【鉄道】それは鉄道員だから 水間鉄道

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1コロッケそばφ ★
貝塚駅を出発した2両編成の電車は、住宅の軒先をかすめるようにしてゆっくり進んだ。「カチカチカチ……」。
黒いかばんを提げた車掌さんが改札ばさみの音を響かせながら車内を回る。「こんなレトロな電車が
大阪にもあったんやね」。大阪市内から来たという大学生の女性2人がほほえんだ。

大阪府貝塚市北部の5.5キロを走る水間(みずま)鉄道は1926(大正15)年、厄よけ観音で知られる
水間寺の参拝客を運ぶために全線開業。70年代のピーク時には年間約400万人が利用した。車で寺へ向かう
人が多くなったいま、年間約220万人の通勤・通学客らが乗る都市型路線に姿を変えた。

そんな鉄道が存続の危機にさらされたのは数年前。バブル期の過剰な不動産投資で経営が悪化した。05年に
約258億円の負債を抱えて会社更生法の適用を申請した時、従業員の給料約3カ月分が未払いになっていた。

「妻と子どもに大変な思いをさせたが、鉄道にかかわる者として1本の運休も許されないという使命感で働いた」。
沿線で生まれ育ち、18歳で入社した副運輸長の中塚康宏さん(40)は振り返る。

支援に乗り出したのは、うどん店をチェーン展開するグルメ杵屋(本社・大阪市)。当時会長の椋本彦之
(むくもと・ひこゆき)さん(今年6月に72歳で死去)は貝塚に疎開した縁があった。
彼から再建の実務を託されたのは、一人の元鉄道マンだった。

■父の背を追い 娘は走る

無人駅にはクモの巣が張っていた。士気が低下しているのか、管理が行き届いていない。水間鉄道の再生を
頼まれた元南海電鉄社員の関西美津治(せきにし・みつじ)さん(80)は「これは難しいかも」と思った。

だが、有人駅の改札口では丁寧に客に対応する若手も目にした。「まじめな社員がいる現場なら希望はある」。
何よりも元鉄道マンとして、客の足が奪われるのは見過ごせないと決意した。

   ◇

1953(昭和28)年に南海に入社した関西さんは、駅のトイレ掃除から始まり、運転士、車掌、駅員、
関連会社の役員などを歴任。複数のフェリー会社の立て直しにも手を貸した。

そんな経験と手腕が、水間鉄道の株を買い取ったグルメ杵屋に評価された。「水間鉄道は整理するしかない」
と主張する債権者を説得。借金のほぼ全額を帳消しにしてもらい、会社更生法による一からの出直しに成功した。
05年、事業管財人補佐になり、翌年に社長就任を無報酬で引き受けた。

経営効率化のためには古いシステムを見直す開発部門の強化が重要だった。だが、外部から専門家を招くと
人件費が高くつく。関西さんは、長女でエンジニアの佳子さん(45)を誘った。

05年に入社した佳子さんは「スルッとKANSAIネットワーク」への参加を決めた実績などが認められ、
父の後を継いで今年5月、社長に就任した。自動列車停止装置の導入、クリスマス列車や大みそかの
深夜運行を発案。職員と一緒に駅前の放置自転車の撤去作業にも汗を流す。

当初は鉄道経営に興味がなく、2年間だけ手伝うつもりだった。だが、いつのまにか夢中になっていた。
「迷ったり弱気になったりすると、『経営を安定させ、利益追求だけでなく沿線の文化を伝え育てる鉄道に
しよう』という父の言葉を自分に言い聞かせる。まだ経営安定化が優先だけど、地域の良さを発信できる
鉄道にしていくのが私の夢です」

>>2へ続く

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