【音楽】ロシア人主治医が見たマイケル・ジャクソンの秘密「『肌を漂白する薬を常用している』と打ち明けたことがあった」(週刊朝日)★2
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自由席の観客φ ★:
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報じられた検視報告書によれば、マイケルの腰、太もも、肩に無数の注射の跡があり、
胃の内容物に食べ物は一切なく、消化途中の錠剤だけだった。
死亡時、マイケルの体重はわずか50キロ(身長175センチ)で、黒髪のウィッグ(かつら)
の下にはうぶ毛程度しかなかったという。
「体重50キロというのは私にとって驚くニュースではない。彼は何も食べないわけではなく、
ホテルではよくフルーツを食べていた。髪については全く気づかなかった。鼻が崩れたとか、
興味本位にいろいろ報じられたが、私が見た限り、マイケルの顔はきれいでした」
また、大きなサングラス、ベールやマスク、手袋などで肌を隠すように外出するマイケルの
奇妙な姿も頻繁に報じられたが、これにも理由があった。
「皮膚を移植し、漂白薬を常用していたマイケルの白っぽい皮膚は非常にもろく、外で
太陽の強い光を浴びると細胞に悪影響が出るそうです。マイケルはいつも太陽の光を
心配していた。日中あまり外出せず、ホテルに閉じこもっていたのは日光を恐れていた
ためです。ホテルの窓の下に集まったファンのために顔を出すのも短い時間だけでした」
一方で、マイケルの子どもたちのベビーシッターだった黒人女性(42)は英紙の取材に
「マイケルは『デメロール』など複数の強力な麻薬性鎮痛剤を毎日大量に服用し、食事を
ほとんど取らなかった」と答えている。アクショーノフ医師は、こうした極度の薬物依存症に
なった要因は、皮膚のトラブルだけでなく、“心の病”もあったと指摘する。
「ショーで神経を使うため慢性的な不眠症にかかっていて、強い睡眠剤をほしがった。だが、
マイケルが求める強い薬は日本では麻薬に指定されており、処方できなかった。私は
ホテルで、アスピリン程度のものしか渡さなかったが、恐らくその後、どんどん薬物依存が
進んだのでしょう」
マイケルとアクショーノフ医師との出会いは10年以上前にさかのぼる。マイケルは当時、
千代田区にあったキャピトル東急ホテルのスイートルームを定宿にしていたが、同ホテルの
支配人からインターナショナル・クリニックへ「マイケルが発熱したので診察してほしい」と
連絡が来たことがきっかけだった。(
>>3に続く)
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自由席の観客φ ★:2009/07/09(木) 12:41:36 ID:???0
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>>2の続き)
その後、マイケルがインターナショナル・クリニックを訪れようとした時はファンが押しかけ
大騒動になったという。
「仕事にならないので私がマイケルのホテルへ往診し、点滴しました。ホテルの部屋で
マイケルと食事をして親しくなり、それ以降は日本に来る時、いつも電話がかかってくる
ようになりました」
アクショーノフ医師は1924年に旧満州で生まれた。父親はロシア人。18歳で来日し、
早稲田、慈恵医科大学で学び、米国陸軍病院勤務などを経てクリニックを開業した。
英語は堪能で米国の薬にも詳しいうえ、日本語も話せる。(略)
アクショーノフ医師は、マイケルの子どもも診ていた。長男のプリンス(12)と長女パリス(11)
がまだ赤ちゃんだったころ、「子どもが熱を出したので診てほしい」と呼ばれたのだ。ホテルに
駆けつけると、黒人女性のベビーシッターが付き添っていたが、妻の姿は見かけなかった。
「子どもを見て非常に驚きました。2人とも青い目に白い肌の白人で、マイケルの実子じゃ
ないなと直感しました。だが、マイケルは本当に子煩悩だった。一晩中、寝ないで氷枕を
替えたりして介抱していた。おかげで疲れ果て、翌日のショーはキャンセルしていましたね。
マイケルは子どもの病気が日本で治療して非常によくなったと感謝してくれました。その後、
米国の自宅へ日本の薬を送ってほしいと頼まれ、送ったこともあります」
マイケルのステージは過酷で、来日公演後、よく脱水症状を起こしたという。
「マイケルが着ていた軍服のようなきらびやかなステージ衣装は重く、通気性が非常に
悪かった。そのうえ激しいダンスをするので、バケツで水を浴びたように汗だくになる。
体力の消耗が非常に激しく、体調をよく崩していた」
しかし、実際のステージでは、そんな体調の悪さを微塵も感じさせたことはなかった。
ロンドン公演を控え、激しいリハーサルを終えた直後に力尽きたマイケル。その死を悼み、
アクショーノフ医師は最後にこう語った。
「なぜ皮膚の色を変えたのか、マイケルに直接聞いたことはなかったけれど、無理に無理を
重ねた結果、命を縮めてしまった。偉大なる才能を失い、今はただ悲しいだけです」
(終わり)