【神奈】「………」
ぱたり。
【柳也】「三度目も同じかっ!」
【裏葉】「柳也さま、手ぬるいですわ」
【柳也】「どぐわあああっ!」
【裏葉】「しっ、お声が高い」
【柳也】「裏葉、お前いつからそこにいたっ?」
【裏葉】「ほっぺたをむにっとおつまみになったあたりから」
【柳也】「俺が迎えに行くまで待ってろと言ったろ?」
【裏葉】「そろそろ刻限かと思いまして」
【裏葉】「それに、神奈さまおひとりでは着付けに手間がかかります」
【柳也】「言われてみればそうだな」
この期におよんでまだ眠り呆けている神奈を見下ろす。
【柳也】「とりあえず、こいつを起こしてからだ」
【裏葉】「奥の手がございます」
【柳也】「…どうすればいいんだ?」
裏葉は意味ありげに頬笑むと、神奈の頭の下にそっと両手をさし入れた。
ごいんっ。
鈍い音をたてて、神奈の頭が床にめりこんだ。
【神奈】「…痛いぞ。なにをするか」
枕を抜き取っただけだが、効果は絶大だった。
【裏葉】「神奈さまにあらせられましては、今朝もご機嫌うるわしゅう…」
【神奈】「これがうるわしい機嫌に見えるか?」
【裏葉】「はあ」
【神奈】「まったく、もうすこしやさしく起こせぬのか」
【裏葉】「では、次からは力の加減を工夫いたしまして…」
【神奈】「枕を抜くのをやめろと申しておるのだっ」
【柳也】「掛け合いならあとでいくらでも聞いてやるから、早く支度しろ」
ぶつぶつ不平をこぼしながらも、神奈は素直に用意をはじめた。
その手がとまり、俺をにらみつける。
【神奈】「…おまえはそこにいる気か?」
【柳也】「あたりまえだ」
【神奈】「余がこれからなにをするかわかっておるのか?」
薄衣の袖をばたばたと振りながら詰め寄る。
【柳也】「着替えだろ。見ててやるから早くしろ」
【神奈】「………」
げしっ。
何か硬い物が飛んできて、俺の脳天を直撃した。
【柳也】「〜〜〜っ」
かなり本気で痛い。
額をさすりながら見ると、神奈の枕だった。
【柳也】「今、角がぶつかったぞ。ここんとこの角がげしっと」
【神奈】「出ていけ、この痴れ者がっ!」
人影がないのを確認してから、三人で雨の中に歩みでた。
物音を立てないよう、小走りで壁ぎわに寄る。
神奈と裏葉も見様見真似で続く。
二人とも雨をいとわないのは、俺としても心強い。
高く組まれた板塀を見上げながら、神奈が言った。
【神奈】「これをどのように越えるつもりなのだ?」
【柳也】「それぐらいは考えてあるさ」
目印をつけておいた所に、慎重に指をかける。
ぱきりと音を立て、一枚の羽目板が簡単に外れた。
【裏葉】「いつの間にこのような細工を?」
【柳也】「かなり前から準備しておいた。いつでも逃げられるように」
【神奈】「職務熱心なことよの」
【柳也】「ほっとけ」
板塀の向こうは深い山だ。
背の高い藪(やぶ)が、水気を含んだ闇とからみあっている。
【柳也】「神奈、先に出ろ。段があるから気をつけろよ」
段といっても二尺足らずだが、地面の具合はほとんどわからない。
【神奈】「これしき大したことはない。馬鹿にするでないぞ」
神奈がいきおいよく飛び降りた。
がさがさと藪が音を立て、神奈の姿を隠した。
【柳也】「裏葉、行け」
裏葉が穴の前に立った。
闇を流したような行く手の様子に、一瞬ためらう。
【柳也】「急げ」
【裏葉】「はい」
裏葉が向こうへと飛び降りた。
それから俺は、板塀を元通りに直した。
すこし離れた塀際にある立ち木をよじ登った。
音を立てないように注意して、塀ごしの闇に身をおどらせた。
背丈ほどの藪にはばまれ、いきなり視界がきかなくなった。
【神奈】「…猿(ましら)のようであったぞ」
神奈の声が、見たままの感想を伝えた。
【柳也】「ほかに言い方はないのか?」
【神奈】「ほめておるのだ。喜ぶがよい」
【柳也】「そりゃどうも」
適当に答えながら、腰の太刀をたしかめる。
【柳也】「ここからしばらく道がない。足下に気をつけろ」
【神奈】「これしきのところ、かるく踏み越え…うわっ」
…びちゃっ。
言っているそばから転んだらしい。
【裏葉】「あらあら。ご無事でございますか?」
【神奈】「これが無事に見えるか?」
【裏葉】「見えません、こうも暗いと」
【裏葉】「表着が汚れていなければいいのですが…」
【神奈】「…おまえは主より衣が大切か」
【裏葉】「あらもうこんなにびしょびしょに」
【神奈】「こらっ。妙なところを手探りするでないっ」
【裏葉】「神奈さまは悪戯がすぎます。今からこれでは先がもちませんわ」
【神奈】「だからさわるでないというに」
【裏葉】「ああやっぱり。袴もこんなに濡らして、はしたない」
【神奈】「やめい。くっ、くすぐったいではないか」
【裏葉】「神奈さまがそんなにお動きになるからでございます」
【神奈】「うくっ…もうやめろと申すに…くくくふっ」
【裏葉】「えいえいっ」
【神奈】「くっ…ふはっ…やめ…っはあっ」
【柳也】「…袴の裾を上げろ。裏葉もだ」
【裏葉】「まあ。二人一緒になんて柳也さまったらいやらしい」
【神奈】「まったく、鬼畜も同然よの」
【柳也】「…意味がわかって言ってるのか、おまえは」
すこしでも通りやすいよう草を左右に開き、ひたすらに斜面を下る。
そのあとに神奈が続く。
後尾(しんがり)は裏葉が受け持った。
半刻ほど歩いただろうか。
足下が登り坂にかわった。
社殿があった山から、別の山稜に移ったのだ。
うしろを振り返ると、神奈がじりじりと遅れだしていた。
水をふくんだ装束が重いのだろう。
うっとおしそうに、全身をひきずっている。
やがて、斜面から尾根筋に出た。
濡れた木々の間に、道らしきものがぼうっと浮かびあがっている。
猟師や樵(きこり)たちがのこした踏み跡だった。
【柳也】「ここからはすこしは楽だぞ」
神奈をはげますように言ったが、返事はなかった。
【柳也】「すこし休むか?」
【神奈】「…どうということはない。はように、進まぬか」
言葉とはうらはらに、疲労の色が濃い。
俺は頭上に視線をやった。
木々が枝をからませる向こうから、雨は絶え間なく降り続いている。
深い山中ということもあり、辺りの闇はねっとりと濃い。
その時だった。
【裏葉】「柳也さま」
裏葉が早口で呼びかけてきた。
【裏葉】「だれかが近くにいます」
一応様子をうかがってみるが、それらしき気配はない。
【柳也】「雨音だよ。心配ない…」
言い捨てかけて、俺もそれに気づいた。
木々の葉を通して降る雨音の向こう。
何か異質な音がかすかに混じっている。
【柳也】「頭を低くして、物音を立てるな」
【神奈】「追っ手か?」
【柳也】「静かにしてろ」
辺りを見回そうとした神奈の頭をあわてておさえる。
三人で息を殺し、ただじっと身をひそめる。
濡れた林間に雨音だけがふくらんでいく。
やがて、それは訪れた。
五、六人分ほどの足音が、道のない斜面を整然と下ってくる。
革と木板が擦れあう音さりさりという音から、具足をまとっているとわかる。
社殿からの追っ手だろうか?
それにしては早すぎるし、現れる方向が逆だ。
足音はすこし離れたところを通り過ぎ、気づかれることはなかった。
【柳也】「…動いていいぞ」
【神奈】「ふう。厄介なことよの」
軽口を言うが、舌の端にかすかな震えが覗いている。
【柳也】「よく黙っていられたな」
【神奈】「たかが足音であろ。何を取り乱すことがある?」
【裏葉】「山を下っていきましたね」
溜めていた息を吐き出しながら、裏葉が言った。
【柳也】「社の者たちではなかったな」
【裏葉】「なぜおわかりに?」
【柳也】「こんな山中で乱れずに行軍(かちだち)できるような奴らは、俺の部下にはいなかった」
俺の目が確かなら、さっきの兵たちは相当に場数を踏んでいる。
前触れなく出くわしていたら、やっかいなことになっていただろう。
そして、彼らが目指す場所はひとつしかありえなかった。
【裏葉】「どういうことでございましょう?」
【柳也】「俺が案じていたより、一晩早く事が起こったらしい」
裏葉が訊ね返してくる前に、俺は立ちあがった。
【柳也】「行くぞ」
休んで元気になったのか、荷のない神奈が真っ先に歩き出す。
【神奈】「はようせい。置いていくぞ」
【柳也】「そっちは元来た方なんだが」
【神奈】「…おっ、おぬしは冗談もわからんのか」
必死で言いつくろうが、かなり苦しい。
【神奈】「もちろんこちらだ。では行くぞっ」
くるりと方向を変えようとして、神奈が立ち止まった。
木々の幹を通して見える遠景に、一心に視線をそそいでいる。
【神奈】「柳也どの、あれは…」
神奈が指さしたその先。
黒々とした山肌の中に、炭火のように赤い光が見えた。
【柳也】「あのあたりには社殿以外に建物はない」
【神奈】「………」
神奈はただ、だまって光を見つめていた。
一生抜け出せないと思っていた檻(おり)の外に、神奈は立っている。
どんな心持ちになるものか、俺には見当もつかなかった。
【裏葉】「もうこのような遠くまで来たのですね」
俺は何も答えなかった。
光はだんだん強くなり、今はまるで野焼きのように赤々と照り映えている。
胸の内に苦いものがせり上がってくるのを感じた。
やがて、裏葉も違和感に気づいた。
【裏葉】「篝火(かがりび)を焚いているのでしょうか?」
【柳也】「篝火だけではあそこまで明るくならない」
【柳也】「燃えているんだ、社殿が」
神奈と裏葉が息を飲んだのがわかった。
【神奈】「たわけたことを申すでない!」
神奈が叫んだ。
しかし、俺の言葉が嘘ではないことは目前の光景が物語っていた。
恐らく社殿全体に火が回ったのだろう。
吹きあげる炎と煙が、山肌の一角を赤黒く染めあげていた。
【神奈】「それでは、社の者どもは…」
神奈がつぶやくように言った。
やっぱりAIRはいいなぁ
【柳也】「逃げ出してるさ。俺たちみたいにな」
答えたが、それは嘘だ。
さっき山を下っていった兵士たちは、社殿から逃げる者を待ち伏せるための隊だろう。
そこまで念入りに包囲するのは、事情を知る者を皆殺しにするため以外考えられない。
社殿の者たちは、もともと使い捨てにされる手筈だったのだ。
そう考えれば、すべての辻褄が合う。
【神奈】「そうか。みな、首尾よく逃げ出しているであろうな」
自分を無理矢理納得させるように、神奈が言った。
【裏葉】「なぜこのようなことを?」
裏葉の声音もかつてなかったほどに硬い。
【柳也】「社でなにが起こったのか、知られたくないんだろうな」
【神奈】「なにゆえにか?」
【柳也】「俺にもわからない」
そう答えるしかなかった。
どんな秘密があるにせよ、俺たちが取るべき道はひとつだった。
【柳也】「行くぞ」
【裏葉】「神奈さま、まいりましょう」
神奈はまだ社殿に見入っていた。
【裏葉】「神奈さま…」
【神奈】「今行く」
瞳から炎を振りはらい、俺の背中に続いた。
山中を一刻ほど歩いたころ。
行く手から、雨とはちがう水音が響いてきた。
ざああああ…
渓谷だった。
雨のせいでかなり増水していて、向こう岸には渡れそうになかった。
かと言って、引き返すわけにもいかない。
【裏葉】「どういたします?」
【柳也】「沢にそって進むしかないな。行くぞ」
俺が登りはじめると、裏葉と神奈も無言で続いた。
沢沿いでは濡れた岩が邪魔をし、軽々とはいかない。
まず神奈が遅れだし、続いて裏葉も遅れだす。
【柳也】「がんばれ。ここを越えれば楽になる」
呼びかけても返事はかえってこない。
神奈も裏葉も、ただ黙々と足を動かしている。
このまま沢沿いを進めば、いずれ神奈たちの体力が続かなくなる。
いずれ追いつかれる。
問題はそれから先だった。
社殿を襲った連中の目的は、まちがいなく神奈備命にある。
社殿を陥落させたあと、奴らは神奈備命をどのように処遇するつもりだったのか?
手あつく保護するつもりなのか、生け捕りにするつもりなのか。
それとも…
【裏葉】「柳也さま」
我に返ると、裏葉が俺のとなりまで登っていた。
【裏葉】「今、灯かりが見えました」
半身をねじるようにして、背後を指さす。
木々の幹を通して、松明(たいまつ)の火がちろちろと見え隠れしている。
【裏葉】「あちらにも」
1000狙うしかない!
【神奈】「向こうにも見えるぞ」
神奈は逆の山肌を指していた。
真っ黒な斜面のそこかしこに松明の光が散りばめられ、星のように見えた。
【柳也】「三十…いや、四十人はいるな」
松明をかかげて大勢で追ってくるのは、こちらが反撃するとは思っていない証拠だ。
つけいる隙があるとすれば、そこだった。
俺が1000だろ
【柳也】「神奈、おまえはよほど人気があるんだな」
【神奈】「そんな人気など、おぬしにくれてやるわ」
苦しい息を整えながら、さも迷惑そうに言う。
【柳也】「なるほど、それがいいかもしれないな」
【神奈】「どういう意味か?」
それには答えず、俺は神奈に正面から向きなおった。
【柳也】「俺の言葉通りにすれば必ず生き残る」
【柳也】「…とりあえず、今はそう信じといてくれ」
【神奈】「そのようなことはもっと頼もしげに言わぬか」
【柳也】「根が正直なんでな」
【裏葉】「どうすればよろしいのでしょう?」
【柳也】「なにがあってもここを動くな」
予想していなかった答えなのだろう。神奈と裏葉が絶句した。
【柳也】「二人でその辺に座って、のんびりしていればいい」
【柳也】「できるだけ音を立てずにできればなおいい」
俺は事もなげに付け加えたが、それには理由がある。
こんな状況でじっと動かずにいるとしたら、その恐ろしさは想像を絶する。
逃げ回っている方が、はるかに気が楽なのだ。
こんな状況でも1000を狙ってみる。
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