私、私達、私達の学校、私達の地域でしか知られていない
などというとっておきの情報をどうぞ・・・
るんるんは根釜かもしれないという疑惑!
付け加えるならば
2ゲット
4 :
◆maiko7I6 :01/12/11 02:29
日暮里は服値が安い!
だいぶ有名になったけど。
★黒マルだけのとっておき極秘情報★〜黒マル的音楽観〜
一般に人が音楽を聞いて何らかの感情を覚える時、それは音楽だけを聞いてるのではなく
音楽とそれに付加した要素を情報として同時に受け取っている。
●音楽自身が持つ情報(旋律、和声、音色、リズム、音の強さ、構成、書法、楽器編成、
演奏技術)
●テキスト(歌詩、標題)
●音楽に付加したその他の要素(映像、ダンス、演劇、宗教性等)
●周囲の環境(ライブか室内か、周りの雑音)
●パフォーマーの要素(アイドル性、スキャンダル性、服装演奏中の行動→チェロ奏者の
マユの形、マイクパフォーマンス)
…他にもあるかも
★続、黒マル的音楽観
人が音楽を聞くとき音楽だけでなくこれらの要素を情報として受けとっているわけだが
あんまりこれを意識している人は少ない。
音楽好きの10代の子と話してて疲れるのは音楽とそれに付加された要素を混同して
捉えていて、例えば「彼の生き様が音楽なのだ」みたいな言い方をしたりする
が、しかしそれは音楽に付随した要素について抽象化して語っているだけであって
その音楽が持つ情報量(つまり音楽的にあるレベルに達しているかどうか)
とは別問題だってことに多くの場合気付いてなかったりする。
例えばミニモニ。が扮するミニハムズの曲は音楽自身が持つ情報量はきわめて低い
(時間構成のいいかげんさ、安っぽい編曲、オリエンタルな音階の安易な使用、
なぜ長調ではじまったあんな短いフレーズの旋律が短調で終わるのか)にもかかわらず、
とっとこハム太郎の主題歌である、ミニモニ。のキャラクター、振り付け、歌詞などで
音楽の貧困さをその他の情報量の豊かさで補っているという訳だ。
売れる曲と言うのは大衆に対して多くの情報を提供する曲だともいえる。
ただし豊富な情報があるからといって必ずしも音楽が持つ情報量が豊か(質が高い)
であるとは限らない。むしろ誰にでもわかるものはたいしたことがない事が多い。
最近の音楽が「コンビニで売られる惣菜のような消耗品だ」と言われるのも
音楽自身が持つ情報の貧困さが原因である気がする。
本当に実り豊かなものというのは求めようとするものに与えられるものだ。
「求めよ、さらば与えられん。」
現代音楽が一般の人に人気がないのは調性、形式の明快さといったクラシックの持つ
豊かな情報を失い、せいぜい特殊奏法やモー娘。にも劣る貧困なパフォーマンス等が
関の山で、音楽自身が持つ絶対的な情報量の圧倒的な少なさが原因のように思える。
音楽の価値は環境を媒介とし発信者、受信者の双方の出会いにより発生する。
発生する価値の大小は発信者の情報量、受信者の状態、環境により変化する。
★発信者が提供する情報→演奏技術、容姿、演奏形態、演奏中の行動
★受信者の状態→音楽に対する知識、ソルフェージュ能力、体調、その曲に対する思い出、
演奏者に対する感情、直前に食べた食事は和食だったか洋食か、最後に見た信号の色は?
★環境→音楽を聞く空間、室温、鳥のさえずりや自動者のエンジン音
作品とその受信者の出会いによっていったん生まれた価値は誰にも否定する事は出来ない。
例えば志村けんの東村山音頭を聞いてあるひとが心の底から感動したとする。
しかしそこで生まれた感動はその人の個人的なものでありその価値を否定する事は
誰にも出来ない。(クレイジーダイヤモンドは砕けない!!!)
また、たとえ多くの人が駄作だという曲であっても幼い頃の思い出や失恋の思い出と
結びついて価値が生まれることはいくらでもありうるし、そこで生まれた
価値は真実である。
ゲリ腹を抱えてやっとの思いで公衆便所に駆け込んだ男にとって
ルビーよりもちり紙のほうが価値を持つということもしばしばありうる。
…というのは受信者の話であっていったんその人が発信者となり、自分のことをいやしくも表現者だと言いだした場合、発信した表現については全責任を負わなければならない。
誰かに対し何らかの表現をするということはその表現に対する責任と覚悟を持つという
ことだ。
またいったん発信者となった場合、選択した素材とその表現手段を使って
何を表現するかという事が重要になってくる。
例えば機能和声や無調の語法、ジャズの語法、コンピューターによる技術というのは
手段、ツールであってそれを使うことが偉いのではなくそれによって何を語るかが
重要になってくる。
いくらフランス語が話せてもそのフランス語を使って「朝だと思って起きたら夜だったよ」
とか言ってたんじゃアイタタタ…というわけだ。
赤いトマトを見てこのトマトは赤いというのは誰でもいえる。
しかしそんなこといったところでその表現が含む情報の量はきわめて少ない。
要するに「形から入るのは自由である。しかし形にとどまってはいけない。」ってこと。
音楽の形態によって聴取の形態も異なる。
ポケモンの主題歌を聞くつもりでジャズを聞いてもつまらないのは当然のことだが
多くの人は歌と伴奏といった聞き方しかしらないような気がする。
そこで知ってたら音楽の聴き方がコペルニクス的な発想の転換で変わるような
ものをいくつか。(基本的に鑑賞する為の音楽というのは対比の原理が働いている)
★同時に鳴る複数の要素を把握する。
普通の人が音楽を思い浮かべる時、旋律が主要な要素であとは旋律を引き立てる
伴奏に過ぎないと考えることが多い。
しかし伴奏の代わりに旋律に対して対等な価値をもつ旋律があてられる事もある。
(フーガ、カノン等)その場合、同時に鳴る旋律を聞き分ける耳が必要となる。
線(旋律)対線、線対面(和声、音響)、面対面
★音の属性を聞く
今なっているのは弦か金管か木管か電子音かその組み合わせか。その対比による情報
★書法、書法の変化、音の疎密を聞く
使用されている語法、書法、音、音色の数の推移を聞く
★音楽につきまとう観念的な要素について考えておく
…なんかややこしいこといってるな…要するに知的に構築された音楽を聴く場合は頭を
使いながら聞かないとちっとも面白くないってこと。
例えばドイツ系クラシック音楽を聞いて作曲者の意図を理解しようとする場合、最低限
機能和声の感覚を耳で理解する必要があるし、ソナタ形式やフーガなどを知識として
理解しておく必要もある。(もちろん解釈の仕方は自由だし当然違う聞き方もありうるが)
これは作曲者の意図を理解する為の儀式のようなものであり日本家屋に入る時
靴を脱ぐのと同様にクラシックを理解するための作法であるともいえる。
フランス語が読めないからフランスの文学はつまらないというのは無茶苦茶な言い分である。
これはクラシックだけでなく民族音楽やヒップホップなどの文化を
理解したり引用したりする際にも当てはまる。
民族音楽のペンタトニック的音階を持ってきたところでそれは民族音楽風であるという
だけで民族音楽の本質的なものとは全く無縁である。
簡単に移植できないものの中にこそ真に本質的なものが含まれているのだともいえる。
ハンバーグに大根をのせて和風ハンバーグといった所でハンバーグはハンバーグである。
最後に音楽好きの人の前で言うと袋叩きにされるような事をここでボソッと。
音を楽しむと書いて音楽っていうのだから楽しくなければ音楽でないとか
音楽や芸術作品は人のために作られなければならない…というのは妄想である。
★その根拠★
世の中には神に捧げられる歌や豊作を祈願する為に奏される音楽もあり
それは人間のために作られたわけでもなければ娯楽の目的で作られているわけでもない、
死者を悼む音楽は厳粛であらねばならない。またこの種の音楽の中には練習することさえ
禁じられているものもある。死者の前以外で歌うことは不吉だからだ。
…というように楽しくなくちゃ音楽でないっていってしまうと音楽が持つ可能性を
限定してしまい、その用途、表現の幅が狭くなりその情報量も少なくなってしまう。
あと作曲家や歌手を芸術家という意味でのアーティストと呼ぶ事にも疑問が残る。
特に作曲家というのはアーティストというよりはどちらかというとアルティザン(職人)的
色彩が強い。演歌歌手までアーティストと言い放つ風潮には少し閉口してしまうが
芸術の概念自体が変わりつつあるのだとすればこの風潮を理解できなくもない…
以上黒マルが音楽について日ごろ考えてることをコピペ荒らしのごとく
お送りいたしました。
ふう…疲れた★
ほうほう。
ふーん…。わたしはもっと単純明快に「身体で感じろ。」でいいと思うけど。
鳴っている音が何なのかとか音階がどうとかって言うのは二次的なものでしかないと思うけど?
ポップスっつーのは消費される音楽であって何ら問題のないもんだし、
そこに普遍的な価値を見出そうとするのはそもそも間違いな気がするわ。
「今」を表す音楽って言うのにはポップスが最も正しい形だと思うしね。
ま、音楽に対する姿勢なんて何だっていいのよ。
どれどれ
みぃ〜たぁ〜なァァぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!(笑)
お、なんかあけびがいる。
感じろ!って音楽があってもいいしそうでない音楽があってもいいし
そのどちらが正しいわけでも間違ってるわけでもないということをこねくり回して
言ってみただけ★
聞く側は感じるだけでも十分だけど発信する側は何が感じさせる要素なのか
知っているにこしたことがないと思う。
漫画家が小説や映画をみる時、その作品を面白くさせてるものは何か、
つまらなくさせるものは何かって常に考えてるのと同じように
物を作る人間ってどうしたら面白くなるかって考えるもんだからな。
消費される音楽があってもいいってのはなるほどなと思った★
さすがあけび!
ただ普遍的な価値をあるものを作れといってるわけではなく、
消費されるものでもより音楽的な水準の高いものをめざしてほしいと思う。
あと理由説明すると長くなるから省略するけど
今に生きる芸術家が必ずしも同時代の人間のために作る必要はないと思う。
ま、こればっかりはどっちが正しいとか間違ってるとかはないんだけどな。
色々と参考になったよ。
他に変なとこあったら具体的に指摘してつかーさィ。
どうせ誰も見てないだろうからもうすこしここでコソーリ考えを練っておこう★
あけびの言う通り物事の価値ってのが普遍的なものではなく相対的だって
のはそのとおりなんだが、そこで困るのは自分達の価値を信じてたがわない人だ。
多くの音楽好きの人と接していると自分が好きなジャンルの音楽を絶対視し
他の価値を認めようとしない人が多いのに驚かせる。
・真に音楽といえるのはジャズだ、理解できない奴は耳が悪い。
・OOで音楽は死んだ、あとは全部クズだ。
・クラシック音楽を聴くのは上流階級のステータスで他の音楽は下品極まりないですわ。
・「今」を表す音楽って言うのにはポップスが最も正しい形だと思うわ。
・今を切る芸術家は常に新しい可能性を追求しなければならない。
それをしているのは現代音楽のみだ。
・伝統には足着物を淘汰し禅なるものをより純化する機能がある。ゆえに真に
水準の高いものは伝統芸術の中にのみあり我々はその伝統を遵守していく義務がある。
さて、こういう人たちに囲まれた場合どういうふうに接すればいいだろう。
異なる価値観を持つこのなかで正しいことを言っているのは誰なのか。
もし自分がこの立場になればこの人たちにどういう態度を取るか。
今を切る→今を生きるね
昨日、あんまり文をよく読んでない2ちゃんねらーから東洋と西洋を分けること自体
全時代的でナンセンスだ…などという煽りを受けた。
比較文化論的見地から言っているのだとは思うが、しかし芸術音楽の分野では
西洋と東洋(特に日本の伝統音楽)の音楽は全く異なる発展の仕方をしてきており
音楽の概念自体が全く異なることは明白な事である。
もちろん音楽がまだ未分化の段階では共通の要素は見出せるし
細かくみれば東洋の音楽にも様々な形態があるのは事実だ。
しかし西洋的な概念では到底捉えられない要素が東洋音楽にあるのは事実で
ある年代の西洋前衛芸術家を驚嘆させ必死で東洋(特にインド音楽、日本音楽)
の要素を自分の理論体系に取り組もうとした。
この時代の音楽家にとっては東洋と西洋、相容れないこの二つの音楽の融合が
命題でもあった。その名残でいまだに西洋系の音楽家は東洋音楽を神格化し
出来の悪い邦楽作品を無批判に受け入れる西洋人も少なくない。
音楽の世界において禅や日本庭園などの東洋の神秘が西洋的合理主義で突き進んできた
芸術音楽の閉塞観を突き破る残された切り札のひとつであると今も尚信じられている。
あけびの言う通り感じろ!…これは重要な事だと思う。
一度でも西洋的概念では到底捉えられない日本の伝統音楽を生で聞いたことがあれば
身をもってその差異を感じ取る事ができる。
そして今まで自分の知っている音楽の価値以外にも別の価値基準を持つ音楽があることを
感覚として感じ取る事ができる。
一度でもこういう経験があれば自分が素晴らしいと思ってきた音楽の価値と同様に
この音楽にも価値があるのだと認めることができるようになるのだが…
残念な事に今まで会った音楽愛好家の中にはそうした人は少ない。
逆にいうと違う今までの経験上価値を認められる数少ない人って言うのは
一線で活躍している演奏家や作曲家がほとんどだ。
感覚で捉える事によって価値が理解できる音楽もあれば
知性で捉えなければその価値が理解できない音楽もある。
音楽に付加されたコンセプチュアルな意味を理解しておかなければ
理解できない音楽も山ほどあるのだ…
そしてどういう手段で表現しているかよりもその表現自身の質のほうが重要なのだ
ということを>20のような人たちに平易な言葉で理解してもらうのには
どうすればいいのかなやむ所だ。
色々な音楽をただ聴くだけでなくその奥深い所まで理解しようとしなければ
違う価値基準の存在にはなかなか気付く事はできないように思う。
他の文化、他の価値を受け入れる事は受身で聞いているだけでは難しいだろう。
疲れた★
)\)\
/ ゚Д゚) ×ミニハムズ
>>7 ⌒< ) ○ミニハムず
┛ ┗
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名無し戦隊ナノレンジャー!:01/12/20 22:34
age
長い(´ι _` )