私が初めて三島由紀夫を町で見かけたのは中学三年生の夏。(中略)
友達と三人でアイスクリームを食べながら歩いていたら、前方から絶対に見覚えのある人が歩いてきた。
「あっ、ほらあの人、三島由紀夫だよ!」と友だちが興奮気味に叫んだ。シーっと人差し指を唇に当てたものの、
私の胸はドキドキと高鳴った。私たちが興奮した理由は三島由紀夫の大ファンだったからというわけではなく、
この年の四月に封切られたセンセーショナルな映画『憂国』をすでに観ていたせいだった。(中略)
忘れようにも忘れられない顔の三島由紀夫が、なんとこの下田に突然現れて前方から歩いてくる、なんて。
興奮を抑え切れない私たちに、黒いサングラスの三島氏は唇の片側の端を少し上げるようなスマイルを浮かべながら、
私たちの横を通りすぎた。あのときの胸のときめきを私はずっと覚えている。
当時はマスコミをにぎわす有名な作家として中学生にもよく知られていたので、その姿をまざまざと見た感激も
あったけれど、それとは別の、なにか宇宙人的な、硬い静かなオーラが一瞬放たれて私の中にスッと入ってきた
ような感覚があった。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
私たちは、サインしてくださいと言いそびれたし、それを言うには映画の印象が強烈すぎたのだ。誰かが
「後つけちゃおうか」と言い出した。キュッとしまったお尻、なんとなく親近感をおぼえる小柄な後ろ姿は
後をつけるには最適の口実だった。
あの日の三島さんは、ちょっとメッシュがかった黒いシャツに細身の白のトラウザーと白い靴を履いていた。
強い日差しの中でその白さが目にしみるようだった。(中略)
三島さんは宇宙人的オーラを発散させながら一メートル四方に入れない近づきがたい雰囲気を漂わせていて、
だからこそ私たち中学生に、もっと近づきたい、追っかけてみたいという気にさせたのかもしれない。『憂国』の
主人公を追っかけたいし、何より私たちはヒマをもて余していたのだった。(中略)三島さんは脇見もせずに、
機械的にカツカツとした足どりでまっすぐに背を伸ばして歩いている。
大工町のゆるい坂を上り大浦の切り通しと呼ばれる、江戸期に船を取り調べるお番所があった方角に向かってゆく。
その先は海だ。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
(中略)「そういえば前に見た写真もスゴかったよね。ロープでぐるぐる巻きにされてすごい形相してるやつ」…
(中略)(写真集『薔薇刑』を)私たちは図書館で見ていた。その表情から、痛めつけられながらもどこか
それが好きというオーラを私たち中学生は感じ取ったのだろう。
「よし、三島由紀夫をおそっちゃおう!」という突拍子もないアイディアが生まれてしまった。
(中略)私たちは忍者のように追っていった。でもいったいどこまでゆくのだろう。
鍋田浜手前のトンネルに入ったので少し距離をあけた、見つかったら大変。ドキドキしてきた。私たちがトンネルに
入ったとき、三島さんはちょうど東急ホテルのプールへの上り道を登ろうとしていた。
そのときだった。急に三島さんが私たちの方を振り向いた。そして黒めがねを上に上げてアッカンベーをしたのだ!
キャッと声を上げて私たちは後ずさりした。要するに、ずっとお見通しだったわけだ。中学生は簡単に遊ばれて
しまった。
三島さんの目はやさしく笑っていた。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
(中略)
昭和45年7月7日のサンケイ新聞に掲載された「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」は三島さんの
遺書としてたびたび引用される。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまう
のではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」
1980年代の経済バブルを見事に三島さんは言い当てた。現在の日本はというと、コロコロと世界に類を
見ない早さで首相がかわる不安定な「自信のない国」になっている。デモもクーデターも若者の反抗もなし、
平和ボケは極まっている。
私は、いまこそ、三島由紀夫の死の意味を考えるべきだと思う。その死は美とエロティシズムに導かれたもので
あったとしても、大局的には、アメリカに支配された「日本という恋人」に向かっての死を懸けたメッセージ
だったのだ。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
切腹はあの日の日本人の意識を変えさせるくらいの衝撃であり、あれくらいの憤怒を示さなければ、私たちは、
本来、日本人のもっている魂に気づかない、と思ったことだろう。実際その効力はジワジワと年月を超えて
私たちの脳内に浸透している。日本を愛する心について真剣に考えたい。
犬死にと笑われてもいい。五十年後の日本人が理解してくれれば……。
私は、市ヶ谷での「檄文」を三島由紀夫の最後の叫びとして素直に評価したい。ヤジと怒号の中で「男一匹が
命を懸けて訴えているんだぞ」とバルコニーから叫んだ言葉を信じる。三島由紀夫の「本気」を信じる。なぜなら、
私がある鑑識の方から見せてもらった事件直後の写真には、「本気」以外の何物も写っていなかったからだ。
凄惨な場面ではあったけれどそこにはなんともいえない清潔感があった。三島さんの顔は少年のように白く
清らかで安らかだった。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
三島さんはやりきった! そう思うと不思議なことに晴れ晴れとした気持ちが湧いてきた。これが「大きな仕事を
するので来年は来られません」という意味だったのだ。
今年も三島由紀夫の来た夏が巡ってきた。
私はいつも思い出す。三島さんの愛した下田の夏のさらっとした風を。どこかやさしげな直射日光を。手を挙げて
「また来ましたよぉ」と呼びかけながらお店に入ってくるまぶしい笑顔を。肉体が発していた不思議なオーラを。
「あなたは、なーんにも心配することはないんですよ。のびのびとおやりなさい」「遊びにいらっしゃいね」
という声のトーンを。
四十年以上も私の中に住みつづける三島さんは、私の父のようであり、兄のようであり、演劇部の先生であり、
とびっきりステキな人であった。でも、いまの私の気持ちを言おう。
長い年月を過ぎて三島さんの姉貴のような年になった私にとって、彼は、私にアッカンベーをするかわいい弟に
なったのだ。永遠に頭の上がらない弟に。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
人は、自分で自分を制するのが、一番難しい。
他人の欠点は、よく見えるが自分には甘い。他人にやさしく、自分に厳しいという人はなかなかいませんが、
先生は、そのどちらでもないです。
全ての事において他人にも厳しいが、自分にも厳しかった。
時間の使い方も、普通の人とは違っていました。これ程までに時間を大切にして生きてきた人にこれまで会った事が
ありません。
当時、四十を過ぎていた先生は、「楯の会」の二十代の若者に囲まれて、いつも元気でうれしそうでした。
大きな口を開けて、大きな声で笑い、瞳はつねにキラキラ輝いていました。筋肉いっぱいの腕を大きく広げ、
ついでに自慢の胸毛を見せながら、身体全体で、おしゃべりしていました。
それは、それは、いつでも、とても楽しそうに……。
ところが、どんなに騒いでいても、どんなに楽しそうであっても、自分で決めた時間になると、まるで今までの
ことが無かったかのように、ぴたっと人が変わって別人になる。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
やさしい瞳から、すべてを射るような厳しい目に一瞬にして変わる。時間をスパッと切ってしまう。
もう、そこには、誰も入れない。誰も寄せ付けない。
多くの人は時間に引きずられて、もう少し……などと時間に負けてしまうのに、先生は刀で竹を割るように
時間を切る。
何と、まぶしく男らしく映ったことか。
あの澄んだ瞳、遥か遠くに焦点があるような力強い不思議な瞳を持つ人に、私は、その後、今もって出会ったことが
ありません。
先生は、真剣に生きていらした。純粋に。ひたむきに。
まさに一瞬、一瞬を生きることを楽しんでいるかのようでした。
先生にとっては、一時、一時が美しい文学であり、人生そのものが一編の小説であったのかもしれません。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
(中略)
昭和44年8月の暑い夏の日、持丸との婚約のご挨拶のため、馬込の三島先生のお宅を訪問しました。
先生はにこにこされて、とても上機嫌で、溢れるような笑顔で迎えて下さいました。
先生の机の上には、いつも紺色に白鳩のデザインの、お洒落なピース缶が置かれていました。缶の蓋を開け、
指に挟んでたばこを吸うポーズをとってはいますが、先生が実際にタバコを吸って、煙を出している姿は記憶に
ありません。お洒落な紳士は、女性の前ではたばこは吸わないのかもしれません。(中略)
しばらくすると、お手伝いの方が、お茶とお菓子を運んで下さいました。
「どうぞ」
と言われて、茶器の蓋をとって、びっくり! 茶碗いっぱいに大きな櫻の花が一つ。ひらひらと花びらが揺れています。
「わあ! 綺麗!」
感激して思わず叫んでしまった私に、先生は満足そうに、にこにこと笑みをうかべてくれました。先生は、
どんなことにも真剣でしたが、この時も全身で喜んで下さいました。
私は、あの時の先生の笑顔を一生忘れる事はないでしょう。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
(中略)
私が、三島先生と最後にお目にかかったのは、昭和45年11月26日の夜でした。
先生が割腹されたのが、その前日、11月25日ですから不思議に思われるかもしれません。が、確かに私は
この日先生と最後の言葉を交わしました。
(中略)今でもあの日の先生の表情、声、すべて鮮明に浮かんで来ます。
衝撃の25日が過ぎた翌日、私は疲れきって、ぐっすり眠っていたのでしょうか。
その夜は、夫は研修か夜勤で留守でした。
トントンとドアを叩く音に目を覚まし、扉を開けると、そこに三島先生が立っておられました。
突然の訪問で驚きましたが、いつもの先生ではない、ただならぬ気配が伝わって来ます。
「先生どうなさったのですか?」
先生の後ろに誰かの姿があるようだ……が、誰かはわからない。
「とにかくおあがり下さい」
(中略)ともかくも座っていただいた。先生の後ろにたしかに人影があるのだが、ぼおっとして判らない。
あわててお茶の準備をしようとすると、
「すぐに遠くに出かけなければならないから、お茶はいいよ」
と言われました。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
とてもお急ぎの様子で、どこかに行かれる途中立ち寄った感じである。
「持丸君は?」
と聞かれましたが、夫はいない。
「今夜は、夜勤で泊りです」
と答える私に、少しがっかりされた様子でした。
「そうか……残念だなあ……じゃ芳子さんから、持丸君に伝えて欲しい。後の事はたのむと……。とにかく
後のことはたのむと、それだけは、伝えて欲しい。くれぐれもよろしく伝えて欲しい。」
「はい、わかりました。必ず伝えます」
先生は、何度も念をおされて、ほっとした様子で席を立って行かれようとする。
何故か、どうしても止めなきゃ! 不安になり
「先生! これから何処にいかれるのですか?」
とお聞きすると、振り返り、静かに深くうなずいて行ってしまわれました。
夜が明けてから、私は、ただ茫然とするばかりでした。(中略)
確かに夫は夜勤でしたし、夢の訳がない。先生は、あの世へ旅立つ途中に寄ってくださったのだ。
とすれば先生の後ろの人影は、森田必勝であったかもしれない。
先生は、旅立ちの前に、最後の言葉を下さったと、私は今でも信じている。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
とてもお急ぎの様子で、どこかに行かれる途中立ち寄った感じである。
「持丸君は?」
と聞かれましたが、夫はいない。
「今夜は、夜勤で泊りです」
と答える私に、少しがっかりされた様子でした。
「そうか……残念だなあ……じゃ芳子さんから、持丸君に伝えて欲しい。後の事はたのむと……。とにかく
後のことはたのむと、それだけは、伝えて欲しい。くれぐれもよろしく伝えて欲しい。」
「はい、わかりました。必ず伝えます」
先生は、何度も念をおされて、ほっとした様子で席を立って行かれようとする。
何故か、どうしても止めなきゃ! 不安になり
「先生! これから何処にいかれるのですか?」
とお聞きすると、振り返り、静かに深くうなずいて行ってしまわれました。
夜が明けてから、私は、ただ茫然とするばかりでした。
先生がいらっしゃったのは、夢だったのだろうか? 夢にしてはあまりにもリアル過ぎる。
確かに夫は夜勤でしたし、夢の訳がない。先生は、あの世へ旅立つ途中に寄ってくださったのだ。
とすれば先生の後ろの人影は、森田必勝であったかもしれない。
先生は、旅立ちの前に、最後の言葉を下さったと、私は今でも信じている。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
道徳を信じない道徳家、愛を拒否する愛の詩人、詠歎的であることを恐怖する、しかもロマンティックな歎美家。
――『沈める滝』の背後にある作者の姿を、一口にいえば、そういうことになるのではないか、とぼくは思っている。
既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり
出そうとするところに成りたってきたのが、一般に三島由紀夫の文学の世界なのである。(中略)
夢が、告白が、ありきたりの男女の物語が、もし信じられないのだとしたら、その信じられないという地点に立って、
ひとはなお、夢や告白や物語の花々を、咲かせることができないものか。人工の花々を。――三島由紀夫の文学は、
その設問から出発するのであって、例はそのほか、あげてゆけば彼の全作品に及ぶことになるだろう。(中略)
彼はたしかに、古い夢の、神々の、死の自覚の上に立って、つねに仕事をしてきた作家であるといえるだろう。
彼は神々を、錬金術師のように、合成することを夢みる。そこに彼の批評精神があり、光栄があり、そしてまた
苦しみがあるばずだ。
村松剛「『沈める滝』解説文」より
この機会を逃すと永遠に埋もれてしまうので、三島由紀夫という人間の誠実さについて述べておきたいと思います。
三島さんは、自刃のちょうど一ヶ月前の昭和45年(1970)10月25日に、『東文彦作品集』の序文を
書いています。この東文彦氏は学習院時代に親しくしていた文芸部の先輩で、同人誌『赤絵』はこの東氏の
父君である季彦氏の援助で創刊しています。三島由紀夫は、事件の数ヶ月前に講談社の野間社長に自分が序文を
書くので、東氏の作品集をぜひ出版してくれと頼み、承諾を取ったわけです。このことは、自刃するにあたり、
世話になった方への恩返しをし、後顧の憂いなく事を起こすという事だったのではないかと思われます。
三島由紀夫と東文彦氏は学習院時代手紙を数多くやりとりしていました。お互いに信頼しあった文学上の先輩・
後輩関係だったのですが、東氏は昭和18年に23歳で亡くなり、三島由紀夫は告別式で弔辞を読んだそうです。
そこには堀辰雄も列席していたといわれています。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
(中略)
じつは、この東文彦氏の父君の東季彦という方は学長職も歴任していた私の大学時代の恩師なのです。(中略)
その東先生から伺ったことですが、三島さんは息子の命日には今も家にお参りに来てくれると言っていました。
(中略)世界的作家になったあとも、命日にはみえていたということです。凄いのはそれにもましてそのことを
三島はだれにも語っていなかったということです。
これは三島由紀夫の年譜などを見ても、そのことについては書かれていません。あれほど自己顕示欲の強かった
三島由紀夫が、お参りに行ったというのを誰にも語らなかったのですね。普通の人だったら、俺は昔世話に
なった人のことはいつまでも忘れない、だから俺はいまもってお参りに行っているんだとすぐ言いそうなものですが、
それをひと言も言わなかった。(中略)ここに私は三島由紀夫の律義さと誠実さを見るのです。この律義さと
誠実さが結局はあの事件の要因の一つになったのかとも考えてしまいます。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
「(三島由紀夫の)絶えず真剣に生きることを望み、『にせものの平和、にせものの安息』(「白蟻の巣」)を
軽視する姿勢は、今となってみれば、だらだらと生きるわれわれへの痛烈な批判となっている。現代の日本人の
ありようを予見していた天才だったと思う。」
なかにし礼
「三島さんのあの『行動』を基準点として、そこからの距離をはかりながら考へるのが習ひ性となつてゐます。」
長谷川三千子
「戦後教育で『人の生き方』だけを教わり、『死に方』を教わらなかった。衝撃でした。
身の処し方、諫死の是非、日本人の責任のとり方、等々あれこれ考えさせられました。今は当時以上に、強く
考えます。」
出久根達郎
「七〇年までは、激しいものこそが美しかった。音楽、絵画、文学、演劇、映画、そして人間の生き方も。
三島由紀夫氏の死は過激が美しかった時代の最後の花だったな、と今になって思います。」
佐佐木幸綱
雑誌「諸君!」三島由紀夫特集アンケートより
三島由紀夫が他界してから、彼の死を中心にして実に多くの本が出版された。この現象は今後も続くと思うのだが、
僕が読んで納得がいく三島由紀夫論、三島由紀夫評は、全部に目を通した訳ではないものの、意外に少ないようだ。
僕は、三島由紀夫が死をもって問いかけたのは、手続き民主主義とも呼ばれる今の体制の中で、本当のナショナリズムを
形にすることは可能なのか、という問題だったのではないかと思う。そのように視点を定めてみると、見えて
くることがいくつかある。僕は、ナショナリズムを国粋主義、排外主義と同一視するのは、伝統尊重を保守反動と
同じと見る考えと共に、いわゆる進歩主義の大きな誤りだと思っている。
(中略)戦後のわが国の議会主義が政策を中心としたものではなく、手続きを中心にした民主主義を本質として
いたことが現れているように僕には思われる。
辻井喬「叙情と闘争」より
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や
行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。彼の目に、それは思想的頽廃としか
映らなかったのである。確かに、このような社会構造の中にあっては芸術は死滅するに違いない。
しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか
見なかった。もしかすると戦後の社会は、1970年の時点ですでに烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、
その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失っていたのかもしれない。
辻井喬「叙情と闘争」より
(中略)
日本の安全保障について、疑問点を二つほど提起しておきたいと思います。第一の疑問点は、安保条約第五条の
共同防衛条項です。(中略)第五条に共同防衛として日本国の施政下にある領域において、いずれか一方に対する
武力攻撃があった場合に、共通の危険に対処することが明記されています。が、問題なのは、その中に「自国の
憲法の規定及び手続に従って行動する」と謳われているところです。それは、福田先生がフジテレビの番組
「世相を斬る」海外版で、エドワード・ケネディ上院議員と対談した際に台湾を守る米華条約は「台湾に危機が
迫つたとき、アメリカはそれを助けるかどうか、議会で審議する義務があるといふ程度のものだ」とケネディ議員が
明言していたからです。米華相互防衛条約(1979年失効)を調べてみると安保条約のこの条文とほとんど同じ文言に
なっています。ということは日本も台湾と同様の扱いを受けることになるのは間違いないでしょう。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
(中略)台湾は「タダ乗り」の日本と違って、アメリカの要求に対してお釣りが来るほど防衛努力を行っていた
国ですが、その台湾に対して、ケネディ上院議員のこの発言です。(中略)このケネディ発言を通してアメリカの
相互防衛条約に対する本音が垣間見えてくるようです。
二つ目の疑問点は、アメリカの「核の傘」の信憑性です。このことについては、キッシンジャーの『核兵器と
外交政策』(1957)を取り上げ考えていくべきかと思います。(中略)キッシンジャーはその中で注目すぺきことを
述べています。(中略)そのキッシンジャーが全面戦争に際し、西ヨーロッパを守るにあたって、合衆国の
大都市を犠牲にすることを躊躇しており、西半球以外のあらゆる地域、当然日本もそれに含まれていますが、
それに対しては、守る価値がないように見えるであろう、と書いているのです。この発言は「核の傘」を考えるに
あたって、見逃すことのできない重要な意味を含んでいると思われます。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
要するにアメリカは、ロシアや中国を相手に最終的にはアメリカ本土を犠牲にしてまで、同盟国を守れないと
いう事であり、このことは、茶化すようですが、「己のごとく汝の隣人を愛せ」というクリスト教の愛の思想は
イエスとその弟子たちのみが実践できたに過ぎないので、格別驚くことではないのかもしれません。が、保守派の
知識人で安全保障問題に口出しする人達は、これらの問題について、きちんと論じるべきだと思います。また、
ここ三十年位完全に精彩を欠いている左翼知識人ももう一度勉強し直して、我々国民の「知る権利」に是非応じて
もらいたいものです。要はアメリカが助けに来てくれる保証などどこにもないということを肝に銘じ、同盟を
結びつつも対米依存から抜け出し、自国の防衛はできるだけ自国で当たるという「人類普遍の原理」に一日も早く
立ち還るべきものと思います。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
それから、小泉、安倍政権下の改憲論では、憲法第二十条の信教の自由について、全く触れられていません。しかし、
三島由紀夫も晩年主張していたように、占領軍は、自分達が唯一神のクリスト教徒ですから、宗教というのは
排他的な非寛容的なものだという先入観で被占領国の習俗的なものまで宗教として裁いて、神社はだめだとやった
訳です。ですから改憲する場合には必ず第九条だけでなく、天皇条項、第二十条の信教の自由も全部セットで、
行うべきで、一部分だけの改正というのは、本質が解っていないという事と、なにかアメリカとの関係からとしか
思えない。戦後レジームからの脱却だとか言っていたけれども、結局はアメリカからの要請による憲法改正なの
でしょう。だからけっこう罪は重い。一見、戦後体制を脱却するような標語を掲げながら、実際にはアメリカに
一方的にますます組み込まれていくような内容での改正でしかないのですから。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
もし三島由紀夫がいま生きているとしたら核武装についてどう考えるかというと、これは条件次第だと私は思います。
先ほどの憲法問題ともリンクすることですが、憲法の改正あるいは憲法を廃止するにしても、いまの憲法に対する
明確な基準ができること。これが一つ。もう一つは日米安保条約に対する明確な双務性を盛り込むこと。この二つの
条件がクリアできれば、核武装については少なくともいつでも核を持ちうるように技術開発は進めるべきである、
おそらくそう考えるだろうと思いますね。
いまの北朝鮮の問題を見てもわかる通り、あんな小さな国がアメリカあるいは五ヶ国を相手に五分の外交的
駆け引きをしているのですから、やはり核は外交上のそれなりの力になっていると思います。ですから三島先生が
いま生きていれば、おそらく核武装に対するアプローチをかなり積極的にしていただろう。ただし、そのためには
憲法と安保条約に対する条件を検討した上でのことですけれどもね。
持丸博
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
三島の、非常にドストエフスキー的でロシア的な情念の力は、彼の文学の全て、行為の全てから感じ取れる
ものである。自らの信念と理想に忠実に生き、割腹という終末へと向かった作家は、彼がいかに異文化的な側面を
持っていようとも、ロシア人の愛の包容から逃れられるとは思えない。三島の最初の本がロシアで出版されてから
二十年が過ぎたが、それ以来、多くの三島作品が何回再版されてきたのかもう私は知らない、いつか数えるのを
やめてしまったから。劇場では三島のドラマが上演され、ロシアのブログでは、三島の名が愛情を込めて
ロシア化され、“ミシンカ”とか“ミシミッチ”と呼ばれており、彼の写真はゲイクラブやジムなどを飾り、
Tシャツにもプリントされている。それどころか、ロシアには三島の生まれ変わりがいるのである。エドワルド・
リモノフという、有名な作家でマッチョ、過激な若者達の英雄、そして三島の「楯の会」を思い起こさせる、
国粋的なボルシェビキ党のリーダーである。そのリモノフは、メディアからたびたび“ロシアの三島”と呼ばれている。
ボリス・アクーニン
イルメラ日地谷=キルシュネライト「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
三島がその文学の出発点においてすでにテロの美に惹かれていたことはあらためて言うまでもない。(中略)
『十五歳詩集』の冒頭に置かれた詩「凶ごと」の第一連に「わたしは夕な夕な/窓に立ち椿事を待つた、/
凶変のだう悪な砂塵が/夜の虹のやうに町並みの/むかうからおしよせてくるのを」とある。椿事すなわちテロを、
そして美を待つ心は、多かれ少なかれ誰にでもある。だが、三島は幼くしてそれが言語の事象であることを
熟知していたように思われる。というより、三島は、言語の事象の極北に、テロとその美を見出したのだと思われる。
むろん、三島にとってだけではない。テロも美も言語の事象にほかならない。
問答無用はテロリストの常套、したがってテロは言語を拒否するように思えるが、逆だ。テロがたんなる殺人以上の
意味を持つのは、人間が身体であるとともに役割すなわち意味であるからだ。人間においては意味とは言語である。
テロは身体である人間を殺すことによって、意味としての人間を消す、人命は地球よりも重いというその人命の
意味を消し、修辞の欺瞞を嘲笑う。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
テロは、人間の二重性、人間が身体の次元と意味の次元に同時にかかわるという二重性を前提にしている。むろん
この二重性はパラドックスとともにある。自殺のパラドックスと同じだ。自殺は自己否定だが、それは自己否定の
自己否定であるほかなく、論理的には成立不可能なのだ。自殺する自分を否定することは自殺の不可能性を
意味する。ここにはエピメニデスのパラドックス、ゲーデルがその不完全性定理によって形式化した自己言及の
パラドックスが潜んでいる。にもかかわらず多くの人間が自殺するのは、人間がもともと二つの次元にわたる
存在であることを示している。自分を殺す自分は、生きている自分を超えた次元に立っていなければならない。
これが言語の次元であることは三島には自明のことだった。言語はこの世にあってこの世を超えている。
これを精神の次元と言っても、超越論的次元と言っても同じだ。彼岸と言っても、神と言ってもいい。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
十九世紀以降は、神の代わりに、民族や、歴史という名目で語ることが流行した。人は、民族のため、歴史のために
命を捧げるようになったが、論理的に違いはない。神も民族も歴史も、個人の上位にある次元、個人の生命に
比べれば永遠と言っていい次元を意味している。人間は言語がある限り自殺するだろうし、テロをつづけるだろう。
自爆テロは人間の条件の極限を示す。三島は自刃することによって、人間の二重性を強烈に示したことになるが、
それは身体についても物質についてもひたすら言語の側からのみ眺めていたからである。
三島は出発の当初からこの二重性を鋭く意識していた。(中略)人生が作品を包み込むというより、作品が人生を
包み込んでいる。『憂国』『英霊の声』『十日の菊』という、いわゆる二・二六事件三部作はむろんのこと、
初期の『花ざかりの森』や『中世』から、中期の『鏡子の家』を経て、『豊饒の海』へといたる過程の全体が、
三島の人生の最期を包み込んでいる。
三島由紀夫のこのような在り方は二十世紀の文芸批評の在り方とは決定的に対立すると思える。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
作家と作品は別であり、テクストはテクストとして自立的な世界を作り上げるというのが、アメリカのニュー・
クリティシズムからフランスのヌーヴェル・クリティックにいたるまでの基本的な姿勢である。テクストは自立し、
作家の実人生とは何の関係もないというこの思想はしかし、人間存在そのものがテクストとしてある、いや、
テクストとして以外にありえないという簡単な事実を無視している。
自己という現象は、テクストとしてしか現象しえない。三島は、ルソーと同じ『告白』という表題、『仮面の告白』
という表題の小説で、戦後の文壇に華々しく登場した。この事実は、自己がテクストとしてあること、その
テクストに対する解釈であるほかないもうひとつのテクストすなわち文学作品は、結果的に無限遡及――謎――に
陥らざるをえないことを、三島自身、熟知していたことを示す。三島の文学は一般には私小説とは名指されないが、
むしろ極限的なかたちで私小説という形式を示していると言っていい。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
(中略)
安部(公房)は、その初期から自己言及のパラドックスに人間の条件を見ているが、三島も同じだ。たとえば
『美しい星』は、自己言及のパラドックスそのものを主題にした作品である。(中略)三島は人間のこの
パラドックスをひとつのメランコリーとして描いている。『仮面の告白』の印象的な言葉を用いれば、「罪に
先立つ悔恨」として。これは『仮面の告白』のヒロイン・園子との恋愛にともなう感情を表わしたものだが、
三島はすぐに「私の存在そのものの悔恨」という言葉を用いて、それが全存在にかかわるものであることを
示している。悔恨には多くの訳語が当てられうるだろうが、三島自身がそれを深い悲しみと形容している以上、
メランコリーと訳すべきだろう。
三島の主人公の多くは終わってしまった人生を生きているように描かれている。みな既視感のもとで行為している。
この既視感はどこから来るのか。(中略)言ってみれば、自分で自分を死後の眼で見ているのである。世界が
すべて終わったように感じられるのは必然である。この感覚が三島の主人公たちを苦しめているのだ。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
これは言語の病、言語という病である。
テロも美も、はじめは、この非現実感から逃れる手段として要請されたように見える、たとえば『金閣寺』がそうだ。
テロと美による陶酔が疎隔感を忘れさせるという論理がそこにある。だが、テロだけではない、美もまた二重性の
もとにあるのだ。(中略)
白川静は、古代中国の甲骨文の研究によって漢字の起源を解明した現代のもっともすぐれた漢字学者のひとりだが、
「美」に含まれる「大」は羊の後ろ足であって、美はすなわち羊であると述べている。だが、その「羊」は神への
生贄の羊であって、ただの羊ではない。それが美しいのは、神への生贄だからである、というのだ。つまり、
美には、はじめから神のために死ぬもの、という意味が含まれているのである。美しさの内実は、犠牲と畏怖なのだ。
美もまた彼岸と此岸を結ぶからこそ美なのである。
この事実は、「美は恐るべきもののはじめ」という、リルケの『ドゥイノの悲歌』の有名な一行を思い起こさせる。
三島が全存在的に惹かれた美もまたこのようなものであったことは指摘するまでもない。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
三島の全文学、いや全人生を貫いて「サン・セバスチャンの殉教」というルネサンス絵画の主題があるが、
それはドストエフスキーにとってのホルバインの「キリストの遺骸」に匹敵する。(中略)
美はこの世にあってあの世を、つまり永遠を暗示する。救済とはそういうことだ。したがってテロと美が似て
いるのは必然と言わなければならない。ともに、現在の自分を超える何かに犠牲的にかかわることである。
テロも美も永遠と現在を含んでいる。とすれば、それもまた人間の条件――言語という条件――を極限的に示して
いるにすぎない。
人間は自身のなかに人間的ならざるものを含んでいる。人間的ならざるものを含んでいるところに人間の本質がある。
あの世という観念は、その人間的ならざるものの中心にある。だがこれは、言語という現象をたんに二重に
対象化したにすぎないのではないか。三島が逢着したのもまた同じアポリアであったように見える。政治の前に
文学は取るに足りない。だが、政治こそ文学、言語の技なのだ。歴史という文学がそれを証明している。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
(中略)
三島があの世とこの世という思想に親しんでいたことは、十代から早熟な天才として日本ロマン派の人々と深い
親交があったことからも疑いない。(中略)三島が保田(与重郎)のロマンティック・アイロニーという概念を
自分なりに吸収し、それによって自分のメランコリーを基礎づけたことは否定できない。
(中略)このアイロニーすなわち逆説がいまも重大な問題としてあるのは、ほぼ同じ心情がイスラム原理主義の
テロリズムのなかにも感じられるからだ。
(中略)
神も虚無も、宙吊りのままでその力を発揮するのではないか。これがおそらく、三島が保田から必死の思いで
引き出したアイロニーの技法であったように思える。橋川(文三)ならばまさに頽廃と呼ぶだろうが、とすれば
頽廃は言語そのものに潜むのである。
むろん、三島が全身で摂取したのはアイロニーだけではない。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤と流れる日本の
近世国学の思想をも、保田とその周辺の文学者たちから吸収していたのである。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
(中略)
不合理ゆえに我信ず、と言ったのはテルトゥリアヌスである。神の存在は疑わしいからこそ、日々、信仰を
決断しなければならないのであって、疑いもしないものは信仰が薄いのだ。(中略)
人間はすべて半信半疑の世界に住んでいる。言語を所有したということはそういうことだ。言語によって人は
解釈の世界に住むことになった。人は、自分が何ものであるか、自分自身に向かって解釈しなければならなくなった。
自己とは自己を解釈し、しかるのち自己にふさわしい行動をするということだ。とすれば、人間の行動とは
すなわち装うことではないか。人間はまず、他人に対してではなく、自分自身に対して自分は自分だと言い聞かせ
なければならない。安部公房が最後まで繰り返した主題だが、これが同じように三島の主題でもあったことは
『美しい星』が、また『豊饒の海』が証明している。
紙幣はたんなる紙切れにすぎない。犬や猫に通用しないのは、それがたんなる紙切れだからである。しかし、
人間には通用する。これを、全員が通用するように装っているからだと解釈してもまったく不都合ではない。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
現に通用しているという事実から、通用させている力を想定し、それを神と考えるところに形而上学が生じる。
人間はおそらく、すべては装っているだけだと考えるのは不安なのだ。貨幣を価値づけているのは人間の労働で
あるとマルクスは考えたが、人間の労働という概念も、神という概念も、さかのぼって見出された根拠すなわち
幻影であることに変わりはない。ニーチェが言ったのは、そういうことである。ニーチェは、宗教や社会のみならず、
経済こそ無根拠だ、つまり恐慌こそが自然なのだと宣言したのである。
貨幣が通用するのとまったく同じ仕組みで、言語も通用している。ひとつの語を、自分が感じているように他人も
感じているという保証は、どこにもない。そしてその言語の上に、あの世が築かれているのだ。三島の生と死が
浮き彫りにするのはこの問題である。
日本文学には三島の死後、村上龍が登場し、村上春樹が登場する。(中略)これらの若い作家たちは、興味深い
ことに、みな、あの世のことを、あからさまに、あるいはそれとなく、書いている。あたかも、文学がそれを
要求しているのだというように、書いている。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
(中略)
半信半疑こそが、言語を持った人間の常態なのではないか。そしてこの半信半疑こそ、人をテロへと、美へと
駆り立て、さらにそこから逃げ帰らせるものなのではないか。
イスラム原理主義のテロリストの多くが、中流以上の裕福な家庭に育った高学歴者であることは広く知られている。
ある意味で、9・11以後の世界は明治維新後の日本に似ている。古来のコスモロジーのもとにあの世を中心と
する世界を復興させようとする勢力、いわば反動的な勢力が、明治維新の力になったのである。しかしその運動の
先端に立って新政府を樹立した人々はやがて彼らの母体を裏切り、結果的に、西洋文明を全面的に受容することに
してしまった。この矛盾の軋みが、近代日本の度重なるテロを惹き起こしたと言っていい。昭和維新はその最後の
ひとつと言っていいが、その担い手たちは、資本主義はむろんのこと、共産主義も社会主義も知らなかったわけ
ではない。並みの人間よりははるかによく知っていたのだ。イスラム原理主義の人々にしても同じことだ。思想と
行動は数式のように等号で一致するわけではない。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
平田篤胤は、戦後、ファシズムを惹き起こした危険な思想家と見なされた。だが、近世日本におけるきわめて
興味深い思想家であることに変わりはない。篤胤は、日本神話のコスモロジーすなわち神道を、世界宗教にまで
高めようとしていた。彼は、キリスト教をも含めて、世界さまざまな宗教に関心を持ち、研究していた。篤胤以後、
何人かの思想家、とりわけ右翼の思想家が、イスラムに関心を持ったのは自然なことだと言っていい。彼らの
多くは、神道とイスラムには似ているところがあると考えた。たとえば、イスラムには神の代理人が存在せず、
誰もが神と直接つながるところに、自分たちが理想とする天皇制と同じものを見出したのである。
三島と、日本の若い作家たちと、イスラム原理主義のテロリストたち。およそ結びつかないように思われるが、
そうではない。すべて最終的には言語の問題に帰着するからだ。三島の生と死は、言語のこの不思議な仕組みを
浮かび上がらせる巨大な閃光としてあったと思われる。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
政治的、イデオロギー的含みを持たせた、三島の暴力的行為と自己破壊によって、日本のなかに生じた衝撃と
当惑は、かなり長い間続いたように思われる。その結果として、ある種の麻酔と沈黙がもたらされたようだ。
ここ何十年か多くの外国人は、三島について質問するとき、相手の日本人の態度からそう感じとってきた。
ピヴェンは、次のように言っている。「日本人の多くは、まるで三島が鬼っ子であり、彼の読者は倒錯的な
狂信者であるかのごとく、ぎこちなく口を閉ざそうとする」と。恐らくこうした日本人の反応は、この出来事が
一種のトラウマとして受け取られていることを証し立てている。(中略)さまざまな方法で三島に触れ、三島を
扱っている多くの作品においては、主に三島の死が中心的モチーフとなっており、そのような傾向がこの質問に
正当性を与えているように思える。この四十年間、日本の文学界において、高度に知的で抽象的な小説から風刺や
魔術的リアリズムに到るまで、三島と直接関わる、あるいは少なくとも彼を間接的に参照している数多くの詩や
小説や物語を目にすることができる。
イルメラ日地谷=キルシュネライト「世界の文学と三島」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
(中略)
村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』でも三島事件は、やはり軽い調子で取り扱われている。(中略)この作品の
キーとなる第一章には、三島事件が起きた日付である「1970/11/25」がタイトルとして付けられている。(中略)
三島事件は、この場面においてだけではなく、作品全体の文脈においてもハイライトとして機能すべきものなのだ。
また、青海健が指摘しているのは、三島の死を「日本の死」あるいは「日本文化の終焉」の象徴として受け取り
がちな一般的傾向に対する、カタカナの横文字をふんだんに使ったこのシーンが持つアイロニーである。(中略)
若い女がやがて自らの夭逝を予言するこのシーンは、物語を前に進めるための仕掛けとなっている。(中略)
この小説のなかでは、ひとつの歴史的出来事と交差させ、主人公の人生のある瞬間を際立たせるために三島事件が使われているのだが、
同時にこの作品は、主人公の生と死に対する姿勢が、三島のそれとは著しく異なっていることをもはっきりと
示している。
イルメラ日地谷=キルシュネライト「世界の文学と三島」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
(中略)
私が知る限り、三島由紀夫というテーマに最も強くコミットしてきた作家は、大江健三郎である。大江はこれまで、
それこそあらゆる機会を利用して、三島の文学から、人間三島から、三島のあらゆるものから距離をおこうと
試みてきた。それにもかかわらず、あるいは、まさにそのために、大江健三郎は、亡き三島由紀夫に祟られて
いるかのように見えてしまう。(中略)最近英語で出版された大江文学を分析した本においても、やはりこの作家の
多くの作品における、三島に取り憑かれたかのような現象“enduring obsession with Mishima”が確認されており、
それらの作品が書かれた時点において、三島はとっくに死んでしまっていたにもかかわらず、相も変わらず
三島に焦点を合わせずにはいられない大江健三郎という文学者の名は、将来政治的な層において、常に三島の名に
連なるかたちで連想されることになるかもしれない、そうこの本の著者は予測していた。
イルメラ日地谷=キルシュネライト「世界の文学と三島」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
メタファーに満ちた物語である『英霊の声』を舞台にすることの最大の困難は、一見したところ、プロットの
描写がまばらにしかないという点にあるように見える。その上、降霊の儀式に参加した者たちは、英雄達の死の声を
聞くだけで、ほとんど動くことがない。だが実際のところ、この事実は、この作品を能楽として演出することの
可能性を広げているのである。(中略)『英霊の声』を舞台にするためには、死霊の描写をその強度を殺がずかつ
単純化しすぎることのないように、言葉によらない演技に移す必要がある。このような試みは最初はほとんど
実現不可能に思えるかもしれないが、能楽がつねに象徴的で複雑な話を扱ってきたことを考えれば、実行可能で
あるように思われる。最もありふれた「カタ」を見てみれば、能楽における定められた規則や一連の動作によって、
嘆き、悲しみ、誇りといった『英霊の声』を構成する全ての感情だけでなく、風や雨なども表現することが
出来るだろう。能は儀式的で様式的であるが、これらを制限的なものと考えるよりも、既存の規則は出来事を
美学的に詩的な強度を備えた形で舞台で表現する機会を与えてくれるものと考えることができる。
レベッカ・マック「三島由紀夫の『英霊の声』――近代の能楽として」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
(中略)
劇場の持つ形式的な条件も、舞台に仕立てることの困難もともにクリアできる。というのは、この小説の様々な
細部は、能楽の標準的な形式と一致しているからである。このテクストが様々な媒体によって演出されうることを
認識するのは、『英霊の声』を能楽として読むことで二通りに作品を読解し全体を理解するために重要である
だけではなく、構造というのは内容のレベルにも遡及するという点からも重要である。戦後の退廃に対する英霊の
不満は、したがって、形式のレベルにおいて、日本の美である古典劇の伝統という最良の例に対比されるのである。
作品が初めて出版されて以来、三島自身がこの作品が二つの媒体において演出できるような構造になっていることを
明言してきたにもかかわらず、『英霊の声』が今まで決して劇として読解されることがなかったのは悲しむべき
ことである。(中略)近代の物語を能楽のように構成することで、三島は伝統的な日本文化は創作に応用できるし、
また応用されるべきだということを示したのである。
レベッカ・マック「三島由紀夫の『英霊の声』――近代の能楽として」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
(和歌には)作者名が表記してなくても、「読み人知らず」の歌は、日本人の心に広く支持されている。
「三島由紀夫」というペンネームは、ある意味での「読み人知らず」である。(中略)
『花ざかりの森』が掲載された『文芸文化』昭和十六年九月号は、文学者「三島由紀夫」の誕生した記念号であるが、
その号で蓮田善明は、新人作家・三島由紀夫の可能性を信じ、「悠久な日本の歴史の請し子」と絶賛している。
「請し子」は、通常は「申し子」と書く。「申し子」は「授かり子」とも言い、神仏の化身として、人間界に
出現した貴種のことである。三島由紀夫は、「日本の歴史」と「日本の文化」のスピリットが、仮に人間の姿をして
生まれてきた天才、とされたのである。これを私の問題意識に引き付ければ、三島の書く文章や三島の語る言葉が、
日本の歴史と文化の普遍性を体現した「読み人知らず」の言葉である、ということになる。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
三島は平安文学のエッセンスである『古今和歌集』と『源氏物語』の森の奥へと分け入ってゆく。三島にとって、
和歌や物語は、単に優雅な文化ではなかった。醜悪な現実と戦い、勝利するための最強の武器が、和歌だった
のである。つまり、和歌は「文武両道」のシンボルだった。(中略)
和歌には、天の神や地の神を動かし、歌人の願いを実現するだけの力がある。和歌には、どんな強敵でも退散させ、
歌人の大切な世界を守るだけの力がある。和歌には、好きな人の心を引き付け、歌人の恋愛を成就させるだけの
力がある。和歌には、優雅な「もののあはれ」とは別次元の、「切った張った」の命のやり取りをしている武士の
心を和ませるだけの力がある。
この和歌の道のヒエラルキーの頂点に立つのが、天皇である。天皇は、『古今和歌集』から始まる「勅撰和歌集」の
撰者を命じる立場にある。日本が「和国」と呼ばれるのは、「和歌」の精神に支えられているからだという説がある。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
国難に遭遇するたびに、南北朝期の南朝方や、幕末期の勤王の志士たちは、「愛国歌」を高唱した。三島由紀夫も
また、そのような愛国的な和歌を好んでいた。ところが太平洋戦争の末期、日本文化が欧米文化との戦いで劣勢に
なった時、日本人は『愛国百人一首』の和歌を必死に唱えたが、「神風」は吹かなかった。日本は敗れ、
昭和二十年八月十五日に無条件降伏した。
これは、「和歌の敗北」であった。日本文化が敗北したのであり、日本文化の申し子である三島由紀夫の世界観も
また、一敗地に塗れた。
なぜ、神風は吹かなかったのか。それは、和歌が無力だからなのか。あるいは、紀貫之が「力をも入れずして
天神地祇を動かし」と宣言した意味を、その後の日本人が読み間違えて、和歌の力を過大に錯覚したからなのか。
それとも、和歌文化の頂点に立つ天皇の資質の問題なのか。ここに、三島が戦後日本にとっての「天皇」の意味を
問い続けた根本的な理由がある。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
ところで(兵庫県)印南郡の平岡家には、かつて「しおや」(塩屋)という屋号があった。松本健一は、
「塩焼き人夫」「漁夫」としての出目を三島が持っていた事実に着目している。(中略)
三島には、漁師や魚売りを主人公とする作品がいくつかある。『潮騒』の新治、そして『鰯売恋曳網』の
鰯売である猿源氏。彼らは、「魚」だけでなく、「理想の恋」をも釣り上げようとする。新治は富裕な船主の娘を、
猿源氏は都で一番の傾城(遊女)を。「卑賎の男が高嶺の花に恋をする」という発想の形式は、漁師という身分を
離れると、三島の『近代能楽集』の一編『綾鼓』のようなストーリーになる。
世間に多いのは、貧しい女性が高貴な男性の奥方に収まる「玉の輿」のストーリーである。三島が描いたのは、
「逆・玉の輿」のパターンである。『午後の曳航』などの「船員」という職業も、「漁師」の現代的な変型だと言える。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
三島は、男の「成り上がり」という通俗文学のストーリーを踏襲することで、何を描きたかったのか。おそらく、
人間が神という存在に、少しでも近づきたいと憧れる気持ちを、「身分違いの恋に苦しむ男性」に託したのでは
なかったか。
その一方で、上流社会から賎しい職業として低く見られがちな「人夫」や「汚穢屋(糞尿汲取人)」への特別の
関心が、三島にはあった。(中略)
人間が、神の高みにまで昇ろうとする憧れ。それは、不可能であるがゆえに、いっそう強く掻き立てられる。
不可能への挑戦。大きな壁があるから、それに挑戦しようとする情念が高まる。絶対の不如意に直面した絶望感と、
その壁に挑む不退転の覚悟。これがロマン主義者の信条である。
そして、自分の持って生まれた「賎しい身分」という実存状況を変えることのできなかった人間たちのあがき、
苦しみ、絶望にも、三島は強い関心を抱く。神という至高の視点から見下ろせば、華族も富豪も、所詮は汚穢屋と
似たり寄ったりである。高みから見下ろされている喜び。見られていることの快楽。それが、三島に「人生を
演じる」ことの恍惚を教えてくれた。
三島は、男の「成り上がり」という通俗文学のストーリーを踏襲することで、何を描きたかったのか。おそらく、
人間が神という存在に、少しでも近づきたいと憧れる気持ちを、「身分違いの恋に苦しむ男性」に託したのでは
なかったか。
その一方で、上流社会から賎しい職業として低く見られがちな「人夫」や「汚穢屋(糞尿汲取人)」への特別の
関心が、三島にはあった。(中略)
人間が、神の高みにまで昇ろうとする憧れ。それは、不可能であるがゆえに、いっそう強く掻き立てられる。
不可能への挑戦。大きな壁があるから、それに挑戦しようとする情念が高まる。絶対の不如意に直面した絶望感と、
その壁に挑む不退転の覚悟。これがロマン主義者の信条である。
そして、自分の持って生まれた「賎しい身分」という実存状況を変えることのできなかった人間たちのあがき、
苦しみ、絶望にも、三島は強い関心を抱く。神という至高の視点から見下ろせば、華族も富豪も、所詮は汚穢屋と
似たり寄ったりである。高みから見下ろされている喜び。見られていることの快楽。それが、三島に「人生を
演じる」ことの恍惚を教えてくれた。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
永井尚志(1816〜91)は、三河奥殿藩主の子で、旗本の永井家を継いだ。勝海舟と並ぶ江戸幕府の海軍の創設者の
一人で、長崎海軍伝習所の初代長官も勤めた。(中略)
つまり、三島の祖母の祖父である永井尚志は、「海の男」だった。三島由紀夫は、生涯「カナヅチ」で、まったく
泳げなかったと言われる。にもかかわらず「海」に憧れる男たちを描き上げた。「船」や「帆」は、三島文学の
キーワードである。泳げないという「壁=不如意」があるから、かえって「海」が輝かしく理想化されるのだ。
(中略)
『潮騒』のクライマックスで、新治は台風の中、大荒れの海に飛び込み、船の命綱を浮標につなぐことに成功する。
この迫真の水泳シーンを、カナヅチの三島がなぜ描くことができたか。そこに、三島文学の本質がある。現在の
自分が泳げないからこそ、そして永遠に自分が泳げないであろうことが確実だからこそ、「泳ぐ」という行為を
激しく理想化し、恋しているのだ。それが、三島のロマンティシズムであり、創造力の源泉である。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
お伽噺を読む三島少年の膨張する「想像力」が、突然に創作熱という「創造力」へと変容する一瞬の奇跡が、
『仮面の告白』では語られている。(中略)
三島少年の夢を育み、後年の小説家としての創造力の基盤となったのが、これらのお伽噺の数々だった。中でも、
『黒い騎士』だった。死んでも死んでも、魔法のダイヤモンドの力で生きかえる王子様。それを独自の読書方法の
発明と実践によって殺すことに成功した三島少年。三島文学を愛読している読者ならば、はっと気づくだろう。
三島のライフワークとなった「豊饒の海」シリーズのテーマである「輪廻転生」は、この「七度死んで生まれ
変わる王子」を母胎としているという、まぎれもない事実に。
(中略)
驚くべきことに三島少年は、七回も「輪廻転生」を繰り返す「不死の若者」に、自ら「創造力」を武器として
切りかかり、彼に見事な「死」を与えることに成功した。それが、「省略」という読書法の発明だった。この時、
三島は後に小説家になるのに必要な「創造力」という刀を、手に入れた。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
『仮面の告白』の結末は、「私」と園子の別離だった。この結果を残念に思うのは、私だけだろうか。(中略)
それにしても彼女は、なぜ「草野」であり、「園子」なのだろう。まず気づくのは、三島が好んだ和歌の世界では、
「草」と「園」が「縁語」であるという事実である。なおかつ、三島が好んだ『源氏物語』には末摘花という女性が
登場し、異彩を放っていることである。末摘花は、亡き父親を心から崇拝し、草が茫々に生い茂る蓬生の宿で、
心静かに暮らしている。「園子」は、三島にとって末摘花であり、彼女の亡父(常陸の宮)が「三谷隆正」なの
だろう。むろん、三島の分身である「私」は、光源氏である。(中略)
もう一つ、考えられるのは、『旧約聖書』の「雅歌」である。(中略)
三谷隆正がキリスト教精神の体現者だから、その姪である女性には、『旧約聖書』の「雅歌」を思わせるような
名前(草野園子)が与えられたのではなかったか。
ちなみに、「鹿」と「園(苑)」が組み合わさっているものに、釈迦が悟りを開いた「鹿野園(鹿野苑)」がある。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
「私」は園子の純粋さを前にして、「自分がその美しい魂を抱きしめる資格のない人間であること」に苦悩する。
これは、園子の背後に、三谷隆正、さらにはキリスト教が存在しているからである。「私」は、「この年になって、
あやめもわかぬ十九の少女との初恋に手こづつてゐる」ありさまである。
「あやめもわかぬ」は、『古今和歌集』読み人知らずの、
ほととぎす鳴くや皐月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな
という和歌を踏まえた表現である。三島は、『古今和歌集』を心の底から愛していた。「力をも入れずして
天神地祇を動かし」という有名な仮名序だけでなく、和歌の一首一首を暗記するほどに愛誦していた。すなわち、
三島の分身である「私」は、和歌に代表される「日本精神」の申し子である。理性ではなく、情念の世界に
生きている。「私」と「園子」の愛がもし成立すれば、生ける三島由紀夫と死せる三谷隆正の師弟関係が取り結ばれ、
日本文化と西欧文化とが一つに繋ぎ合わされたはずだ。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
三島由紀夫は、昭和四十二年以来、何度も自衛隊に体験入隊した。(中略)三島の短編小説『蘭陵王』には、
兵舎での暮らしぶりが、次のように書かれている。
部屋におちつくと、私はここへ来てはじめてきく虫の音が、窓外の闇に起るのを知つた。何一つ装飾のない
この部屋が私の気に入つてゐた。
一つの机、一つの鉄のベッド、壁に掛けられてゐるのは、雨衣と、迷彩服と、鉄帽と、水筒と、……余計なものは
何一つなかつた。開け放たれた窓のむかうには、営庭の闇の彼方に、富士の裾野がひろがつてゐるのが感じられる。
存在は密度を以て、息をひそめて、真黒に、この兵舎の灯を取り囲んでゐる。永年欲してゐた荒々しくて
簡素な生活は、今私の物である。
(中略)それにしても、この自衛隊での暮らしぶりは、中世の遁世者たちや芭蕉が求めた「草庵」での心静かな
生活そのものではないか。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
文壇で忙しく活躍する三島にとって、「体験入隊」は、一種の「出家」だったのだろう。体験入隊が終わると、
再び三島は都会と文壇の喧操の中へ戻ってくる。言わば、「還俗」である。
三島由紀夫は、擬似的な出家と還俗を繰り返しているうちに、少しずつ現実生活を出家生活へ近づけようと
し始める。正式な出家をしたわけではないが、仏教に心を深く染めている男を、「優婆塞」という。三島は、
自衛隊での「草庵」暮らしに憧れるあまりに、優婆塞としての生活を自分に課すようになる。それが、楯の会での
活動となった。
自衛隊にせよ、楯の会にせよ、集団の規律を重んじるだけの団体ではなかった。三島にとっては、「理性の草庵」を
求める精神活動の一環だったのである。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
天皇を恋し、天皇を信じて決起し、裏切られて死んだ(あるいは死んだ後で裏切られたことを知った)英霊たちの
鎮まらぬ怒りを、三島由紀夫は綿々と語る。下賎な男が高貴な姫君を愛して跪くように、あるいは、女が絶世の
美男子を愛するように、「武士=兵士」たちは「天皇」という存在に恋い焦がれた。
謡曲『葵上』と対応させながら説明すると、「光源氏=天皇」は、人間を越えた存在であり、「六条の御息所=
兵士たち」からは、自分の救済者であってほしいと期待された。だが、光源氏が所詮は「観音の化身」ではなく
「凡夫」だったように、天皇もまた「現人神」たりえなかった。
『英霊の声』の結末は、何とも衝撃的である。二・二六事件と神風特攻隊の英霊たちに、長時間打ち据えられた
「川崎君」は命を失う。その死顔は、「川崎君の顔ではない、何物とも知れぬと云はうか、何物かのあいまいな
顔に変容」していた。三島の『英霊の声』創作ノートには、「霊媒死す。天皇の化身」とある。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
この創作意図を、どう解釈すべきだろうか。六条の御息所は、光源氏に裏切られた。だが彼女は光源氏を憎みつつも、
それ以上に深く愛しているので、その憎しみの発散は光源氏本人へと向かわない。それは、彼女が絶対になしえ
ないことである。そこで六条の御息所の怒りは、葵上へと向かい、激しい「後妻打ち」となった。
英霊たちは、生前にあまりにも深く、天皇に恋い焦がれていた。いわゆる「恋闕の情」(「闕」は皇居の門と
いう意味)である。だから、たとえ自分たちの真心が天皇に届いていなかったことがわかり、天皇に裏切られたと
頭でわかっていても、そして「などてすめろぎは人間となりたまひし」という恨みを口にしても、天皇に対し
奉りて、何らかの抗議行動を起こすことはありえない。そんな行動に走れば、かつて天皇を恋し、心から天皇を
信じた(今も信じたいと思っている)自分自身を否定することになるからだ。だから「川崎君」という「天皇の
身代わり」が、どうしても必要だった。
ここに、三島由紀夫の創設した会が「楯の会」と命名された真の理由があるのではないか。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
「醜の御楯」は、天皇のために楯となって天皇を守り、朝敵(外敵)と戦う勇敢な兵士、という意味だけではない。
「楯の会」は、非業の死を遂げた、無数の英霊たちの鎮まらぬ天皇御自身への怒りを、天皇の身代わりとなって
一身に引き受けるために作られた組織なのかもしれない。
戦後日本は、昭和元禄という偽りの繁栄にうつつを抜かし、精神性よりも「金銭」と「物質的幸福」だけが
物を言う世の中に成り下がった。そうなると、「神国」を護るために尊い命を捨てた無数の英霊たちの憤怒は、
行き場を失う。このまま放置すれば、その怒りが天皇本人へと向かいかねない。
だから『英霊の声』では、「川崎君」が天皇の代わりに死んでいった。『朱雀家の滅亡』では、天皇の代わりに、
朱雀家の人々がいち早く滅びた。天皇の滅亡を少しでも遅らせる「楯」として、朱雀侯爵は自らの一族の滅亡を
受け容れた。朱雀侯爵の魂が、既に滅びているにもかかわらず、肉体が延命すればするほど、彼の存在が
「防波堤=醜の御楯」となって、天皇が護られる。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
そのように三島由紀夫は、「天皇」あるいは「天皇制」の「醜の御楯」として、英霊たちの怒りを引き受ける
役割を果たそうとした。英霊の怒りが理解できるから、その怒りを我が身に引き受けようというのだ。
「川崎君」の死顔が天皇の顔に近づいたように、「天皇のために死ぬ」ことは「天皇として死ぬ」ことと同じである。
三島が「天皇陛下万歳」を三唱して自決した瞬間、彼は願った通りに、「天皇」の心を我がものとすることに
成功しただろうか。
三島由紀夫は、自決後も怒れる「英霊」とはならない。そうではなく、天皇と一体化し天皇と共に戦い、恍惚として
死を迎えたに違いない。朱雀侯爵が、従容として生きながら滅んでいったのと同じように。三島は「英霊」ではなく、
「神」となることを目指したのだ。三島の霊は、祟らない。
自決直後の新聞や写真誌の中には、三島の頭部の写真を掲載したものがあった。それを見た日本人の衝撃は、
一生消えないだろう。(中略)「(三島の顔ではない)何物とも知れぬと云はうか、何物かのあいまいな顔」に
変容していたかどうか。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
(中略)
『文芸文化』の同人の筆頭格は、蓮田善明。彼は終戦直後の昭和二十年八月十九日、マレー半島の最南端
ジョホールバルでピストル自殺した。翌昭和二十一年の十一月十七日に、成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」が
催され、出席した三島は一編の「詩」を献じた。(中略)
古代の雲を愛でし
君はその身に古代
を現じて雲隠れ玉
ひしに われ近代
に遺されて空しく
靉靆の雪を慕ひ
その身は漠々たる
塵土に埋れんとす
三島由紀夫
この「詩」を読んで、しみじみ思う。「古代」を「近代」に復活させるのが、三島の「天命」であったことを。
現代人でありながら、蓮田善明は古代精神を具現していた。だから終戦直後、スサノオの「荒魂」そのままに、
天皇に対して不敬な発言を口にした上官を射殺して、自殺した。手には、辞世の和歌を書いた一枚の葉書を握り
しめていたという。(中略)
三島は、蓮田善明の信じた日本浪漫派の精神世界を、自分自身の魂の土壌とした。それが、三島文学の原点である。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
三島自身にとって、その行動は、謎でもなんでもなく、思うところを果断に行なった結果にすぎない。それにも
かかわらず、われわれは、いまだに謎を見つづけている。いや、さらに謎を膨らませるのに精を出しているような
気配である。なぜなのか? もしかしたら、謎を見つづけることによって、三島がわれわれに突きつけている問題を
直視するのを避けているのかもしれない。正面切って取り組むよりも、謎の領域へ押しやって置くほうが、
われわれには好都合なのであろう。
松本徹「三島由紀夫の最後」より
あかい一本の道のはて
君のなかのふかい歎きが
君のなかのふかい悲しみが
その肉体を一挙に運び去った
けはしく光る雲のした
あかい一本の道のはて
われらはみな愛した
責務と永訣の時を
歴史の不如意に足摺した君よ
装いをあらためて君は
虹の門から過ぎていった
君の英霊は鶴となって
故国の秋の天を翔ける
浅野晃「哭三島由紀夫」より
http://hexagon.inri.client.jp/floorB1F_hss/b1fha400.html ■■三島由紀夫がヒトラーについて語った言葉
「ところでヒトラーね。彼がやったことは世界中の人が知ってる。だけど、彼がほんとは何者だったのか誰も
知っちゃいない。ナチの独裁者、第二次世界大戦の最大戦犯、アウシュヴィッツの虐殺者、悪魔……。これが
いままでのヒトラー観だけど、ほんとはそれどころじゃない。
彼のほんとの恐ろしさは別のところにある。
それは彼が、ある途方もない秘密を知っていたってことだ。人類が結局どうなるかっていう秘密だ。彼は未来を
見通す目を持っていて、それを通じて、その途方もない未来の秘密に到達しちゃった。」
「だから五島君。もしきみが10年後でも20年後でも、ヒトラーのことをやる機会があったら、そこんところを
よく掘り下げてみることだ。もしきみにいくらかでも追求能力があれば、とんでもないことが見つかるぜ。
ほんとの人類の未来が見つかる。やつの見通していた世界の未来、地球と宇宙の未来、愛や死や生命の未来、
生活や産業の未来、日本と日本の周辺の未来……。
なにしろ『我が闘争』の中にさえ、やつは未来の日本や東アジアのことを、ずばり見通して書いてるくらいだから。
まだ30代かそこらで、やつはそれは鋭い洞察力を持っていたことになる。
いわゆる現人神(現御神)の思想は、キリスト教などの一神的なGodではない。日本人の神観念は、本居宣長の
「何にまれ 尋常ならずすぐれたる徳ありて、可畏き物を迦微(カミ)とは云なり」という八百万の神々であり、
「唯一神教的命題」とはかけはなれている。日本の神観念は多義的であり、そこでは人間的な要素も入ってくる。
超越者としての「神」とはあきらかにちがう。そもそも昭和二十一年元旦の昭和天皇のいわゆる「人間宣言」も、
〈神〉にして〈人〉であるという伝統観念からすれば、「神から人へ」ということを特別に強調したとはいえない
かもしれない。しかし、占領下において、GHQ指導のもとでこの「詔書」があらわされたのは、人でありながらも
神聖をもって君臨される天皇(スメラミコト)の民族的、精神的支柱としての意味を否定しようとしたもので
あることには変わりはない。
富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
『英霊の声』の、あの英霊たちの声々は、「陛下はずっと人間であらせられた」ことを百も承知で、だからこそ
「陛下御自身が、実は人間であったと仰せ出される以上、そのお言葉にいつわりのあろう筈はない」と語る。
しかし、その〈人〉であられる陛下は、国家存亡の危機のときに、生命を賭して死んでいった者たちのために、
国破れし後にあってこそ、「現御神」としてあってもらいたかった。それはまた天皇のために立ちあがりながらも
「反乱」軍として処罰された二・二六事件の青年将校たちの、「天皇」の神聖に希望を託した思いとも重なる。
敗戦の時に二十歳であった三島は、この「神の死」を自己の存在の最も深部において体験したのだ。
三島のダリの「磔刑の基督」の評をそのまま借りていうならば、その初期作品(『盗賊』や『岬にての物語』
あるいは十代作品まで含めてもよい)の言葉の地平には、「いつもその地平の果てから、聖性が顕現せずには
おかない予感のようなものがあった」といえよう。
富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
(中略)ジョルジュ・バタイユの『聖なる神』という作品集の鮮烈な読後感を三島は(『小説とは何か』のなかで)
印象深く記している。(中略)所収の『マダム・エドワルダ』『わが母』の二作にふれながら、三島が一貫して
関心を示し注目するのは「神の出現の瞬間」である。
バタイユは「自己を超越する」こと、「わが意に反して自己を超越するなにものか」の「存在」を求める。
近代的な自我意識と、「神の死」という虚無を現実認識とする他はない人間にとっては(例外なく現代の人間に
とってではあるが)、それは「不合理な瞬間」であり、そこには何か異常で過剰なものが介在しなければならない。
(中略)
三島は、この言葉によっては到達不可能な事柄を、作家が言葉によって表現していることに瞠目しつつ、次のような
説明を加えている。
富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
〈この「不合理な時間」とは、いふまでもなく、おぞましい「神の出現の瞬間」である。
「けだし戦慄と充実と歓喜のそれとが一致するとき、私たちのうちの存在は、もはや過剰の形でしか残らぬからだ。
(中略)過剰すがた以外に、真理の意味が考えられようか?」
つまり、われわれの存在が、形を伴つた過不足のないものでありつづけるとき(ギリシア的存在)、神は出現せず、
われわれの存在が、現世からはみ出して、現世にはただ、広島の原爆投下のあと石段の上に印された人影の
やうなものとして残るとき、神が出現するといふバタイユの考へ方には、キリスト教の典型的な考へ方がよく
あらはれてをり、ただそれへの到達の方法として「エロティシズムと苦痛」を極度にまで利用したのがバタイユの
独自性なのだ。(『小説とは何か』)〉
(中略)しかし、バタイユのこの「独自性」もまた言語の領域(ぎりぎりの限界への冒険であるとはいえ)に
あったのはいうまでもない。
三島が明晰にそして最終的に自覚していたのは、この言葉の限界性であった。
富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
『太陽と鉄』は、自裁のプロセスと心理的構造を余すところなく分析したまことに戦慄的なエッセイであるが、
そのなかで次のように明言しているのだ。
〈私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。
いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終るともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。
(中略)言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によつて、生の連続性の
一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。少くとも、「絶対」の医者の待つ間の待合室の白い
巨大な壁の、圧倒的な恐怖をいくらか軽減する。(『太陽と鉄』)〉
この「絶対」を、「神」といいかえてもいい。いや、ここではあきらかに神の顕現のことがいわれているのであるが、
三島が明瞭に認識していたのは、「言葉」によってその存在を暗示(バタイユ的手法)することは十分に可能で
あっても、それは「現在進行形の虚無」にたいしては一場の役割しか果たしえないということである。
富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
自裁という行為が決定的な意味を持ちだしたのは、ここにおいてであろう。「神の死」の現実の虚無のなかに
おいては、バタイユのいう通り「過剰のすがた以外」に真理を把握し、神の出現に立ち合うことはできない。
「自決」とは自由のマイナス極限で、自己の存在を破壊することであり、その決定的、一回的な欠損の過剰さの
なかにこそ「絶対」は到来するだろう。そして遺作『豊饒の海』は、仏教的な相対主義に呑み込まれてゆく。
あらゆる歴史と存在を描ききって完結する。
三島の自決が四十年の歳月を経て、今日に至るまで深くおおきな影響を与えつづけているのは、三島が自己の
存在そのものを、戦後日本社会という虚無の時空のうちに磔刑とし吊し、供養としてささげてみせたからである。
そして、われわれは未だにその「死」の深い本質的な宗教性を知らずに(あるいは知ろうともせずに)いるからだ。
富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
三島の死後七年目、『サド侯爵夫人』のフランス語訳とパリでの上演に関わった作家ピエール・ド・マンディアルグは、
戦後の仏作家のなかでの最もすぐれた才気ある書き手の一人であるが、仏文学者の三浦信孝氏のインタビューに
答えてこう語った。
〈現在では、三島はジョルジュ・バタイユに強く惹かれていたとよく言われますが、私には確信はありません。
(中略)しかし私の見るところでは、三島はバタイユとはだいぶ違います。彼らの類似点は、彼らに共通する
絶対に対する情念であり、生と生の哲学を極限まで、絶対まで追究しようとする情熱ですが、三島は、自分の観念を
真の極限にまで、血と死にまで追いつめる実例をわれわれに残した唯一の存在であって、残念ながらバタイユは
そうした実例を残したとは到底言えません。(『海』一九七七年五月号)〉
三島の文学と行動の総体を一言で射抜くマンディアルグのこの見解は、一神教にたいしてほとんど理解を
拒もうとするこの国では、残念ながら聞くことができなかったものなのである。
富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
彼の小説もそんなに読んでいない。僕が三島由紀夫を「あ、こいつすごいな」と認知したのは、ロンドンです。
ロンドンにいたときに、BBCが没後何年かで特集を組んだ。そのときに彼がインタビューアーにきちんと
英語で答えているのを見て、聞いたら、内容的にはしっかりしていた。つまり、日本の文化をあれほどきちっと
しゃべれるやつはいないな、と僕が思ったくらいだった。それはすごく印象的だった。
彼の英語はうまかった。うまいというか、要するに、発音がいいとかではなくて、非常に適確な英語をきちっと
選んで答えていた。日本人のインタビューには、よく画面の下にテロップ、つまり英語の字幕が流れるのだが、
三島由紀夫のインタビューには付いていなかった。それくらいに彼の英語はわかるのだ。まあ、イギリス人は
(植民地を持っていたから)外国人のしゃべる英語を理解するのは得意だけれども。それにしてもテロップが
流れていなかったから、へーっと思ったし、なるほど、そういうことについては、こういう風に言うのだなと
感心した。
遠山稿二郎「日本の大学と基礎科学の危機」より
てす
よく三島由紀夫の死体から森田必勝の精子がうんぬんと、まことしやかな噂話が流布されたが、自刃現場にいた
当事者の証言から死因が特定されているこの事件の場合、肛門内まで調べる必要もなく、そのような所見もない。
決起前夜は、楯の会のメンバーと三島の5人は、パレスホテルで総監拘束の演習や、辞世の句などを書いた後、
午後4時チェックアウトし、新橋駅の烏森口近くの料亭末げんで生死決別の宴を張り、静かに食事をしてそこを
去った後、各々自宅へ戻っている。
森田必勝は新宿の下宿、小林荘に帰り、新宿西口公園近くのお茶漬け屋で夜食をとった後、新宿の深夜バーで
レジをしていた女友達を電話で呼び出し会い、下宿には午前1時半に戻っている。
三島由紀夫も、自宅へ帰り、午後10時には同じ敷地内の両親に、最後の別れのために会いに行っている。
朝は8時に起き、コップ一杯の水を飲み干した。そして、新潮社の小島さんに手渡す筈だった原稿(豊饒の海)を
お手伝いさんに託し、市ヶ谷に向かうため出かけている。
これらは、店の人、友人、三島由紀夫の家族、お手伝いさん、時間に遅れた小島さんの証言により、確定している
ことである。
三島由紀夫も、自宅へ帰り、午後10時には同じ敷地内の両親に、最後の別れのために会いに行っている。
朝は8時に起き、コップ一杯の水を飲み干した。そして、新潮社の小島さんに手渡す筈だった原稿(豊饒の海)を
お手伝いさんに託し、市ヶ谷に向かうため出かけている。
これらは、店の人、友人、三島由紀夫の家族、お手伝いさん、時間に遅れた小島さんの証言により、確定している
ことである。
キーン:びっくりなさるでしょうが、ヨーロッパの小さな国、フィンランドとかデンマークとかノルウェーでも、
三島さんの名声はたいしたものです。三島さんの小説の題名をよく知っています、まだ翻訳されていないものまでも。
(中略)
どうぞ御自分の作品を十分にほめて下さい。(笑)
三島:ただ僕が残念なのは、サガンと、谷崎さん、川端さんや僕たちと、そんなに差はないとおもうのですがね。
サガンはどんな(海外の)田舎に行っても知られている。僕は知られていない。つまりフランスのような
文化的伝統のある国と辺地にいるものとのハンディキャップは大きいてすね。いちばん身にしみて感じたことです。
キーン:それは翻訳者たちの責任かもしれないけれど。三島さんは不公平のようにおっしゃいますが、アメリカでは
サガンより三島さんの方がよく知られています。もしも私たちが「金閣寺」とか「宴のあと」を訳さないで
「美徳のよろめき」を訳したとすれば、あるいは「悲しみよこんにちは」よりもよく売れたかもしれない。
これは私たちの責任です。
三島由紀夫
ドナルド・キーンとの対談「三島文学と国際性」より
★
司会(松本徹):三島さんは、どんな印象でしたか。
本野:非常に頭のいい人でした。特に文学に関しては並ぶ者がいない。
六條:それは、誰もが認めてましたね。
(中略)
司会:三島さんは、戦争中でありながら一種の文化言論活動のやうなことをやっていますねえ。
本野:それは彼が反抗的気質だったとか、周りの者に動かされてということではなかったと思いますよ、文化とか
言論とかに対して純粋な気持ちがあって、それを学校の中で実現しようとしたら、ストップがかかったという
ことだと思います。(中略)
司会(佐藤秀明):この一連の出来事に関連してだと思いますが、この時期の平岡公威はだいぶ感情が高ぶっていて、
総務部総務幹事を辞めたいと清水先生に手紙でぶちまけています。
六條:そういう手紙が残っているんですか。清水先生とはツーカーでしたからね。僕らには見せない顔を見せて
いたんですかねえ。
本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
司会:(三島は初恋の園子と)学習院の友人の妹として知り合って、手紙のやりとりをするようになり、彼女の
一家は軽井沢に疎開するんです。(中略)そこへ三島が、主人公がですね、訪ねて行くんです。それで旧軽井沢の
ゴルフ場で接吻をすると書かれています。だけど、この恋愛は実らずに終わってしまって、三島はずいぶん
苦しんだようです。だから戦後は、辛い出発をしなければならなかった。
本野:まあ、あの当時でもそういうことはあったでしょうね。これは僕個人のことなのだけれども、一学年下に
黒田っていうのがいたでしょ、黒田一夫。その妹と僕が恋仲になって、だけど彼女が亡くなってしまったんだ。
それはショックでね。昭和二十年頃だったんだけれども。そのとき平岡に話したのかな、よく覚えていないけれども、
彼からお悔やみの手紙をもらったんですよ。なくしてしまったんだけどね、残念なことに。それがことのほか
よい文章でね。自分のことがあったあとだから、ああいう手紙が書けたのかなっていまちょっと思いましたね。
本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
司会:(三島は)高等科では総務部総務幹事になっていますでしょ。四人の幹事のうちの一人です。集会などで
号令をかけたり、挨拶したり、そういう点では目立っていたのではないですか。
本野:いや、そんな記憶はないですね。目立つということは、彼の場合はほとんどない。
司会:高等科で、さっき話の出たお芝居を書いてますね。それで演出もしている。そういう点では、ある面の
中心的な存在だったのではないですか。
六條:それはね、小説や演劇のこととなれば、彼の右に出る者なんかいないんですよ。その点ではもう別格。
それだけはみんなが一目置いていた。
本野:成績もね、僕らがどんなに勉強しても絶対に一番にはなれなかった。全然違うんですよ、彼の一番は。
記憶力とか理解力とか群を抜いていた。二番を引き離した一番だったんです。ましてや文学に関しては全く
次元が違う。
司会:ということは、性格的にリーダーになるとかいうのではなくて、お芝居となれば、身につけたものや才能で
平岡を据えるのが当然だということになっていたと、こういうことなんですね。
六條:ええ。
本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
本野:彼は優れすぎているというか、異なりすぎているということですよ。それで彼は優越感をもつとか
そういうのでなくて、自然に優れていたということでしょうね。
司会:三島の側から言いますと、外務省なり文部省なり社会に出て仕事をしている人たちがいて、自分はもの書き
という特殊な立場にいて、何というかコンプレックスのようなものをもったのではないか。文学者というのは、
本当の意味での一人前の社会人ではないんじゃないかという意識ですね、そういうものがあったのではないか。
本野:彼とは割と簡単に話もできたし、間に垣根があるという感じでもなかったんですよ。でも、彼は自分の
世界を持っていたんですね。
司会:いや、石原慎太郎との違いということにもなるかもしれませんが、実社会の中で何かをするという意識を
ずっともっていたのではないかと思うんです。(中略)
(そして、その)行動が象徴性のレベルになってしまう。芸術家の行動というのは象徴性というところへ
行かざるをえないんじゃないかな。
本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
司会:これは僕自身の気持ちが入っているのですけれども、少年のときから文学の世界を目指して、それで
文学の中でやってきたんですが、いまの歳になると一種の空しさみたいなものを感じるんですよ。実業の世界で
生きている人は、何か世の中に痕跡を残していて、小説家がやってきたことと言えば言葉をただ並べただけだと
いう空しさですね。そんなものが三島にはあったのではないか。空しさをあえて突き抜けてみせるという意志が
あったように思います。
本野:空しいという感じは超越していたと思うなあ。(中略)あれが彼にとって自然な姿だったんじゃないだろうか。
昔彼と話をしていても、全く偉ぶった感じがしない。そのまま別の世界にいるという感じだった。あなたもそうでしょ。
六條:うん、そう。平岡は平岡でしたよ。それでいて我々とは全然違うんだ。それがすごいことだとみんな
感じているんだけれども、学校ではね、そういうことは小さなことだったんです。頭がいいとか、文学をよく
知っているとかは。
本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
司会:この間、演劇で三島と関わった和久田誠男さんの話を聞いたんですが、宇宙人じゃないかと思ったと言ってました。会っているときは
そうは思わないけれども、家に帰って三島さんのことを思うと宇宙人としか思えないと言うんです。いまのお話は、
そういうところと関係しますね。三島さんのそういう面が現れるのは、高等科からですか。
六條:そうねえ、中学のときはたわいもない子どもでしたよ。むしろ北条浩の方がずっと弁が立ったし、
理屈っぽかった。
司会:北条さんというのは、創価学会の会長になった人ですね。
六條:ええ、学習院を終えて海兵に行って。北条はよく平岡に食ってかかって、口論というか口喧嘩をしていましたよ。
司会:三島というのは、やっぱり天才と言うしかない人だったと思うのですが、それがどういうところで
形成されたのか、そこが知りたいですね。
六條:それはね、清水先生の感化ですよ、清水先生にもそういうところがあったんです。
本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
六條:岩田先生も(三島に)目をかけたでしょうが、岩田先生や佐藤文四郎先生は、清水先生とは違いましたね。
(中略)「輔仁会雑誌」に書いて清水先生に認められ、「文芸文化」に小説を発表することになるのですけれども、
あの清水先生に認められ可愛がられたというのが、大きかったんだと思いますよ。
司会:なるほどねえ。三島由紀夫がいたから清水文雄がいたんじゃなくて、清水先生がいたから三島由紀夫が
いたということですね。
六條:「輔仁会雑誌」に平岡の書いたものが載るでしょ。われわれからすれば平岡のが載るのは当たり前だと
思っていましたよ、平岡もそんなふうでしたよ。だけど、僕らには、彼の書くものが分からないんだ、難しくて(笑)。
司会:清水先生を読者だと思って書いていたんでしょうね。
六條:だから、僕らの前ではひょうひょうとしていましたよ。体が弱かったけれども、コンプレックスなんか
もっていなかったみたいですよ。驕らないし見下しもしないし、卑下している様子もなかった。ひょうひょうとして
当たり前の顔をしていました。
本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
司会:中等科から高等科にかけて、四歳年上の東文彦と三島は親しくなります。(中略)(三島は)自分の作品が
くだらないものに思えたとか、そういうことも書いています。だから、自己評価も素直で、また思うように
ならないことにはどんどん愚痴を言うといったタイプだと思っていましたが。
本野:そういう相手もいたんでしょうね。僕らにも愚痴を言ったのかもしれない。でも、愚痴に聞こえなかったんだね。
六條:彼は意志が強かったからねえ。(中略)
本野:それとね、家柄というんでしょうか、彼は普通の家でしょ。やはり華族の子弟との違いというのが
あったように思いますね。彼が優秀な人間だったということを関連づけてみると、そう思います。(中略)
あなた(六條さん)のように京都の古い家柄の華族とはやはり違う。(中略)反面、だけど俺の方ができるぞ
といった気持ちですね、そういうのが三島にもあったんじゃないかと推察します。
司会:それは確かにあっただろうと思います。あったから『春の雪』といった小説が書けたんですね。
本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
司会(松本徹):(三島は)最初は着物姿で現れたとか。終戦間もなくのあの時期、若い人で着物着ているひとなんか
いなかったでしょうね。
川島:そうですよ、あの時代、講談社の社屋は焼夷弾でね、黒こげになっているんですよ。(中略)そういう時代に
彼は紺絣に袴をはいて来ました。それはちょっと印象的でしたね。
司会:太宰治に会う時、着物を着て懐に匕首を呑んだような気持ちだったと三島は書いてますけど、講談社へ
行くのにもそういう気持ちだったんじゃないですか。
川島:どうですかね。相当緊張してました。
会ったのは僕だけでした。(中略)今日はこういう新人が来るから、頼むよ、と言われて。
司会:(中略)今後いけそうかどうか、見極めようと。
川島:ええまあ、やっぱり違いましたよ、普通の作家とは。僕たち池袋あたりでカストリ焼酎飲んで、檀一雄を
はじめとして、まあ無頼の連中とばかりつき合ってました。ところが、そういう文壇とは関係がない。なんか
スッとした、まあ貴公子っていう言い方はあんまり正確でないけど、何かスカッとした、よそ者が入ってきた。
川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
川島:プライベートなことになるけど、三島由紀夫の妹美津子さんっていうのがね、家内の同級生なんですよ。
三輪田高女のね。同級生で親しくしていた。そこでね、三島のお母さんの倭文重さんもまた三輪田出で、遊びに
来るようにって言われてね、何回も遊びに行ったことがある。三島家へですね。三島由紀夫を訪ねるのとは別です。
家内について何回も行ったことがある。
司会(井上隆史):講談社で三島由紀夫の来訪を受けた後ですね。
川島:ええ。そんなことから親近感持つようになった。そして家族ぐるみの付き合いになった。だから僕がね、
馬込の三島家を訪ねると、玄関左手に日本家屋があったんですよ。そこに親爺さんと倭文重さんがいて、僕に
気づくとね、あ、川島、こっちだよって必ず呼ぶの。(中略)今ね、うまい焼酎があるよって。その頃の
焼酎ってのはね、芋焼酎でね(笑)。(中略)
司会:三島が焼酎を飲んだとは聞きませんが。
川島:ええ、息子の方はね、全然ダメ。銀座のエスポワールってとこへ一緒に行ったことあるんです。でもね、
水割り一杯飲んで、真っ赤になってね、大変だった(笑)。写真ありますよ、探せば。
川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
司会:林房雄なんかと、早くから会ってましたね、三島は。
川島:ええ。
司会:川島さんも勿論……。
川島:ええ、会ってます。(中略)林房雄がね、山の中腹に書斎を作ったんですよ。その書斎びらきをするって
いうんでね。三島さんと呼ばれたの。そしたらね、その頃ちょっと忙しかったのかな、途中で帰ってしまった。
そしたらね、三島が帰ったら、花がなくなったよってね、林房雄は酔っぱらって言い出したんだ。じゃああれ呼ぼう、
熊谷久虎という映画監督がいるが、その義理の妹のあれを呼ぼうって。あれは誰だろうと思ってたら、原節子なの(笑)
君ィ迎えにいってこいよっていうからね、地図書いてもらって、(中略)湯上がりの彼女連れて僕は林房雄の
家へ行った。
司会:じゃあ三島は会ってないわけですね、原節子と。
川島:会ってたら、いやあ、どうだったか。
司会:何年頃のことでしたかご記憶ありますか?
『仮面の告白』は出版されていました?
川島:もう出ていた。林房雄は三島をかわいがってますよ。
川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
司会(山中剛史):川島さんのお仕事では講談社インターナショナルでのものがありますね(英訳版『太陽と鉄』を
見せる)。
司会(佐藤秀明):ああ、インターナショナルに移られたんですね。
川島:これはねえ、(社で)反対が多くてね。カバーの裸の写真はやめてくれっていうんだ。
司会:三島さんは是非ともこれでって……。
川島:ええ。アメリカじゃね、裸の写真こういうふうにするとね、ゲイのね、一つのシンボルになるから、
それだけはやめてくれっ言われたんだけどねえ、「いや、是非ここにこれやってくれ」って(笑)。
司会:いい本ですよ。司会:いい本だ。
中は二色刷りで、お金かかってますよね。
川島:かかってんだよこれ。それで、裏に署名。それが効いてるんだ。
(中略)
司会:帯をするとちょうど褌が隠れるようになってるんですね。
川島:そうそう。隠したんだよ(笑)。
司会:英語の題字も三島の筆ですか。
川島:そうですよ。そちらもどっかにあるんだけど。
川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
川島:ある時ね、三島家を訪ねて、一緒に出たら、「川島さん今日はあいてる」っていわれてね、僕は会議が
あるので社に帰らなくちゃといったら、「それじゃいいや、この次にしよう」って。パレスホテルへ送って行くと、
「出来たらあなたと一緒に行きたいんた」って、楯の会だね。
司会:決起の予行演習とか。
川島:いや、一緒に飲むんだって。「川島さんがいると盛り上がるから」って(笑)。僕酒飲みだからね。
彼あまり飲めないから、「代わりに飲んでくれないか」っていうふうに話してたね(笑)。(中略)ああいう時はね、
惜しいんだよな。会社のことなんか別にしてね、三島がそんなこと言うのはあんまりないからね、あの時期にね。
どうして一緒にいかなかったかと悔やまれますけど。まあ人生ってそういうもんだよね(笑)。
司会:最後の別れみたいな、そういうことはありましたか。
川島:いや、別にないですねえ。あれが実はそうだったのかなあ。うん。ただ凄く忙しかったからね、例会とか
なんとかでね。
川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
司会:映画「トラ・トラ・トラ!」を見にいこうと誘われたというお話ですが、それも晩年ですか。
川島:そうです。
司会:三島が好きだった戦争映画ですね。
川島:「トラ・トラ・トラ!」はね、楯の会の推薦映画だったの。隊員と一緒に何回もみてるらしいよ。志気を
鼓舞するために。まあ、あの事件も真珠湾攻撃みたいなところがあるからね(笑)。でも、今ねえ、三島由紀夫
みたいのいないもんな。もう全部フラットになっちゃってね。人間ね。
司会:数世紀の間に一人出るかどうかの人ですね。
(中略)
司会:川島さんが親爺さんと意気投合したってのは(笑)。
川島:いやあ、あの親爺とはホントによくつき合った(笑)。
司会:テレビ局や編集の人なんかが来ると、親爺さん見ているわけですよね。親爺さんと言葉を交わして帰る人は
そんなにいなかった。
(中略)
司会:お母さんが、あれだけ早熟な才能を育てたと思うんですが。
川島:やっぱり、原因はお袋じゃないかな、あの親爺よりも。「年取ると段々親爺に似てくるからやだよ」とかって
いってたけど(笑)。
川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
司会:ジョン・ネイスンが評伝で、家庭の中のことを結構書いてしまいましたね。あれは、ちょっと平岡家に
とっては、喜ばしくないような……。
川島:喜ばしくない。
ネイスンってのはね、あれ変わった奴だ(笑)。僕は非常に親しくしてて、渋谷の恋文横丁かなにかに連れてったんだ。
(中略)
面白い男ですよ。ただ、まあねえ、聞き書きによる取材だから、よく分かってないですよ。
司会:彼は、日本語はよく出来るの?
川島:出来ますよ。僕は会ったときに、落語を一席なんて言うんだあいつ(笑)。その落語がね、なんだかね
「火焔太鼓」じゃなくて、なんか、聞きかじりのやつやって、日本語これだけ出来るんだって誇示してた。
まあよく出来る男ですけどね。でかくて、オートバイ専門で、ホントにアメリカンスタイルね。いい意味でも
悪い意味でも。どうしてんだろうなあ、今。
司会:カリフォルニアのサンタ・バーバラにいるんじゃないですか。
一時映画界に入ってたみたいですけどね。
川島:撃たれ役じゃないんですか(笑)。
川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
秋山:(昔から)三島由紀夫の存在は知っていた。早稲田に入る前なんかでも本屋に行けば、「花ざかりの森」を
売っていたからね。これがあの早熟の才能ある者が書いたのかと、あちらこちらの本屋を見てまわった。読みは
しなかった。翻訳本をやらなくちゃいけなかったから、そんなものは読んでいられなかった。
司会(井上隆史):秋山さんはいつ頃から、三島由紀夫に同時代の感覚や接点を感じるようになったのですか?
秋山:言いにくいけど、それはないよ。ないというより、「花ざかりの森」という早熟のタイトル。題が題じゃないか。
そんなかっこいいもの、関係ないと思っていた。
(中略)どこが違うのかと、後になっても感じたことだが、やはり階層が違うということだよ。(はじめて三島と
会ったきっかけは)村松剛や佐伯彰一がいた「批評」という雑誌に、村松に誘われて加わった、その時にね……。
司会:昭和四十年一月ですね。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
秋山:そう。なぜか遠藤周作が三島さんの家に連れていってくれた。その時、初めて社会的なことにちょっと
目覚めたんだよ。一月だったし、何か持って行かなくてはと、奮発して煙草の「ケント」をワンカートン買い、
持って行った。ところが遠藤周作と一緒に行ったら、三島さんが玄関で出迎えてくれて。まるで舞台だよ。
遠藤周作は三島に花束を持って来ていて、渡しながらご挨拶なんかしている姿を見て……。
司会:ちょっと違うなと。
秋山:ちょっとどころじゃないよ。持参した煙草は持って帰ってきちゃったよ。はっきりとこれは階層が違うなと。
司会:その時、階層というものをリアルにお感じになったのですか?
秋山:はっきり感じましたよ。西洋の何かを模したような立派な家だしね。特にやってることがさ。遠藤周作も
こんなことやるんだなと。
司会:遠藤周作についての見方も変わったのでは?
秋山:かなり変わりました(笑)。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
司会(松本徹):外野席から見ていたわたしたちにとって、秋山さんの登場は非常に鮮やかでした。(中略)
「内部の人間」「想像する自由」(昭和三十八年)を発表されてからの秋山さんの存在感は凄かった。三島も
即座に認めた。
(中略)秋山さんから、三島はかなりの衝撃を受けたのではないかと思います。
秋山:未だによくわからないが、三島由紀夫は私に非常に親切でした。それはなぜだったか、現在でもよくわからない。
司会:なぜ親切だったのか色々と考えたいのですが、一つは、三島由紀夫の「太陽と鉄」(昭和四十年十一月
連載開始)は、秋山さんの仕事の影響があるのではないかと思うのです。(中略)評論かエッセイか小説か、
わからない新しい仕事というのは、秋山さんのほうが先ですよ。秋山さんがすでにやっておられる。そのとき
三島は、「なるほど、これだ」と思ったのではないかと私は思います。
秋山:あそこで文章の波長が共鳴したのかね。そう考えるといいけど、未だにわからない。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
秋山:私がある時から思っていたのは、もしかすると先ほどの階層の話に繋がるが、階層や絶対的な教養の違いが
あるからね。こちらは正反対の何もわからない奴、というふうに(笑)。
司会:しかし、明らかに三島由紀夫は、人間的な好感を秋山さんに対して持っていたと思うんですね。存在に
対する好感とでもいうものを。
(中略)
秋山:三島さんは最初の頃から、しかるべき外国の作家、作品に手を掛け、自分のものにして進んでゆく。一方、
こちらは何もなく、敗戦を契機に今まで読んできたものを捨てなければならないと思っていた。ただ一つ私が
大切に持っていたのは、志賀直哉だけです。
司会:しかし、三島はそういう秋山さんのことを、なんて言うのかな、セクシーだと思ったんじゃないでしょうか(笑)。
ストイシズムというか、ギリギリのところから出てくる魅力というか……。
秋山:私が考える対象としたのは、道端の石ころ。三島さんはそうじゃないからね。
司会:三島にとってそれが魅力的なんですね。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
秋山:私だけの考えですが、「仮面の告白」は、三島さん自身も説明し難い色々な意味があると思います。つまり、
私も後に、〈私〉という主格を中心にしての連作をやる。(中略)〈私〉という主格が行う人形劇のようなものに
すぎない。そこが「仮面の告白」に似ているのかもしれない。(中略)私は、三島さんの「仮面の告白」を
(「昭和文学ベストテン(小説篇)」)に挙げましたが、私が三島を挙げたことに、他の人は意外だったらしい。
三島さんは凄い人です。物を書くといってもただ書くのではなく、細部の密度、明晰さ、集中力を持って書く。(中略)
司会:「仮面の告白」にも書かれていますが、人間として生きていく資格のない人間だという認識がまず
前提としてある。そして、そこから、どうにかして生きていきたいという時点で、書くという行為が始まる。
これは秋山さんと同じなんですよ。(中略)しかし、お二人の行き先が全く違う。しかし、間違いなくここで
クロスしている。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
秋山:私は、あのときから今に至るまで、道端の石ころですよ。今だってそうです。すべてそこに還元される。
三島由紀夫は、やはり特別な人です。つまり、三島由紀夫は主人公なんです。日本の文学者にはあまりいない。
司会:(中略)それぞれ違う道を歩んだ。そのところについてどうお考えになりますか?
秋山:物の考え方ですね。根本の波長が違うのです。三島さんは特別な人だということで、私は時折、中原中也と
比較することがあります。中原中也は、毎日毎日、昼起きて、散歩して、夜に詩を少し書く生活を七、八年続ける。
あの生活の時間の在り方というものは大変なもので、普通の人がそのような生活を送ったら、二、三年で気が
狂ってしまう。それを持ち堪えた中原中也の強さというものは凄い。私は中原中也の詩が心に食い入っているほど
好きですが、一瞬一瞬の生き方が違うと思いました。一瞬一瞬が前後に繋がるのではなく、完結しながらの
一分一時間の密度になっている。そこが三島と重なる。こういう人は、長生きしようとかそういうことではなく、
その都度、完結し、その連続を生きる。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
秋山:三島や中也、そして信長も、その都度完結する。だから戦争ができる。完結するということは、死と
裏合わせですよ。いつ死んでもいいと思っている。だから奇妙な戦争の仕方ができてしまう。あとは運ですね。
そういったことから考えると、多くの人が言っている信長と違った信長像が立ち上がってくる。
司会:中原中也と信長との繋がりなど普通は連想しませんが、秋山さんのおかげで一点繋がるなと考えさせられます。
中也と三島にしても本質的に相当違うと思いますが、密度の濃さという共通項が挙げられる……。
秋山:本質的には違うでしょうけれど、中原中也も主人公でありたいと思った人です。
(中略)中也と三島を考える上で、間に小林秀雄を入れて考えてもいい。やはり重要なのは出発点です。
中也は(中略)いわゆるランボオなんですよ。
いわゆるランボオに傾倒したら、社会の中の主人公にはなれない。しかし三島の文学はそうではない。ラディゲの
「ドルヂェル伯の舞踏会」などの方面ですから。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
秋山:ランボオはいわゆる西洋を変えようということや、不可解なものに手で触るようなところがある。
そういったものを、実は三島も持っている。しかし、そちらへは進まなかった。
司会:どうしてでしょう。ラディゲに触れるのが早過ぎたからでしょうか?
秋山:いやいや。触れる段階の早さではなく、文学に取り組む姿勢の違いでしょう。文学のモデルの違いです。
中原中也の場合、文学のモデルは詩です。ランボオやヴェルレーヌです。三島の場合は小説です。小説は社会、
むろん政治も含んでいる。
あれほど一々のことを管理し決定して小説を書いていた人はいません。実際わかっていて、故意にそのプロセスを
飛ばしたと言えます。だから、所々で恐ろしいことを言っている。それは小説に対する疑いです。中村光夫との
「対談 人間と文学」の中で、小説に登場する〈彼〉という存在の、その〈彼〉に対して、どのような責任を
持つのかと言っていますが、これはそもそも小説の否定です。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
司会:小説を考えていく上で、それを言ったらおしまいということがあるのですね。なぜ三島は、そういったことを
言ってしまうのでしょう? (中略)
秋山:やはり三島さんは、主人公であることを生きた人だからね。たいへんな主人公になろうとしたのではないか
というのが私の考えです。織田信長と一緒です。(中略)
山中湖の文学館にある原稿などを見ましたが、あのような原稿の書き方をする人はいない。あれはすべて遺品ですよ。
いつ終わってもいいような、完結した原稿になっています。主人公の話に戻りますが、三島は日本あるいは
日本文化の中の主人公になろうとしたのでしょう。
司会:最後のところは、条件付きで賛成してもいい。例えば「日本文学小史」などは、いま秋山さんがおっしゃった
ような意図があったでしょう。日本文学の歴史と自分の文学を一体化させ、さらに先へ進もうとした。(中略)
一番肝心なのは、日本文学全体を考え、それを提示しようとして、三島は死んだんだと捉えることでしょう。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
司会(山中剛史):ご自身の仕事に注目していた、そして親切であったという三島の死に直面し、秋山さんは
会社をお辞めになるほどショックだったとお聞きしましたが。
秋山:ショックどころではなかった。なぜ三島由紀夫が、あれほどまでに私に親切にしてくれたのかわからず、
それに対してきちんと対応していませんでした。今にして思えば、私の「簡単な生活」をペンギンブックスに
収録してくれたことは、たいへん大きなことです。しかし、その時は全く関心がなかった。(中略)外で泥酔して
いたとき、わが家に三島さんが電話をくれた。その電話に家内が出ると、「私は小説家の三島由紀夫です」と
名乗られた。まずそのことに感銘を受けましたね。(中略)電話をすると、「ペンギンブックスの件はちゃんと
済ませてあります」と。三島さんが死ぬ一ヶ月前くらいだったと思います。(中略)同時に収録される埴谷雄高は、
「秋山君、ペンギンブックスの件はどうなったかな?」などと言っていました。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
井上:三島と埴谷の関係というのは微妙なんですね。
秋山:それが意外ね。
井上:本音がよくわからない。たぶん三島由紀夫は埴谷の考えていることは理解できるが、存在として感覚的に
好きではなかったのではないかという気がします。
しかし、もう少し接点があってもいいと思うのですが。
秋山:いや。対談や批評でも接点はかなりある。三島さんは埴谷のこともよくわかっている。
山中:(中略)同族嫌悪といったような、ある種埴谷に似たところを感じて、わざと避けたということも
あったのではないですかね。
秋山:たしかに似たところも感じていたでしょう。ドストエフスキーの小説でいうならば、埴谷雄高はどこかしら、
地下組織の秘密委員会の委員長のようなところがありますからね。(中略)一方、三島さんも楯の会を組織するしね。
松本:「豊饒の海」のような作品を構想するのには、やはり「死霊」のような小説が前提にあるでしょうね。
あれに対抗する輪廻転生の小説世界を作ってやろうという思いはあったかもしれない。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
秋山:これは空想の話になりますが、「死霊」の中にはもう一つの流れがあって、現実に対して悪いことを
考える首猛夫、あれなんか三島さんは好きだったんじゃないかな(笑)。社会の中で悪いことを起こそうなんてね。
しかし、そのようなやり方ではなく、自ら実行しようと思ったのでしょう。三島さんは行動力があったからね。
ただ、今でもわからないが、長篇小説などを書く場合、主人公の意味が二つになる。一つは作品の主人公。
ところが三島さんの場合、現実の自分が主人公。これが素直に繋がるのか、打ち消し合うのか……。
井上:原理的には打ち消し合うはずなんですよね。
秋山:私小説というのは、作者が主人公になっては駄目。ところが三島さんの場合は、作品の主人公ではなく、
現実の中の主人公が強いから。
井上:作品と現実が重なってしまうのは、一つの幻想ですね。しかし、あえてそうした幻想を恐れなかったと
いうところもあるのではないでしょうか。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
井上:変な喩えですが、デカルトと三島は似ているところがありまして(笑)。つまり、原理的にそれを言っては
おしまいだというところまで相対化し、思考実験でゼロからスタートする。そして自明性というものを棚上げする。
現象学で言うところのエポケーというものを、ある意味でデカルトは徹底的に行うわけですが、三島由紀夫にも
そういうところがあって……。
(中略)
秋山:デカルトを文学として置き換えるならば、あれは宇宙の主人公ですよ。
井上:そうですね。そして、自分ですべてを構成してしまう。
秋山:よく冗談で言われているように、デカルトは宇宙の運動が神の一突きによるとするから、何もしなくても
よいのであれば、神は不在で済ませたかもしれないと。これも主人公です。物を考えるということはどういうことか?
それは驚くということが第一だとも言う。まったくその通りですね。
山中:すべて疑ったのちに、考えている自己を見出す。コギトですか。
秋山:そして、精神指導の規則や情念論などすべて集約されている。大主人公ですよ。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
松本:三島の場合、現実の行動によって自分が主人公になれる、とは絶対に思っていなかったと思う。石原慎太郎と
違うところです。石原慎太郎は自分が主人公になり、少なくとも東京都を自分の意図するように整えようという
気持ちがあるけれど、三島は自分にはそれはできないという認識はあったでしょう。それが芸術家であると
いうことなのです。
山中:しかし、芸術家として自分自身が出てくる部分もあるのではないですか?(中略)
井上:石原慎太郎と比較するとよくわかります。慎太郎はアイロニーがなく、三島にはあったという話では
ないですか(笑)。
秋山:そう言われるとそうだけどね。とても言いにくいことだが、三島さんは石原慎太郎なんて小さいと
思ってるんじゃないの(笑)。東京都では、志が小さいからね。
あれくらいじゃな(笑)。(中略)例えば、日本文化というものを背負って歴史小説などを書いていた森鴎外と
いう人はどうだったのでしょう。
松本:鴎外の場合は、「古今集」までは遡りませんね。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
秋山:喩えとしてはかけ離れていますが、信長はある程度天皇と仲良くやっていこうと思った人です。
松本:信長が天皇とどれだけ向き合ったか知りませんが、三島の場合、天皇を問題にしたのは、あくまで文化の
次元において、日本全体を長大な時間と空間の両面から考えてですね。
秋山:三島さんはそれよりも上に行こうと思ってたのでは?
山中:同一化ではなく、さらに上ですか?
井上:三島は幻想において、源為朝、もっと遡って日本武尊などにも自己同一化しようとしたので、三島にとって
文化的天皇というのは日本武尊の系譜になりますね。そうすることによって、自分の理想の天皇になろうとしたと
いうことはあるのではないでしょうか。現実の天皇よりはるかに上になりますね。
松本:天皇というものは、なろうと思ってなれるものではないし、三島はそのようなことはまったく考えて
いませんね。(中略)普通の人間は絶対に神になれない。三島にしてもそうです。だから、人であり神でもあり得る
希有な存在、天皇に対して、厳しく要求したのです。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
松本:三島にとって小説は、基本的に少し合わないところがあると思います。(中略)ぴたりと合うのは、
やはり芝居の世界ですね。
井上:しかしどうでしょう。三島はニヒリズムや疎外感といった主題を抱えていたと思うのですが、芝居の世界に
行ってしまえば、そういったテーマを充分に追究できなかったのでは?
(中略)
秋山:三島由紀夫と小説の問題はかなり厄介ですよ。(中略)三島さんは小説に対して非常に難しい考えを
持っているね。
井上:テーマという言い方は適さないかもしれませんが、つまり風船を作れば結び目があり、三島由紀夫という人は、
風船の結び目がどうしても見えてくる人だと思うんですね。その結び目をどう名付けるか。私はニヒリズムと
名付けていますが。(中略)三島が、本気で書いた小説は、この結び目は何なんだ? ということをずっと
考えていたはずで、それはデカルトの主人公の問題と繋がると思うのです。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
松本:ニヒリズムなんて、今の時代、皆持っていますよ。
井上:人間である以上、皆持っているでしょうね。しかしそれに気づかないふりをしている。だが、三島の場合
「鏡子の家」の中で、青木ヶ原樹海で物が見えなくなるというシーンがありますね。あれは比喩ではなく、
リアリティーだと思うのです。実際の感覚として、あのようなことがあるだろう。あるいは物の意味が解体して
いくというような。
松本:それは、秋山さんが書いておられることでもありますね。意味が失われるというリアリティーね。
井上:人間として我々はニヒリズムを持っていると言っても、意味が解体していくことを、はたして朝から晩まで
感じていられるかどうか。三島という人は感じていただろう。また、例えば、中原中也のような一瞬一瞬完結した
生き方を我々は普通しないと思います。しかし三島は中也とは違う形で、そういった生き方を強いられている。
連続性がその都度途切れるという感覚です。
そういったことをどのように表現したらいいか。放っておくと気が狂ってしまう世界ですから。
秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
松本(司会):それにしても三島さんは何故こういう『喜びの琴』のような台本を正月公演にぶつけてきたんですかねえ?
戌井:そこがねえ。そういうことは直接には聞けません。彼は、要するに文学座は杉村春子の劇団で、男連中は
席がないみたいだ。じゃあその男連中に、もっと元気のでる芝居を書くんだ、ということを言ってます。
松本:この台本は、間違いなくお正月の芝居にふさわしくないですね。芝居をやる以上はお客の受けを考えなくちゃ
ならないし、季節も考えなくては。三島さんはそういうことを考える必要は心得ていたはずなんですがね……。
戌井:だから僕は、三島さんのほうが思想的だったと、思っています。長岡輝子さんから聞いたんですが、
長岡さんが三島さんに『喜びの琴』のことを、あれは踏み絵じゃないかと言ったんですよ。すると、「バレたか」と
言ったんだって。
井上(司会):やっぱり確信犯なんですかね。
戌井:バレたか、と言ったとしたら、やっぱりそうした意図があったんでしょうねえ。でも、彼は、劇団が混乱して
中止にまでなるとは考えてなかったと思う。
戌井市郎「文学座と三島由紀夫」より
松本:三島のああいう台詞はどこから出てくるんでしょうねえ。
戌井:どこからでしょうね。泉鏡花なんかをよく読んでいましたからね。しかし文体は三島独特のものですよ。
松本:とくに『鹿鳴館』のような台詞はね、聞いていると、歌舞伎ですとね、黙阿弥に非常に近いような気が
するんです。黙阿弥ってのはどの芝居見ても、朗々たる台詞が出てきますね。三島さんのお芝居ってのは何か
ああいう台詞と通じるものがあるんじゃないかなって、そんな感じを持っています。
戌井:三島さんは、もう学習院時代から戯曲を書いているでしょ。
教養として、どういうものに接していたのか……。
松本:三島さんの基本的な演劇教養は、歌舞伎ですね。中学生になった早々から、歌舞伎にこころを奪われ、
熱心に見続けた。
戌井:やっぱり歌舞伎や能の伝統芸能を追及していますね。日本人ですからねえ。
松本:新劇の他の劇作家と、その点が決定的に違う。
戌井:だからあれだけの歌舞伎の台本を書いた……。
松本:それとともに、新劇の世界であれだけの大きな花を開かせることができた、ということがあったわけで。
戌井市郎「文学座と三島由紀夫」より
戌井:(俳優は)みんな新劇やろうとすると難しく考えるんです。台詞の意味とか気持たとか。それも必要ですけれども、むしろ自分の
台詞のエロキューションですよ。
井上:三島演劇の心理っていうのは、日常から類推される心理のもう一つ先を行くようなところがあるんで、
表面的な心理学で感情を整理するだけじゃ駄目ですね。
山中(司会):写実的な心理模写だけでは届かないかもしれませんね。
松本:心理、感情は観客の方にまかせればいいんですよ。
戌井:前に団十郎さんがやった『春の雪』。こないだから海老蔵君にやれやれって言ってるんですけどね。
これ好きですし。初演の脚本は川口松太郎さんでしたが、今度やる時は新しい脚色で。
松本:それじゃ、戌井さんがやるべき三島のお芝居はまだまだありますね。
戌井:ええ(笑)。
松本:新劇では大芝居ってのはなかったですものね。それを三島ひとりが作ったようなとこがあるでしょう。
戌井市郎「文学座と三島由紀夫」より
山中:三島由紀夫が亡くなった時は?
戌井:隣の第二稽古場の二階で会議やってたんですよ。杉村さんもいまして。テレビがついていて……。その時、
そのショックはね……。やっぱり三島さんの思想というものがハッキリしたなあというか、その瞬間に。
井上:じゃあ、『喜びの琴』から一直線上に……。
戌井:あるんですよ。
山中:『喜びの琴』は三島にとっては踏み絵以上の意味があったんでしょうか。しかし、この戯曲、この事件以来
すっかりある種のイメージが出来ちゃったようで、上演史なんかを調べてみると、その後全く再演されてない
ようですね。日生でやった時も、変に固いイメージがつかないようにと考えたのか、宣伝ではスリラーのような要素を謳ったみたいですが、
やっぱり難しいのかなあ。
戌井:これ、もうちょっと短くして、テーマの信頼と裏切りがはっきり分かるような面白い台本にしてね、
僕やってみようかなと思うこともあるんですよ。若い連中を使ったら面白いかもなあと、勉強会でね。
戌井市郎「文学座と三島由紀夫」より
松本(司会):三島が強く意識していた同時代作家は誰でしたか?
寺田:やっぱり(武田)泰淳さんを一番意識していたと思いますね。後は、安部公房でしたね。(中略)
松本:泰淳との対談も寺田さんが?
寺田:そうです。いつ聞いたかよく覚えていないんですけれども、三島さんは「俺が一番尊敬している作家、
現代作家は誰か知っているか? 泰淳なんだよ」っていう話をするんです。(中略)人前では言わないだけですよ。
編集者には漏らすんですよ。(中略)
三島が死んだ時の泰淳さんのエッセイね、やっぱりもう……。これは酔っ払って書いてるなということわかるんですよ。
後半が乱れてくるんです。本当に泰淳が惜しんでいるんですよね、三島さんを。三島がね、「仮面の告白」の原稿を
坂本一亀に神田のランボオで渡すんだけど、それを泰淳さん、見てるんですね、側で。やっぱり泰淳さんが
特別な人だったのは、そういう現場も見られているということもあって、三島さんとしてはずっと泰淳さんのことが
頭から離れなかったのかもしれない。ライバルというよりも、どういうのかな、温かい先輩としてね。
寺田博「雑誌『文芸』と三島由紀夫」より
寺田:段々思い出してくるんですよ。こうやって話していると、延長線上で。やっぱりね、三島さんが文芸誌の
目次に入るか入らないかというのはかなり大きい問題になる時期だったですよね。それを言ってなかったんで、
付け加えますとね。やっぱり文芸誌のビッグネームなんですね。(中略)戦後派の中ではやっぱり三島さんは
一番商業的にビッグネームだったんですよ。そうだ、吉本隆明との対談をね、三島さんとの対談を、本当に
やりたかったですよね。二人ともやりたがっていたんですよ。
違った場所で私は二人から耳にしていて、実に残念だったですね。私がやらなきゃいけない仕事だった。(中略)
もう一歩突っ込んで、三島さんと吉本隆明との対談というのをやらなければいけなかったですよね。
松本:惜しかったですね。
寺田:これは実に惜しかった。これをやっていればね、そこでまた別の何かが開けた可能性があります。三島さんが
死ぬことをやめたかどうかまでは言えませんけど。
寺田博「雑誌『文芸』と三島由紀夫」より
松本:その頃はもう決めてたんでしょうけどね。泰淳さんと会った時はもう決めていた。
寺田:決めてますね。
松本:その時の言葉になっていない三島の態度で、何かありましたか?
寺田:うーん。僕は三島さんの最後で思い出すのは、新年号の原稿を頼みに行ったんですよ、もう直前ですね、決行の。
その時に三島さんは別れの挨拶的なことはしませんけれども、顔にやっぱりそういうものが出ていたような気が
後でしました。というのは、「君に児童文学あげるよ」というふうにね、言ってくれたんですよね。「じゃあ、
少年時代をいずれ特集でいただきます」と言わなきゃいけなかった。しかし、私は死ぬ覚悟しているとは
思わないから、「やっぱり新しいもの書いてくださいよ」って簡単に言って引き下がっちゃった。それを実に
後悔しています。
その時のニュアンスでは、「君にはあんまり何もして上げられなかったから、これを記念にあげようかな」という
ような気持ちが少しはあったんじゃないかなと思います。そういう表情がちょっと読み取れたんですよね、
後で考えるとね。
寺田博「雑誌『文芸』と三島由紀夫」より
松本(司会):(憂国の)音楽はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」でしたね?
藤井:はい。
音楽の打ち合せをした時、レコードを聞きながら三島さんがストップウォッチで計るわけですよ。で、「音楽を
どこから流すんだ」、「ここから流しちゃおう」ということになりまして、(中略)麗子はこういう姿勢でいて、
こういうふうに動く……、ってありますね。そこへ音楽を同時に流すわけですよ。するとピタッと合うわけです。
井上(司会):偶然、象徴的に合うわけですね。
藤井:例えば麗子が夫の帰宅の気配に気がついて振り向いたところで、牧笛が軍隊のラッパのように聞こえるんです。
シーン15です。皆びっくりしてね。神がかりだって。「ええっ!」って素直に子供みたいに喜んだ。あれは
三島さんな芝居したんじゃないかと思ったほどでしたよ。
井上:う〜ん、可能性としてあるかもしれませんねぇ。
藤井:いや、やっぱり芝居じゃないんですよ。ある種のフロックだと思います。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
井上:能舞台のようなセットに、「トリスタンとイゾルデ」という組み合わせが独特ですね。
藤井:ワーグナーは三島さんが最初から使いたかった。
井上:外国で上演するということを意識して?
藤井:いや、そうじゃないと思いますね。あの人はね、もともと外国人に見せようなんて思っていなかった。
はじめ「16ミリでやる」と言っていたので、僕は「やるんだったら35ミリでやりましょう。一般の劇場で上映できるし、
外国の映画祭にも出せるじゃないですか」と言った。それまで三島さんはそういうことを考えてなかった。
いわゆる短いプライベートフィルムを作るのが、小説家とかいろんな人たちのあいだで当時流行っていたんです。
それがベースにあったかもしれませんが、しかし、道楽でやるんじゃないと、三島さんは最初から言っていましたね。
そこで、「あなたの原作、脚本、製作、監督、主演でなきゃ商売になりません」と言ったんですよ。三島さんも
納得してくれました。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:(憂国は)最初はブニュエルの『小間使の日記』と二本立てでしたからね。これもいい映画でした。
(中略)
山中(司会):ブニュエルと一緒にカップリングしてやるということに対して、三島が何か言っていたことは
ありますか?
藤井:いや、特にないですよ。(中略)
三島さんはね、例えば市川雷蔵の『眠狂四郎』とか勝新太郎の『座頭市』とか、高倉健の任侠ものとかとの
二本立てが出来ないか、というのが第一希望だったんですよ。「俺は芸術映画と一緒にやるというのは嫌いだ」って
言ってた。
井上:それは面白い話ですね(笑)。
藤井:この組み合わせは三島さんの意図に反しているんです。だから三島さんはATGでやりたくなかったんです。
だけど当時は二本立てが普通で、例えば『眠狂四郎』と『座頭市』をやる時に、どっちかを外して『憂国』では、
劇場が買わないんです。(中略)そうしたら、川喜多かしこさんが「洋画と組んだ方が良いんじゃないですか」と
言って下さった。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:話は前後しますが映画が出来た時に、三島さんが「内緒で一般のお客さんに見せてくれ」と言うんですよ。
「飲み屋のおばさんとかそこらにいるあんちゃんとかそういう人たちを集めて」って。
それでね、(中略)新宿に「十和田」という、有名な飲み屋がありましてね。(中略)女将さんと、ごく普通の
町の人たちに見せたんです。十五、六人いたかな。終わったら、女将が言うんですよ、「どうして日本の音楽を
使わなかったの?」って。(中略)そしたら、バーンスタインが東京に来た時、東宝の試写会でこっそり『憂国』を
見せたら、同じことを彼が聞くんです。「一つだけ君に質問がある」って、三島さんがいないところで私に聞いた。
「なぜワーグナーを使ったの? どうして日本の音楽を使わなかったの?」って。僕は新宿の飲み屋のおばさんを
思い出した。映画もわからないし、音楽もわからないんだけれども、巨匠と同じことを奇しくも言ったのは
不思議だなぁと。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
佐藤(司会):『憂国』という映画は、最初は漠然としたプランから始まって、ATGで大成功するまで大きく
膨らみましたね。
藤井:僕もプロとして真剣にやった。単に嬉しがって一緒になって道楽映画をやってたら、「お前何やっているんだ」
ということになって、会社を首になってますよ(笑)。スタッフも内緒で呼んだわけですからね。会社の誰も
知らなかったですよ。
(中略)
松本:(大映社長の)永田さんに叱られませんでした?
藤井:言われましたよ。「お前が今度やる時は俺にちゃんと言ってからにしろ」って。
松本:それだけで済んで良かったですね。
藤井:永田雅一は三島由紀夫の大ファンなんですよ。永田さんは学校もちゃんと出てないし、田中角栄とか
ああいうタイプなんです。(中略)二十八歳くらいで第一映画というのを作ってますが、今じゃ想像できないくらい、
才能というんですかね、それがあったんですよ。(中略)そういう永田雅一にしてみれば三島由紀夫は凄い存在。
若くしてデビューしてあれだけ売れまくった小説家というのは永田雅一にしてみれば天才だ。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:だから、別の時ですけど、市川崑さんと僕がフランスへ合作の仕事で行くことになりましてね。三島さんが
講談社の榎本昌治さんと一緒に送りに来てくれたんですよ。その時永田雅一も羽田に来ていました。僕を送りに
来たんじゃないですよ。たまたま国内線で飛ぶために羽田へ来たんです。そうしたら三島さんがいるんで、僕に
向かって、「お前のために天下の三島由紀夫が来るわけがないだろう」って言って、「三島由紀夫が何故ここへ
来てくれたか、わかっているか?」って訊ねるんですよ。「社長、送りに来てくれたんです」って答えたら、
「お前を送りに来たんじゃなくて、お前が大映の人間だから来たんだ」って。
山中:嫉妬しているわけですね(笑)。
藤井:猛烈にやきもち焼いてる。「お前、誰に月給貰っているんだ」、(中略)「俺が社長をやっている大映に
いるから、三島がお前を送りに来た。だから俺に感謝しろ」って。しょうがないから、「どうもありがとう
ございました」って言った(笑)。三島さんは、よく永田雅一の真似をしては、まわりを笑わせていました。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:だから、別の時ですけど、市川崑さんと僕がフランスへ合作の仕事で行くことになりましてね。三島さんが
講談社の榎本昌治さんと一緒に送りに来てくれたんですよ。その時永田雅一も羽田に来ていました。僕を送りに
来たんじゃないですよ。たまたま国内線で飛ぶために羽田へ来たんです。そうしたら三島さんがいるんで、僕に
向かって、「お前のために天下の三島由紀夫が来るわけがないだろう」って言って、「三島由紀夫が何故ここへ
来てくれたか、わかっているか?」って訊ねるんですよ。「社長、送りに来てくれたんです」って答えたら、
「お前を送りに来たんじゃなくて、お前が大映の人間だから来たんだ」って。
山中:嫉妬しているわけですね(笑)。
藤井:猛烈にやきもち焼いてる。「お前、誰に月給貰っているんだ」、「あなたに貰っている」、「俺が社長を
やっている大映にいるから、三島がお前を送りに来た。だから俺に感謝しろ」って。しょうがないから、
「どうもありがとうございました」って言った(笑)。三島さんは、よく永田雅一の真似をしては、まわりを
笑わせていました。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
井上:『からっ風野郎』の時はいかがでしたか。
藤井:『からっ風野郎』の時は、講談社の榎本昌治さんが、僕に「三島の映画やらないか」と言ったんですよ。
「監督? 主演?」って訊ねたら、「馬鹿。主演だ」って言うから、「あ、そう? で、何やるの?」。そうしたら、
「何でも良い」って。(中略)
松本:映画は榎本さんの発想なんですか?
藤井:いやいや、三島さん。
松本:三島さんがそんなに望んでいたんですか?
藤井:ええ。
松本:日活の『不道徳教育講座』にちょっと出てますね。あれがきっかけですか?
藤井:いや、その前からですよ。
松本:何で三島さんは、そんなに望んでいたんでしょうね?
藤井:やっぱり映画に出たかったんじゃないですか(笑)。自分が監督するんじゃなくて、要するに、役者とか
俳優としてですね。
佐藤:その前に『鏡子の家』の映画化の話がありましたでしょう? 大映で。それがいつの間にか『からっ風野郎』の
主演の話になってきますね?
藤井浩明「映画製作の現場から」より
井上:『鏡子の家』を市川崑監督でやると、「スポーツニッポン」が報じてますね。
藤井:市川崑さんが『炎上』をやりましたでしょう。傑作だと思うんですけど、市川さんもあれから三島由紀夫に
注目するようになったんです。『鏡子の家』は、雑誌「声」に冒頭部分が載った時から目をつけていて、本に
なると同時に、市川さんに話しました。やる、と言ってくれたんで、永田雅一に、三島さんが書き下ろしの大作を
出したので、市川監督でどうですかと言ったら、それ以上何んにも聞かなくて、「乗った!」って言うんですよ。
会議できめなきゃいけないのに、もうそれで決まっちゃった。そんな時に、主演の話を榎本が持ってきたんですよ。
『鏡子の家』とは関係なく。つまり、三島由紀夫原作の映画化と、三島由紀夫というスターの主演映画が、運悪く
バッティングしてしまった。それで『鏡子の家』のほうが後回しになっちゃったんです。
井上:そういうシチュエーションがあったのですか。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
松本:脚本はどうでした?
藤井:最初はね、「白坂依志夫でやろう」って言っていた。白坂は、『永すぎた春』でも脚本を書いたし、
三島さんともお互いとてもよく知っているんですよ。(中略)二人は話していて、「インテリをやりたくないん
だったら、じゃあ競馬の騎手をやろう」ってことになった。三島さんの体型って割と小柄だし、良かったんですよね。
それでね、「凄い名馬に乗る競馬の騎手が、八百長をやる話」に、三島さんも乗ったわけなんです。それで脚本を
作って、(中略)この時は重役も皆参加して本読みをやった。脚本を読むと、割とよく出来ていたんですよ。
八百長やって最後にカムバックするんですけど、ゴールインした時に死んでしまう話で三島さんにぴったり。
そしたら、永田雅一がですね、「お前何考えているんだ!」って怒り出したんですね。「俺を何だと思っているんだ。
俺は中央競馬の馬主会の会長だっ!」って。「中央競馬が八百長だって、そんなのは絶対できない!」って(笑)。
佐藤:でも、これ実現していたら良かったでしょうね。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
井上:しかし、大映の他に日活とか松竹に話は?
藤井:三島さんは、仁義のかたい人だから、そんな軽々しいことはしませんよ。だけど、三島さんは映画のために
二ヶ月もスケジュールを空けているわけですからね。それで「弱かったなぁ」と思った。「とにかく考え直そう」と
いうことになって、フッと思いついたのが、菊島隆三さんが石原裕次郎に当てて書いた脚本があったんですよ。
僕は菊島隆三と親しかったから、すぐに電話して、(中略)「どこにも売ってないですね」って念をおしたら、
「売ってない」って。(中略)そして、菊島さんのところに三島さんとすっ飛んで行って、その場で読んだんですよ、
脚本を。三島さんは「やる! これでいきましょう。」って言った。これが原型なんですよ。それをまた
増村(監督)が直したわけです。三島さんは増村が言う通りにやって良かったわけですよ。(中略)二代目だけど、
気が弱くて、腕力がなくて、組の存続も危ぶまれる、気がいい男。そういう風に全部変えちゃったわけ。あれは、
やっぱり増村の凄いところですね。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
松本:だけど、『からっ風』の三島には、どこか借りてきた猫のようなところがありますね。
藤井:その点、『人斬り』は文句のつけようかないでしょう。
松本:そうですそうです。あの存在感は見事ですね。
藤井:もうぴったりです。一本やっているからキャリアが違うっていうかな(笑)。
山中:『人斬り』の時は藤井さんがマネージャーみたいなことをなさってたんですか?
藤井:勝新太郎がまだ大映にいて、(中略)僕はその頃企画部長やっていた。勝が僕にね、「ちょっと頼みが
あるんだけどさ、三島さんに出て貰えない?」とか言うんですよ。
松本:五社監督からじゃなかったんですね。
藤井:ええ。それで「何やるの?」って聞いたら、「人斬り新兵衛だ」って言った。僕はね、一発で出ると思った、
三島さんは。だけど、少し勿体つけなきゃいけない、マネージャーとしては。そこで「勝さん、それはわかんないよ」
と言った(笑)。(中略)で、三島さんに「こういう話が来ているんですけどね」と言ったら、「俺やるよ」って、
やっぱり一発で決まった。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:三島さんは、「この田中新兵衛なら絶対にやる!」って言うんですよ。で、勝さんに、「この間、話したら、
三島さんは、やっても良いと言っているけど」と伝えたら、「会わせてくれ」って。勝もとっても喜んで
くれました。(中略)
松本:三島さんは勝さんの演技に全面的に支えられている感じですね。それが見ていて、気持ちよかった。
藤井:そうですね。それで、(中略)京都の撮影所まで行く。そうしたらね、勝新太郎がね。京都駅のホームまで
迎えに来ているんですよ。で、自分の車で、自分の運転で、都ホテルへ送ってくれて、「それじゃ、三島さん
明朝何時に撮影所で」って言う。その時、「テープにもう入れてある」って言うんですよ。三島さんの台詞と
勝の受けの台詞と両方を。次の日に行って、僕がテープを聴きますとね、勝が一々全部フォローしてくれて
いるんですよ。「ここはこう言った方が良い」とか。
佐藤:三島は、勝新太郎に随分世話になったとか、面倒見てもらったとか書いていますけど、そういうこと
だったんですね。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:それで、セットに入って、宣伝用の撮影にかかったら、当時日本で一番有名なキャメラマンの宮川一夫さんがね、
ふらっと入ってきたんですよ。「あれ宮川さんどうしたの?」って言ったら、「三島さんと君が来ているというから、
俺、応援に来たんだ」って。それで天下の宮川さんが、三島さんのメイクをチェックしてくれるんです。すると、
スタッフの気持ちが全然違ってくるんですよ。宮川さんが三島由紀夫のためにここへ来てくれている。それは
異例のことです。それでいてね、三島さんっていう人は勉強家ですから、都ホテルに戻って「明日は撮影所に
十時」とか予定を確認するでしょ。そうするとね、荷物をポンと机の上に置く。原稿用紙と『椿説弓張月』の本です。
(中略)もう撮影所へ来たんだからそっちの方へ頭が行くのかと思うと、そうじゃないんですね。夜の何時頃からに
なると、『椿説弓張月』に取りかかる。その時は『人斬り』じゃないんですよ。そして、朝起きると、また
大スターになっているんです。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
井上:たとえば昭和四十四年の六月七日は京都で『人斬り』のラッシュを見てから、帝劇に駆けつけて
『癩王のテラス』の稽古はじめをして、翌日は楯の会の六月例会です。次の九日は楯の会の活動をやって、十日は
『椿説弓張月』のスタッフ会議、こういう感じですね。動き回っている。
佐藤:切り替えと集中力が凄いですね。
藤井:凄いですね。ちょっと真似できないですよ。
佐藤:それでどうなんですか、実物は。色んな人が書いてますけど、やっぱりあたりを払うような存在感がある?
藤井:それはあるんじゃないですか。
佐藤:そういうのと、映画の銀幕に乗るのとは関係があるんでしょうか? つまり、スターと呼ばれる人は、
もうそこにいるだけで、何かオーラを発していて、それが銀幕に自然に現われるものなんですかね?
藤井:やっぱりね、三島さんは大スターなんですよ。
佐藤:『人斬り』の宣伝写真で、仲代達矢、勝新太郎、石原裕次郎と四人で並ぶけど、負けてないですね。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
松本:『からっ風野郎』の時と全然違うんじゃないですか?(中略)
藤井:全然違いますね。やっぱり一本通して主役をやると、違ってきます。それに『人斬り』のようにゲストとして
出る場合は、気が楽なんです。おまけに五社英雄さんは、増村みたいにがんがん言わない、まっしぐらには
来ないんですよ。おだてあげておいて、「はい、じゃあこのシーン行きましょう!」と。三島さんがとっても
ハッピーになったところで、バーンとやる。切腹するところでもね、三島さんはね、ボディビルで鍛えてるから、
腹筋が動くんですよ。三島さんがこう動かすでしょ。すると、スタッフが「三島さん、もういっぺんやって!」
とか言うとね、喜んじゃって、また見せてくれるんです。もうリラックスしていて、それで撮影するわけですよ。
外へ出ると、今度は「三島さん、居合いをやってよ!」と勝が言うんです。すると本気でやるんですよ。うまいんです。
そうすると勝がね、「でも、あんまり強そうじゃないな」とか「手を切らなきゃいいけどな」なんて、からかう。
僕は心配して見ているんですけど、本当にうまいんですよ。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
井上:三島は非常にご機嫌でしたね、『人斬り』のロケの時は。
藤井:それでね、五社さんが何かに書いてましたけど、名古屋かどこかにキャンペーンに行くんですよ、京都から。
佐藤:帰る時ですね。
藤井:三島さんは仕事で東京へ帰らなきゃいけない。五社さんや勝新太郎は名古屋でキャンペーンがある。で、
名古屋駅で三島さん一人を残して、「じゃあ」って別れて新幹線を降りた途端に、三島さんはこうスチールを
取り出して見るんですよ、嬉しそうな顔して。それをね、新幹線の窓の外から勝や五社が見ている。そういうところは、
何て言うんですかね、やっぱり大物なんですよ。僕らだったら、「あいつらがちょろちょろしていて見られたら
沽券にかかわるから、名古屋を発車して五分くらい経ってから見よう」なんて思いますよね。しかし三島さんは
すぐに見る。
井上:見たくなって、もう我慢できなくなって見ちゃう。
藤井:それが子供のように可愛く映ると、五社さんが書いている。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
松本:三島さんとは映画についてどんな話をなさいましたか。例えば過去の良い映画として、三島さんは
どんなものを挙げてました?
藤井:あの人はね、限りなくひどい映画ばっかり話題にするんですよ。『大アマゾンの半魚人』だとかね。
山中:新東宝とかそういうのが好きでしたからね。
松本:晩年は東映のヤクザ映画。
井上:まあ、映画は趣味娯楽として面白いものに徹していたところがありますね。
藤井:でも、本当は『大アマゾンの半魚人』で満足しているような人じゃないです。
佐藤:映画の心理描写が嫌だっていうようなことを言いますよね。カメラワークや技術で人間の心理を見せようと
するのは嫌だとか、そんなことを言ってましたね。心理ではなくて、物として見せられるかどうかが勝負だって。
三島の『潮騒』のロケ随行記がありますでしょ。あれを見ると、こういうところから三島は始まっているんだ、
(中略)一本筋が通っているのは、映画は物としての人間を見せなければ駄目だというところですね。これは
変わらないなと思いましたね。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:やっぱり基本的に言えば「映画は心理を語れない」っていうのが、よくわかっていたから。増村も同じことを
言ってますよ。
山中:増村監督もそう言いますか。勘所は通底しているんですね。
佐藤:やっぱり活字文化で育ってきた人の心理ってね、違うと思うんですよね。(中略)
井上:「映画は心理を語れない」という見方では、三島と増村には接点があったことになるでしょうか。さっき
佐藤さんが触れた藤井さんの文章で、増村の論文「原作小説とその映画化」から引用しています。「具象的な
音と画で表現できない主観的なものは、徹底的に客観的なものに転換しなければならない」。こうなんですね。
(中略)
佐藤:増村は大正十三年生れでしたね。
松本:三島と数ヶ月しか違わないわけか。だけど、『からっ風野郎』の撮影の現場では、時には刺々しいことが
あったようですね……。
藤井:刺々しいなんてものじゃないですよ。もう、罵詈雑言、凄いですよ。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
井上:凄い罵詈雑言?
藤井:ええ。それで、増村は撮影が終わった時に言うんですけどね。僕は半分本当で半分嘘だと思うのですけど、
要するに、「俺は三島さんでやろうとお前が言うからやったんじゃないか。俺は三島と東大法学部の同級生だ。
やる以上は彼に迷惑をかけちゃいけない。世間から三島由紀夫が映画の主役をやったって笑われちゃいけない。
だから、叩かなきゃいけないんだ。その叩き方も、なまじじゃとても駄目だ。芝居にならない。同じことを何回も
何回もやらせて、その良いところだけを取って、それをつないでいかなきゃならない」って言うんですよ。(中略)
そうじゃなくても増村はかなりうるさいんですからね。「三島さん、何ですか! その芝居は!」って感じで。
「三島さん、あなたのその目はなんですか? 魚の腐ったような目をしないでください!」って酷いことを言う。
スターに言っちゃいけないようなことを、バンバン言う。皆、ハラハラするんですよ。
井上:若尾文子も、気の毒でとても三島由紀夫の顔を見ることができなかった。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:若尾文子は、自分の出番がない時は、セットの隅で祈っていた。「このシーンが無事にいきますように」って。
だけど、やっぱり三島さんは偉かった。あれ、普通だったら喧嘩しますよ。
井上:そういう感じですね。
藤井:それくらいボロくそに言うんですから。「だったら俺はもう辞めた。勝手にやってくれよ」って言って
辞めればいい。だけど、三島さんは最後までやり通した。
佐藤:そうなると、三島由紀夫は『からっ風野郎』に出て、本当に良かったんですか?
藤井:いや、映画っていうのが良くわかったんじゃないですか? 凄い経験になったと思いますよ。
(中略)
佐藤:あれに出なかったら『憂国』はなかったとは思うのですよ。仮に藤井さんが話を持っていったとしても。
井上:そうですね。
藤井:やっぱり自分の好きなようにもういっぺんやってみたかったんですよ。それはわかりましたね、僕は。
三島さんも言わないけれども、『からっ風野郎』で味わおうと思って味わえなかったことを、『憂国』で自分の
好きなようにやろうとしたと思うんですよ。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
松本:『からっ風』のロケで頭を打って病院に入った時、「増村を殴って来てくれ!」って言っていたとか?
藤井:それはね、半分本気半分ふざけてそう言ったんですよ。そこらへんはもうゆとりが出て来ていたんです、
最後のシーンですから。
佐藤:でも、あれだって一週間ぐらい入院してましたでしょう? 一週間目くらいには結果がわかっているから
いいようなものの、一日目、二日目って、もう頭の中どうなっちゃっているんだろうって不安だったでしょうね。
これにはムカッともするし、とんでもないことになっちゃったみたいなことにもなったでしょう。(中略)
藤井:(中略)もろに頭を打ったわけですからね、バーンと。
井上:その瞬間は?
藤井:見ましたよ。あれは神山繁っていう文学座の役者が殺し屋で出ているんですが、「三島さんね、もっと
バーンと派手に倒れなきゃ駄目だよ」とか余計なことを言うものだから、三島さんも、「そうかな」なんて思って
バーンと倒れた。
松本:三島ってひとは素直だなあ。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:それで神山にね、僕は大分後に言ったことがあるんですよ。「あんたが余計なことを言うから」、「いや、
俺はあそこまでやるとは思わなかったから」って。
井上:実際はどのような感じだったんですか?
藤井:神山が三島さんを拳銃で、ダンと撃つ。
井上:それでエスカレーターへ倒れたんですね。
藤井:ええ。当然バーンと倒れました。エスカレーターが上がっていくから、三島さんは逆さまになって上へ
運ばれていく。本当は撮影ももっとうまくやれば良かったんですけれども。でも、あんなに派手にバーンといくとは
思わなかった。エスカレーターの段の角のぎざぎざがあるでしょ。それにバーンと頭を打ちつけた。よくあれで
済んだものですよ。僕は病院へ行ってね、「三島さんすみませんでした」とかなんとか言ったけど、黙ってましたよ。
割とムスッとしてました。
井上:不安だったんじゃないんですか?
佐藤:不安だったろうと思いますよ。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:でもまぁ、冗談も出たんでもう大丈夫と思いましたが……。
山中:撮り直しの時は怖かったでしょうね。
藤井:その時は万全な体制。で、永田雅一がそれはもう、三島さんのために現場に来たわけですから。スタッフも
ピリピリしていましたよ。二度とやっちゃいけないから。神山ももう何も言わない。三島さんも真剣っていうか
真面目なんですね。そうじゃなきゃ普通二度とやらないですよ。
松本:そういうところまで責任を貫くんですね。
藤井:映画が完成してから、三島邸に増村や僕たちが招待されたんです。その時、三島さんのお父さんが増村に
お礼を言ったんです。「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」って。増村は驚いてました。けがを
させて申し訳ないと思っていたのに。帰り道、「明治生まれの男は偉い」と、お父さんをほめていましたよ。
お父さんは増村の一高の先輩なんです。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
松本:最後に、(中略)十一月二十五日をどういうふうに受け取られたか、そこをお聞きしておかないと。
藤井:(中略)十一月二十一日、夜中に帰宅したら、三島さんから「今夜どうしても電話欲しい」っていう伝言が
あった。「いくら遅くてもいいからかけてくれ」って。僕は、あの人は夜中から朝まで仕事をするって聞いて
ましたから、余程大事な用があるんじゃないかと思って電話入れたんですよ。『憂国』の話をまた始めたんです。
この間トリノでやった日本映画のシンポジウムで『憂国』が凄く評判が良かったらしいって前に僕が言って
いたものですから。そしたら、その話をもうちょっと聞かせてくれって。僕もあんまり詳しく聞いていないので、
「映画評論家で立ち会った人がいるから、その人にもうちょっと詳しく聞いておきます」て言ったんですよ。
「悪いけどそうしてくれ」って言うんです。「連休明けにその人に聞いてまた連絡します」って答えたら、
「そうして欲しい。じゃあ」って。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
藤井:でね、あの人は話が終われば「じゃあお願いしますねっ!」ってすぐ切る方です。忙しいですから。
でも、その時に限って電話を切らないんですよ。僕は勘がいいほうじゃないから、「じゃあ調べときます」って
また言って、切ろうとしたら三島さんが切らない。それで一時の間ができてね。それで、「じゃあ」って
もういっぺん言うわけですよ。そうしたら「さようなら」と言うんです。二回くらい言いましたかね。で、
電話切ってから「今夜はおかしいな」って思った。あんなに歯切れのよい人が今夜に限って、電話をなかなか
切らなくて。でも一瞬ですからね。不思議な気が直感的にしただけで、何にもわからなかったです。どうして
「さようなら」って言ったんだろう。それはおかしいなって思うけれども、疑いもしませんでしたよ。
三島さんとわたしは、映画を通じて結びつき、長くお付き合いをして頂いたのですが、映画『憂国』が最後の
会話となってしまいました。
藤井浩明「映画製作の現場から」より
和久田:自宅が山王で近かったことから、三島さんの馬込のお宅には、しょっちゅう行ってました。伺うのは
だいたい昼の一時ぐらいでしたね。ちょうど三島さんが起きて日光浴しながら食事をする時間でした。ただし
三島さんは自宅の三階を増築、おっぱいの形をした部屋にするというんで、四十年の五月まではホテルニュー
ジャパンを利用してました。ニュージャパンにも行きましたよ。「近代能楽集」の座談会のゲラでも見せに
行ったのかな。そうしたら舟橋聖一さんがいましてね、三島さんと仲よく喋ってました。不思議なんだよね、
この二人の仲がいいのは。(中略)
舟橋さんは、三島さんの家に来るのにも、執事からいちいち電話がかかってきて、ただ今、大崎広小路をお通りに
なりました。あと何分ぐらいでお着きになります、なんて言うんだそうです。大袈裟な奴だって、三島さんは
笑ってました。三島さんと自宅でお話しするのは、その三階の「おっぱいルーム」が多かったですね。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
徳岡:ここに三島さんに貸した本があります。バンコックでね。
山中(司会):『和漢朗詠集』ですね。
(中略)
井上(司会):三島さんにお会いになったのは、偶然なんですか。
徳岡:いやあ、バンコックに来るなんて知りませんでしたから。
井上:その『和漢朗詠集』を貸したのは……。
徳岡:三島さん退屈してましたから。三島さんもインドからの帰り道で、インドについては私と全く意見が
違いまして(笑)。僕はあんなとこ地上最低の国だと。(中略)三島さんはそんなことはないって。
(中略)インド人が古いものを守っているということは何事かだって言うんです。インドに向かって、早く
日本のようになれと言うのは全く見当違いだと言うんです。
井上:ガンジーのことなんかしきりに言っている時期がありましたね。
徳岡:あのガンジーの話もしたでしょうけれども、インディラ・ガンジー、あの当時の首相とも会っているんですよ、
三島さんは。だから『暁の寺』にはやっぱり、インドが入ってきて……。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
徳岡:(三島全集に)僕と三島さんとのバンコックでの対談というかインタビューが入ってます。三島さんは
おそらくノーベル賞とるだろうから、取ったらこれ載せたろ、思ってね、「三島さん、暇でしょ? インタビュー
でもしましょ」って言うたら、「やろう」って、ホテルの庭でやったんですよ。
山中:「インドの印象」ですね。(中略)
徳岡さんがインドをお嫌いだから、話が盛り上がっていて。
徳岡:そうそう。三島さんを挑発した(笑)。エラワンホテルの庭でやったんですよね。あれは可笑しかった。
三島さんもう真面目になってね、そういう考えの人はダメだって言うんですよ。
松本(司会):その姿勢が切腹にまで貫いててる……。
徳岡:そう。
井上:徳岡さんは、エラワンホテルに泊まってらしたんですか。
徳岡:いや、そうじゃない。私はまだ家族が来てませんでしたので、単身赴任の日本人が何人か泊まってるとこに
いました。
井上:バンコックで初めて三島を見かけたのもそのホテルのテラスで……。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
徳岡:テラスじゃなくて、ステーキ・ハウス。三島さんはアメリカ人のデッかい男と話していた。
井上:それはもうかなり真面目に……。
徳岡:アホかと思うた、三島さん一生懸命。相手はね野球帽被ってね、Tシャツや。こんな太ったアメリカ人。
ちょっと知ってたんですね、三島という名前を。そうだ、その頃「ライフ」に載ったんですもん。「ライフ」の
影響力って今じゃちょっと想像出来ないでしょう。だからね、日本の自衛隊のこと言ったんでしょう。ほんなら
三島さん、一生懸命に説明する。英語はうまかった。
井上:うまかったですか。
徳岡:うまかったよね。それで一生懸命説明する。アホかと思うて、アメリカ人の後に寄って、三島さん行こ行こと
言うたんですけどね、三島さん、ステーキ食ってる相手に、演説するんですよ。過剰なほど真面目なところがある。
観光客やからいい加減にごまかしておくという態度じゃあなかった。
井上:テンションが凄かったんでしょうか?
徳岡:テンションというんじゃない。静かではあったけど、生真面目。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
松本:徳岡さんはベトナム戦線へ取材に行かれていますが、三島とのかかわりにおいても大きかったんじゃ
ないですか。
徳岡:だったんじゃないかと思います。(中略)当時、共産党が善で、アメリカ帝国主義は悪だというような
傾向があったんじゃないですか。それが六七年の五月頃の香港取材でちょっと崩れました。文化大革命……それから
六八年のテト攻勢で、こりゃ、僕ら忘れられないです。ユエ市民がずーっと長蛇の列をなして、解放されたユエから
逃げて来るんですよ。そういう解放とか平和とか民主って信用できますか。いわゆるね、人民解放軍なんていう
言葉なんかね、ふざけるなといいたいですね。
松本:だけど、それが結局勝っちゃったんですからねえ。
徳岡:いやあ一九七九年には、ベトナム解放しようとした中国人民解放軍がコテンパンにやられるんですよ。
それを誰も思い出さないんだ、日本の新聞は。
松本:だから、日本のジャーナリストの中でも特異な存在にならざるをえない。
山中:その分だけ、やっぱり三島も信をおいていたという……。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
井上:バンコックで薔薇宮の三島の取材ぶりには、その徳岡さんがびっくりなさったとか。
徳岡:そう。あれはねえ、三島夫人にアンタよくねえ殺されなかったね、もし二人とも撃ち殺されたって文句
言えないよって。日本政府が大使館通して抗議したってさ、有名な小説家かどうかなんか知ったことじゃない。
共産党鎮圧本部CSOC、(中略)今でも覚えてる。その司令官よく知ってて僕はよく遊びに行きましたけどね。
ブーゲンビリアの生垣から夫婦揃って覗いてたらアンタ、そりゃ撃ち殺されますよと、私は三島夫人に言った。
井上:(中略)(三島は)もう一度行きたかったんだけど、行けなかった。この薔薇宮の創作ノート、ここに
取材の様子が……。
(中略)
徳岡:凄いなあ。だから真面目にやってはったんですよ。文学を真面目に考えていはったんですよ。三島が
死んでからそういう人いない。こっちも真面目に読んでやらないとっていう気になりますよ。遊び心ってな言葉
流行ってさ、遊び心で書かれたような文学、金出して読まれへんもん。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
松本:そろそろ昭和四十五年十一月二十五日の話へ……。僕が一番気になるのは、最初の目標は三十二連隊でしたよね、
あれが変更になった。
徳岡:直前に変わったでしょ。
松本:ホントに直前に変わったんですかね。
徳岡:そうらしいですねえ。やはりわからない。
松本:だけど、意味が違うと思うんですよ。三十二連隊の隊長を拘束するのと、総監を拘束するのと、随分違うと思う。
徳岡:場所が違うしね。三十二連隊なら、決起して国会へ行ったかもしれないよ。
松本:楯の会の会員が集まっているわけですね。三十二連隊が標的なら、それがものをいうことになる。そして、
徳岡さんが車の中におられるわけですね。だからおっしゃるように違った展開になった。
徳岡:だからね、三十二連隊の隊長が不在とわかったんで、三島さんの行動がより象徴的なものに筋書きが
変わっていったんじゃないですかね。
松本:それは成り行きであって、もしかしたら、三島さん、本来は別のことを考えていたんじゃないかなって。
徳岡:わかんない。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
井上:裁判の記録からすると、三十二連隊長が当日不在であることが、十一月二十一日にわかり、その日、
中華第一楼へ五名が集まったところで森田が連隊長がいないことを報告、それから計画を練り直したと。
松本:だからね、僕ね信じられないの。
徳岡:ほんとねえ。
山中:そうなると、徳岡さんも書いていらっしゃいますが、あのバルコニーでの演説にしても、たまたまそうなって
しまったという。
徳岡:みんながね、三島が最期の劇を演出したとか何とかいうけどもね、ほんまかいなーって僕は思うんですよ。
早い話が、雨降るかもわからんし。何もね、三島さん、演出とかね、そんな筈じゃなかったと思うんですよ。
結果的にああいうふうになっただけであってね。
井上:十月の二日の会議の時点で、連隊長を拘束し、それが報道されるように、信頼出来る人二人を、つまり
徳岡さんとNHKの伊達宗克さんですけれども、呼ぶ、と。でも、拘束してどうするかっていう具体的なことは
あまりハッキリしないですね、十月二日の時点では。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
山中:(三島からの手紙の)封筒の中からいきなり写真が出てきたりして、えっと思いますよね。
徳岡:封筒開けてこうやると、一番重たいものが一番先に出てくる。で、写真が。しかし、写真よりは、手紙を
まず読みました。それから、檄を読んで、写真を見て。で、写真、あの本(五衰の人)に書きましたように、
森田の署名の筆圧に驚いたんですよ。グッグッグッグッって書いてあるんですよね。明日死ぬ若者が書いたんだ、
パレスホテルの一室で。
(中略)
松本:これ、相当激しい筆圧だね。
徳岡:もの凄いでしょ。ガッガッガッって書いてるでしょ。表にも出てるんですよ、その字が。それを見て、
こりゃ何かあると思いましたね。必勝君が心を込めて書いた字でしょうね。
井上:いい顔ですね。
徳岡:そうや。うん。この時二十五?
山中:そうです。森田だけ、なぜ二枚入れたのかな。
松本:こちら、笑ってると感じが違うね。
山中:夏服というのが珍しいですね。
徳岡:これや、これ一番印象がある。表情があるでしょう。僕としては貴重なもんです。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
井上:しかし、ホントに当日連隊長がいたとしたらどういう……。
松本:変わってたねえ。あの部隊じゃ、同じ建物の中に東京裁判の会場があるという、象徴的な意味が消えちゃう
からねえ。
徳岡:三島さん、要するに、死ぬのにさ、無為に死ぬかもわからんと、それでいいんだと思ったんでしょうね。
高倉健とか池部良が猛烈にいいと言っていたからね。
松本:より無駄死の印象が強くなる。
徳岡:そうだろうねえ。無駄死するつもりやったんだろうけどねえ。
(中略)
山中:もしちょっとした齟齬によって、これだけ変わったんだったら、偶然なのか、偶然とは言い難い何か
あったのか、やっぱり謎だと思うんですけど。
松本:偶然とは思えないけどなあ。
山中:どの程度用意したか、ですよね。その垂れ幕の長さは……。
井上:二十一日に連隊長がいないことがわかってから、準備した。パレスホテルでの準備もその後だからさ。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
松本:三十二連隊長といえば、実際に軍備を持っているのはあすこだけですね?
徳岡:ああそう、そうらしいですね。あとは司令部ですか。
松本:それから通信、補給関係。
徳岡:実践能力のある、連隊のあそこを制圧できたらね、火薬庫やって自殺できた筈だからね。
井上:最初はそういうプランもあったみたいですね。弾薬庫を爆破させるとか。
徳岡:まあ、僕よりももっといろいろ、三島さん考えたでしょうね。
(中略)
松本:多分、三十二連隊を標的にしたのは森田の主張で、三島は一旦、譲ったんでしょうね。
徳岡:あのね、無駄死と言うたけど、無駄死という観念が全く三島さんにはなかったと思うな。何故かというとね、
神風連がそうだ。あれを無駄死といえばあんな無駄死はない。
井上:それでよしとする……。
徳岡:そう、それでよしとする。熊本行きましたか。神風連の墓……。
熊本のあの神社。あれと、忠臣蔵の泉岳寺とは全然違う。一本の線香も立ってないんだ。何日も何ヶ月も人が
来てないってことがわかる墓地や。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
井上:ところで、森田必勝の持ってる影響力ってのは非常に大きかったでしょうね。
徳岡:いや、どっちが決起へ引っ張っていったかわからないと思いますよ。(中略)
松本:中村彰彦さんが『烈士と呼ばれる男―森田必勝の物語』に書いています。彼も、森田必勝が引きずって
いったんだっていう考え方ですね。(中略)
井上:森田の文章なんか、独特の何かを感じさせますね。
徳岡:文章は稚拙ですね。しかし、体から発散するものは凄かったでしょうねえ。それがアンタ、二十五で
死ぬんだもん。死ぬしかないって思ったんだもん。
山中:どちらかというと、三島の方が、青年達のそういった命がけの、何かもの凄いものに巻き込まれていく
というような感じで、結局、具体的な死の予定というかスケジュールを組んで行ったんじゃないと思われるんですけどね。
徳岡:お互いに励まし励まされて行ったんじゃないかな。わかりませんがね。いずれの結論にも達するような
原稿書こうと思えば書けると思いますよ。指導権はどっちだと。しかし、それは意味がないですよ。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
井上:死ぬ覚悟ってのは、昭和四十四年の10・21とか、ああいうときに、巻き込まれて命落とせばそれはそれで
いいって思ったんだろうという、そんな感触があるんですけど、その辺は如何ですか。
徳岡:僕はその時日本にいなかったから。
(中略)
井上:三島はその時自衛隊の治安出勤があったり楯の会の出番があるんじゃないかとホントに思っていたような節が
あって、昭和四十四年のその頃は、ある程度死を意識していたような気もするんですが、しかし、国際反戦デーが
思ったほど激しくならず、四十五年になってしまい、その時点で藤原定家について小説を書きたいと言う。また
『天人五衰』のごく初期の創作ノートなんですけれども、(中略)四十五年の初めの頃だと、その年の十一月に
死ぬっていう感じはないんですね。だけど、三月頃になったらやっぱり、決起するっていう形になってくる。(中略)
徳岡:私は(中略)三月に(ベトナムから)帰ってきたんですよ。そして、六月、帰国して三ヶ月後に会いに
行ったんですね。
松本:決心を固めた後に、お会いになったんでしょうね。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
井上:楯の会の運動も袋小路になって、一種追いつめられた状況にいた時に、徳岡さんが近くにいらっしゃらなかった。
徳岡:いやあ、僕そんな存在じゃないですよ(笑)。あの当時はね、三億円事件の犯人が三島じゃないかって
言われてたの。
井上:顔がちょっと似てる……。
徳岡:顔が似てるよ。あんな複雑な筋書き考えられるのは三島由紀夫だけで、しかも楯の会で金を必要として
いましたからね。
井上:あの頃の週刊誌を見ると、新年の時点で、「平凡パンチ」の一九七〇年の予想特集というようなページで、
防衛大学の学生が反乱を起こして、それを鎮圧するために自衛隊を使うのはよくないので楯の会が出勤、その功績で
三島が防衛大臣になる。しかし、大御心を悩ます悪書追放リストに「悪徳のよろめき」が入っていることがわかり、
天皇に申し訳ないことをしたといって、切腹をしたら失敗し、三島はその後左翼に転向したっていう(笑)。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
松本:『和漢朗詠集』については、お貸しになっただけで、なにもお話しなさらなかったのですか。
徳岡:返してもらった時、「ありがとうございます、楽しかったね、面白かった」ってねえ、三島さん言っただけ。
(中略)
山中:このページを三島が見たんですね。
徳岡:漢詩三篇と、沙彌満誓の歌ね、「世の中をなにゝたとへむ(中略)
山中:天人五衰の言葉が出てくるのは、これですね。「生ある者は必ず滅す(中略)天人なほ五衰の日に逢へり」。
徳岡:それと、「朝に紅顔あつて世路に誇れども 暮に白骨となつて」ちゅうのと、同じ頁だ。(中略)後で
これを見て、あっこれだなって思ったんですよ。
井上:バンコックの時点ではまだ『天人五衰』ってタイトルは考えてないですね。
四十五年になってから、小島さんに『天人五衰』にするって言うんですね。ただ天人五衰って言葉自体、確か、
戦争中の文章で使ったと思う。知らない言葉じゃなかった。
山中:しかし、この本を開いて見ると……。
徳岡:三篇並んでるからね、パンチが凄いんだ。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
山中:徳岡さんはストークスの翻訳を出されていますね。新版も。
徳岡:本人が一生懸命やっているから翻訳してやらないわけにはいかないからやってるんですけどね。ある意味では、東京にいた新聞記者で、
日本人を含めて、三島さんがやってること、これはなにかあるぞ、と思ってたの、ストークスだけなんですよ。
自衛隊の演習だって付いていったんだから。(中略)一流の作家がね一生懸命やってるんだ。新入社員鍛えるのに
自衛隊体験入隊したり、これ昭和元禄の発想や。そんなんじゃなしに、何かあると思ったら、ね。日本の新聞は
そういうふうにはなってない。日本の新聞は、よそに抜かれないように、デフェンスの取材しかやってないんですよ。
(中略)
松本:あれから後、市ヶ谷へ行かれたことありますか。
徳岡:何十年か経って正門から坂道を登ってみたけど、うわーこの坂走って登ったんかーって驚いた。もの凄い
坂なんですよ。こう曲がって、左手にバルコニーが……。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
松本:あの時、よく誰何されませんでしたね。
徳岡:いや、あの時はそれどころじゃなかったんや。僕は、走りながら腕章してね。それからここへこれ……
(檄文や写真を指さし)。(中略)
松本:走りながら、足のどこに。
徳岡:ここ。靴下の後ろ側。(中略)ソックスの中に隠して……。だからねえ、『五衰の人』をどうしてもね、
書かないかんと思った。だけど、三島はおもろい奴やったなあってことしか書けないんですよねえ。頭は良いし、
原稿書いてもうまいし、そいでアンタ思い切ったことやる。自分の思ったことやり遂げるっていうねえ、こんな奴
ほかにおらへん。
松本:僕は、(中略)いいようのないショックを受けて、数日間もの凄く憂鬱でしたね。(中略)この世は
生きるに値しない、と三島に宣告されたような気がしたんですね。だけど、そうじゃない。逆なんだ、生命を
投げ出してもよいだけのものが、この世にはあるんだ。また、そうでなければいけないんだ、と三島は主張したと
いうことが、だんだん分かって来た。時間がかかりましたけれどね。
徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
(前略)本番前のリハーサルに入った。使用する刀は竹光だから、相当派手にやっても、普通は怪我をしないものだが、
三島さんは力いっぱいやるから、その竹光で腹を切ってしまい血がにじみ出した。私は驚いて、「三島さん、
竹光で怪我されちゃ困る。これは映画なんだから、(中略)腹を刺すのは芝居でやってくださいよ(中略)」というと、
「わかった、わかった、こんな傷なんでもないよ」
こんなやりとりで本番に入った。本番ではあらかじめ腹に管が通してあって、竹光を刺すと血糊が出る仕掛けに
なってる。ところが三島さんは思い切りやった。躰中をまっ赤にして、グッと竹光を腹に回した。みるみる腹の皮が
破れていく。見ている我々は慄然というか、鬼気せまる迫力にシーンとなってしまった。
五社英雄「演出家の眼」より
(中略)
撮影が終ると主演の役者などにスチール写真をあげるのがならわしだが、三島さんは、「僕の切腹の場面と、
カッコいい立回りの場面(中略)を悪いけど各百枚くらい焼いてほしい」というので、大量に複写してさしあげた。
いよいよ京都から引揚げるとき、彼と仲代君、勝君、それに私がいっしょで、途中、名古屋に降りて遊んでいこうと
話ができた。皆で三島さんをさんざん誘ったが、どうしても帰らねばならない用事があるからというので名古屋で
別れた。我々はホームに降りたが、窓越しにでも挨拶していきたいと、三人で三島さんの席の窓のところへ行った。
三島さんは、我々はもういないと思ったのだろう、例のスチール写真を鞄から出して、何ともいえない顔で
ニッコリして見ていた。私たちは見てはならぬものを見たような思いで立ちすくんだとき、列車が動いた。
五社英雄「演出家の眼」より
そのとき、視線を感じたのだろうか、ひょいと顔をあげ、立ち去ろうとしていた私たちと目が合った。一瞬、
三島さんはこそばゆいというか、恥ずかしいというか、少年のように笑って頭に手をやった。
その後、東京に帰り三島さんと日劇の前で会ったとき、「いやぁ、新幹線の中でアレを見られたのは、君ねえ、
自分のナルシシズムの原点みたいなものを、全く目の前で見られたような感じで、あんなに恥ずかしい思いを
したことはないよ」といった。
五社英雄「演出家の眼」より
和久田:文学座をはじめとする新劇の役者たちは、リアリズムというものを追求して来たため、大見得を切って
芝居をするようなことを恥ずかしがって出来ないんです。それを三島さんが、堂々とやるばいいんだと教え込んだ。
「鹿鳴館」で、朝子と草乃が舞台端から、影山と飛田の会話を窺うところがありますね。あたり前の新劇なら、
植え込みに隠れて演ずる場面です。しかし三島さんは、隠れていることにすればいいんだから、表に出て演じなさい
と言った。これは、歌舞伎役者なら平気でやるんだけど、杉村さんもはじめは全然出来なかったそうですよ。
井上:なるほど。文学座は「鹿鳴館」の翌年、福田恆存の「明智光秀」で、はじめて歌舞伎との合同公演を
やりますが、その下地を三島の「鹿鳴館」が用意したようなところがあるわけですね。こう言うと、福田恆存は
面白くないでしょうが。
松本:三島は、杉村春子という女優を、そういうシアトリカルな方向に押しやることを、意識的に考えたんでしょうね。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
山中(司会):杉村春子は役になりきって舞台に出てくるが、それでは駄目だ、まず杉村春子が出てきて、
それから役になるという具合に意識的に演じろと、三島は「トスカ」の時に注文をつけていますね。
和久田:「サド侯爵夫人」でも、序幕でサド侯爵夫人ルネではなくて、ルネを演じる丹阿弥谷律子が、真白な装束で
下手からバッと出てくる。それを三島さんはとっても喜んでいましたね。ただ、三島さんは、「サド侯爵夫人」では
あんまり役者を動かしたくなかったと思いますよ。松浦(竹夫)さんは、割と役者を動かしたがるんだけど、
三島さんとしては動きとか舞台装置とか、そういうものに寄りかかるんではなくて、セリフでもって芝居を
運ばせるんですね。(中略)
松本:(中略)芥川比呂志が紀伊国屋ホールで「サド侯爵夫人」を演出した時は、割合に動かしましたね。
動かして、よくなかった。
和久田:よくわかりませんが、あれは芥川さんが体調がよくなくて、NLTの岸田良二という人が実質的に
演出をやっていたのかもしれません。彼は松浦的な演出が好きでしたから、動かし過ぎたんじゃないかな。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:自宅が山王で近かったことから、三島さんの馬込のお宅には、しょっちゅう行ってました。伺うのは
だいたい昼の一時ぐらいでしたね。ちょうど三島さんが起きて日光浴しながら食事をする時間でした。ただし
三島さんは自宅の三階を増築、おっぱいの形をした部屋にするというんで、四十年の五月まではホテルニュー
ジャパンを利用してました。ニュージャパンにも行きましたよ。「近代能楽集」の座談会のゲラでも見せに
行ったのかな。そうしたら舟橋聖一さんがいましてね、三島さんと仲よく喋ってました。不思議なんだよね、
この二人の仲がいいのは。(中略)
舟橋さんは、三島さんの家に来るのにも、執事からいちいち電話がかかってきて、ただ今、大崎広小路をお通りに
なりました。あと何分ぐらいでお着きになります、なんて言うんだそうです。大袈裟な奴だって、三島さんは
笑ってました。三島さんと自宅でお話しするのは、その三階の「おっぱいルーム」が多かったですね。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
井上:「ブラジャールーム」と言うんじゃなかったですか?
和久田:三島さんは、「おっぱいルーム」って言ってた気がするなあ。一階や二階のいわゆるロココ風の感じとは
全然違って、いわゆるモダンな、シンプルな装飾でしたね。あれは、UFOを見るために作ったんですよ。私ね、
三島さんはひょっとしたらね、宇宙人じゃないかと思うんだ(笑)。とても人間とは思えないです。
井上:わかるような気がします(笑)。実際に会っていて、そう思う瞬間がありましたか?
和久田:いや、そういうんじゃなくて、帰宅後ふっと思い出して、なんだか人間と会ったんじゃなくて、宇宙人と
会って来たんじゃないかという気がしましたね。
井上:波長や感受性が、普通の人とは全然違うんでしょうね。
松本:それは人間としての存在感が希薄ということではなくて……?
和久田:いや、頭の回転が早くて、われわれの十歩も二十歩も先のことを察するとかね。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:昭和四十二年十月、「朱雀家の滅亡」はいい芝居でしたね。私はやはり舞台監督をやりましたが、
快感なんだよねえ。ああいう芝居って、めったにない。春、秋、夏、冬の四幕でしょ。最初は春でツツジの花を
舞台に出す。秋は楓、夏に戻って蔦や夏草、冬は雪を降らせるんです。松浦さんはね、その頃テレビで本物の
雪みたいなものを降らせていたんだけど、三島さんはそうじゃなくて、歌舞伎の三角の雪じゃなきゃ駄目だよ、
と言うんです。最後に村松(英子)君が十二単を着てお社から出てくる場面で、雪を降らせるんだけど、これも
舞台監督としては嬉しいんだよね。
松本:幕が上がると、まず舞台が目に飛び込んできて、観客はわくわくする。四幕ともそういうところを計算して
いるんですね。(中略)
山中:芸術祭参加作品でもあるし、中村伸郎も好評だったようです。
井上:この時から「劇団NLT」を名乗るようになりますね。
和久田:「朱雀家の滅亡」の時にはじめて「劇団NLT」となり、松浦さんが劇団代表になるんです。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
これ(「わが友ヒットラー」の三島の本読みのテープ)は私が録音したんです。脱退届けを出しに行ったNLTの
事務所のロッカーには、「サド侯爵夫人」の三島さんの本読みのテープも入っていたんで、よっぽど盗んで
来ようかと思ったんだけど(笑)、持ってこなかった。その後、「サド侯爵夫人」のテープは所在がわからなく
なっちゃいました。「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」は三島戯曲の二大金字塔なのに、片方の本読みしか
残っていないのが、本当に残念でしょうがない。
(中略)この原稿で、書誌学的に気をつけなければならないのは(笑)、登場人物が「シュトラーサー」に
なっていることです。(中略)再版ではじめて「シュトラッサー」になった。なぜかって言うと、稽古場に
ヒットラー・マニアの高校生が来てね。
山中:ああ、後藤修一さんという方ですね。
和久田:そう、その時、三島さんもいたんだよね。その子から、これはシュトラッサーですよ、って指摘を
受けたんです。(中略)
山中:(中略)(後藤さんは)それがきっかけで浪漫劇場に来て、色々協力するようになったと何かで読みました。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:三島さんは10・21(国際反戦デーのデモ)なんかを見に行きましたね。その頃、和久田君、事があったら
俺は楯の会の連中と斬り込みに行くけど、女房と子どもは車に乗せて山のほうに逃げてくれよ、なんて言われました。
(中略)
山中:稽古場に楯の会の制服で来ることなんかありましたか?
和久田:ありませんね。ただし「わが友ヒットラー」の初日のカーテン・コールの時は、制服を着て来ました。
楯の会の連中も来ていましてね。それがこの写真で、三島さんはむこうを向いてます。私も真ん中にいます。
山中:村松剛の姿も見えますね。この日は芝居の前に楯の会の例会があって、会の終わりに三島が希望者をつのって
連れてきたそうです。(中略)
和久田:(中略)私が三島さんと一緒に撮った写真は、これと私の結婚式の時のしかないんです。
山中:結婚式はいつですか?
和久田:四十四年の十一月六日です。場所は東京会館、三島さんは君が代を歌ってくれました。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:その日(十一月二十五日)、私は寝ているところを叩き起こされたんですが、何も考えられませんでしたね。
すぐ劇団に行きましたが、どうしようもない。三島家に行って通用口の門番をやりました。(中略)あとで、
劇団の稽古場で劇団葬をやりました。ただね、「サロメ」は三島さんの演出で私が演出助手ってことになって
いましたが、松浦さんは、とんでもない、本当は俺がやるのがあたりまえだ、って言うんですね。私は呼びつけられて、
お前は若くてこれからいくらでもチャンスはあるんだから、「サロメ」の演出は諦めてくれ、と言われたんですよ。
そう言われれば、松浦さんは私の先生ですし、わかりました、と答えたんです。ところが、(三島の)奥さんが、
「サロメ」だけは何としても主人の遺言なんですから、ぜひ和久田さんにやって戴きたい、と言って、松浦さんも
折れて、演出ではなく公演責任者という役割になったんです。松浦さんは、この年の九月に「朱雀家の滅亡」の
演出をやって、それを追悼公演にしたんです。
井上:そういうことがあったんですか。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:私はね、この松浦さんとのことがあって芝居が嫌になって、それで芝居をやめちゃった。
松本:ある意味で、和久田さんは三島さんに殉じたんですね。
山中:支柱的存在を失ってしまって、浪漫劇場自体も昭和四十七年の「地球はまるい」で終わりになったという
ことですか?
和久田:そうです。解散ですね。でも、その時のことは私はもう全然知らない。演劇の質が昭和四十年代にすべて
変わってオーソドックスというものがなくなりましたから、私もそこでやめてちょうどよかったんですよ。
(中略)
松本:和久田さんの立場も複雑ですね。それにしても、演出家として「サロメ」をやったということは、
強烈過ぎる体験ですね。
和久田:そうです。なぜ三島さんは私を演出助手に選んだのか。私でなくても、(中略)一向におかしく
ないんですがね。じゃあ、私がどれだけの舞台を作れたかというと、忸怩たるものがあります。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
松本:和久田さんは、(サロメを)三島は自分の劇場葬にしようと意図したとおっしゃった。そのとおりだと
思いますが、ただの葬儀ではありませんね。なにしろ血がたっぷり流され、生首が出るんですから。血が流され、
生首が出るとなると、犠牲が供され、甦りが祈られる儀式じゃありませんか。市ヶ谷では「七生報国」と書いた
鉢巻きをして、死ぬけれど、こちらで甦る。少なくとも芸術家として甦る願いを込めている、と私には思われて
ならないんです。
和久田:なるほど。「椿説弓張月」の最後、為朝が白鳥に跨って昇天するのも、そうでしょうね。
松本:そうなんですよ。(中略)再生の祈りを込めた劇場葬と、一対にして捉えると、腑に落ちるんです。多分、
映画「憂国」の展開でもあるでしょう。当時としては生々しすぎて、そうと受けとれなかったでしょうが。
和久田:三島さんの意図がどうであったか、私には分かりませんが、なるほどなと思います。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
松本:最後にもう一つ、三島について忘れられない思い出を、ぜひお聞かせください。
和久田:「サロメ」の最後の打ち合わせを、十一月二十一日の晩にやったとお話しましたね。その後、三島さんが
飯でも行こうと言って、奥さんが運転する車で六本木の福鮨に行きました。テーブル席に、三島さんと奥さん、
おふたりと向き合って座って、ご馳走になったんですが、そうしてねぎらってくださったんですね。
その時私が車の中で、「豊饒の海」が終わったら、何を書くんですかと聞いたら、それを聞くのはわが家では
タブーなんだ、あとは死ぬしかないじゃないか、ワハハハ……、と三島さんは答えました。それから、帰りの
車の中で三島さんが、しきりに寒い寒いと言い出して、助手席で震えるように縮こまったんです。確かに
寒かったですが、震えるほどではなかった。それを、運転する奥さんが気遣っていました。
松本:……それは、やはり精神的なことからだったかもしれませんねえ。
和久田:そうだと思います。そのことをよく覚えています。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
大河内(司会):演技をする際に、三島さんから注文なり助言があったんですか?
村松:いつも役の核心をつく説明をして下さいました。また演技の基本としては、人間を表現するのにひと色で
描こうとしない方がいい。例えばこのシーンで優しいからといって、残虐なところがあるかも知れない、愛の裏には
憎しみが……。何にでも光と影の両面を意識すること。人間を多面的に演ずること。
台詞に関しては、一つの文節をニューヨークのマンハッタンの摩天楼のように構築しておくれ。一つの台詞のなかに
一つのドラマがあると思いなさい。そう仰った。一言一句を大切にするということを思い知りました。
(中略)
先生のヒロインを演ずるときは、女という自分の素材によりかかってはいけない。むしろ素材は邪魔で、時には
自分が男になったつもりで「三島のヒロイン」を創っていかなくては、とても太ち打ち出来ない。複雑というか、
強さというか。極端なまでの存在です。
村松英子「ヒロインを演じる」より
村松:(朱雀家の滅亡で)私の頂いたヒロインの役名が璃津子ですけど、先生の亡くなった最愛の妹さんの名が
美津子。「戦争で負けたことよりもショックだった」と先生が言われた妹さんの死は、敗戦まぎわに勤労奉仕中
喉の渇きに耐えかねて飲んだ容器の水から疫痢にかかったためと伺いました。妹さんは聖心女子学院生でしたから
勿論制服は違いますが、「朱雀家」で愛しんで描かれている学習院の制服姿の若い婚約者同士に、私は若き日の
先生と美津子さんを重ねたものでした。「先生のノスタルジイですね」としみじみ言うと、「うん」と優しい微笑が
返ってきました。
松本(司会):読み返してみたんですけど、二幕目、恋人の朱雀経広が戦死の確実な戦地へ向うという時に、
璃津子が言いますね、「正式の、もう二度と引き返せない結婚ではなくてはいやでございます」。美しくて
雄々しくて、恋心あふれ出る場面ですね。
村松英子「ヒロインを演じる」より
中山:(朱雀家の滅亡の主人公)経隆のものの考え方、生き様っていうのは、初めは全く無私というか、無欲な、
本当にただの忠誠だったんです。それが、だんだん時間を経てくると、お上と自分が同化しちゃう。今まで忠誠を
尽してきたお上と自分が同化しちゃって、ますます、思いが強くなる。その、思いとは、「私は遠くからあなたを
お守りします」ということになるわけですよ。こういう忠誠の仕方というのは、普通考えたらやっぱり奇人変人かな、
と思うわけですけれども、決してそうじゃない。で、そこまで持っていく、ある種の静かなエナジーが必要なんです。
それをずーっと、じーっと追いつづけないと、成立しない芝居なんですよ。その辺で苦労しましたね。
経隆というのは、どういう人かといわれると、今言ったことに尽きるのですが、とにかく、演じるほうと観るほうで、
すごいギャップがあると思うんです。そのギャップが実は最後に正当化されていってしまって、観ているお客さんを
こっちへ引っ張り込むという。そういうある種非常に精神的なパワーのいる仕事でした。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
井上(司会):NLT、浪漫劇場と、三島由紀夫と交わって、最初はどんな印象をもたれましたか。
中山:三島先生に初めてお会いしたのは、多分NLTの頃だと思うんですけれども、誰かに紹介されて「ああ、
どうも」というふうに御辞儀をした時に、小柄な方だな、それにしては顔が大きいなあ、と……。やっぱり
頭のいい人って、頭が大きくなるんだろうか、とか、いろんなことを考えましたよ。それが一番最初の、先生との
出会いでしたね。それから、色々ありまして、ある時、「冒険ダン吉」みたいな恰好をして稽古場に来られる
わけですよ。半袖の、襟章のついたシャツを着てね。白いハイソックスをはいて、白い靴を履いて、探検家の
帽子をかぶって、「仁くん、どうだ!」って。「先生、どうだ! はいいけど、それ逆だと思いますよ」って。
日本人は、帽子ってひさしの方が前だと思っていますよね。でもあれ、逆なんですってね。後頭部を守るためのもので。
違うんですよ、かぶりかたが。そういうことで大笑いしたことがありましたね。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
佐藤(司会):前に、岸田今日子さんに、ここに来ていただいて、お話を伺ったことがあるんですけれども、
劇団の中で、若い役者さんたちと随分リラックスして話をされていたと。(中略)それは三島由紀夫が、もっと
若い頃の話でした。中山さんがお会いになった頃は、もういわばこの世界で知らぬもののない作家ですね。
その頃のNLTの中での三島由紀夫というのはどんな人だったんですか?
中山:僕なんか本を読ませて頂いていますから、ああ、凄い先生なんだと思って、なるべく目を合わせないように
しましてね。「おはようございます!」とご挨拶して目をそらしてしまうような感じでした。で、皆さんは、
毎年二日に「三島詣で」をするんですよ、ご自宅に。
山中(司会):一月二日にですか?
中山:そう、一月二日です。でも私は、うちの親父から「正月二日から他人の家になんかいくもんじゃない」と
昔からいわれていましたのと、敷居が高かったという感じが常にありましてね。とうとう、行かずに終わって
しまったんです。行っておけばよかったな、と思いますけれど……。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
井上:三島由紀夫から何か言われたのでは?
中山:ああ、そうそう。「仁くん、君、僕のこと嫌い?」って。「僕のこと嫌い?」って言われると、ちょっと、
いろいろな意味に取りますよね……(笑)。「いや、そんなことはございません」て、とぼけちゃったことを
覚えています。いやあ、悪いことしたなと思っていますけど。(中略)
井上:ボディ・ビルに誘われたりとか、そういうことは?
中山:ああ、ありましたよ。行きました、後楽園に。それでこう、ハールっていうダンベルの大きいのを、
二十キロか三十キロぐらいするのを持って、こう、やっているんですよ。「どうだ!」って言うから、
「いや、たいしたもんですね。ちょっと貸して下さい」って僕がやったら、「おお」っていって、サッといなく
なっちゃったんですよね。きっと、嫌な野郎だと思ったんでしょうね。
井上:案外軽かったと(笑)。
中山:いえいえ、決してそうではなくて、僕は若い頃、体をつくるために色んなことをやっていましたから。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
佐藤:難しい質問……。「中山さんにとって三島美学とは何か」。
中山:よく言われていますけれども、「滅び」っていうのは言葉にしても非常にきれいな響きでしょう?
それに尽きると思うんですよ。全然違うところで経験したんですが、ピーター・オトゥールが、「将軍達の夜」
という映画で、(中略)伝統に培われたものが壊れていくときの悲鳴とか、そういうものをぞっとする思いで
感じました。(中略)そういうことから考えて、たとえばもう絶対にありえない、天皇は天皇として現人神で
あってほしい、しかし、そうはならなかった。それじゃあ、いままでそのために忠義を尽してきた人たちは、
滅びるしかない。それは、全員がそうじゃないかもしれない。いいよ、やめた、っていう人もいるかもしれない
けれども、あそこまで忠義を尽す人間を書いてくると、もう滅びしかないだろうと。それも、多分先生は、見事に
滅びをしたかったのではないのかな、と。見事というのは、他人に対してじゃなくて、自分で許せる見事さ
みたいなものが、絶対にあったような気がするんですね。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
>>179前
中山:「薔薇と海賊」では、帝一という純粋な青年の役をやりましてね、その時に、ちょうど三島さんと僕と、
今日の会場で一番前の席にいる方ぐらいの距離しかないわけですよ。それで、こう、芝居をやっていて、ちょっと
目線を渡したら、えっ? と思うぐらい目を真っ赤にしている。どうしたのかなと思って芝居が終わったら、
「仁君、よかったよ」と。「なんだ、お世辞をいって」なんて思ったんですけれどね、どうも違うみたいなんですよ。
佐藤:初日にも涙を流したという談話を、村松英子さんは残していらっしゃるし……。
中山:それから、しばらく変なことが続いたんです。三島先生は、蟹という字すら嫌いなんです。それなのに、
「蟹を食いにいこう」って言ったんです。えっ、と驚きつつもみんなで行って食べたんですが、何かがおかしい、と。
井上:「薔薇と海賊」の上演は昭和四十五年十月から、十一月三日までですね。
中山:それじゃあ、本当に亡くなる直前だったんですね。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
中山:あの日、十一月二十五日、僕は京都の撮影所でのロケーションで亀山のほうへ行っていまして、(中略)
送りのハイヤーの中で、「作家の三島氏が……」っていうふうに始まったのを聞いて、えっ! と思いました。
それがわずか五分もしないうちに、「犯人・三島は」って言った女性レポーターがいたんですよ。それはちょっと
違うだろうと非常に腹を立てたことを覚えています。その晩は眠れませんでしたね。僕と先生の付き合いというのは、
「おい、元気か?」「はい、元気です」っていう、そういう付き合いだったんです。しょっちゅう皮膚感で
付き合っていたもんですから、切腹して、介錯を……っていうことの衝撃の強さっていうものがあって、何も
考えられなかったですね。その次の日の撮影は休みにしてもらって、飛んで帰りました。
(中略)思考が停止した状態がしばらく続いたんです。少しは考えられるようになったのは、一年ぐらい経って
からですね。ああ、そういえばあの時に蟹を食べたな、あれはおかしいよな、とかね。そういうことでしか
推し量れない。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
井上:劇団の中で、三島由紀夫が自分の思想的なことを話すとか、文学の解釈について話すとかいうようなことは
ありませんでしたか。
中山:ほとんどありませんでしたけれどね、「仁君ね、僕の台詞は、いいかい、句読点まで読んでくれよ」って
言われたことを覚えています。だから、「だって先生、長いんだもん」なんて言ったってだめなんですよ。
句読点まで読んでくれ、って言うんですから。
それはもう、めちゃくちゃに鍛えられましたね。何とか先生の期待に添おうと思うから、一生懸命にやったんですがね。
NLTって新文学座という意味なんですけど、文学座はリアリズムの芝居をやってきた劇団なんですね。今でも
そうですけれど。NLTは、そうじゃない芝居をやろう、よりシアトリカルな芝居をやろう、劇場性の高いものを
やろう、と。(中略)他の先輩達は文学座で散々やってこっちに来ているから分かるんでしょうけれど、これは
ちょっと待ってくれよという感じがしましたね。いきなりですからね。右往左往したのが、二年ぐらいありましたかね。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
>>179後
中山:僕は、お墓参りには行きませんけれども、そちらへ向いて、毎年拝むようにはしていますけど。やっぱり、
これだけのものを遺してくれて……。僕だってもう六十六歳ですから、先は長くないですよ。
井上:いやいや……。
中山:それでもなにかこう、まだやることがあるよ、っていうものを遺していただいたわけですから。やっぱり、
少しでも続けたいなと思っています。
(中略)
佐藤:一番好きな役は……。
中山:うーん、やっぱり今歳を食っちゃいますとね、若い頃のあの役、なんでもいいですよ。久雄でも、経広でも。
あれはもういまや憧れでしかないですから。そういう役を、誰かがやっているのをそっと見てみたいなと思います。
佐藤:たとえば、純な心を持っている三十歳の少年、帝一はやりにくいんでしょうか。
中山:あれはねえ、そういう意味では、どうしようとか、ああしようとか全く考えずにできた役でしたね。
自分の中に滞る部分がなく、できました。だから三島さんは泣いたのかな、と思ったんですが、違ったんでしょうね。
でも、褒めてくれましたよ。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
織田:これは有名な話で(六代目中村)歌右衛門さんも言ってますけれども、「芙蓉露大内実記」の時に(三島と)
(市川)猿翁(二代目猿之助)さんとごたごたしたんですね。その時に「台本をとにかく直してくれ」と。
直さなかったら、もしかしたら猿翁さんが降りたかもしれないというような時に、歌舞伎座の頭取部屋のデスクを
借りて三島さんが台本を直したというんですね、一時間ぐらいで。それで稽古を再開して。それが見事にできた
ということで、歌右衛門さんも「大変な才能だ」と褒めてました。それをやらないと駄目なんですね。これ、
三島さんという人もそういう人だけども、とにかく台本を直す時に、何とも言いようがないんだけれども……
南北にでも黙阿弥にでも「なる」んですね、座付の作者になりきってしまう。だから、稽古場の雰囲気で
直さなきゃだめなんです。
井上(司会):三島も座付作者になったということですね。
織田:稽古場の延長線上で台本を直さないと切れちゃう。そこでみんなも気持ちが切れちゃうし。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
松本(司会):だけど、「芙蓉露大内実記」の場合、あの直しは失敗だったと指摘されていますね。
織田:いや、失敗というより、そうしなかったら上演できないですよ。あの日あそこで直さないと。最終的に
失敗だったかもしれないけれども。「芙蓉露大内実記」は四本目ですよね、作品としては。そのあと、(中略)
「協同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」(「演劇界」昭32.5)という座談会があって、その中で、三島さんは
「芙蓉露大内実記」の稽古のプロセスの話をしてますね、きれいごとになってますけど(笑)。三島さん自身は
「それで大体限界がわかっちゃったんです」ということをおっしゃってますね。「わかっちゃった」というよりも、
「もうこれ以上深入りしない、もういい」ということでしょう。絶交なんですね、これ。
山中(司会):そうなると、これは結構シビアな発言というか、ある種歌舞伎に対する、見切り宣言のような……。
織田:見切りをつけてるんですよ。そのあとでもう一本「むすめごのみ帯取池」をやってますが、それは歌右衛門の
懇望だったんでしょうね。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:「大内実記」はラシーヌの「フェードル」を下敷きにしているわけだけれども、限界があるんですよ。
ラシーヌの「フェードル」を昭和三十年当時、どれだけの人が知ってますか。それも歌右衛門ファンが。
松本:まあ、知らないですね。
織田:日本の観客、かなりのレベルの識者だってそうでしょう。まして歌舞伎の客なんか、どれだけ知って
ましたか……(中略)
松本:舞台はともかく、「大内実記」は読んでみると面白い。ラシーヌとは関わりなく、よく出来ていると
思いますよ。効果的な工夫も凝らされていて。
織田:やっぱり義太夫の失敗でしょうね、作曲の。これはもちろん歌右衛門もそう言っているし、「もう一度
やってもらいたい、やってみたい」と(現・五代目坂東)玉三郎さんなんかも言ってますけどね。だけど義太夫は
完全に直すべきだとは、歌右衛門さんも言ってますね。
(中略)
井上:三島は『三島由紀夫選集』に「大内実記」を入れる時には、書き直す前のオリジナルの台本を、あえて
収録していますね。
山中:不本意な書き直しだったと、選集には注記がありますしね。(中略)猿翁だったでしたか……。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:あの人にとっては第一義は文学、それも小説ですね。第二義であるけれども大事だったのが創作戯曲
だったと思う。三番目に、あの人の心の遊びというか、少年の遊びというか、そういうものに帰って行けたのが
歌舞伎だったと思う。そして歌舞伎は、能を扱うのとは全く違った扱い方をしてるわけですよ。能は『近代能楽集』を
見てもわかるように、とにかく能を昇華しきった上で、三島にとっての現代劇になってるわけですね。歌舞伎の場合、
彼が最後の最後までこだわったのは「狂言作者」なんですよ。まずそこから遊びなんです。竹柴ナニガシに
扮している、彼自身が。「三島由紀夫」じゃないんですよ。だから「演劇界」の対談でも利倉幸一さんに、
「狂言作者というとだれまでをいうでしょうか?」と聞いてますよね。利倉さんは「新七まででしょう」と、
三代目の(河竹)新七まででしょうと言っているけど、三島さんはその次は自分だと思ってるんですよ(笑)。
(中略)
山中:本読みを必ず自分でするのも、狂言作者の流れに自分も沿おうとして実践していたというわけですね。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:あの人にとっては「鰯売恋曳網」がとにかく当たってしまったのが気に入らなかった(笑)。
困惑してるし、歌右衛門さんも言っているように、初演の時からぼやいてるわけですよ。(十七代目中村)勘三郎が
気に入らなかったと。
「弓張月」の時、監事室というガラス張りの部屋が劇場の客席の一番後ろにあるんですが、そこに僕はつめていて、
三島さんと一緒に見てた。初日が開いて何日か経って、二人で立って客席を見てたんですね、誰か来ていないかなと。
(中略)そしたら中村屋(勘三郎)が客席に入ってきたんです。で、三島さんに手を振ったんです。(中略)
僕が頭を下げたら、三島さんが「愛想がいいね、俺の『鰯売』を単なる喜劇にしちゃったんだからねえ、彼は」。
ファルスだと三島さんは言ってるけれども、「あのねえ、そういうことが理解できないんだよ、あの人は」
という話をそこでしましたね。まあ、それは確かにそういう人なんだけどね。単なる喜劇にしてしまったと。
井上:ちょっとふざけすぎというか。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
松本:ファルスと喜劇との差は何ですかね。
織田:やっぱり、ペーソスなんですね。何か苦い笑いというか。原作のお伽草子を読んでみてもわかるように、
元々は単純な笑い話なんですね。蛍火はお姫さまでも何でもなくてほんとに遊女ですよ。どこの馬の骨かわからない
五条東洞院の遊女。それを三島さんは歌右衛門のために、丹鶴城のお姫さまにしちゃったわけですね。そうすると
あそこで一番大事なところは、二重の身分差別の悲劇、二重の身分違いの恋の悲劇なわけで、三島さんは、
俺はそういうものを設定したじゃないか、と言いたかった。
井上:勘三郎にそういうことを要求してたわけですか。
織田:そうなんだね。また作品世界に要求した。それをよく理解できなかったというところなんだと思います。
山中:悲哀を帯びた笑いが込められている、と。
井上:姫は鰯売りの声に誘い出されて出奔するわけですから、そこには身分差の問題がある。ペーソスもある。
ところが、ただおちゃらけたみたいな、そういうふうになってしまった。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
松本:あれ(鰯売)は本当に、劇場の中が沸きに沸きました。最近上演された歌舞伎で、あれだけ劇場を沸かせた
脚本ってないんじゃないかと思うんですよ。
織田:それはやっぱり先代も今も勘三郎のやり方を受けて立てる台本だからできるんだけれども、ただ、それは
どうも三島さんの意図ではないらしい。
松本:だけどそれね、三島さんはちょっと贅沢すぎると思いますね。
織田:そうでしょうね。歌右衛門さんも「おもしろくて受ければいいわよねえ」と言ってましたけどね。
松本:笑劇としてはどうかわからないけど、祝祭性がものすごくよく出てる。あれは見事だと思うんですよ。
健康なエロティシズムも出ている。三島と歌右衛門、それに勘三郎も加えてよいかどうか、とにかく共同作業だから、
あれだけのものができたのではありませんかね。
織田:ただ三島さんという人は、照れというか、(中略)まだ若い時だし、二十九ですから、この時。「まだ
もうひとつひねりがあるんだよ」と。そのひねりが、役者にも客にも伝わらない。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
井上:織田さんは、三島歌舞伎全般についてどんな印象をお持ちになっていますか?
織田:(中略)やっぱり先ほどお話したように、三島さんは狂言作者を気取った最後の人だったんだなという
ことですね。それから僕は三島さんのことだけを考えるというよりも、一九六〇年代の最後から七〇年代の
劇作家の方たち、大佛次郎、舟橋聖一、宇野信夫、川口松太郎、北條秀司、村上元三というような、戦後、
歌舞伎の作品もお書きになった劇作家たちとの仕事をご一緒にやらせていただいて来たわけですが、誰とも違う。
そこが魅力ですね。
井上:そこをお聞きしたいですね。違いとはどういうことなんでしょうか。
織田:それはもう三島さん自身が十七歳の頃からずっと変わらなかった古典志向というか、自分でもお書きに
なっているように「エセ近代歌舞伎」というものをいっさい認めないという歌舞伎観をずっと通して全作品に
通低しているということ。それが同時代のどの作者とも違った道だということです。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:たとえば宇野先生のいくつかの世話物は、近代歌舞伎の創始者といわれる六代目尾上菊五郎と共にあった。
それよりひとつ以前の岡本綺堂、三島さんは綺堂を劇作家の中でももっとも認めてなかった。でも戦後の
新作歌舞伎というのはみんな綺堂張りなんですよ。そこから最も遠いところにあろうとした。三島さんは最後の
最後まで言わずもがなで言いたくなかったんだろうけど、「擬古典」という言葉を使っていますね。だけど本当は
そうじゃない。これが正当な、歌舞伎の伝統なんだ、これこそ作者の伝統であると、実作者として証明した。
松本:だからもしも三島という台本作家が出てこなかったら、歌舞伎は変わったんじゃないかと思いますね。
三島を除いた新作歌舞伎の人たちが本流になってしまった可能性があるんじゃないか。そうなったら、歌舞伎は
グズグスになってしまったろう。三島が出現したために伝統的な本来の歌舞伎が生き残ったし、今ではかえって
そちらが強くなってるんじゃないかと僕は思っているんですけどね。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:「三島歌舞伎」とは言っても「宇野歌舞伎」「大佛歌舞伎」とは言わないんですよ。それらとは違う別の
作品なんです。昭和三十年代というのは、書き手がいなくなってしまったことが目に見えてわかった時代ですね。
松本:そうですね。三島以外の誰にもあんなのは書けない。三島だけが書けた。
織田:書こうとも思わないしね。そうすると「三島歌舞伎」対「他の歌舞伎」なんです。三島以外の歌舞伎。
山中:戦後、新作歌舞伎と三島が、ジャンルとして対決しているということですね。
織田:そうそう。だからある意味では孤独峰なんですね、屹立している。
松本:それでいながら歌舞伎本体に深く根を届かせているわけですね。
織田:野坂昭如さんが「三島ってのはすごいよね」と。「義太夫を書ける日本人というのはああいう人しか
今いないんじゃないか」と言ってました。
山中:それは亡くなった後のことですか?
織田:いや、亡くなる前だと思います。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:何かの時に……三島さんが「おかしいよね」と。「浄瑠璃書けるのが当たり前だよ、日本語で何かを
書こうと思ったら、謡曲や和歌を作ったり、浄瑠璃を書いたりする方が当たり前なんだ、書けない方がおかしい」と。
昭和三十年代というのは戦後の教育がそういう知識を失わせて、もはや「戦後」ではなくて「日本」がなくなった
悲劇的な時代の分岐点で、そういうものに訣別したことが「三島歌舞伎」という言葉を生んだんじゃないかと
思いますね。
(中略)百年後にもう一度日本人がこういうものを作り上げられるかと思ったらそれは大間違いです。絶対に
不可能ですね。文化の伝承、伝統は戦後教育のもとで断ち切られたという思いが三島さんにあっただけに、
かろうじてそれをどこかに求める、そういう気持ちがあの人には強かったんだと思いますね。義太夫狂言で何が
一番お好きですかと三島さんに聞いたら、「鬼一法眼三略巻」の菊畑が好きだと言ってました。何でですかと
聞いたらノリが好きだと。義太夫の三味線に合わせて乗るせりふ。(中略)あれが好きだと。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
三島由紀夫の『橋づくし』には、「映画俳優のR」が出てくる。新橋の料亭の箱入娘満佐子が「一緒になりたい」と
願う相手である。(中略)
前田愛は、(「幻景の街――文学の都市を歩く」で)この映画俳優Rは市川雷蔵であるらしいと言っている。(中略)
三十七歳の若さで亡くなった俳優市川雷蔵は、十五年間の俳優生活で百五十八本という数の映画を残している。(中略)
しかし、雷蔵はその「スター」の地位に安住することのない、非常な野心家であった。
雷蔵は長谷川一夫の「美剣士」を継承し、ファンの期待を裏切らないようにそれを守りながらも、新しい市川雷蔵を
作り出していった。(中略)
そんな市川雷蔵にとって、映画デビューをして初めて俳優としての転機となった作品が『炎上』なのである。
言うまでもなく、三島由紀夫『金閣寺』の映画化である。その後、三島原作の映画を雷蔵が演じたのは、
『剣』だけであるが、『炎上』、『剣』のこの二作品は、雷蔵の俳優人生の中でも異彩を放っている。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
(『炎上』公開の)前月、雷蔵は後援会会誌にこんなことを書いている。
《私が『炎上』で丸坊主になってまであの主人公の宗教学生をあえてやるという気になったのはもとより、
三島由紀氏の原作『金閣寺』の内容、市川崑監督をはじめとする一流スタッフの顔ぶれにほれ込んだことも
大きな原因ですが、それと同時に私はこの作品を契機として俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたかった
からにほかありません。》(「雷蔵、雷蔵を語る」)
(中略)これまで時代劇で人気を博した雷蔵は、現代劇を跳躍台に選んだ。しかし、大映からは今まで築いてきた
「美剣士」のイメージが壊れると反対され、スタッフからも雷蔵ではこの役は務まらないと思われていた。
一方で、映画化決定の際、三島由紀夫と市川崑監督は、主演は市川雷蔵だと期せずしてイメージが一致していた。
雷蔵は、もともとファンであった原作者の三島がそう言っていたことを知り、益々意欲がわいたという。雷蔵は、
周囲の反対を押し切り会社を説得するのに一年を費やしている。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
雷蔵は三島文学の最高峰『金閣寺』を読んで、武者震いのような感動、役者魂に火をつけられたような感覚を
得たのではないだろうか。主人公溝口の美への憧憬と疎外感、難解な観念、そして金閣寺の放火に赴く心理……。
それらを鮮やかな独白体で表現し、現実の事件を芸術作品にまで昇華しえた三島由紀夫の文章は、表現者市川雷蔵を
大いに感化したことだろう。
従来の「市川雷蔵」のイメージを払拭するために、雷蔵は対極に位置するような役を選んだ。化粧を施した
端整な顔と美しい声の「美剣士」から、すっぴんの顔を歪ませながらしゃべる屈折した青年へ。まさに変貌を
遂げる俳優の姿を見せつけたのである。
原作者三島は、映画の制作途中の雷蔵を見ている。三島が撮影現場を見学した日の日記に、
《頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない。》
(「炎上」撮影見学〈日記(五)〉)
と書いている。三島は雷蔵主演の成功を確信していたようだ。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
さて、『炎上』撮影見学の約二ヶ月後に、三島は大映本社で完成した映画の試写に参加している。
《この映画は傑作といふに躊躇しない。(中略)俳優も、雷蔵の主人公といひ、鴈治郎の住職といひ、これ以上は
望めないほどだ。(中略)雷蔵君を前に、私は手ばなしで褒めた。かういふ映画は是非外国へ持つて行くべきである。》
(「炎上」〈日記(七)〉)
『炎上』の前年に上演された映画『美徳のよろめき』を《これ以上の愚劣な映画といふものは、ちよつと
考へられない。》(「美徳のよろめき」〈日記(五)〉)とまで言った三島が、『炎上』や雷蔵の演技に対して
大絶賛しているのが分かる。原作者として満足したと同時に、原作を離れて独立した映画作品としても感動を
味わったのだろう。
(中略)『華岡青洲の妻』などで雷蔵と仕事をした増村保造監督は次のように言っている。
《「映画にならない小説」を見事に映画化した成功例として『炎上』がある。(中略)小説の鮮やかな映画的
再構成と云えるであろう。》(「原作映画とその映画化」)
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
また、この映画から四年後、(中略)三島は「雷蔵丈のこと」という文章を送った。
《君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。(中略)
ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを
注ぎ込んだのであらう。私もあの原作の「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆるものを
注ぎ込んだ。さういうとき、作家の仕事も、俳優の仕事も、境地において、何ら変るところがない。》
三島由紀夫にとって『金閣寺』は、それまでの創作活動の集大成であり、これからを指し示す重要な転換と
なった小説でもある。市川雷蔵にとっても、同じことが言える。同じ作品に人生を賭け、大業を成し遂げた者同士の
共鳴というものをこの文章からは感じることができる。
この映画で雷蔵は、キネマ旬報主演男優賞や(中略)イタリアの映画誌『シネマ・ヌオボ』でも最優秀男優賞に
選ばれた。この作品は市川雷蔵の代表作の一つとなり、日本映画史にも残る傑作となった。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
映画『剣』は昭和三十九年三月に公開された。(中略)小説発表から映画化までわずか五ヶ月である。雑誌に
掲載された小説を雷蔵が読んで、自ら映画化したいと希望した作品である。(中略)
年明けすぐ、午前四時の寒稽古見学、多忙を極める二人がここまでするのは、作品への情熱、そして、三島が
雷蔵を本物の俳優だと認め、期待していたからだろう。
『剣』はTVドラマとしても映像化されているが、三島はそのドラマと映画を比較した感想も日記に書いている。
《加藤剛の主役は、みごとな端然たるヒーローだが、映画の主役の雷蔵と比べると、或るはかなさが欠けてゐる。
これはこの役の大事な要素だ。》(TV「剣」〈週間日記〉)
雷蔵は、次郎の正しさ強さ、「はかなさ」を見事に表現した。映画『剣』に関して、「ここでは雷蔵が三島の
分身ではないかと思わせられるほどだった」(塩田長和「日本映画五十年史」)という感想もあるほど、雷蔵は
三島の理想を体現することに成功している。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
雷蔵が『剣』の国分次郎を演じたのは、もう一人の同時代俳優、石原裕次郎を意識してのことだったかもしれない。
時代劇で映画デビューをした雷蔵に対して、石原裕次郎は(中略)「太陽族」と言われた戦後派青年の象徴的
存在だった。しかし、同じ戦後派の国分次郎は、(中略)反時代的な生き方をしている青年だ。雷蔵は、
この国分次郎を演じることで「市川雷蔵」という俳優をアイデンティファイするという意図もあったのでは
ないだろうか。
雷蔵は、俳優「市川雷蔵」のアイデンティティーを反時代的な美に求めていたように思う。それは、市川崑監督が
「若いくせに妙にクラシックなところがあって、そのくせ強情なんですよ」と言ったように、雷蔵の生来の
性質だったかもしれない。(中略)
雷蔵は三島作品によって自己を表現することが出来た。自分を思う存分表現出来る作品に恵まれなかった勝新太郎に
比べると、雷蔵の俳優人生にとって三島の作品は、かけがえのない存在であっただろう。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
三島由紀夫が描き、市川雷蔵が体現した反時代的な青年は、三島の理想とした反時代的な「美」を象徴する
人物でもある。三島はこういった青年を描くときに、共通した特徴を持たせている。それが「微笑」である。
三島の小説の中で、主人公がしばしば「微笑」することに注目したい。なにげなく書かれた「微笑」という言葉は、
三島の描く主人公のシンボルとなっている。(中略)
まずは『潮騒』の新治の「微笑」である。
《新治は微笑して、壁際に坐つて膝を抱いた。さうして黙つて、人の意見をきいてゐるのが常である。》(第三章)
(中略)新治以外の若い漁師仲間や船長たちが「漁の自慢をしたり」、「愛情と友情について」とか「食塩注射と
同じくらいの大きさの葡萄糖注射があるか」などを熱心に「議論」している場面である。新治はそういう
「議論」には参加しない。ただ「微笑」して聞いている。しかし人一倍海や漁のことを考えているし、いざとなれば
誰もが怖ける嵐の海にも飛び込む青年である。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
次ぎは『金閣寺』である。一見、主人公の溝口に「微笑」する余地があるとは思われないが、実は「金閣を
焼かなければならぬ」と決意してから、「微笑」し出すのである。
《(中略)
「さうか。君は奇妙な奴だな。俺が今まで会つた中でいちばん奇妙な奴だ」
その言葉は私の口辺から消えぬ親愛の微笑に向けられたものだとわかつたが、私の中に湧き出した感謝の意味を、
彼が決して察することはあるまいといふ確実な予想は、私の微笑をさらにひろげた。》(第八章)
(中略)「人生に参与」することを諦めてからは、「金閣」は溝口の前に現れず、溝口は「微笑」し出すのである。
三つ目は、『剣』である。この作品は、(中略)主人公国分次郎の生き方の象徴として「微笑」が意図的に
使われている。
(中略)
《その微笑は美しかつた。次郎が「くだらないこと」に耐へ、煩雑で無意味なことに耐へるときの表情は、決つて、
その微笑、ただ黙つて浮べる微笑なのだ。》(その三)
(中略)「剣」以外の生活に耐えるときに、次郎は「微笑」する。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
最後は、『奔馬』である。勲たちの「昭和維新」が実行前に検挙され、長い裁判の結果、勲が刑を免除され
一年振りに家に帰った場面である。
《勲は家へかへつてから、微笑するばかりで何も言はなかつた。》(三十八)
《佐和は大声で獄中の物語をして人々を興がらせてゐたが、勲は微笑を泛べてゐた。》(三十八)
(中略)若い勲が挫折し、目的を喪失したときに「微笑」しているのが分かる。
このように、四作品の主人公に「微笑」する場面がある。(中略)いわば「微笑」は、主人公の内面を覆い隠す
仮面である。(中略)
この「微笑」は、三島の行動や肉体の思想とも関係している。例えば、『潮騒』の新治は、(中略)行動する
若い肉体に「議論」はいらない、という作者の思想が見え、新治の行動力の隠喩として「微笑」は使われて
いるようだ。(中略)
映画『剣』では、次郎の「微笑」が原作と同様、象徴的、効果的に使われている。(中略)クローズアップで
映された雷蔵の顔には、「剣道で昔から言う『観世音』の目」(『剣』)と口角をわずかに動かした「微笑」があった。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
市川雷蔵は、『金閣寺』と『剣』の主人公を演じた。それは(中略)「美」から疎外された人物と、「美」そのものの
人物の両極を演じることであった。(中略)
市川雷蔵という俳優自体、生活臭がなく人生にも芸道にもストイックなところがあった。そこが「人生」よりも
「美」を選ぶ三島作品の主人公たちを表現できた所以だろう。
雷蔵は、映画化された二作品の他に、『獣の戯れ』の映画化を計画したり、闘病中にも『春の雪』を舞台で
やりたいと構想を練っていたりしたそうである。一人の俳優が、これほどに三島由紀夫作品を映画化し主演したいと
言った例があるだろうか。また、増村保造監督と二・二六事件の青年将校の役もやりたいと相談していたという。
こういったエピソードから、フィールドが違っていても、三島と雷蔵の追求していたものが似ていたことを
思わずにはいられない。
雷蔵が『奔馬』の勲を演じる機会がなかったのが悔やまれる。雷蔵であれば、三島文学の「微笑」の系譜を
作れたのではないだろうか。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
たしかに三島君には、絶望するだけの根拠も資格もあった。彼は言葉のなかに生きていた。あるいは、言葉を
生きていた。(中略)言葉によって存在するためには、まず対話の真の意味を理解し、その姿勢を身につける
ことから始めるべきなのである。(中略)
それにしても三島君は、まさに対話の名手だった。もちろん対話は相手を選ぶ。すくなくともぼくにとっては、
得がたい対話の相手だった。真の対話には、論破することも、されることもない。論争とは違うのだから、
勝敗は問題にならないのだ。また、社交でもないのだから、譲歩しあう必要もない。なんの妥協もなしに
対立し合い、しかも言葉のゲームにたっぷり堪能するという、いわば対話の極致を体験できたのも、三島君との
出会いのおかげだったと思う。(中略)三島君にはつねに他者に対する深い認識と洞察があった。絶望はいわば
その避けがたい帰結だったのだ。
安部公房「周辺飛行19」より
ねじまき鳥(『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹)が巻いている「世界のねじ」という作家の一つのビジョンは、
八〇年代以降のポストモダンといわれる現実の比喩である。複雑多様な文明社会が、驚くほど容易にある事柄に
よって崩壊する。平和な豊かな日常が薄い透明な破れやすいガラス板の上に乗っかっていて、それがちょっとした
ことによって一挙に破壊される。絶対的な価値を喪失した人間と社会は、歴史の持続を信じることが出来ず、また、
未来を確かなものとして構想することができない。こうした近代世界のニヒリズムは、三島由紀夫がすでに
『鏡子の家』で描き出したものであった。三島はこの長篇で「戦後の日本のニヒリズムを壁画のように描く」と
言っていたが、この作品は当時、十分に日本の文壇で理解されなかった。『英霊の声』は、この戦後のニヒリズムと
絶対者の喪失という現実に対する三島の挑戦であった。村上春樹は、ポストモダン時代の作家として、三島の
この二つの作品、すなわち『鏡子の家』と『英霊の声』の遠いこだまを常に受けてきているように思われる。
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
「世界の終わり」という一種の疑似終末論的な発想、世界を巻く「ねじ」という空虚な文明社会の隠喩、いずれも
三島的問題の新たな展開の一端である。
『ねじまき鳥クロニクル』では、一九三八年の満州蒙古国地帯の戦争のシーンが鮮烈に描かれている。作中では
ノモンハンの戦闘を体験した間宮という老人が「僕」にその戦争体験とシベリアの収容所体験を話す。かつて
満州で日本人の将校がロシア兵と蒙古人によって皮剥ぎの拷問をうけ殺されるのを目の当りにした話がある。
間宮老人は、外蒙古の砂漠の深い井戸に突き落とされたときの「無感覚」について、こう語る。
《(中略)私はあの井戸の底の、一日のうちに十秒か十五秒だけ射しこんでくる強烈な光の中で、生命の
核のようなものをすっかり焼きつくしてしまったような気がするのです。あの光は、私にとってはそれくらいに
神秘的なものでした。(中略)地獄のようなシベリアの収容所にいたときでさえ、私はある種の無感覚の中に
いました。(中略)わたしの中のある何かはもう既に死んでいたのです》
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
この「無感覚」は、戦争という暴力によって作り出されたものだが、同時にそれは「平和」という名の収容所と
しての「戦後日本」のニヒリズム感覚にも相通ずる。村上春樹がデビュー作以来一貫して繰り返してきたのは、
「何かがすでに終わっている」という喪失感であった。三島は、この戦後的(それはもちろん明治維新以降の
日本の近代化=西洋化に始まるものである)な喪失感に対峙しつつ、『英霊の声』において「天皇」を
「神」として問うことからそのニヒリズムの克服、言い換えれば「近代の超克」をなした。(中略)二・二六事件の
青年将校と特攻隊の「英霊」を自らの作品の言葉の力となしえた三島は、そのことによってあの昭和四十五年
十一月二十五日の自決まで一挙に疾走した。ライフワーク『豊饒の海』最終巻『天人五衰』が作家自身の死後の
時間を描いていることは忘れられてはならない。つまり、そこでは一九七〇年以降の村上春樹が登場してくる
ポストモダン的時空間が予告的に描かれているからである。
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
(中略)
(三島は)絶対者を「待つこと」によってニヒリズムを超克する道を示した。「待つこと」は、晩年の三島の
文学と行動のキーワードである。三島の論文『「道義的革命」の論理』でくりかえし語っていたことも
「待つこと」の希望であった。
《二・二六事件はもともと、希望による維新であり、期待による蹶起だった。といふのは、義憤は経過しても
絶望は経過しない革命であるといふ意味と共に、蹶起ののちも「大御心に待つ」ことに重きを置いた革命である
といふ意味である》
《(中略)明治維新は、これほど切なく「待つこと」はなく、又、一方、その指導理念が、北一輝のそれほど
暗い否定に陥つたことは一度もなかつた》
《事件、逮捕、裁判の過程において、いや、事件の渦中においてすら、戒厳令下の維新大詔の連発を待つた彼らは、
待ち続けた。革命としてははなはだ手ぬるいこの経緯のうちに、私は、道義的革命の本質を見る。といふのは、
彼らは、待ち、選ばれ、賞讃され、迎へられなければならない、といふことを共通に感じてゐる筈だからである》
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
二・二六事件の本質にあるものを、三島はこの「待つこと」であると言った。「大御心」を待つことによる熱烈な
希望の革命。それが三島がその文学においてあらわしたものであった。サミュエル・ベケットの『ゴトーを
待ちながら』では、二人の男が神を待っているが、ついに神はやってこない。それは、到来しない神を待つことの
逆説的現実をアイロニカルに描いたものであった。三島は「ベケットのこの作品は認められない、神はやって
来なければならない」と安部公房に語ったことがあったが、まさに三島の『英霊の声』は、「神の到来」を希望し熱烈に期待し、
物語ることによって、言霊の力によって、歴史を動かそうとした野心的作品であった。村上春樹の作品世界には、
このような「神の到来」を描く一切の契機がすでに失われている。『ねじまき鳥クロニクル』以降の村上作品は、
グローバリズムという奇妙に拡散した文明社会のニヒリズム状況の中で消費され続けている。三島的問題意識を
内包しながら、一九七九年に作家的出発を遂げた村上春樹は、すでにその文学の内的な根拠を失ってしまった
ように思われる。
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
『1Q84』(村上春樹著)を読んで、誰もがこれはオウム真理教のことだ、と思ってしまうでしょう。ただ、
ここに描かれている新興宗教のリーダーは、本当にオウム真理教の教祖がモデルなんでしょうか。決して
それだけではないと思います。もっと大きなシステムを体現した存在である。実に村上春樹がリーダーに与えて
いる規定は、折口信夫が天皇に与えている規定とまったく同じなんです。
(中略)預言者とは、未来を予知する者(予言者)ではなくて、神の言葉を自らの身に預かることができる者です。
村上春樹はそう規定しています。(中略)
さらにこの男は神の声のレシヴァ(receiver)だとされている。しかもレシヴァというのは、ただその人間が
存在するだけでは能力が発揮できず、パシヴァ(perceiver)という認識者が必要不可欠であると書かれている。
(中略)レシヴァが王でありパシヴァが少女であって、王の近親者である。つまり、姉妹もしくは実の娘が
神の声を王に届ける。これは折口信夫が「大嘗祭の本義」等で説いている天皇の規定そのものなんです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
折口は、昭和三年に発表された「大嘗祭の本義」と密接に関連する論考の中で、天皇のことを御言持
(ミコトモチ)であると定義しています。(中略)まさに預言者としてある王でしょう。(中略)
折口はさらに続けます。最高位のミコトモチは天皇であるが、ミコトを預かるという条件を満たせば、他に無数の
ミコトモチが生まれ出てくる可能性がある。(中略)天皇は、天上世界の神々の声を聞き届ける人間であり、
神の声の象徴であるとさえ折口は言う。折口のミコトモチ論は戦後の象徴天皇制の先取りにもなっているんです。(中略)
『1Q84』のなかでは、獣であり精霊でもあるリトル・ピープルが空気さなぎというものを織り上げます。
空気から透明な糸を紡いで繭を織る。その中から新たな存在が生まれ出てくる。それは原型(イデア)としてある
王の分身なんです。折口は「大嘗祭の本義」において、新たに即位する天皇に真床襲衾という寝具であり
衣裳である巨大な布を被せる。同じ情景を『死者の書』では、少女が蓮の花から採った透明な糸で織り上げた
曼陀羅として描く。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
曼陀羅は「衣」であり「裳」であると折口は書く。どちらも糸を紡いで織り上げられた繭です。その繭の中から
先代の「天皇霊」(折口の定義によればそれは言葉の霊でもあります)を受け継ぎ、先代の分身となった新王が
即位する。王という存在は滅びないのです。天皇の身体は霊が身にまとう単なる「容器」に過ぎない。反復される
王の即位の際には、王の身体に生命(霊魂)を取り憑かせ、安定させるために「水の女」である后が象徴的にも、
実際的にも性の交わりを果たす。王と少女はまさに「多義的に」交わるのです。
そっくりだというと語弊があるかもしれませんが、私が長年研究してきた折口信夫の『死者の書』と『1Q84』は
非常によく似た物語構造を持っていると思うのです。その核心には天皇制というシステムがあり、さらには
想像力によるその乗り越えが図られている。現実の制度を想像力によって解体し、再構築するのです。新しい王国を、
作品として到来させるのです。こう考えてみると、おそらくは村上春樹が意識的に読み込んだ先行作家の姿も
浮かび上がってきます。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
大江健三郎の『燃えあがる緑の木』三部作から『宙返り』へと続く、宗教教団と救世主をめぐるサーガです。(中略)
さらに、より直接的なのは三島由紀夫との関係です。ただし私は、村上春樹が実際のインタビューで三島の
作品群に対して否定的な見解を述べていることを無視しているわけではありません。おそらくそうした個人的な
好悪の判断を超えて、現代の日本で意識的に小説を書こうとする書き手たちの作品、想像力によるシステムの破壊と
再構築を意志した作品はみな相似形を描かざるを得ないのでしょう。三島由紀夫が『英霊の聲』で提示したのも、
まさに折口信夫が「大嘗祭の本義」で大きく準拠した宗派神道に伝わる神道儀礼でした。国家神道と同時期に
無数に生まれ出た新興神道の教祖たちが明らかにした憑依の主体、神主と審神者の構造をもとに、折口も三島も、
天皇制を脱構築しようとしたのです。ただし、ここで三島もまた、折口に対してきわめて批判的な、というよりも
愛憎が複雑に入り交じった両義的な態度をとりました。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島が『英霊の聲』で依拠したのは、出口王仁三郎の「大本」から分かれた友清歓真の鎮魂帰神法です。神の声が
憑依する「神主」がおり、神主に憑依を促し、それを統御する「審神者」(さにわ)がいる。神主とは神の声の
レシヴァであり天皇である。審神者とは神の声のパシヴァであり后である。折口=三島の天皇論をまとめれば、
こうなります。三島由紀夫が『英霊の聲』で得たヴィジョンを作品として結晶化させたのが、遺作となった
『豊饒の海』四部作だとすると、村上春樹に至るまでの戦後文学の課題が一体何であったのか、おぼろげながらも、
しっかりと把握できるのではないでしょうか。
何度も繰り返すようですが、それは天皇制というシステムの問題なのです。しかもこの天皇制というのは、
太古から連綿と続いてきたシステムではない。この極東の地を含めて世界が一つになりつつあった最初の時期に、
現在でも猛威をふるう強力な資本主義グローバリズムの圧力のもとで、アジアの片隅に勃興した新興の一国家が
生き残るために採用した、近代になって再発見され、再構築されたシステムなのです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
だからこそ、表現においても、実践においても、このシステムに従い、またこのシステムに抗うことが重要に
なってくる。折口も三島も、神道的なるものにキリスト教的なるものを接ぎ木して、グローバリズムを生き抜く
ための理念、恐るべき雑種としての信仰原理を作り上げたのです。東洋と西洋の信仰と文化を怪物的な王のもとで
統一しようとしたのです。
そしてそのすぐ傍には、折口や三島が作品として抽出してきた権力発生の方法を現実世界に応用する人物が
現れてきた。折口と同時代を生きた大本の出口王仁三郎です。出口王仁三郎は結果として、日本の中に天皇の
分身ともいえる存在が統治するもう一つの神聖王国を築いてしまった。しかもその神聖王国を、一国家を超えて
アジアにまで拡大しようとしていた。日本の大陸政策と軌を一にした満州や蒙古への進出です。現実の国家が、
そのようなもう一つの理想国家の存在を許すはずがない。大正、昭和の二度にわたる大本弾圧事件が起こるのは、
相似形をもったシステム同士の齟齬という事態を考えれば必然だったわけです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
しかし、第二次世界大戦で天皇制は滅びず、より抽象度を増し、より純粋なシステムとなった。そのシステムが
まさに飽和状態を迎えようとした時、一九八四年から一九八五年にかけて、大本のネガのような存在である
オウム真理教が生み落とされることになった。オウム真理教もまたこの地上を、そのまま現実のシャンバラ
(楽園)に変えようとします。麻原彰晃を中心とした天皇制の劇画とも言えるシステムを用いて……。つまり
近代という時代は象徴天皇制を条件として、現実世界においても想像世界においても、それを生の指針とし、
その疑似システムとしてしか成り立つことができなかった。そこで意識的な実行者たちは天皇制を模した現実の
組織を作り上げて国家と対峙し、意識的な表現者たちは想像力によって理想の王国をもう一度自分の手だけで
作り上げようとした。それらはみな驚くほど似てくるのです。それが近代日本思想史と近代日本文学史のいずれにも
またがり、その二つが交叉する本質的な問題となったのです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
『1Q84』は、そのような流れの中で形になった作品だと思います。その点に、村上春樹の作家としての創造性と
困難の両方があるのではないかと推測されます。信じられない部数が出たというのも、おそらくは時代の無意識に、
この極東で近代=現代という困難な時代を生き抜いている多くの人々の無意識に、ダイレクトにつながることが
できたからでしょう。我々の誰もが悩んでいるシステムそのものをどう脱構築していくのかという実践が、
この作品の執筆にかけられている。また、だからこそ、村上春樹の多くの作品に、まるで回帰する亡霊のように
「満州」という言葉が何度も登場することになったのでしょう。(中略)オウム真理教の信者たちにインタビューして
仕上げられた作品のあとがきでは、「唐突なたとえだけれども、現代におけるオウム真理教団という存在は、
戦前の『満州国』の存在に似ているかもしれない」という一節がわざわざ明記されなければならなかったのでしょう。
村上春樹にとっては、自分が書いている物語の世界が現実として逆襲してきたんじゃないでしょうか。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
(中略)ここに描かれているのは、村上春樹にとって切実な物語であるとともに、近代以降を生きている我々に
とっても実に切実な物語なのではないかと思います。ただ、そのシステムは非常に男性的なシステムなんですよ。
(中略)実際、この物語では女たちだけが不幸になってゆく。男は受動的に享楽を得ることができる。
(中略)システムへの意志、つまり物語が長編小説としてまとめられてしまうことを拒むような拡散への志向、
男性的な権力をたわめてしまう女性的もしくは中性的な未知なる力への夢想。この作品に弱点があるとすれば、
そうした視点があまり見受けられないことでしょう。
システムの矛盾、システムの悪とその解消を描くはずの物語が、理想のシステムそのものとなってしまう。私は
そこに大きな不満を覚えます。
(中略)麻原彰晃は狂ったまま生き延びているし、象徴天皇制は揺るがない。だから王が殺されて物語が
完結するこの小説は、やはり作り物めいてしまう。あまりにもシステム通りに、きれいに作られすぎている。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
(中略)現実の出口王仁三郎は破壊的なユーモアの持ち主であるとともに、誰からも好かれる規格外の大人物で
あったといわれているし、麻原彰晃にしても、内部の者に対しては限りのない包容力を持っていたと伝えられている。
それが反権力の闘士となり、また底知れない悪を体現することにもなった。『1Q84』だと、不気味な悪の
源泉であるリーダーをはじめとして皆、格好よすぎるわけです。そして女は死に、男は生き残る。レシヴァで
あった王を引き継いで小説家になるであろう男は無傷のまま美少女と安全な愛を交わす。これではあまりにも
不公平です。
しかし、だからこそシステムは円滑に動いているとも言えるわけです。王と少女の関係が物語の母体となり、
その関係性が反復され、それぞれ展開されてゆく。そこにはまったく無駄がありません。(中略)男はエロスの
物語を生き、女はタナトスの物語を生きる。(中略)小説家を志した男だけが生き残って、リーダーの後を継ぐ。
だけど青豆は物語の構造上、生き残ることができない。青豆は物語の構造に、システムに殺されたのです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
映画『人斬り』にはもう一つの隠されたエピソードがある。田中新兵衛が少将姉小路公知暗殺の嫌疑で捕縛された時の
京都町奉行は、三島の父方の祖母なつの祖父にあたる永井主水正(もんどのしょう)尚志(なおむね)〔なおゆき、
などの説も〕だったのである。しかし映画では尚志は登場せず、新兵衛を呼び出して吟味するのは京都所司代の
与力という設定になっている。残念ながら、三島は曾々祖父の面前で切腹ということにはならなかったが、
その役のめぐり合わせを楽しんだ。『人斬り』の撮影中に林房雄に送った手紙には次のようにある。
〈(中略)明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の
曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう。〉
(昭和四十四年六月十三日付)
三島と幕末との結びつきは、その家系に根ざしていたのである。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
(中略)
私はここでさらに幕末の水戸藩についてふれておきたいと思う。三島の祖母のなつの母親は高といい、水戸の
支藩である宍戸藩の八代藩主松平頼位の側室の娘であったからだ。頼位の長男頼徳、次男頼安の妹である。
九代藩主となった大炊頭頼徳は水戸天狗党による筑波挙兵の鎮圧にあたったが天狗党に同情し、非業の死をとげている。
なつの父方の祖父である永井尚志は直参の旗本であり、母方の祖父である松平頼位は徳川家の嫡流という血筋である。
(中略)
三島のなかに流れていた「水戸の血」は、その生涯にもわずかな翳りを落としている。それはなつの言うところの
「宿命」であったかもしれない。それには二つのことを語らねばならない。一つは幕末の水戸藩が尊皇攘夷思想の
中心的存在として、その指導的立場にあったこと。二代藩主徳川光圀によって始められた『大日本史』の編纂は、
光圀の死後も藩の事業として継続され、明治三十九年に十代藩主徳川慶篤の孫である圀順によって完成をみた。
それがいわゆる水戸史学、通称水戸学と呼ばれる尊皇論であり、幕末になって攘夷論と結びつき尊攘思想が生まれた。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
九代藩主斉昭は過激な尊攘家として知られ、後期水戸学を推し進めた。そこから相沢正志斎、豊田天功、藤田東湖ら
すぐれた学者を輩出した。若き日の吉田松陰、西郷隆盛もまた水戸を聖地として訪れ、彼らと面談している。
水戸学による尊攘思想は、三島が『革命哲学としての陽明学』で語る行動哲学に密接に結びついている。
もう一つは、水戸学につよい影響を受けた尊攘派の藩士たちが蹶起した天狗党の乱である。この乱は大きく二つに
分けられ、最初の蹶起は元治元年(一八六四)、藤田東湖の四男である小四郎が幕府の外国政策に不満を抱き、
攘夷をつよく主張。水戸藩町奉行の田丸稲之衛門と筑波山で蜂起し、幕府と水戸藩の追討軍と北関東を中心に
転戦したものである。この時、小四郎は二十三歳の若さであった。(中略)
次の行動は、同年十月水戸藩家老の武田耕雲斎が、小四郎らとともに那珂湊の戦いを終えたあと、総大将となって
一橋慶喜を擁立するために京に向かって行軍したもの。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
(中略)背景には、藩内で権力を握っていた門閥派(諸生党)との対立があった。小四郎、耕雲斎らは改革派
(天狗党)と呼ばれている。(中略)藩主慶篤は、天狗党の蹶起を理由に耕雲斎を罷免し、門閥派の中心人物で
ある市川三左衛門を要職に復帰させた。市川は尊攘派を徹底的に弾圧し、耕雲斎の殺害をも命じた。耕雲斎は
身の危険を感じ、一族郎党をしたがえて藩を脱出した。
一方、幕府は関東諸藩に天狗党追討を命じた。それに呼応して、水戸藩も市川を中心に追討軍を編成した。天狗党は
賊徒とされたのである。(中略)(藩主慶篤は)支藩の宍戸藩藩主松平頼徳を水戸に赴かせ、藩内の統制を
はかろうとした。しかし頼徳もまた尊攘思想の信奉者であった。父の頼位は斉昭の心酔者であり、その影響を
つよく受けていた。藩主慶篤の名代として江戸を出発した頼徳には、江戸にいた尊攘派も随行した。これを
知った耕雲斎が途中から合流し、さらには元目付の山国兵部らも加わり、頼徳の一団は尊攘派の一大勢力と
なってしまった。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
当然、市川ら門閥派は危険を感じ、頼徳を阻止しようとする。(中略)頼徳は戦闘になるとは夢にも思わず、
和議を申し入れるが聞き入れられず、ついに応戦に出る。その戦闘を知った小四郎らは筑波山を降り、頼徳に
共闘を願い出る。頼徳は困難な選択を迫られるが、軍議の末、耕雲斎の助言に従い、天狗党との一時共闘を決断する。
門閥派には頼徳を討つ好都合の大義名分ができてしまったのである。こうして那珂湊の戦いが始まる。(中略)
門閥派は頼徳を天狗党と同じ賊徒とし、追討のために幕府に画策した。(中略)これ以上人命が失われることを
憂いた頼徳は釈明によって疑いを晴らすことができると考え、降伏。しかしその機会は与えられず、「賊魁」という
汚名を着せられたまま、切腹。元治元年十月五日、享年三十五歳。父の頼位もこれに連座、官位を剥奪され、
羽前新庄藩預りの身となった。藩は改易され、江戸藩邸も幕府没収となった。三島の「水戸の血」には、
切腹した大名がいたのである。祖母なつの伯父であった。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
この天狗党の乱は、昭和十一年に起きた二・二六事件と思想的に共通点がある。日本陸軍の皇道派の二十一人の
青年将校たちは、(中略)政治の腐敗と農村の困窮の元凶である元老や重臣を武力をもって排除することによって、
大義を正し、天皇親政の実現を断行しようとした。一君万民の天皇制による国家改造計画は、明治維新の原点へ
帰ることだった。幕末期に大政奉還によって、天皇は親政をもって近代日本の建国を決意し、国民国家を実現させた。
青年将校たちにとって、時代は幕末の混乱期と同じだった。(中略)首謀者の一人であり、陸軍一等主計だった
磯部浅一は、その「獄中手記」において藤田小四郎の父である藤田東湖の言葉を引用して、次のように書いている。
〈藤田東湖の「大義を明かにし人心を正さば、皇道爰んぞ興起せざるを憂へん」これが維新の真精神でありまして、
青年将校蹶起の真精神があるのです。〉
藤田東湖は天狗党の思想的師父といってよかった。天狗党が目ざしたのも「尊皇」であった。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
(中略)
しかしこうした青年将校たちの天皇に対する至純の恋は報われることななかった。(中略)
「賊徒」となった天狗党、「反乱軍」となった青年将校たちの、帰順後の運命は同じである。三島は『英霊の聲』で
(中略)終戦の勅許による天皇の「人間宣言」を批判した。しかし「人間宣言」そのものを否定したわけではなく、
英霊の声として「それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう」と前置きして、次のように書いたのである。
〈だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての
義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度の
きはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。それを二度とも陛下は逸したまうた。もつとも神で
あらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。〉
これは三島自身の恋闕といっていい。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
(中略)三島にとって、十一歳の少年の時に際会した二・二六事件は「挫折」という観念と「英雄崇拝」の
原点となった。(中略)
三島は、磯部の遺稿をもとに、「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」を書き、二・二六事件の
思想的背景を考察している。蹶起によって天皇に「昭和維新」を直訴しようとした磯部らの心情につよく共感し、
それは「蹶起ののちも『大御心に待つ』ことに重きを置いた革命である」としている。だからこそ三島の天皇の
「人間宣言」に対する批判が深い意味をもつのである。(中略)
三島のなかに流れている「水戸の血」は、一方に二・二六事件の思想的源流ともいうべき天狗党の乱をもち、
一方にその天狗党の乱によって詰腹を切らされた徳川直系の大名をもつのである。
司馬に天狗党と二・二六事件について書かれた作品はない。天狗党については、『竜馬がゆく』の「希望」の章の
なかで、その悲惨な結末を一つのエピソードとして紹介している。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
司馬は、水戸から京に向かった武田耕雲斎の率いる行軍の惨憺たる様子にふれている。さらに武田耕雲斎以下幹部
二十四人が斬首され、つづいて三百五十二人もの同志が斬首されたことを述べ、「史上まれな大虐殺」であったと
言っている。竜馬には「残虐きわまる徳川幕府」と言わせている。天狗党の乱は、幕末史上稀にみる大虐殺によって
終結したのである。
三島と司馬は共に幕末維新の精神を重んじる。三島はそれを肉体化した思想とすることで、自己の美学的な存在の
根本条件としている。それに対し司馬は歴史小説家という立場から、そうした精神とは距離を置き、自己の内面的な
思想に執着せず、フィクショナルな物語を創作していった。つまり司馬は三島のように、生きるように書き、
書くように生きるというタイプの作家ではなかった。三島は幕末の平田国学に始まり、神風連、二・二六事件へと
連なる精神の系譜に、存在証明を見出そうとしたのである。私はそこに天狗党の乱を加えることによって、
三島の思想的帰結の宿命をみたいのである。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
ヽ
誰もが平岡家を語るが、橋家に言及する者はほとんどいない。平岡定太郎と夏子ばかりが論じられて、橋健三と
トミは等閑視されてきた。あたかも三島由紀夫には、定太郎・夏子という父方の祖父母しか存在しなかったかの
ようであり、「一世紀ぐらい時代ずれのした男」と「或る狂ほしい詩的な魂」の女だけが三島文学の形成に
影響を与えたかのような印象を受ける。しかし、それは事実だろうか。三島は、母方の橋家からは大して影響を
受けなかったのだろうか。
健三は、万延2年(1861年)1月2日に金沢に生を享けた。加賀藩士の瀬川朝治とソトの間に次男として生まれ、
武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。明治6年(12歳)、学才を見込まれて健堂の三女・こうの
婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり講義を行うほどの秀才だったという。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。(中略)明治21年(27歳)、共立学校に招かれて漢文と
倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミを後妻とした。明治27年(33歳)、
学校の共同設立者に加わる。明治43年(49歳)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、
健三は開成中学校の第五代校長に就任した。
開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかで、(中略)顔写真を見ると、健三は白い
長髯を蓄えて、眼光炯々とした真相である。生徒は、「青幹」「漸々」「岩石」と渾名をつけたという。
(中略)
漢文の授業では、教科書として四書五経ではなく、『蒙求』を使用した。(中略)『蒙求』は、清少納言から
漱石に至るわが国の文学者に影響を与えた故事集である。テキストの選択から健三の教育観の一端を窺うことができる。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
(開成の)初代校長は、高橋是清。(中略)第四代校長の田辺新之助は、(中略)英学者にして漢詩人として
令名を馳せた。長男が哲学者の田辺元で、三島は学習院時代から『歴史的現実』など元の著書に親しんでいる。
第九代校長の東季彦は、(中略)一人息子が、夭折した東文彦である。三島と文彦との親交は『三島由紀夫
十代書簡集』に詳しく、晩年の三島は『東文彦作品集』の刊行に尽力した。二・二六事件、田辺元、東文彦……、
健三をめぐる歴代校長の人脈と三島との関わりは以外に深い。
(中略)
健三は雇われ校長ではなく、学校経営者であった。学校の移転拡張を図るため、大正4年に組織を財団法人とし、
校主は理事となる。当時の寄付行為第五条には、三校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び
不動産の全部を寄付し之を財団法人の財産とすることが謳われており、「この三校主の勇気決断は、この学校の
出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
建物は老朽化・狭隘化が著しく、教室の床や廊下は波打ち、机は穴だらけで、生徒は「豚小屋」と呼んだという。
校舎の移転整備が課題であるが、学校側には土地も資金の当てもなかった。そこで健三たちは、窮状を詩文に託して
早大教授の桂湖邨に訴えた。桂はこの話を前田利為侯爵に伝え、大正10年に前田家の所有地を格安で払い下げて
貰うことになった。場所は、現在の新宿文化センター一帯である。詩文で土地を手に入れるとは、三島の祖父に
相応しいエピソードである。漢学者の桂は『王詩臆見』など王陽明に関する論文を著し、『奔馬』の藍本の一つ
『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった。(中略)
ところが、この土地に目をつけた東京市長・後藤新平が、電車車庫の整備を計画して、学校側に譲渡を申し入れてきた。
健三は直ちに突っぱねた。是清からも譲渡を勧められるが、硬骨漢の健三は拒絶する。やがて関係者と相談した結果、
市民のために東大久保の土地を譲る。紆余曲折の後、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手した。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
永年にわたり健三は、赤字と襤褸校舎を抱えた開成中学の校長・理事として奮闘した。校舎の移転用地を確保し、
建設資金を集め、震災を乗り越えて新校舎を竣工させた。また、校長就任時に600名であった生徒定員を文部省との
粘り強い交渉の結果、1000人に拡充している。開成学園の今日の隆盛の礎は、健三が築いたといっても過言ではない。
こうした多年の功績により、大正12年2月、健三は勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与された。
(中略)(平岡)夏子が一人息子・梓の嫁に迎えたのが、健三の次女・倭文重(三島の母)であった。健三は、
開成中学校校長を辞職後、昌平中学(夜間)の校長として、勤労青少年の教育に尽瘁した。昭和19年、四男の
行蔵にその職を譲り、故郷の金沢に帰った。同年12月5日、健三は永眠する。享年84歳であった。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
トミは、明治7年に金沢で生を享けた。父は橋健堂、祖父は橋一巴で、いずれも加賀藩の漢学者である。トミは
六人姉妹の五番目で、(中略)姉・こうの死去により(中略)明治23年に健三の後妻となる。健三は29歳、
トミは16歳であった。二人の間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女が生まれた。(中略)
昭和13年、中等科二年の公威(三島)はトミに連れられて能を観る。初めて目にした能が『三輪』であったことは、
三島の生涯を思うと極めて暗示的である。『三輪』は、世阿弥の作と伝えられる四番目物であり、三輪明神が
顕現する。『奔馬』で本多繁邦と飯沼勲が邂逅する場所は、わが国最古の神社で、謡曲の『三輪』の舞台となった
大神神社である。
昭和20年2月、三島は兵庫県で入隊検査を受け、即日帰郷となる。金沢のトミから三島に宛てた2月17日付けの
書簡には「心の亂れといふものが千々の思ひに幾日かを過ごす」とあって、孫の身を気遣うトミの温かい人柄が
偲ばれる。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
兄弟について、倭文重は「私なんか娘のころ、男はやさしいものと思い込んでいました。実家の兄たちを
見なれてましたからね」と証言している。
昭和5年1月、公威は自家中毒に罹り、死の直前までゆく。
〈経帷子や遺愛の玩具がそろへられ一族が集まつた。それから一時期ほどして小水が出た。
母の兄の博士が、「助かるぞ」と言つた。心臓の働らきかけた証拠だといふのである。
ややあつて小水が出た。徐々に、おぼろげな生命の明るみが私の頬によみがへつた。〉
(『仮面の告白』三島由紀夫)
『仮面の告白』に登場する「母の兄の博士」が、健行である。橋健行は、明治17年2月6日に健三・こうの間に
生まれた。生母・こうの死去により、明治23年からトミに育てられる。
健行は、ブリリアントな秀才であった。明治34年に開成中学を卒業し、一高、東大医科に進んで精神病学を
専攻するが、常に首席であったという。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
斎藤茂吉は、『回顧』に「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に
入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も
大望をいだいて進まれた」と記している。茂吉は、開成中学の同級生・健行に二年遅れて医師となった。(中略)
健行は、早熟な文学少年であった。開成中学三年(14歳)頃から文学グループを結成した。村岡典嗣(日本思想史)を
リーダー格として、吹田順助(独文学)、健行、(中略)九名で、「桂蔭会」と称して廻覧雑誌を作った。
弁舌爽やかな少年たちで、住居が本郷を中心としていたことから「山手グループ」と呼ばれた。また「桂蔭会」は、
「竹林の七賢」とも称されて、周囲に大きな刺激と影響を与えた。触発された生徒のなかに茂吉や辻潤がいた。
当時の「桂蔭会」メンバー写真を見ると、健行は帽子をあみだに被り、自負心の強そうな面構えをしている。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
開成中学の『校友会雑誌』は投稿を建前としていたが、実態は課題作文の優秀作を掲載することが多かった。
この度、開成高等学校の松本英治教諭(校史編纂委員会委員長)の御協力を得て、『校友会雑誌』に掲載された
健行の文章が明らかになった。(中略)
〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の
転々たるがごとく、高尚なる思、優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを
文士の筆となす。〉(『筆』五年生 橋健行)
蒼古たる文章である。(中略)しかし〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく……〉という一文は、
三島由紀夫という作家を予見したような感がある。そして『校友会雑誌』の常連であった開成中学の文学少年・
健行は、40年後に『輔仁会雑誌』のスタアとなる学習院中等科の文学少年・公威(三島)を髣髴とさせる。
「桂蔭会」で村岡や吹田に伍した健行の文才は、なまなかなものではなかった。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
東大精神科の付属病院は、東京府巣鴨病院(後の松沢病院)であった。大正期、院長は呉秀三教授、副院長は
三宅紘一助教授、医長は黒沢良臣講師と橋健行講師の体制をとっていた。(中略)
〈明治43年12月のすゑに卒業試問が済むと、直ぐ小石川駕籠町の東京府巣鴨病院に行き、
橋健行君に導かれて先生に御目にかかつた。その時三宅先生やその他の先輩にも紹介して
もらつた。〉(『呉秀三先生』斎藤茂吉)
健行と茂吉の「先生」とは、呉秀三である。箕作阮甫の流れを汲む秀三は、日本の精神医学の先駆者で、鴎外に
親灸し『シーボルト先生』や『華岡青洲先生及其外科』を上梓するなど名文家としても知られた。そして秀三の
長男が、ギリシア・ラテン文学の権威・呉茂一である。三島は、昭和30年頃に「呉(茂一)先生」からギリシア語を
学ぶ。秀三――健行、茂一――三島の二組の子弟関係は、奇しき因縁である。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
大正14年6月、秀三が松沢病院を退任し、院長に三宅、副院長に健行が就任する。昭和2年8月、健行は松沢病院
副院長から千葉医科大学(現在の千葉大医学部)助教授に転出する。6年7月から8年9月まで2年余り欧米に留学。
帰国した年の11月に教授となり、10年3月から付属医院長を兼ねた。しかし翌11年4月17日、健行は危篤に陥る。
川釣りで風邪をひきながら、医院長として無理をした結果、肺炎をこじらせたのである。報せを受けて、茂吉は
急遽千葉に向かう。(中略)
昭和11年4月18日、健行は52歳の男盛りで急逝する。「ルンゲンガングレン」とは、肺化膿症のことであろうか。
(中略)後に茂吉は健行の挽歌を詠み、これを歌集『暁紅』に収めた。
〈弔橋健行君
うつせみのわが身も老いてまぼろしに立ちくる君と手携はらむ〉
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
昭和16年5月、健行の死から5年ほど後、一人の客が茂吉の家を訪ねる。客は、80歳を越えた健三であった。
(中略)
健三は、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した。律義な茂吉は、恩師・健三の頼みを引き受ける。
5月23日から30日にかけての日記には、友の生涯を文に編むために呻吟する茂吉の姿が記録されている。
〈七月一日 火曜 クモリ 蒸暑
客、橋健三先生、墓碑銘改ム、(中略)墓碑銘改作、汗流ル。〉(『日記』斎藤茂吉)
最も期待した長子に先立たれて、老いた健三の悲しみは深かった。茂吉が撰した墓碑銘によって、健三の心は
幾分か慰められたように思われる。三島が北杜夫に好意を寄せて『楡家の人びと』を高く評価したのは、
トーマス・マンを範とする文学観の共通性の故ばかりでなく、健行と茂吉との深い絆を知っていたからでは
あるまいか。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
昭和19年、昌平中学の校長を(四男の)行蔵に譲って、健三は金沢に帰ってゆく。健三は、苦学生教育を
ライフワークと考えていた。明治36年、健三たちの尽力によって、開成中学にわが国初の夜間中学・開成予備学校が
併設される。第一期入学生は僅か22人でしかなかったが、唯一の夜間中学であったことから、生徒数は年々増加し、
大正10年には1,355人という大所帯となった。生徒の職業は、銀行や会社の給仕から商店の小僧、印刷屋の職工、
玄関番など千差万別で、年齢は15、6から30位までであったという。震災で校舎が消失したため、大正15年、
神田駿河台に新校舎を建設する。昭和11年に校名を昌平中学と改称した。
昌平中学の経営は常に赤字であった。健三は、勤労学生から高い月謝をとろうとせず、赤字が累積し、遂には
身売り話まで出るようになった。昭和16年、四男の行蔵がマニラから帰国する。行蔵の実像は、昌平高校の
米山安一教諭の手記『夜学こそ我等が誇り』に描かれている。(中略)
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
橋行蔵は、明治34年に東京で生まれた。慶応大学を卒業後、横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)に入行し、
上海やマニラで海外駐在員として活躍する。帰国した行蔵が目にしたのは、80歳の健三が杖をつき、電車の人混みに
揉まれながら赤字の昌平中学に通う姿であった。これをみかねて、行蔵は父の仕事を手伝う決意をする。
銀行業務を終えると、急いで立ち食い鮨で夕食をすませ、昌平中学に駆けつける毎日が始まった。やがて学校の
理事たちは、「本気で父君の跡を継いでやる気があるのかどうか」と行蔵に詰め寄る。行蔵は、横浜正金銀行の
会計課長として月給250円であった。昌平中学に転職すれば、これが一気に70円に下がる。話を聞いた銀行の幹部は
猛反対する。重役の椅子が待っている有能な社員を、万年赤字学校に行かせる訳にはいかない。しかし行蔵にとって、
大切なのはキミ夫人の意見だけだった。キミは、静かにこう言った。「貴方さえよろしかったら」
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
横浜正金銀行の退職金は五万円であった。五万円あれば、当時十年は楽に暮らせた。行蔵は、退職金を学校の
赤字の穴埋めにつぎ込む。こうした努力にも関わらず、終戦の混乱期には生徒数が二、三十人にまで減少した。
この危機を乗り越えるため、行蔵は奇抜なアイデアを捻り出す。一つは、英文タイプである。行蔵は、共同通信の
記者・中屋健一を説き伏せて、会社の地下室で埃を被っていた英文タイプを借り出した。学校に英文タイプ部や
英会話部を結成して、タイプ仕事を請け負ったのである。(中略)
もう一つのアイデアは、予備校である。戦後の学制改革によって、昌平中学は昌平高校となった。行蔵は、
学制改革で大学の受験競争が激化すると予測し、理事たちの反対を押し切って予備校「正修英語学校」を設立する。
建物は、昼間の空き教室を利用した。(中略)結果的に行蔵の予測が見事に的中し、予備校収入のお陰で夜間学校は
存続することができた。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
校長としての行蔵の初仕事は、職員便所の撤廃であった。「先生がションベンしているところを、生徒に
見られたって、別に恥ずかしいこたあ、ねえだろう」行蔵は、生徒たちの悩みや相談ごとにも気軽に応じた。
夜間の授業が終わり、残っている生徒の面倒をみると、行蔵は一人で校舎のなかを見廻った。戸締りを確認し、
火の用心をしてから世田谷の自宅に帰り着くと、午後十一時であった。
(中略)
顔写真を見ると、行蔵はげじげじ眉毛が印象的な面長で、笑顔が三島と似ている。ただし、六尺豊かな偉丈夫で
あったという。健三の衣鉢を継いで夜学に後半生を捧げた行蔵は、昭和37年に逝去する。享年62歳であった。
平岡家は官僚・法律家の家系であり、永井家は経済人の家系であって、橋家は学者・教育者の家系である。
この三家の人々のうち、学生時代の印象が三島と似ているのは健行である。理系と文系と進む道は違ったが、
二人とも秀才で早熟な文学少年として認められていた。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
三島の曾祖父は、橋健堂である。(中略)父は一巴(幸右衛門)、母は石川家の出で、金沢に生を享けた。
健堂は書を善くした。長町四番丁(城下西部)に「弘義塾」を開くとともに、石浦町(城下中央部)に「正善閣」を
開いて習字を教えるが、後者の対象は女子である。健堂は、多数の子弟を教育し、「生徒常に門に満つ」と称された。
安政元年(1854年)、加賀藩による「壮猶館」の開設に伴い、漢学教授となる。
(中略)
明治3年、藩の文学訓導、筆翰教師となる。廃藩置県後の明治6年、小学校三等出仕に補され、8年、二等出仕に
進み、12年、木盃をもって顕彰された。健堂は、夜学や女子教育の充実など、教育者として先駆的であった。
そして「壮猶館」「集学所」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動していた。
(中略)(子が)いずれも娘であったため、瀬川健三を三女・こうの婿養子とした。健堂の『蒙求』中心の漢学や
庶民教育にかける熱意は、養子の健三に継承される。明治14年12月2日、健堂は59歳で没し、野田山に葬られた。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
健堂が出仕した「壮猶館」は、儒学を修める藩校ではない。「壮猶館」とは、加賀藩が命運を賭して創設した
軍事機関なのである。嘉永6年(1853年)、ペリー率いる黒船の来航は、人々に大きな衝撃を与えた。二百余年に
及ぶ幕府の鎖国体制を崩壊させる外圧の始まりである。以後、幕府はもとより、各藩において海防政策が
最重要課題となった。「日本全体が主戦状態にある」という現状認識からである。加賀藩も財政難に苦しみながら、
海防強化に乗り出してゆく。安政元年(1854年)、上柿木畠の火術方役所所管地(現在の知事公舎横)に
「壮猶館」が整備される。施設は、加賀藩の軍制改革の中核的な存在として明治初年まで存続した。
「壮猶館」では、砲術、馬術、洋学、医学、洋算、航海、測量学などが研究され、訓練や武器の製造を行った。
さらに加賀藩では、西洋流砲術の本格的な導入と軍制改革を図るため、洋式兵学者の招聘を検討する。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
村田蔵六、佐野鼎、斎藤弥九郎の三人が候補に上がり、安政4年(1857年)、西洋流砲術として名高い佐野鼎が
出仕する。佐野は、西洋砲術師範棟取役に就任した。この経緯は、前掲の松本英治教諭の「加賀藩における
洋式兵学者の招聘と佐野鼎の出仕』に詳しい。「壮猶館」では、佐野を中心に海防が議論され、軍事研究の深化が
図られた。健堂と佐野は、親しかったという。佐野は、万延元年(1860年)の遣米使節、文久元年(1861年)の
遣欧使節に随行し、海外知識を生かして加賀藩の軍事科学の近代化に貢献する。七尾に黒船が来航した際には、
アーネスト・サトウと会見した。佐野は、明治新政府の兵部省造兵正に任官する。明治21年に健堂が、佐野の
創設した共立学校に招かれるのは、「壮猶館」における健堂と佐野の親交の遺産ともいえよう。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
三島の軍事への傾斜については、永井玄蕃頭尚志に淵源を求める声が多い。しかしルーツは、尚志よりむしろ
健堂であろう。健堂は市井の漢学者ではなかった。何より平時の人ではなかった。幕末の動乱の時代、「壮猶館」
関係者の危機意識は強かった。さらに「壮猶館」は単なる研究機関ではなかった。敷地内には、砲術のための
棚場や調練場が設けられるとともに、弾薬所や焔硝製造所、軍艦所が付設されるなど、一大軍事拠点を形成していた。
こうした軍事拠点の中枢にあって、健堂は海防論を戦わせ、佐野から洋式兵学を吸収する立場にあった人である。
「壮猶館」の資料として『歩兵稽古法』『稽古方留』『砲術稽古書』が残されている。これらは、三島が
陸上自衛隊富士学校で学んだテキストの先駆をなすものといえよう。健堂の血は、トミ、倭文重を通じて三島の
体内に色濃く流れていた。晩年の三島が、西郷隆盛を語り、吉田松陰を語り、久坂玄瑞を語ったのは、健堂の
血ではなかったか。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
『春の雪』には、「終南別業」が登場する。王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」は、鎌倉の一万坪に
あまる一つの谷をそっくり占める松枝侯爵家の別邸である。モデルは、前田侯爵家の広壮な別邸だという。
「終南別業」を描きながら、徳川末期に橋家三代が仕えて、大正期に祖父の願いを容れて土地を提供した前田家の
ことを、果たして三島は意識していたのだろうか。
金沢が舞台となった小説は、『美しい星』である。「金星人」の美少女・暁子は、「金星人」の美声年・竹宮に
会うため金沢を訪れる。金沢駅、香林坊、犀川、武家屋敷、尾山神社、兼六公園、浅野川、卯辰山、隣接する
内灘などが描かれている。卯辰山には、かつて健堂が教鞭をとった「集学所」が設けられていたが、『美しい星』では
遠景として登場する。(中略)三島は取材のため金沢の街を歩いている。二日間という限られた時間のなかで、
果たして三島は橋家由縁の場所を訪れたのであろうか。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
金沢では、人々の生活に謡曲が深く浸透している。小説では、金沢のこの風習が巧みに生かされている。竹宮は、
暁子に奇怪な話を語る。自分が「金星人」であることの端緒をつかんだのは、この春の『道成寺』の披キでからで
ある、と。
〈どこで竹宮が星を予感してゐたかといふと、この笛の音をきいた時からだつたと思はれる。
細い笛の音は、宇宙の闇を伝はつてくる一條の星の光りのやうで、しかも竹宮には、
その音がときどきかすれるさまが、星のあきらかな光りが曙の光りに薄れるやうに
聴きなされた。それならその笛の音は、暁の明星の光りにちがひない。
彼は少しづつ、彼の紛ふ方ない故郷の眺めに近づいてゐた。つひにそこに到達した。
能面の目からのぞかれた世界は、燦然としてゐた。そこは金星の世界だつたのである。〉
(『美しい星』三島由紀夫)
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
三島は、能舞台が金星の世界に変貌する様を鮮やかに描いている。初めて能にふれた日から、この時までに
ほぼ四半世紀の歳月が流れていた。13歳の公威が、祖母のトミと観たのは『三輪』であった。杉の木陰から声がして、
玄賓僧都の前に女人の姿の三輪明神が現れる。三輪明神は、神も衆生を救う方便としてしばらく迷いの深い人の心を
持つことがあるので、罪業を助けて欲しいと訴える。三輪の妻問いの神話を語り、天照大神の
天の岩戸隠れを物語って、夜明けとともに消えてゆく。謡曲『三輪』は、「夢の告、覚むるや名残なるらん、
覚むるや名残なるらん」という美しい詞章で終わる。
この詞章は、三島の遺作『豊饒の海』の大団円に通じる。現代語訳をすれば、次のようになろうか。
「夢のお告げが、覚めてしまうのは、実に名残惜しい、まことに名残惜しいことだ」
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
小説(鏡子の家)の冒頭で、鏡子と収、峻吉、夏雄が勝鬨橋を渡り、月島を抜け、訪れるのは晴海の埋立地である。
(中略)彼らが訪れた時点では、米軍の占領地でありながらも、具体的な利用には供されず、空き地のまま
放り出された、宙づりの〈空白〉の場である。彼らが訪れる場所が勝鬨橋から晴海の埋立地であることの理由は
何も語られることはない。(中略)
これまで、勝鬨橋のせり上がる鉄の壁については、「現実世界の揺るぎなさの換喩」(柴田勝二「他界の影―
三島由紀夫『鏡子の家』論―」)であり、男たちの前に立ちはだかる新たな時代の壁を象徴するものとして
読まれてきた。しかし、彼らが都心を離れ、勝鬨橋から晴海の埋立地一帯を訪れたことの意味については、
従来の『鏡子の家』論では言及されてこなかった。冒頭に語られた場を勝鬨橋のみに焦点化させるのではなく、
晴海の埋立地までの空間として捉えたとき、この場面は異なった様相を呈してくる。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
この一帯は、テクスト(小説)内では空き地のままに放り出された〈空白〉の場として語られるのみである。
ただし、この場における空白性は、このテクストで設定されている時間のなかで有効であったにすぎない。
その証拠にこの場は、『鏡子の家』発表時の昭和33年においては、すでに高層アパートが建設され、これからの
日本の経済成長を象徴する空間へと変貌し、新たな時代の生活の場として広く注目を集めていた。
『鏡子の家』と並行して書かれた日記体の『裸体と衣裳』では、三島が『鏡子の家』の取材のために勝鬨橋から
晴海埠頭を訪れたときの印象について、「数年前『幸福号出帆』(中略)を書くためにここへメモをとりに来た時と
比べて、完全に一変した景色に一驚を喫する」と書いている。つまり、三島はわずか数年で一変してしまった
この空間を、時代の変化を色濃く反映した場として認識している。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)晴海の埋立地は時代の変化にさらされ続けた場所である。歴史を遡ると、戦前に政府は皇紀2,600年に
あたる昭和15年にこの地を会場として、万国博覧会とオリンピックを開催することを国家事業として揚げている。(中略)
また、勝鬨橋は「帝都の門」として国家の威光を証明すべく昭和15年に建設され、万博会場へのゲートとして
位置づけられていた。しかし、この計画は戦争の激化により中止、延期された。オリンピックと万博の予定地で
あったこの埋立地は、その後軍需産業を支える工業地帯に様変わりし、戦中の日本を支えた。
この空間における歴史的側面について、テクスト内で言及されることはない。しかし、『鏡子の家』の冒頭で
描かれたエリアは、まさに戦前の近代国家としての歴史が刻み込まれ、時代に翻弄された空間だったのである。
そして、鏡子たちが訪れた時点においては、未だ米軍の占領地であり、敗戦の記憶が生々しく残っている。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
この地がアメリカの占領下にあるという時代設定は、『鏡子の家』における父親の気配の希薄さを映し出したものである。*
*〈『鏡子の家』の中に父親の気配が希薄なのは、東京湾の埋め立て地に米軍基地があり、「立入禁止」の札が
立つようにアメリカの占領下にある日本を鏡の如く映しているとも読めるだろう〉(松山巌「都市という廃墟」)
(中略)敗戦を期にその絶対者(天皇)は退場を余儀なくされ、アメリカの支配のもと不在の中心を抱えることと
なった戦後の日本の姿が、この空間に刻み込まれているのだ。
また、先述したように、『鏡子の家』が発表された昭和33年から昭和34年にかけて、このエリアは米軍の占領から
解放され、現代的な高層住宅の建設地として再び脚光を浴びていた。この地に新たに建設された晴海高層アパートは、
現代的なデザインを採用した公団住宅で、日本の復興と高度成長期の到来のシンボルとして注目されていた。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
そして、この空間における変容の予感は『鏡子の家』にも表出されている。それは、目の前に広がる「春の
汚れたお納戸いろの海」に予兆されている。峻吉はこの春の海に向けて拳を突き出す。
〈それは見えないものを相手にするシャドウ・ボクシングではない。茫洋たる汚れた春の海が
彼の相手に立つてゐる。岸壁の下を舐めるだけの漣の連鎖が、はるか沖のうねりにまで
つらなつてゐる。決して戦はない敵。呑み込んでしまふだけで、怖ろしい宥和を武器とする敵。
しじゆう、かすかに笑ひつづけてゐる敵。……〉(『鏡子の家』三島由紀夫)
埋立地の向こうに広がる海は、大波を立てるわけではない。しかし、目の前に絶えず寄せてくる漣は、その波頭に
沖のうねりを忍ばせている。それは一見穏やかで平穏なようでいて、実はあらゆる動きを呑み込む「怖ろしい
宥和を武器とする敵」として存在する。峻吉が海に抱いた感情は、清一郎が鏡子に向けて語る次の言葉に
重なるものとして受けとることができるのではないだろうか。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
〈君は過去の世界崩壊を夢み、俺は未来の世界崩壊を予知してゐる。さうしてその二つの
世界崩壊のあひだに、現在がちびりちびりと生き延びてゐる。その生き延び方は、卑怯で
しぶとくて、おそろしく無神経で、ひつきりなしにわれわれに、それが永久につづき
永久に生き延びるやうな幻影を抱かせるんだ。幻影はだんだんにひろまり、万人を麻痺させて、
今では現実と夢との堺目がなくなつたばかりか、この幻影のはうが現実だと、みんな
思ひ込んでしまつたんだ。〉(『鏡子の家』三島由紀夫)
(中略)戦後の混乱期を抜け、高度成長へと大きく転換していく社会と、そこに生きる人々の緩慢でありながら、
どこか不敵な様相。それは静かにゆっくりと忍び寄る大きなうねりであり、また「いつまでたつても、アナルヒーを
常態」とした戦後の混沌と無秩序に満ちた〈祝祭的な空間〉、「廃墟」の時代にとどまり続けようとする峻吉や
鏡子たちを脅かすものの影でもある。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
この埋立地に吹き寄せる海からの風は、鏡子にもまとわりつく。(中略)「すこしづつ激しくなる海風が、
髪をかきみだしはしないか」ということが「ただ一つの煩ひ」として意識されている。少しずつ激しさを増す風は、
焼跡の時代にとどまり続け、変化を遅延しようとする鏡子を混乱させるものとして意味付けられている。
〈空白〉の場である埋立地の向こうに広がる海とそこから吹き寄せる風は、峻吉の抱いた印象と同じく、とどまり
続けようとする自己を脅かす存在の暗示として提示されているのである。
それはまた、この土地の工事従事者である男たちが夏雄の車を破壊したことから始まる乱闘事件にもあらわれている。
乱暴をはたらく男たちは、この「廃墟」の時代の気分を色濃くとどめている〈空白〉の土地を、新たな土地へと
造り変える者である。(中略)新たな時代の台頭は、「廃墟」の時代にとどまり続けようとする者に対して
暴力的なまでの力でその存在を脅かしうるのである。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
〈鏡子の家〉から周囲を見下ろすとき、強く鏡子の目をひきつける空間がある。それは明治神宮外苑一帯の
エリアである。明治記念館の森とその向こうの大宮御所の森へ、鏡子の意識は時折向けられている。(中略)
深く生い茂った森に包まれたその空間の内部を、鏡子の視線は透視することができない。その内部を把握することが
できないために、鏡子にとってこの空間は意味を明確にすることのではない、言わば〈空白〉の場としてある。
森はその内部に知られざる何のものかを秘めているがために、幼い鏡子の心に「漠たる不安」をもたらしている。
そして、その「不安」は鴉の姿となって時折、森から鏡子の側まで飛来する。それは見えざる森の内部から
飛来するものであり、常に不安な何ものかを予感させている。この不安の源泉についてはほとんど語られることがなく、
「漠たる不安」という曖昧な輪郭のままにとどめられている。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)鏡子は常に焼跡の都市の記憶、「廃墟」としての都市の記憶をとどめ、そのような視点から眺めることが、
鏡子の認識の方法である。その一方で幼い鏡子を支配しているのは、〈鏡子の家〉から都市の情景を間に挟んで
存在するこの森なのだ。時代とともに変貌していく都市の様相とは対照的に、明治神宮外苑の森の外観は
〈鏡子の家〉と同様に変わらないものとしてある。だが、その森の内部は今や大きく変貌している。(中略)
その森の内部に踏み込んだ清一郎を通して現在の明治神宮外苑の森の内部が語られる。
〈(中略)夕べごとに胡麻のやうに鴉の群を撒き散らしてゐたあの森、(中略)森の中では
年がら年ぢう、結婚式の群衆が煮立つてゐたのだつた。(中略)〉(『鏡子の家』三島由紀夫)
その暗い森の内部は、〈鏡子の家〉から眺められる外観の印象とは大きく異なり、小市民的な生の祝祭の場として、
新たな生の始まりに向かう人間たちでひしめき合う空間だったのだ。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)そもそも明治記念館は明治14年に建造され、明治21年には憲法制定のための御前会議が開かれ、
大正7年に明治神宮外苑に移築された。また、近代国家成立の象徴である明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮を
臨む外苑は、第二次大戦下には、晴海の埋立地と同様に、昭和15年の皇紀2,600年奉祝記念事業のオリンピックの
開催地候補として話題をよんだ。そもそも、神宮外苑の競技施設は「国民の身体鍛錬と精神の作興を目的」に
築造されたものである。オリンピック計画が頓挫した後も、戦時下には「国民体力の錬成と国民精神の振作」を
目的とした明治神宮国民錬成大会が開催されるなど、過分に歴史的意味を内包した空間である。
また、戦後GHQに接収されたという経緯も、『鏡子の家』の冒頭に登場した晴海の埋立地と重なる。戦前に
この空間を支配していた明治天皇の威光は、戦後のアメリカの占領体制によって希釈され、ここもまた、
絶対者不在の場として記憶されることとなったのである。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
峻吉の拳は「強さの象徴」として彼の世界の中心点であった。しかし、拳を中心点たらしめている思想とは、
峻吉の兄の死ではないだろうか。拳を繰り出す原動力として、輝かしく死んでいった特攻隊員の兄の存在が常に
峻吉に意識され、「行動の亀鑑」として峻吉を規定してきたのである。彼を支配し続ける兄という存在は、
『鏡子の家』で唯一語られる戦前の記憶であるが、(中略)甘美な死の観念に支えられながらも、それは絶対的な
不在であるがゆえに、峻吉はなにものかによって埋め合わせようとしている。兄という存在は、その死ゆえに、
暴力性によって常に身体を死の危険にさらすボクシングによって代補されてきた。峻吉は、ボクシングという方法で
死に接近することにより、兄の存在を感じている。(中略)峻吉にとって右翼団体への所属とは、血の繋がった
特攻隊員の兄の死に対する憧憬を引きずりながらも、血判を押すというイニシエーションによって新たに結ばれた
血の繋がりのなかへ自己を投企していくことを意味する。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
峻吉は、ひたすらにボクシングに打ち込みながらも「兄の一度も知らなかつた日常性の影、生の煩雑な夾雑物の
影」が侵食しつつある自分の生活に対抗しうるものとして、輝かしく戦死した兄が生存していた戦前という
時間を召喚している。(中略)ポスト戦後へと移り変わろうとする時代にあって、戦後の焼跡の時代を保留し
続けるのではなく、純粋な行動が可能であった戦前の記憶が峻吉を支配し続けていたのだ。その記憶は、
右翼団体への入団という行為によって、表向きは保留され続けるが、高度経済成長という緩慢な海にどっぷりと
浸かりきるという皮肉な選択をしていくこととなる。峻吉の世界は、兄の死の影響下にあった拳を中心としたものから、
もはや実体のない天皇を中心に置き、アメリカ的な資本主義体制を信奉するポスト戦後的な思想のなかへと
スライドしていったのである。時代のシフトチェンジに、皮肉的に身をまかせていく『鏡子の家』の登場人物のなかで、
峻吉の変容は、まさに時代の影響を強く受けている。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
鏡子は混乱と野卑な雰囲気に包まれた(ボクシング)会場に、焼跡の無秩序な状態に通じるものを感じ、この空間に
親しみをもつ。(中略)
鏡子に野卑な若者が投げかけた「いい席ありますよ、妃殿下」という言葉は、(中略)天皇の神格化が否定された
戦後においては、皇室のカリスマ性も大衆にとっては希薄なものになっており、(中略)揶揄の意味合いが色濃く
にじんでいる。(中略)
〈(中略)場ちがひに頓着しない鏡子は、鼻血をこすりつけたあとのある椅子のあひだを、
峻吉のはうへ近づいて、レエスの手袋の手で、バンテージを巻いた手と握手した。(中略)
「頑張つてね。気をしつかり持つて頂戴ね」
健気なものを見るときの母性的な率直さが、鏡子の目に悲しみの色を点じた。(中略)
峻吉にはこの気持がよく通じたので、バンテージの手を自分で嗅いでみて、かう言つた。
「けふのパンチは香水くさいつて云はれるだらう」(中略)〉(『鏡子の家』三島由紀夫)
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
鼻血やバンテージといった野蛮なものと、優雅なレエス手袋の対比。(中略)鏡子のもつブルジョア性と野卑な
状況が混交し合う状況こそが鏡子の望む時代である。(中略)鏡子にとって、焼跡の時代の野蛮さや無秩序は、
鏡子のブルジョア性を脅かすものではない。むしろ、野蛮さの消滅―平板な日常性の瀰漫こそが鏡子の存在を
危機に追いつめていくのである。
(中略)
テクスト内では、晴海の埋立地や明治神宮外苑にまつわる歴史は直接的に語られてはいない。しかし、これらの
空間における鏡子や峻吉の振る舞いは、その空間が内包する歴史と深く結びついていることがわかる。(中略)
昭和30年代という新たな時代の到来は、昭和20年代の焼跡の時代を暴力的なまでの圧力で葬送するとともに、
これらの空間に刻みこまれた日本の近代の歴史すらも大きく変質させていくのである。(中略)
鏡子をはじめとする四人の男たちとともに、時代の変化を象徴する場としてこれらの空間が三島によって選びとられ、
記述されたことの意味は大きいだろう。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
鏡子は戦後的な人物というよりは、むしろ戦前という時代を担保にして戦後の混乱のなかに生きようとする人物である。
(中略)ポスト戦後という時代の到来によって変質していくように、鏡子という人物もまた、戦前からの記憶が
刻みこまれながらも、ポスト戦後という終りのない日常の到来によって、余儀なく変質させられていくのである。
「アナルヒーを常態」としていたような廃墟の〈祝祭的空間〉は、もはやどこにもないことを、鏡子は痛感するのだ。
(中略)
焼跡の時代であった戦後は、敗戦の記憶が未だ残っていた時代である。(中略)そのような戦後を切り捨てようと
したのが、昭和30年代という新たなディケイドにむかう時代の空気であり、『鏡子の家』はまさにそのような変化を
トポスに反映させているのである。
(中略)
『鏡子の家』は、新しい時代の到来による戦後的空間の変容だけではなく、人々の内面や空間に刻みこまれた
日本の歴史までもが否応なく塗り替えられていこうとするポスト戦後という時代への不信感に満ちている。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
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は
274 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2013/09/08(日) 15:57:10.63
[
275 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2014/05/10(土) 10:19:36.12
ぐぐってきました。
とても興味深くよませてもらいました。
でも、止まってるのかな。。残念。。
個別指導 「早優館」 塾講師今井善喜こと松坂雄二容疑者