alone

このエントリーをはてなブックマークに追加
14410-1

― 凍える太陽  後編 ―



第7章

あなたは翼を広げ、大空に高く飛び上がるのよ。天国に向かって、あの朝が来るまでに・・・

― ジャニス・ジョップリン ―


「もう少し、矯めて、取れていないわよ。そう!」
「ハイ・・・」
「違う!。そこからは、アンダンテじゃないんだから、アダージョでしょ!・・・そう!」

真新しい木々の香りが至る所に漂うそのホールの舞台では、懸命に鍵盤に向き合
う少女と、それに厳しく対峙する壮年の女性が対峙していた。

気高いピアノの音に包まれたその空間の中、観客のいない静寂に包まれた客席で
は、一人眼を閉じて、その音に身を任せている彼の姿があった。
14510-2:2001/06/14(木) 02:43 ID:gYNRQ2s2

「そうね、今日はここまで。どう、慣れた?本番も、この調子。わかった?」
「ハイ。今日はありがとうございました。」

お下げ髪が似合うその少女は丁寧に頭を下げ、女性に一礼をすると楽譜をしまい
始めた。一仕事を終えたその女性は、会場を見渡すと客席にいる彼の姿を見つけ
ると舞台上から声を掛けた。勢いよく遠くまで良く通るその声色は、先程までの
厳しさは影を潜め、やや憂いのある優しい声であった。

「彼女の演奏どうだった?あなたの感想を聞かせて貰えるかしら?」
「感想なんて私に言う資格は・・・。それより彼女の名前は何て言うんですか?」

少女は、彼に向きなおし、丁寧に一礼をすると自分の名前を大きな張りのある声
で彼に告げた。

「山崎 愛、と言います。」
「そう愛ちゃん?元気がいいね。・・・そうだ!」

彼は彼女の健気な姿勢に胸を打たれた。すると徐に自ら舞台の上に駈け上がり、
その少女の下に駆け寄った。そして少女の目線の高さに自分の視線を合わせた。

「愛ちゃんは、本番もここで演奏するの?」
「ハイッ。」
「今日は落ち着いて演奏できた?」
「ハイッ」

彼は立ち上がると辺り一面を見回した。そしてホールの側壁面に飾りつけられて
いる時計を見つけると指差した。
14610-3:2001/06/14(木) 02:45 ID:gYNRQ2s2

「今、愛ちゃんは緊張していないよね?」
「え?ハイッ、してません。」
「そうだよね。じゃあさ、あの時計を見てごらん。」
「ハイ」

再び彼は彼女の前に膝まづき、時計に向かい視線を合わせた。

「そう、見てるね。それじゃそのまま時計を見ながら深呼吸して見ようか」
「深呼吸ですか?」
「そう。僕もやってみるから」
「ハイッ」

少女は楽譜を椅子に置くと背伸びをし、大きく深呼吸をした。彼も彼女に合わせ
て深呼吸をして見せる。

「愛ちゃん。演奏会の日もね、チョットだけ早く来て、今と同じような事、してみてね。」
「時計を見ながらですか?」
「そう。それから本番の時もね、演奏を始める前にあの時計を見るんだよ。
そして心の中で深呼吸をしてみるといいんだ」
「そうするといいんですか?」

「うん。今と同じような、とても楽な、自然な気持ちで演奏できるよ」
「本当ですか?」
「本当さ、騙されたと思って、やって見てね」
「ハイッ!ありがとうございます」

「よかったわね、愛。それじゃあ、控え室で先に待っていて。直ぐに私も行くわ」
「ハイッ!」

少女は壮年の女性に即されると、自分の荷物を素早くまとめ、弾ける様な足取り
で舞台の袖に消えていった。
14710-4:2001/06/14(木) 02:49 ID:gYNRQ2s2

彼はグランドピアノの前に置かれた椅子の上に腰掛けると、今まで少女がしきり
に練習していたその曲を弾き始めた。その曲は荘厳なアンダンテで始まると、一
拍の休止の後に、憂いを帯びた旋律を奏で始めた。彼の演奏が中盤の極に向かう
時、女性の声がホールに鳴り響いた。先程のあの厳しい声色だった。

「重い・・・、あなたは昔からどの曲でもアレグレットが重いのよ。特にこの曲は向いていないわ・・・」
「・・・昔と同じで厳しいな、先生は。」

「それが私の仕事よ。無条件に褒められたかったら、他の誰かに頼む事ね。」
「嬉しくなるくらい、相変わらずだなぁ。・・・でも、さっきの彼女には、随分優しいじゃないですか」

「あなたと違って、あの娘は頭ごなしに貶したり、しかってはダメよ。自信をなくしてしまうと
同時に自分も無くしてしまうタイプだから。少し自分を否定的に捉えている面があるから・・・」
「先生が生徒相手に教え方変えるなんて、信じられないですね」
「そうかしら?私は何も変わっていないわよ。あなたも歳を重ねたから、そういう風に感じるのよ。」
「先生、それはお互い様でしょう?」
「失礼だわ。怒るわよ(笑)」

彼はその女性を先生と呼ぶ事に懐かしさを感じていた。彼は楽しげに鍵盤を叩き
続けた。そして時を惜しむかのように、何度も何度も同じ旋律を繰り返し演奏し
ていた。

「そう・・・。かすみちゃん・・・亡くなってから、もう3年もたつのね」
「ええ。早いもんですよ。」
「・・・あなたは元気なの?何か大変みたいだったけど・・・」

召電の落とされたホールの中央部分の座席に彼とその"先生"は席を隣にして、身
を沈めていた。昔話の落ち着く所は、結局彼の妹の話になる。それは仕方のない
事だった。人間は、想い出を抱えながら生きていくのだから。
14810-5:2001/06/14(木) 02:55 ID:gYNRQ2s2

「ええ。まぁどうにか、なりました。それより・・・、彼女、どうですか?」

彼はさり気なく話を変える。この間、先生に紹介した“ある女性”の行く末を案
じていた。この先生の気性をよく知る彼にとって、頼んでは見たものの、果たし
て上手くやっているのだろうか、気掛かりでならなかった。

「ああ、あの娘の事ね。意外に骨のある子なんで私としてはかなり面白いわね。」
「面白いですか(笑)それはどういう意味で?」

「いろいろとあったみたいね、彼女。少し理屈っぽい所もあるけど、いいんじゃない?
何より卑屈じゃないのがいいし、それに叩けばしっかり返って来るから。」

彼は、意外にも先生が彼女の事を気に入ってくれた事に少し安堵した。自然と彼
の口も滑らかにすすんできた。

「そうですか。それは良かった。それで、今、彼女は何処に?最近、連絡がないものですから・・・」
「それはそうだわ、暫くの間スイス行ってもらっているから。」

「スイスですか??何でまた?」
「今度、ローザンヌであるコンクールの下見にね。いろいろと手配して貰っているのよ」

「そうですか・・・。芸能プロダクションにいたから、そうした所は得意かな?」
「さぁどうかしら。とにかく今は、勉強中ね。それに直ぐに使い物になるとは思ってなんかいないわ」

「・・・相変わらずなぁ」

彼は昔と変わらない先生の態度に思わず笑みがこぼれた。そして小さく背伸びを
すると、徐に席を立った。

「しかし急に無理言って、スイマセンでした。そこまで良くして貰って・・・」
「あなた、前にも言ったでしょう?謝るなら、頼まない。無理だと思うなら、しない。忘れた?」

その女性の言葉は、昔同様、変わらぬ短いセンテンスに凝縮されている。彼は彼
女の前で萎縮し続けていたかつての昔の自分を思い出していた。
14910-6:2001/06/14(木) 02:56 ID:gYNRQ2s2

「・・・そうですね。スイマセンでした」
「直ぐに謝る癖も良くないわ。早く直しなさい・・・。ああそうだ、そういえば彼女から聞いたけど、
あなた、あの子の妹がいるアイドルたちの付き人みたいな事してたんだってね?」

「・・・えっ?なんですか?」
「人の話を聞いていないの?」
「いや聞いてましたよ。ただちょっと、想いに・・・。いやいや、別に付き人なんかじゃ、ないですよ」
「じゃあ、ピアノでも教えていたの?あなたが?」
「いやいや、違いますよ。そういう話ではないです。」

「まぁ、そうね。それに彼女等の仕事には、古典的な音楽的素養など、必要ないわね。」
「相変わらず、バッサリですね。確かに、周りの取り巻き連中はそう考えているみたいですけど。
でも・・・彼女等自身はそれなりに頑張っていますよ。」

彼の言葉を聞き終えるや否や、その女性はやや厳しい表情を見せながら、彼に向
き直し、言葉を繋いだ。

「でも、それはプロなら当たり前の話だわ。頑張ったからって、偉いわけじゃないの。
それがプロ、そうでしょう?結果が、全てなんですからね。
もっと言えば、そう信じなければ、苦しい練習なんか出来ないわ」
「でも、彼女等の場合は特殊でしょう?ああした状況の中では、自分たちの意思なんか
何一つ通らないんですから」

珍しく彼はその女性の言葉に反駁した。その思わぬ抵抗に女性は戸惑いよりも喜
びを見せていた。

「おや、あなたも変わったわね。」
「えっ?何処がですか?」
「おかしいいわね(笑)一昔前までは、ああいった子達を一番毛嫌いしていたんじゃないの?」
「・・・嫌いだから認めない、好きなものしか、愛さない、というのは止めたんですよ。」

女性は優しい笑顔を見せながら、彼の顔を覗き込んだ。そして、一つ息を整える
と、先程来の刺のある口調は影を潜め、普段と変わらぬ優しい語り口でで話し始
めた。
15010-7:2001/06/14(木) 03:00 ID:gYNRQ2s2

「驚いたわ。成長したわね、あなたも。」
「そうですか」

「嬉しいわ。あなたのそういう姿が見えて。」
「先生、・・・でもですね、あの子達の中でも本格的に音楽の勉強をしたい、
という子もいるんですよ。いつかそういう時が来たら、お願いしてもいいですか?」

「いいわよ。相手が誰であろうと、やる気があるのならね。いつでも、言いに来なさい。」

いつの間にか、そのホールのある大きな公園は、漆黒の暗闇に覆われていた。彼
は、入り口の前にある、木製のベンチに腰掛けると、その暗黒の空を見上げてた。
彼の眼は、ポツリポツリと点在している星影を捉え切れず、焦点なく宙を彷徨っ
ていた。

誰もいないその空間で、彼は一人孤独を噛み締めている。時は流れる、残された
時間の切なさをどうしても消せないでいた。
15110-8:2001/06/14(木) 03:06 ID:gYNRQ2s2


「ご苦労様だったな」
「・・・」

「しかし、スイスかよ。悪いな、そこまで手を回してもらって」
「違うよ。彼女の意思だ。俺は関係ない」

「まぁいい。どっちみち、日本から消えてくれたってのは、助かる話だよ。
お前を宛がったのは大正解だったな。やっぱり俺の人を見る眼は、他人とは
違うんだよ、ハハハッ。」

「・・・」

夜の都会を一概に見下ろせるそのホテルの48階は、エグゼブティブ専用に宛が
われたスイートルームが、居並んでいた。しかし、部屋の中にいる「その主」は、
残念ながら元来その部屋が持っている品位や格調には全く似使わない風体を晒し
ていた。

男の自己満足に終始する話を聞きながら、彼の気持ちは深く沈み、その奥底で妖
しく潜行していた。憎悪の海の中、その心は、冷たい鬼気で覆われて始めていた。
男はそうした彼の気持ちに気付かぬまま、ただひたすらに、早口でまくし立てて
いた。窓の外には闇夜が迫る。街は、今から浅い眠りにつき始めようとしていた。
15210-9:2001/06/14(木) 03:10 ID:gYNRQ2s2

「とにかく、よくやってくれた。あの子達は、俺たちの大事な金づるなんだ。
まだまだ、絞りきらんとな」
「・・・」

「あそこの事務所の社長もお人よしだからな、脇が甘いよ。うちのオヤジさんに比べると、
マダマダだな」
「・・・」

「あの娘らは、意外に上玉もいるし、アイドルで売れなくなっても、いろんな使い道もあるしな」
「・・・楽しそうなお仕事だね。」

沈黙を破り彼が発したその言葉は、多分に皮肉がこめられていたが、男はそうい
う人の心を感じ取れる程、繊細な神経の持ち主でもなかった。額面通りその言葉
を受け取って、一人悦に入っていた。

「ああ、楽しいよ〜。ガキ相手の楽しい仕事さ。ヤクザ家業と違って、おいしく金は儲けられるし、
いい女とはやりたい放題だしな!」
「・・・あの子達にも手をつけたのか?」
「心配スンナ。あの子達は商品だぞ。今が旬だ、売れ線には手をつけないってのが、
この商売の鉄則だよ。まぁそのうち何れどうなるかは、わからんが・・・」

「そうかね・・・。ちょっと小耳に挟んだが、そうでもなのが、いるらしいじゃないか?」
「えっ?・・・ああ、オヤジさんの息子さんの事いってんのか?・・・お前、よく知ってるな。」

「そりゃそうさ、あれだけ派手にしてりゃ、あの子達の傍にいれば分かるさ。」
「まぁな。そうなんだ。ちょっとな、手加減しないと。まぁ、立場が立場だから、
俺らからは言いづらいんだが・・・」

「いいのかい?そんなんで。それこそトップが率先して、大事な商品に手をつけてて、いいのかい?」
「・・・おい、お前!そこらへんには、あんまり首突っ込むな。調子にノンなよ!」

男は少し声を荒げて彼を威嚇した。彼はその男の恫喝などなんとも思わなかった
が、その言外に含まれた意味を感じ取れただけで、納得していた。彼の推測通り、
梨華や真希が彼等の餌食になっていたのが判ればいい、それだけの事だった。
15310-10:2001/06/14(木) 03:13 ID:gYNRQ2s2

「まぁいいや。それにしても、今度は、下のお子ちゃまが心配だな。」
「お子ちゃま?」
「いるだろ?大阪弁の子。あれも、もう中三だ。・・・家庭的にもいろいろあってな。それこそ後藤の所と良く似ててな、
どうも危ないんだよ。身内含めて何をしでかすか、わからんからな。」
「・・・」
「ま、俺たちは、そうしたトラブルがあればあるほど、儲かるんだがな!」
「・・・」

男は、いつもながらの冷笑を浮かべながら、手元のグラスに並々とブランディを
注いだ。そしてそれを一気に飲み干すと、今度は彼にも勧めた。しかし彼は、そ
の誘いをぶっきらぼうに断ると、そそくさと立ち上がり、窓際に身を寄せた。

窓の下には、大小様々な灯りが次第に消え始め、街に深い眠りが近づいてきた事
を感じさせていた。

「もう直ぐか・・・」
「ん?何か言ったか?」
「いや、別に・・・」

「それよりどうだ、お前。今度は・・・あの子の面倒を見るってのは・・・」
「いや、もういいさ。遠慮しておくよ・・・。それに、次の仕事も決まったんでな。」
「そうか、そいつは、惜しいなぁ。お前の事は、オヤジさんも随分評価しているんだがな。
・・・何でも、後藤の男と手切れさせたのも、お前らしいじゃないか?」

男は茶化すように首をすくめて彼に語りかけた。やや酔いが回ったようで、やや
呂律も回らなくなってきている。彼は、男のそうした態度に敢えて無反応に問い
返した。

「・・・そんな事した覚えはないがな。」
15410-11:2001/06/14(木) 03:23 ID:gYNRQ2s2

男は、止まらない酒の勢いに乗せて気分良くし、止め処なく話を進めた。

「よく言うわな。確か相手のガキは、喜多川の所だろ〜。下手すりゃ、エライ事になってたんじゃない〜、
関係者を代表して、感謝いたしておりますよ、ハイッ・・・」
「知っていたのか、相手の事?」

「あぁ、もちよ。それでも最近だけどな聞いたのは・・・。まぁガキの方は、何でもペナルティーて事で、
退社扱いになったがな。まぁどこかのモデル事務所に拾われたらしいから、よかったんじゃない・・・」
「そうかい・・・」

男は顔を真っ赤にしながら、空になったクラスにもう一度ブランディを注ぎ、今
度は少しずつ、嘗める様に味わった。そして滑る様に話し続けた。

「それより、どうやって切れさせた?教えろや。写真なんかも上手く処分したんだろやぁ?
全く欠片の一つも出てこなかったもんな・・・」
「・・・何度も言うが、俺は、別に何もしてないさ。」

彼は手術後、真希の姉と共にあの男の家に行き、男の部屋中を隅々まで掻っ攫い、
その関係を示すもの全てを強引に取り払い、彼の家の庭先で燃やし尽くした事を
思い出していた。

しかしどうやら彼等は、真希の度重なる自傷にすら、未だ気付いていない様だっ
た。彼はそれが確かめられた事だけでも大きな意義を感じていた。
15510-12:2001/06/14(木) 03:24 ID:gYNRQ2s2

「それとも、誰か使ったのか?」
「いや、何もしてないさ。・・・じゃあ聞くが、あんただったらどうした?」

白々しく彼は答えつつ、ある興味をもって逆に男へ問い掛けた。男は、あっけな
く彼の要求に応える答えを提出した。

「俺だったらか・・・、まぁ、若いもん使ってガキの事務所に脅しかけるか、赤坂の
桜井経由で手を回させるか・・・」
「赤坂の桜井?」

「あぁ、お前もそこまでは知らないか?桜井って言うのは、赤坂署の刑事だ。」
「刑事?、警察かい?」
「表は裏という事だ。お前も知っておくといい。赤坂署の防犯2課といったら俺ら専門の"抜け穴"だからな。
あそこ通せば、大概の事は手が回せる。お前も覚えておけよ」

「そうか、知らなかったな、そんな話は。」
「そりゃそうさ、世間に知れたら意味がない。それにああいう便利屋は、一人でも多くいてくれる事に越した事はないからな。
俺たちからバラス事もないし。」
「なるほどね・・・。」

彼は満足そうに頷いた。そして今、長い間、頭の中で結びつかなかった最後の線
が、結ばれたのを感じた。すると手短に荷物をまとめ上げ、足早に部屋を辞そう
とした。男が彼を呼び止めた。
15610-13:2001/06/14(木) 03:25 ID:gYNRQ2s2

「おい、何だよ。もう帰るのか?もう少しいいだろ?これから、店の子も来るんだ、お前も楽しんでいけやぁ。」
「いや、急ぎの用があるんで、失礼するよ。」

「そうか。・・・近々、東京建物の進藤さんらと宴会があるんだ。お前も来ないか?
進藤さんもお前に会いたがってたし、今後の事も含めて、紹介したいんだがなぁ」
「・・・賑やかなところは、不得手だからいい。遠慮しとくよ。」

「お前、駄目だぞ。そういうんじゃ。こういう世界は、どれだけエライさんに顔を売っておくかで、
先々の事が決まるんだ。人見知りなんかしている場合じゃねえぞ」
「・・・いいよ。それに俺は、あんたらの世界で生きていくつもりはないから・・・」

「そうかな?それはどうかな(笑)出来るかね・・・、一度脚を突っ込んだヤツが・・・」
「・・・」

彼は無言の返事をし、足早にその部屋を出た。すると広々としたその廊下の向こ
う側から甲高く賑やかな声が聞こえてくる。その声に彼は即座に反応すると、踵
を返し廊下の反対側になる非常階段の方へ向かった。

彼等の声が男のいる部屋の中へ消えていくのを自身の背後で聞きながら、金属が
剥き出しになっているその階段を早足に下った。

彼は息を乱さず一気に数階を下り切ると、視界の開けた踊り場で立ち止まった。
そこは金網越しながら、外界の空気を感じられる空間であった。ひんやりとした
風が彼を包む。夏の終わりが近づくのを肌で感じさせる、優しい風だった。
15710-14:2001/06/14(木) 03:28 ID:gYNRQ2s2

彼は、その金網に手を掛けると、しがみつく様な感じで、外界を眺めた。地上の
明るさと反比例するかのような、真っ暗な夜空が印象的だった。なんとなく金網
越しに夜空を見遣っていたその瞬間、無機質な振動音が彼の胸ポケットで響いた。

彼は訝しげに胸ポケットからその音の大元を取り出した。その液晶の画面に、可
愛らしい絵文字が見える。それを見た彼の表情は一変し、優しい笑顔に包まれた。

「もしもし、真希さんですか?」
15810-15:2001/06/14(木) 03:30 ID:gYNRQ2s2

「もしもし?聞こえるぅ?」
「ハイ、聞こえますよ。」

「今何処にいるの?」
「外にいます。」

「外って何処ぉ?」
「東京ですよ。新宿です。それより・・・真希さんは、今何処に?」

「今?リハーサルの帰り。これから家に帰るトコなんだよね〜。」
「そうですか。じゃあ、車の中ですか?」

「ううん。今ね、よっすぃ〜と一緒なの。今日はね、よっすぃ〜の家に泊まるの」
「そうですか。良かったですね。」

「うん。それより、この携帯使ってる?」
「ええ、まぁ・・・」

「あ〜、ウソついてるぅ!そんなんじゃあ、ダメだよぉ。折角、真希があげたんだからさぁ。」
「でも、使い道があんまり・・・」

「だったら真希に掛けなよぉ。いつでも良いからさぁ、それにメールだってあるんだし。
使い方ワカンナイ?」
「いや、それは大丈夫ですけど・・・」

「そう、だったらいいじゃん!あっ、もう直ぐ着くから、じゃあね!」
「ハイ・・・、さようなら。」

「バイバイッ!」

真希は一方的に話しかけ、そして一方的に電話を切った。彼は切られてしまった
電話を見続けながら、きょとんとして、少しの間その場に立ち尽くしていたが、
時が経つにつれ、声を出して笑ってしまっていた。
15910-16:2001/06/14(木) 03:31 ID:gYNRQ2s2

彼は、ひとしきり笑い終えると、真希が施してくれたその電話の待ち受け画面に
映る可愛らしい猫の写真を見ながら、彼は大きく息をはいた。

彼はその時、暫くの間無くしていた切なく、哀しく、そして胸を締め付けるよう
なあの奇妙な感覚が、胸の奥底で少しだけ目覚めたのを感じていた。

今、決着の時が来た事を察知した。眼下に広がる夜の街並みを眺めながら、心、
靜に落ち着ける。そして、その焦点を遠くを定めた。そして心の中で全てを誓っ
た。彼は安堵の表情を浮かべると、安らぐ風に身を任せ、静かにその目を閉じた。