【野球】【根本陸夫伝】自ら作ったダイエーの初優勝を見届けずに逝った男 [転載禁止]©2ch.net
根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
証言者・石毛宏典(5)
1998年10月、ダイエー(現・ソフトバンク)の二軍監督を解任され退団した石毛宏典は、根本陸夫にうながされNHKに行くよう勧められた。
すでに根本の配慮で野球解説の仕事が用意されていたのだが、石毛はかつてコーチ留学をしたアメリカに再び行こうと考えていた。
そんな時、別の放送局から解説の話があり、つい石毛はかねてからの希望を口に出したのだったが……。
【根本陸夫伝】石毛宏典の退団を案じ、次の就職先を決めていた男
■「ひとりの人間が年間に食う米の量、わかるか?」
「オヤジさん、なんでNHKなんですか? オレ、フジテレビがいいんですけど」
「いいや、NHKだ」
「はあ」
「NHKはギャラが安いぞ、覚悟しとけ。イメージはいいかもわからん」
新しい仕事の話はそれで終わりではなかった。石毛がダイエーの二軍監督を務めている時、
九州エリアのNHKが『ザ・二軍 石毛の挑戦』と題して30分の番組を制作した。それを見ていたのが、兵庫・姫路にある新日本製鉄の関連会社の会長で、
もともと新日鉄と関わりが強く面識もあった根本に連絡が入った。日をあらためて、根本が石毛に尋ねた。
「お前、話できんのか?」
「話ってなんですか?」
「講演だよ」
「したことありません」
「そうだろうな。講演なんかないよな。実はな、お前が出たNHKの番組を見た人がお前を気に入ってくれて、『石毛に講演をしてもらいたい』と要請があった。やれ」
「オヤジはやったことあるの?」
「人前で話すなんて、オレだってねえよ」
「じゃあ、一緒にやろうよ」
「馬鹿野郎、お前ひとりでやれ。NHKはギャラ安いから、講演もしなきゃ食っていけないだろ。とにかく話せ。とりあえず、オレも一緒に行くから」
ふたりで姫路の会社に向かい、会長と社員100人ほどを前に、石毛は初めての講演を行なった。
番組で紹介された石毛自身の日記が台本になり、1時間、無事に話し通すことができた。
講演が終わると、あたかもテストするように聴いていた根本が石毛に言った。
「これでメシは食える。大丈夫じゃ」
そして、姫路から福岡に帰る新幹線の車中、ふと根本が話しかけた。何気ない話だったが、石毛は今も忘れられないという。
「急にオヤジが、『ひとりの人間が年間に食う米の量、わかるか?』って聞くんで、『ええ?』って言ったら、『60キロだ』と。
『人間なんて、そんなもんじゃ。大の大人が年間にそれぐらいの量しか食わんのじゃ。
それを金に換算しただけのものがあれば、メシは食える。メシ食えりゃ、死にゃあせんのだから』って。
僕は思わず『それって、おかずとかないんでしょ?』なんて聞いてしまいましたけど、つまり贅沢はするなってことです。
僕のこれからの生活を考えてそう言ったんだなと、後になってわかりました」
こうした根本の面倒見のよさは、数多くの野球人もしくはマスコミ関係者によって伝えられている。
しかし、これほどまでに根本自らが伴走するように相手に寄り添い、あらかじめ計画的にレールを敷いて、仕事の世話をしたケースはあったのだろうか。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150121-00010000-sportiva-base webスポルティーバ 1月21日(水)7時10分配信
2 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 08:00:55.26 ID:eupBo70g0
ゾンビ企業だったろ
プロ野球なんかに興味ない
元気ですよと見せかけるためだけに参加した
崇める必要なんで微塵もないよアホか
「それは僕にはわかりませんけど、とにかく心配してくれて、講演の道も作ってくれて……。
後々、(根本)隆子夫人にうかがってみると、オヤジは『石毛がいちばん心配じゃ』って言っていたらしいです。
『なんでかなぁ』って考えてみたんですけど、僕は誰に対しても根回しをしないで、言いたいことを言うタイプで、
いつもまず自分で決めて動いてきたからですかね」
石毛の仕事の方向性が決まった後、根本の身に大きな変化が起きた。
■ダイエーの初優勝を見届けることなく急逝
1998年12月初め、ダイエーの3選手による<サイン盗み疑惑>が新聞で報道されたのだ。
その後の球団の対応が稚拙で不可解だったため、当時の川島廣守コミッショナーはパ・リーグ特別調査委員会の設置を了承。
スパイ疑惑をかけられた3選手は潔白を主張したが、調査が進むにつれて状況は悪くなる一方だった。
年が明けて1999年1月18日、特別調査委員会は「疑惑を完全に払拭することはできない」
「疑惑の存在をうかがわせる心証は得られた」という文言を含む調査最終報告書を発表。
いわば“限りなくクロに近い灰色”と断定され、パ・リーグはダイエー球団社長と球団代表にペナルティーを科した。
そうして球団社長の辞任が決まると、新たに根本が球団社長に就任することが発表されたのだ。
立場上は球団専務の根本が社長に昇格した形になる。だが現実には、同年限りでフロントの第一線から退くことが決まっており、
いわば球団から外へ出かかっていた根本が、あらためてチームに“復帰”した形だった。
請われてダイエーに入団した根本だったが、次第に求心力を失っていた。
王貞治が監督に就任して以降、チームの成績は5位、6位、4位、3位と着実に上向いていたものの、
西武における根本の成果を知る周りの人間は、それでは満足しなかった。
まして、ダイエー本体の苦境もある中、選手獲得などで多額の資金を動かしていたこともあり、
満足しないどころか批判や反発も次第に大きくなっていった。
それでも根本は、表面的には何事もなかったように振舞ったが、現場にいた石毛の目には、西武時代とは違うオヤジの姿が映っていた。
「専務という肩書きをもらいながら、オヤジはだんだん本線から外されていました。
“辣腕”と言われてやってきた方が、球団の仕事をできないのは苦痛だったと思います。
それが、スパイ疑惑事件でフロント陣が辞めた。
それで再登板という形で球団社長になられたんですが……。
その年、チームはリーグ優勝、日本一を達成するのですが、オヤジは4月に亡くなったんですよね。
オヤジは常に、結果を出したいという思いがあったと思うんです。
選手としても、監督としても、フロントに入っても、その場、その場で野球人として結果を出したいと。
そういう面では、学生時代からずっと野球人として人生をまっとうした方だと思います」
球団社長として結果を出すべく、根本はすぐに事件の後始末に取り掛かった。
疑惑をかけられた3選手には一切ペナルティーを与えず、球団内では「スパイ行為はなかった」という意思統一を図り、マスコミにはすべて自らひとりで対応した。
球界にして参入してまだ10年ちょっとの企業ゆえの経験不足を補えるのは、根本しかいなかった。
一連の事態収拾ぶりを見た記者の中には、「選手獲りで見せた剛腕が、久々に振るわれた」と評する者もいた。
続いて2月に入るとフロントの改革に着手し、編成部からスカウト部を独立させた。
スカウト部は新人獲得に専念し、編成部は根本の直轄になり、外国人獲得とトレードを担当することになった。
当初、1999年のダイエーは外国人抜きで戦うはずだったが、王監督が投打ひとりずつの補強を求めた。
根本もかねてからその必要性を感じていたため、開幕後に外野手のメルビン・ニエベス、投手のロドニー・ペドラザを獲得。
このうちペドラザはクローザーとして活躍し優勝に大きく貢献したが、奇(く)しくも同投手が一軍登録された4月30日に根本は急逝する。
球団社長となって出した最高の結果を、自ら見ることはかなわなかった。
■「負ける喧嘩はするな」
「結果という意味で、僕が常々オヤジに言われたのは『負ける喧嘩はするな』ということです。
『我々はひとりで生きていかなきゃならない。だけど、そういう人間が意気がって、相手も知らずに喧嘩をして負けてしまうと、二度と現場に帰って来れねぇぞ。
メシも食えなくなるし、命も落とすぞ。だから、負ける喧嘩はするな』と。
僕はその言葉を、オリックスから監督要請を受けた時にふと思い出したんですよ」
2001年オフ、石毛はオリックスから監督就任の要請を受けた。
すでにイチローが抜けて1年が過ぎ、投打ともに戦力が下降していた。
「とても勝てそうにないな。これ、負ける喧嘩だよな」と思って根本の言葉を想起したわけだが、それでも石毛は引き受けた。
「いつかは監督をやりたかったし、いつかはオファーがあると思っていました。でも、西武にはもう帰れない。
堤義明オーナーの申し出を断って出た人間は、オーナーが元気なうちは帰れないと聞いていましたから……。
じゃあ、どこの球団でも話がある時にやろうと。
それが、縁もゆかりもないオリックスから要請があった。
これも自分に対するひとつの評価だと。オヤジから何度も言われていたことですし、やっと自分なりに意味がわかったんです」
この世に根本がいなくなっても、根本の言葉が石毛の中で生きて、理解とともに行動を起こさせた。
しかしながら現実は厳しく、2002年のオリックスは50勝87敗3分、勝率.365。首位から39ゲーム差も離されての最下位だった。
「案の定、勝てませんでした。3年契約でしたが、1年ちょっとでクビになりました。
その後、監督要請は来なかったんですけど、それはそれでいいだろうと。今度は、本当にやりたかった独立リーグの起ち上げができたんですから」
景気の悪化とともに企業の廃部が相次ぎ、社会人野球が衰退していく頃から、石毛は独立リーグ構想を抱いていた。
高校から上のレベルで野球を続けたい若者たちにとって、社会人に代わる受け皿のひとつになればと考えたのが始まりで、
2005年、四国アイランドリーグを発足させた。
その後、北信越、関西にもリーグができたが、地方に目を向けることは根本も以前から想い描いていて、それが石毛の構想につながったという。
「西武時代から外国人の獲得でオヤジが頼りにし、ダイエーでも専務付きとして支えた葛谷晨一(くずたに・しんいち/故人)さんという方がいらっしゃいました。
オヤジはこの葛谷さんと一緒によくアメリカに行っていて、マイナーや独立リーグの仕組みを頭に入れていたそうです。
そこから日本の二軍を変えなきゃと考えて、たとえば、イースタン6球団を北海道と東北に、ウエスタン6球団は九州に持っていくという発想を持っていたと、
葛谷さんから聞いたことがあります。
時を経て、僕が違った形で、独立リーグというものを地方へ持っていったわけです」
1992年、根本がまだ西武のフロントにいた時の話。ひとつの地方にチームが集結してリーグ戦を開催すれば直接経費が安く済み、
プロ野球の本拠地でない地域に生の野球を提供できる効果は計り知れない、と考えた。
さらにリーグ戦には1年間の期限でスポンサーを付け、なおかつ集結する地方も1年ごとに変えて、日本全国に広げていく。
これはあくまで、二軍で収益を得るための方策だったが、2004年の球界再編前後に一軍本拠地が北海道、東北へと広がった。
ある面では、根本の想い描いた通りになっている。
「オヤジの場合、誰よりも先を見て、野球界についても20年先まで見ていました。
むしろ、その発想をするのは普通のことだったと思うんです。
じゃあ、何が普通じゃなかったかといえば、先を見て、人間を作ってきたことだと思います。
僕もその人間のひとりかもわかりませんし、そうだとしても、決してまともに作られてないかもわかりません。
でも、伊東(勤)も秋山(幸二)も渡辺(久信)もそう、工藤(公康)も田辺(徳雄)も大久保(博元)も、
みんなオヤジの薫陶を受けたヤツらが現場に戻って、監督をやるようになっています。
コーチでは森(繁和)さんや辻(発彦)もいます」
指導者ということでは、石毛自身も監督を務めた後、小・中学生のための野球塾を開き、大学の客員教授としてスポーツビジネスの講義も行ない、
2014年からは高校野球の現場にも携わっている。
一箇所に留まらない仕事ぶりは、根本によって作られた石毛の、野球界全体に対する熱い思いが見えるようだ。
「今、僕がいろいろな場で指導できるのも、常にオヤジに進むべき道を示してもらってきたからです。
そして、道を示される時の言葉には必ず、『野球がちょっとぐらい上手くてなんぼのもんじゃい』という教訓が含まれていました。
そして、野球を通じていかに自己の人間形成をするかなんだと常に言われていました。
僕もその考えを伝え残していきたいですし、薫陶を受けたみんなにもそうあって欲しいなと、強く思いますね」
以上
根本さん株で穴あけて
ダイエーに移籍しなきゃならなかったんでしょ?
良く言えば、球界のフィクサー 悪く言えば、野球を食い物にするヤクザ
10 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 08:09:21.61 ID:eFR1R1wz0
これだけ可愛がった石毛がアレじゃ見る目ないんだなで終わってしまうぞこの連載
パンや麺類もよく食べるから米の年間消費量は50kgくらいだな
1ヵ月半で5kgくらいのペース
12 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 08:30:37.41 ID:2xDhGRzW0
GMとしては最強。
西武、ダイエー、そして何気に広島の黄金期の下地も作っている。
采配は評価低いがパワープレイを好むイメージ。
カズ山本を2番に持ってきたりね。
藤井ですら見届けたのに
14 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 08:32:31.74 ID:WZNDWg150
西武が案だけ強かったんだから別にダイエーなんてどうでもいいだろ
それはそうとこいつ監督としては無能だからな
広岡「根本さんで4位になれるチームなら私がやれば1年で日本一になれる」
事実そうなった
>>14 一方で広岡はGMの才能0だったからな わざわざアメリカ人監督
として連れてきたのにアメリカ流で指導したら「監督は現場で泥まみれ
になって選手を教えるのが仕事じゃないか」といって現場介入。
外人監督に「GMは選手を集めるのが仕事だろ 現場に口出すな」。
監督首にして日本人監督にしたらチームは低迷して広岡も解雇
石毛みたいなクズの総合商社みたいな奴まで面倒見るとは噂にたぐわぬ相当面倒見
がよかったんだな
17 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 09:01:24.28 ID:McOzpMkO0
>>11 一人暮らし、1ヶ月で20キロ消費する俺…
俺は見た目は極道だけど中身は紳士。潤ちゃん(関根潤三)のが見た目はアレだけど中身は極道だよ
根本語録
19 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 09:09:29.16 ID:2xDhGRzW0
>>18 ほざいた事を抜かすデブを一喝。
ピッチャー交代の時に足を踏みつける(w
遊びに行った衣笠を寮で待ち構え朝まで素振りさせる・・・・・
とにかく、フジテレビじゃなくて正解。
21 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 09:19:30.94 ID:iRTeuXUf0
こんな面倒見のいい人だったとは・・・
22 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 09:21:32.27 ID:FoldFnlC0
誰?
23 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 09:22:02.70 ID:nuq05XXb0
劣化した西武黄金時代の工藤、秋山、佐々木、石毛を引き抜いたり
松永を補強したんだよな。
99年に城島や松中や村松や井口が育って、やっと優勝できた。
ペドラザも大当たりだったな。
城島を工藤と同じ手法で獲得したり
日テレがこれでもかと長嶋の恋人ってキャンペーンしてた井口をかっさらっていったり
1001に金まみれと言われながらも柴原獲得したり
巨人が裏金おk時代に狙ってたの獲れなかったのって井口ぐらいじゃなかったか
>>24 井口は先輩の小久保がいたのも大きい
それも含めて計算してたのなら凄いな
27 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/21(水) 19:19:47.32 ID:qDBlE/Xi0
クラウンの監督だった時が一番よかった
>>23 佐々木誠は秋山幸二の交換相手だよw
佐々木も三拍子揃った好選手だったけどそれでも
秋山には大きく見劣りしたからなあ
森監督が秋山を評価してなかったからだけどよく
西武フロントもこんなトレードを認めたもんだよ
29 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/22(木) 10:33:33.01 ID:Ub6ojIQU0
>>28 1対1じゃなくて3対3のトレードだよ
秋山幸二 佐々木誠
渡辺智男 ⇔ 村田勝喜
内山智之 橋本武広
結果的には西武に移籍した選手の方が活躍した
30 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/22(木) 11:50:32.33 ID:WYnYP/U20
>>29 短期的に見れば西武だが長期的に見ればホークス。
秋山は成績以上にチームの空気、伝統を作り上げる為に福岡に行ったわけだし。
31 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/22(木) 11:55:03.53 ID:Ub6ojIQU0
>>30 そういう話じゃなくて秋山と佐々木のトレードを西武がよく認めたなって書き込みに対してのレスなんだけどね
秋山と佐々木だけのトレードではないし西武が獲得した選手たちは戦力になったからおかしくはなかったよってこと
面倒見良かったんだなぁ
33 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/01/22(木) 12:08:48.20 ID:Mm6vHDEG0
このトレードを後から語ると、当時の村田勝喜の評価が抜けるんだよなぁ。結果が出なかったのもあるけど。西武側は一番期待をしてたはず。今で言えば、オリの西とか、バンクの武田をとった感じだった。
>>30 両チームにとって最高のトレードじゃないか!
>>33 ダイエーとしては唯一計算出来る投手を放出しちゃった
ことになったからなあ
去年でいえば楽天が則本を放出したようなもんよ
ダイエー帝國の基礎を築いたのは田淵監督だよ
38 :
名無しさん@恐縮です@転載は禁止:
>>36 タブチのあの采配があったからこそ、中内が慌てて根本を招致した訳だからな
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