1 :
S.S:
小説です。
よろしくお願いします。
2 :
S.S:2001/08/11(土) 02:48 ID:xXpA2L/.
外の世界との断絶・・・・自分自身に課した幽閉・・・・。
葬式以来、眠ることと人生の終わりを感じながらソファーにぼんやりと座り続けること以外には、ほとんど何もしていなかった。
電話もファックスも回線を切り、外に通じる扉と窓は、すべてしっかりとロックしてあった。
友人や隣人たちからの同情の言葉は、もう一言も聞きたくなかった。
3 :
S.S:2001/08/11(土) 02:49 ID:xXpA2L/.
ただ、家の前に次々と止まっては戻っていく車の流れは、止めようがない。
車が静かに近づいてきては、玄関のチャイムがいたたたまれないほどに悲しげな音を響かせる。
葬式以降それが毎日断続的に続き、あるとき私は発作的に、玄関のチャイムに通じる電線を引きちぎった。
4 :
S.S:2001/08/11(土) 02:49 ID:xXpA2L/.
結婚してからの10年間、私はとても充実した人生を生きてきた。
それは、仕事、報酬、愛、成功、達成、笑い声、そして感動に満ちた、本当に素晴らしい10年だった。
しかしその頃の私は、それ以上生きることに何の意味も見いだせなくなっていた。
まだ30歳の誕生日も迎えていないというのにである。
5 :
S.S:2001/08/11(土) 02:50 ID:xXpA2L/.
時折ソファーから立ち上がり、部屋の中をあてもなく歩き回ったりもした。
ふと立ち止まっては、壁のあちこちにかかっている家族写真に目をやったりもした。
思い出・・・・どの写真も、過去の幸せなひととき、喜びに満ちた出来事を、あまりにも鮮明に思い起こさせる。
夫と娘の話し声や笑い声が今にも聞こえてきそうだ。
望遠鏡よりも涙のほうが、遠くのものをずっと鮮明に見せてくれる。
6 :
S.S:2001/08/11(土) 02:50 ID:xXpA2L/.
その日も私は、黄色の大きなソファーに力なく座っていた。
ただしそれまでとは違い、ある明確な意思を持ってである。
私は意を決し、ソファーから立ち上がった。
そして、タンスの1番下の引き出しを開き、中を見下ろした。
7 :
S.S:2001/08/11(土) 02:51 ID:xXpA2L/.
引き出しの中に無造作に置かれた拳銃が目に飛び込んでくる。
その前日、ガレージに積んであったダンボールの中から、ようやく見つけ出した代物だ。
5年程前に銃砲店で購入したものだが、私がそれを買ったのは、当時私たちが住んでいた地区で、押し込み強盗が頻繁に発生していたからだった。
私はその忌まわしい装置をテーブルの上に載せ、じっと見つめた。
急に落ちてきた雨が目の前のガラスを叩き始めた。
8 :
名無し娘。:2001/08/11(土) 02:51 ID:oIbMJOVY
鉄腕ダッシュでそんな企画あったな。
体内時計がどーのこーのってやつ
確か城島が挑戦したはず
9 :
S.S:2001/08/11(土) 02:51 ID:BR1KTLbo
「どう?故郷の英雄さん。皆さんに挨拶する準備はできてる?」
「準備なんかできてないよ。緊張は人一倍してるけど。もう何年も会ってない人たちばかりやもん。でも、なんでこんなことするんやろ」
「俺は当然のことやと思うで。地元の人たちはオマエのことをとても誇りに思ってるんや、中澤裕子さん。オマエはここで生まれ、ここで育ち、高校で甲子園に行った。
んでプロに入って今や三冠王を達成した球界を代表する選手として故郷に凱旋してるんやから。」
私の夫でありマネージメントの管理をしているつんくが言う。
10 :
S.S:2001/08/11(土) 02:52 ID:xXpA2L/.
元々私たちは同じチームの選手同士だった。
新人として入ってきた私の教育係になったのが彼だった。
私たちが恋に落ちるのにそんなに時間はかからなかった。
その年のシーズンオフには結婚していた。
11 :
S.S:2001/08/11(土) 02:53 ID:xXpA2L/.
翌年、彼は現役を引退した。
彼の膝はすでに限界に達していた。
落ち込む私に彼は「俺はオマエの応援団長として生きていく」と言った。
その時から彼は、スター選手への階段を昇り始めていた私の管理を一手に引き受けるようになった。
12 :
S.S:2001/08/11(土) 02:53 ID:BR1KTLbo
次の年、私たちは娘を授かった。
球団への説得も子育ても彼が引き受けてくれたおかげで大きな問題にならずにすんだ。
彼のおかげで私はシーズンを3ヶ月休んだ後、復帰することができた。
子供には「望」という名前をつけた。
それからもすべてが順調に進んでいった。
13 :
S.S:2001/08/11(土) 02:54 ID:xXpA2L/.
「さてと、確か、式は2時からやったね。そろそろ出なあかんぞ」
「望はどこ?」
「居間におるで。むっつりした顔でな。今日は友達と野球でけへん言うてむくれとるわ」
私は思わず吹き出した。
「さて、それじゃ行きますか。早く終わって、いつもの生活に戻りましょ」
14 :
S.S:2001/08/11(土) 02:54 ID:xXpA2L/.
あの日の午後の渋滞は、いまだに記憶に新しい。
故郷ではめったに起こらないことだ。
新しく舗装されたばかりのメインストリートは、朝から押し寄せ続けている人たちの臨時駐車場になっていた。
両側にずらっと並んだ車の間を、私たちの車は、動いては止まり、また動いては止まりつつ、会場に近づいていった。
やがて、マーチングバンドの管楽器と太鼓の音が聞こえ始めた。
15 :
S.S:2001/08/11(土) 02:55 ID:xXpA2L/.
式は想像をはるかに超えるものだった。
こんなにも歓迎されるとは思ってもいなかった。
すべての聴衆が立ち上がり、拍手と歓声を浴びせてくる。
隣を見るとつんくは感動のあまり涙を流し、望は一緒になって立ち上がり拍手をしていた。
まさにこの時、私は歓喜の頂点にいた。
16 :
S.S:2001/08/11(土) 02:55 ID:BR1KTLbo
私がその歓喜の頂点から絶望のどん底へと一気に転落したのは、それからわずか2週間後の事だった。
つんくと望が、隣町で買い物を楽しみながら国道を走行していた時、同じ道路の対向車線を走行していた小型トラックが、
右のフロントタイヤがパンクしたために突然右に向きを変え、つんくのステーションワゴンに真正面から激突したのである。
つんくと望は即死だった。
17 :
S.S:2001/08/11(土) 02:56 ID:xXpA2L/.
私は再び拳銃に向き直った。
これまでだ。
私は死にたかった。
とても死にたかった。
心の中の激しい痛みを止めたかった。
その苦しみを和らげてくれる薬は何1つなかった。
どこにもなかった。
つんくと望のいない人生なんて、もう一瞬たりとも耐えられない。
私は拳銃から空っぽの弾倉を外し、それに弾丸を込め始めた。
18 :
S.S:2001/08/11(土) 02:56 ID:xXpA2L/.
さあ、これでいい。
準備は整った。
弾丸を込めた弾倉を拳銃に戻す。
さあ、急ぐんだ!
もう何も考えるな!
やるんだ!
私は拳銃を持ち上げ、撃鉄を起こし、銃口をこめかみに押し当てた。
19 :
S.S:2001/08/11(土) 02:57 ID:xXpA2L/.
「つんくさん・・・・望・・・・」
私はすすり泣いていた。
「すぐ行くから、待っててね」
引き金にかかった人差し指に力が入る・・・・とそのとき・・・・ある天使が・・・・そう、まさしく天使が・・・・私の命を救ってくれた。
20 :
S.S:2001/08/11(土) 02:57 ID:xXpA2L/.
それは最初、遠くで鳴っている雷のようだった。
私の注意は、指先からそのリズミカルな振動音に向けられた。
雷だ・・・・いや、違う。
雷じゃない・・・・誰かが家の外壁を叩いている・・・・まずい。
だんだん近づいてくる。
間もなくベランダを踏みつける足音が聞こえてきた。
続いて叫び声も・・・・。
21 :
S.S:2001/08/11(土) 02:58 ID:BR1KTLbo
「裕ちゃん、裕ちゃん!中にいるんか!お願い、答えてよ!平家みちよや!聞こえる!」
平家みちよ・・・・平家みちよ?
本当に彼女なんだろうか。
幼い頃から高校を卒業するまでの間、彼女はずっと私の1番の親友だった。
私たちは、どんな姉妹にも負けないほどの強い絆で結ばれていた。
幼稚園のスクールバスで隣の席に座ったのが付き合いの始まりで、高校時代には、よく2人で授業を抜け出して街中へとくりだしたものだった。
平家みちよ・・・・幼なじみ・・・・チームメイト・・・・無二の親友・・・・。
ベランダで今私の名を呼んでるのは、本当にみちよなんだろうか。
22 :
S.S:2001/08/11(土) 02:59 ID:xXpA2L/.
故郷に戻る事が決まってすぐ、私は彼女に電話を入れた。
しかし彼女はこの地にはいなかった。
依然としてこの地には住んではいたが、3ヶ月間の入院生活で別の場所で療養中だったのである。
心臓バイパスを3本も取り付ける手術を受け、家族によれば、その最中にほとんど死にかけたという。
23 :
S.S:2001/08/11(土) 03:00 ID:xXpA2L/.
彼女はなおも壁を叩き続けていた。
その音が大きさを増しながらますます近づいてくる。
私は撃鉄を慎重に戻し、拳銃と弾丸ケースを引き出しの中に放り投げた。
引き出しをバタンと閉める。
自殺の現場を目撃されたりはしたくない。
まして親友には、絶対に見られたくない。
引き出しを閉めて振り返ると、彼女は見晴らしの窓のすぐ外に立っていた。
両手で目の上にひさしを作り、なおも大声で叫びながら中を覗き込んでいる。
雨はいつしか上がっていた。
24 :
S.S:2001/08/11(土) 03:00 ID:BR1KTLbo
「裕ちゃん!・・・・平家みちよだよ!・・・・答えてよ、お願い、裕ちゃん!」
私は立ち上がり、窓のそばに行った。.
みちよは一瞬たじろいで後ずさりしたが、すぐに体勢を立て直し、微笑を浮かべながら私を指さした。
「なんだ、いるじゃない!私だよ、裕ちゃん!みちよ!・・・・平家みちよ!」
私は無理に笑顔を作って彼女に手招きをし、もっと窓に近づくように促した。
「ベランダの外れに扉がある!・・・・」
右方向を指差しながら私は叫んだ。
「向こうに行って!鍵を開けるから!」
25 :
S.S:2001/08/11(土) 03:01 ID:xXpA2L/.
私たちは数分間も抱き合っていた。
身体を離してからも、至近距離で向かい合ったまま立ち続けていた。
彼女が両手で私の顔を叩き続ける。
その間、私の両手の指は彼女の首の後ろでしっかりと組まれていた。
いつしか2人とも泣きじゃくっていた。
26 :
S.S:2001/08/11(土) 03:02 ID:xXpA2L/.
最初に口を開いたのはみちよだった。
ハンカチで涙をぬぐい、鼻をかんだ後で彼女は言った。
「しかし、とんでもない再会だね・・・・なんて言ったらいいか・・・・ いや、大変だったね、裕ちゃん」
私も何か言おうとしたが、声にならなかった。
みちよが私の肩に手をかけ、続ける。
27 :
S.S:2001/08/11(土) 03:02 ID:xXpA2L/.
「裕ちゃんの出世話は、新聞やら雑誌やらでみんな読んだよ。三冠王だってね。すごい話だよ。歓迎式のことも知ってたんだけど、医者が頑固でね。
家族が大事なら、あと2ヶ月は病院から出るなって言うんだよ。んで、また連絡があって、何かと思ったらつんくさんと望ちゃんの事故の話じゃない。
だから飛んできたんだ。ねえ、裕ちゃん、私にできること言って。何でもするよ」
「みっちゃん・・・・」
私は静かに言った。
「気を遣ってくれて、めちゃ嬉しいよ。ただ・・・・せっかく来てくれたのに、こんなこと言うと気分悪くするかもしれないけど、今の私には、誰にどんなことしてもらってもどうにもならへん。
そんな状態やねん。それからみっちゃん、医者の言うことは聞かな・・・・。そうや、こんなとこで立ってないで居間に行こう。ゆっくりできるから」
28 :
S.S:2001/08/11(土) 03:03 ID:xXpA2L/.
私たちは居間のソファーに並んで座った。
2人とも言葉が見つからず、みちよが突然ぎこちなく話し始めるまで長い沈黙が流れた。
「何年ぶりやろ、最後に会ってから」
「高校の同窓会・・・・卒業してからすぐの。アレが最後だったよね、確か。ウチが同窓会に出たのはアレが最後だったっけ。なんか忙しくって」
「ずいぶん昔の話やね。時間が過ぎるのはホント早い。嫌になるわ」
「ああ・・・・でも、今のウチにはどうでもええことや」
29 :
S.S:2001/08/11(土) 03:04 ID:xXpA2L/.
みちよは何も聞かなかったような顔で話を続けた。
「ところで、葬式以来、どこにも顔を出してないそうやん。ずっとここに閉じこもりっきりなん?」
「いや、たまには外に出るで。夜になると郵便箱まで歩いていって、手紙を持ち帰ってる。今のところはそれぐらいやけどね。他には外に出る理由がないねん。
冷蔵庫には食べ物がまだたっぷりあるし、ワインだってまだ何本か残ってるし」
「野球の方はどうなん?もうオープン戦始まってるけど・・・・」
30 :
S.S:2001/08/11(土) 03:04 ID:BR1KTLbo
私は言葉に詰まった。
「実は葬式の2日後に、球団に、広報を通じて退団届を出したんや。もう以前のようなプレーはでけへん・・・・今のウチは、ベッドから起き上がるのも一苦労や・・・・みたいなこと書いて。
それ書くのは、何でもないことやったよ。全然つらくなかった。ウチの夢と希望は、つんくさんと望と一緒に全部墓の中に埋もれてしまったんや」
「でも中心選手を簡単には辞めさせへんやろ。それで球団は何て言ってきたん?」
「ん、オールスター頃に戻ってきてくれればエエって・・・・」
「そっか・・・・んじゃ8月には復帰するんやね?」
31 :
S.S:2001/08/11(土) 03:05 ID:xXpA2L/.
私は答えなかった。
「裕ちゃん・・・・」
私は黙っているしかなかった。
私はもう、プロ野球選手として働くつもりはまったくなかった。
これ以上生きていく気もなかった。
みちよが立ち去り次第、彼女に中断させられた作業を速やかに再開するつもりだった。
そんな事を彼女にいえるはずがない。
うまく質問をはぐらかす機転も、もはや私には残っていなかった。
32 :
S.S:2001/08/11(土) 03:05 ID:xXpA2L/.
「裕ちゃん・・・・いや、ごめん。まだとても仕事の話どころじゃないよね。よけいなこと言ったわ。ごめん。こんな話をするために来たんじゃなかったんだ。
少しでも元気づけられればと思ってきたんだけど、かえって混乱させてしまったね」
私は彼女の膝を叩き、力なく言った。
「分かってる。みっちゃん、ありがとう」
33 :
S.S:2001/08/11(土) 03:06 ID:BR1KTLbo
みちよは立ち上がり、一呼吸置いてから、私を見下ろした。
「そうや。今日ここに来た理由が、もう1つあったわ。実は頼みたいことがあってん。引き受けてくれると助かる。裕ちゃん以上にうまくやれる人間はいないと思うねん」
「今のウチにできることなんて、ないと思うで・・・・でもまあ、とりあえず言ってみてや」
「この家の前に私の車が止めてあるの。その車で、私と少しの間、ドライブしない」
「え?」
「ドライブ。ほんのちょっとだけドライブ」したいんだ。町の外には出ない。ほんの30分でいいから」
34 :
S.S:2001/08/11(土) 03:07 ID:xXpA2L/.
私は首を振った。
「悪いけど、今はそんな気分になれへんわ。霊柩車の後ろを走る尻長のキャデラックに乗って以来、車には乗ってないねん。それに、今のウチと一緒にドライブしたって、楽しくないで」
「別に私を楽しませなくたっていいよ。話したくなければ一言も喋らなくていい。ただ一緒に来てほしいだけなんだ。お願い、裕ちゃん。お願い」
私は行くしかなかった。
35 :
S.S:2001/08/11(土) 03:07 ID:BR1KTLbo
私たちが乗った車は、間もなくメインストリートに入った。
家を出て以来、2人ともずっと黙ったままだったが、広場前に差し掛かったとき、みちよが思わず口を開いた。
「歓迎式はずいぶん盛り上がったようだね・・・・」
そう言った瞬間、彼女は顔をゆがめてハンドルを叩いた。
「ごめん、裕ちゃん・・・・」
36 :
S.S:2001/08/11(土) 03:08 ID:xXpA2L/.
私は何も言わなかった。
タバコ屋を過ぎたところで、みちよはハンドルを右に切った。
小さな橋を渡り、町営の墓地を通り過ぎる。
すでに私は、みちよがどこに行こうとしているかに気付いていた。
37 :
S.S:2001/08/11(土) 03:08 ID:xXpA2L/.
墓を過ぎてから数分で、私たちの乗った車は舗装された駐車場に到着した。
正面に見える高さ4メートルほどの金網フェンスには、錆びれた看板が掛かっていて、私たちにそこがどこなのかを教えていた。
もっとも私たちは、その看板に教えられるまでもなく、その場所を知っていた。
町営第2球場・・・・リトルリーグ用公式野球場である。
38 :
S.S:2001/08/11(土) 03:09 ID:xXpA2L/.
ライト側のファウルグランドの金網フェンスは、ライトポールの少し手前で切れており、その金網の端とポールとの間には、小さな扉がついた球場内への入り口がある。
みちよの後をついてその隙間を抜けた瞬間、私の胸は反射的に高鳴った。
ライトポールの下からは、木製のボードが張られた外野フェンスが緩やかな弧を描き、センターのバックスクリーン前を経由して、レフトポール下まで伸びている。
その外野フェンスの両翼の端には、鮮やかな黄色のペンキで「65」という数字が描かれ、ホームプレートから両ポールまでの距離を知らしめていた。
39 :
S.S:2001/08/11(土) 03:09 ID:xXpA2L/.
ちなみに、センターの1番奥のフェンスまでは、75メートルである。
それは、私がバックスクリーンにホームランを打ち込んだ次の日に、興奮した叔父が巻き尺を持ち込んで計測した結果、判明したものだった。
私がリトルリーグでプレーした最後の年のことである。
40 :
S.S:2001/08/11(土) 03:10 ID:xXpA2L/.
みちよは私の前を歩き、センターの守備位置あたりで立ち止まった。
私を振り返って彼女が静かに言う。
「どう、裕ちゃん。これぞ故郷って感じじゃない?」
私は大きく息を吸い込み、周囲をゆっくりと見回してから、ささやくように言った。
「いや、驚いた。昔と全然変わってへん。ウチらがプレーしてた頃と何にも変わってへんやんか」
41 :
S.S:2001/08/11(土) 03:10 ID:xXpA2L/.
続いて私は、センターフェンスのすぐ外にあるスコアボードを見上げ、それを指差した。
顔には自然と笑みが浮かんでいた。
「覚えてる?毎回スリーアウトになるたび、おとんたちがそこの階段をフーフー言いながら登ったっけ。試合前にくじ引きで1人を選び出してさ。
チェンジなるたび板を抱えて、その階段をよじ登ってたやんか」
「今でも同じことやってるよ、裕ちゃん」
42 :
S.S:2001/08/11(土) 03:11 ID:xXpA2L/.
私たちは内野に向かってゆっくりと歩いていき、いつしか、私のかつての指定席、ショートの守備位置に立っていた。
すぐにみちよが、私に顔を向けたまま、後ろ歩きでセカンドの守備位置に向かう。
私たちはそれぞれの位置から、互いに見つめ合った。
次の瞬間、私は衝動的に、右手の拳で左手のひらを力いっぱい叩いていた。
膝を曲げて腰を下ろし、状態を前に倒して捕球態勢を整える。
43 :
S.S:2001/08/11(土) 03:11 ID:xXpA2L/.
カーン!・・・・強烈なショートゴロ・・・・私は身構え、それを難なく捕球し、2塁ベース上にトス
すでにそこにはセカンドのみちよが待っており、その架空のボールをキャッチする間もなく、1塁に送球・・・・ダブルプレー!
私は思わず拍手していた。
44 :
S.S:2001/08/11(土) 03:12 ID:xXpA2L/.
その後、私たちはゆっくりとピッチャーマウンドに歩いていった。
私の目に観客席が飛び込んでくる。
「あの観客席もまったく昔のままやんか。全然変わってない。全部で20列ぐらいかな。あの頃とまったく一緒や。」
みちよが頷く。
「そのとおり。観客の収容能力も昔のまま。1000人弱といったところかな。人口5000人の町の球場としては上等だよ。ちょっと座ろか」
そう言ってみちよは3塁側のダグアウトを指さした。
45 :
S.S:2001/08/11(土) 03:13 ID:xXpA2L/.
「お、アレはずいぶん変わったやん・・・・」
私は言った。
「あたし達の頃はベンチしかなかったやん。立派なダグアウトになって。コンクリートで囲まれて、屋根はついて、床もグランドよりちゃんと低くなってる」
私たちはそのダグアウトに入り、幅の広い緑色のベンチに腰を下ろした。
46 :
S.S:2001/08/11(土) 03:13 ID:xXpA2L/.
「内外野とも、よく整備されてる。素晴らしいグランドや。ずいぶん手が掛かってそうやな、これは」
私は言った。
「うん。もうすぐ新しいシーズンが始まるから。そのための準備は万端といったところ。今度の土曜日には、選手たちの選抜テストがあんねん。
ただ、子供たちの意気込みと球場の準備は完璧なんだけど、肝心のリーグ自体がね・・・・」
「どうしたん?」
47 :
S.S:2001/08/11(土) 03:14 ID:xXpA2L/.
「このリトルリーグは、1チームあたり最低12名の選手で4チームの間でリーグ戦をするじゃない。それで、今年も子供たちの頭数はギリギリ揃ってる」
「それじゃ、何が問題なんや?」
「チームには指導者として監督とそれを補佐するコーチ2人が必要なんよ。んで私もあるチームのコーチをしてたんやけど監督が転勤いなくなってしまった。
つまり我がチームの監督が不在になってしまった・・・・そういうことなんよ」
私とみちよの付き合いは長い。
私は、彼女が次にどんなことを言い出すかを正確に予想していた。
みちよが私に体を寄せてきた。
48 :
S.S:2001/08/11(土) 03:15 ID:xXpA2L/.
「ねえ、裕ちゃん。さっき、頼みたいことがあるって言ったやんか?」
私は彼女の顔を見られなかった。
「一緒にドライブに出かけることやろ?」
みちよは吹き出した。
「まあ、それもある。そしてもう1つは、裕ちゃんが今思ってる通りのことや。1シーズン12ゲーム・・・・監督を引き受けてほしい」
49 :
S.S:2001/08/11(土) 03:15 ID:xXpA2L/.
「無理やで、みっちゃん・・・・」
私は力なく言った。
「今のウチは、自分の朝食さえ管理できないんや。反抗期の、元気の有り余ってる子供達を、12人も管理することなんかどう考えてもでけへん。絶対に無理や」
「私も手伝うよ。これでも、ちょっと優秀なコーチなんやで。球団からは長い夏休みをもらってるわけやし、これからの2ヶ月間を埋めるには悪くない方法だと思うんだけど。
今の裕ちゃんにとっては、最高の薬かもしれへんよ」
50 :
S.S:2001/08/11(土) 03:16 ID:xXpA2L/.
私は首を振り、ため息をついた。
「ごめん。ウチには無理や」
みちよは立ち上がった。
良かった。
あきらめてくれたようだ。
51 :
S.S:2001/08/11(土) 03:16 ID:xXpA2L/.
続いて彼女は、ダグアウトの階段をゆっくりと登り、ホームプレートの方に歩き出した。
彼女の足が止まった。
こちらを振り向いて彼女が言う。
「ねえ、裕ちゃん。私たち、リトルリーグの最後の年に同じチームだったよね。覚えてる?私たちは無敵だった。リーグチャンピオン!あの時のチーム名覚えてる?」
52 :
S.S:2001/08/11(土) 03:17 ID:xXpA2L/.
みちよの最後の説得が始まっていた。
「もちろん覚えてるで。モーニングスやろ」
みちよが頷いた。
「実はね、まだ監督が見つかってないチームの名前が、それなんだ」
53 :
S.S:2001/08/11(土) 03:17 ID:xXpA2L/.
私は目を閉じた。
ずーっとそうしていた。
どのくらいそうしていただろう。
思い出せない。
いつしか私は「選抜テストは土曜の朝だっけ?」と尋ねる自分の声を聞いていた。
54 :
S.S:2001/08/11(土) 03:18 ID:xXpA2L/.
みちよが近づいてきて、噛んで含めるように言った。
「土曜日の午前9時。ぜひ考えといてよ。その気になった時のために、8時半頃家に寄るから」
「今日は何曜日?」
「木曜日」
55 :
S.S:2001/08/11(土) 03:18 ID:xXpA2L/.
私たちは、ライトポール脇の球場の入り口に向かい、深い緑の芝の上をゆっくりと歩いていった。
私の数歩先を歩いていたみちよが、突然何かに足を取られて倒れそうになる
体勢を立て直した彼女が、しゃがみこんで立ち上がった。
彼女の手には、私がそれまでに見た中で、もっともひどく打たれ、傷つき、すり切れた野球ボールが握られていた。
彼女はそのボールを私に手渡すと、何も言わずに私に背を向け駐車場に向かって歩き出した。
56 :
S.S:2001/08/11(土) 18:03 ID:HC77kzlU
みちよと玄関前で別れた後、私は家の中に入る気になれなかった。
私は家の裏側に回り込み、少し庭を歩いた。
私の心に、つんくと望と一緒にそのあたりを歩いた時の事が、鮮明に蘇ってきた。
まだこの家に引っ越してくる前のことだった。
57 :
S.S:2001/08/11(土) 18:04 ID:HC77kzlU
庭には、ちょうど3人が座れるベンチがある。
私はそこに腰を下ろした。
あの日も私は、ここにこうやって座ったものだった・・・・愛する2人を両脇に従えて。
そのとき私は望に約束した。
ママが現役を引退したら、ここで3人ゆっくり過ごそうと。
それを果たす機会はもはや永遠に訪れない。
58 :
S.S:2001/08/11(土) 18:04 ID:HC77kzlU
しばらくして私は家に戻った。
庭を横切って私が最初に向かったのは、家に隣接した車2台用のガレージだった。
横の扉を開けて中に入り、照明のスイッチを入れる。
私のポルシェがある。
もう3週間は乗っていない。
私はその車の周りをゆっくりと歩き、どのタイヤの空気も抜けていないことを確認した。
59 :
S.S:2001/08/11(土) 18:05 ID:HC77kzlU
その車の隣のスペースはぽっかりと空いていた。
オイルの小さな染みが、コンクリートの床に2つポツンとあるだけだ。
ここにあった車が戻ってくる事は、もはや2度とない。
キッチンへの通路と接した壁には、真っ赤な子供用の自転車が掛かっている。
望の7歳の誕生日に買ってあげたもので、まだ傷1つない。
60 :
S.S:2001/08/11(土) 18:06 ID:xXpA2L/.
キッチンに入り、まず私はインスタントコーヒーを作った。
いまや常食となった感のある、バターをぬっただけの食パンを流し込むためにである。
私はテーブルに座り、正面の壁に目をやった。
綺麗な額に飾られた母の写真が目に飛び込んでくる。
61 :
S.S:2001/08/11(土) 18:06 ID:xXpA2L/.
食パンを頬張り、コーヒーをすすりながら、母の写真をぼんやり見つめていた私の心に、突然、ある思い出が飛び込んできた。
私の父が亡くなった日のことを。
母は気丈だった。
悲しみにくれる私を抱きしめた後で、母は優しく言った。
「もう泣かないで。涙はもういらないわ。お父さんが、今どこにいるのかを忘れないで。いつでもお父さんはあなたのそばにいるのだから」
62 :
S.S:2001/08/11(土) 18:07 ID:HC77kzlU
私はテーブルに肘をつき、両手で頭を抱えた。
「裕子・・・・」
母の優しい声が今にも聞こえてきそうだった。
「もう泣くのはやめなさい。涙はもういらないわ。あなたのつんくと望が、今どこにいるか忘れないこと。いつでも2人はあなたのそばにいるのだから」
63 :
S.S:2001/08/11(土) 18:07 ID:HC77kzlU
私は右側の1番下の引き出しを勢いよく開け、弾が込められたままの醜い拳銃をにらみつけた。
いくら押さえつけてもすぐに浮かび上がってくる自分自身への問いかけが、私の中で破裂し続けていた。
ウチはこれから、何を目的に生きたらいいんや!
何を支えに、誰のために生きたらいいんや!
64 :
S.S:2001/08/11(土) 18:09 ID:HC77kzlU
私の机の上には、すりへった傷だらけの茶色いボールが1つ載っていた。
球場を後にするときみちよがつまずき、拾い上げて私に手渡したボールだ。
私はそれを手にとり、頬に当てた。
誰でもいい、早く私をこの苦しみから救ってください。
私は聞き取れないほどの小さい声でつぶやいた。
65 :
S.S:2001/08/11(土) 22:39 ID:xXpA2L/.
土曜日の朝、みちよが家にやってきたとき、私はすでに私道に出ていた。
郵便箱にもたれながら彼女の到着を待ち受けていた私を見て、彼女はまず驚きを露にした。
そしてすぐにも喜びを露にしそうになったが、それは噛み殺した。
言葉は一言も発しなかった。
私を車に乗せて走り出してからも、みちよはしばらく黙ったままだった。
彼女が言葉を発したのは、私を乗せてから5分以上もたってからだった。
66 :
S.S:2001/08/11(土) 22:39 ID:HC77kzlU
前方を見つめたままで、首を何度も振りながらみちよは口を開いた。
「よく来てくれたね。本当はほとんど期待してなかったんだ」
「いや、まだそう言うのは早すぎるで。実際、自分でも何をしようとしてるのか良く分からへんねん。球場に行っても、最後まで付き合えるかどうか自信ないわ。
途中で逃げ出すかもしれへんけど・・・・心の準備だけはしといてな」
みちよはそれには答えず、座席に置いてあったクリップボードを手に取り、私に手渡した。
67 :
S.S:2001/08/11(土) 22:40 ID:HC77kzlU
「選抜テストの応募者リスト作っておいたよ。テスト中にいろんな子供たちを評価しながら、その内容をメモできるようになってる。
これがあれば月曜日の夜の選択会議でスムーズに進められるでしょ」
「なるほど」
どうやら私に優秀な参謀がついたのは本当らしい。
68 :
S.S:2001/08/11(土) 22:41 ID:HC77kzlU
球場の駐車場について車のドアを開けたとたん、私の耳に、甲高い叫び声と笑い声が飛び込んできた。
へえ、子供たちがもう来てるんだ。
子供たちの声に加えて、革のグローブにボールが収まる時のバシッという独特の音が、休みなく響いてもいた。
選抜テストの開始までにはまだかなりの時間があったが、応募選手たちはほぼ全員がすでに集合しており、監督やコーチたちの注意を少しでも引きつけようと、意欲的なデモンストレーションを始めていた。
69 :
S.S:2001/08/11(土) 22:42 ID:HC77kzlU
2日前の午後、みちよと一緒に空っぽのグランドを歩いたときも、私の心は混乱していた。
しかし今回は、それとは比べものにならない。
私の心は混乱を極めていた。
これから何が起こるかまったく予想できない。
70 :
S.S:2001/08/11(土) 22:42 ID:HC77kzlU
ただ、グランドにいる子供達は、私がこの球場を世界中で1番神聖な場所だと信じていたほぼ20年前と、それほど変わりはないようだ。
見た目も、声の出し方も、動き方も、当時一緒にプレーした仲間のそれと、たいして違いはない。
私は目を閉じ、子供たちが放つさまざまな音のコンビネーションに耳を傾けた。
ウチも昔、こうやって選抜テストを受けたんだよな・・・・
いつしか私は、自分がリトルリーグの選抜テストに始めて挑んだときのことを思い出していた。
71 :
S.S:2001/08/11(土) 22:43 ID:HC77kzlU
そのとき、私はわずか数日前に9歳になったばかりだった。
すごく緊張していた。
怖かった。
父の車に乗せられ、私はこの球場にやってきた。
父は駐車場で、私がグランドに向かって走り出す直前、私に握手を求めて言った。
「裕子、いっぱい楽しんできな」
楽しむ・・・・大人になるにつれ忘れていった言葉。
72 :
S.S:2001/08/11(土) 22:44 ID:HC77kzlU
「裕ちゃん・・・・」
私は目を開けた。
5・6メートル先にいたみちよが、心配そうな顔でこっちを見ている。
「大丈夫?」
私は肩をすぼめて頷いた。
みちよが1塁側のダグアウトを指さす。
「まだ時間があるうちに、役員の連中に会っておこうか」
73 :
S.S:2001/08/11(土) 22:45 ID:HC77kzlU
グランドにホイッスルが甲高く鳴り響いた。
小さなプレーヤー達が、投げたり走ったりのウォーミングアップ兼デモンストレーションを速やかに停止し、1塁側のスタンドに向かって、騒々しく大移動を開始する。
観客席全体に散らばっていた親たちも、1塁側に集まってくる。
リーグ会長の挨拶から選抜テストは始まった。
74 :
S.S:2001/08/11(土) 22:45 ID:HC77kzlU
今回の選抜テストで4チームの監督がプレーヤーの能力を評価する。
その評価が、月曜の夜の選択会議の際の重要な資料となる。
その選択会議を経て、例年通り、4チームの陣容が決定する。
75 :
S.S:2001/08/11(土) 22:46 ID:HC77kzlU
選抜テストは昼過ぎまで続いた。
すべての子供が打席に入り、その中でそれぞれ6回のスイングを許されていた。
バッティング投手を務めたのはコーチの1人で、打ちごろの球を必ずストライクゾーン内に投げられるという、貴重な才能の持ち主だった。
また、次々と交代しながら、1度に4人が内野の守備についていた。
それぞれ得意なポジションを守り、打撃テスト中の選手が打つボールを、実践のつもりで捕球するよう求められていた。
76 :
S.S:2001/08/11(土) 22:47 ID:HC77kzlU
さらに、打撃テストが延々と行われる中、少なくとも6人のプレーヤーが交代でキャッチャーボックスに出入りしていた。
言うまでもなく、キャッチャー志願者たちである。
時を同じくして、外野では、ライト側ファウルラインのすぐ外側に陣取った別のコーチが、センターの守備位置あたりに集まっていた別の子供たちに向かって、高いフライを打ち上げていた。
それら一連の活動が始まってから45分ほどが過ぎた頃、内野と外野の子供たちが入れ替わった。
77 :
S.S:2001/08/11(土) 22:47 ID:HC77kzlU
さらに、ライト側ファウルグランドのブルペンでは、もう1つの小さなグループがピッチングを披露し続けていた。
ここのボールを受けていたのも、もちろんキャッチャー志願者たちである。
キャッチャー志願者達は、そことホームプレートの間を、臨機応変に行き来していた。
78 :
S.S:2001/08/11(土) 22:48 ID:HC77kzlU
選抜テストが始まってからみちよと初めて話したのは、お昼少し前のことだった。
「監督、成果はどう?」
彼女にクリップボードを手渡して、私は言った。
「こんなに多くの選手を2時間程度で評価するなんて、至難の業やで。とりあえず10段階で評価しては見たけど。あとは選手の簡単な特徴をできる限りメモしたわ」
彼女はボードを見ながら何度も頷いていた。
「私がアドバイスすることは何もなさそうだね。完璧。んでピッチャーの評価は・・・・」
79 :
S.S:2001/08/11(土) 22:49 ID:HC77kzlU
私はボードを指さし、説明した。
「ピッチャーの評価はここ。これは1番2番で評価してる。しかし、問題は選択会議で何番目のくじを引けるかやね。1番くじを引いた人は、間違いなくこの『1番』を指名するやろ」
みちよが頷いた。
「さすがプロやね。この後藤真希は、リーグ1のピッチャー。その上バッティングもすごい。まあ、誰もがほしがるスーパースターやね・・・・ん?」
「どした?」
「この子はどうしたん?数字が抜けてる」
みちよはそう言ってボードを差し出してきた。
80 :
S.S:2001/08/11(土) 22:50 ID:HC77kzlU
「ああ、これか。なんて言ったらええか、すごくちっちゃな子なんや。それで、動きは鈍いし、バラバラなんよ。どう採点してええか困ってん。
ただこの子はあきらめないねん。めっちゃ遅いんやけど走るのやめへんし、空振りの連続なんやけど全然へこたれへん・・・・知ってる子か?」
みちよがボードを覗き込んで言う。
「辻希美・・・・いや、知らない。この町に来たばかりなのかも」
81 :
S.S:2001/08/11(土) 22:51 ID:xXpA2L/.
私は外野を指さした。
選手たちがノックを受け続けている。
「あの・・・・左から3番目の子や」
次の瞬間、その小さな少女が選手たちの群れから離れ、数歩前に出た。
後ろで見ている選手たちは、互いに肘でつつき合いながらニヤニヤしている。
コーチがノックする次のフライを取るのは、明らかに希美である。
82 :
S.S:2001/08/11(土) 22:52 ID:HC77kzlU
その少女は、膝を軽く曲げて上体を少し前に傾け、右手の拳で左手のグローブを何度も叩いた。
「あれっ・・・・」
私は思わずそう言い、息をのんだ。
「どうした?何かあった?」
そう言ってみちよは外野を見回した。
「いや、別に・・・・何でもない」
83 :
S.S:2001/08/11(土) 22:53 ID:HC77kzlU
とても言えなかった。
前傾姿勢でボールを待っている辻希美の姿が、望と瓜二つに見えた、なんてことを言える訳がない。
しかし、あの姿は本当に望にそっくりだった。
体格も、私が愛した7歳の娘とそれほど違わない。
84 :
S.S:2001/08/11(土) 22:53 ID:xXpA2L/.
ファウルラインの外にいたコーチが、希美目がけて高いフライを打ち上げた。
希美が上空を見上げる。
前後左右に行きつ戻りつをくり返しながら、両手を天に掲げ、それを不規則に、せわしなく動かし続けている。
あれでは無理だ。
結果は見えている。
85 :
S.S:2001/08/11(土) 22:54 ID:xXpA2L/.
やがてボールが落ちてきた。
希美が左に動く。
続いて右に動く。
そして前方に走り出す・・・・と次の瞬間、足がもつれて転倒・・・・芝生に頭からつっこんだ!
後方で見物していたプレーヤーたちは、互いに顔を見合わせ、口や腹を手で押さえながら必死で笑いをこらえている。
86 :
S.S:2001/08/11(土) 22:55 ID:xXpA2L/.
数分後に訪れた次のチャンスでも、彼女はボールを捕れなかった。
飛んできたボールは無情にも、彼女の前方2・3メートルのグランド上に落下した。
しかし彼女は、そのボールに必死で走り寄り、それをわしづかみにするや急いでコーチに投げ返した。
ただし、そのボールが飛んだ距離は30メートルそこそこだった。
後方の子供たちがいっせいに背を向ける。
どうやら、笑いを隠す新しい方法を見つけたようだ。
希美は右手の甲で何度か両目をこすりながら、選手たちの群れに戻っていった。
87 :
S.S:2001/08/11(土) 22:55 ID:HC77kzlU
「うーん・・・・」
みちよがため息をついた。
「選択会議では、たぶん最後まで残るやろうな。あの子を預かった監督は大変や。規則で、どの試合ににも必ず出さなくちゃいけないんや。
アウトを6つ取るまでは守らせるしかないし、必ず1打席は立たせなきゃいけない。どこを守るにしても、彼女のところにボールが飛んだら目をつぶるしかないで」
88 :
S.S:2001/08/11(土) 22:56 ID:HC77kzlU
そうやって話しているうちに、またもや希美の番が来た。
今回は、ゆっくりと落ちてくるボールの下を通り過ぎてしまい、ボールは彼女の背後に落下した。
通り過ぎた事に気付いて急ブレーキをかけようとしたために、ボロボロのスニーカーが芝の上で滑り、またもや転倒するというオマケ付きだった。
そして彼女は急いで起き上がって、またもやコーチへの返球を試みた。
ユニフォームについた草を払い、野球帽のひさしをグイと引くと、ボールに向かって全力で走り、それを拾い上げ、コーチに向かって7・8歩の助走をしてから、渾身の力を込めてボールを投げ放つ。
89 :
S.S:
投げたボールは、小さな弧を描いて芝生の上に落下してからコロコロと転がり、ノックをしていたコーチのちょうど足元に停止した。
後ろで見ていた子供たちが、拍手をしながら歓声を上げる。
明らかにからかっている。
希美はボールの行き着いた先を確かめると、野次馬たちを振り返り、帽子のひさしに手をやった。
「見なよ、みっちゃん・・・・」
私は静かに言った。
「あの子、笑ってるよ」