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| 豊臣秀頼は豊臣秀吉の次男だ。長男の鶴松が3歳であぼーん、もとい
| 死んでいたため、秀吉の後継となった。母親は淀殿(淀君)。
| 秀頼が5歳のときに秀吉が死去。五大老(秀吉を支えた有力大名)筆頭の
| 狸親父徳川家康と、五奉行(今で言う官僚)の一人茶坊主石田三成が政権の
| 座を争ったのが関が原の合戦だ。勝利を得た家康は、もはや豊臣家に勢いは
| ないと判断して江戸幕府を開く。豊臣家は一大名に転落した。
| それでも家康は「豊臣家の恩顧あなどりがたし」と考えて、方広寺の鐘の銘に
| ヤクザまがいのいいがかりをつけて淀君を挑発。大坂冬・夏の陣の戦いになったが
| 善戦むなしく豊臣家は完全敗北、淀君・秀頼は燃える大坂城の中で自害した。
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>>107 V. .│ 1553生〜1615没
| しかし久しぶりの講義だな(笑)
. Λ Λ 。 。 Λ_Λ
(@`@`゚Д゚) / \ (´∀` )_________
/ つ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ⊂ )
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1609年に、秀頼と家康は二条城で会見している。このとき家康は秀頼を
「賢明な人物である」と高く評している。そのわりには「19歳になるまで
牛を見たことがなかった」「サザエが木になるものだと信じていた」という
バカ殿的逸話も多いのだが・・・まあ徳川家が流布したのかもしれんな(笑)。
関が原後、反徳川の態度をとりつづけたのは淀君であって秀頼本人ではない。
秀頼に豊臣家滅亡の責任を負わせるのは酷だろう。淀君がおとなしくしてれば
徳川治世下の公家大名として無難にすごせたのではなかろうか。