コギト・エルゴ・スム
<わたし>は思う、ゆえに<わたし>は存在する
<わたし>の思惟が<わたし>をこの世界の住人だと認識させる。
<わたし>が死んでしまったら世界はどうなるのだろうか。
<わたし>がいなくても続く世界。
<わたし>の存在などちっぽけな海岸沿いにうず積もる砂の楼閣に似た、
だれも気づかない、だれも知らないそんなちっぽけな存在。
でも<わたし>にとっては掛け替えの無い命。
<わたし>は死ぬのが怖い?
どうして怖いのだろう。
どうして<わたし>は死を恐れるのだろう。
死は生まれた瞬間からすでに内包しているもの。
この世界で死を恐れるのは人間だけらしい。
およそ他の人間以外の生物は死を怖がったりはしない。
なら死を恐れることなど意味のないことだろうに。
そう思い<わたし>は床に入った。
明日もまた廻る日常。
<わたし>が存在するかぎり廻る日常。
どうでもいいようで、とても大切なもの。
それがわたしたちのいる世界。
わたしたちのいる世界は思っているほど悪くなく、
思っているほど良くも無い。そんな曖昧な世界。
箜間桐孤のホームページ
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くーちゃんのスレで2げとズザー
箱庭の中の夢
第一章 鏡像〜宮の面影〜
作 箜間桐孤
>冷彩孤独色サソ
サンクスです。
このスレでは主に桐孤の書いた小説を体裁するので
もしよかったら読んでみてくださいな。
*
私、箜間桐孤(くうかんとうこ)がまだ大学講師になり始めたころ。
私は西園寺宮と出合った。
渋谷の街並み。
薄汚れたビル街を歩くと、
間昼間からわけのわからない言葉を撒き散らす男を見た。
年は二十代後半ぐらいだろうか。
中肉中背。
顔はやたらと白い。
その姿は貧弱極まりない大学生を彷彿とさせた。
男は喧騒賑わう道端でこんなことを力説していた。
「人々よ、今こそ立ち上がれ。
倫理・道徳の廃れた現代だからこそ、
救いの手が差し伸ばされなければならない。
人は神と融合しなければならない。
人々よ、殻を破れ。
世界と精神とを同一に。
国や言語を越えた絶対知覚。
それを我われは手に入れるべきだ」
なんかこの男、凄いことを云っている。
よほど頭が「いっちゃっている」か、よほどの秀才かのどちらかだろう。
私はこのわけのわからないことを云ってる男に興味をもった。
渋谷にはこういう電波を発する輩がいるから面白い。
「ねえ、あなた面白いね。良かったらその話を聞かせてもらえない?」
私は興味を持った。
こんな面白い男、田舎にはまずいない。
私は静岡県の伊豆半島のちっぽけな街。
四方八方を山に囲まれた、
韮山町というところに住む、呪術師の家系だ。
自然の恵み豊かな温かな街。
私は故郷の韮山町が好きだ。
街は大した産業はないものの、
四季の移り変わりを如実に現す桜や銀杏、
山々の紅葉などはなにものにも形容しがたい美しさを放っていた。
我が箜間家。
古くは北条氏に仕える。
近世では伊豆半島のお代官である江川家に仕える。
戦後の非軍備化、財閥解体により多少落ちぶれたが、
それでもまだまだ箜間家の権力は地方では絶大だ。
今現在箜間家を支配している母、
箜間蓮如(くうかん れんにょ)は
父、箜間好摩(くうかん こうま)亡き跡、
一人っ子である私を立派に育ててくれた。
そのことは感謝しなければならない。
ただしかし、私はすこし母を恨んでいた。
私を存在不適合者、つまりこんな苦しみでしかない
能力を身につけさせた元凶は、母なのだ。
母は戦後落ちぶれた箜間家を立ちなおすべく
生まれてくる私にある呪いを掛けた。
普通の子供として、
普通の人間として生まれさせてくれなかった。
品種改良作品。人体改造。
母と父の呪術的「力」を一心に浴びた私は、
生まれた当時から莫大なる「力」を秘めていた。
自身を苦しめるほどの。
他者から忌み嫌われるほどの。
本人では制御できないほどの「力」を。
だがまあ、紆余曲折をえて今に到る。
私が考え事をしている最中にも、
男は怒涛の如くしゃべり続けている。
なんだかこの男、ちょっとうざい。
「人は進化・革新をしなければならない。
人という殻の中ではその進化も緩やかだ。
たとえ進化ができたとしても。
それは仮初めでしかない。
人は今こそ、神と融合すべきなんだ」
男のあまりの論理の飛躍ぶりに私はちゃちを入れた。
「あなたは神というけれど、神はこの世界のいったいどこにいるというの?
あなたには神は見えるの?」
私の質問に男は待ってましたとばかりに意気込む。
「いい質問。
僕には見えるんだ。
ほら、あなたの後ろにも。
僕の周りにも。
あの駅の周りに見える。
あの売店にも神様はいるじゃないか!」
この男、神道系か。
云ってることはキリスト教臭いが。
八百万神(やおろずがみ)がこの男の信仰元になっているらしい。
けれども、日本の宗教は殻の離脱、
進化・革新などは説いていない。
どうやらこの男の云っていることは独自の理論らしい。
「私には見えないなあ、あなたの云う神様。
私も実は神を信じているんだけどね。
ただ、眼に見える神ではなく、
形而上学的な眼に見えない神なんだけれど」
私がそう云うと、男は嬉しそうに微笑み、顔つきが緩やかになった。
私はさらに疑問を投げかけた。
「あなたはやたらと進化を押し進めたいようね。
でもね、進化の行き着く先は自己崩壊。
そのことを分かって云ってる?」
「はん。
進化についていけない輩は自己崩壊してしまえばいい。
進化についていけるものだけが世界を支配するのだから」
この男、急に選民思想を持ち出しやがった。
まあ面白いからいいんだけど。
「それはそうと、あなたはどうやって神と人とを融合させようとしているの?
鍛錬や苦行では、なかなかできそうにないと思うんだけど・・・」
私は素直に疑問をぶつけた。
しかし男は待ってましたとばかりに
「人は
神と融合することによりタオや魔術、
テレパシー等を使えるようになるんだ。
その方法は強くただ無心に願うこと。
人の【認識】がそうさせる。
【認識】が世界を変える。
人は【認識】によって幸福にも不幸にもなれる生き物だから。
さあ、あなたも箱の外へ離脱しましょう。
箱の中から脱しましょう!」
「箱の中と、外か・・・・。
ふふふ・・・ははっははは」
ああ、可笑しくてたまららない。
箱の中から外へか・・・。
私の急笑に男はすこしたじろぐ。
「そういえば私、もう箱の外へと離脱してたんだ・・・」
今更のように気がつく。
私には自身の内に不思議で不可思議な「力」というものが内包している。
「私は、既に君のいうところの進化した人間なのかもしれないな。
ただね、箱の外への離脱は、決していいことばかりじゃない。
むしろ辛いことの方が圧倒的に多い」
私は自分の運命を見透かしたように、哀しく言い捨てた。
男はまだ、なにがなんだか掴めていないようだ。
私は最後に男にこういった。
「君の云う超越者といったものに憧れているうちが華さ。
君が何をしようと構わないが、
社会秩序を壊そうとすることだけは辞めろよ。
いずれきっと痛い目に合う。
君の周りにも既に抑止力は働いているんだからな」
そして、男の斜め後ろ右方向。
佇む少女に視線を送る。
いつの間に少女はいたのだろう。
美しい黒髪の日本人形。
年は十歳ぐらいだろうか。
肌は透き通るように白く、
身にまとう概念は既に人のものではない。
風が強ければその少女の髪は幽玄の美となっていただろうに。
「アカシック・レコードか?」
黒髪の少女は何も喋らなければ、頷きもしない。
ただ視線を投げかけただけ。
男は、何がなんだかわからないといった感じだ。
「わたしはただこの世界を記録するだけだから。
悲しいことも辛いことも。
ほかは、なあにも知らない」
アカシック・レコードが口を開く。
おそらくこの幻想的な少女はアカシック・レコード。
通称、アカシャ記録と呼ばれるもの。
この世界には全ての記録を司ったものがある。
その一つがこのアカシック・レコードだ。
この少女はガイア論的な、
地球が人間支配の抑止力のために生み出した存在というよりは、
人間が死後霊体となって出現した姿であろうと、推測される。
地球そのものが送り出した使者はこんな分かりやすい姿をしてはいない。
否、擬人化することはあるかもしれないが、もっと神々しいだろう。
この幻想的な少女は、
普通の人間とは違うまでも、人間臭さを感じるのだ。
生前はきっと人々の笑顔が好きな優しい女の子であっただろう。
私は男には用事があるからと云って、別れた。
ほんとは用事などない。
ただアカシック・レコードと話したかっただけだ。
あの男の話もかなり面白かったが、
アカシック・レコードに出会えることなどは滅多にない。
ならばどちらを選ぶかは云うまでもないだろう。
私はアカシック・レコードを優先した。
渋谷の街は色々な喫茶店がある。
無機質なビル街を北東へと歩く。
すると薄汚れた喫茶店を見つける。
私はデート感覚でアカシック・レコードを誘った。
(めんどうなので以後、アカシャと記す)
アカシャはただ私の云われるがままに付いてきている。
主体性がないといえばない。
一人っ子の私は、可愛い妹をもったような感じがした。
こんな妹がいたらな〜、などと考える私。
私たちは喫茶店の一番奥の個室を頼んだ。
人は壁際、隅の席が一番落ち着くらしい。
きっと古来から培われた人間の本能によるものだろう。
私はアイスコーヒーを頼んだ。
アカシャは何も云わないかな〜、と思いきや
「チョコレートパフェ一つ。デラックスで」
なんて私でも云えないことをしれっと云う。
こいつ大物だ・・・。
霊体の人間でもお腹がすくのだろうか?
そんな取りとめも無いことを考えた。
アカシャは、注文以外は終始無言で俯いている。
換気の悪い喫茶店は、さながら収容所のよう。
四方八方を密封された密室空間。
樹花一つもないその空間は
よりいっそう息苦しさを強調していた。
ここで殺人事件などが起きたら、さぞ美しいだろうに。
そんな怖いことを考えながら飲み物がくるのを待った。
私は注文が来る前にアカシャに聞いておきたいことがあった。
「アカシャ、単刀直入に聞くけど、あなたいったいなにものなの?」
アカシャは私の質問には答えないように思えた。
その暗く俯いた様子からして、答えるようには思えなかったから。
しかし、私の予想に反してアカシャは答えた。
「わたしはこの世界を記録するもの。ただそれだけ」
「この世界を記録する? そんなことに意味はあるの?」
「意味なんてない。この世界には意味のあることなんて一つもない」
「ああそうだろうな。
意味を求めれば求めるほど、
行き着く先は意味などは始めからありはしないということだ。
だがな、人間は意味を求める生き物なんだよ。
大事なのは目的じゃなく、過程だ。
そう、それは人生と同じように。
じゃあアカシャは、意味がないと知っていて
なぜ記録などするんだ?」
「それがわたしの望むものだから」
アカシャはさもそれが当然なことのように云う。
「ふむ。それなら私は何も云わない・・・。
ただ辛い道を選んだな、アカシャは。
霊体になってさえもこの世界を記録するか・・・。
果たしてその行為に救いはあるのか、ないのか」
「救いなど始めからありはしない。
それはあなたがた人間も同じ」
私はそのアカシャの言い分を否定したかった。
人は他者から優しくされたとき、認められたとき、
それを一種の【救い】と呼んではいけないのだかろうか、と。
もし死後の世界がなかったとしても、
神さまが存在しなかったとしても、
今、この瞬間に永劫を、永遠を感じられたのなら、
それは【救い】と呼ぶに相応しいことではないだろうか、と。
私が暗い気持に陥っていると、
いつの間に来たのやら、
アイスコーヒーとチョコレートパフェが無造作に置いてあった。
アカシャはもう既にパフェをぱくついていた。
パフェを食べるアカシャは可愛かった。
お持ち帰りしたくなる自分を律し、
私はコーヒーにミルクを注ぐ。
なんだか、アカシャのぱくつく姿を見ていると、
そのような小難しいことがどうでもよくなってくる。
ふう。まあ、私がアカシャをデートに誘ったんだからいいか。
いつの間にはアカシャを喫茶店へと誘ったことは
デートへと様変わりしていた。
箜間桐孤(くうかんとうこ)はちゃっかりものだった。
その後、私たちは喫茶店を出る。
アカシャは無機的に
「ありがとう」
というと、渋谷駅の方へと駆けていった。
またこの世界の記録とやらに専念するのだろう。
さあてと、私もいっちょ仕事に行きますか。
そうそう、渋谷キャンパスに用事があったんだよ。
私の勤めている皇学院大学は、たまぷらと渋谷にある。
今日は渋谷に用があるのだ。
そうして私は渋谷キャンパスへと足を運んだ。
*
渋谷駅から歩いて十五分、山の高台に皇学院大学はある。
創業は明治というから由緒正しき大学だ。
私はそこで哲学を教えている。
教えてるといっても今年からなんだけど。
大学の修士・博士課程をえて、私は大学に残ることにした。
元来学者肌な私は、この大学講師という職業は天職のように思えたからだ。
それにしても渋谷の排気ガスの濃度には呆れる。
ここは産業革命期のロンドンか?ってな感じだ。
私が田舎育ちのためか、渋谷の空気は肌に全く合わなかった。
すこし入り組んだ街路を歩くと無意味に巨きな門に着く。
外界から隔離された大学。
一種の特権階級を思わせる。
私は大学に入り真ん中の道を歩く。
ナンパをしている学生。
弁当を食べている学生。
その顔つきはまだ幼さを内包している。
私は今年で27になる。
もう若者ではあるまい。
最近、研究レポートのネタが浮ばなく苦しんでいる。
どうしたら上手い文章が書けるのか。
どうしたら素晴らしい内容の論文が書けるのか。
善悪の彼岸。
この世界の善と悪。その根拠を探っていた。
何が正しくて、何が間違っているのか。
なかなか内容が深いので難しい。
講師室に行くための廊下の角。
何かにぶつかる。
私は最初、いったい何にぶつかったのか理解できなかった。
それほどまでに考え込んでいたから。
「すみません。だ、大丈夫ですか?」
背の低い、可愛らしい少女が声をかける。
目鼻立ちだけなら美しいという表現が適切だろう。
けれど、その小さな容姿からしてあまりそういった印象は受けなかった。
綺麗な黒髪を肩越しまで伸ばした、肌の白い日本人形。
幽玄とはこういう少女のことをいうのだろう。
それほどまでに神秘的な少女だった。
「君はどこかであったような」
私はその少女に見覚えがある、そんな予感がした。
「は、はい、箜間先生。宮です。
西園寺宮。先生の哲学の授業でお世話になってます」
その少女は小声ながらもはっきりと答える。
ああ、そういえば宮、西園寺宮。
あのいつも前と後ろを別つ境界辺りにいる少女か。
可愛らしい少女だったので記憶に残っていた。
私の授業は少人数制なので、忘れるはずはないのだけど、
何分この宮という少女、影が薄い。
こんなに可愛らしい少女なのになんでだろう?
・・・・きっと少女の存在の気迫さ。
この世界から拒絶されたような、
そんな存在の儚さを感じさせる暗い雰囲気からだろう。
長い前髪で目を隠すその仕草が、いっそう暗さを際立たせていた。
せっかく可愛いのにもったいない。
そう私は思った。
あまり人と関わりあいになりたくないのかな。
「あ、宮、午後の授業に送れちゃうんでもう行きますね。
先生の授業毎回たのしみにしてます。それでは失礼します」
少女はそういうと、いそいそと小走りで二階に上がっていった。
私は一階の廊下奥、講師室に入った。
等間隔に並んだ机を一瞥し、自分の机を探しだす。
講師室北東の片隅に私の机を見つける。
乱雑に並べられた机。
私はお世辞にも綺麗好きとはいえなかった。
引き出しから講義名簿を抜き出す。
西園寺宮・・・・。あ、あった。
な、なんと成績優秀じゃないか!
なんで記憶が曖昧だったんだろう。
毎回ちゃんと出席しているし、
中間レポートの出来も他の生徒をぐんに抜いている。
こんな優秀な生徒だったなんて・・・。
私は西園寺宮に興味をもった。
四時限目は私が担当する哲学の授業だ。
きっと西園寺宮もくるはず。
ちゃっかり質問でもしちゃおうかな。
*
そして四時限目が始まる。
401号室。
私は階段を上がる。
教室に入ると、あ、いたいた宮ちゃん。
それにしたもほんと可愛いな〜。
しかし私はある異変に気づいた。
西園寺宮は、クラスで朗かに浮いていたのだ。
西園寺宮の周りだけ席が空いていた。
最初はいじめられているのかな?って思ったけど、
そうじゃない。
皆、本気で気がついていないんだ。
西園寺宮という存在に。
私は戦慄した。
西園寺宮は普通じゃない。
気配が、存在が、あまりに希薄だ。
目を逸らしたら、いなくなってしまいそうな、
もう二度と会えなくなってしまいそうな。
私は授業の最中、西園寺宮のことばかり考えていた。
授業が終わった。
永い無限空間。
永劫という名の仮初めは授業が終り、初めて
本来の時として動き出す。
私は早速、西園寺宮に話しかけてみることにした。
西園寺宮はみなが教室を出た後も一人ノートの整理に勤しんでいた。
私は思い切って声をかけてみた。
「ねえ、西園寺さん。最近どう?
授業でわからないところとかない?」
西園寺宮は一瞬びくっとする。
が、すぐに笑顔で
「え、あっはい。大丈夫です。ほんと先生の授業は毎回ためになります。
宮は哲学って好きなんです。
なんかこの世の真理を探すお手伝いをしてくれるような気がして」
「そうだなー。ほんとうに」
私は西園寺さんにはちょっと失礼にあたる気がしたけど、
思い切って聞いてみることにした。
「西園寺さんって、何か秘密があるでしょ?
クラスの皆、本気で西園寺さんに気がついてなかったし。
西園寺さんってもしかして能力者?」
西園寺宮はすこし俯き、そして
「ええ・・・、そうです・・・。先生も実はそうですよね?」
私は一瞬びくついた。
この子、分かってたんだ。
「先生と宮は同類ですもの。宮はいつも独りなんです。
この能力ゆえに」
能力で独り?
西園寺宮の云う、独りになる能力。
彼女の存在の希薄さ。気配の臼さからして・・・。
私は考察する。
「西園寺さんは、気配を消すことができる能力者?」
私は考察した結論を西園寺宮に提示する。
考察が当たっていたことに嬉しく思ったのか、
「そうですね、ちょっと違いますけど、そんなところです。
先生は独我論というのをご存知ですよね?」
「ああ。二十世紀最大の哲学者であり、
哲学を葬り去ろうとした男が提唱した理論だろ?
ウィトゲンシュタインは私の選考でもあるんだがな。ふふ」
「そうです、それです。
独我論はこの世界には私しかいない。
という命題ですよね?
人は結局は、他者の心はわからない。
私の心しか、私は結局のところわからない。
私の死は、私の命の終りであると同時に
私の世界の終りをも意味する。
この世界には私しかいないということは
総じて、私だけがこの世界にいないということになる」
「私しかいない世界は、私だけがいない世界か・・・。
そうだな」
「それが宮の能力です。
宮の存在はごく一部の親や宮を知っている人。
そして同じような能力者。
そのくらいしか観測してもらえないんです」
「辛いな・・・」
私は素直に感想を洩らした。
あとで失言かなって思ったけど、
その時はそう思ったのだ。
「ええ、昔は辛かった。みな、宮を視認できない。
ごく一部の人しか。書類上でしか。
昔から友達がいなかった・・・。
けど、それでも視認できる人はいます。
宮はそれで十分ですよ。先生」
「そうか・・・。そうだ、西園寺さん。
よかったら夕食奢るけど、どう?
うーんなんていうか、西園寺さんと
もうちょっとおしゃべりがしたいんだ」
「えっ・・・。宮とですか?
ほんとうにいいんですか?」
西園寺宮は今にも鳴きそうなっていた。
美しい静謐とした瞳には涙がみえる。
「ああ。私は西園寺さんとおしゃべりがしたい。
さっ、いこう!」
私は多少無理やりにでも腕をひっぱった。
そして私たちは夜の渋谷にでていった。
*
私たちは渋谷の繁華街を歩く。
ネオンと暗闇の断絶に眼をひそめながらも
横に確かな、人のぬくもりがある。
それだけで何か嬉しかった。
私は学生時代を渋谷で過ごしたためか、
それなりに渋谷の食事処には詳しかった。
「西園寺さんはなにか好きなものとかある?」
「焼き魚定職」
西園寺宮は小声ながらも明瞭に云った。
焼き魚定食の魅力が分かるなんて、
なんて古風で偉い子だろう。
最近の若者、ちょっと見直しちゃった。
けどこの焼き魚定食は、ちょっと店を選ぶ代物だ。
うまいところは抜群にうまいのだけど、
そうでないところもまた多い。
焼き魚定職の長所はバランスがよく、
なおかつおいしく食べられることにある、と私は思う。
トンカツやヒレカツ定食と違って、
腹がいっぱいで動けなくなるなんてことはないし。
もちろん云うまでもなく、体にいい。
健康をすこしでも意識したことのあるものなら、
その効用については認めざるをえない。
「西園寺さん、じゃあ定食屋に行く?」
「はい、それでお願いします」
「そうだなー、私の知っている定食屋というと・・・」
「はい」
「うまみ亭なんてどう?
あそこ値段も良心的だし、味も抜群。
皇学院の講師もよく行くって聞くから。
駅の裏手にあるこじんまりとした店なんだ」
「楽しみです」
私たちは駅の裏手にあるうまみ亭を目指した。
皇学院大学と渋谷駅とを挟んだ裏手にあるのが
すこし難だけど、わざわざ歩いていくだけの価値はあり、だ。
私たちは狭い街路を歩きながら、講義の内容について話した。
西園寺宮は自身の能力の解明の手がかりの一環として
哲学科に入ったらしい。
西園寺宮の能力。この世界には宮しか存在しない。
私の専攻でもあるウィトゲンシュタインの独我論を
彷彿とさせるような能力だ。
この世界は脳の産物に過ぎず、思考はこの世界の理を決定する。
この世界が脳の産物に過ぎないなどと本気で思っているのは
哲学者ぐらいなものだろう。
いや、哲学者だってそんな荒唐無稽なことを思っているわけじゃない。
ただ、そこに何らかの、この世界の真理という名の幻影を、
解く鍵があるのではと思っているだけなんだ。
とかなんとか話しているうちにうまみ亭に着いた。
こじんまりとした和層の庵。
看板も立ててなければ、食事処という雰囲気すら感じない。
それでもこの庵は立派な定食屋なのだ。
私たちは江戸時代へと回帰したような門をくぐり、
店に足を踏み入れる。
茶室をそのまま定食屋にした店内。
ふと、そこに見知った顔を見る。
「か、乖離(かいり)教授!?」
「おお、誰かと思えば箜間君じゃないか。奇遇だな〜」
乖離王(かいりおう)教授。
名前は中国人みたいだが、列記とした日本人らしい。
乖離教授は私の上司にあたる。
専攻はヘーゲル哲学らしい。
よくヘーゲルなどといった小難しいものを
やっていると思う。
定年まじかな乖離教授は最近やおら研究熱心だ。
その研究熱っぷりは学内でも評判なほど。
「乖離教授は最近精力的に研究してますね。
ほんと私も見習わなくちゃいけないなあ」
「ははは、それなんだがな・・・・。
まあいい。仕事の話は後にして今はここに座りなさい」
乖離教授は自分らの座っている席を叩き、
こっちへこいと手招きをする。
「よろしいんですか?
乖離教授の知り合いの方がいらっしゃるのに・・」
「なあに、かまわん。な、牧野?」
「ええ、かまわないですよ〜。えへへ。
綺麗なお嬢さんだ。
適度な尻の丸み。
ねえ、美しい顔のお嬢さん?」
なにかこの軽薄そうな笑みを浮かべる男は牧野というらしい。
年は乖離教授よりやや若いといった感じか。
そうはいってもいい年をしたおやじだった。
中肉中背ののっぺりとした顔立ち。
そしてその細い眼がいっそう軽薄そうな趣きを強めていた。
「ああ、そうそう。まだ牧野の紹介がまだだったな。
こちらが牧野揚水(ようすい)教授だ。
心理学科の教授なんだがな。
なかなか面白い男なんだよ」
「初めましてお嬢さん。牧野と申します。
いや〜こんな美しいお嬢さんと知り合えて
幸せだな〜」
「いえ、こちらこそ」
私は軽く笑みを添えて、社交辞令の挨拶をする。
「ところでそちらの学生風のお嬢さんは?」
乖離教授が聞いてくる。
「西園寺宮と申します。哲学科の学生です」
「そうか、そうか。飯は多くで食べた方がうまい」
既に注文を終えてある乖離教授らを尻目に
私たちも注文することにした。
「私はヒレカツ定食にするけど、西園寺さんは焼き魚定食?」
私は一応西園寺宮に確認をとった。
「いいえ。宮はトンカツ定食にします」
私はその西園寺宮の決定に一瞬驚いた。
あれだけ、焼き魚定食が好きだと云って、
この変わりようはいかなるものか、と。
「西園寺さん、あれだけ焼き魚定食が好きって云ってたのに、
どうして?
なんかここの焼き魚、美味しくなさそう?」
すると、西園寺宮は可愛い口を、にやりとさせて云った。
「箜間先生。人をなんでもかんでも
自身の予測で判断しようとすると、
時に痛いしっぺ返しをもらいますよ。
宮がさっき焼き魚定食が好きだという判断を聞いて、
先生は、宮が定食屋では焼き魚定食を食べるであろうと
思い込んでしまったんです。
けど、宮は焼き魚定食は好きだとはいいましたけど、
焼き魚定食を定食屋で食べるとは一言もいってませんよ。
えへへ」
私はこの小さな学者さんの意見に唖然とした。
なんて素敵な子だろ〜、それが私の西園寺宮に対する印象だった。
普通なら、なんてマセタ子なんだろうと思うところなのかもしれないけど、
仮にも私は学者の端くれである。
こんな素敵な意見が言える子に対し、悪い印象を持つわけがない。
私は西園寺宮のことがますます好きになった。
「そうだ、確かに。西園寺さんは焼き魚が好きだとはいったけど、
定食屋で焼き魚を食べるとは云ってないものな〜」
「えへへ、けど、ほんとうは急にトンカツが食べたくなっただけなんですけどね」
可愛い。まだ生まれたての子猫のように顔をかく仕草。
なんて可愛い子なんだ〜。その辺のぬいぐるみより宮を取りたい、もち。
私たちの注文が終わると、
乖離教授は神妙な面持ちで私に話しかけてきた。
「箜間君。君はパラダイム転換という言葉を知っているかね?」
その白髪に染まった雪花のような髪。
彫の深い顔立ちがいっそう乖離教授の神妙さを際立たせていた。
「もちろん知ってますよ。トーマス・クーンでしたね?
科学革命、枠組みの変換という概念を提唱した」
「そう、それだ。
我は今な、それを手がけようとしている。
我の本来の研究はヘーゲルなのだが、
ソ連が崩壊し、冷戦が終わった今となってはあまり意味を持たん。
そこで我は新しくトーマス・クーンのパラダイム転換に手をだした。
研究自体は去年に終り、今年からそれを実行しようと思う。
そこでだ。
優秀な箜間桐孤(くうかんとうこ)君に
我の研究の助手を頼みたいんだが・・・・。
どうかね?
ここは先輩のたのみで、聞いてくれんかね」
「どんな研究なんですか?
パラダイム転換を実行しようというのは」
「うむ、それなんだがな。
なあに、ここでは話にくいことだ。
また日を改めてといこうか」
乖離教授はそういいながらすこし周りを意識していた。
なにか部外者に聞かれては不味いことなのだろうか。
茶室をそのまま改造した一室で私は考えた。
この西洋にはない、自然と共存された庵。
日本は古来から自然と共存してきた。
しかし、この渋谷を見る限りはそうは思えない。
生の実感なんて一欠けらも感じることのできない
無機質で死んだビル街。
従業員を物としかみなさない経営者。
いくらでも代わりのきく、「私」という阻害化された記号。
いつからこの国はこんなにも住みにくくなったのだろう。
乖離教授はそういうことを変えるために、
パラダイム転換をしようとしているのだろうか?
そういうことなら、私は乖離教授の考えに乗るかもしれない。
私は都会があまり好きじゃなかった。
小さいころ田舎で育ったことが大きいだろう。
春。桜を愛でることが好きだった、私。
夏。凪がれる小川で岩魚を釣った、私。
秋。紅葉狩りを誰よりも望んでいた、私。
冬。雪、霜柱、氷柱に温かさを感じた、私。
私にとって都会は鬼門だった。
いつのころからだろう。
そんな都会にも慣れてきたのは。
人は環境に適用しなければ生きていけない。
それは人間の持つ生きるという本能。
そのうちに宮と牧野教授のトンカツ。
すこしして、私のヒレカツ定食が。
最後に乖離教授の刺身定食が届いた。
私たちより前に注文した乖離教授が一番最後だなんて、
刺身は調理するのに神経を使うのだろうか、
などとどうでもいいことを考えた。
「う、うまい」
私は歓声を上げた。
この芳醇(ほうじゅん)としてまったりとした質感。
程よい弾力具合が肉のうまみを惹きたてている。
料理番組のコメンテーターもびっくりだ。
「うまいぞー!!」
私は味王の如く叫んだ。
西園寺宮、乖離教授も、もくもくと食事にありついていた。
一方、牧野教授はさっきから私の方を見て、
にやにやしている。そして一言、
「美しい・・・・」
なんだそりゃ。牧野教授はどうやら私にメロメロらしい。
しかし、残念。
私は中年男性には興味がなかった。
牧野教授に合掌。
チーン。
その後私たちは無言で食事をすませ。
おのおのの帰る道へと下っていった。
西園寺宮が帰り際に
「箜間先生今日はありがとうございました」
といい残して。
*
小鳥の囀りが聞こえる。
朝の陽射しが眩しい。
新しい朝の始まり。
それはどこか幻想的でまるでおとぎ話の世界に訪れたよう。
私は眠気眼をこすりあげ、時計を覗き込む。
8時15分。まずまずだろう。
目覚ましはとうに鳴り終わっていた。
私は、朝はめっぽう弱い。
直そうと試みるもいつも途中挫折。
困ったものだ。
顔をばしゃっと勢いよく洗うと、
朝食作りに取りかかった。
今日の朝食は納豆と生卵をあわせた卵納豆かけごはん。
もち、味噌汁つき。
誰だ、朝食はパンと目玉焼きなどといった輩は。
この西洋被れめ。
日本人なら、お茶漬けとまでは云わずとも
朝は納豆や味噌汁だろう。
ちなみに、パンに納豆をかけるのは止めたほうがいい。
私が保障する、うん。
いつも通りの朝食に満足した私は早速トイレ、化粧を済ませ、
漆黒のスーツを着こなす。
今日も快調、牛丼は吉野家、レッツゴー。
満員電車に乗る。
サラリーマンのむさ苦しい匂いが電車内に立ち込めている。
私はこの匂いが嫌いじゃない。
私が女だからだろうか。
満員電車はゆらりゆられ渋谷へ。
隣の男と肩がぶつかる。
私は不覚にもぞくぞくする。
私は痴女かもしれない。
SかMかに人を分けるのであれば、私は間違いなくSだった。
ま、そんなことどうでもいい。
そうこう考えている内に渋谷へ着く。
渋谷の喧騒。周りすら観る暇もない人、人、その群衆。
私もその中の群衆の一人。
ふと私は妙な思考に囚われた。
私は他人からどう見られているのだろう?
私は他人からどう映っているのだろう?
すこし気高くて、知的な女性OL。
こんなところだろうか。
朝はみな忙しそう。
それはそうだろう。
そもそも大学生や大学の講師などというものは余威がありあまる。
サラリーマンからみたら、特権階級もいいとこだ。
そうは云っても私自身、この地位を自身の力で勝ち取ったんだ。
私は元来人一倍、知的好奇心が旺盛だった。
何でもいい。何かを研究したかった。
渋谷の薄汚れた路、無機質で死んだビル街を歩く。
どうしてこんなにもこの街は人の生気といったものがないのか。
死んだ街。死の都、渋谷。
東京は日本一自殺の多い場所でもある。
自然から疎外された街。
いや、自然を疎外したのは私たちだ。
人は自然なしでは生きていけない。
それは神についても同列だ。
人は神なしでも生きていけない。
自然や神を殺してしまった現代社会。
自殺が多いのも頷ける。
まあどうでもいい。
私は私の生きる道を切り開く。
*
「箜間先生、おはようございます」
西園寺宮が私にその澄んだ声を投げかける。
相変わらず可愛い。
小奇麗にまとまった顔は、見ているだけで心が洗われる。
「昨日はほんとに楽しかった。また誘ってもいい?」
「ええ、もちろんです。箜間先生」
講師室の片隅で私たちは他愛もないおしゃべりをした。
私が廊下で見かけたときに声をかけたのだ。
「西園寺さんってほんと優秀だな。
レポート読ましてもらったよ。
構成も上手い、文章は一貫している。
しかも論理明晰だ。
云いたいこともしっかりと伝わってきたし。
ほんとお手本のような文章だったよ」
「ありがとうございます。
レポートには一月以上も費やしました。
時間をかければかけるほどレポートって良いものができるんです。
小説や絵画といったものもおそらく同じだと思います。
あと、そのもし良かったら、宮のこと、
西園寺さんじゃなくて宮と呼んでいただけないですか?
なんだか西園寺さんなんて他人行儀じゃないですか?
先生と宮は同じ能力者同士なんだし、
もう立派な・・・その・・・・」
「そうだな。宮・・・。なんか恥ずかしいけど。
じゃあ、私のことも桐孤って呼んで」
「えっ? けど・・・・そうですか。
・・・・じゃあ、桐孤さんって呼びますね。
さすがに目上の方に向かって呼び捨てはできません。
そんな宮は恥知らずじゃありませんよ〜」
「あはははは」
私たちは笑った。
私たちのパーソナルスペースはより一層近づいていた。
「それじゃそろそろ二限の授業が始まるんで行きますね。
あの今日の放課後どうでしょうか、またどこかに食べにいきません?」
「いいな〜。いこういこう。漫画の森に来てみろりん」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「ゴホン。冗談だ。
じゃあ放課後講師室で待っているから。
ドタ・キャンはなしだぞ。宮」
「ええ、それはこちらの言い分ですよ。桐孤さん。えへへ。
それじゃ行きますね」
宮はすぐさま講師室を出て、急ぎ足で駆けていった。
ああ〜ん、宮可愛いよ〜、宮〜。
私は放課後、宮との約束を取り付けたことに喜び歓声をあげた。
「いやっほ〜う、西園寺宮、最高!!」
その後、講師室で周りから白い目で見られたことはいうまでもない。
*
放課後、私たちは渋谷の街に繰り出していた。
駅への道を歩きながら、私は横の宮にちらりと視線を送る。
肩越しまで伸びた凪がれるような黒髪。
現世のものだとは思えない白く透き通った肌。
みているだけで安らぎを感じる落ち窪んだ瞳。
人によっては短所に見える前髪で顔を隠した仕草も、私は好きだ。
適度な暗さを内包しているから宮なんだ。
無邪気に明るすぎる宮なんて宮じゃない。
私はもはや正常に宮を認識できていなかった。
「桐孤さん、今日は宮のお勧めの店でいいですか?」
「ん、あ、いいよ」
私はふと現実に戻る。
私の欠点でもあり長所でもあることの一つに
思考だけが現実から離れて一人歩きするということがある。
哲学をやっている者にありがちの思考だ。
「渋谷においしい回転寿司をみつけたんですよ。
最近は回転寿司だって馬鹿にできないんです。
ほとんど味は本場のお寿司屋さんとかわらないですし。
ただ、当たり外れがあるので。
でも今回宮が選ぶ回転寿司は渋谷の中でもかなりお勧めです」
「へえ、宮、詳しいな」
私たちは駅の向こう、
うまみ亭の隣にチェーン店らしい回転寿司屋を見つける。
「ここですよ。桐孤さん。さっ、行きましょう」
土地の価格がべらぼうに高い渋谷で
よくもまあこれほどの土地を買い占めたかのような広さ。
宮がお勧めするだけあり、
家族連れや学生、サラリーマンなど多岐にわたる。
値段も百円、百五十円、二百円、三百円と良心的だ。
さて、問題は味。
味が良くなければ、たとえこの値段とて嬉しいものではない。
ま、味が悪くて値段が高い店よりは数段ましだけど。
などと先月食べた高級料理店の食事を思い出す。
「へい、お二人さまですね。カウンター席へどうぞ!!」
威勢のいい兄ちゃんが、叫ぶ。
どうやら私たちの番が回ってきたようだ。
さて食うぞー、と意気込む私。
宮もいざお腹を空かせているのか、嬉しそうだ。
席に座り、茶を入れる。
ガリを取り、一つまみ口に含む。
「うむ、悪くない」
「あはは。桐孤さんってガリが好きなんですか?」
宮が嬉しそうに云う。
「いや、まずはガリだろうと。
吉野家では紅しょうが。
カレースタンドでは、ふくじん漬。
といった金銭には含まれないものを
大量に食するのは半ば常識だな。
うむ」
などと力説する。
その応答に宮は哀れみの情で私を見る。
瞳を潤ませながら。
「どうしたんだ、宮?」
「だって桐孤さんが可哀想なんですもん、ぐすっ。
ひもじい想いをしている桐孤さん。
お察しいたします」
宮ってもしかしていい処のお嬢さん?
そうやって無料の食材を大量に食する私にとって
宮の言葉はまさに未知との遭遇だった。
もしかして私が貧乏性?
まあいいや。
それに西園寺という苗字もなにか格式が高そうだし。
総理大臣にもそういった苗字があったような、なかったような。
さてと、そんなことより今は寿司だ。
寿司屋で寿司を食わずしてなにを食う!
私はまずなによりも逸早く料金表を見る。
百円の皿は・・・・と。
百円は白。百五十円が薄青。
二百円が濃青。と段々と色が濃くなるほど料金が高くなるらしい。
そして極め付けがこれだ、金ぴか皿。
一皿五百円の超高級、中トロ。
大トロがないところはやはり回転寿司の回転寿司たる所以か。
私は一通り回転皿を視認する。
「百円の皿は卵に、カッパっと・・・大したものないし」
「あの〜中トロお願いできますか?」
なんと、隣の宮は最初からいきなり中トロか?
いったいなにを考えてるんだ、この子は?
私は末恐ろしい子を好きになってしまったのかもしれない。
宮と違い私は最初、白身の魚やイカを食した。
あまり初めから脂の乗った魚を食べるのは良くない。
沢山の寿司を食せないからだ。
「あの〜イクラお願いできますか?」
なにー!?
中トロの次ぎはイクラかよ。なに考えてんだあんたは!
宮は出されたイクラをうまそうに小さな口で
むしゃぶりつく。
私はそんな宮のうまそうに寿司を食う仕草を見、
宮を食べたくなった。
なんておいしそうなんだ〜。
うまそうに寿司を食う宮。
その寿司を食う宮を食べる桐孤。
私は妄想の世界に入りきっていた。
「ああん、やめてください。桐孤さん」
「何をいう。宮のここはこんなにも濡れているじゃないか」
「だって桐孤さんの指が宮のあそこに・・・はうっ」
はあ、はあ、はあ。
さてと、コホン。
妄想はこれくらいにして、私も寿司を食うか。
「おい、おやじ、ツナと納豆撒きを頼む!」
「へい、ツナと納豆撒き一丁!」
イカや卵、ツナや納豆撒きといった安いものを食する私と比べ、
宮の食べるのものは高い。
あまりにも常軌を逸脱した食材ばかり。
中トロを筆頭に、イクラ、ウニ、甘エビとうまそうなものを
ここぞとばかし食す。
絶対ワリカンにしよう、うん。
ケチな私、最高・・・・・・・・ではない。
ちらりと横を覗く。
宮はもうお腹が膨れたようだ。
楊枝で歯を磨いている。
可愛い女の子、宮がそんな親父臭いことをしている。
これぞ萌え。
私は妄想をしていた時間分の遅れをとるかの如く、
急ぎに急いで寿司を口へと放り込んだ。
うむ。これにて一件落着・・・・・なにがだ?
私たちはもちろんワリカンでお代を払い、外に出る。
金額は私が1200円。
宮は・・・・・3000円だった。
「桐孤さん、お寿司おいしかったですよね。
また一つ大切な思い出ができました。
また行きましょうね」
「あ、うん・・・。
あのさあ・・・・宮、もしよかったら、
今度の日曜日に映画館にでもいかないか?
せっかく能力者同士知り合えたんだ。
それに・・・・・私は宮が好きだ。
可愛いし、優しいし、その暗さも含め、
すべてが好きなんだ」
私は心の内にあることを宮に吐き出した。
「嬉しいです。桐孤さん。
宮も前々から桐孤さんのこと大好きでした。
その桐孤さんの在り方。容姿、性格の全てが」
どうやら宮は以前から私のことをしたっていたらしいのだ。
能力者だからといった理由だけではなく、その在り方全部。
私は嬉しかった。
かという私は、どちらかというと一目ぼれ的な要素が多いのだけれども。
なにわともあれ、
私は宮とのデートの約束をこぎつけることに成功したわけである。
*
池袋のとあるシネマで待ち合わせ。
JR池袋駅から徒歩五分弱の近さが売りの小さなシネマ。
日曜日であるためか、街は人でごった返している。
その群衆の中からとことこと小さな女の子が歩いてくる。
西園寺宮、21歳。
日本人形のように美しい容姿。
なのに誰も彼女に気づかない。
彼女の存在観の希薄さ。
目を瞑れば二度と合間見えることないような、
そんな錯覚すら抱かせる。
「桐孤さん、待ちました?」
「いや、そんなことないよ。
けどどうして街中の方から来たんだ?
宮はこの辺に住んでいる訳じゃないだろ」
「ええ。宮、今日のデートが楽しみで二時間も前から待っていたんです。
ほらあそこにあるファーストフード店で」
「宮、おまえ・・・」
私は嬉しくも自身の認識の甘さを痛感させられた。
宮はこれほどまでにデートを心待ちにしていたのだ。
私は宮に一目ぼれをして気軽な気持でデートへと誘った。
さすがの私もこの時ばかりは、自身の楽天的思考、
相手の気持を考えにいれない向う見ずな自分を恥た。
「宮、今日のデートは私の奢りだ。
思う存分贅沢をしまくっていいぞ。
まあ安い店しか行かないけどな」
私は笑いながら云う。
「いやっほ〜う。箜間桐孤(くうかんとうこ)最高!!」
宮は大声で云った。
しかし周りの人間は何事もないように通り過ぎる。
宮の声さえも希薄なのか?
だがそのときはそんなことよりも、
宮のキャラ、前と変ってないか?
という疑問ばかりが頭に浮んだ。
きっと暗さと明るさの両属性を内包しているのだろう。
はっちゃけ宮。
悪くない・・・・否。最高だ。
私たちは大通りを歩く。
道行く人はみな思い思いの時を楽しもうとしているに違いない。
日曜日のためか、人々はみな笑顔だ。
子供連れの親子。
学生風の恋人同士。
少年同士の友愛。
少年同士の友愛で思い出したのだが、
近頃ちまたでは「やおい」たるものが流行っているらしい。
その「やおい」の語源は山なし、落ちなし、意味なし、
といった少年同士のSEXを作者やそれを読む人々が自嘲的に
云うようになったことから始まったらしい。
なにを隠そう私も実は読んだことがある。
正直な話・・・・・・・・・・萌えた。
私がにやにやしていると宮が不審そうにこちらを伺う。
「桐孤さん、何さっきからにやにやしてるんですか?
変質者にみられますよ」
「いやな・・・まああれだ。愛のあるSEXは美しいと」
「えっ?!」
「なっ、なんでもない・・・」
宮が紅くなってしまった。
紅く俯いてもじもじしている宮。
可愛い。
私も昔は純情だったっけ。
今じゃ純情の欠片もない女だけど。
映画館に着く。
映画館の外観を隅々まで見渡す。
思ったよりもこじんまりとした映画館。
・・・・・訂正。
この映画館、幅は小さいが、縦がやおら長い。
つまり二十階近くあるビルの高さのほぼ全てが
映画を上映しているということだ。
「むはあ。
さすが池袋のシネマだな。
実家近くの沼津の映画館はこうはいかなかったぞ」
「沼津。干物がおいしいって聞きますよ」
宮がホローする。
別にホローなんかしなくてもいいんだけど、
私にはそんな些細なことでさえ嬉しかった。
幸せはちいさなことから始まる、
そんな予感さえ今の私にはあった。
「さあ、行こう。いい席取らなきゃな」
「そうですね」
私たちの心はもう通い合っていた。
私たちの観る映画はリング・らせんだ。
最近ちまたで大人気のホラー映画である。
聞く話によると呪いのビデオがなんたらかんたらとかいう映画らしい。
ま、百聞は一見に如かず。
映画を観てからモノ申そう。
私たちはエレベータで四階へ赴く。
四階、死を暗示させる空間。
「ふふふ。何か血が騒がないか、宮?」
「えっ、そうですね。
四階。
死を暗示させる密閉された空間。
なにかワクワクさせられますね。
・・・・・・・なーんて、もう桐孤さん。
怖がらせないで下さいよ〜」
「ごめんごめん」
私たちは券を見せ、早々と真中の席を陣取る。
陣取りの基本事項。
最良の席を取るには、なるたけ早めに待つこと。
ま、たいして今回は待ってないけど。
席が空いていたのは、私たちの観る映画が
九時始まりという早い時間帯だったから。
映画が始まる。
正直、怖い。
話の内容はこうだ。
呪いのビデオを見せなければ死ぬらしい。
貞子という女の呪い。
私はそれよりなにより
その貞子とかいう輩が、宮とそっくりだったことに驚いた。
あの身にまとう暗さ。
容姿の美しさ。
どれもこれも宮にそっくりなのだ。
ま、宮には絶対云えないけどね。
私たちは映画を観終わる。
リングは面白かったが、
らせんは微妙だった。
私たちはホラー映画を観に来たのだというのに、
ただ俳優と女優がやってばかりいるのだ。
おまえらはSEX狂か?
と突込みを入れたくなるのを必死に抑えたぐらいだ。
だが、全体的にはかなりできがいいと思う。
私は貞子が宮にそっくりだったことばかり頭に浮んでいた。
「桐孤さん、どうでした?」
宮が声を駆ける。
「は、ああ。面白かったぞ」
私は素直に答えた。
「桐孤さん。
宮、どうでもいいこと考えちゃいました。
ちょっと聞いてくれます?
桐孤さんは、もし仮に、もし仮にですよ。
呪いのビデオを見ちゃったとして、
その後、呪いのビデオを誰かに見せることができますか?
見せなければ自身の命がなくなる。
けれど、今度はその見せた相手が不幸になる。
その連鎖。悪意の連鎖。
貞子という怨念の籠もったDNAの増殖。
正直、宮はあまりこの映画は好きじゃないです」
「宮、おまえ優しいな・・・」
私は宮の言葉に涙が出そうになる。
私は正直そこまで深く映画を見ていなかった。
「うーん、そうだな〜。
私は宮ほど人間的にもできてもいないし、
そこまで優しくもない。
自身が呪いのビデオを見せなきゃ死ぬと分かっていたら、
迷わず見せるな。それによって例え他者が不幸になろうとも、だ」
私は素直に答えた。
しかし、私の答えに宮は怒った。
「その見せる相手が宮でもですか? 桐孤さん」
宮は怒っていた。
私は自身の言動を恥じた。
私は愛する人にそのような不幸を押し付けることはできない。
「宮。私が悪かった。
宮の言っていることは正しいよ。
ああ、かぎりなく透明に近いブルー。宮の心。
それにな、宮には絶対にみせない。
宮に見せるぐらいなら私は、私はいさぎよく死ぬ」
「嬉しいです。
それと・・・ごめんなさい。
宮の方こそ大人気ないです。
映画の内容ぐらいで怒ってしまうなんて・・・。
まだまだ子供もいいとこ。
でも、もし桐孤さんが呪いにかかってしまったら、
命に代えても桐孤さんを助けます。
それが人を愛し、恋するってことだから」
「宮・・・・・」
私は涙が出そうになるのを必死で抑えた。
宮よりも長く生きてきた私。
ほんらいなら逆の立場でなければいけないのに。
私は情緒的に考えることが苦手だった。
*
翌日、私は大学で宮と会った。
「昨日は楽しかったですね、桐孤さん」
いつも通りの安らぎの灯る笑顔。
「ああ、そうだな。映画館にボーリング場。
ショッピングと、行ったからな〜」
昨日の情景をまざまざと思い返す私。
「はい、ほんとうに」
「また、デートに行こうな、宮」
当たり前のことを当たり前に云う。
当たり前なことを当たり前にできること。
なんて素晴らしいことなんだろう。
「はい」
満面の笑みで答える宮。
その後。
一ヶ月。
二ヶ月。
三ヶ月。
と私たちは同じ時を過ごした。
宮は四年生へと上がり、
私は大学の講師就任二年目を迎える。
いつまでも幸せは続くと思ってた。
いつまでも二りの幸せは続くと疑わなかった。
私は宮を愛している。
宮は私を愛している。
仮初めの永劫を堪能している二人。
しかし、幸せは長くは続かない。
それは過去の歴史が証明している。
*
春。
入学の季節。
始まりの季節。
新しい日々は桜と共にやってくる。
恋は舞い散る桜のように。
そんなことにさせやしない。
私は意気込んでいた。
私と宮は親友のように、
食事やショッピングに出かけていた。
宮は今時の若者には珍しく髪も染めなければピアスもしない。
それでいて、自分に似合った服を着こなすお洒落さんだった。
白の清楚な服装。
春らしくスカーフを桃色にしてみたらしい。
私は新学期が始まってからも前と同じように、
講師室で宮と話していた。
「桐孤さん。最近なにか面白いことありますか?」
「う〜ん特には・・・・・。
あっ、そうそう。
宮が前から楽しみにしていた
GLAYのライブチケットが手に入ったんだ。
ちょうど二枚あったりする。
じゃーん」
私はにやりと、チケットを宮に見せる。
「うわ〜いいな〜いいな〜」
「宮、良かったら一緒に行かないか?」
「えっ、えっ、いいんですか?
ほんとに・・・・嬉しいです。
やった〜!
行きましょう。行きましょう」
私たちは他愛もない、けども掛け替えのないおしゃべりを楽しんだ。
暫くすると、いつの間に居たんだろう。
乖離教授が目の前に立っていた。
「箜間君。話があるんだ・・・・。
ちょっとお取り込み中悪いんだが・・・。
いいかな?」
白髪で彫の深い顔立ちの乖離王(かいりおう)。
「あっ、はい。
宮、悪いけどちょっと外れてくれるか?
大事な話らしいんだ」
「そうですか・・・。分かりました」
宮は不審そうに乖離教授を一瞥する。
宮はあまり乖離教授のことが好きではないご様子。
宮が講師室から立ち去る。
乖離教授は廻りに誰もいないことを確認する。
「今日の放課後、時間はあるか?」
「はい。
特に予定はありませんが・・・。
けどどうしたんですか、急に?」
「ああ、それなんだがな。
前にうまみ亭で我らがパラダイム転換について話しただろう?
それについてなんだがな。
箜間君は哲学科の講師の中でも特に優秀だ。
そこで折入って君に願いたい。
是非とも我が研究を手伝ってもらえないか?
主な研究内容は放課後話す。
来てくれるよな?」
「はい、別にかまいませんが・・・。
ですが、その研究内容は、具体的になんなんですか?
講師室で云ってはまずい事なんですか?」
私は率直に疑問をぶつけた。
「ああ、ちょっとあれでな・・・。
では、放課後、地下二階、会議室にて待ってる」
乖離教授はそう云い、講師室を去った。
不思議で不可思議な雰囲気を持つ乖離王。
とても定年まじかの男とは思えない。
何かとてつもないことを考えていそうな・・・。
そんな感じすら窺(うかが)わさせる。
乖離教授と入れ違いで、宮が入って来た。
「桐孤さん。
乖離教授となにを話していたんですか?」
「ん、まあ色々な。
さすがにこれ以上は宮でもいえない、な。
ごめんな、宮」
「そうですか・・・・。
いえ、いいんです。
あ、あの〜、これはとりこし苦労かもしれないけど、
乖離教授はなにか・・・・なにか恐ろしいことを考えています。
そんな予感がするんです」
「そうか・・・・・」
私はそれ以上何も云えなかった。
*
放課後。
私は乖離王との面会に応じるため、
地下二階、あまり使われることない会議室へと赴く。
会議室の扉を開ける。
大きな部屋。
机と椅子が整理整頓されている。
もう春なのに、部屋の空気は異様に冷たい。
乖離教授はまだ来ていないようだ。
不意に扉が開く。
しかし誰もいない。
私はいぶかしむ。
だがおかしなところはなにもない。
私の考えすぎのよう。
五分、十分。時計の針は着々と進んでいく。
まるでこの辺り一帯の時だけが進んでいるように。
・・・なかなか乖離教授はこない。
コツコツコツ。
足音が近づいてくる。
大きな、男特有の足音が聞こえる。
その足音は会議室の前で止まった。
「やあ、箜間君。すまない、すまない。
すこし授業が長引いてねえ」
「いえ。私も今来たばかりですから」
私は社交事例的な挨拶で迎えた。
「して、話なんだが」
「はい」
「箜間君。君に前、我はパラダイム転換を考えているといったな?」
「はい確かに。それがなにか?」
「うむ。単刀直入に云うならば、
我は今、この世界に変革を齎そう、そう考えている。
多数派の【箱の中の者】が支配する社会から
少数派の【箱の外の者】が支配する社会へ、と」
「なっ?!」
私は驚嘆する。
つまりそれは、いうなれば革命。
価値感の転倒。
秩序の破壊。
新しい体制の構築。
それを乖離教授はやろうとしているのか?
しかも箱の中と外という認識。
乖離王は間違いない。能力者だ。
もしくは能力者を知っている人物。
正直、驚きと戦慄を感じざるをえない。
私は平静を装い、乖離王に対する質問へ転じる。
「な、何を云うんですか、乖離教授。
そんな絵空事。・・・できるわけないでしょう?」
「ふふ。そう云うと思った・・・。はは。
我は今な、その【価値観の転倒】を惹き起こすことのできる
能力者を探しているのだよ。
だが残念ながら、まだそんな夢みたいな能力者は見つからない」
「それはそうでしょうね。
そんな・・・ともすれば神の領域にも手を伸ばすような
能力者・・・・・私も知りません。
私が知っている中で最も優れた能力者。
それは昨年形而上学同盟のトップに昇格した、
【脳と世界とを繋いだ男】ぐらいなものですよ」
「ああ、彼か・・・・・」
乖離王が頷く。
「たしか・・・彼も【価値観の転倒】を求めていたなあ」
「【箱の外の者】が【箱の中の者】にとって代わって、
権力を握ると・・・・・・・。
あなたは相当に野心家だ・・・・」
私の額からは、汗が出てしかたがなかった。
「ふふ・・・・野心家か・・・。
それは君もだろ、箜間君?
伊豆の名門、箜間家の長女にして跡取り。
君の能力である概念反照。
その能力は我われ能力者の間でも評価が高い。
おそらくは現代日本の中でも、
ことに防御系能力に関しては五本の指に入るだろう」
「お褒めにいただいて光栄ですね」
私は素直に会釈をする。
話の論点がずれているような気もするが、
褒められればやはり嬉しい。
乖離教授の考える価値感の転倒。
パラダイム転換。
この世界を構成せしめる価値感。
民主主義や社会主義、
フェミニズムやグローバリゼーションでさえ
一つの価値体系にすぎない。
いったいどの価値感が正しいのか?
ソクラテスは国法を遵守することが正しい生き方だと解いた。
そうかもしれない。
人独りが国家に反抗することなど誰ができよう。
人独りが世界に反抗することなど誰ができよう。
人は無限の可能性などは秘めていない。
人一人が持ちえる力など限られている。
そして、私は学問を学べば学ぶほど、
この世界の理を知れば知るほど、
学問の深さ、理の強固な厚さに脱帽する。
我が先人に畏敬の念を感じざるをえない。
天才たちが一生をかけて導き出した法則を
私たちはぞうさもない時間で学んでしまうのだ。
古今東西の天才たち。
その理論や価値体系、密度の濃さ。
人生全てを掛けてまでも、辿りつこうとした気概。
私の考え、才能、努力、
どれもなんてちっぽけでちっちゃなものだろう。
もし仮に、先人たちを乗り越えようとするならば、
人は先人たちの理論を咀嚼し、自らの血や肉とし、
それを越えようと渇望するところから始めなければならない。
「ですがやはり・・・・机上の空論ですよ。
乖離教授。【価値観の転倒】などというものは・・・」
「箜間君。
君にいいことを教えてあげよう。
古今東西。
数年に一度。
【価値感の転倒】を引き起こすであろう
能力者が現れているらしい」
「・・・・んな、ばかな!」
「ふふふ。
これは形而上学同盟が調べた結果だ。
信じる信じないは君の自由。
ただ一つ云える事は、
私たちの価値観を変えかねない。
そんな能力者が先天的にせよ、後天的にせよ、
確実に現れているということだ。
もっともその多くは、
自身の能力に気付かず天命を全うするか、
反形而上学機構に殺されたりするわけなんだが、な」
「乖離教授はその能力者を探している・・・・」
「ああそうだ。
そして我は・・・・王に成る。
この世界の王。
人が一度は夢みる幻想。
我を称え、我を敬い、我に畏敬を抱く。
我が夢。我が彼岸。
この世界に生まれでたものなら、
このような考えを抱かないほうがおかしいだろう。
なあ箜間君?」
そう、乖離王(かいりおう)は云った。
天を仰ぎ、地を睨みつけ、己が最高を望まんとする気概。
乖離王は誰よりも強い野心家だった。
「乖離教授。
お言葉ですが、あなたは間違いなく、反形而上学機構。
いやそれだけじゃない。政府に狙われます。
乖離教授の考えはあきらかいに・・・・・・。
その内、本気で殺されますよ?」
乖離王は一端天上を見上げ、息を吐く。
「ほんとうは、我は死にたいのかもしれないな。
生の奔流は死への憧れを持つことで救いになる」
乖離王は哀しそうに云い放つ。
しかし、そんな乖離王よりも、
私は私の視認した相手に驚いた。
いつからいたのだろう。
いつからそこにいたのだろう。
私の見知った顔。
可愛くもそれでいて美しい。
今ここに、現にちょっと前までは居なかった人物が、ここに居る。
背の低い肩越しまで髪を伸ばした日本人形。
西園寺宮。
み、宮がどうしてここにいる?!
「宮!
どうして宮がここに・・・・・。
先ほどまでは、
宮の姿形はおろか気配さえ確認できなかったのに。
まさか・・・・まさか宮の能力か?」
「盗み聞きは悪いとは思ってました。
けど、心配だったんです。
桐孤さんのことが。
すみません、桐孤さん。
宮の能力。
【この世界には宮しか存在しない】
を遣わせてもらいました。
姿形はおろか気配さえも遮断せしめる概念結界」
宮が乖離王に向かい、指射す。
「乖離王。
あなた一人の野心のために人々の笑顔を壊そうとする行為。
宮は見逃すことはできない!」
乖離王は唖然としながらも
「ふふ。何を戯けたことを。
おまえ一人がよくいうわ。
これは我の王への飽くなき渇望。
【価値観の転倒】を促す能力者さえ見つかれば、
これはまごうことなき勝戦だ。
数こそ向こう【箱の中の者】の方が上だが、
個々の能力は比較にならないほど、
我ら【箱の外の者】が上だ。
戦争というのは勝てると確信できるものしかしてはならない。
この我らが起そうとしている戦争は明らかに勝戦だ。
【価値感の転倒】という相手の意識そのものに対する暗示。
第一級の自然干渉系。
形而上学同盟が血眼になって探しているが、いまだ見つからない。
だが、きっとどこかに居るはず。
この世界には、世界に干渉できる能力者。
人の心を操る能力者ですらいるぐらいなのだからな」
「なかなか面白い考えですね、乖離教授」
私は云った。
「桐孤さん、乖離王(かいりおう)の口車に乗せられては駄目です。
そんな社会がいいはずがない!
そんな社会・・・、
人々が笑顔で暮らせる社会じゃない!
そんな一部の者が肥える社会がいいはずないじゃないですか!」
宮が私を止める。
私は正直決めかねていた。
乖離王の言っていることもよくわかる。
私だって【箱の中の者】に対し恨みの一つや二つはあった。
でもその【箱の中の者】からも優しくされたことはあった。
それにそんな【価値観の転倒】なんてことが、
大多数の人間にとって幸せなはずもない。
だが、だが、これは明らかなる勝戦なことも事実。
【価値感の転倒】という人々の心象世界に刷り込むそれは、
暗示を超えて洗脳の域にまで達している。
江戸と明治、戦前と戦後。
それぐらいの変革を惹き起こすだろう。
それに、私たち【箱の外の者】にとって魅力的な提案に思えた。
「いま直ぐには了承はできない。すこし考えさせてくれ」
私はそう云った。
「そうか。おまえなら必ず我の元に来てくれることを確信してる」
乖離王が答える。
しかし、宮はこの遣り取りに不快感を顕わにした。
「そんなことはさせない。
人々が笑顔で暮らせる社会を壊そうとするあなたの思い通りにはさせない。
このことを警察に報告します」
乖離王は笑う。
「報告してどうする?そんなことは無意味だ。
【価値観の転倒】などという馬鹿げたことを誰が信じる?」
「この世界には反形而上学機構というものがあるでしょ。
そこに報告させてもらいます」
宮は云った。
日本には存在不適合者が創る形而上学同盟というものと、
存在不適合者、【箱の外の者】への抑止力として、
反形而上学機構というものがある。
乖離王はさすがに反形而上学機構に密告されることだけはまずかった。
生身の人間によって構成されているとはいえ、
彼らは武装集団、テロリストと変らない。
乖離王とてそんな輩に攻撃でもされたらひとたまりもない。
「そうか。残念だ。なら死ね。
我も命がおしい」
バーン、バーン、バーン。
銃声が三発聞こえる。
私は何が起きたのかわからなかった。
指一本動かせなかった。
乖離王は右手に拳銃を持っている。
対する宮は、宮は・・・・・?
「宮!!」
真赤な胸。
重症。瀕死。
それは素人目にも明らかだった。
宮は撃たれた。
何がなんだが私の脳は、まだ理解していない。
けど、そんなことはどうだっていい。
今は宮だ。
「おい、宮、宮!!」
私は叫んだ。
宮は微かに息をしていた。
左胸を撃たれている。
宮の傷は酷い。
「宮、しゃべるな」
私はそう諭した。
今は一刻も早く病院へ連れて行くべきだ。
乖離王のことなんか知ったことじゃない。
私が声をかけた後、
微かにだがはっきりと、宮が凍えた声で云った。
「桐孤さん・・・・駄目です。
絶対にそんな・・・・・
人々の笑顔を・・・・・
壊すようなことをしちゃ・・・・・駄目ですからね」
「ああ、分かった、分かったよ」
「嬉しい・・・・宮・・・・
人々の笑顔が・・・・・・桐孤さんが大好きなんです。
良かった・・・」
「宮、宮!!」
宮はもう息がなかった。
「宮、お前が、お前みたいな可愛くていいやつで素敵な女が、
なんで死ななくちゃならないんだ。
な、そうだろ宮?
宮!!」
宮の亡骸はなにも云わない。
「糞ったれ!!
乖離王よ。
おまえの罪は、万死に値する。
お前は私を怒らせた。
私の恋人を殺した罪。
きさまの死をもって償え!!」
その私たちの様子を乖離王はつまらなそうに見ていた。
「そんなことだろうと思ったよ。
興がそがれた。折角我がお前らを勧誘せしめたものを。
ぶち壊しやがって」
「ぶち壊したのはきさまの方だろ、乖離王!!」
私の涙は、駆けながら飛び散り、そして消えた。
駆ける。
豹が大地を駆けるが如く。
鷲が大空を羽ばたくが如く。
乖離王が銃を私へ向ける。
私は透かさず斜め横へ跳んだ。
そして、胸ポケットにしまってある愛用のナイフを投げる。
ナイフに有りっ丈の「力」を込めて。
しかし、乖離王は左手で難なくそれを防いだ。
避ける暇がなかったのだろう。
いや、箜間桐孤(くうかんとうこ)が避ける暇を与えなかったという方が正しい。
それほど、相手が視認できないほどの力量で投げたのだ。
箜間桐孤という人物は。
乖離王が一目置くのも頷けることだろう。
私は透かさず、乖離王の足元へ行った。
乖離王は腕をナイフで潰された衝撃。
そのため行動できていない。
「はああああ、地衝脚(ちしょうきゃく)!!」
私は乖離王の脚を刈り取る。
もちろん実際は刈り取っているわけではない。
がしかし、この戦いの最中。
乖離王が脚の感覚を取り戻すことはないだろう。
私はすかさず王の右手を叩き、銃を奪う。
そして、その銃を窓の外へ投げ捨てた。
銃さえなければ、私が負けることはまずないと思ったからだ。
「チェックメイトだ。
乖離王。
宮を殺した罪。
きさまは一生務所中で暮らしてろ!!」
そう私は吐き捨てた。
乖離王は下を向いたまま顔を苦痛に歪めている。
・・・・・が、不意に私の後頭部になにか鈍い衝撃を感じた。
な・・・、頭がぐらぐらする。
ど、どういうことだ、何が起きた?
何があたった?
「ふふ、ははは。
愚かな奴だ。
我も能力者だと知ってるだろうに。
我の能力、P・K。サイコキネシス。
我は人一倍臆病でな。
わざと遮蔽物のある部屋におまえを呼び出した。
いざというときのために、な。
詰めが甘かったな。
箜間桐孤」
乖離王の身体が宙に浮く。
そこらじゅうにある椅子、机、その他諸々を含め。
糞!
まだ頭が痛い。
机か何かを頭に当てられたらしい。
「死ね。
我が計画に賛成できぬ、愚弄な民よ。
死んで我が計画の礎となれ!!」
乖離王の呼び声と共に、
教室にある椅子や机が一斉に跳んでくる。
しかし、私は慌てない。
形而上学的な概念ならば、私の独壇場。
私はこの教室全体に向け、
内に眠るありったけの「力」を解き放つ。
私は普段、自身の内に眠る「力」を抑え生きている。
「力」を抑えなければ、周りのものに心身衰弱を齎すから。
箜間家きっての品種改良作品。
受けてみるがいい。
私に眠る全ての「力」を!!
「はあああああああああああああああああああああああああああ
【力】全開放!!」
私の身体に刻む制約、全開放。
「ぐはあがああああああああああああ」
教室は死んだ。
無機的な空間は箜間桐孤(くうかんとうこ)の放った【力】により、
月上の死世界へと変貌を遂げた。
全ての遮蔽物は力を無くし、乖離王は気絶をす。
全能力を開放し私は・・・・
何もものを考えられない白雉になった。
何時間か、そうして教室に佇んでいたことだろう。
見回りの事務員が私たちを見つけた。
そして、私たちは病院に運ばれた。
*
一月後。
乖離王は殺人容疑で捕まっていた。
拳銃の指紋が決め手らしい。
私はあの闘いのあと何週間も某と
魂の抜けたかのように、病院のベットにて、
ずっと天を仰いでいたらしい。
宮は、死んだ。
そう、宮は死んだのだ。
私は宮を心の底から愛していた。
宮もまごうことなく私を愛していた。
宮、宮!!
【箱の外の者】が差別されようがされなかろうが、
そんなことはどうでもいい。
世界を作り変えたかきゃ、勝手に作り変えるがいい。
私は宮が、宮だけがいればそれでよかった。
宮との生活が私の夢であり、私のそう、まがいもなく希望だったのだ。
可愛い宮。
優しい宮。
おどけた宮。
暗い宮。
どれも好きだった。
私は心にぽっかりと空いた空白を見つめた。
宮のいない世界。
宮ともう二度と逢うことのできない世界。
私は鳴き崩れた。
今は鳴き続けなければ、宮が、宮が浮ばれないと思った。
*
その後幾年か。
私は月影文乃と出会うことになる。
私は似非探偵として、とある学園から
失踪した女の子を捜すという依頼を受けた。
その学園で私は驚愕した。
宮とそっくりな女の子。
月影文乃と出逢ったから。
「あの〜、最近学園で変わった事ってない?」
「えっ? あっはい。
え〜と何か最近身体の調子がおかしいです。
それも文乃だけではないんです。
クラスのほとんどの子がそうだし、
他のクラスの友達もそうなんですよ〜。
なんか噂なんですけど、
学園全体が呪われているらしいんです」
「この学園が呪われてるって?
それは興味深いな。
良かったらもうちょっと詳しく聞かせてくれない?」
「あっ、別にかまいませんよ・・」
私が月影文乃と初めて出逢った時、
私は現に、確かに月影文乃の中に宮を見ていた。
容姿がそっくりなこともあっただろう。
私はこの女の子に興味を持った。
たとえ偽り、幻想であろうとも、
宮と出会えたような気がしたから。
その後、私は文乃と暮らすことになる。
私は文乃に惚れたのだ。
文乃に惚れたのは
文乃が西園寺宮に似ていたから。
「ねえ、桐孤さん、桐孤さんったら」
過去を物思いに耽っている私。
そんな私を文乃が急かす。
「涙がでてますけど、どうかしたんですか?」
「いや、なんでもない。
そう・・・。
そうだな・・・。
素敵な・・・
そう、とても美しい思い出を振り返っていたんだ」
私は今もはっきりと文乃の中に宮をみている。
思えば、あの日、月影文乃と暮らし始めたのは
文乃が宮に似ていたがためなのだから。
神秘的な容姿。
暗さを内包せしめた性格。
どれもこれもが宮にそっくりだった。
けど、文乃には言えない。
文乃がこのことを聞いたら、きっとあまり良い顔はしないだろうから。
私は文乃の中に見える宮の面影が好きだった。
けど、いずれ宮から文乃へと橋渡しをしなければならないだろう。
私はちゃんと文乃を愛せるだろうか・・・。
文乃の中の宮ではなく、文乃自身を愛せるだろうか・・・。
ああ、きっと愛せるに違いない。
だって私たちの生活はまだ始まったばかりなのだから。
*
箱庭の中の夢 第一章 鏡像〜宮の面影〜 完