【規制論】児童ポルノ禁止:日本ユニセフが法改正求め要望書を与野党6党に提出 アニメなどの表現物も違法とするよう求める
頼藤和寛『人みな骨になるならば』 ―第2章 思い込みの由来― から引用
「きれいごと」に反対しにくい訳
いわゆる「きれいごと」についても、それを単に処世の方便として表明するだけの者から、
ほとんど額面通り真に受けている者までがいる。
たとえば地域の美化や発展のために駅前の地区整備などが必要になった場合、だれしも総
論としては反対しがたい。しかし、そのために自分の家屋や店舗を涙金で立ち退かねばなら
ないとすると、これは猛然と反対したくなる。こうした「総論賛成、各論反対」のように、
自分の利害がからむと掌を返したようにホンネを出してくるようなら、見苦しくはあっても
現実認識としてそれほど歪んではいないだろう。これに対して、総論が賛成なら各論につ
いても利害を度外視して賛成するのであれば首尾一貫するので潔いし見上げたものかもしれ
ないが、やせ我慢であったり理想主義に過ぎたりする。それぐらいなら両者とも、いっそ最
初から自分の利害を正直に打ち出して総論反対の旗幟を鮮明にすればいいのだが、それはし
づらいらしい。
なぜなら公益を前面に打ち出した「きれいごと」には反対しにくいからである。つまり極
言すれば「きれいごと」は言論上の統制や暴力に近い。このため、きれいごとを錦の御旗の
ように盾にとって相手を威圧したり何かを強制したりするたちの悪い正義派も少なくない。
しかし、だれもが表向き反対しにくいからといって、きれいごとが無条件にわれわれを縛
る超越的な規範なのではない。単に、個人がきれいごとに反対するとなんらかの社会的な不
利益を蒙ることがあるというだけのことである。つまりは、きれいごとのパワーといってもそ
の源は集団からの圧力にすぎない。これまた結局のところ、ヒト集団内部でのみ成立する
掟やルールの一種なのである。とはいうものの集団内部における強制力は備えているから、
それを振り回して自らを正当化したり周囲になんらかの影響力を及ぼそうとしたりする対人
操作を愛用する向きもいる。
概してタテマエもきれいごとも、額面通りに受け取れば私的な動機を含まないように見え
る。いや、むしろ私的な動機が前景に出ていないこと自体がタテマエやきれいごとである第
一の条件なのである。しかし、人間は物心ともに私的な動機なしで、何らかのメッセージを
熱心に発することはあり得ない。むしろタテマエやきれいごととして受け取られたとたんに、
その背後に私的な動機の伏在が疑われているのである。したがって、もしそれを聞く者に人
間知が備わっていれば、タテマエやきれいごとは最初から心理社会的な胡散臭さを漂わせて
いるものなのだ。
それでは、正論や道理といったものとタテマエ・きれいごとは見分けられるのだろうか。
少なくともメッセージの内容だけからでは判別困難、というより全く同一なのである。なぜ
なら、私的な動機を背後に潜ませつつ述べられる正論や道理こそがタテマエ・きれいごとだ
からである。ここでの私的な動機が本人に自覚されているかいないかは、さしあたり問題に
ならない。人間は老若男女を問わず自らを欺く達人だからだ。だからといって他人を欺く達
人とは限らない。かくして私的な動機というものは、彼の立場、利害、状況、経緯などから
第三者によって容易に推定されるものである。もし、心理学の出番があるとすれば、私的な動
機がもっぱら内面的な場合であろう。
われわれは経済的な、あるいは政治的な利害を粉飾し美化するためにのみタテマエ・きれ
いごとを活用するのではない。しばしば自己満足、自尊心、周囲からの評価を求めて正
論や道理を説く。こうした内的欲求はふつう私利私欲とは呼ばれないが、即物的な満足を求
めるのも主観的な満足を求めるのも私的な動機という点でかわりない。
気をつけなければならないのは、タテマエやきれいごとを語る者が自らそれを信じている
ほどには聞かされる者は信じないものだし、また周囲の面々に信じてもらえると期待するほ
どには信じてもらえないものだ、ということである。どんなに立派なことを雄弁に語ったと
しても、「耳のある者」が聞けば舞台裏はお見通しである。政治家の公約や私企業り社史の
内容を本気で信じるほどナイーブな現代人は、むしろ少数だろう。
もちろん自己陶酔は可能だし、相手が愚か者ばかりなら感動してもらえるかもしれないが、
いずれにしても空しい話ではある。