【プロレス】三沢光晴さん急逝にWWEも哀悼の意 ジョニー・エースがコメント

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437名無しさん@恐縮です
TOEIC450点の俺が翻訳してみた。意訳超訳あるからご了承を。

CMパンクのコメント(1/3)

俺を深い悲しみに追いやった、他の何を差し置いても伝えなければならない知らせについて記そう。
俺が最も大好きで、影響を受け、そしてモチベーションを高めてくれたあるレスラーが逝ってしまった…
俺の脚は苦痛に打ちひしがれ、胸は痛み、そしてハートは灼けつくように熱い。でもこれは現実なんだ。

俺は昼の12時ごろに目が覚めて、よく利用しているフォーラムにログインして
スレッドをチェックしてたら、「三沢光晴 R.I.P.:1962-2009」という書き込みが眼に飛び込んできた。
それを見た時俺は、全身が凍り付いたように感じた。彼がリングの上で死ぬなんて考えもしなかったんだ。
俺はその時、彼はリング上じゃなくてショウが始まる前か後に倒れたんだと思っていた。
"On Strong Style Symphony and Death Valley Driver Video Review forums"には、彼が負傷したので
人工呼吸器が取り付けられ、蘇生を試みているという書き込みがあり、次には何とか蘇生出来たので病院に
搬送されたとの内容があった。それを見た皆は安堵の溜息を漏らしたんだけど、次の瞬間には
彼が広島の病院で亡くなったと言うニュースが書き込まれた。

それは俺にとっては、2005年の夏に橋本真也が亡くなった時よりも大きなニュースだった。
彼ら(NOAHの人達)は、彼を蘇生させるためにできる全ての事を行った。
信じられないくらい何度も、何度も心臓マッサージを施し続けた。彼に呼吸を取り戻させるために。
会場のファンの皆は、いつも彼が見せてくれた屈強さをまた示してくれるだろうと、「三沢!三沢!三沢!」と
コールを送り続けた。しかし残念なことに、それが叶う事は無かった。
438名無しさん@恐縮です:2009/06/17(水) 15:30:05 ID:HKE4ft6j0
CMパンクのコメント(2/3)

90年代に俺は、数え切れないほどの栄誉を勝ち取っていた三沢の(そして川田や小橋の)姿を、
当時買い漁っていたプロレス雑誌で見て「Wow!彼はなんてグレートな奴なんだ」と子供心に思っていた。
他にもプレステ1で出てた「WCW vs. The World(邦題:バーチャル・プロレスリング)」のゲームでも
彼が出てて熱狂したものだった。
"The Wrestler"の1998年5月号には、ブルース・プリチャード(当時のWWFのタレント・リレーション担当)が、
三沢光晴と川田利明の2人をWWFに呼び込みたがっていると言った内容まであった。俺は今、ちょうどその雑誌を
手にしているところだ。そこには川田をフェイスロックに捉えている三沢の写真が掲載されていて、
「WWFはレスラーの相互派遣に関して、全日本プロレスと協議に入った。」
「タレント・コーディネイターのブルース・プリチャード曰く『全日本プロレスには、三沢や川田と言った
 素晴らしいスターが何人もいる。是非彼らにWWFのリングに上がってもらいたい。』」
とも書かれている。言うまでも無く、それは決して実現される事は無かった。

2001年の夏の事だ。俺と友達は週末にはおきまりのゲーム屋に足を運ぶか、WWFのNo Mercy Tournamentを
見に行ったりしていた。
ある週末、前年に発売された「Virtual Pro Wrestling 2(Nintendo64版バーチャルプロレス2:王道継承)」を
持ってた奴からいろんな話を聞いた。三沢光晴、田上明、川田利明、ジャンボ鶴田、小橋健太、橋本真也、
俺が以前見ていた雑誌の時よりもさらに成長した姿の写真も見た。そしてゲームも驚くべき出来だった。
その友人は俺に、彼らのDVDをいくつか俺に貸してくれた。三沢の姿は、すぐに俺の心を撃ち抜いた。
そして機会があったら、是非彼の試合を見てみたいと望んだ。
三沢について語るのに、他の偉大なレスラーと比較することすら十分ではない。
彼は想像を絶するくらい素晴らしいレスラーだった。
しかし、2005年に俺がプロレスラーとしてハードに打ち込んでいた時に、そのチャンスは訪れたんだ。
439名無しさん@恐縮です:2009/06/17(水) 15:30:48 ID:HKE4ft6j0
CMパンクのコメント(3/3)

俺と友人はDVDを貸し借りする仲だった。ある時、友人が94年6月3日に行われた全日本プロレスの
三沢vs川田戦(三冠ヘビー級タイトルマッチ)のDVDを持っている事を知り、すぐにでもそれが
欲しいと思った。その頃から俺は、puroresu(=外国のファンが日本のスタイルのプロレスを
指す時の表現)の大ファンになったんだ。

伝えることがつらい。もし俺が彼のレスリングキャリアを調べたいと思うなら、彼に関するあらゆる
経歴を調べるのに、ここにずっと何時間も居るのだろうけど。
これはあくまでも個人的な、プロレスラー三沢光晴という部分に関しての意見だけど、
もし三沢の試合をハイライトでもいいから見てくれれば、きっと彼が尊敬に値するレスラーであることが
わかってくれると思う。Youtubeでベスト・ムーブのリストを見れば、少なくとも5回以上は
彼の姿を見ることが出来ると思う。
彼は昔、初代タイガーマスクの佐山聡の後を継いで2代目タイガーマスクとして活躍していたが、
1990年に自らマスクを脱ぎ、素顔の彼自身となった。
1990年6月8日にはMOTY(Modern of the year?)だったジャンボ鶴田を破り、全日本の新しい顔として
その時まで鶴田が背負っていた重圧を背負うことになった。悲しいことに、両方のことが
現在になってまた過ぎ去っていった。三沢は鶴田が残した灯火を受け取り、そしてその火は
決して燃え尽きることが無かった。

ここにイギリスで行われたNOAHのツアーでの、悲しい出来事について記そう。
ファンの一人が、三沢について語ってくれた内容だ。
NOAHのグリーティング・ミーティングの時、小橋の周囲には写真を一緒にとって欲しいファンで
一杯だったが、三沢は暗い影の当たる場所で、話しかける者も、写真をおねだりする者も無く
一人で座っていた。そのファンと友人は、流石に悪いと思ったのか、
英語で「一緒に写真を撮らせてもらってもいいですか?」とお願いをした。
英語があまり得意じゃない三沢は、彼らしい軽いしかめっ面をちょっとだけ見せたかと思うと、
次の瞬間には誇らしげに、ファンと友人に握手をして一緒に写真に納まった。
それが三沢と接したいくらかの出来事だったと。
440名無しさん@恐縮です:2009/06/17(水) 15:32:17 ID:HKE4ft6j0
CMパンクのコメント(ラスト)

三沢は、若い選手の認めるべきところはちゃんと認めてくれるベテラン選手だった。
多くの人々が言うように、2006年12月10日から2008年3月1日までの間は、(GHC)王者として君臨した
彼にとっての最後の期間だった。三沢は、1990年に彼が鶴田から受け取った灯火を森嶋猛に
引き継がせ、彼は一歩退くつもりだったのだろう。
彼は、他の何人かのベテラン選手のように名誉欲が強い人物ではなかった。
彼は、何がビジネスにとって最良で、若い選手がやりたいようにやらせることができるかを
知っていた。俺を含めて多くの人物が、それが彼の大きなラストランであることを知っていた。
しかし、その結末がこのような形で訪れるとは誰も知る由は無かった。
今、彼の人生とレスリングキャリアの灯火は燃え尽くされた。そしてその事は、本当に大きな損失だ。

Arigato、三沢さん。