今から掲載する小説は桐孤が半年前から構想を練っていた作品です。
一話完結。愛をテーマにした物語。
箜間ふぁみりーの一人アイリスサソも特別出演。
いままでの小説の中でもかなりいい内容かと。
(ま、桐孤の趣味に合う話ってだけで、一般うけするかどうかは微妙・・)
では行ってみましょう。
できるだけ、小説掲載しているときは割り込んでこないでね〜。
( ゚Д゚)ゴルァ
アイリスってネカマだろwどんな役だ
【】現実
<>幻想
彩(あや)が望むもの
作:箜間桐孤
*
<遥か遠き理想の国>、それはどこにある?
空の向こうと、<私たちの心の中>・・・。
空が蒼いのはなぜだろう?
それは、私が空は蒼いと現にそう感じているから。
ほんとは空は蒼くなんかないのかもしれない。
そして、私には空が紅く見えるときがある。
真赤な朱色。血の色。
私は鳴いている。
痛い・・・痛い・・・って。
苦しんでいる。
私の心は、身体は、
この【現実世界】で生きていくには、もう限界なんだって・・・。
*
「先生こんにちは」
私に向かいゆっくり挨拶をしてくる女性はアイリスだ。
虹乃杜(にじのもり)アイリス。
日系三世。父がアメリカ人らしい。
まだあどけなく、それでいて可愛らしい容貌。
「先生。最近、某(ぼう)としすぎですよ。
ちゃんと研究の方は捗って(はかどって)いるんですか?
人の心と可能性という研究は?」
「ああ、そうだった。来週学会で発表するんだった」
幻想のようなまどろみから覚め、私は応えた。
朝焼けが眩しい。
ふと、私はこの世界から一人隔離されたような奇妙な衝動に駆られた。
(君はずっと見ているんだね・・・・。)
・・・なんだろう?
声が聞こえる・・。
幻聴?
それとも・・・・もしかして・・・。
誰の声だったか。
ひどく懐かしい響き。
そして何よりもこの世界の悲しみや喜びをも内包しているような優しい声。
「先生、先生、気づいてますか? そろそろ講義の時間ですよ」
ああ、そうだった。
私の助手であるアイリスが声をかける。
私は自身の眠気目(ねむけまなこ)を覚ますため、
洗面所で、ばあっと勢いよく顔に水をあてた。
ふうう、気持い。
生き返るとはまさにこの事。
さてと、今日も講義、講義。
そして、取り止めもなく今日も一日が始まる。
毎日まいにち同じ事の繰り返し。
これが【日常】・・・・。
私は不意にアリュベート・カミュのシューシポスの神話を思い出した。
まるで今の生活はカミュの云う不条理と変らないではないか!!
ああ、<非日常>が欲しい!
私を満たし、私を渇望させる、生の鼓動を、生きるという本流を!
私が私であるために、私は人の心理を研究し続けていた。
*
午前中の講義が終わる。
学生はみな、お昼のためか食堂や購買に向っていった。
単調な毎日。
どうも私はこの単調な毎日というやつが好きになれない。
あっ、牧野教授!
中肉中背、あのいけ好かない笑みを浮かべている奴が、牧野教授だ。
あの八方美人の牧野教授のことが、私はあまり好きではない、
などというものではなく、はっきりと嫌いだった。
私の上司にあたる牧野は、ことあるごとに私の研究成果を
さも自分が研究したかのように発表するのだ。
そして、私が被(こうむ)った被害は数知れず。
正直な話、牧野教授を殺してやりたいと思うこともいくらかあった。
しかし、会社ほどではないにしろ、ここも縦社会。
自身の上司である牧野教授には、逆らわない方がいいことは百も承知だった。
「やあ、永岡君、どうだい、研究は順調かい?」
「ええ、まあ」
私は社交辞令的なあいさつで答える。
「そうか、そうか。
まっがんばりたまえよ。
そうそう。
また研究レポートができ次第、僕にみせてくれたまえ。
それではな」
そう云うと、牧野教授は去っていった。
糞っ、あの牧野め。これ以上、私の研究成果を奪うつもりか。
私は自身の内にある感情が爆発しそうになった。
いけない、いけない。
ここは平静を装わないと。
すこしその場所に佇んでいると、廊下の前からアイリスが来た。
アイリスは私は見つけると、ちょうど探していたんですよ、
と云わんがばかりに、
「あ、先生。よろしければ、いっしょにごはんを食べません?」
と聞いてきた。
私はもちろんこのアイリスの提案を喜んだ。
同じ心理学部の講師である、虹乃杜(にじのもり)アイリス。
アイリスは容姿端麗、頭脳明晰の有能な講師だ。
私はアイリスのことが好きだった。
そして、私はアイリスと昼食をとることにした。
「今日はどうします?
学食のAランチが美味しいんですよね。
あの玉葱がたっぷり入ってジューシーなハンバーグ。
それと盛り付けのサラダがまた最高で」
「あらあら、先生ったら。
そうですね。今日はわたしもAランチでいこうかな」
そうして、私たちは学食でAランチを食べることにした。
相変わらず、学食の込み具合は凄い。
ここ、私が教鞭している皇学院(こうがくいん)大学は
学食がうまいことで有名なのだ。
学食の美味さでは中応大学とはるぐらいである。
ま、偏差値では向こうの方が遥かに上なんだけど・・・。
そんなことは気にしな〜い、気にしない。
とくに今日、私たちが食べるAランチと、
今日は食べないけれど人気の高いBランチは、最高だ。
Bランチは鯵(あじ)のフライ定職なのだが、
その鯵のフライの歯ごたえも絶妙ながら、
そのフライの上にかかったタルタルソースがまた絶品なのである。
ま、今日はAランチにするけどね。
「おばちゃん、Aランチ二つ」
「はい、800円ね」
もちろんここは私が奢った。
アイリスへのアピールである。
ま、ランチの話に戻そう。
ここのランチは味もさることながら、値段も安い。
これだけのボリュームで一つ400円とはとてもじゃないが、
普通の定職屋には真似などはできない。
そして、その量たるや大人でも腹が膨れるほどのキャベツの量。
とにかく、サービス満点、栄養満点なのだ。
私たちはAランチを美味しく食べた。
「いや〜非常に美味だわ」
「ま、先生ったら、毎回同じことをいうんだから。あはは」
そうなのだ。
私は毎回、学食に来るたびに美味美味と連発するものだから、
アイリスにすっかり覚えられてしまっている。
食事も終り、食後の休憩へと移行した。
食後の休憩といったら、やっぱ日本茶でしょ?
この味といい、質といい、ま、パックのお茶なんだけど・・・。
まったりとした時間の後、私たちは午後の講義へと出向いていった。
*
しかし、午後の講義が始まると、私は驚きの様子を隠せなかった。
何か、最後尾にいる美しい切れ長の目をした、
凪(な)がれるような黒髪を持つ女性。
肌は透き通るように白く、
その静謐(せいひつ)とした瞳は、現世のものだとは思えない。
私は講義をしながらも、
その切れ長の目の女性を意識せざるを得なかった。
私の心の内に在る理想的な女性像と重なるのか、
あの切れ長の目の女性に私の臆病で怠慢な自尊心を感じるのかは、分からない。
ただどうしてもあの女性は、私に、使い古された言葉だが、
運命的ともいっていいほどに、情動を齎(もたら)したことは確かである。
運命はその想いが成就すると同時に新たなものへと変る。
それが何に変貌するかは、格個人の努力と運しだい。
講義が終わる。
私は講義のことなんかそっちのけで
あの切れ長の美しい目をした女性のことばかり考えていた。
あれほどの美しい女性は、この先幾ばくかの人生で、
出会うことがあるであろうかうんぬん、と。
その時、私の歩く後ろから、可愛らしくも芯の透った、
がしかし、何か心に暗黒めいた感情を感じさせる声がした。
「先生!!
彩だよ、彩。
もしかしてお忘れになって?
あんなに一緒に遊んだのに・・」
私は驚きを隠せなかった。
先ほどの切れ長の目の美しい女性が、
なんと私に話しかけているではないか!!
どういうことだ?
これは私を無限空間へと誘(いざな)う悪魔の囁(ささや)きか?!
それとも、もうすこしばかしは人生が続くと思われた
私命の終曲を奏でるセレナーデなのか?!
「何か変なことを考えているでしょ、先生。
彩は今ここに、現にいますよーだ。
もう、先生はほんとに彩のことを忘れてしまったんですね。
なんかほんと残念」
この切れ長の目をした美しい女性は彩というらしい。
何か口調は幼い印象を醸(かも)しだしているのだが、
それがまたなんとも可愛らしいのも、また事実。
「ところで彩君、専攻はなんだい?
もし良かったら私の助手にならないかい?
君みたいな・・・可愛らしい、いや、優秀そうな
助手がいたらいいなあーと思ったりしていたんだ。
いや、ほんとうだぞ。
ああ、この身に賭けて誓う」
「あはは、先生面白いですね。
彩は前々から先生のことだけを見てきたんですよ。
だから先生の助手の役割はもう既に十二分に
果たしているんですけどね。
まあ、先生が気づかないのも無理ないかあ。
でもこれだけは確かなんですよ。
彩も先生のことが大好きだということは」
何ー?!
彩は私の事を今、好きだといったのか?
この学者崩れの出来損ないである私を。
未だ人との社交的関係を上手く築けないでいる私のことを好きだと。
これは一種の誤りではなかろうか?
彩はいったい私の何を好きになったのだ?
もしかすると、彩は私の欠点、その非社交的で
学者崩れの出来損ないという一種の私の汚点を見て、
そこに彩の内面を見つけ、好きになったのかもしれない。
なんということだ!!
私の欠点だと思われたことが、
彩にとっては万金にも値するほど魅力的な事柄であったなんて!!
「なーんか、先生また変なこと考えてない?
彩は先生の全てが好きなの。
もしほんとうの愛というものがあるならば、
真実の愛というものがあるならば、
その愛する人の欠点をも、
長所もも含めた全てを愛するということが、
ほんとうに正しいことではないからしら?」
「そうだ、そのとおりだ。
君は正しい。
私は君を正しいと認めよう。
ああ認めるさ。君を認めないで誰を認めることができよう。
これはまさに神が用意せしめた抽象無限なるところの
運命!!
そう、運命なのだ!!
私は一目見た瞬間から君を好きになった。
きっと君の中に、
私の内面を見つけてしまったがためだろう。
君はそう、なんというべきか、
この私とそっくりなのだ」
「彩はね、その先生の一風変った、変な妄想も含めて全部好きよ。
だって彩はあなたなんだもの」
えっ!
今、私は一瞬なにか聞いてはいけないものを聞いてしまったような
そんな悪寒に捕(と)らわれた。
何かそれを知ってしまったらは崩れてしまう。
この世界は強固な土台で成り立っていると思われがちだが、
意外と脆(もろ)い造りになっていることを知ってしまったあの瞬間に近い。
そしてなぜか私は意識を失った。
*
何か声が聞こえる。
私の魂を天国へと誘(いざな)わんが如(ごと)く。
喘(あえ)ぎ声が聞こえる。
この世全ての快楽を内包せしめている、
そんな錯覚すら抱かんとする喘ぎ声。
「やめて、どうしてアイリスにそんなことをするの?」
「え、だってあなたほんとうはそれを望んでいるんでしょ?」
「止めて。アイリスはそんなこと望んでなんかいない!!」
「そんなことはないわ。だってあなたのここはこんなにも
洪水が溢れんが如くに濡れているんだもの」
なんで、私がベットで寝込んでいる、
その手を伸ばせば届きそうな場所で、二人はこんな秘め事をしているのか?
アイリスと彩、二人はそういう関係だったのか?
私は不覚にもあそこを膨張させてしまった。
「痛い。痛い。先生助けて、彩さん、おかしいんです。
先生起きて!お願い、先生!!」
アイリスが私に助けを求めている。
しかし、私は内に眠る臆病な自尊心と、
この成り行きを見届けたいという半ば暗黒めいた願望を成就したいがために、
そのアイリスの懇願を嘘眠(うそね)という形で無視した。
「ほらほら、もっといい声で鳴きなさい。
年増の外人の癖に、先生の傍に毎回まいかい居やがって。
先生は彩のものなの。
彩だけのものなの。
誰にも渡さない。
誰にも渡さないんだから。
いい?
彩のことを、これからはご主人様とお呼びなさい。
それがあなたには相応しくてよ。
あははははははははははははは」
「はい。ご主人様・・・・」
アイリスは半ばその強制めいた彩の命令を受けて観念したのか。
彩との性的な主従関係を結ぶことを余儀なくされたらしい。
おい、アイリス、おまえはほんとうにそれでいいのか、
という思いに駆られもした。
が、もしかしたら、この状況、このアイリスが彩に犯され、
肉欲を蝕まれるという状況は、私の望まんとしたものではなかろうか?
そうだ、これは私が望んでいた状況だ。
でも、私の思いをそのまま具現化せしめる
彩という存在はいったいなんであろうか、と。
私はすこし恐ろしくなった。
私が彩のことを一目見た瞬間から好きになってしまったことは、間違いない。
彩の姿形の美しさだけに惚れたのではない。
彩の内面に私にも似た、私以上の暗黒面を見たがために惚れたのだ。
古代、陰と陽は対極図という一つの事柄だった。
それは男と女でも同じ。
旧約聖書に因(よ)れば、女は男の背骨から生まれたらしい。
なんということだろう。
もしかしたら、
私と彩とは元は一つの存在だったのかもしれないのだ。
いや、そうに違いない。
そうでなければ、今日講義で感じたあの感情を説明できない。
先生こと永岡明星(ながおかめいせい)は妄想に取り付かれていた。
彩とアイリスとの秘め事が終り次第、私はまた眠りについた。
*
『私』が牧野教授と言い争っている。
私はその牧野教授と『私』とを見ている第三の目。
いや・・・・なんで私が『私』を見るなんてことができている?
ふと、そう疑問に思った瞬間、私は一つの私へと戻っていた。
『私』はどうやら牧野教授と言い争いをしていたらしい。
牧野教授があんなにも激怒していることから察するに
よほどその『私』は酷いことは言ったのであろう。
ふふふ。
いい気味だ。
散々私を虚仮(こけ)にして、私の研究成果を奪ったがあげく、
それを牧野自身の研究として発表するやり方は、まさに悪そのもの。
これくらいの仕返しではもの足りないくらいだ。
するといつの間にいたのであろう、後ろから彩が私に声を駆けてきた。
「ふふ、先生やるじゃない。
牧野教授、心底激怒していたわ。
さすが先生ね。
ますます好きになったわ。
彩も牧野教授のことは前々から気に入らなかったのよ。
本当に清々したわ」
「ああ、彩・・・・」
正直、アイリスとの関係を見てしまった私にはどういう表情をして、
どう彩と接したらいいか、わからなかった。
だが、またそんなことはどうでもいいことにも思えた。
私が彩を好きだということは変らない。
他人のことなんてどうでもいい。
彩さえ居れば他には何もいらないのだ。
それほどまでに私は彩を好きになっていた。
「先生、ちょっと彩は牧野教授に用があるの。
だからまたね。彩の分身で、彩が愛する先生」
私はまた何か聞いてはいけないことを
聞いてしまったような悪寒に捕らわれた。
けれども、それ以上考えないようにした。
人は知りすぎてはいけないのだ。
人は知ってはいけないことまでも知ってしまったとき、
自身を苦しめ、発狂させ、最期には自殺への階段が開かれる。
「ああ、そうそう先生。
彩に会いたかったらいつでも空に、
山に、石に、樹に、花に、声を駆けてね。
彩はどこにでもいるんだから。
ただいま彩は快調に増殖中。
あははははっは」
そう云いながら指を額(ひたい)へと当ておどけてみせる。
が次の瞬間、彩は私の目前から忽然と消えていた。
彩、君はいったいなにものなんだ?
なぜ、これほどまでに美しくも神秘的なんだ?
美しい。美しすぎる。
そして、彩は気軽に増殖中だと云った。
どういう意味だろう?
新手のギャグかなにかだろうか?
まあ、そんなことはどうでもいい。
私は今幸せの絶頂にいるのだから。
私の彩への愛はチョモランマの如く高く、マリアナ海溝の如く深い。
ああ、人生三十何年(いくねん)か生きてきて、
こんなにも女性と想いを通わせたのは初めてだ。
永岡明星(ながおかめいせい)は眩しすぎる空を眺めた。
*
「あはは。先生、<ここ>、<ここ>。
彩は<ここ>に居るよ。
【そこ】じゃない。<ここ>、<ここ>だよ。
あはは」
彩の美しくも幼さを内包する声が聞こえる。
彩が私を天上の楽園へと誘わんが如く。
それが例え悪魔との契約であろうとも、
私は喜んで契約を結ぶであろう。
ファウスト博士が己が望まんとするもののために、
冥府の悪魔メフィストと契約したように。
「彩はね。どこにでもいるんだよ。
先生が望めば。
彩が<この世界>を造り変えてあげる。
先生が望むように、彩が望むように」
私は夢を見ている。
永遠に覚めることのない願夢(がんむ)を。
「先生起きて!!朝だよ」
ん・・・、私は目が覚めると同時に、驚嘆した。
彩が、彩が、私のアパートの一室に居るのである。
ああ、ついに私はやってしまった。
一線を画してしまったか!!
私の純潔を守れなかったことが悔やまれるのではない。
男の純潔などいつでもくれてやる!!
そうではない。彩との行為を私は覚えていないのだ。
私がどうやって、彩を自室へと誘い、その後どうしたのか?
私は全くと云っていいほど憶えていなかった。
学者や小説家は、物を書けば書くほど、
頭の中は空っぽになるらしい。
私は彩の事を考えすぎたがために、
彩との出来事を忘れてしまったのではないかと。
窓の外では小鳥の囀りが聞こえた。
私は小鳥の囀りが好きだ。
うるさくもなく、かといって耳障りでもない。
「先生、昨日は激しかったね?
もうほんと彩、恐かったくらいなんだよ!!」
「そうなのか?
いやほんとうにすまない。
実は私は昨日のことは覚えていないんだ。
彩に非礼をしたことは謝る。
どうか許してくれ。
そして私のことを嫌わないでくれ。
私は彩なしでは生きていけない。
そのくらい君を愛してしまった」
私はそう云った。
すると彩の顔は前以上にぱあっと明るくなった。
「先生がそこまで彩のことを思ってくれてたなんて・・・。
ぐすっ。
彩、感謝感激雨霰だよ。
ごめんね、先生。
実を云うと、昨日は先生が激しかったていうのは嘘なの。
冗談のつもりだったんだ。
ほんとごめんね、先生」
私はどうリアクションを付けていいか迷った。
が、すぐにその迷いを跳ね除けるような優しい微笑みで返した。
「いいんだよ、彩。君さえいればね。
そんな冗談なんか百万弁だってついたって構わないさ。
彩さえいれば何もいらない」
「ほんと、先生?
だったらこれからもカマを駆けちゃおうっかな〜」
そう彩がいじらしく笑った。
私たちはずっとアパートの一室で笑っていた。
しかし、私は眠かった。
「彩、今日、何曜日?」
「ん、日曜日だけど・・・」
「なら、寝てても大丈夫そうだな。
彩、なんか先程からまだ寝たりないんだ。
せっかく起してもらって悪いんだが、
また寝させてもらえないだろうか。
春眠暁を覚えずっていうだろ?」
「ん、先生まだ寝たりないの?
もう、先生ったら寝てばかりいるんだから。
ま、いいや。先生の寝顔を見てるのも楽しいし」
彩が無邪気そうに笑う。
そして、私はまた眠りにつく。
*
親父が泣いている。
お袋も泣いている。
友も同僚もみな泣いている。
なぜ、涙を流す?
涙というものは悲しいときに流すものだ。
もちろん、嬉し涙というのもある。
だけども、その多くは悲しい、辛い、
そういった悲哀の情の時に出すものだ。
いったい何が悲しい?
自身の生の無意味さに気づいたから悲しいのか?
ああそれは悲しいさ。
だけども、
それを乗り越えて人は大空へと羽ばたいていくってもんじゃないか!!
・・・・なにを私は呆(ぼ)けているんだ。
そんなことで泣いているんじゃないだろ。
親父たちの流している涙は、
生の無価値さを気づいた時に流す涙とは、質が根本的に違う。
生の無価値さを悟り流す涙は、
まだ自慰行為を覚えたての少年が、羞恥に赴(おもむ)きながらも、
必死に生の苦しみから逃れんが如くやる、あの思春期の情動を思わせる。
が、親父たちが流している涙は、誰かが死んだ、
もしくは不治の病に犯されたのを悲しむ、葬儀、鎮魂の涙だ。
いったい誰が死んだというのだろう?
いったい誰が不治の病にかかったというのだろう?
私はベットに横たわる、無機質な管の通った男を視認する。
それはいったい誰だったか・・・。
酷く懐かしいようで、とても悲しいような。
なにか思い出してはいけないようで、
思い出さなければいけないような。
(駄目だ、思い出すな!!
世界には知らなかった方がいいことなんて山のように存在している。
その最もたるが【これ】だ。
自身の現状を直視してはならない。
断じて直視してはならない。
【これ】は自身を絶望の真只中へと引き付ける、
死への誘いへと変貌するのだから・・・)
*
「はあ、はあ、はあ」
私は目が覚める。
覚めない悪夢を見ていたようだ。
悪夢というものは覚めたいときに覚めない。
逆に心地のいい夢では、逆だ。
いたずら好きの神様が楽しんでいるのだろうか。
「どうしたの? 先生、何か顔中真っ青だけど・・・」
彩が気にかけてくれた。
嬉しかった。
「ああ、大丈夫だ。
それよりも、たまにはそうだ。
二人でどこかへ出かけないか?
デートがしたいんだ、どうしても。
あまりに寝覚めの悪い夢を見たものでね。
嫌なら別に辞めるけど・・・・」
「ううん、いやなんかじゃないよ。
むしろすごく嬉しい。
そうだなー、だったら街中を案内して。
この先生の住んでいる街、たまぷ〜らざをさ。
先生が過ごした街の、先生の匂いをいっぱい嗅ぎたいんだあ」
「ああ、いいとも。そんなことなら、朝飯まえだ!」
二人にとって始めてのデート。
なんだか私は逸る気持を抑えられなかった。
*
私たちはたまぷ〜らざを散歩した。
散歩といってもただの散歩ではない。
この視えざる空間に、内包せしめんほどの愛を
見せびらかしつつの散歩だ。
傍目にも明らかなほどに。
私たちはバカップルだった。
「先生、見てみて、銀杏(いちょう)並木が綺麗だよ」
「ああほんとうだ。
私たちは今、確かに生きている。
生を満喫している。
今、現に、私が体験しているデートという名の<非日常>を!!
私は不条理な【日常】を脱したのだ!!」
「先生、またわけのわからないこといって・・。
でもなんだろう。
彩は先生と知り合えてほんとうに良かったよ。
もし先生と彩が知り合えなかったら、どう?
そんな世界、想像できる?
先生は生きていける?」
私はその彩の問いに答えることができなかった。
この場合、普通なら彩のいない生活などは考えられない、
というのが最も適切な意見であろう。
しかし、彩と出合ったのは偶然なのである。
もしかすると必然であるのかもしれないが。
ただ、彩と出会わなかったであろう人生も十二分に
想像できる私は、安易にその「彩がいない生活などは考えられない」
という一種の決まり文句を云えないでいた。
「彩がいない生活などは考えられない」と、もし云ったとしたら、
私は彩がいなかったという
一つの可能性としての私を否定するような気がしたからだ。
生を肯定せよ、生を肯定せよ。
自殺がこの世界における救いであろうとするのなら、
まずはこの世界が生きるに値しないであろうことを証明しなけらばならない。
なぜ人は自殺をするのか?
いや、自殺をする者の気持は自分が一番よく分かっていた。
【この世界】にはどこにも救いなどはありはしないことを。
神は、救いは、世界の意味は、【世界の中】には存在しない。
【箱の中】には存在しないのだ。
神を、救いを、世界の意味を探るには、<世界の外>を視認しなければならない。
<箱の外>へと離脱しなければならない。
ただし、<箱の外>へと離脱したものを世間は受け入れなどはしない。
しかし、<箱の外>に、<世界の外>に、本当に救いなど、
【この世界】の意味など用意されているのか?
全人類を救済する?
ああ、素晴らしいことだろう。
全人類を貧富の差のない、平等な生活にさせる?
ああ、素晴らしいことだろう。
全人類を戦争のない、平和な状態にさせる?
ああ、素晴らしいことだろう。
しかし、しかしだ。
その慣れの果てを私たちはもう既に経験しているじゃないか!!
全人類を救済する?
してどうする?
人は幸せな状態をずっと維持することに耐えられない!!
全人類を貧富の差のない平等な生活にさせる?
してどうする?
その果ては極度に管理化された、
面白みの欠片もない、腐りきった社会が生まれるだけだだろうが!!
人は平等を望むがゆえに、平等であることには耐えられない。
全人類を戦争のない、平和な状態にさせる?
させてみろよ。
そこに生まれるのは愚かで、退屈で、怠惰で、
生の実感など一欠けらも感じられないような社会が出来上がるだけだ!!
私は別に先人たちのそういった功績を否定したいわけじゃない。
ただ今時、そんな古臭い、
もうすでに達成されてしまった価値観などは持ちたくはないのだ。
私はそう、変った。
彩が来て、変った。
私は愛に生きる!!
私は愛に生きてやる!!
*
私たちは一通りたまぷ〜らざを散歩した後に、
遊園地へと行くことにした。
私は浅草花屋敷へと行きたかったが、
彩はディズニーランドの方に行きたいといって聞かなかった。
結局私たちはディズニーランドに行くことにした。
私たちは電車を何本も乗り継ぎ、ディズニーランドへと向かった。
ディズニーランドに着いたとき、
もう空は夕闇から真暗闇へと移行しつつあった。
私たちは夜のデートを思う存分楽しむことにした。
「先生、メリーゴーランドに乗ろうよ!!」
「ああ、乗ろう、乗ろう」
私も彩と同じくやけに乗り気だった。
「ハリケン、ハッチのオートバイ〜!!
ハリケン、ハッチのオートバイ〜!!」
私は彩にオートバイじゃなくて馬だろ!!
っとつっこみを入れたくなったが、
あまりにも彩が楽しそうにしているので止めた。
私も彩と同じように、はしゃぐことにした。
「月光仮面惨状だあ!!
もち、馬で!!」
私たちは思う存分夜闇のディズニーランドを満喫した。
その晩、私たちは近くのホテルに泊まった。
もちろん相部屋で。
しかし、こともあろうに、私はまた眠りこんでしまった。
*
親父が泣いている。
お袋も泣いている。
友も同僚もみな泣いている。
前に見た悪夢。
目覚めが悪い夢。
私は今見ている。
誰がこの悪夢を見させている?
親父か?
お袋か?
彩か?
牧野教授か?
アイリスか?
それとも私自身が私に対する警句として、
【この悪夢】を見せさせているのか?
お袋が何かを叫んでいる。
狂人の如く、鬼の如く叫んでいる。
顔は醜く歪み、涙は終ぞ枯れ果ててしまったのか、
目の周りは醜く腫れあがっていた。
誰かがベットに居る。
誰だ?
なにやら声が聞こえる。
(聞くな、聞いてはいけない!!
聞けば取り返しのつかないことになるぞ!!)
しかし、取り返しがつかないと聞けば、
かえって聞きたくなるのが世の常というもの。
私は内なる声を無視して、その話声にじっと耳を傾けた。
「明星(めいせい)!!明生!!ああ、どうしてこんなことに・・・」
お袋が私の名前を呼んでいる。
【ベットで昏睡状態】だったのは、実は他でもない私だったのだ。
私は【この夢】を直視できなかった。
なんで、こんな【寝覚めの悪そうな夢】を見るんだ。
早く【夢】よ、覚めてくれ。
こんな【悪夢】を見たって、
私にとって何の価値もありはしないのだから。
いや、まてよ。
もし仮に、もし仮にだ。
この【悪夢】こそが他でもない【現実】であり、
現実だと思っていた<彩との生活>が<夢>だとしたら?
私は自分がなんでこんなことを考えているのか分からなかった。
ただ、どうしても思索を巡らざるをえなかった。
大学教授という思索に思索を重ねるという職業病のためかもしれない。
ああ、いったいどちらが夢で、どちらが現実なんだ?
私は結局、都合のいいように現実を捉(とら)えることにした。
昏睡状態の私が夢であると。
人は認識によって、幸福にも不幸にもなれるのだから。
だから、私は幸せな方を取った。
*
私は、はっと目が覚めた。
よかった。
今見ていた悪夢は夢らしい。
いや、絶対に夢である、と。
すると、横のベットで心配そうにしている彩が目に写った。
「先生、大丈夫?
酷くうなされてたようだけど・・・。
彩、すごく心配してたんだから」
彩は心底、私の様態が心配だったらしい。
私はそれが何よりも嬉しかった。
人の想いや優しさは、万金にも値する。
私は彩を安心させようと、はっちゃけることにした。
「彩、大丈夫だから!
私は今、十二分に幸せなんだ!!
夢の一つや二つ、どうってことないさ。
この世界が真実で、
さっき見ていた夢は虚像にすぎないんだ。
な、そうだろ、彩?」
なぜか私は彩に同意を求めた。
寂しかったためかもしれない。
しかし、彩は黙ったままだ。
「なんで黙ってるんだ、彩。
私は君の美しい微笑が好きなんだ。
笑ってくれよ、彩」
彩はなおも黙っていた。
そして彩は
「彩、そろそろ学校に行くね。
今日は午前中から授業が入ってるんだ。
それじゃあね。ホテル代はもち先生もちだよ。えへへ」
彩は私たちの重苦しい雰囲気を一掃するように、
人差し指と中指を額(ひたい)に当て、無邪気に微笑んだ。
私はその微笑がホスピスの患者に向けられるような印象を持ち、
あまりいい気はしなかった。
その後数時間して、彩から携帯メールが来た。
私が今朝元気がなかったのがやはり心配だったらしい。
彩は私の心配事を吹き飛ばすために、
プレゼントを用意してくれたようだ。
私は嬉しさのあまり飛び上がりそうになった。
先程までの暗雲曇った憂鬱な気分はどこかへ行ってしまった。
私は案外、楽天的な人間なのかもしれない。
私は顔を洗い、身支度を整え、
ホテルをチェックインして電車に乗り込んだ。
電車は午後になったためか、いくぶん空(す)いていた。
私は電車内で、彩が用意してくれているプレゼントに、
思いを馳(は)せた。
どんなプレゼントを用意してくれたのだろう。
彩は私が喜ぶものと云っていた。
私は彩のプレゼントを心待ちにしながら、
大学へと早足で向かった。
彩は地下一階、普段は使われていない空き教室で待っているらしい。
何か大掛かりなものでも用意しているのだろうか?
私の胸は躍(おど)った。
しかし、空き教室を開けた瞬間、
私の内的世界と、外的世界はピシッと凍りついた。
そこで私の見たものは牧野教授の死と、
妖(あや)しくも嬉しそうに笑う彩の姿だった。
*
喉を掻き切られた惨劇。
彩の林檎のような真紅で小さな掌(てのひら)。
私は一瞬、この状況をどう飲み込めばいいのか、
どう判断すればいいのか、分かずにいた。
牧野教授はいやらしい目を浮かべながら、死んでいた。
誰が殺したのか?
いや、そんなことは聞かれるまでもない。
この部屋には彩と牧野教授しかいないのだから。
彩が牧野教授を殺したのか?
なぜ?
いったいどうして?
彩のプレゼントというのはこのことだったのか?
彩は不適にも私の考えがさもおかしいという風に笑った。
「ふふ、先生。
先生は前から牧野教授のことが憎いって思っていたじゃない?
牧野教授が先生の研究成果を奪い、
大学でわがもの顔をしているのが許せないって、
ずっと思っていたじゃない?
だからこれは彩から先生へのプレゼント。
喜んで先生。
先生をほんとうに愛してなどいなかったら、
こんなことはできないわ」
確かに私は牧野教授のことを良くは思っていなかった。
殺してやりたいとも思ったこともある。
けれども、それで実際に殺していいということでは全然違う。
彩の行為は昭かに間違っている。
いや、それよりも。
なぜ、彩は私の思っていたことが分かったのだろう?
私と牧野教授との不仲は傍目には分からないように気遣っていたのに。
にも関わらず、私が牧野教授を怨んでいることを彩は知っていた。
なぜ?
どうして?
疑問と疑心。
疑念と不安。
幾多もの感情が私の中を巡り、巡る。
「どうして彩は私が牧野教授を怨んでいたことを知っているんだ?」
「ふふ。それはね。彩は先生だから。先生は彩だから」
「はあっ?」
私はつい声を荒げてしまった。
彩が私?
いったいどういうことだ?
分からない。
彩は何をいっているんだ?
彩は私を混乱させようとするためにこんなことを云っているのか?
・・・・・・・・否、そうではない。
彩が私を混乱させた所でいち文の得にもならないはずだから。
今は、それより警察に連絡したほうがいいかもしれない。
いくら私が彩を愛しているからって、殺しだけは見過ごすことができない。
彩には悪いが・・・・。
私は内なる良心に従い、警察へと携帯から電話をかけた。
プルルルル。プルルルル。プルルルル。プルルルル。
プルルルル。プルルルル。プルルルル。プルルルル。
プルルルル。プルルルル。プルルルル。プルルルル。
何コールもかけた。
しかし、一向に警察が電話に出る気配はなかった。
おかしい。昭かにおかしい。
どうして警察は出ないのだろう。
警察は私をからかっているのか?
警察にも臨時休業なるものがあるのか?
そう考えていると急に彩が笑い出した。
「あはははは。先生おかしいよ。
警察に臨時休業なんてあるわけないじゃない?
もうどうでもいいから教えちゃうけど、
彩は先生の下位人格にあたるんだよ。
だから先生の抑圧された感情や禁忌な考えを一身に受け持っているということ。
そうなると自然に先生の考えが分かるということに頷けるでしょ?」
信じられない・・・・・・ことはなかった。
もし夢で見たあの昏睡状態の人物が私なら、
<私の夢の世界>ということになる。
もっと端的に云うのなら<心象世界>。
私はあの夢を二度続けに見、
その後、彩が私の問いに黙っていたのを見て、
薄々はそうであるかもしれないと感ずいていた。
そうでなければ、警察に電話が繋がらないなんてことがあるはずがない。
「けど、どういうことだ。
私の中の下位人格がどうして<私の夢の世界>に存在している?
どうして、<心象世界>の産物である君が・・・。
いや<心象世界>の産物であるからこそ、<この世界>に居るのか」
彩は笑いながら
「先生は少し前にトラックに跳ねられ昏睡状態になったのよ。
<この世界>は先生の<心の世界>。
警察が存在しないのは当たりまえ。
先生の下位人格である彩がそれを望まないから。
でも勘違いしないで。
彩の考えは総じて先生の考えでもあるの。
先生の抑圧されたね、ふふ」
私が昏睡状態・・・・。
やはりそうだったのか。
あの悪夢の方が【現実】だったんだな。
「彩・・・・ちょっと考えさせてくれ。
もう少し今言われたことを整理したい・・・」
「うん。別にいいよ」
うむ。たぶん私が昏睡状態というのは本当だ。
夢でも私が病院で昏睡状態でいる姿を見たから。
それに警察は存在しないし、存在しえない。
なぜなら彩がそれを望まないから。
ふむ。なんとなく<この世界>のカラクリに気づいてきた。
つまり<この心象世界>では彩や私が望むものだけが存在し、
それ以外の望まないものは存在しないのだろう。
けれど、これでわかったことがある。
つまり彩は私が作り出した下位人格であると同時に、
私を<この世界>から抜け出させる、
昏睡状態から回復させる、鍵なのかもしれない、ということだ。
いや、彩は<この世界>の鍵というよりも
理といった概念に近いのかもしれない。
私の<心象世界>を司る法則や理、それが彩なのだろう。
だって彩以外はみな普通の人だもの。
私を抜かして。
そこで私は横に居る彩を少しの間ほおっておいて、
<この心象世界>から抜け出すための仮説を考えてみた。
彩は一人でぶらぶら唄を歌っている。
@<この心象世界>の理である彩自身を何とか説得すれば、
<この心象世界>も壊れ、【元の現実世界】に戻ることができる。
A彩を説得することは自分の<心象世界>までも諭(さと)すことになり、
結果、自身の<心象世界>によくない影響を与える。
たとえば<この世界>に歪みのような結果を。
B彩に<この世界>からの逃れる方法を聞く。
やはり@とAは、あまりいい方法ではない。
私の妄想に過ぎないからだ。
じゃあBはどうだろう?
教えて貰えれば儲けもの、教えて貰えなかったら、
まあしょうがないといったところだろうか。
こんな所で考えていても何も始まらない。
何か行動しなくては。
行動しなくては何も始まらないし、何も変ってなどくれない。
彩は私との生活を望んでいる、私を愛している。
かという私もやはり彩を愛している。
ただ、私の下位人格である彩が人を殺したり、
アイリスを性的な奴隷として扱っていることは、
いくら私の心の内に潜む願望だったとしても、
あまり気持の良いことじゃない。
「オッケー、彩。もう十分に考えたからいいよ」
「そう?
もっともっと考えていても良いのに・・・。
どうせ先生は永久に<この世界>の住人なんだから」
「それのことなんだがな。
彩、もしかしたら君は<この心象世界>から抜け出す術(すべ)
を知っているんじゃないか?
もし良かったら教えてくれないか?
一応聞いておきたいんだ」
「ねえ、先生。
本当に【外の世界】へ帰りたいの?
もしかすると【外の世界】にはたどり着けないかもしれないよ。
または、たどりつく途中で死んでしまうかもしれないんだよ。
<この世界>は先生が好きなようにしてもいい世界。
好きに使ってもいい世界。
先生が世界の覇者であり、先生を拒むものは誰もいない。
<世界>は先生を中心に廻っているんだもの」
「分からない、分からないんだ。
このまま私の<心象世界>で過ごした方がいいのか。
それとも苦難や絶望の連続である【現実世界】に戻った方がいいのか。
・・・・・・でもこれだけは本当だ。
私は彩を愛している。
誰よりも彩を愛してる」
「そうね、それは先生自身が考えるべきことね。
もし先生がほんとうに帰りたいのであれば、
彩は止めないよ。
けどね、【現実世界】なんてこの先生の<心象世界>に比べれば、辛いだけで、
なんにもいいことがないって云ってしまってもいいくらい。
そんなところに帰りたいの、先生は?」
「分からない、分からないんだ・・・」
「たまぷ〜らざの中心にある皇学院のお社さま。
ねえ、先生。そのお社さまで今日の黄昏時に会いましょう。
そこで、どうすれば<この心象世界>から抜け出ることができるかを教えるわ。
黄昏時までに、<ここ>に残るか、【現実世界】へ帰るかを決めて。
けどね、彩は先生とずっと<ここ>で暮らしたいよ。
先生には<ここ>で暮らしてほしいよ!!」
彩はそう云うと教室を出て行った。
*
私は彩を愛している。
深く深く、マリアナ海溝よりも深く。
高く高く、チョモランマの如く高く。
それだけは変らない。
けれども、<この世界>が彩の云うとおり、
私の<心象世界>であるのなら・・・・。
私はいったいどういうすればいいんだ?
私は【日常】に酷く嫌悪していた。
何も変らない。何も訪れない。
そんな【日常】に酷く嫌悪していた。
けれども、その【日常】が今は恋しかった。
私の【日常】は、トラックに跳ねられ、
昏睡状態という<非日常>へと変貌してしまったのだ。
このまま、<この心象世界>で彩と愛し合って暮らそうか。
それとも何の面白みのない【現実世界】へと戻るろうか。
私はまだ決定できずにいた。
彩、君を失いたくなんかない!!
でも、ここは<虚構の世界>なんだ。
【現実】じゃあない。
だったら、【現実】と<虚構>とを分ける境界っていったいなんなんだよ!!
何が正しくて、何が間違っているんだよ!!
私はもう何も分からなかった。
【現実】、それは【リセットの利かない世界】。
<虚構>、それは<リセットの利く世界>。
どちらがいい?
普通は【現実】の方がいいと云うのだろうか?
分からない。
だって<今いる世界>は【現実】などよりも何倍も、
何十倍も素敵で、<幸せな世界>なんだ。
だれが好き好んであんな醜くくも歪んだ【現実】へと帰ることを望むだろう?
私は、私の<心象世界>に残ることにした。
【現実の生活】よりも<彩との愛>をとったのである。
*
そして黄昏時。
私は彩との待ち合わせの場所へ向った。
皇学院大学。
そこのお社さまで彩は待っていろ、と。
私は逸る気持を抑えながら、急ぎ足で向った。
「彩、居るのか?」
すると彩が忽然と姿を現した。
「彩はどこにでもいるのよ。ふふ、まあいいや。
で、やっぱり先生はまだ帰りたい?
彩は先生には帰って欲しくないんだけれど・・」
「私は彩を愛している。
私は【現実世界】には帰らない。
彩と二人でこの<心象世界>に残る」
私がそう云うと、彩はさも嬉しそうな顔で、
「嬉しい。
やっぱり先生は賢いよ。
その辺に居る人とは考え方が一線を画しているね。
【現実】と<虚構>。
そう、素敵なのは<虚構>。
【肉体】と<精神>ならば、そう、<精神>。
<夢>と【現実】ならば、そう、<夢>の方がはるかに美しい。
先生は<美>を取ったんだね。
<美>を勝ち取ったんだね。
嬉しいよ!!」
「ああ、あたりまえさ。彩を置いてなんてだれが帰るか!!
二人で永遠に<この心象世界>で愛し合うんだ。
彩さえいれば、なにもいらない。
ああ、何もいらないさ」
「嬉しい。あいがとう、先生。
・・・・・そうそう、そう云えば、
<この心象世界>の仕組みをまだ詳しくは説明してなかったね。
よろしい。彩先生が特別にご教授しちゃいます。
えっへん。
まずは、陰陽道でいうところの陽が先生。
陰が彩なの。
ここまではいい?」
いきなり陰陽道の話が出てきて私はまごついたが、
伊達に大学の教授をしているわけじゃない。
「ああ、どんどん進めてくれ」
「うん、それでね。
彩はね、先生の下位人格に当たるの。
先生の肉体の主導権はないんだけどね、
先生の抑圧された願望やら、禁忌の感情やらを司(つかさど)っているんだ。
先生がもし仮に【現実の世界】に帰るなら、
陽である先生と、陰である彩が交わる必要があるの。
陰と陽、二つが交わりを見せたとき、対極図は現実世界【 】を開く。
先生が憶えている世界が<ここ>の全て。
先生が経験したことのある世界が<ここ>の全て。
先生が経験していない世界は<ここ>には存在しない。
ま、先生が知識だけでもよほど鮮明にその情景を思い浮かべることができるのなら、
きっとそこも存在するんだろうけどね。
<この世界>は先生や彩の妄想が現実となる世界なのだから。
強固な思念は妄想となり、妄想は現実となるの。
そしてその妄想は<この世界>の在りかたを決定付ける。
太陽が西から昇り、東に沈むと思ってもそうはならないのは、なぜだと思う?
先生が月を見ていないときにさえ月の存在がなくならないのは、なぜだと思う?
それはね。先生が考える思念は脳の中で自己完結をしているからなの。
<脳>と【世界】とは繋がりはないの。
<脳>と【世界】とを繋ぎたかったら、
自分がその<脳>の思念を受けて行動するしかない。
けどね、彩たちが今居る<心象世界>は違うわ。
強固な思念は妄想となり、<この世界>を決定付ける。
だからあの時、先生が警察に連絡をした時も警察には繋がらなかった。
それはそうよ、彩が警察なんかいらないって思ったから。
だからこの世界には警察なんてものは存在しないの。
この心象世界ではその気になりさえすれば、太陽を西から昇らせ、
東に沈ませることも可能なのよ。
そう、<この世界>ではね」
「はは〜ん、そういうカラクリになっていたというわけか。
この<心象世界>の扉は陽である私と、陰である彩が司っている。
そして、彩は私の下位人格にあたるわけか。
どおりで私の考えを先読みするのが上手すぎたわけだ」
「まあね。
けどね、先生気をつけて。
【現実世界】の先生の肉体の意識が戻るってしまうと、
強制的に<この世界>から撤去されてしまうから。
所詮ここは彩たちの造り出した<心象世界>。
<仮想空間>に過ぎないのだから。
それがどんなに幸福で、幸せでもね」
願わくは、私の肉体が目覚めないことを祈って。
こういうのもおかしいのだけど。
*
それから私たちは来る日も来る日も愛し合った。
性交だけは、<この世界>から抜け出してしまうために
やりはしなかったが、それ以外のことならなんでもした。
ひとつき、ふたつき、みつき。
月日の流れるのは早かった。
私たちの営む愛は決して揺らぎはせず、
また揺らぐはずもなかった。
だが、【現実】は私たちを無残にも引き裂いた。
【私の肉体】がなぜだか回復にあるらしいのだ。
下位人格である彩には、そのことが手にとるように分かるらしかった。
「先生、彩たちが一緒にいられるのもあと少しね・・・」
「何をいっているんだ、彩。
そうなのか?
それは回避できそうにないのか?」
「うん、残念だけどね・・・。
【現実】にある肉体の決定権は、ほぼ絶対だから。
でもね、これだけは忘れないでほしいんだ。
もしね、先生が【現実世界】へ戻っても、
彩はいつでも先生と一緒なんだよ。
先生を愛しているんだよ。
先生の心の中でね。
お願い、それだけは忘れないでね」
彩は、目に溢れそなほどの涙を溜めていた。
私は悲しかった。私は悔しかった。
どうして、現実はかくも無残なんだ!
どうして私たちが<幻想世界>に佇むことを拒むんだ!
<幻想>よりも【現実】の方が優れていると誰が云えよう!
<幻想>よりも【現実】の方が価値があると誰が云えよう!
もしそんな奴がいたとしたら、
そいつはとびきりの偽善者だ。うそつきだ。
こんなにも幸せなのに。
こんなにも安らかなのに。
こんなにも私たちは愛し合っているのに!!
「彩、私はいつまでも愛している。君を愛している。
私は今まで女性とは縁がなかった。
そして、これからも縁がないと思っていた。
私を愛してくれたのは君だけだ、彩。
私は君と逢うために生まれてきたのだと、そう、せつに思う。
私が【現実】へ帰ったとしても、決して君のことを忘れたりなんかしない。
毎日、君と会話をし、君と食事をし、君とキスをする。
【現実】なんて糞くらえだ!!」
私は全生命力で有りっ丈の咆哮をあげた。
「嬉しい。彩、ほんとに嬉しい。
だって先生、
【現実世界】ではずっと彩のことを気づいてくれなかったんだもの。
彩はずっと先生の傍にいたのに・・・・。
寂しかった。
いつも先生と一緒にいるのだけども、ずっと孤独だった。
でも、今は違う。
もう違うんだよね、先生?
彩はもう独りじゃないんだよね?」
「彩には今まで沢山辛い思いをさせてきた。
でもこれからは違うさ。ずっといっしょだ。
たとえ私が【現実世界】へ戻ったとしても、ずっといっしょだ」
私たちの<内的世界>は崩壊を迎えつつあった。
世界が崩れ堕ちる。
空は堕ちてくる。地面は割れる。
校舎は消し飛ぶ。
人々は塵となり、空間は消滅する。
最期に彩の言葉だけが聞こえる。
「さようなら、先生。
先生とはこれでお別れね。
でも、いつでも彩は先生の心の中にいるんだから!!
忘れずに声をかけてね。
先生は彩のこの世でたったひとりの掛け替えのない、
生涯で一度の、とびっきりの恋人なんだから!!」
私は虚無の中で泣き崩れた。
そして<世界>は崩壊した。
*
次の瞬間、【世界】はまた新しい産声を上げていた。
・・・・ここはどこだろう?
この白く、かび臭い匂いのする四方空間。
薬品の匂いも混じり、不快な気分だ。
ここは病院か・・・・。
看護婦が驚いている。医者が慌てている。
戻って来たらしい。
どうでもいい。
なにもかもがどうでもよかった。
私は彩さえいればどうでもよかった。
逆に彩なしでは全ての価値が無意味に等しかった。
私は止めどなく涙が溢れてきた。
助かったことに泣いているわけじゃない。
彩の最期の言葉に泣いているんだ。
*
目覚めてから一週間後。
「先生。箜間桐孤(くうかんとうこ)先生。
その後、この患者の様態はどうですか?
精神的な回復は・・・・」
奥でそんな声が聞こえる。
はは。
でも今の私には、外界の干渉などはどうでもよかった。
私にとっての真実は<心象世界>での彩との生活だったのだ。
あの生活は心底幸せだった。
これからその先の人生、あれほどの幸せは終ぞ来ないだろう。
いや、来てはならない。
彩を忘れえぬためにも。
誰かが私に話しかけてきた。
「永岡さん、ご自身の様態はどうですか?」
若い女医が優しい声でそう聞いてきた。
私は興味はなかったが、無視をするのもなんだかなと思い、
適当に社交辞令的な応答をした。
「ええ。まあまあです。」
「そう? それならいいんだけど・・・。
永岡さん、ずっと窓の外ばかり眺めていて、
放心しているから先生心配だわ」
「そうですか・・・・。
先生は辛く夢も希望もない【現実】と、
幸せで、満たされている<幻想>だったら、
どちらを選びますか?」
女医は驚いた顔をしていたが、一端呼吸を置き、こう云った。
「難しい。難しい質問ね。
いや、これは命題と云い直してもいいかもしれない。
辛く悲しい【現実】だけが真実なのか?
<幻想>であってもその人がそれを真実だと思えば、
その幻想的な営みは、その人にとっては紛れもなく真実ではないのか?
目に見えることだけが真実ではない。
それは覚えておいていいことよ、永岡さん。
貴方が昏睡状態の時に何を<心象世界>で視たのかは分からない。
けれども、人は結局は今置かれている状況しかわからないの。
そして、今この状況が正しいかなんて、誰にも分からない。
だから胸を張って今を生きて」
・・・・んっ。今この女医はなんていった?
<心象世界>で何を視たか?
なぜそれを知っている?
私はこのことを誰にも話してないし、
これからも誰にも話すこともないというのに・・・・。
女医が私の怪訝な顔を見て感づいたのであろう。
こんなことを云ってきた。
「ふふ。私は貴方みたいな境界例の人を沢山見てきたの。
その人達はいつも夢に憧れをもっていた。
だから貴方もそうなのかなって思ってね」
そう云い終わると、女医はコツコツと病室を後にしていった。
境界例か・・・。私は境界例などではないのに。
そう見られてしまったか。まあしょうがない。
それに正直言うと、
他人がどう思おうと、私と<彩との営み>は変りはしない。
私は今でも彩を思っている。
そう・・・・彩は、彩はどこにいった?
自身の心に問いかけても、いっこうに彩が応じる気配はない。
彩はいなくなってしまったのか?
消えてしまったのか?
もしいなくなってしまったとしたら・・・。
そのことが私の心を重くした。
虚(むな)しさがこみ上げてきた。
彩、彩、いないのか?
私の声が聞こえないのか?
もし聞こえたら返事をしてくれ、彩!
せめて合図だけでも、合図だけでも私に聞かしてくれ!
トクン、トクン。
不意に心臓の鼓動が強く聞こえた。
彩!彩!
私は嬉しくてたまらなかった。
彩が答えてくれる。
消えてなどいなかった。
彩、いつもで気が向いたら出てきておくれ。
また声を聞かせておくれ。
その愛らしいくも凛とした声を、聞かせておくれ。
私はいつもその刻を待ち続けているから。
ずっとずっと。
<永久とも一瞬とも思える束の中>を。
刹那に、そして永遠に。
*
終わり