【テレビ】森進一が9日放送のTBS「中居正広の金曜日のスマたちへ」で波乱万丈の半生を振り返る…「おふくろさん」も熱唱

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848名無しさん@恐縮です
< 川内康範は函館市の貧しい寺に生まれ、小学校を出て炭鉱などで働き上京した。売血もしながら生活していた頃を
著書 『生涯助ッ人(集英社)』 で回想している。

手術の血液が足りない患者に血を提供し、家族から5円、7円の謝礼をもらう。ある日採血を終え、
病院の一室で体を休めていると隣屋でその家族の相談する声が聞こえた。
「お礼をするお金がないよ、どうしよう…」

ふと故郷にいる母親の顔が浮かんだ。寝る布団まで質に入れる暮らしの中で、
寺に集まる供物を路上生活者などにいつも分かち与えていた人である。
川内さんは、足音がしないように下駄を胸に抱き、はだしで廊下を走って病院を去ったという。>

「無償の愛の大切さを教えてくれた精神的骨格」(川内談)である母親をモデルに『おふくろさん』を書き上げた。
その思い入れのある歌詞、母の教えを守ってきたという内容を、森は勝手にダメ息子が母親に詫びる内容に書き換えた。
母への思い、「生涯の指針となった母の教えを守ってきた自分」を川内は踏みにじられたと思ったという

「おふくろは、僕らを支えてくれた菩薩のような人。精神的な骨格だった…」  川内康範



<森進一が渡辺プロから独立し、あらゆる媒体から干された時も、 川内は森の為にNHKには出演できるよう取り付けた。
渡辺プロからのその他の嫌がらせからも森を守り、スキャンダルを書かれた時にも川内は森をかばっていた。

2002年、川内康範の親友の作曲家、曽根幸明(そねこうめい)が脳梗塞で倒れ、川内が見舞いに訪れて「曲を書くんだ」と激励。
曽根は左半身不随の身で渾身の1曲を書き上げ、 その曲に康範が作詞をし、
曽根とは30年来の知り合いである森のところに直接向かい、 「曽根の傘になってやってくれないか」 と
森にこの曲を歌ってくれるように頼んだ。 しかし森は曲も見もせずに冷たくあしらい、この曲は結局世に出る事が無かった。