川 ;´I`川 ☆БЕСЫ☆

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単独者と単独者との間としての社会ではなくて、国家的な捕捉装置が支配的な社会のことね。
他者視点を主観において想像するのが客観であるなら、主観と客観っていう区別自体が疑わしいと思うんだよ。
本来的にはそれは主観的主観と主観的客観の区別なわけで。
自然史概念としては全ての個体が単独性を持っているんだけど、所謂誰しもが知ってる歴史学的見地から言えば、
邪魔するようで悪いんだけど
その「捕捉性」を撹乱するために嘘ついてたりすんの?
それで生まれた誤解が「自意識の物理的証拠」とかに繋がってたりすんじゃねーかと
前に、嘘つくのが趣味みたいなこと言ってたから思ったんだけど
>>141
本来的にはそれは主観的主観と主観的客観の区別なわけで。
自然史概念としては全ての個体が単独性を持っているんだけど、所謂誰しもが知ってる歴史学的見地から言えば、
歴史的事件なんていうのも一つの個体なんだな。生物一つ一つが単独性を持ってるのと同時に、それらが持った
反復しえない関係性も、単独性を持ってる。自然史概念はひとまず置いて言うと、発生した関係性を書記すること
(=物理的証拠)によって初めてそれが「歴史」になるっていう。
美しい定型なんて捨てるどころか持ってないから。絵も少しだけ勉強したけど、ポストモダンの本流は差異性
に尽きるんだよね。上で言ってた抽象画については差異性の芸術だと思ったんだけどどう思う?
>>132
つまりフレームの外にいようとする超越者を、外部性の恐ろしさのためか自意識の超越願望や一般化願望か
わからないけど、更に構造化して、
っていう意味での神(キリスト等)に本来単独性を持った他者との関係の間にこそ言語体系・価値体系が生じるのであって、体系の中での関係性
ついても、それを構造化した途端に超越性は消え去ってしまうわけで。
俺はまずこの自意識に巣食う冷笑癖・嘲笑癖を克服しなければ。例えば意味体系が関係性によって発生するように、
自意識も言語によって発生したものなんじゃないかと思うんだな。そうだ自意識は、言語的意味体系の「意味性」を
掌る器官そのものだろう。言語によってその器官が発生したのなら、それを更に後発的に改変することも可能であると。
>>137
一見相互侵犯し合ってるように見えて、その実社会的理性の形成には自身は一切積極的には関われないんだよ。
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
近頃ようやく自分の欲望がどんなものなのかわかってきたところなのです。それはつまり、創造的であること
によって、この自意識の物理的証拠を得たいという欲求。なんとも滑稽なものではあるのですが
>>135
単独者と単独者との間としての社会ではなくて、国家的な捕捉装置が支配的な社会のことね。
他者視点を主観において想像するのが客観であるなら、主観と客観っていう区別自体が疑わしいと思うんだよ。
本来的にはそれは主観的主観と主観的客観の区別なわけで。
俺は弟や妹と比べて一昔前の人間のような気がするんだよ。定型に対してコンプレックスのようなものがある。
美しい定型なんて捨てるどころか持ってないから。絵も少しだけ勉強したけど、ポストモダンの本流は差異性
に尽きるんだよね。上で言ってた抽象画については差異性の芸術だと思ったんだけどどう思う?
>>131
歴史は繰り返すとはどこかの阿呆が言った言葉だが、類に捕捉されない単独性を持った物理的証拠によってのみ
存在する唯一の真実こそが歴史であって、本来的な意味からすれば、それは構造主義者がそこから見出す
構造的反復とは無関係のものだ。客観的唯物史観なども違う。反復しえない単独性を持った
わからないけど、更に構造化して、
っていう意味での神(キリスト等)についても、それを構造化した途端に超越性は消え去ってしまうわけで。
つまりフレームの外にい操作されることに甘んじるとしてもだ、あの人のような美しい定型に支配される方を選のは
超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
>>135
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
だからこの、弱くとも外部性を持った言語空間に加担せざるを得ないんです。どうかどうかわかってください
っていう意味での神(キリスト等)についても、それを構造化した途端に超越性は消え去ってしまうわけで。
>>145
単独者と単独者との間としての社会ではなくて、国家的な捕捉装置が支配的な社会のことね。
他者視点を主観において想像するのが客観であるなら、主観と客観っていう区別自体が疑わしいと思うんだよ。
本来的にはそれは主観的主観と主観的客観の区別なわけで。
自然史概念としては全ての個体が単独性を持っているんだけど、所謂誰しもが知ってる歴史学的見地から言えば、
邪魔するようで悪いんだけど
その「捕捉性」を撹乱するために嘘ついてたりすんの?
それで生まれた誤解が「自意識の物理的証拠」とかに繋がってたりすんじゃねーかと
前に、嘘つくのが趣味みたいなこと言ってたから思ったんだけど
>>125
勿論二義的にテクストが絶対とも自然史が絶対とも言えないかもしれないが。共時的になり得ない対話を
構造化。ああいう順序転倒された構造主義にだけは乗っかりたくないもんだ。
大抵の奴はこれがないと何もできない。定型から逃れるなしにはそもそもが疑わしい。
俺は誰のことを言ってるんだろうっていうのが一つの定型としてあるから簡単なんだ。
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう
定形外の創造力なんつうのは超越者なしにはそもそもが疑わしい。俺は誰のことを言ってるんだろう