「…それはそれは、物凄い人の波じゃった。溢れかえる人、光り、そして音楽。
それらを体いっぱいに受けて、あたしらは歌い、踊った…」
つい先ほどまで春の陽射しの中で眠っていたはずの老婆の口から、呟きが
漏れ始める。
いつもの、そして永遠に続くかのような呟き。
「幸せじゃった。あたしの人生で一番輝いていた。正に至福の時間と言うべきか
のう。傍らにはいつも仲間がおった。なっち、圭ちゃん、のの…。みんなから
愛されていた。あたしもメンバーを愛していた。そして…」
歌うような呟きは、いつもここで一旦途切れる。
「市井ちゃん…。市井ちゃんが居なくなって、何回目の春になるのかのう…」
「58回目ですよ、後藤さん」
僕は老婆にそっと耳打ちする。
「58回目…58回目…」
老婆は噛み締めるように繰り返す。
可哀相な人だ。毎日毎日、この老婆は同じことを繰り返す。
夢うつつと現実の境目で、想い出の海を漂うのだ。きっと、死ぬまで。
そして、彼女が夢の中に埋没していけるよう見守るのが、僕の仕事なのだ。
たとえそれが嘘の記憶であっても。
そう、この老婆は自分がかつてモーニング娘。の一員であったと思いこんで
いるに過ぎない。哀しい人なのだ。
いや、そうではないのかも知れない。例え嘘の記憶であっても、それはそれで
幸せなのかも知れない。想い出とは、得てしてそういうものなのだ。
僕だって、いずれ、この目の前の老婆のように、想い出の中で生きる時が
来るのだろう。
いずれ…。いずれ…。あれ?
思い出せない。どういうことなんだ?
僕は必死に自分の記憶を辿ろうとしたが、まるで思い出せないのだ。
僕は一体いつからこの老婆を看ているのだろう?
「どうして?僕は…誰だ?」
唯一思い出せるのは、モーニング娘。を追いかけていた日々…。
ASAYANでの試練の日々。ラブマの大ヒット。メンバーの脱退と追加。
武道館公演…。彼女達の想い出だけが、僕の頭の中を支配する。
「ごっちん、なっち…」
目の前の白い壁がぐるぐる回る。
病室の老人は、さっきから独り言を呟き続けている。器用にも老婆と青年の
声色を交互に操りながら…。
その様子を、モニター越しに見ている白衣の男が二人。一人は30代後半、
もう一人は20歳そこそこの青年であろうか。
「この患者、いつも同じことを繰り返してますね」
「うむ。最近の痴呆症の典型的なパターンだな。決まってモーニング娘。という
アイドルの記憶の中に溺れておる。この老人の世代に最もよく見られる症例
と言えよう」
「ある意味この老人は幸せなのかも知れませんね」
西暦2058年の春の陽射しが、部屋の中を柔らかく照らす。
「モーニング娘。かあ…。どんなアイドルだったんだろう…」
青年はちょっと羨ましそうに呟いた。
終り