない?だれよぉ?」
「えっ?・・・そんな事あったかな。」
驚いて彼が振り返る。彼女は更にオドケテ問いを続けた。
「ウソ。何で隠すのよぉ。彼女なんでしょ?随分若かったみたいだけど」
「ああ、彼女の事か。あれは、違うよ。仕事関係の人さ」
「仕事?本当に?」
「本当さ。・・・この間までちょっと芸能関係の仕事していたから」
「モーニング娘でしょ?」
「!!」
意外な彼女の答えに彼は困惑した。マジマジと彼女の顔を見つめる。すると
彼女の方は、そうした彼の軽くいなして、先程来と全く変わらぬトーンで話
していた。
「そんなに驚かないでよ。・・・加藤のオバサンに聞いたの」
「そうか・・・。ったく・・・、だから言いたくなかったんだよなぁ」
「アハハ、大丈夫よ。私が無理やり言わせたんだもん。他の人には言ってないって」
「・・・君も頼むよ。それに、もう今はそこで仕事してないんだよ」
「そうなの。ピアノかなんか教えてたの?」
「えっ?・・・うん、まぁ、そんなもんだよ」
少し語尾がよどんだ彼の言葉を流したまま、彼女は茶化したままの口調で言
葉を続けた。
「いいじゃない、教え子と教師。何かありそうじゃない?」
「おいっ!よせよ、そんなんじゃないよ」
「何で、いいじゃない?恋愛は自由でしょ(笑)」
「だから、そういうんじゃないよ。・・・敢えて言えば、飼い主と猫みたいな関係だよ」
「どっちが飼い主なの?」
「向こうだよ。当たり前じゃないか」
「そうかしら。だったら何度も家までくるのよぉ。おかしんじゃない?
オバサン曰く、一人だけじゃないらしいじゃない?」
「加藤のオバヤンめ・・・。ペラペラしゃべりやがって・・・」
「それに今日だって来てたわよ、朝方・・・」
「えっ!今日?」
彼は驚いたと同時に、少し嫌な胸騒ぎを覚えた。しかしその感情を押さえつつ
彼女の言葉を待った。
「ウン・・・、今日も家の前で待ってらしいわよ。オバサンがいってたわ、さっき」
「そう。誰だったのかな・・・」
「何でも、前に会った事ある娘だったらしいわよ。朝倉君の名前出したら
知っていたらしいから」
「そうか。・・・それでその子は、どうしたのかな?」
「何でも、朝倉君のところに行ったみたいだけど・・・。あなた出かける前にオバサンに
言ってたんでしょ。何かあったら朝倉君に、て・・・」
「でも・・・それじゃ、どこかですれ違ったのかな・・・。まぁいいや・・・。
それよりもオバハン、そういうどうでもいい事は、チャッカリ見ているくせに、
クロの事を忘れてもらっちゃ困るんだよね。出先から電話までしたのに、全く・・・」
「しょうがないでしょ。オバサンだって忙しいんだし。人にお願いしておいて、
それはナインじゃないの〜」
「だってさ・・・。まぁ、もういいや。とにかく頼むよ。クロの事」
「ハイ。分かりました。まぁお土産も貰っちゃったし、しっかりと見てあげるわよ」
「当たり前だよ。それが君の仕事だろ!」
「ハイハイ。それじゃあね」
「ああ・・・ホントに頼むぞ!」
彼は少しだけ不安を残したまま、病院を出た。いつもの通りなれた街路樹を
潜る。そして先程淺川に言われた言葉を反復していた。
(誰がきていたのかな・・・。しかし何れにせよ、一体俺に何の用だったのか・・・)
彼はやや早足で自宅への帰路を急いだ。真上の空は、月の明かりだけが妖しく
光り、辺り一面をおぼろげに照らしていた。やや勾配の厳しい坂道を登りきる
と、彼の自宅が見える。
玄関前に立つ電信柱に備え付けられている街灯の電球は壊れかけているのかイ
ライラが増すように点滅していた。
するとその街灯の下で佇む人影を見た。歩を近づけるたびに、その影がはっき
りと捕らえられる。灯りが燈る度にその影の輪郭がクッキリとする。彼の眼は
その影の主が女性である事を確認した。
少し長めの薄ブラウン色の髪の毛を首の後ろ辺りで結わき、縦縞ボーダーで半
袖のカッターに膝上までの短めのスカート姿が映える。彼女は、片脚で曲げ靴
先で道路でコンコンと鳴らし、退屈そうに時をやり過ごしているようだった。
その時、けたたましい音を響かせ彼の横を一台の単車が通り過ぎた。彼女の俯
き加減のその横顔に単車のヘッドライトが照らされる。彼は、漸くその女性が
誰であるのかを理解した。
あっという間に過ぎてゆく単車の音が次第に遠ざかる。再び静寂に包まれたそ
の場所で、彼は徐に声をかけた。
「真希さん。どうしたのですか?」
「・・・」
彼の呼び掛けに真希は、振り向いた。少し憂いを帯びた瞳が彼の眼を射抜く。
深く淀む暗闇の中、月灯りと壊れかけの街灯だけが二人の事を照らし出して
いた。