ギコモナ塾第二期開講

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108日雇い講師ヤミ鷹
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   |  豊臣秀頼は豊臣秀吉の次男だ。長男の鶴松が3歳であぼーん、もとい
   |  死んでいたため、秀吉の後継となった。母親は淀殿(淀君)。
   |  秀頼が5歳のときに秀吉が死去。五大老(秀吉を支えた有力大名)筆頭の
   |  狸親父徳川家康と、五奉行(今で言う官僚)の一人茶坊主石田三成が政権の
   |  座を争ったのが関が原の合戦だ。勝利を得た家康は、もはや豊臣家に勢いは
   |  ないと判断して江戸幕府を開く。豊臣家は一大名に転落した。
   |  それでも家康は「豊臣家の恩顧あなどりがたし」と考えて、方広寺の鐘の銘に
   |  ヤクザまがいのいいがかりをつけて淀君を挑発。大坂冬・夏の陣の戦いになったが
   |  善戦むなしく豊臣家は完全敗北、淀君・秀頼は燃える大坂城の中で自害した。
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   | / |  >>107
   V. .│   1553生〜1615没
      |    しかし久しぶりの講義だな(笑) 
.   Λ Λ    。    。   Λ_Λ
   (@`@`゚Д゚)  /      \ (´∀` )_________
   /   つ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ⊂     )
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 1609年に、秀頼と家康は二条城で会見している。このとき家康は秀頼を
 「賢明な人物である」と高く評している。そのわりには「19歳になるまで
 牛を見たことがなかった」「サザエが木になるものだと信じていた」という
 バカ殿的逸話も多いのだが・・・まあ徳川家が流布したのかもしれんな(笑)。
 関が原後、反徳川の態度をとりつづけたのは淀君であって秀頼本人ではない。
 秀頼に豊臣家滅亡の責任を負わせるのは酷だろう。淀君がおとなしくしてれば
 徳川治世下の公家大名として無難にすごせたのではなかろうか。