ピアニストは以前からそう決めていたように、女を殺すため彼女の後をつけていく。
女はこれまたひょんな事から、写真家が死んだと聞かされて絶望していた。
どうでもいいけど、「ひょんな事から」って実に便利な言葉だよね。
打ちひしがれた女は、教会で一人キリスト像の前にひざまづくと「神よ、お許しを」と祈った。
彼女を殺そうと近付いたピアニストは、その姿に思わず呟く。
「汝を許す」
それがかつての恋人の声だとも気付かずに、神から語りかけられた「奇跡」に涙をこぼす女。
ピアニストはそっと教会を立ち去り、運河のほとりに立つ。
おもむろに川面へ足を下ろし、一歩、二歩、三歩…と水の上を歩くと
彼は微笑んだまま川底へと沈んだ。
ピアニストの死を嘆く写真家は、彼の遺骨を胸に彷徨っていた街角で、招待券を渡されて映画館へ入る。
ポルノだった。しかもあのポルノだった。映画館いっぱいに響く自分の喘ぎ声。
目を丸くして座席に沈み込んだ彼だが、いきなり名前を呼ばれる。
自分の名前ではなく、友人の名前だ。今観ている映画で一緒に「吠え合った」彼女がそこにいた。
映画館を出た彼等は、ぎこちなく会話を交わす。
女は写真家にようやく自分の想いを告げて、彼にキスをする。
その時、女は写真家の腕時計に触れる。
それは彼がピアニストから預かった、珍しい細工の施されたものだった。
そしてそれは、彼女がかつての恋人と付き合うきっかけとなった、思い出の時計だったのだ。
「どうしてあなたがこれを?全てはこの時計から始まったのよ?」
女の驚いたような問い掛けで、映画は終わる。
この映画、いまだに好きな映画ベスト10に挙げてしまうくらいのお気に入りだったりする。
良質のすれ違いコメディー。真面目にあらすじを書くのも馬鹿馬鹿しいほど
全てのエピソードがふざけた設定に仕立て上げられていて、だからこそ
ラストの川面を歩いて微笑むピアニストに、うっかり神々しさまで感じてしまうんだと思う。
シリアスになるのは本当にこの一瞬だけ。お笑い部分を書く文章力がないのがすごく残念。
これ、よくよく考えると悲劇なんだよな。
シリアスタッチにすれば泣ける映画にもなるストーリーなんだろうが
一つひとつのエピソードに、笑い飛ばせば悲劇じゃない!みたいな監督の意気込みを感じる。
俺は多分そういうのが好きなんだろう。
不幸を悲しい声で語ってもただの悲劇にしかなんねーよ、みたいな。
とにかく、ただストーリーを追っただけの俺の文章じゃこの映画の面白さは全然伝わってません。
ごめんなさい。ちょっとだけ努力しましたが無理でした。
マイナーなまま忘れ去られるのは惜しい映画だと思います。
あと、タイトルも俺の文章力並みに残念な雰囲気があると思う…
劇場公開はしたけど現在廃盤作品、「ゼロシティ」。
ある機械技師が、モスクワから取引先の工場へと列車で赴く。
その工場からの納入品を一部設計変更してもらうために図面を送ったのだが
図面ではなく人を寄越してくれ、と言われたためだった。
工場長室へ行くと、前室で秘書が全裸でタイピングしていた。
戸惑いながらもしっかりおっぱいを堪能し、工場長と面会。
しかし彼の話は工場長には全く通っておらず、工場長はインターホンで
秘書に主任技術者を呼ぶように言うが、彼女の返事は
主任技術者は八ヶ月前に川で溺れ死んだ、というものだった。
思い切って、インターホンの向こうの秘書が全裸である事を工場長に話す技師。
工場長は秘書のいる部屋を覗き、「ホントだ」とそっけなく呟いて
二週間後にまた出向くようにと技師に告げる。
なんとなく話が噛み合わないまま工場を出た技師は、駅で切符を買おうとするが、横柄な態度で断られる。
仕方なく腹ごしらえのためにレストランに入ると、食後に頼んでもいないデザートが出てきた。
給仕が言うには、コックがあなたの事を気に入ったらしい、
もしも食べなければコックは自殺するだろう、との事。
しかしリアルな自分の頭部の原寸大、つまり、まんま自分の生首のようなケーキに気分を害し
彼が店を出ようとした瞬間、銃声が響く。振り向くと、コックが胸から血を流して床に倒れた。
警察で事情聴取を受けながら、こんな事になるなら一口食べるべきだった、と後悔する技師。
しかし結局、事件性はないという事になり、彼は警察を後にした。
既にとっぷりと日は暮れていた。
技師はタクシーを拾い、先程切符を買う事ができなかった駅とは別の駅へ向かう。
しかし途中まで行ったところで道が封鎖されている。運転手が言うには、駅まではあと1キロほどとの事。
彼はタクシーを降りて歩く事にするが、森の中で道に迷ってしまう。
森のはずれに明かりの灯る建物を見つけ、道を尋ねに入ると
そこは郷土博物館で、男が一人、泊まり込みで管理していた。
管理人は、この辺りには駅がないので運転手の間違いだろうと言う。
バスも翌朝まで出ないので、近所の女性に駅まで車を出すように頼んでくれる。
女性が来るまでの間、技師は博物館の中を管理人に案内してもらう事となった。
炭鉱の坑道を利用した地下の展示室には、その街とソ連の史実を再現した蝋人形が並んでいた。
歴史的に大して重要とも言えないビミョーな歴史のワンシーンが、妙にリアルな蝋人形で語られていく。
年代もまちまちで、発掘された寝台に残されていたDNAから明らかになった、古代の王の蝋人形の横に
この街で初めてロックンロールを踊った一組の男女の蝋人形が置かれていたりする。
管理人の説明を受けながら全ての展示を見た技師だったが
時間になっても女性が現れないので、管理人の勧めで近所の家に一晩泊めてもらう事となった。
一家は快く技師を迎え入れ、夕飯を振る舞ってくれる。
しかし夫婦が席を外した時、彼等の幼い息子が技師に言う。
あなたはこの街から出る事はできない。そして2015年に死に、この街に埋葬される。
墓石にあなたの子供達からのメッセージが刻まれているのが見える…
その子供は彼の娘の名前を読み上げた。その言葉の奇妙な符号に声を失う技師。
そこへ、タイヤがパンクして遅れてしまったと言って、例の女性がやって来た。
車は駅のある街を目指して夜道を走るが、追い掛けてきた警察に止められる。
技師は、コックの自殺の件で新たな進展があった事を告げられ、もう一度同行を求められる。
署で刑事から見せられたものは、コックの自宅から出てきたという技師のの写真だった。
裏には技師本人の筆跡で、あたかもコックが父であるかのようなメッセージが書かれている。
お前は面識がないと言っていたが、実はコックの息子なのだろうと問い詰められ、必死に否定する技師。
しかし、重要参考人として街から出る事を禁じられ、検事と面会する事となった。
検事はこの奇妙な事件を他殺だと考えていた。よくよく思い返してみれば
技師は銃声がしてから振り返ったのであり、実際に誰が銃を撃ったのかは見ていない。
よそ者である技師に自殺を目撃したと思い込ませるよう、巧妙に仕組まれた殺人事件なのではないか。
それが検事の見解だった。
技師がなんとかしてモスクワへ帰りたいと訴えると
検事はソ連の社会主義体制が如何に優れたものかを語り出し
この事件は国家を揺るがしかねないものだとして、彼に街へ留まるように言う。
そしてその間、コックの息子の振りをするようにと技師に告げたのだった。
その翌日も、ホテルの部屋で、本当に街から出られなくなってしまった事に呆然とする技師。
そこへ、彼を駅まで送ろうとしてくれた例の女性が現れる。
作家同盟の会長がコックの息子であるあなたに会いたがっている、と彼女は言う。
何故見ず知らずの人間の息子を名乗らなければならないのか納得のいかぬまま、技師は会長と会う。
会長は一本のフィルムを彼に見せた。「街で初めてロックンロールを踊った男女」の映像だった。
それは、あの博物館の地下展示室に置かれていた蝋人形のモデルとなった事件であり
映像の中で踊っている男こそが、自殺したコックの若かりし日の姿であると会長は語った。
この事で、コックと相手の女は西の文化に傾倒した反政府分子として党から除名され
女はそのショックから酢酸を飲むが死に切れず、声を潰してしまったのだという。
会長は、コックの自殺は彼らしいパフォーマンスであると賞賛する。
検事は他殺だと言っていたと技師が話してみても
当時二人を除名処分にしたのがその検事である、とやり込められてしまう。
そしてこの日開催されるコックの追悼ロックンロールダンスパーティで
息子である技師に挨拶してほしいのだと会長は言い出した。
断り切れず、なし崩しにパーティ会場へ連れて来られた技師。
そこには市長を始め、あの工場長やレストランの給仕、そして検事の姿もあった。
知らない男についてどう語ればいいのかと戸惑う技師に
善良な人間だったとでも言っておけ、と検事はアドバイスする。
こうして、検事に教えられた通りの技師の挨拶でダンスパーティが始まる。
人々が楽しげに踊る中、検事だけは渋い顔をしていた。
やがて周りから促されて技師まで踊り始めると、検事はいまいましげにマイクを掴み
コックは自殺などする勇気のある人間ではなかったと、彼を英雄視する会場の人々を諌める。
自殺とはこうするものだ!と叫んだ検事は銃口をこめかみに当てて引き金を引くが、不発。
彼は情けなく泣き叫びながら会場を飛び出して行った。
パーティが終わると、興奮冷めやらぬ人々が技師のホテルの部屋へと押しかける。
当時コックと踊ったという筆談の女、市長、工場長、検事、踊り足りないらしい女達、
果てには騒ぎを聞き付けた隣の部屋の宿泊客までも交えて、ビールで乾杯となる。
ただ一人、検事だけが事態を憂う発言をするが、醜態を晒した彼の言葉に耳を貸す者など誰もいなかった。
やがて盛り上がった彼等は森へと繰り出して行く。
ビールで酔っ払い、夜の森で遊び出した人々を技師が眺めていると
検事は彼に「行け」と耳打ちした。
一瞬面食らうが、すぐさま森の奥へと走り出す技師。
ちょうどその頃、例の博物館では管理人が閉めの業務をしていた。
地下展示室の蝋人形を照らし出すスポットライトを一つずつ消していき
最後に彼は「街で初めてロックンロールを踊った男女」の照明を落とした。
そしてそれに対比させるかのように
朝日に照らされながらボートで川を下る技師の姿が映されて、映画は終わる。
どーだ、わけわかんねーだろ。
俺、書き始めて30秒で後悔したわ。
さて、ソ連映画である。
なんとなく、タルコフスキーの作品は「ロシア映画」と言いたくなるのだが
これは「ソ連映画」としか言い様がないような作品だ。
ソ連崩壊直前に発表されたらしいが、よくまぁ検閲で引っ掛からなかったなと思うくらい
弱体化したソ連政府をおちょくる内容となっている。
物語中で起こる出来事は、社会主義政策の合理性のなさを暗喩しており
全体を通した物語の不条理さは、社会主義国家の不条理さそのものを表しているんだと思う。
この映画、ジャンルとしてはコメディーに分類されているらしいのだが
国家を皮肉る事が当時のロシア人達の笑いのツボなんだとすれば、これほど笑える映画もないだろう。
ソ連崩壊の歴史をある程度知らんと、本当にただただワケのわからん映画だが
よくある、ストーリーの軸が取っ払われている不条理系映画とは違って
コックの死の謎や技師の脱出劇といった一応のテーマがあるので
眠気という点ではあまり問題なく観る事ができる。
ロックンロール(最初の「ロ」は巻き舌)とビールが民主主義の象徴である事を踏まえていれば
大体のところはわかる仕組みとなっているのが有り難いです。
あー、こりゃ確実に四月までに1000いかねーなぁ。
でも俺も、そうそう毎日映画の事考えてるわけじゃねーのよ。
って、何の言い訳してんだか。
二つ上の書き込みの最後に、ビールは民主主義の象徴だ、
というような事を書いたが正しくないかも知れん。
というのは、ヨーロッパのビール大国といえばチェコとドイツだから。
どっちもソ連の統治下にあった国であり、つまりは「ソ連色」に染めた筈の国なわけだ。
ソ連といえばウオッカ。飲み続けると喉とか唇とかが腫れるほど強い酒だ。
俺あんま酒強くないから、本能的に飲み込むのやべぇと思ってしまう。だって痛いんだもん。
それに比べりゃビールなんて水みたいなもんだろう。
そのビールにウオッカが負けた、つまり、属国の文化が支配国に影響を及ぼしてるという事で
ソ連の弱体化を表したのかも。
まぁいいんだけどさ。どっちにしてもわけわかんねー映画だって事に変わりはないし。
チェコのビール好きをよく表している台詞が
「スウィート・スウィート・ビレッジ」というチェコ映画の中に出てくる。
ある家では、納屋の地下に続く「階段の七段目 」にビールを置いておくと
ほどよい冷え具合になるという意味の台詞。六段目でも八段目でもいかん、と。
チェコ人には、キンキンに冷えたビールとか出しちゃ駄目っぽいです。
この映画、プラハ近郊と思われるある村が舞台となっていて
そこで暮らす人々の、のほほ〜んとした日常を描いた大変呑気な作品なんだが
ラストにもう一つ、いいなぁと思った台詞があった。
初老の医者が、丘の上で村を見渡しながら
「ここは国ではない。大きな庭だ」と呟くんだけど
なんとなく、自分の住んでる場所をそんな風に思えるのっていいよな。
上の方で散々書いた、プラハっ子の愛国心とはまた違った感じでさ。
民族意識とかそれ故のプライドとかでもなく
目の前に広がる風景と、そこに暮らす人達が愛しいっていう。
郷土愛とでもいうのかな、そういうの、俺感じた事ないからなぁ。
t
ネタがねぇとか言ってたら、PC携帯双方が絶妙のタイミングで規制食らった。
なんで同時にぶっ壊れたり規制されたりするんだろ…
というわけで、どんどん1000が遠のいていきます。あー、全く。
犬
よっしゃ復活。
先日、遠方に住む友人と久し振りに会ってきた。
前回会ったのがいつだったか思い出せずに考え込み、はたと手を打ったかと思うと
「確か『チャーリーとチョコレート工場』の公開前だった」
などと、映画で年月をはかるようなロクデナシである。
いやまぁロクデナシかどうかは別として、何故友人がそんな思い出し方をしたかというと
前回の逢瀬で俺が「すげえ映画観た」と語ったすぐ後に
「チャーリーとチョコレート工場」が公開になったから、という理由がある。
その時俺が語った映画というのが「チャーリー…」の元ネタとなった作品、「夢のチョコレート工場」。
昔の知人の友人に、英会話教室の先生をやっている人がいて
ある日、彼女が小学生の授業の教材として使ったのが「夢のチョコレート工場」だった。
彼女は授業そっちのけでその映画に魅せられてしまい、知人に勧めた。
知人も一発でノックアウト、それで俺に回ってきたわけだが
俺が子供映画を避けまくる事は知っていたので、騙し討ちのように観せられた。
結果、上記のように友人に語ったわけだ。
俺は「チャーリー…」の方は観てないのだが、「夢の…」の方はものすごかった。
物事を形容する時に「すごかった」という言葉がどれほど役に立たないかはわかってるんだが
あれは本当に、「ものすごかった」という表現しかできないんですよ。
俺の脳ミソで理屈をこね回すキャパを軽く越えたセンスなのね。
恐らく、あらすじはリメイク版とさほど違わないのだと思う。
原作は児童文学なので、「正直者のチャーリーは幸せになれたよ、皆もいい子にしようね!」
みたいな教訓物語としての部分は、そんなに外してないだろう。
しかし、リメイク版を監督したのはティム・バートン。
映像的にはそこはかとなくおされな雰囲気で、「夢の…」のもつあの破壊力はない。
観なくても断言しちまうよ。ないね。絶対ない。
チョコレート工場で働く小人、ウンパ・ルンパ族。いや、正式名称は知らんし知りたくもねぇ。
友人の話によると、バートン版は小人俳優が一人十数人役をしているらしい。つまりCG。
俺が観たのはそうではなく、小人俳優を十数人揃えていた。
しかもその小人、肌はオレンジ色で髪は緑色おかっぱ。
まるで、昔見かけたうらぶれたダンス用品店のショーウインドーの
売る方も買う方も、いや作った奴が正気じゃねーだろ、
と思わずにいられなかったあのダンス衣装そっくりな雰囲気。
バリバリ主観で申し訳ないが、その上眉毛は白いんだぜ?
まぁ、常人ではちょっと計り知れないセンスな事は確かだよ。
そして、その小人がさらうさらう、悪い子達を次々とさらって行くのである。
緑色の髪でオレンジ色のおっさん顔した小人に、ひっく〜い声で
「ンパルパダー」とか歌われて連れ去られてしまうのである。
なんかその前に、その子の何が悪かったのかの教訓めいた歌詞があるんだが
当人も周りの子供も、そして映画観てる俺も、んなもん聞いちゃいねぇよ。
ウンパルンパに目ぇ釘付けだよ。
「連れ去られる」って行為は、一般常識と照らし合わせて
ああこりゃ非常に不味い事になったな感があるじゃん。
でもそれってさ、連れ去るのが黒い服の男達の場合は「殺されるかも」とか
輪郭が逆紡錘形したツリ目の銀色の奴の場合は「まだチップ埋め込まれたくない」とかさ、
何かこう不安がりようがあるじゃん、具体的に。
でもさ、オレンジ色したウンパルンパに連れ去られても
何されるのかちっとも思い浮かばねーもん俺。
でもなんか、痛くも痒くもないけどえげつなさだけは一級品!
みたいな事される妙な確信だけはあるのが怖ぇのよ。
…と俺は思うのだが、映画の中の子供達は
なかなかしたたかに悪事を働き、次々とその数を減らしていく。
サバイバル・イン・チョコレート工場。連れ去られた子供のその後は覚えてない。
つーか、あのウンパルンパのダメージじゃなくてイメージが強すぎて
細かいところはほとんど覚えてねぇ。
だからここまで小人ばかりを強調してしまうのもフェアじゃないかも知れんので
もう一つ印象的だった事をあげておこう。
この映画、黒人が全く出てこない。
主要人物としては勿論、通行人としてすら黒人の姿はちらりとも出てこない。
俺は別に人権派ってわけじゃない。
普段なら白人しか出てこない映画を観ても気付きもしないだろう。
だが、この映画では気付いた。何故か。
小人がオレンジ色だったからだ。うん、これ以上は言わない。
なんて、かなり嫌な感じに書いたが、英会話教室の教材になるくらいだし
子供が観ればちゃんと楽しめる作品なのかも知れない。
もしもこの映画を観る機会に恵まれた人は、どうか偏見をもたずに観てほしい。
まぁ、偏見抜きにしても小人はオレンジ色なんだけどな。
ああ、これがトラウマってやつなのかなぁ…
で、全然関係ないんだけどさ、さっき甘いものが飲みたくなって
冷蔵庫覗いたら缶コーヒーがあったんで、温めようと思ったんだけど
カップにあけるのも面倒で、あ、いいもんあるじゃんと思ってポットの中に放り込んでおいて
そろそろ飲めるかなぁという頃合いなんだけどさ、あれ一体どうやって取り出せばいいと思う?
規制されてない時は、書く事ねぇとか言っておきながら
久々に書き込めたら余計なとこで饒舌になってるよ。
何か寂しい人間だなぁ…
今日はカナダで壮大なお遊戯会が催されていましたね。
ボスがスポーツ&祭好きなんで、会社がずっとテレビつけっぱでチラチラ観てたんだけど
個人的にはアイリッシュステップ集団が出てきたのが嬉しかった。
しかしアイリッシュステップには何故か解説入らず、どこの踊り子団だったんかわからんかった。
その前のバレエの解説はちゃんとしてたのに、なんで突然黙り込むのよ?
しかもカメラが楽団ばかり追い、踊り子団を映してくれなくて消化不良気味だったので
自己満足でリバーダンスを貼っておく。
ttp://www.youtube.com/watch?v=DXEl1pEOoec&NR=1ttp://www.youtube.com/watch?v=uaHmcCp77JE アイリッシュ音楽は好きだ。特にバイオリンはカントリーよりアイリッシュの方がいいと思う。
踊り子団については、女性陣がね〜。
アイリッシュステップは上半身をほとんど動かさないタップダンスなんだけど
女性がジャンプする時に、こう、肩を少しだけ揺らすような感じにするのがセクシーだなーと。
それと、プリマの男版、なんつーんだっけ?プリ男?
プリ男は下のヒゲプリ男の方が華がある気がする。
この踊り方は、圧政でダンスや音楽を禁じられたケルト人達が
窓の外から見られても踊ってるのがバレないように
脚だけでステップを踏むようにしたのが起源だと聞いた事がある。
そういえば、ルンバは囚人達が足枷のせいで
ワンテンポ遅れてステップを踏む事から生まれたものらしい。
いやー人間ってのはすごいよね。それでも踊って、文化にまでしちゃうんだから。
「座頭市」は観た事ないんだけど、下駄ップが観たくなってきた。
で、お遊戯会を観てて思ったのは、昨今の映像技術はすげぇですね、という事。
映画も、業界の新機軸とも言える3Dが話題になっていて、皆さんあばたーあばたー言っている。
これからは3Dが主流になるみたいな感じだけど、どうなんだろうか?
テレビ放送に関しては、あんま観ねぇしどっちでもいいやという感じなんだが
映画に関しては2Dと3Dで二分化されるんじゃねーですかね?
だって、クエイが立体化したらちょっと面白そうだと思うが
リンチが立体化したら…あんま考えたくねぇな。
何より、「絵画的な映像」なんて言葉もあるくらいだし
例えばタルコフスキーみたいな作品は、そもそも立体化する必要がないように思う。
で、どっちかっつーとそういう映画が好きな俺としては
なんだかなぁとなってしまって、完全にノリ遅れてしまっている。
いや本当は、わりと映像酔いするタチなので、あばたーとか怖くて観られないんすよ…
お陰様でブレアウィッチプロジェクトは二度と観たくないのホラー映画の一位に輝いてるし
酒飲みながらスターウォーズ観た時も、戦闘シーンで俺自身が別の何かと戦っちゃってたし。
困るよ3D。絶対酔う自信あるよ俺。
そんなわけで、あばたーだけは観逃す気満々です。痘痕ー!
あーどうしよう、ものすごく面白い映画だったら…
なに改行できなくなってんだ俺?
え〜、本日はわりと有名作、「マルコヴィッチの穴」を。
自作の操り人形でストリートパフォーマンスをしている、
才能はあるのにデビューの機会に恵まれない人形師。
妻の勧めで就職する事になるが、採用されたのはビルの7階と8階の中間、
つまり「7と1/2階」にある、天井高も1/2の会社。
同じフロアで働く女に恋をした彼は、なかなか落ちない彼女にアタックしながら
この奇妙な会社に次第に馴染んでいく。
ある日彼は書類棚の裏に隠されていた小さな扉を発見する。
扉の向こうは洞窟のような穴になっており、思い切ってそこへ入って行った彼は
その穴が俳優のジョン・マルコヴィッチの脳内に繋がっている事に気付く。
制限時間は15分、その後は何故か高速道路の脇に吐き出される。
マルコヴィッチの視界を体験した彼は、興奮してこの事を例の女に話す。
すると女は、広告を出してマルコヴィッチ体験を売る商売をしようと人形師に持ちかける。
話を聞いた人形師の妻も穴へ入り、マルコヴィッチを体験する。
だが妻はこれをきっかけに、体についていないちんこが心に生えていた事に気付いてしまう。
しかも、マルコヴィッチの目を通して見た
今や人形師の「商売」のパートナーとなった女に欲情してしまい、同時に女も
マルコヴィッチの目の奥からの妻の視線に興奮し、マルコヴィッチを誘い出しては
マルコヴィッチ&人形師の妻とセックスするというカオス状態に陥っていく。
二人の女からすっかり蚊帳の外に追いやられ、気落ちする人形師。
その間にも商売の客は増え、やがて当のマルコヴィッチが
穴の存在を知ってしまうというトラブルが発生。
穴、つまり自分の脳内を体験したマルコヴィッチは怒り狂い、穴を塞ぐよう人形師に言うが
人形師はやがて、人形を操るようにマルコヴィッチの体を操れるようになってしまう。
ついには女を手に入れ、人形師はマルコヴィッチとして生活し始めるのだが
嫉妬に駆られた妻は、例の会社の社長から穴の秘密を聞き出して
人形師をマルコヴィッチから追い出す計画を練り始める…という奇想天外な物語。
途中、無駄に感動的な、チンパンジーのトラウマ克服物語も挟まれます。
さてこの映画、当たり前だがジョン・マルコヴィッチがいなければ成り立たない作品である。
なんつーか、映画界におけるジョン・マルコヴィッチという俳優そのものの存在感が重要なわけだ。
俳優マルコヴィッチは、食べ物で言えば「薬味のネギ」だ。
例えば納豆を食う時、なくても美味いけどあればもっと美味いよね、という理由で
ネギねーのかよネギ!と冷蔵庫を引っ掻き回させるには十分なのだが
決して好物ってわけでもないという、「風味」としての存在感。
作品制作の経緯は知らんが、もし最初に「映画俳優の中に15分間だけ入れる」
というコンセプトだけがあったとしたら、誰の中に入る事にするかってのはすごく難しい問題だ。
だってさ、いわゆるイケメン俳優の中に入れるんだとしたら、多分男女問わず皆入ってみたいよね。
でもイケメン俳優に入って、できる体験・したい体験ってのは
皆さん大体共通するだろうなという想像の範疇なわけだ。
そこを、あえてマルコヴィッチ。入って損なのか得なのか、さっぱりわからんマルコヴィッチ。
作品の中では妙に名優扱いの彼だが、いやまぁ実際名優ではあると思うのだが
え、なんでわざわざネギになってんの俺?みたいな微妙さ。
他にこの微妙な雰囲気を出せる俳優は、多分ウィレム・デフォーくらいしかいない。
そんでまた、制限時間15分というのもいい。
一日では長い。一日では、マルコヴィッチを生きてしまう。
飽くまで体験版、お試し時間としての15分間なわけだ。
何か事を起こすには十分だが、その結果が出るには不十分で
えっ、待て待てもうちょっと!ゴコロをくすぐられ、リピーター率は高いに違いない。
入ってみりゃあマルコヴィッチ、まぁいいかと思っても15分だけ、
この絶妙のハズレ感が、ムズ痒いような何とも言えない後味を残す。
ストーリー云々以前、設定の段階で勝ちに出たような怪作だと思う。
スピードスケート日本代表は動きの素早いC-3POみたいだとか
メダル貰った人はどうしてブロッコリーを持っているのかとか
この時期にそういう事言うと国賊扱いされそうなのでここに書いとこ。
クロス屋がパテこする時、「イェープイェープ!」とか言ってたり。
カーリング、面白いね。
本日の流れ。
会社でもらった輪切りロールケーキの真ん中にイチゴが入っているのを見て
あーこんな顔した単眼の怪物がいたよね、何だっけ?としばし考える。
キプロス?キルギス?キリバス?ダメだ思い出せねぇ、とググってみたところ
キュクロプス(サイクロプス)と判明。ギリシャ神話に、神様あるいは怪物として登場する。
ギリシャ神話か、全然知識ねぇなぁと思った瞬間、
薄暗い神殿の列柱の向こうからユラユラ近付いてくるメデューサの姿が思い浮かぶ。
ロールケーキで前世の記憶が蘇っちまったよ!と報告したところ
お前の記憶力で前世を覚えてるわけがねぇから、きっとそれは
「タイタンの戦い」という映画のワンシーンだろう、と特撮好きの友人に言われる。
ならば確かめてみようとレンタル屋へ行き、SFの棚の前で思わず「うぐっ」と呻く。
なんでこんな昔の映画がピンポイントで貸出中なんだよ…
まさか…他にも覚醒した奴がいるのか!?
じゃなくて、俺は熱しやすくて冷めやすいタチだから
今観たいものは今観ないと、どーでもよくなっちまうんだよ!
などと棚の前で悶えていても仕方ないので、おとなしく帰ってようつべに頼る事にする。
最初からこうしてればよかったと後悔するほど、あっさりと件のシーンが見つかった。
残念ながら前世ではありませんでした。
そんなわけで「タイタンの戦い」のほんの一部だけ。
ググったばかりの付け焼き刃知識を大胆に披露。
子供の頃の曖昧な記憶でかなり古い映画だろうと思っていたら、81年に公開された作品のようだ。
ギリシャ神話をベースにした、ペルセウスがアンドロメダを手に入れるまでの冒険譚であり
ペルセウスが戦う怪物をデザインしたのは、コマ撮りアニメ技術の巨匠、レイ・ハリーハウゼン。
後のSF監督らに多大な影響を与えた人物であり、この作品が遺作となった。
特にこの作品に登場したメデューサに関しては評価が高いらしい。
確かに頭の中でシーン再生しても、子供心にかなり怖かったという思い出とともに蘇ってくる。
ちなみに「シンバッド7回目の航海」という映画にはキュクロプスも出てくるらしい。
しかし子供の頃の記憶は誇張されがちなので、大した事ないだろうと高を括っていたのだが
今の俺には怖さを楽しむ余裕がある、という点が子供の頃とは変わっただけで
なかなか見応えのある映像だった。つーか、正直言って怖かったです。
というのはアレだ。少し上の方で書いた「不気味の谷」だ。
あれを書いた時には具体的に作品名が思い浮かばなかったので逆説的に書いてしまったが
この作品のコマ撮りメデューサは、まさに「不気味の谷」の真髄みたいな動きをしている。
メデューサの蛇髪の一つひとつの動きをコマ撮りしているらしく
動きがかなり滑らか、滑らかだがどこかぎこちない、その動きの違和感が
いたいけな幼少期の俺の恐怖心を煽ったのだろう。
俺は特撮やCG作品にはあまり興味がないのでよく知らないのだが
「不気味の谷」はわりと使い古された技術なんだろうか?
あれが計算され尽くした動きだとしたら、ハリーハウゼンという人は確かにすごい。
なお、最近この映画のリメイク版が作られたらしく、日本ではG.W.あたりに公開されるらしい。
レンタルしてった奴は多分それで旧作を観とこうと思ったんだろうな。
しかしこっちのメデューサの動きを観てしまうと
CGの綺麗な映像では物足りなくなりそうな気がする。
リメイク版でもそこらへんに考慮してくれているなら、ちょっと観てみたい。
とにかく、借りていった奴は早く返すように。以上。
あのメデューサは確かに子供の頃に見たら怖いわいな
「タイタンの戦い」と「銀河伝説クルール」はノリが似ている
> なお、最近この映画のリメイク版が作られたらしく、日本ではG.W.あたりに公開されるらしい。
リメイクというとあまり良いイメージはないんだけど、とりあえず詳しく
あれ怖いよな!?今観ても十分怖かったぜ!?
「銀河伝説クルール」をちらっとググってみたら、かなり見応えのある残念さっぽい感じだけど
俺そういう映画大好きなんだよね、うわー、観てみてぇな。
情報さんくす、探してみる。
で、リメイク版は「アバター」に出てたサム・ワーシントンがペルセウス役で
またも3D作品になるらしい。なんだよ俺観に行けねーじゃん…
とりあえずヘタレな俺の説明より、オフィシャルサイトでも見てくんな。
ttp://wwws.warnerbros.co.jp/clashofthetitans/
あ〜、話してたら久々に観たくなった
3D作品か・・・期待しないほうがいいな
とりあえずオフィシャルサイト見てみるね、あんがと
いやいや、こちらこそどうもでした。
ちなみに「タイタンの戦い」観るんだったら、俺と同じ店に借りに行くなよ!行くなよ!
しっかしあれだ、3D作品ってレンタルする時どーすんだろ。
って、まぁ観らんねーからいいんだけどさ畜生。
> しっかしあれだ、3D作品ってレンタルする時どーすんだろ。
各家庭が町の文房具屋で赤と青のセロファンを買って3D眼鏡を自作・・・のわけはないか
どうすんだろね
いいねぇ、それw
ハイスペックに対応しようとするローテクな努力は
明治維新以来の日本人の心意気だと思います。
あ、今気付いたが、眼鏡野郎は眼鏡にセロファン貼ればいいのか。
あと3Dで気になるのは、字幕はどうなってるんだろうってとこだ。
今までの二次元でも、字幕読む時は左右の視点移動が忙しかったのに
今度は前後左右になるわけでしょ。
あー、考えただけでも目が回ってくるわ。
まさか字幕も立体になるわけじゃねーよな?
3Dは吹き替え観た方が賢いかもな。
つーか、マンガみたいにふきだしにしたら、それはそれで面白そうだ。
しかしまぁ、なんだってナウシカは何度観ても飽きないんだ?
なんでだろうねぇ
久々に原作読みたくなってきた、ナウシカ。
字幕字幕言ってて思い出したが、ロシアのSF映画「ナイトウォッチ」は
字幕に工夫を凝らしていてなかなか面白かった。
物語はダークファンタジーにありがちな、光と闇の戦い。
遡る事1000年前、光の一族と闇の一族は、双方の力の拮抗から
このまま戦い続ければ共倒れしてしまうという理由から休戦協定を結び、現代に到っている。
一族を構成するのは異種と呼ばれる超能力者達で
能力に目覚めたら、光に入るか闇に入るかを決めなければならないのだが
それが「じゃあ僕は光で…」みたいな感じに、口頭で自己申告というアバウトさ。
能力に目覚めた瞬間にどっちの異種がそばにいてくれたかで大概の進路が決まるので
光も闇も、目覚めそうな奴を見つけてはストーキングするという勧誘合戦に忙しい。
それぞれに属した異種達は、もう一方の族がオイタをしないように見張り合っていて
闇を見張る光が「ナイトウォッチ」、光を見張る闇が「デイウォッチ」と呼ばれる。
一応休戦中なので表明上はおとなしくしているのだが
光側は現代に入ってから力をつけ始め、そんな彼等に虐げられるようになってきた闇は
「ああ?光、チョーシくれてんじゃねぇぞ?」と反発するようになり
時を越えた光と闇のシマ抗争の火蓋がまた切っておろされそうです!みたいなお話。
普通だと、光→正義 闇→悪 みたいな感じになるが、この作品では光が結構アコギな事する。
光にイジメられてもじっと堪えてる闇の方が、なんか慎ましく見えて同情できる。
その上、異種達は血を飲まないと生きていられないという中2…じゃなくて、吸血鬼設定があるので
「光なのに血かよ!光合成でもしてろよ!」みたいな気がしちまうんだよね。
光と闇は敵対しながらも普通の人間達に混ざって生きていくために
協力しなけりゃならない部分もあったりして
なんでしょう、マイノリティの孤独とでもいうんでしょうか、
双方の異種とも、どこか疲れたような、物悲しい雰囲気が漂っている。
つまり、全体的に暗〜い映画です。
で、字幕の件だが。
プールに潜った子供が能力に目覚めかけて鼻血を出すシーンでは
どこからともなく聞こえてくる「come…」という声が赤い文字で表示され
鼻血と一緒にさぁっと水に溶けていったり
登場人物がドアを開けると、字幕がそのドアに押されて消えたりと
細かいところに遊びが入ってて楽しかった。
宣伝文句に「マトリックスを越えた映像が云々」とかあったけど
休戦中って設定のお陰で、単なるバトルファンタジーと違うとぼけた味わいがあって面白かったし
何もわざわざマトリックス越えを目指さなくてもいいんじゃねーかと思うんだけどなぁ。
これがロシア流ダークファンタジーです!みたいな宣伝にした方が
看板に偽りがなくてよろしかったんじゃないかと…
続編の「デイウォッチ」までで完結かと思ったら、どうやら三部作だったみたいだな。
物語はデイで綺麗に終わってたように思うが、一体どんな話が付け足されているんだろう。
二部まででそれなりに楽しめただけに、ちょっと観るのをためらうな…
ナウシカ原作読んだのでちょっとそこらへんを。
アニメでは聖人のように描かれていたナウシカだが、原作の彼女はそれだけでは終わらない。
ひょっとしたら素晴らしかったかも知れない人類の未来を
ナウシカは自己判断で、人々に内緒でぶっ壊してしまうのだ。
アニメのラストが、ナウシカという救世主による再生へのプロローグだったとすると
原作は「破滅もまた命の在り方の一つである」という、潔すぎるナウシカの意思表明で終わる。
面白いと思ったのは、最初の方では性善説を具現化した人物のように描かれていたナウシカが
物語が進み彼女自身が成長するにつれて、一般的に認識される性善とは外れた
命の暗がりとでも言うべきものを根幹にしているという事が明らかになっていき
それと対比させるかのように、ナウシカと敵対する悪の象徴だった登場人物達が
彼女に触れた事によって「善いもの」となって死んでいく、という部分だ。
これはまるで地上の毒を吸って清浄な世界を作り出す腐海を、ナウシカに投影しているかのようだ。
ナウシカが人間の精神の腐海であるなら、彼女もまた瘴気を吐き出さなければならない。
「予定された未来」は彼女の吐き出した瘴気で消滅した、と言えるのかも知れない。
ナウシカは許しや友愛こそが戦争を終わらせると人々に語る。
しかしその一方で、清浄と汚濁こそが生命であると考えている。
光が影を生み、闇の中でこそ光は輝くという二面性を彼女は重視した。
ラスト、墓所の主との戦いは、エゴとエゴとのぶつかり合いだ。
しかしそれすらも、彼女にかかれば「生命は生命それ自身の力で生きている」、
つまり生命の存在自体がエゴである、という事になるのだ。
ナウシカは既に、命の単位を自分自身だの谷の人々だので考えてはおらず、地球全体で捉えている。
乱暴な表現をすれば、現在の自分を取り巻く命がどうなろうとも
未来に繋がる橋渡しとなれればそれでよし、としたわけだ。
端的に言えば、ナウシカは決して聖人でも救世主でもない。
凡人では到達し難いある結論に到った人、というだけなのだ。
これは作中の「(ナウシカは)人々を救わない、ただ道を指し示すだけだ」という台詞からも明らかだ。
ナウシカの出した結論は、ニーチェの哲学に通じるものがあるような気がする。
これは、哲学って何?美味いの?って次元の俺が言う事なので薄目で読み流してもらいたい。
作中でナウシカを苦しめるものの一つに「虚無」というものがある。
ニーチェはニヒリスト、つまり虚無主義者だったのだが、ニヒリズムには二つの種類がある。
一つは「一切の事象は無意味であるから、やる気なくすよねぇ」という「受動的ニヒリズム」、
もう一つは「一切の事象は無意味であるが、別にいいじゃんそれだって」という「能動的ニヒリズム」。
これ、ものすごく乱暴な説明なのだがご容赦願いたい。
ニーチェは後者の能動的ニヒリズムを説いた。
例えば、「100人殺した殺人鬼」と「100人救った名医」とがいたとする。
どちらの人生が善であるかと問われれば圧倒的に名医の筈だが、ニーチェはそうは言わない。
殺人鬼が人を殺す事に一分の迷いもなく、己の喜びを得て生きる道を見出だしたのだとすれば
200人でも300人でも殺してよい、むしろ積極的にそうすべきであって
善だの悪だのという価値判断など及ばないくらいその人生は極上のものである、とするのである。
一方、例え名医がその後1000人の命を救ったとしても
過去に救えなかった1人の命に対して後悔や自責の念に駆られていたとすれば
自分の命や生を肯定できなかったという点で、否を突き付けるのだ。
もちろんニーチェは何も大量殺人をしろと言っているわけではない。
社会的な規範による善悪や美醜や道徳や倫理や愛憎に一切の意味などなく
だからこそ己の命の声を正しく聞き、そこに生じる葛藤や矛盾を乗り越え、
迷う事なくそれに従い、己の全てを肯定しろ、と言うのだ。
墓所に辿り着くまでに様々な葛藤や矛盾を乗り越えたナウシカの結論はこれに近い。
そして墓所の主の説は受動的ニヒリズムであり、ナウシカは墓所をぶっ壊す事で
また一つの葛藤と矛盾を越えた事になる。
また、ニーチェの著作から例を挙げると、「ツァラトゥストラはかく語りき」の中に出てくる
「お前がお前の父の子である事を、お前はお前の子に対して償わなけりゃならん」
という言葉は、ナウシカが墓所をぶっ壊した時に出した理由の一つと重なるように思う。
過去を否定し、予定された未来を元に現在を作り変えようとした墓所の主に対し
ナウシカは飽くまで、過去から続く現在という視点から未来を越えていこうという立場にある。
もしかしたらもっと深い意味があるのかも知れんけど
少なくとも全世代がこの言葉を肝に銘じて生きていけば、人類は時を追うごとによくなっていく筈だ。
しかし、現実はそうはならない。
それは、個々の人間は途方もなく長い道のりのたった一歩にすぎず
大いなる目標に向けた通過地点の足掛かりでしかないという事を意味しているからだ。
それぞれの一歩で人類の総和を目指せ、というこの言葉は
個々の人生の苦悩にとっては何の役には立たない、単なる理想論でしかない。
人々は、例えその思想を理解したとしても、そんなもんは求めちゃいない。
心の底から求め、そのための努力ができるのは、自分や自分を取り巻く人々の幸福までがせいぜいだ。
ナウシカもニーチェも、己の苦悩を単なる「自分探しの旅」で終わらせなかった、
という点で偉大ではあるのだが、それ故にその思想は個人の状況を向上させるには向かない。
そういう人間が身近にいたら、凡俗な人間からすれば、どこか冷たい非情な人物に映る事だろう。
ナウシカには名台詞として挙げられるものが数多くあるが、俺としては
ナウシカの元に集まった人々の間でまた争いが生じた時に、ケチャという少女が叫ぶ
「皆はナウシカのようにはなれないよ!」という言葉に感銘を受けた。
人類が愚かだとすれば、この言葉はそれを端的に表していると思うし
そしてそれこそが人間というものだと思う。
こう考えてしまうと、え?じゃああの物語って結局何だったわけ?という事になる。
ここで重要なのは、墓所を壊すという行為の後に
ナウシカが更なる葛藤に眉を曇らせるシーンが出てくるという事だ。
ナウシカが到った結論は決して全てを解決し得るわけではない。
全7巻を通して語られたのは、前述した個々の人間の
「途方もなく長い道のりのたった一歩」を踏み出す為に
ナウシカがまさに足を上げる、その瞬間までを追ったエピソードなんだと思う。
実はこれを書くにあたって、「ナウシカ ニーチェ」でググってみたところ
俺なんぞが思い付くような事は、既に他の人達によってより深く考え尽くされた事であり
結構な数のサイトがヒットしたので、そっちを読んだ方が断然いいと思う。
って、最後に言う事じゃねーよなこれ。
でも、そういうサイトを見た上で、あえて一つだけ言いたい事がある。
それは、こういった角度からナウシカを理解し、その深さに感銘を受けたとしても
いや、そうであればあるほど、ナウシカに倣う必要はなくなっていくんじゃねーかという事だ。
誤謬があるかも知れんけど、ナウシカ的に生きるんじゃなしに自分的にいこうじゃないかって、
迷いや苦悩といった状況を生きてしまわずに自分を生きろってもうダメ疲れたわ。
ここんとこ、すげぇ!とか怖ぇ!とかしか言ってなかったから
久々に何か考えた振りしたら、脳ミソがプープーいってるよ。
えー、付け加えとくと、俺は先に言った通り哲学徒ではないので
ニーチェだ何だを単なる文学としてしか読めていない。
彼等の著書を読んだ感想が「お前友達少ねぇだろ」の一言で終わるくらい哲学徒じゃない。
このスレでもたびたびキリスト教批判めいた事をちまちま書いてはいるが
それはニーチェのアンチキリストに影響を受けたわけではなく
自分の中のキリスト教に対する懐疑的な意識の隙間へ
するりとニーチェさんに入り込まれてしまったという感じだ。
だから本当に、そんな程度の知識でナウシカっつーか宮崎駿と相撲取ろうなんて
身の程知らずもいいとこなわけなんだが…やっちまったねぇ。ごめんなさい。
でも勢いで書いたにしては誤字が少ないのは褒められてもいいと思う。
いや、あるな、誤字じゃなくて誤文法が。
こんなもん読んでる奇特な方がいたら、あなたの頭の中の赤ペンで添削しといてください。
さて、ちょっくらスレ本来の話題に戻ります。
今日たまたま通りかかった道で、先輩Tさん(寺育ちではない)が手を振っていたので
コーヒーを奢ってもらう事にする。で、あれこれだべっていたら、いきなりTさんに
「今年から二級の免状ってカードになったんだよな。見せてよ」と言われる。
ああ、二級建築士の免許証の話ね…
す っ か り 忘 れ て た よ 、 交 付 日 過 ぎ て ん じ ゃ ん 。
建築士免許は、受験→合格→申請→交付、まぁ建築士に限らんだろうがこんな感じ。
申請時に交付は2/16と言われてはいたが、何の連絡もきてねぇですよ?と言うと
「いやそれ、自分で取りに来なさいよって意味だから!連絡とかいちいちこないから!」
帰宅後、申請時に各種書類を入れて持ち歩いてた封筒を地層から探し出すと
「ハンコ持って勝手に来いや。あとは知らん」みたいな事書いた紙がぴらりんと出てくる。
あーあーあー…
まぁ、2/16「以降」って書いてあるし、アウトって事はないと思うが…
そういえば申請の時も、お前申請行ったの?とボスに聞かれ
あっ!明日行きます!と答えると、明日から官公庁は正月休みじゃボケ!と叱られた。
そして今日はTさんから
「お前見てると安心するわ、人間ってここまで呑気でも生きていられるんだなって」
と褒められた。うん、褒められた。
これなんだよ、やるだけやって満足しちゃう自己完結型の最大の欠点は…
たまにスカしてるとかクールぶってるとか言われるけど、そうじゃねーのよ…
Tさん有難う。明日交付されに行ってきます。
つーか俺、本当に脳に欠陥がある気がしてきたわ。
ヒギアスケートにはあんま興味なかったが、あんな風に泣いてる女の子に
カメラを回し続けるのは如何なものか、と良識ぶった事を言ってみる。
いや、何故か珍しく心が重くなったもんで。
はい、免許交付されてきました。
一応言っとく。俺が最後じゃなかったぜ!まだ受け取ってない呑気な奴が二人いたw
というわけで、お陰様をもちまして二級に関しての手続きはこれで全て終了しました。
皆さんお世話になりました。
しかしあれだ。免許証が本当に免許証だ…カードじゃなくて免状がよかったなぁ。
よく言えばシンプル、悪く言えばレンタル屋の会員証みてぇ。
なくすね。自信ある。絶対なくすわこれ。
通帳も運転免許証も保険証もパスポートも卒業証書もみんななくなったし
あとはこれをなくせばパーフェクトなんで、頑張りたいと思います。
4/11からまた学校通いが始まるんだが
またスレ立てるかどうかはお勉強始めてから決めようと思う。
まぁそれまでにこのスレが終わんないだろうな、毎日6レスくらいしなきゃならんもん。
つーわけで、900レスくらいで容量オーバーになる事を祈りながら
どうでもいい独り言を書く。「どうでもいい」の判断は自己基準。
上の方で、夢が白黒かカラーかなんてテレビとは関係ないんじゃね?みたいな事を書いたが
最近そうとも言い切れんような気がしてきた。
というのも、昔の俺はかなり夢を見る方で、ほぼ毎晩のように見ていたのが
ここ何年かはほとんど見なくなっていて
しかしこの二ヶ月ほどでまた以前のように夢を見るようになってきたからだ。
多分このスレに映画の事を書き込むようになって
映像を頭の中に思い浮かべるという作業を頻繁に行うようになったせいで
頭の中で何かの回路がまた繋がったんじゃねーかなと思う。
これもどこかに書いた気がするが、この数年は映画もほとんど観てなかった。
そうやって考えてみると、映画を観なくなった時期と夢を見なくなった時期とは確かに重なる。
昔見ていた夢には、よく字幕やスタッフロールが流れていたし
大事な部分にモザイクがかかってる、なんて奥ゆかしさもあったりした。脳内映倫のバカ。
なので、一般的にはどうなのかわからんが、少なくとも俺に限っては
夢を一つの映像装置として捉えていた部分があったようだ。
夢というのは本当は毎晩見ているもので
それが記憶に残るか残らないかだという話を聞いた事がある。
だとしたら映画にまた興味をもったせいで
映像に関する記憶野が活性化したのかも知れない。
夢っていいよな〜。タダだし、何より返しに行かなくてもいいのがいいよ。
昔は明晰夢も見れてたんだ。なのでそこまで頑張りたいと思います。