【音楽】佐村河内守さんのCDに解説を寄せた音楽評論家・長木誠司 「発売後の過熱ぶりには私も辟易した」

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46名無しさん@恐縮です
第11回現代日本オーケストラ名曲の夕べ
Posted on 12月 29, 2012 投稿者: Nobuyuki Kakigi

最後に演奏されたのは、佐村河内守が作曲した管弦楽のための「ヒロシマ」。今夜が世界初演とのことである。
彼の音楽は、広島に捧げられた交響曲が初演されて以来世評が高いが、正直なところ私はまったく理解できない。
たしかに、感覚的にはこれほど豊かな旋律性とリズムの推進力を兼ね備えた、かつ振幅の大きい作品を、一切の聴覚を失ったなかで
──佐村河内は、35歳の時に聴覚を失い、またそれ以前からずっと激しい頭痛に悩まされているとのことである──
構成しえたことには驚嘆を禁じえないし、そのことに対しては心からの敬意を払うべきだと思う。
しかし、調性音楽と無調音楽のあいだを行き来するような音楽を、なぜ今ここで書かなければならないのか、その必然性を音楽のなかから聴き取ることはできなかった。
聴きながら、例えばショスタコーヴィチとだいたい同時代の、また彼ほどの構成力をもたない作曲家が、社会主義リアリズムと
新古典主義のアマルガムのように、このような交響的作品を、標題音楽として書いたかもしれない、などと妙な想像を繰り広げてしまうくらい、実は退屈させられた。
静と動、強と弱の移り変わりも、ラプソディックとさえ言えないほど気まぐれに聞こえる。
管弦楽のトウッティとともにテューブラー・ベルが打ち鳴らされるクライマックスには、赤面を禁じえなかった。
こうした、恥ずかしいとしか言いようのない音楽を書く以前に、無調以後の音楽のテクスチュアを、そこにある論理を、心の耳で聴くことから始めてほしいと強く思わざるをえない。