■シャープな原画、人をひき付ける魅力…「伝説の人でした」
「頭(かしら)」。アニメーション作家の宮崎駿監督(68)は、その人をいつもこう呼んでいた。
アニメ史に残る数多くの作品に参加し、先月21日に心筋梗塞(こうそく)のため57歳で亡くなった
アニメーターの金田伊功さん。「風の谷のナウシカ」(昭和59年)から「もののけ姫」(平成9年)
まで6つの作品で仕事をともにし、アニメブームのシンボルだった伝説の人を、宮崎監督が振り返る。
「原画をいくつかのグループに分けてシーンごとに担当し、責任を持つというシステムを作ろうと思った
ときがあるんです。その一つのグループの原画頭(がしら)に金田さんになってもらったんですが、
そのシステムは実現しないで原画頭の頭(かしら)という言葉だけが残った。
結局、ぼくが頭と呼んだのは彼だけでした」
「天空の城ラピュタ」(昭和61年)のときだった。以来、宮崎監督の中で「頭」という呼び方が定着した。
宮崎監督が金田さんの名前を知ったのは、初監督作品「ルパン三世 カリオストロの城」(昭和54年)
が終わったころ。うまいと思っていたアニメーターたちが、「カナダ・イコウ」がすごいと話していた。
少しあとに、ある会合で本人の姿を見る機会に恵まれた。「お尻を振りながら踊っていて、あ、これは本物
だと(笑)。そういう官能性を持っている人で、底抜けの楽天性みたいなものが絵にもよく出ていました」
アニメでは、動画のもとになる原画を複数のアニメーターが担当する。「今までにないシャープなキレのいい
動きやポーズ、それと1枚の絵に何コマを割り振るのかというタイミング感覚が優れていた」と宮崎監督は言う。
金田さんの原画は、多くの若いアニメーターたちや、アニメーターを志す若者たちを引きつけた
。特に独創的な光の描写は、尊敬の念を込めて「金田光り」とも呼ばれた。時は昭和50年代、
アニメブームのまっただ中。「『宇宙戦艦ヤマト』とか、『銀河鉄道999』とか、劇場長編が商売で
成り立つんじゃないか、アニメーションで何か新しい地平が開けるんじゃないかという時期で、
アニメーターになりたい人間たちがわあっと出てきた。彼は、そのアニメブームのシンボルでした」
一方、演出の側からすれば、扱いやすい絵ではなかったという。「作品に合わせて自分のスタイルを変えよう
とかはできない人でした。頭の絵だけが浮いても仕方がないから、何とか良さを殺さずにと悩みました。
いつも格闘でした」
しかし、苦労の分だけ、「演出的には非常に大きなインパクトがあった」。宮崎監督が最も印象に残っている
例は、「となりのトトロ」(昭和63年)でお父さんと娘たちがお釜の風呂の中に一緒に入る場面だ。
「うぇー、ばっしゃーんって大騒ぎする原画が上がってきて、そこまでやるかって。あふれた水の処理で
ひどい目に遭いました(笑)。でも、こっちが考えた以上に愉快なシーンになっていますよね」。
その個性の引き受け方が分かったため、金田さんの描くものとは違う傾向の作品でも起用した。
自作に参加してもらいたかった理由はほかにもある。「職場が明るくなるんです。夜遅くまで仕事してると、
いつのまにか女の子たちが頭を囲んで、ぎゃははと笑いあっている。みんなから愛されていました」
私生活にまで立ち入るようなことはなかったが、宮崎監督の言葉の端々からは、金田さんへの強い思いが
痛切に伝わってくる。訃報(ふほう)を聞いたときは、さすがに半日動転していた。「愉快なアニメーター
たちが集まってやってたアニメブームはとうの昔に終わってるんですが、頭が逝って本当にそれが
終わったなって…。伝説の人なんです。僕はとても好きな人でした」
宮崎監督ら日本を代表するアニメ関係者らが発起人になった「金田伊功を送る会」は
今月30日夜、東京・杉並公会堂で開催される。
MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090814/tnr0908140816005-n1.htm http://sankei.jp.msn.com/photos/entertainments/entertainers/090814/tnr0908140816005-p1.jpg