押井守の「世界の半分を怒らせる」。第6号より抜粋
『ヱヴァQ』と言われて「オバQ」の間違いじゃないかと思いました。
いきなりどうでもいい話ですが、なんでもかんでも短縮するのはやめて欲しいものです。
前号で「公開中の作品については何も言わないのが仁義」てなことを書きましたが、もはや恒例行事と化した観の
『エヴァ』ではあるし、相変わらず盛況のようではあるし、私ごときが何を言おうが書こうが1ミリの影響もあるでなし。
編集部に請われるままに書くことにしました。
あらかじめ言っておきますが、僕は『エヴァ』に関しては、シリーズを何本かと、最初の映画版(「春エヴァ」?)以外は
全く見ていません。
見ていませんが、おそらくは『エヴァ』という作品について、もっとも適切に語り得る人間のひとりであろうと自負しており
ます。
ひと言で言って、『エヴァ』という作品は、まるで明治期の自然主義文学の如き私小説的内実を、メタフィクションから
脱構築まで、なんでもありの形式で成立させた奇怪な複合物であります。
キャラクターの周辺に関してはパンツ降ろしっぱなしで、監督である庵野の現実のまんま。
島崎藤村か田山花袋もかくやのダダ漏れ状態です。
一方で表現や文体はと見れば、異化効果どころかラフ原レイアウトもあり、セルまでひっくり返す徹底ぶりで、正直
言って劇場でみたときは仰天しました。
ワタシでもここまではヤらなかった。
「庵野はけっしてバカではない」どころか、その表現に関する自己批評のありようから察するに、アニメという表現
形式への自意識の持ちようは、これは見事なものだと感心した記憶があります。
その一方で、物語に関してはまるで無頓着。
まさにステロタイプのオンパレードで、いつかどこかで見たもののコピーの連発。
キャラクターが口にする台詞のあれもこれも、決め処は全て私生活におけるあれこれの垂れ流し。
かくも奇怪な作品がなぜ成立するかといえば――要するに表現すべき内実、庵野という人間に固有のモチーフが
存在しないからであって、それ以上でもそれ以下でありません。
「テーマがないことがバレちゃった」という宮さん(編集者注:宮崎駿監督)の物言いは、その限りおいて全面的に
正しいことになります。
テーマも固有のモチーフも何もないけど、映画も映像表現も大好きで、制作意欲は人並み外れて強烈だとすれば、
演出すべきはディテールのみであり、その拠って立つところはステロタイプだろうが定番だろうがなんでもオッケイ。
人物描写に関しても同様で、まるでアムロの如きシンジ君の自閉症ぶりや、父親たるゲンドウとの確執など、感情移入
するほどのものでもなし、そもそも監督自身がカケラも信じちゃおりません。
演出能力は抜群だからその気になるでしょうが、騙されたいと思って見るぶんには十二分に機能しても、表現を
成立させるための方便に過ぎないから結末を引き伸ばすだけで、落とし所が想定されていないことは明らかですから、
これはドラマと呼ぶべきものではありません。
SF的な意味での設定は複雑に凝らしてあるものの、世界観は曖昧であり――テーマがないのだから曖昧でしかあり
得ない――世界観なしに映画は成立しないから、その内実の無さを文字通り「補完」すべく、作品の作品内における
再構築を繰り返すことで、映画としての無内容に代替させる。
『エヴァ』という作品がいくらでも継続できる――永遠に終結させられない、それがほとんど唯一の理由でもあります。
まあ、こう言ってしまえばそれで終わりであり、だからこそ継続して見る意欲を失ったわけなんですけど。
なにしろ、その映画の構造が判明した段階で鑑賞するという行為が完結してしまう性分なので。
いまさらドラマにもさしたる興味はないとすれば――その通りなのですが――いつも言っているように、あとは巧いか
下手かの差があるだけで、そのことに(観客としては)特に価値観も持たないので。
※この記事は、押井守氏のブロマガから一部抜粋したものです
ニコニコニュース(2012年12月1日(土)12時00分配信)
http://news.nicovideo.jp/watch/nw446903