「個人の権限」が厳守されるべき最たるものとされている、現在の個人主義の極まる日本で、
素朴に考えてみれば、「個人の生命」以上に重きを置くべき事柄は存在しないわけだろう?
じゃあ例えば個人の権限に対する侵害があったとして、それに対して、国家、或いは社会が、
一つの制度として、解決しうる形式を備えているべきだ、というのは、一体どういうことだろう?
「個人の生命」が、犯すべからざる、置換のきかない最上級の事柄であるなら、同じように、
「侵害され、既に失われた個人の生命」も、置換のきかない最上級の事柄であるべきだろう。
その最上級の事柄が、社会制度の作り出す、ある状況と置換されうるとでも考えない限り、
個人の生命が失われたことに関して、何らかの解決があるべきだと思うことがそもそもおかしい。
つまり、加害者に対し、被害者と同等の苦痛を与えることや、遺族の手による現実的な報復が、
失われた被害者の命と等価である、とでも考えられる人間以外には、解決などは訪れはしない。
それは一つの転倒であって、彼らは、犯すべからざる個人の生命が侵害された、と喚く割に、
その一方で、解決策があるべきだと言うのだから、侵害され、既に失われた個人の生命以上に、
侵害された個人の生命を贖う方法の方を、より尊重しているか、最低、等値と見做している。
つまり彼らは、「神聖なる個人の権限」を、その主張によって、気付かぬうちに侵害してるわけ。
刑罰制度というのものが、被害者から遠く離れた場所にあるってことを、考えなくちゃならん。
転倒した主張を携えた義憤や、遺族がその身を任せる怒り、根底的な社会綱領の動揺、
加害者による未来の被害者への加害の可能性、そんなものを解消しようとしている。