川 ;´I`川 ☆БЕСЫ☆

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83チンポコ太郎
僕は今まで自分のためだけに嘘ばかりをついてきました。時には自分の嘘すら自ら信じたりもしました。
僕の思想は、私的な事実だけで繕った、おおよそ歴史的事実とは無関係の、空っぽなものなのです。
自意識にも区別できる部分がいくつかあるんじゃないかと思ってるんだ。上に書いた超越者的な視点を持つ精神と、
社会的に媒介されて形成された機会的な思考回路と、根底にある欲求と。っていうかまあ実は俺サディストかもね。
一見相互侵犯し合ってるように見えて、その実社会的理性の形成には自身は一切積極的には関われないんだよ。
構造的反復とは無関係のものだ。客観的唯物史観なども違う。反復しえない単独性を持った個体のすべてが
自然史そのもの(究極的に言えばすべての個体はどの類にも属することがないという概念)であり、超越者に
依らない客観などが存在するはずもない。自然史とは、自然史という名詞こそあれ、あらゆる
社会的に媒介されて形成された機会的な思考回路と、根底にある欲求と。っていうかまあ実は俺サディストかもね。
一見相互侵犯し合ってるように見えて、その実社会的理性の形成には自身は一切積極的には
自意識にも区別できる部分がいくつかあるんじゃないかと思ってるんだ。上に書いた超越者的な視点を持つ精神と、
社会的に媒介されて形成された機会的な思考回路と、根底にある欲求と。っていうかまあ実は俺サディストかもね。
僕は今まで自分のためだけに嘘ばかりをついてきました。時には自分の嘘すら自ら信じたりもしました。
僕の思想は、私的な事実だけで繕った、おおよそ歴史的事実とは無関係の、空っぽなものなのです
拝啓、チンポコの先っぽが痛む一人の男様
僕は今まで自分のためだけに嘘ばかりをついてきました。時には自分の嘘すら自ら信じたりもしました。
僕の思想は、私的社会的に媒介されて形成された機会的な思考回路と、根底にある欲求と。な事実だけで繕った、おおよそ歴史的事実とは無関係の、空っぽなものなのです。
でもだからこそこの自意識を、どうにか外部性のある存在・事象・事実と結び付けたい。だから書くんです!
らない客観などが存在するはずもない。構造的反復とは無関係のものだ。客観的唯物史観なども違う。反復しえない単独性を持った個体のすべてが
自然史とは、自然史という名詞こそあれ、あらゆる
社会的に媒介されて形成された機会的な思考回路と、根底にある欲求と。っていうかまあ実は俺サディストかもね。
一見相互侵犯し合ってるように見えて、その実社会的理性の形成には自身は一切積極的には
歴史は繰り返すとはどこかの阿呆が言った言葉だが、類に捕捉されない単独性を持った物理的証拠によってのみ
存在する唯一の真実こそが歴史であって、本来的な意味からすれば、それは構造主義者がそこから見出す
構造的反復とは無関係のものだ。客観的唯物史観なども違う。
反復しえない単独性を持った個体のすべてが
自然史そのもの(究極的に言えばすべての個体はどの類にも属することがないという概念)であり
一見相互侵犯し合ってるように見えて、その実社会的理性の形成には自身は一切積極的には関われないんだよ。
社会的理性と私的善悪観念は違うもんだ。更にあらゆる積極的な規制はただ単に否定でしかない。
俺はただの一度も、社会的理誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
性によって意思を侵害されたり、善悪の判断を操作されたことなんてないよ。
操作されることに甘んじるとしてもだ、あの人のような美しい定型に支配される方を選びたいもんだよ
こんなこと言うと怒られるかもしんないけど彼女、恥を避けているようで逆に恥を構築してしまってるんです。
喪失を何より恐れて構築し続けてしまう人がやっぱり誰よりマゾヒストなんですよ。構築した分、喪失も大きい。
逆に、小出しに壊して小さい喪失感を味わうなんていうのは大凡作為的で人として魅力が少ないっていう。
だからこの、弱くとも外部性を持った言語空間に加担せざるを得ないんです。どうかどうかわかってください。
近頃ようやく自分の欲望がどんなものなのかわかってきたところなのです。それはつまり、創造的であること
によって、この自意識の物理的証拠を得たいという欲求。なんとも滑稽なものではあるのですが。
ただ、順序転倒とは関係何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのがなく、良くも悪くも自由になるために
必要なディシプリンっていうものもあるんだよな。
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
で、外部性っていう意味での神(キリスト等)についても、それを構造化した途端に超越性は消え去ってしまうわけで。
つまりフレームの外にいようとする超越者を、外部性の恐ろしさのためか自意識の超越願望や一般化願望か
わからないけど、更に構造化して、
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
近頃ようやく自分の欲望がどんなものなのかわかってきたところなのです。それはつまり、創造的であること
によって、この自意識の物理的証拠を得たいという欲求。なんとも滑稽なものではあるのですが。

勿論二義的にテクストが絶対とも自然史が絶対とも言えないかもしれないが。共時的になり得ない対話を
構造化。ああいう順序転倒された構造主義にだけは乗っかりたくないもんだ。
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
一見相互侵犯し合ってるように見えて、その実社会的理性の形成には自身は一切積極的には関われないんだよ。
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
近頃ようやく自分の欲望がどんなものなのかわかってきたところなのです。それはつまり、創造的であること
によって、この自意識の物理的証拠を得たいという欲求。なんとも滑稽なものではあるのですが
941 ◆k4mEUGtXAo :03/12/01 02:41
ノ(;´A`) < ああいう絵って、一見して混沌として見えるけど、
        あくまでも抽象だもんね。
        なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
        最初はおいらは抽象画はそのループの一環で
        なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
        混沌のパートだと思ったんだけど、違ったかな。
        あれは超越性を得たいか、超越性を補足したいがために
        写実的な手法を投げやって、もっと大きな縄で
        それを捕らえようとする必死さの顕れなんだ!と勝手に思った。
こんなこと言うと怒られるかもしんないけど彼女、恥を避けているようで逆に恥を構築してしまってるんです。
文学における定型にしても同じ事で、混沌とした自意識や物理的現実を締めくくるための要素に「書く」という
テクストを選ぶのであって、正当性や真実性に関わらずそれは構造主義的であるわけだ。何しろその転倒が。
勿論二義的にテクストが絶対とも自然史が絶対とも言えないかもしれないが。共時的になり得ない対話を
構造化。ああいう順序転倒された構造主義にだけは乗っかりたくないもんだ。
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
一見相互侵犯し合ってるように見えて、その実社会的理性の形成には自身は一切積極的には関われないんだよ。
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
で、外部性っていう意味での神(キリスト等)についても、それを構造化した途端に超越性は消え去ってしまうわけで。
つまりフレームの外にいようとする超越者を、外部性の恐ろしさのためか自意識の超越願望や一般化願望か
わからないけど、更に構造化して、
っていう意味での神(キリスト等)についても、それを構造化した途端に超越性は消え去ってしまうわけで。
つまりフレームの外にい操作されることに甘んじるとしてもだ、あの人のような美しい定型に支配される方を選のは
超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
ようとする超越者を、外部性の恐ろしさのためか
俺はただの一度も、社会的理性によって意思を侵害されたり、善悪の判断を操作されたことなんてないよ。
操作されることに甘んじるとしてもだ、あの人のような美しい定型に支配される方を選びたいもんだよ
自意識にも区別できる部分がいくつかあるんじゃないかと思ってるんだ。上に書いた超越者的な視点を持つ精神と、
社会的に媒介されて形成された機会的な思考回路と、根底にある欲求と。っていうかまあ実は俺サディストかもね。
僕は今まで自分のためだけに嘘ばかりをついてきました。時には自分の嘘すら自ら信じたりもしました。
僕の思想は、私的な事実だけで繕った、おおよそ歴史的事実とは無関係の、空っぽなものなのです
・過去の悪質太郎スッドレのまとめ
「捕捉性」
言語体系にしろ価値体系にしろ、体形の中で関係を持つ者に隠蔽されている一種の危うさがそこにはある。
本来単独性を持った他者との関係の間にこそ言語体系・価値体系が生じるのであって、体系の中での関係性
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
始めから何もなかったんだから思想を解決できることなんてあるはずもなく。どこから思想を持って来ようが
どんな思想を上塗りしようが、空虚も空虚。文学・キリスト、ここらで解決つきそうな気がしたんだけど
はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう