【週刊現代】 被害女性激白 今田耕司・宮迫博之・山下しげのり・入江慎也たちによる“恐怖のホームパーティ”★31
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名無しさん@恐縮です:
吉本と暴力団との黒い関係
醜聞も少なくない。
戦前の初代社長吉本せいの頃より山口組と組んで嫌がる売れっ子芸人を契約させたり、地上げや興行を行ってきた。新興演芸発足に
伴う引き抜き事件の際には、かなりの極道が動いたという。
山口登(山口組二代目組長)は、初代社長・吉本せいの依頼を受け、吉本興業の東京進出に尽力した。
1940年、山口登は人気浪曲師・広沢虎造(映画興行権を吉本興業が所有)の興行トラブルから、下関の籠寅組・保良浅之助と対立。
山口登は、東京浅草で籠寅組幹部と話し合いを持ったが、籠寅組に襲われて重傷を負った。
余談ながら、山口登は、この籠寅組に東京浅草で襲われた時に受けた傷がもとで、2年後死亡した。
戦後も吉本興業は力道山などのプロレス興行を手掛け、田岡一雄(山口組三代目組長)や町井久之(東声会会長)と親交があった。
田岡一雄は美空ひばり等の興行を仕切っていた事で知られる神戸芸能社を率いており、同じ関西の吉本興業との関係は当然すぎて、
当時は誰も問題視しなかったのであろう。
1968年1月11日には、吉本興業社長・林正之助が田岡と組んでレコード会社を乗っ取った容疑で兵庫県警に逮捕されている。
当時の日本経済新聞によると「わしが田岡組長に電話したら山口組組員300名が駆けつけて血の雨が降るぞ!」と脅迫したという。
毎日新聞によると「食品会社、レコード会社から千二百万円相当の株を脅し取った」と書かれている。
週刊文春によると「林正之助は山口組の準構成員であった」(企業舎弟)と書かれており、林正之助は田岡の葬儀にも出席し棺を担いでいる。