■☆♪箜間桐孤の雑談空間 Part22♪☆■

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336名無し戦隊ナノレンジャー!
教科書では教えてくれない歴史その1

独立を目指すインドネシアにとっては日本敗戦後のこれからが死闘でした。
日本軍による3年半の軍事訓練を受けたとはいえ、近代的兵器で武装したイギリス、オランダなどの連合軍にそう簡単に勝てるわけがありません。
敗れた日本軍の兵士たちはこの状況を見て、独立を約束しながら果たせなかったという責任感もあったでしょう。
多くの人が現地に残り、インドネシアの民衆の先頭に立って戦い、その半数以上が彼の地の土となりました。
このインドネシア独立戦争は連合国を相手に4年間も続き、死者80万人という犠牲を払いました。
そして命を捧げた日本兵はインドネシア独立の英雄として、ジャカルタ郊外のカリバタにある国立英雄墓地に丁重に祀られています。

こうした歴史的事実からインドネシアの独立記念日では、インドネシアの服装の男女2名になんと!
日本兵の服装をした1名を加えて3名で、国旗を掲揚します。もちろんこれは独立を支援した日本軍に敬意と感謝を表しているのですが、
こんなことは日本では全く知られていませんね。
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/A03_1.html

インドネシアタイムスのジャマル・アリ会長
「我々には、日本を批判するだけの韓国や中国と違って歴史とプライドがある。
「お金を出せ」などとは、360年間、わが国を支配した、オランダにさえ要求しない。」

なお、オランダは日本に謝罪を求める一方。
インドネシア独立の際に、60億ドルを請求し。

1995年、オランダ女王がインドネシアを訪問した際
「植民地支配はお互いに恵みを与えた」
とスピーチしてインドネシア人を激怒させました。
http://photo.jijisama.org/indonesia.html

最後の方の兵隊さんありがとうが印象深かった。でかいので落としてから見たほうがいいかも
http://oda.minidns.net/file/data/dokuritsuasia.wmv
337み〜は〜 ◆33333333/c :2006/01/07(土) 00:44:40
   ∧ ∧
   (*゚ー゚)  判で押したAAのおいらなり〜
   /ヾ__ソ,lフ⊃ォ、
  (レ'|_|_|  (A)
     U U
338名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 00:45:15
教科書では教えてくれない歴史その2

現在の歴史家の多くは、このインパール作戦を、おろかな、無用の戦いであったと言います。しかし、本当にそうなのでしょうか?
この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記のなかで、こう記しています。
「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、
ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。すなわち『もし、日本について、
神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』)
「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちがいちばんよく知っています。インパール手前15キロのロトパチンという村では、
村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、
この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。
そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」と語っています。
また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。
この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。
このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、
名付けられたのだということです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/A03_4.html
339名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 00:51:49
教科書では教えてくれない歴史その3

バー・モウは『ビルマの夜明け』と言う著書を発表し、この本がイギリスでも出版されることになりました。
このとき「ロンドンタイムス図書週報」1968年5月23日号ではこの本について次のように紹介しています。
「ビルマを長い植民地支配から解放した者は誰か。それはイギリスでは1948年、アトリー首相の労働党内閣だということになっている。
しかし、バー・モウ博士はこの本の中で全く別の歴史と事実を紹介し、日本が第二次世界大戦で果たした役割を公平に評価している」とし、序文の一部を引用しています。
それは「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、
東条大将と大日本帝国政府であった」というバー・モウの歴史観を現した一文でした。日本では決して語られることのない歴史が、ここミャンマーではしっかりと語り継がれています。
彼らが植民地支配を脱する契機となった国軍記念日のパレードが、日本の“軍艦マーチ”で始まるなんて、ちょっと感動的ではないですか?
そしてこうした両国の友好の歴史を知ったことで、ミャンマーに親しみを感じるきっかけになったら、歴史を学ぶ意味が大いにあると思いませんか?
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/A03_3.html

日本とインドが命運を共にして築き上げた友好のきずなは、国際情勢のめまぐるしい変化の中にあっても、日本とインドの誇るべき歴史の一頁として今日まで受け継がれてきた。
タゴールと岡倉天心、ビハリ・ボースと日本のアジア主義者たち、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍と日本軍のインド独立をかけた戦い、
パール判事が下した「日本無罪論」、象のインディラをはじめ、敗戦日本に示された励ましの心など日本とインドの交流史を語るのにテーマは事欠かない。
ほかにも、昭和二十六年にインドのニューデリーで開催された第一回アジア競技大会への日本の参加をはじめ、その時期、日本の国際社会復帰を強く押してくれたのはインドであった。
さらに、昭和天皇が崩御された時には、三日間の喪に服すことで哀悼の意を示してくれ、また原爆投下の日には、国会で黙祷が捧げられているという。
http://www.nipponkaigi.org/Indian%20Booklet2.htm
340名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 01:09:47
教科書が教えてくれない歴史その4

●朴正熙 元韓国大統領の発言(中曽根元首相との対談より)
「私は貧農の生まれで学校に通うなど思いもよらなかったが、日本人の役人が両親を説得して小学校に行く事が出来た。
そしたら学校の教師がお前は頭が良いから無料の師範学校に行った方が良いと推薦してくれた。師範学校では更に優秀さを認めてくれて陸軍士官学校に推薦してくれた。
その結果士官学校首席として日本人同期生のトップで卒業し、陸軍将校に成る事が出来た。今の私が有るのは清廉で誠実な日本人達のおかげである。」

●ククリツト・プラモート 元タイ国首相の発言
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすく育っている。
今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」 
http://members.at.infoseek.co.jp/konrot/koramu25.htm

昭和三九年毛沢東は、日本社会党の佐々木委員長との会談で、「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。
皆さんの皇軍なしには、我々が権力を奪取するのは不可能だったのです」と日本に感謝しているのである。
またケ小平は昭和五二年、三橋健次郎元陸将との会談で、「日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、日本軍の占領地域の後方に拡がり、
八年の間に八路軍は一二〇万に増え、さらに数百萬の民兵を作ることができた。」とやはり日本に感謝しているのである。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/sonota/0311.html



341名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 01:15:46
教科書が教えてくれない歴史その5

今から十五年ほど前、アジア各国の軍部代表がマニラに集ったときのことだ。例によって韓国軍の代表が、
延々と戦争当時の日本軍と日本民族と現在の日本企業を罵倒する演説を打った。列席のアジアの親日家たちは「韓国代表の演説は痛烈無残で聞くに耐えなかった。
だが列席の日本の自衛官はひと言も発しなかった。」
 そこで、列席していたインドネシアのアリ・ムルトブ准将は韓国の軍人に向かって次のように日本を擁護した。彼はASEAN結成の仕掛け人である。 
<日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである。
ここで、インドネシアの日本民族の価値について申し上げる。今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。
その時に韓国が一番困ると思う。韓国は工業大国の日本と競争したから、立派な工業国になれたので ある。近くに強力な競争相手がいることは素晴らしいことだ。
つまり日本の近くに位置していることは幸運なのだ。経済的支援を連続的に受けているといってよいくらいだ。インドネシアが日本に近ければ今のような貧弱なインドネシアではない。 
つまり、我々インドネシア人は「日本はなにもしてくれなくてもよい。」と考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分アジア・アフリカに尽くしている。 
だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体の一員とは言えないし、対等のパートナー とも言えないのではないか。>
「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著 国際企画より 
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/daitoua.html

世界の軍関係者の靖国神社参拝
http://photo.jijisama.org/YasukuniG.html
教授?
343名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 01:27:48
教科書では教えてくれない歴史その6

ペリリュー島のサクラと神社 〜米国公刊戦史の讃えるもの〜
ペリリュー島には、それまで現地住民が住んでいました。島民は白人の統治と日本時代を身をもって経験しているので、
大人も子供も、日本軍と一緒に戦う決意を持っていました。しかし日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、
船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させました。この誠意が通じたのか、戦いが終って帰島した彼らは、
日本人の遺体を見て泣きました。「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。
ここに、征服民族の本性を見る」として、島民はこぞって日本軍の遺体を葬りました。日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。
現在も島民の親日感情は極めて強く、沖山豊美(やまとよみ)という日本名を持つ女史は、日本統治時代をなつかしみ、「愛国行進曲」を間違わずに歌ってみせ日本人と見れば、
「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創りあげてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」
という趣旨を、熱っぼく語り、日本人の度胆を抜くそうです。さらに彼らは、ペリリューを守って玉砕した一万人余の英霊を決して忘れていません。
日本から遺骨収拾に行くと、「戦死者は母なる大地ペリリューに抱かれているのだ。収拾などしないで、静かに眠らせてほしい」と言うそうです。

ペリリュー神社の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれています。
そして右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/palau.htm
344名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 01:29:53
教科書では教えてくれない歴史その7

パラオ(Wikipediaより)
日帛関係はパラオ独立以降おおむね良好で、1996年に崩落したKBブリッジの再建を初めとし数々の援助が日本によってなされている。
パラオ政府は日本による統治時代を経済・産業・学校教育の面で重要な役割を果たしたと肯定的に評価しており、日本の教科書問題が国会で議題になった事もある。
なお前パラオ大統領クニオ・ナカムラは日本の新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。
これらの状況から、現在でも日本や日本語に親しみを持ち、子供に日本風の名前をつけるパラオ人も多い。
パラオ語には多くの日本語の言葉が取り入れられており、また、パラオにある唯一の公立高校では、1964年から選択科目として日本語を取り入れている。
さらに、アンガウル州では公用語の一つとして採用されている。この為、パラオは日本では親日国家として知られている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%AA

パラオKBブリッジ@韓国製 半年で崩壊
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/583.html

まだ途中だけど、未来の大統領なんてふざけた名前してる人に是非見てもらいたい歴史がここにあります
345名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 01:47:58
教科書が教えてくれない歴史その8

「創氏改名」ってなに?
また、このような強要が単に末端吏員の暴走によるものであったという意見と、 
植民地政府全体の意思であったという見方がある。他方、ほとんどの朝鮮人は国内外における
日本内地人との差別を回避するために自発的に創氏したのだという見方もある。 
なお朝鮮に在住していた朝鮮人で改名した者の割合は9.6%にとどまった。日本内地に在住していた朝鮮
人の間では、設定創氏をした者の割合は14.2%にとどまった。
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/sousikaimei1.html

小泉内閣の外務大臣に任命された麻生氏がかって「創始改名は朝鮮人が望んだ」と発言したことを韓国は模造もはなはだしいと批判しているが、
創始改名は明らかに朝鮮人が望んだのであり、それまでは朝鮮総督府も創始改名には反対していた。大東亜戦争末期、
1940年2月になってようやく朝鮮総督府は朝鮮人に日本式の氏名を名乗る「創始改名」令を公布したのである。
http://morimoto.mo-blog.jp/yutaro/2005/11/
346名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 02:07:53
教科書が教えてくれない歴史その9

李登輝氏をはじめ、六十五歳以上の台湾人は、日本統治時代、それも最も苦しい戦争の時代に
青春を過ごした人々である。そして、この人々は、その後自らの意思とは全く関わりなく日本国民としての
国籍を剥奪され、蒋介石の中華民国へ放り出されたが、今なお親日家として、日本時代への憧憬や日本への
期待を強く持ち続けているのである。多くの台湾人は、昭和二十年の終戦を喜んだが、中にはこれを「悔しかった」と言う人もいる。
奇美発展文化事業有限公司に勤める石榮堯氏は、その一人である。石氏は、十七歳で高雄にあった第六十一航空廠工員養成所
第二期生へ志願し、発動機部へ配属された。工員養成所の学生の身分は軍属であった。
「中学の入学試験があるその前、要するに前年の十二月なんですが四年制の工員養成所の募集があります。
二百名の募集なんですが二千名もの人が応募してくるんです。合格した人は中学校の試験に合格しても中学校には行きません。
養成所を卒業すると高校の資格が取れるし、何より国のためになるからです」 当時の中学校と言えば、内地でも難関で進学する人が少なかったが、
養成所は中学校よりもはるかに人気が高かったというのである。しかも、石氏はその頃を「一番楽しかった」と言われる。 
 「養成所の基礎訓練は厳しかったです。目をつぶって鏨を打つ訓練をするんです。当時台湾でも敵の空襲がありましたから、
灯火管制の下で作業が出来る技術を身に付けなければなりませんでした。指は血だらけですよ。食事は、海軍食で朝は底に少ししかご飯がなくて、
昼は半分位、夜は山盛りでした。食事については、丁度食べ盛りの頃だったので辛かったですけど、あの時は楽しかったですよ。本当に。
そして、昭和二十年の玉音放送を聞いた時には本当に悔しかったです。みんな涙を流しました」
http://www.meiseisha.com/rensai/taidou3.htm
347名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 02:13:05
>>294
教科書が教えてくれない歴史その10

昭和26(1951)年5月3日。朝鮮戦争に於ける戦争方針でトルーマン大統領と対立し、GHQ最高司令官を解任されたマッカーサーが、
米国上院軍事外交共同委員会の場で、朝鮮戦争に於いて彼が主張した支那海上封鎖戦略についての答弁の際、以下の様な「爆弾発言」をしたのです。

日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。
その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。
したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです』
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/jiei_sensou.html
348名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 02:14:25
教科書が教えてくれない歴史その11

日本国ならびに戦争の首謀者は有罪となりました。
しかし、後の五人は、この六人とは異なる意見書(判決)を提出しています。六人の判決を軽すぎるとしたのは、
フィリピンのジャラニフ判事のみで、ほかの四人は六人の意見に疑問を投げかけました。
減刑を主張したのは、オランダのレーリング判事。「廣田弘毅元首相は無罪、ほかの死刑因も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」との見解です。
フランスのベルナール判事は、「この裁判は法の適用および手続においても誤りがある」と裁判の不当性を指摘し、
「十一人の判事が一堂に集まって協議したことは一度もない」と内部告発の声さえあげています。
そして、終始一貫して全員無罪、いや「東京裁判は裁判にあらず、復讐の儀式にすぎない」と強く抗議し、裁判自体を違法として、
根底から否定した判事がインドのパール博士でした。「この裁判は、国際法に違反しているのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、
罪刑法定主義を踏みにじった復警裁判にすぎない。したがって全員無罪である」と傅士は主張しました。
法の不遡及とは、後でできた法律で過去の出来事をさかのぼって裁いてはいけないという法治社会の根本原則です。
多数派の判事が同意した検察側の起訴状の内容は、「東條英機元首相以下二十八人の戦犯は共同謀議を行っていた。目的は侵略による世界支配である。
その目的を果たすために通常の戦争犯罪のほかに、〃平和に対する罪〃、〃人道に対する罪〃を犯した」とするものでした。
http://www1.toptower.ne.jp/~katumata/sub514.html
349名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 02:34:07
教科書が教えてくれない歴史その12 Final

支那人が避けて通る恥部 ── 通州事件
「通州事件」 ── 又の名を「通州大虐殺」とも呼ばれるこの事件は、「廬溝橋事件」の3週間後、起こりました。
当時、通州には、「廬溝橋事件」の余波で避難していた婦女子や朝鮮人(当時は日本国籍だった)を含む
日本人居留民、天津特務機関長・細木繁中佐ら軍人等200余人が住んでいました。
通州には、日本軍の守備隊も駐屯していたのですが、たまたま、主力が南苑攻撃の為、町を離れ、
僅か110名の留守部隊しか残っていなかった所へ、支那保安隊千数百名が襲撃を掛けたのです。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/tsushu.html

南京事件 小さな資料集
「南京事件」について、ネットの世界ではあまり知られていない、しかし興味深い資料を紹介します。
http://www.geocities.jp/yu77799/

本宮ひろ志先生の『国が燃える』南京事件捏造問題を考察してみるHP
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8312/

新台湾と日本
http://www.ch-sakura.jp/asx/shintaiwan.asx

自由アジアの栄光
http://www.ch-sakura.jp/asx/jiyuasia.asx

人間の歴史とは表裏が必ずあります。俺はあの戦争が単純に侵略戦争だったと決め付けるのは早計だと思います。
確かに戦争は悪でしょう。ですが、その裏ではこういった歴史もあるのも事実です。片側からしか見ないで物事を判断することは、子供のすることです。
この他にもまだまだ書きたいことがありますが、キリがないのでやめます。ぐぐれば簡単に見つかりますので、時間を見つけて調べてみてはいかがでしょうか?
スレ汚し申し訳ありませんでしたm(_ _)m
350名無し戦隊ナノレンジャー!:2006/01/07(土) 02:49:17
グリコのおまけ

日本文化チャンネル桜(日本最初の歴史文化衛星放送局(スカイパーフェクTV!767Ch.))
http://www.ch-sakura.jp/