■☆♪箜間桐孤の雑談空間 Part21♪☆■

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        箱庭の中の夢    終章  箱庭の中の夢







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 例の天城の一件から一週間しかたっていないのに季節はもう冬だった。
木枯らしは寒さを伝え、桐孤は漆黒のスーツの襟元を立てる。
紅葉の季節は終わり、静かで簡素な厳しい寒さの季節に変わっていた。
この東京の奥地、枯れた木々に囲まれた土地も例外ではなかった。
そこにそびえ立つ古びた洋館。
おそらく姿形からして明治時代に建てられたものだろう。
レンガ造りで温かみのある外観が外の冴えざえしい簡素な木々との対比を
なしているのを興味深く見ている人物が、箜間桐孤《くうかん とうこ》である。
桐孤の容姿は黒髪のショートヘアーに切れ長の鋭い目、そして薄ぶちの眼鏡。
どこか冷たそうに見える容姿。
けれど、その切れ長の目の奥に潜む光を見たものは
そういった冷たいとか凍りついているとかいった印象は抱かなかった。
論理と理性を追求した姿は表面的であって、その奥深くは温かくも優しい
想いがあることを隣にいる文乃は見逃していなかった。
そう、桐孤の横に居る人物が、月影文乃《つきかげ ふみの》。
とある事件をきっかけに桐孤の事務所に住むようになり、桐孤をしたうようになった人物。
文乃の容姿は桐孤と同じく美しかった。
落ち窪《くぼ》んだ瞳に三日月のような細い眉。
鼻や口元はまだ幼い少女のものなのに、凛とした印象を持ち合わせている。
ストレートな長い黒髪は、風が吹けば幽玄の美となっただろう。
空は雲ひとつない夕暮れ。
地には光輝く落ち葉と土。
文乃はまだ気づいていない。
今日が運命の分岐点になることを。
そして、これから起こることを。
それは―――とても大切な、箱庭の中の出来事だというのに。
/2




 古びた明治風の洋館の前にたたずむ人物、二人。
痩せぎすな背の高い男と小さくも美しい時代錯誤な童女。
痩せぎすの男は歪んだ笑みで、桐孤たちを向かえた。

「……ようこそ……
 形而上学同盟《けいじじょうがくどうめい》へ―――」

痩せぎすのわりに男らしく低い声。
けれど男らしいわりに力強さが感じられない。
そして、どこか冷めきった声。
男の声に合わせて丁寧に、雅びにおじぎをする童女。
童女もその男と同様、どこか歪んだ笑みを見せていた。
……だが、美しい……。
まるで、だれかの理想をそのまま具現化し、実体化したような、
そんな美しさ。
―――そう、例えるなら日本人形。
現代に、そして、洋館に場違いな白たえの衣。
桐孤は、ここが天の香具山だったらどんなにぴったりだっただろうと思った。
そして文乃の顔をよりいっそう整え、無駄な余情を削いだかのようなそんな簡素な趣きすら
まだ十代になったばかりに見える童女には供わっていた。
その趣はすでに人のものではない。
いや―――元から人ではないのか……。

「さあ、こちらへどうぞ―――」

白たえの衣を着た童女は重そうな扉を開けると桐孤たちを中へ招き入れた。
洋館の中は思ったとおりに広く、またいい造りをしていた。
桐孤はあまり建物の価値については分からなかったが、
それでもこの館が古い価値のあるものだということは分かった。

「お二階に、部屋を二つ用意させていただきました。
 夕食ができあがるまでそちらでお待ちください」

二階に来た二人にそういい残すと童女は去っていった。
/3




 しばらくして、夕暮れが夜闇へと変貌をするころ、文乃の扉を叩く音が聞こえた。
トントン。

「桐孤さん。居ます…?」

すこし間を置き

「ああ、居る…」

そうとだけ、答えた。
間を置いたことに特に意味はない。
ただ、余情を楽しむ、こういった冬の中で……することは大切なことだと思ったからだ。
開けっ放しにしておいた窓に凍風が吹きすさぶ。

「ううう……さ、寒ーい。桐孤さん、もう冬ですねっ!」

ああ、とだけ答える。
すこしすると、文乃が

「桐孤さん、冬は好きですか?」

なんてことを聞いてきた。
特別どうとも思っていないと言ったら

「文乃は好きです…。
 簡素で、簡潔で、でも…それが美しい。
 そして、冬は美しい花を咲かせる春のために力を蓄えているんだと思うんです」

「冬か……。そうだな。冬の良さは枯れ木にある………と思う。
 春を待つ心。
 空は透きとおり、月は冴えざえと光る。
 ―――月下のもとに下り立つ天女は実はそう……雪だった……」

窓から手を出すと、手のひらに集まるのはそう―――雪。

「雪ですね………」

文乃は雪に見入った。
まだ冬になったばかしだというのに雪が降るなんて……
そんな詩人めいたことを考える自分が可笑しくて笑った。

「えっ? 桐孤さん、なにを笑ってるんです?
 すごく楽しそうですよ」

「雪はどうして降るんだろうな…」

文乃の問いを無視して独り言を呟く。

「もう、無視しないでくださいよー!
 そんなことされると余計気になります!」

「あはは……。悪い、悪い。
 いや……なにか……ふいに、そう。
 笑いたくなるときがあるんだ。
 どうとでもないことなのに。
 なんでもないことなのに。
 文乃はそういうような、自分の中にあるよくわからない感情が
 もやもやとしたなにかにとって変わり、外に出る……
 そういったことって、ないか?」

「えっ、あっ、うーん……そうですね。
 あっ――――あります!
 文乃の場合は、泣きたくなることのほうが多いんですけどね!
 でも……そう……例えば、明日が月曜日で、学校があるという変わらない、変わりはしない決定事項。
 そして、それが始まらないで欲しいと願うような日曜午後の夕焼け。
 薄くて艶やかな茜色が美しいのに、でもそんなことよりも、それ以上に寂しい気持ちが強くて……。
 そんな茜色の夕焼けを見ると、むしょうに悲しくなるんです。
 特別、学校が嫌いなわけじゃない。
 特別、学校に行きたくないわけじゃない。
 ―――なのに……悲しくなるんです。
 ………桐孤さん、文乃、すこし感傷的すぎますか?」

「いや……そんなことない………そんなことはないさ、文乃……」

感傷的になっているのはまぎれもなく自分。
私自身なのに。
なんでもないことがこんなにも寂しい、悲しいことだなんて。
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 夕食は四人。
私と文乃、そして、背の高い痩せすぎな男と小さな童女。
温かい夕食。
外は寒いというのに中はこんなにも温かい。
私はこれから起こるであろうことがどうでもよく感じていた。
きっと文乃と一緒に温かい食事を取る………という行為が
私を温かい気持ちにしてるのだろう。
文乃を見ると思い出すことがある。
それは、宮。
西園寺宮《さいおんじ みや》。
彼女は今から五〜六年ほど前に死んだ。
五〜六年の歳月は人を変えるには十分すぎた。
私は、宮が死ぬまで、人のためになろうとか、人に親切にしようとか思ったことはなかった。
だが、宮が……そう、宮が教えてくれた。
―――私は、倉成杏《くらなり きょう》の計画を見過ごすことはできない!
宮は死ぬ前に私にある想いを残した。
その想いは、呪いと云い反してもいい。

”桐孤さん、人々の笑顔を奪うようなまねはしないでくださいね”

って。
その呪いが私のそれからの行動を左右する重大な継起となった。
宮のその定義に従うならば、杏のやろうとしていることは間違いなく
人々の笑顔を奪うこと、人々の幸せを奪うことにほかならない。
価値観の転倒。
おそらくはトーマス・クーンのパラダイム転換あたりをもじった考えかたなんだろうが。
歪んだ性格の持ち主―――倉成杏の考えそうなことだ。
いや……乖離王《かいり おう》も確かそのようなことを云っていたか…。

「桐孤さん、桐孤さんっ!」

はっと、私は思索の迷路から解放された。

「もう、せっかくの食事が冷めてしまいますよ」

「ああ、そうだった……」

私は、すこし冷めてしまった南瓜のスープを口にすくむ。
すこし冷めてしまったけれど、それでも十分おいしかった。

「あまり箸が進んでませんが。お口に合いませんか?」

杏の言葉にいやと首を振る。
食事はうまい。
特にこのステーキとじゃがいものソテーは最高だ。
分厚い肉の中から染み出る肉汁がまたなんともいえない。
じゃがいものソテーは、じゃがいもをさっと油で揚げて
粉チーズを上からまぶしただけのものだが、これまた美味だった。
天井にはシャンデリア、床には西ヨーロッパの絨毯《じゅうたん》が
ところせましと我がもの顔を奮っていた。
大きすぎる窓は締め切られている。
まるで私たちをこの館から逃がさないように…。
私は文乃、杏、そして童女の様子を見た。
文乃はもくもくと食事をとっている。
ステーキの肉がうまく切れずに悪戦苦闘するさまは微笑ましい。
やっと肉を切れたかと思うとフォークとナイフの持ち方がおかしくて
思わず笑ってしまった。

「もう、笑わないでくださいよ!」

恥ずかしそうに俯く文乃。
どうやら文乃は西洋の行儀作法にはうといらしい。
かという私もあまり得意ではないのだが。
一方、杏は育ちがいいのかナイフやフォークを難なくこなしている。
あまりにも自然すぎる姿に、逆にある種の不自然さを感じてしまう。
その横の童女は何も食べていない。
具合が悪いわけじゃないことは一目見ただけで分かる。
その童女―――食べる必要がないのだ。
と……一瞬、小さな童女と目が合ってしまった。
鋭い目。吸い込まれそうな目。
その目には憎しみが宿っていた。
童女は、私たちが杏の側にいることがいやなんだ!
なんと嫉妬深いことか!
この見た目にはまだ十歳足らずの女の子が
女子高生や三十路すぎの女性に対抗意識を燃やしてるなんて!
私は童女の睨みを微笑みで返した。
すると、ぷいとそっぽを向いてしまう。
どうやら私はよほど童女に嫌われてるらしい。
私が杏を取ろうとしてるとでも思ってるのか。
それとも、私が杏を見逃しはしないことを見抜いているのか。
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 食事が終わると私たちは二階に上がった。
どうやらその後、杏から話があるらしいが、その話を聞く前から分かっていた。
杏が何を話すのか。
何を私たちに、私に、求めているのか。
杏が私たちをこの洋館に呼んだとき……いやもっと前から気づいてた。
文乃は私の部屋へ来てトランプでもしましょうよ、と云った。
私は文乃に云った。

「文乃、お前はこの館に呼ばれた理由が分かるか?」

「えっ、あっ、はい? 
 どういうことですか?」

文乃はどうやら何も分かってないらしい。

「ふう、やれやれ……。まあ、文乃は純粋というか天然というか……」

「はい?」

「つまりだ。杏は私たちを形而上学同盟に勧誘したい……と思っている」

「えっ?そ、そうなんですか…。うすうすは気づいてました……」

なんと、サンナゼール、ルアーブル。
文乃は気づいてたらしい。

「どうして今になって私たち……いや、私を勧誘しに来たのか…。
 それは分からない、が……ただ奴、倉成杏がそろそろ自分の思想・
 計画に本腰を上げ始めてきたということは確かだろう……か…」

そう、私はまるで独り言のように呟いた。

「ど、どんな思想・計画なんですか!?
 その倉成さんの計画って!?」

「ああ、奴の求める計画は、”価値観の転倒”。
 おそらくはトーマス・クーンのパラダイム転換。
 人はその時代の価値観の枠組みの中でしか物事を考えることができず、
 ある科学的見地や思想によって物事の見方、価値観が転換してしまうという考えかた。
 をもじった計画だと思われる」

「ははあ…。具体的に云うと?」

文乃はいまいち掴めていないらしい。

「具体的に云うと、あるAという人物とBという人物の立場・価値観を入れ替えたらどうなる?」

「そ、そんなことできるんですか?」

文乃はどぎまぎしている。

「その一見不可能なように思える馬鹿げた計画。
 そんなことを本気でやろうとしている。
 なぜか?
 あいつがいかれているのか?
 いや。あいつは、普通の人間に怨みを抱いているんだ。
 非常に子供っぽく、ふざけた考えだが……」

私は杏を、昔、まだ十代のころの自分と重ね合わせているのかもしれない…。
自分の内に秘めたる力によって苦しめられた日々を。
誰も助けることができない。誰も助けられないあのころを。
誰が悪いわけでもない。誰が悪いわけでもないのに、幸せそうに生きる人々を呪い、
普通に生きることのできなかった我が身を呪ったあの日々のことを…。
―――いや、それでも。
それでも杏は間違っている。
計画を認めることはできない。
少数の不幸が、多数の幸福を奪うことなど誰が許そう?
私は絶対に認めるわけにはいかない!

「文乃、公安調査庁に行ってこい」

「えっ!」

「倉成杏が破壊活動防止法に抵触する行為―――国家転覆を孕《はら》んでいる…と」

文乃はその言葉で全てを理解した。
私が倉成杏と決着をつけること。
そして、それが避けられないことも。

「そうですか。やるんですね、桐孤《とうこ》さん!」

「ああ、奴を倒す。
 奴がとうとう本腰を上げ始めた。
 なぜ今ごろになって本腰になったのかは分からないが、
 本腰になったからには見逃せない。
 ここに場所が書いてある。
 分かったら、さっさといってこい!」

私は小さなメモを文乃に渡した。

「一応云っておくが玄関……入り口は締められているぞ」

「分かりました」

そう云うと、文乃は素早く二階の窓から飛び出した。
普段はどんくさいはずの文乃が瞬時に地面へと着地する。
得点をつけるなら十点満点中九点をあげたいような華麗なる着地。

「文乃。
 私は過去の自分。
 そして、宮の想いのためにも……。
 そして、やはり、避けられないのか…。
 杏との闘いは避けられないのか…」

私は文乃を見送ったのち、部屋をあとにした。
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 扉を開けるとそこは―――
一面の白い銀世界だった。
その中。
杏と小さい童女。

「―――話があるんだ」

歪んだ笑みを持つ男はそう切り出した。
私は、男の目を見つめた。
悲しい目をもった男。
歪んだ笑みをもった男。

「桐孤―――
 俺の仲間になれ―――」

歎くような声。
けれど、その声は私に届かない。
天井も床も同じく白一色。
目が痛い。
風など吹いていないのに部屋の中がこんなにも冴え冴えしいなんて―――

「否―――倉成杏。
 私は、私の生きる道を行く。
 お前の仲間にはならない」

「なぜだ?
 俺の仲間になれば、地位や名誉。
 そして多数の金は約束されよう。
 ……それほどの権限を俺は持っている」

「ああ……。地位や名誉、金。
 どれも狂おしいほどに欲しい、手を伸ばしたい、必ず手に入れたいものだ……。
 だがな……、私はお前の計画に賛成できない…。
 しいて断る理由があるとすれば、まあ……そんなところだ」

「俺の計画?
 はは……なーんだ。気づいていたのか……。
 ……はは……そうか、そうだったのか……。
 ああ、気づいてたんだな。
 俺が桐孤、お前を天城に偵察させたときから……。
 いや、もしくはもっと前から……。
 俺が本腰をあげてきていることに……。
 そうか、そうか」

なんだか杏はひどく楽しそうに笑う。

「私は、お前が実行しようとしている計画―――
 ”価値観の転倒”が人々の幸せにつながるとはどうしても思えない。
 少数派と多数派の立場を入れ替えようとするそれは、
 どこからどうみても人々の笑顔を奪うものだとしか思えない。
 宮や文乃がそんなふざけた計画を喜ぶとは、どうしても思えない。
 宮が死にぎわに云ったんだ。
 桐孤さん、人々の笑顔を奪うようなまねだけはしないで下さいね…って」

杏の視線は私の目。

「そうか……。
 ならしょうがない。
 俺と杏子《あんず》だけでもこの計画を遂行させてもらう。
 なあ、杏子?」

「ええ、兄様」

まだあどけなさの残る小さな童女。
白すぎるその顔は、幻想美である幽玄そのものだった。
優艶《ゆうえん》美。そして、妖艶《ようえん》美。
藤原俊成は優艶美を、藤原定家は妖艶美を追求した。
静寂な情調が象徴的に余情としてたたえられた境地を幽玄というならば、
杏子の静かで一つの欠点もない調和された顔。
凪がれるようで冴えざえしい簡素な冷たさを内に保った髪。
それらを幽玄と称することになんの間違いがあろう。
この屋敷が日本家屋でなく、明治時代に建てられた古い洋館だというのが悔やまれる。
杏子のそのつぶらな瞳。
けれど、そのつぶらな瞳には桐孤はうつっていない。
杏子の目にうつるのは杏《きょう》だけなのだから。

「兄様、どうして兄様は他の人を誘うの……?
 どうして杏子とだけじゃいやなの……?
 杏子は兄様がいるだけで、それだけでこんなにも幸せなのに……」

杏子は悲しそうな目で杏を見つめた。

「すまない。
 俺は……俺はどうしてもやらなけばならないことがあるんだ。
 杏子と二人だけの幸せ。
 それはどんなにすばらしくもまた美しいものだろう。
 それ以上のもの。そんなものはこの世界のどこにもありはしない。
 ただ…ただ…俺は、俺を侮蔑し、杏子を侮蔑したあいつらが許せないだけだ。
 人形を愛し、杏子を愛した俺を異常者扱いしたあいつらが……」

「ああ……兄様……。
 兄様の気持ちとてもよくわかるよ。
 そうだね。うん、そうだね……。
 ふふ……じゃぁ仕返しをしなくちゃいけないね。
 杏子たちを正常な人、杏子たちを馬鹿にした人たちを異常者にするために……」

杏子の美しい顔に歪んだ笑み。
その笑みにそうだな、と杏が返す。

「杏子……愛している。
 この想い……。
 壊せるやつなど誰一人としていはしない」

「兄様大好きっ!!」

二人は永い間口づけを交わした。
背の高い男と小さな童女。
その接吻はどこからどう見ても可笑しかったが、桐孤は可笑しいとは思わなかった。

「ふふ……。
 見せつけてくれるじゃないか。
 私など端《はな》から眼中にないか……。
 もとより恋というのはそういうものだがな。
 そうは云うものの。
 ちょいと見せつけすぎじゃないですか?
 く・ら・な・り・さん」

私は嫌味を込めて云ってやった。
人の恋愛を見せつけられたあとに陥るあの腹立たしくも体の中心がむずむずと熱くなるような
そんな気持ちを抱かさせられたから。
私は我慢できない。
どんな滑稽で、傍から見たらばかばかしい恋愛劇であっても我慢できない。
人から恋愛を見せつけられた後にとる行動、二つ。

@話題を変える。

A恋愛劇を見せつけた当事者をぶん殴る。

もちろん私は後者だった。
桐孤は思いっきり杏をグウの手でぶん殴る。
がーん!

「なっ、なにをするんだ!
 桐孤っ!」

「あ〜ら、ごめんなさ〜い。
 手が勝手に動いちゃった〜」

杏は怒る。
ただ、杏が私のやった行動を冗談と受け取る怒り方と違って、
杏の横―――杏子には、はっきりと私に対する憎悪が見てとれた。

「―――杏。
 価値観の転倒なんて本当にそんなことができるやつがいるのか?
 どうやらそちらの恋人さんもそういった能力ではなさそうだし……」

「ああ、そのことか。
 正直、価値観の転倒をつかさどる能力者。
 そんな奴がいるかどうか、俺にもわからない。
 そんな不確かで不確実な存在。
 価値観の転倒というのは一つの概念、一つの夢なのかもしれない。
 ほんとうはどこにもありはしない、のかもしれない。
 価値観の転倒―――とは、もしかすると、ただの概念―――
 俺や能力者たちが願った夢なのかもしれない。
 ……俺は……俺はいったいなにをやってるんだろうな……」

「―――おまえは夢を見すぎているんだ」

私は迷うことなくそう云ってやった。
そう、歎きたくなるのは夢。
そう、悲しくさせるのは夢。
だって夢はとても温かいから。

「桐孤、お前はこの世界に信じるものがあると思うか?」

急に、どうして杏がそんなことを言い出したのかわからない。
ただ、杏のいう信じるもの―――それは……。
ひと呼吸置いて桐孤は云った。
独白するように。
窓の外。天空に瞬く星々に伝えるように。

「―――あるね」

「……それはなんだ?」

「……それは、正義さ―――
 私はな、宮に云われたんだ。
 人々の笑顔を壊さないでくださいね、って。
 人々の幸せを壊さないでくださいね、って。
 人々の笑顔を守ること。
 それが、私は正義だと思ってる。
 倉成杏。
 私はおまえの計画を見過ごすことはできない。
 宮や文乃の笑顔を奪おうとするやつを、私は許さない!」

人々を守りたいと思う、限りない決意。
宮や文乃の笑顔が消えることに私は耐えられない。
私の内に決意が燈った瞬間、内ポケットのナイフが白銀に輝く。

「ふふ……ならこいよ……。桐孤!」

「ああ、云われるまでもなく―――」

闘いははじまり、時は二人の運命を祝福していた。
そして、二人は駆けた。
―――誰がこの闘いを予感しただろう。
―――誰がこの闘いを想像しただろう。
まごうことなく、この闘いが……二人の運命を変えることになるだなんて…。
        /7




「さあ、杏子《あんず》行くぞ―――」

男が云う。
杏《きょう》と杏子との共通認識。
もちろん私にはなんのことだかわからない。
けど、想像することはできる。
おそらくは、二人の絶技。
私の知らない。
私が思いもつかない隠された必殺の技。
簡素な白たえの衣。
それが……四方へと飛び散り、桜へと変わる。
まだ季節は冬だというのに―――なんて早い……季節はずれの桜。
杏子の体の全てが桜となった。
洋館の白い一室は姿を変え、桜と野草が生い茂る春の風景へ。
上にはさんさんと照らす太陽。
下にはさわさわと凪がれる小川。

「ど……どいうこと!?」

桐孤は驚嘆の念を隠せない。
今だかつてこれほどの能力を見たことがない。
冠木《かぶらぎ》の能力ですら、ここまで色鮮やかじゃなかった。

「ようこそ――我が亜空間へ
 俺の本当の力、それは―――心象具現。
 杏子は、俺の理想郷。
 桐孤。俺の誘いを断ったときから、お前に逃げ場所などなかったのだよ」

小さくも儚い桜の咲き乱れる、なんて美しい空間―――
孤独を愛し、世界を憎んだものの理想郷が…こんな亜空間だなんて―――

「俺にとってはなかなか心地いい空間だ。
 俺は杏子と二人の理想郷を創りだす!」

その歎くような願い。
しかし、私は鼻で笑う。

「は、だからお前はおぼっちゃんなんだよ。
 お前のそのふざけた理想なんて叶えさせるわけないだろ?
 なあ、宮―――」

私の心の中―――在りし日の友に語りかける。

「……やれやれ。
 逃がさないのは……桐孤、お前だよ。
 あんまりぐだぐだうるさいこと云ってると、瞬《まばた》きしてる間に殺すよ?」

杏の目に殺気が籠《こ》もり、二人はいやおうなしに臨戦態勢に入った。

「今日、この時にはじまる崇高なる闘い―――
 闘いにある一瞬のきらめき。
 それを求めて―――」

私はそう自分にいい聞かせ、ナイフを執る。
杏の手には銀色らしき日本刀。
世界屈指の切れ味を誇る日本刀は、時に銃にさえも打ち勝つ。
その持ち主の力量が高ければ…。
そして、桐孤の疾走が始まった。
草の生い茂る足場、そのスピードは見惚れるほど速い。
十メートルの距離をうめるのに、おそらく三秒とかかるまい。
杏の細い体を地面に叩きつけ、胸にナイフを突き立てるのには十分すぎる時間。

「―――」

しかし、杏はまるで桐孤のナイフを待っていたかのように切りかかってきた。
弾けるような真横への跳躍。

(―――くそ―――!)
 
「なんて―――美しい攻撃、桐孤、お前ってやつは」

呟くその口元は、笑っている。
桜が舞い散る亜空間は、杏の思うがまま。
所々に立つ木々と、小高い山。
杏と闘い続けること数秒。
桐孤はここが戦場である事に後悔した。
ここは杏にとってまさにテリトリーに他ならない。
桐孤は瞬時に森に身を隠す。
まともに闘っては分が悪いと勘が云っていた。
杏の気配が近づいてくる。
森の中へ杏はこくこくと歩いてくる。
桐孤の隠れていた桜の木々の花びらがひらひらと舞い落ちる
刹那――――その影から、黒い漆黒のスーツが飛び出してきた。

「―――あまい!」

 杏の刀が、桐孤を捉える。

「―――はあ…!」

とその杏が刀を振り上げるその瞬間――――桐孤は、もう杏の間合いに入っていた。
ふるわれたナイフの一線は、まさに閃光。
舞い散る桜の中にいつまでも軌跡が残るような、白銀の一振りだった。
そのナイフが杏の右胸に深深と刺さる。

「―――ぐぶ…」

「お前の負けだ、杏」

「ああ、そしてお前の勝ちだ。桐孤」

二人の闘いはほんのわずか数十秒で決したのだった。
         /8



 
 文乃は駆ける。
何を想い、駆けるのか。
何を胸に抱き、駆けるのか。
空一面の黒いカーテン。
暖かくも冷たい雪。
それがしんしんと降り積もる。
この街に、この土地に、全ての人々に降り積もる。
夜空には星。
大地には雪。
駅までの距離、数分。
まるで天に届きそうな高いビル。
そこを駆けぬけ、文乃は駅の交差点へと向かう。
―――交差点に着く。
今日は日曜日だというのに、交差点は人で溢れかえっていた。
雪を見て喜ぶ子供。
明日を生きようと、ゴミのような街で決意する少女。
―――その先に見えたものは。

「わたし。あなたにやっと気づくことができた。
 やっとあなたに会うことができた」

小さな少女、アカシック・レコードは、
ちょっと大きくなった少女、文乃にそう話しかけた。
             /9





 倒れる男。それを見つめる女。
男の右胸に深く突き刺さったナイフ。
決着はついた。
そう、決着はついたのだ。
空間を支配していた春の幻影はなくなり、元の白い部屋になっていた。
春の幻影がなくなるとすぐに童女が現れた。

「あ、兄様っ!
 く…絶対に許さない」

童女はすぐさま杏に近寄るとそう憎しみを籠《こ》めて云った。
窓の外はゆらゆらとゆらめく銀色の雪。

「見てみろ。杏は生きてる」

「えっ?!」

喜びか…、はたまた悲しみか。
童女ははっと目を見開き、そして男にキスをした。
桐孤は、男の急所をわざとはずしていた。
人殺しはできないし、したくもない。
そのようなこと、宮が望むはずもない。

「これで良かったのかい、宮?」

誰も答えない。
宮が死んでからというもの、桐孤を支配しているのは、宮の想いだった。

”桐孤さん、人々の笑顔を奪うまねだけはしないでくださいね”

……それが宮の遺言であり、呪いでもあった。
事実、桐孤はそうなった。
文乃を助けたのも、慈善事業として人々を助けたのも、
そして今回の杏の計画を阻止したのも、みんな、みんな宮に答えたくて……。
宮を助けられなかったのが悔しくて……。
だから……だから……。
だから、宮の呪いを受け入れた。
けど、けれど、本当にそんな生き方で良かったのか。
そんな借り物の生き方で良かったのか。
窓の外。
まだ十二月にすらなっていないというのにこんなにも雪が……。
ゆらゆらとゆれて。
とても小さくて。
手に取ればとけてしまいそうな。
儚い想い。

”桐孤さん、もういいんですよ”

雪に目を奪われ、忘却した刹那、声が聞こえた。
待ちこがれた声。ずっと待っていた声。
今、確かに聞こえる。

”宮の想いが桐孤さんを辛くしたんですね”

もう一度、確かな声ではっきりと聞こえた。

「ああ……。 
 宮……宮なのか……?!」

その声は紛れもなく、宮。
箱庭を創った誰かは、ちゃんと中に夢を入れていてくれたんだ!
希望を入れてくれたんだ!

”もう、自由に生きていいんじゃないですか?”

嬉しくて涙が出る。
悲しくて涙が出る。
宮ともう一度、話すことが叶うなんて。

「自由に生きているつもりだよ、宮。
 私は、お前の想いに囚われているように思うかもしれない。
 けれど、これはもう私の想いなんだ。
 始まりの想いは宮。
 でも今の想いは、それはもう私の想いなんだ。
 だから心配なんてする必要はないんだよ―――」

”そうですか……。そうなんですか……。
 それなら……はい!
 宮は天国ちゃんとで待ってます。ちゃんと待ち続けてます。
 でも、まだまだ来ちゃ駄目ですからねっ!
 それに文乃ちゃんを、ちゃんと宮の代わりじゃなくて、文乃ちゃんとして見てあげてくださいね。
 それでは、桐孤さん。また時のめくるめく時。
 その時に逢いましょう。
 きっと逢えます。桐孤さん、あなたがまた逢いたいと……そう、思いさえすれば……きっと……”

私はもう迷わなかった。
それから、杏を起こし、手当てをした。
横の童女はわめいたが、私に悪意がないと分かると、そのまま杏の介抱を一任した。
外は白い雪と青い月。
白い雪はもう春の匂いを伝えようとしている。








       箱庭の中の夢  終章  箱庭の中の夢  完




















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 わたしは誰?
 わたしはアカシック・レコード
 ……いえ、違うわ
 わたしはアカシック・レコードじゃない
 わたしはそう――わたしは……

 わたしはまだ死ねない
 わたしはまだ死ねなかった
 わたしはこの世界を観測しなければならない
 それがわたしの願い
 わたしの一つの、たった一つの最後の願い


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 アカシック・レコードはずっと文乃を見ていた。
俯瞰《ふかん》の視界から。
とても遠くから。
なぜいつも文乃たちを見ているのか、アカシック・レコード自身にもわからなかった。
彼女たちとアカシック・レコードとの関係は、なにもないと思っていた。
でも―――ほんとうはあった。
アカシック・レコードの秘めた想い。
忘れられた想い。
……文乃と関わった人物―――箜間桐孤《くうかん とうこ》、
夕乃宮霧雨《ゆうのみや きりさめ》、笹山葉子《ささやま ようこ》。
彼女らをアカシック・レコードは、出会う前から知っていた。
それはどうしてか?
それは、だって―――アカシック・レコードは……。

アカシック・レコードは文乃を見た。
ただ、見た。
文乃のまだあどけなさの残る顔はかわいくて、ただかわいくて。
文乃は走っている。
雪の中を。
ビル街をただ走っている。
桐孤の想いを乗せて、ただ、走っている。
その桐孤の想いを自身に乗せて走る行為―――そこに意味などあるのだろうか。
……もちろん、意味はある。
けれど、根源的にいえば意味はない。
それは生きる意味などないのに人は生きると同義語だった。
ただ、生存本能―――種を残すという機械じみた行為のために人は生きる。
―――そこに意味などない。
けれども……だけれども……文乃たちのとった行動は”より人間らしい”と云えるのではなかろうか。
人はパンのみで生きるのではない。
あまりにも人間らしい文乃と、あまりにも人間らしい感情から遠いアカシック・レコード。
けれど、そんなアカシック・レコードにも、はるか昔、まだ自分が人間だったころの記憶をかすかに持っていた。
それは”文乃が過ごしたような”記憶。
ただ、がんばって。前を向いて、がんばっていた記憶。
アカシック・レコードは文乃を呼びとめた。
アカシック・レコードからすればその行為に意味はない。
だけれども、アカシックレコードは文乃を見て、ただ……話しかけたいと思ったのだ。
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 月影文乃《つきかげ ふみの》は、空間と空間の狭間にある一瞬の煌めきに居た。
アカシック・レコードに呼ばれたのである。 

「あなた……月影文乃ね……」

「はい、そうですけど……」

文乃はアカシック・レコードの容姿を見て気がついていた。
あまりにもその容姿が文乃と似ていた―――いや……
小学生のころの文乃の姿……その姿そのものだったから。

「わたしはアカシック・レコード。
 いくたもの選択をつんだ意思の在り処。
 この世界を観測しつづけるのが、わたしのつとめ」

「どうして文乃を呼んだんですか?」

文乃はアカシック・レコードを前にしてただならぬものを感じたのであろう。
アカシック・レコードに核心だけを聞いた。

「……あなたにどうしても話したいことがあった。……だから」

文乃は黙る。
文乃ができること。
それはアカシック・レコードの話を待つだけだから。

「ねえ……文乃。あなたはありのままの世界と、そうでありたいと思う世界。どちらが好き?」

そのアカシックレコードの問いに文乃はなんと答えればいいのかわからなかった。
けれども、その問いが真剣なもの―――冗談で言い返せるような類いのものでないことだけは分かった。

「わ……わからない。
 けど。
 だけど、ありのままの世界だってそう悪いものじゃないんですよ。
 ええ、きっとそうです。
 だって世界はこんなにも美しいじゃないですか!
鳥は囀《さえず》り、花は生を謳歌《おうか》し、人々は笑顔に包まれる。
 こんなにも素晴らしい世界を楽しまないなんて……
 それは、なんてもったいない。
 そう、思いませんか?
 緑の若葉のゆれる音。
 ゆらめく陽炎《かげろう》の軌跡――」

「……ええそうね。ほんとにそのとおりだわ。
 あなたはあなたが思う以上に凄い人ね。
 努力を惜しまず、自己を偽《いつわら》ず、
 深い苦悩に打ちひしがれても克己し続けた。
 あの山の向こうはどうなっているのだろう。
 あの海の向こうはどうなっているのだろう。
 あの空の彼方にはなにがあるのだろう。
 宇宙と私。
 知りたいと思う気持。
 世界を渇望しようとするその在り方。
 それが死してなお、わたし、アカシックレコードを生み出した。
 わたしアカシック・レコードは文乃の霊体であり、
 文乃の想いが具現化した形。
 ……この世界を記録すること。
 いいところも悪いところもありのままに記録すること。
 そう、ただひたすらに――」

文乃はそこで一つの疑問にいきついた。

「でも、なら……どうして貴女は今、ここに存在しているのですか?
 文乃は今、現にここにいるんですよ。
 貴女が、”未来の文乃”が霊体となって現存している姿だとしたら、
 どうして今、貴女にとって過去である”今の文乃”がここにいるのよ!」

文乃の疑問はもっともだった。
が、アカシック・レコードはさしてそのことが不思議ではないように
文乃の疑問に答えた。

「アカシック・レコードであるわたしには時間軸は意味を持たないから。
 わたし―――アカシック・レコードは、過去や未来という区別さえない。
 わたしが生前生きていた時代を闊歩《かっぽ》する。
 その時代の出来事―――目に留まったものを記録する。
 ただ、それだけ。
 わたしの好みにはやはり多少の偏りがあることは否めないけれど、それでもできうるかぎり全体を見回している。
 わたしは過去に起った出来事を記録し直すだけ。
 わたしが死んだあとの未来のことはわたしでもわからない。
 ただ、過去であっても記録できるということは素晴らしいことだと―――
 わたしは、そう思う」

「……”未来の文乃”―――アカシック・レコードは、霊体になってさえも、
 飽くなき探究心をもっているのね。
 今の自分に満足することなく、より素敵な自分を目指そうとする。
 山を愛し、海を愛し、川を愛し、空を愛し、何より人々を愛し、世界を記録しようとしている。
 ほんとに素敵なことね。
 文乃、貴女みたいな人になりたいなっ!
 ほんとうに貴女みたいな素敵な人になれるかな?」

その問いに、アカシック・レコードは微かに微笑んだ。

「ええ……きっとなれる。
 あなたがそれに向かい努力を惜しまなければ。
 きっと……そう……きっとなれるから……」

その言葉に文乃は静かに頷いた。






    エピローグ アカシック・レコード 完