C's subjective

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38C ◆7sqafLs07s
カート・コバーン。
グランジと総称されるジャンルを
世界に知らしめ、また終わらせた男。
こんなメモを残した男。
「ニルヴァーナのビデオではすべて
反大食文化、反物質主義、反消費主義のイメージを取り入れること」

彼の死を形容する言葉はよくこんな感じでまとめられる。
「反商業主義の象徴が
一千万枚のアルバムを売り上げてしまった罪悪感」
しかしそれは不十分だと思う。いや、ほとんど冒涜に近い嘘だと思う。
人間というものは簡単に二分法的世界観に陥る。
それに抗して前にも触れた弁証法という思考システムも生じたわけだけど
それだって「弁証法以外は二分法に陥ってしまうから駄目」とやった瞬間に
すなわち二分法になってしまう。ニーチェが言った「覗き返す深淵」だ。

コバーンが落ちた穴もこれだと思う。
批判すればするほど、逆を行けば行くほど、
「敵」は鏡に映った自分のように見えてくる。
批判すること、対立すること、表現すること……その無力を感じたのだと思う。
それは彼に才能があったからだ。敵を見据え、正しく指し示す力があったからだ。
だからこそ見えてしまったのだ。そしてそれに耐え得る傲慢さが彼にはなかった。
ぼんやりと、敵がなんなのかもわからずに
しかし何かを感じ取るだけのセンスはあった人々とは違って。
コバーンを支持し彼のアルバムを買った人たちの多くと異なって、
コバーンにはわかっていた。敵の正体が。それが、自分にそっくりなことも。
彼は、自分を殺したのではなく、敵を殺そうとしたのだ。
そういう形で果ての無い二分法を終わらせたのだと思う。

とにかくコバーンで商売するバカな女は死ね。オノヨーコと一緒に。
39C ◆7sqafLs07s :2006/07/03(月) 15:26:50
僕がエミネムを支持するのは
コバーン的な矛盾を解消できるかもしれない
一つの方法論を提示したからでもある。

スターでありながらなおかつグローバリズム的偏狭に対抗する術を。
それはエミネムの(精神科医お墨付きの)「分裂症的表現」にある。

彼は幾つものキャラを使い分けて
シリアスな歌詞からふざけた歌までを演じ分ける。
ラッパーになる前に漫画家を目指していた彼には
通常ラップミュージックがおこなう
「俺はこうやって苦しんでるんだぜ、ヨー」的な
無軌道にほとばしる劣情とは少し違う
(そういうものが無いとは言わないが)
「観察」の目があるように思う。
世間に中指立てている自分を「構図」として捉えているような。

キャラを使い分けることで
単純な二分法に陥る危険もない。
ある意味では「その場その場で一貫性がない」
という潔癖症的な音楽ファンからは嫌がられる表現かもしれないが
商業主義的な音楽、というものに
商業主義の真っ只中から抵抗するには
このスタンスは有効なんじゃないかと思うのだ。
たとえばインディーズ時代「メッセージ性」とか「音楽の音楽としての純粋さ」
みたいなところでマニアックな(ヲタク連中からの)支持を受けていたのに
まさにその音楽性の豊かさゆえにメジャーになってしまうと
マニア連中から冷ややかな目を向けられるミュージシャン、という現象は
(もしくはマニアが必死に商業的成功の「裏の意味」を語ろうとする現象も)
よく見られるけど、僕はとても愚かなことだと思う。

コバーンの死を無駄にしているだけだと思う。