【女子サッカー】なでしこジャパンの“スキンヘッド”望月聡コーチが明かす「決勝PK戦」の舞台ウラ

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1かばほ〜るφ ★
なでしこスキンヘッドが明かす「決勝PK戦」の舞台ウラ 2011.07.26

女子W杯で初優勝した「なでしこジャパン」。采配を振るう佐々木則夫監督(53)の隣でスキンヘッドの異彩を
放っていたのが、望月聡コーチ(47)だ。同監督とは大宮アルディージャの指導者時代から10年来の付き合い。
“腹心”が「世界一のメンタリティー」の一端を明かす。

−−体格やスピードで優る相手に対してもあきらめなかった日本。支えになっていたものは
「監督の方針は、多くの練習量をこなすスタイルです。大会中も日本が午前午後と練習をしているのに、他国は体を
休めていたこともよくあります。たくさん練習するのが良いか悪いかは別として、チームワーク、連携の点で
『私たちはこれだけやったんだから』という裏付けをとることができますよね」

−−メンタル面でいえば、沢選手が「表彰台の上でトロフィーを掲げるシーンまで鮮明に想像できていた」と話していた
「成功している選手は皆それぞれにイメージトレーニングをしていますね。今回は選手全員が『金メダルを取ろう』
という意識をはっきりさせていたのが大きかった。北京五輪でベスト4に入り『世界でベスト4になったんだ』という
精神的な下地もできたんでしょう」

−−試合前には震災の映像を見る時間も作ったそうですね
「普段からいいイメージ作りをするため、選手は世界のサッカーの試合をバスの車中やリラックスしている時、練習後
などに見ています。震災の映像は正直『少しやりすぎかな』というのはありましたけど、勝ち負けは関係なしに、
あきらめないでやるのを見せないといかんのではないか、という考え方から準々決勝あたりから試合前に見せていました」

続きは>>2-5あたりに

ZAKZAK http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20110726/soc1107261604003-n1.htm
なでしこの世界一を陰で支えた望月コーチのスキンヘッドは目立った(AP)
http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/images/20110726/soc1107261604003-p1.jpg
http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/images/20110726/soc1107261604003-p2.jpg
2かばほ〜るφ ★:2011/07/26(火) 18:13:22.04 ID:???0
>>1からの続き

−−決勝の米国戦はPK戦での決着となった
「練習と実際のPK戦は別物。散々走り回った後の疲れている状態で、大勢の観衆の前で蹴るわけですからプレッシャー
が違いますし、その状況での練習はできませんから、どうなるかはわかりませんでした」

−−PK戦直前のチームの心理状態は
「『PK戦の前に皆が笑顔になっていた』と指摘されます。アメリカは『リードしたのを2度追いつかれた』とすごく
嫌な感じがあったでしょう。我々はその逆。正直、アメリカやドイツには10回やって1回勝てるかどうか。PK戦では
アマチュアでもプロに勝てる時があり、こちらが有利になるというのは、皆が長くサッカーをやってきた中で感覚的に
わかっていた。前向きな気持ちから自然と出た笑みだったんですね」

−−監督は沢選手がPKを蹴る順番を最後に回したことを明かした
「沢が『私ダメ。(PKが)嫌』と言ったんですけど、周囲はそれを『かわいい』と思う雰囲気があったんですよ。
『この期に及んで何よ〜』という感じで。監督も『お前1点決めたしなあ。いいよ』と応じたものだから、これまた
場が和んだ。PKの順番を決める際には選手に聞く場合もありますが、皆気持ちが引っ込みがちになるところを永里が
『W杯の舞台でPKを蹴られるなんてことは一生でそうそうない。蹴ろう!』と言って、他の選手も気持ちが前に向いた。
その永里は外しましたけどね」

−−五輪アジア最終予選まで1カ月余り。残り時間は長いか短いか
「私たちスタッフ陣にとってはもう少し時間がほしいところですが、この勢いのまま行くのもいいかなという面も。
北朝鮮、中国、オーストラリア、韓国はそれぞれ新旧交代を進めて必死になってきますし、日本も含めてレベルは
似たりよったり。だからこそ(W杯を勝った)勢いというのは大事にしたい」
3かばほ〜るφ ★:2011/07/26(火) 18:13:45.28 ID:???0
■もちづき・さとる 1964年5月18日、滋賀県大津市生まれ。 守山高で高校選手権3位、大商大では全日本
大学サッカー選手権3連覇と活躍。87年に日本サッカーリーグ1部の日本鋼管に入社。88年に日本代表入りし、
国際Aマッチ7試合に出場。Jリーグでは浦和、京都でMF、FWとしてプレー。96年に現役引退後は京都、
神戸、大宮、浦和で指導者の道を歩み、2007年からびわこ成蹊スポーツ大学の准教授となり、サッカー部監督に。
08年から女子日本代表アシスタントコーチに就任し、佐々木則夫監督を支えている。