1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
他のスレで話をしていたら尾藤さんの話になりました。私の小学時代
は野球イコール尾藤監督でした。私は甲子園から遠のいていったころから
しかしりません。
リアルタイムで星陵の試合春夏連覇を見ることができなかったのです。
強い箕島の話を聞きたいです。
尾藤ファンの方、あの思い出の話してもらえませんか?
尾藤は喧嘩が強かったよ
立つんだジョー
取手二戦でダブルプレーを取れずその直後に連打を浴びて逆転負け。
試合後、尾藤監督が「練習で100%できないプレーを本番でできるわけ
がない」。その言葉を聞いて、この人は本物の指導者と思った。
蛇足だが その時、ダブルプレーをしていれば取手二の優勝がなかった
わけで、木内のじじいのその後の人生が変わったはず。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/25 22:56 ID:LBEUcZ1f
箕島が取手二校以降下降線をたどっていくようになったのは
何か理由があるんですか?
尾藤さんはスパルタだとききましたがほんとですか?
何年か前、夏の大会のABC中継の解説に尾藤監督が来た時、
ABCのアナが「今日の解説は箕島高校前監督の尾藤イサオさんです。」
と言っていた。
尾藤監督も訂正したら悪いと思ったのか何も言わなかった。
尾藤は尾藤でもイサオはないやろ、イサオは。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/25 23:18 ID:AWvCqgwn
尾藤ファンは、2chにはいないのかなあ。
熱狂的なファンの人がいてもいいはずと思ったのですが・・・。
私は、私の祖父が尾藤さんのことが好きで、野球好きな人からも
幼いころ尾藤監督の話を聞いたのがきっかけで夢中になりました。
昔箕島は強かったという話と尾藤さんの人柄も好きでずっと応援してました
だんだん甲子園から遠ざかっていって心の中で封印してたのですが
他のスレがきっかけで忘れていたあの日がよみがえりもう一度箕島高校
の話をしたくてスレをたてました。
尾藤ファンの方お願いします。あなたの一番の思い出の話を聞かせてください
普通に尾藤は高校野球史上最高の指揮官だと思います。
漏れがガキのころは・・・高校野球=箕島=尾藤
木内や中村、渡辺なんて尾藤に比べたら(以下省略)
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/25 23:25 ID:TOnrBBfv
>4
それを言うなら星稜のファーストがあのファウルフライをとっていたら、箕島の春夏連覇は無かった。
このスレも無かったかも。また、山下監督は今頃もっと名将だったかも。
10 :
:03/08/25 23:29 ID:???
しかしよくない噂もありますよ。
近畿の少年野球チ−ムの部員を小樽北照へ大量入部、
日の裏にブロ−カ−的な事してると。
友人が彼と話したことがあり、ほんとに気さくな人であった
との事だか、うらの顔があるのかな.....。
>>5 爺スレの1さんですね。爺ファンです。移ってきました。
私自身春夏連覇した79年は小学生高学年でしたのでリアルタイムで
みていてもチームの詳細な戦術とかまでは怪しいです。ただサイズ
は小さいが滅茶苦茶粘り強いチームで、監督と選手の信頼関係が厚いんだなあ
ってことは覚えています。とにかく精神的にタフでしたよ。
一方、84年のチームはかなり大型チームだったと思います。
優勝候補の一角でしたから。ひょっとしたら大型化が裏目にでたのか
なあ。いずれにしても箕島が出ないのは寂しいことです。
皮肉なことに尾藤監督の一人息子の尾藤強投手が入学した昭和60年から
甲子園が遠ざかってしまった。
1回くらい親子鷹で甲子園の土を踏んで欲しかった。
星稜の山下監督は親子鷹で甲子園行けたのにね。
その最後の夏を追ったドキュメンタリー番組があり、練習風景や試合結果
が見れた。甲子園での尾藤スマイルとはほど遠い尾藤監督の厳しさを
垣間見ることが出来ました。
敗退後のロッカーで部員一人一人に声をかけるシーンは泣けた。
その最後の夏の結果は
6−0星林 2回戦
4−1海南 3回戦
6−2伊都 準々決勝(延長16回)
0−3吉備 準決勝
でした。
素朴な疑問だが若いのになんで辞めちゃったんだろう?
箕島が強かった頃は子供すぎて覚えていないです。
今の智弁くらいだったのかな??
>>4 取手二高戦はエラーもあったが、雨に負けたなと思う。実際、逆転された8回表だけ
雨が強くなって、嶋田の制球が明らかに狂った上、急遽杉本に替える羽目になったから。
だから雨さえ降らなきゃ箕島が勝ってたし、優勝も夢じゃなかったな。それから本当は
8回頭から杉本に替えようと思ったらしいが、躊躇して替えなかったのが敗因だったとも
尾藤さんは言っていた。
>>9 まあ、星稜の場合は箕島に勝ったとしても、池田か浪商に負けてた可能性が高いから
山下監督が、今以上の名将になれたかどうかは分からん。
それから、今後の箕島については下記のスレまでどうぞ。
【春夏連覇】甦れ!和歌山県立箕島高校【復活祈願】
http://sports3.2ch.net/test/read.cgi/mlb/1061714481/
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/25 23:55 ID:am/BGCK2
>>11
はい 爺の話をしてるうちに尾藤さんの話になって、自分でも
心に封印してたので常総決勝のときの解説が尾藤さん
であっても昔を思い出すことはなかったのですがカキコしてるうちに
昔の自分を思い出したんですよね。ラジオ聞いたりして野球は2アウトから
ってよくいってました。よくバントしてたのもおぼえてます。そして
応援の曲は確か猪木ボンバイエーでしたよ。よく当時他の学校が
マネ?したりしてました。
高校野球を好きになったきっかけも尾藤さんだし、小学生のころ尾藤さんの大ファンでした
爺が最後ノ勇退を優勝で飾れたのは少しうらやましいという気持ちがあります。
>>13 腰痛が酷くて、思い通りにノックを打てなくなったから辞めたと言ってたよ。
>4
正確には覚えていないが、こんな感じではなかったかな。
桑原の内野ゴロ(内野安打性の当たり)を1塁に悪送球、桑原は2塁へ。
塙3塁打で桑原生還。小菅じっくり選んで四球。
吉田の内野ゴロの間に2点目。併殺をあせって悪送球となり、吉田は2塁へ。
佐々木の適時打で同点。ここで投手嶋田から杉本に交代。
下田右中間3塁打で逆転。中島犠牲フライで5点目。
ダブルプレーを取れなかったプレーというと、吉田の打席のことだと思うが、
足の速い打者を相手に無理に併殺を取りにいき、墓穴を掘った感じだった。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 00:04 ID:9v6U7uHf
1です。
>>12 私も親子鷹みたかったんですよ。ほんとに
親子鷹のときは決勝で智弁とあたりませんでしたか?
甲子園親子ででてたらフィーバーになってたかもしれませんね。
負けたときは私も泣きました。
>>12 最後の吉備戦、俺は紀三井寺球場まで見に行ったよ。8安打しながら、あと一本が出ず
完封負け。一度くらい尾藤親子鷹を甲子園で見れると思ったのに、大変悲しかったよ。
因みに一番惜しかったのは、尾藤投手が二年の夏だったね。決勝まで進出し、あと1
イニング抑えれば甲子園だったのに、リリーフの原井(後、西武)が桐蔭打線に打たれて
逆転負け。本当にツキが無かったよ。
>>19 智弁と箕島は夏の決勝で当たったことはありません。
あの年の決勝は智弁−吉備でした
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 00:18 ID:9v6U7uHf
そうでしたか?幼いころなので記憶があいまいですいません。
智弁がだんだん脅威に感じたからそう思ったのかもしれません。
>>18 実際、吉田の時は悪送球にならなかったとしても、一塁はセーフのタイミングだったね。
とにかく、やたら足が速かった。
>>24 記憶があやふやだが、たしか準決勝の鎮西戦だったような気が・・・
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 00:26 ID:XGNQGpYe
昔、ベースボール誌で読んだ記事だけど、尾藤監督は不遇な頃に
地元のボーリング場で受付してた時期もあったそうです。
不慣れなために、「このシューズ、サイズが違うぞ!」なんて、客に
怒鳴られるのも日常茶飯事だったとか。
それでも笑顔で対応しなければならないサービス業の辛さを経験している
あたりが、甲子園での采配に反映されていたらしい…。
実際、ピンチの時ほどにこやかだったもんね、尾藤監督。
木内さんは72歳だが尾藤さんとかPL中村さんって今いくつ?
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 00:52 ID:QN0vhvXp
あげ
尾藤は60歳やそこらだと思う。
しかし、84年以降は夏出られなくて、すっかり解説者のイメージになっちゃったな。
今大会審判をやった星稜の堅田とともに、平成生まれは知らないよな、の世界か。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 01:41 ID:Jlnckz43
はあ 寂しい 寝るとするか
尾藤氏は若いうちに運を使い果たしてしまって息子の在学中には残ってなかった
んだね。甲子園なんて楽に出てたのに
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 01:46 ID:Jlnckz43
暗い話ばかり(TT)
もう過去のひとだよw
昔あったオーラなんかとっくに消えちゃってるしね
サッカーの小嶺(国見監督)のような存在にはなれなかったね
ふつうのおっさんにしか今は見えんな
むかしからだよ。ユニ着るとかっこいいんだ。
尾藤さんって、尾藤イサオの親戚だよね?
age
39 :
尾藤 公:03/08/26 09:13 ID:???
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 14:09 ID:9++oSKlq
age
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 18:35 ID:ZSW9Dd6d
>>20 俺もテレビで見ていたけど、
その吉備戦の前日の準々決勝の伊都戦が延長16回の死闘だったから、
尾藤ジュニアはじめ箕島ナインは完全に疲れ切っていたな。
テレビ画面からでもそれは伝わってきていた。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 19:05 ID:tWLT+324
箕島球友会 発見
別のスレでも触れられていたが、練習中に水をのめばバテると言われていた
20年以上も前から、練習中の水分補給をやってたのはエライ!! と思う。
尾藤公監督での箕島高校復活キボンヌ
尾藤、蔦、木内、中村・・・
みんな味のある監督だった
今はほとんどいなくなったな・・
1です。甲子園での試合や尾藤さんのエピソードなど関西人以外の方で
ファンの方いらっしゃったら歓迎します。(関西人ももちろんOK)
関東人の方でファンの方いらしゃいますか?今から20年以上前の
あの話語っていただけませんか?過去の話がききたいんです。
私の知らないあの時代の話をお願いします。
腰が悪くて辞めたと聞いたが、
有田市内の中学が野球弱くなったんでは?
昔は有田市、有田郡の中学生の多くは、学校の軟式野球部に所属していた。
練習場所は学校のグラウンド。授業終わってから日暮れまで毎日たっぷり練習していた。
指導者のレベルも高く、熱心だから、軟式とあなどれないくらいレベルが高かった。
いまでは硬式のチームもあるが、練習時間は中学の野球部よりかなり少ない。
そのへんがレベル低下の一因かと思ったりもする。
吉井なんかは、中学の野球部が厳しから、学校のクラブでは陸上部に入り、
週末はシニアの弱いチームで野球を楽しんでいたからね。
地元の軟式出身者は、大阪から野球留学してきた硬式出身の選手に負けないくらい
ハイレベルだった。
尾藤さんて今なにしてるの?
数年前の新聞より
≪夏がくれば思い出す。甲子園にさん然と光る、昭和54年夏の箕島ー星稜の延長18回に及ぶ死闘、
そして選手たちの能力を鮮やかなまでに引き出した元箕島高野球部監督、尾藤公さんの独特のスマイルを。
春3回、夏1回の全国制覇を遂げた、”笑顔の名将”を出身地で箕島高のある和歌山県有田市に訪ねた≫
ー 腰痛がもとで監督をやめられたのが平成7年。その後、具合はいかがですか?
「十分なノックができなくなり、これは選手たちに失礼だと思って監督をやめたわけですが、
それが相変わらずなんですよ。とくに左の腰がね。好きなゴルフも、誘われても断るときが多い状態で。」
ー 腰痛といえば、学生時代にプレーヤーを断念したのもこれが原因だったとか
「そうなんです。県大会では2回戦敗退でしたけど、箕島高時代は捕手で4番を打ちましてね。
浪商と法政二高が名勝負を演じた夏でした。それで近大に進んだんですが、バットを振りすぎたせいで腰を痛め、
現役を続けられなくなった。野球が評価されて進学したようなものでしたから、学問だけじゃついていけんやろうと
判断して、1年で中退したわけです。」
ー 思い切ったことを・・・
「それで箕島に帰りましてね。警察官になろうと思い、試験問題集を買って勉強していた。ところが、
親戚に地元銀行の社長がおりましてね。私の家にやってきて『公っ、お前、何をやってるんや。
大学をやめるようなやつが勉強しても、試験に受かるかどうか分からん。どうや、銀行で働かんか』
と言われ、銀行に勤めることになってしまったんです。」
ー もし警察官になっていたら、少なくともその後の甲子園はなかったですよね
「そうですよ(笑い)。いや甲子園の警備にあたっていたかもしれないし、違う意味での甲子園が
あったかもしれませんね。ハハハハハ。」
≪昭和17年10月、和歌山県有田市生まれ。銀行員を経て、昭和41年、23歳の若さで母校の監督に。
就任3年目に東尾修投手(前西武監督)を擁して選抜に初出場し、ベスト4に進出。平成7年夏に勇退
するまで春夏合わせて甲子園に14回出場し、戦績は春22勝5敗、夏13勝5敗。通算35勝は
中村順司氏(PL学園)、故蔦文也氏(池田)に次ぐ≫
ー ところで、どんな銀行員だったんでしょう
「外交でしたね。スクーターに乗って箕島の商店街を集金に走り回るわけですよ。
やらなければいかん最低の仕事はやりましたが、仕事熱心だったかというと、そうでもない。
午後3時すぎに仕事が終わると何かモゾモゾしてきて、またスクーターに乗って今度は母校に行ってしまう。
野球部の練習の手伝いですね。週に3、4回は行ってました。」
ー その熱心さが買われて、23歳で監督に推された
「ええ。よく手伝いにくるということで『いっぺん、尾藤にやらせてみては』という話になったんです。」
ー 何がどうなるか、人生とはつくづく面白い・・・
「ときどき思いますよ。練習の手伝いに行かず、まじめな銀行員だったとしたら、
今ごろは支店長ぐらいにはなれていたかもしれないとね。(笑い)」
春夏連覇の時の選抜大会で箕島は、
投手と二塁手の中間にポトリと打球を落とす、
奇妙なプッシュ・バントを多用していたよね。
あれは内野安打を量産した恐怖の戦術だったはずだけど、
選抜から後は封印されることになったのは何故だろう?
誰か理由を知りませんか?
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 22:35 ID:AsKFm27n
北海道のどっかの高校の野球部監督が尾藤信者で
話がしてみたいという事で箕島高校を訪ねたそうだ。
それが縁で年に1度、尾藤邸を今でも訪れてるそうだ。
55 :
20:03/08/26 22:40 ID:???
>>42 そうでしょう!確かエース尾藤は延長16回を216球で完投。11回には無視満塁
のサヨナラ負けの大ピンチも切り抜けての勝利。しかも第3試合だったから、終った
のが夕方で、次の日また尾藤が先発したから非常に厳しかった。こっちは伊都戦後、
すぐ支度して東京から夜行に乗って和歌山まで見に行ったのに結果は・゚・(ノД`)・゚・。
>>1 俺は昔から東京人で初めて箕島の試合を見たのがあの星稜戦だったよ。因みに最近立てた
箕島復活祈願スレの1です。よろしく!
>>55 1です。どうもです。びっくりしました。箕島復活スレをたてたのは
地元の方とかがたてているのだとてっきり思っていました。東京人でしたか
よろしく!!
カキコするときに何県の方か書いてくれると親しみがわくので
新しく書いてくださる方がいらっしゃたら都道府県名
差し支えなければ書いてください。よろしく
>>46 次世代の現役監督で味があると言えば、明徳の馬淵・広陵の中井あたりかねえ。
鹿実の久保さんも、漏れが好きだった名将だったが昨夏で引退してしまったし。
59 :
21歳<岡山>:03/08/26 23:18 ID:cjXOeUva
ビデオでしか見たことないが、箕島は大好きです。
春夏連覇した後の、昭和55年夏のチームも好チームだったと思います。
確か、ベスト8で優勝した愛甲のいる横浜に3−2で負けましたが。
尾藤って高校野球をビジネスにした先駆者だね。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/26 23:58 ID:DXNkck6t
池田高校に代表されるパワー野球、つまりスクイズはいらん打っていけという
野球が流行りだした頃、多分それに対して雑誌で言っていたことを思い出した。
「私は出たランナーをバントで迎え入れ、みんなで勝利を分かち合う野球をしたい。」
というような話。尾藤さんまではスクイズで勝つ野球が主流だったが、畠山、水野
の池田の頃からスクイズ無用、ヒッティングの時代に大きく流れが変わったと思う。
池田が優勝したのが昭和57年だからその頃か。
今では弱小チームこそスクイズを多用するが、覇権を争うチームはオカズとしてスクイズ
を使っている。つまり、尾藤さんはスクイズ主流時代の最後の名将だと思う。
尾藤って山口県の東亜大学(だったっけ)をべた誉めしていたな
専用グラウンドすらないのに神宮大会で優勝した時
普段の生活全てがグラウンドになる、恵まれた環境でやっている
選手はそのことすら気づかない
さすがと思ったよ
63 :
尾藤:03/08/27 00:20 ID:???
箕島復活キボンヌ
采配の切れは一流だったな。
今更なあ
66 :
尾藤:03/08/27 16:30 ID:???
箕島復活キボンヌ
>>61 でも今年の甲子園見てると公立校でもスクイズしないところが多かった。
岩国なんてランナー三塁の場面でも必ず(9番打者でも)打っていったし・・・
確かにスクイズ減ったね。
有田市宮崎町 ガラ悪い漁師町 しかし裕福
尾藤監督も、嶋田兄弟も、林真澄もここの出身
尾藤さんをトーホク高校の監督にすれば春夏連覇出来る!
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/27 20:54 ID:cOjYNLjl
昔、雑誌でこんな記事を読んだ。
昭和61年のある日の練習中に選手たちにハッパをかけようと、
尾藤さんは「やる気が無いのなら帰れ!」と怒鳴りつけた。
ところが、この後選手たちは次々に帰りだしたという。
このやり方では選手気質に合わないと思ったのか、
それからは、昔の練習中ではあまり見せなかった笑顔とか見せたりして
尾藤さんの若いころに比べるとソフトな指導法になったとか。
この指導法の変化(というより選手気質の変化?)が、
結果的に、箕島の凋落の一因となってしまったのは
皮肉としかいいようがない。
昭和45年春
北陽 200 000 100 100 4
箕島 001 200 000 101 5
昭和54年夏
星稜 000 100 000 001 000 100 3
箕島 000 100 000 001 000 101 4
昭和57年春
明徳 000 000 000 000 21 3
箕島 000 000 000 000 22 4
昭和58年夏
吉田 001 010 000 000 1 3
箕島 000 000 101 000 2 4
72 :
番外編:03/08/27 21:30 ID:???
平成5年夏準々決勝
南部040 200 000 6
箕島010 002 004 7
同準決勝
和歌山工010 000 002 3 6
箕 島201 000 000 0 3
昭和54年春準決勝
PL100 020 000 0 3
箕島000 100 002 1 4
数年前の新聞より 2
【結婚、もうひとつの甲子園】
ー 監督就任が23歳。練習はハードだったんでしょう
「当時の箕島は伝統もない無名校。海南、桐蔭、新宮といった甲子園常連校に追いつくには
どうすればいいかと考えた結論が『2倍か3倍の練習をすれば追い付けるはずや』という単純な
もので、それは厳しい練習をやりましたよ。」
ー 例えば、どんな
「時間も長かったし、暗くなれば何かの本に書いてあったのをまねて、ボールに石灰をつけて
ノックしたり。『気持ちを集中しさえすれば、月の明かりでも捕れるんや』といったことを選手に
求めた毎日でした。ただ、石灰ボールだけは1日でやめましたけど。」
ー なぜ?
「ノックした瞬間、石灰がパッと飛んで、私の顔や鼻の穴が石灰だらけになるんですわ(笑い)。
これはたまらんかったなあ。」
≪「当時の選手たち、よく私についてきてくれたと思います」と、監督就任当初を尾藤さんは
しみじみと振り返る。「監督」ではなく「先輩」と選手たちに呼ばせて、猛練習が終われば、
なけなしの小遣いをはたいてラーメンやお好み焼きを一緒に食べる”兄貴分”の間柄。
就任とともに入学してきた東尾修投手(前西武監督)の成長に合わせ、チームは右肩上がりで
みるみるアップした≫
ー 甲子園を夢見て、情熱のノックの日々・・・
「いや、それがそうでもなかった(笑い)。昼は野球に全力投球し、夜はラブレター書きで忙しい
わけですよ。ある意味非常に充実していた時期ですね、あのころは(笑い)。」
ー 毎晩ですか?
「はい。書き損じを含めて、最高で一晩に便せん百枚も書いたことがあります。
それを13枚ぐらいにまとめて投函してね。でも、振り向いてもらえるまで2年ぐらい
かかりましたよ。まさに押しの一手というやつでしたね。」
ー 失礼ですが、ラブレターの相手は奥様ですか?
「そうです。行きつけの喫茶店で働いていまして。あるとき、テレビドラマで主人公が何かの
理由で嫁入り先を飛び出し、舟に乗って実家に帰るシーンがあった。それ見ていた彼女が
『私なら帰らない。絶対に辛抱するのに』とつぶやいたんです。それを聞いて『あ、この女性だ!』
と直感し、それが『こんな女性と結婚できたらいいなあ』という願望に変わりましてね。
それがそもそもの始まりでした。」
ー それで結局は押し切って大恋愛を成就させた・・・
「ええ。後で彼女は後悔したでしょうがね(笑い)。考えてみれば野球と一緒ですよ。(照れながら)
『何としてもこの子供たちと甲子園に出たい』というのと同じで、何としても結婚したい一心でしたね。」
ー 手遅れですが、その情熱のつめのアカでもせんじたかった。で、長男誕生・・・
「実は昭和44年1月に結婚し、息子が生まれたのはその年の7月。ちょっとばかり計算が
合わない(苦笑い)。」
ー てことは当世流行の・・・
「はい、できちゃった結婚です。でも、そこにたどりつくまで2年半もかかりました。」
ー じゃあ、かかった時間は甲子園初出場と同じですね。
「ええ。私にとって、もうひとつの甲子園だったかもしれません。ハハハハハ。」
尾藤監督できちゃった婚やったんやあ
甲子園息子とでれなくて残念やな
77 :
尾藤:03/08/28 01:52 ID:???
箕島復活キボンヌ
もうダメポ?
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/28 16:53 ID:7lVaVQcz
数年前の新聞より 3
【初陣の思いではノック失敗】
≪就任2年目となる昭和42年秋の近畿大会で、24歳の青年監督に率いられた箕島ナインは、
初出場ながら堂々の準優勝を果たし、翌春の選抜切符を手にする。甲子園ではエース東尾修
(前西武監督)の力投で、苫小牧東、高知商、広陵を撃破し、初陣でベスト4入り。
後の“箕島時代”を予感させる鮮烈な甲子園デビューだった≫
ー どんな印象でしたか、甲子園は
「そりゃあ出場が決まったときは大感激でしたよ。ところが試合当日、甲子園球場に足を踏み入れた
とたん、ひざがガクガクしてきましてね。選手たちには『この状況であがるのは当たり前や。みんな
大いにあがろうやないか』と話して試合に臨みましたが、一番あがっていたのは私自身だったかも
しれません。」
ー 初戦は苫小牧東
「ええ。試合前のシートノックがあるでしょ。それでホームベースの位置まで歩いていって、
いざボールを打とうしたとき、突然『空振りするんやないか』と不安に駆られましてね。
無事にボールがバットに当たったときは、さすがにホッとしましたよ(笑い)。」
ー 尾藤さんでもそうだったんですか
「そうですよ。実はノック失敗談はノックの最後でしてね。キャッチャーフライを打ち上げて締めくくる
ところを、これがセンターフライになるわ、ネット裏のスタンドに入ってしまうわで、さっぱりうまくいかん。
そうこうしてるうちに時間切れのサイレンが鳴り、『ちょっと待ってくれーっ』と言いながら、あわてて
2球打ったんですが、これもダメ。結局、4回ともとんでもないところに行ってしまった。」
ー やはり緊張のせいですか
「はい。結構うまい方だと自信を持っていましたから、『何で打てんかったんや』と考え込んで
しまい、動揺した気持ちを試合にまで持ち込んでしまいました。これが最初の甲子園での一番
強烈な思い出です。」
ー で、次の試合からはどうだったんですか
「キャッチャーフライの失敗が試合に影響するんだったら、ノックの締めくくりに打つのは
やめようと決めましてね。以来、ノックの途中に『どこ行くか分からんぞ』と言いながら打つ
ようにしました。これなら失敗しても、そう目立ちませんから。監督やめるまで、こうでしたね。」
≪どんなベテラン監督でも初の甲子園におけるシートノックは緊張するものらしいい。例えば、豪打
で甲子園に一時代を画した池田高・蔦文也監督の場合は、ノック第一球が力余ってレフトスタンドへ。
「あれは選手の緊張をほぐすために、わざと打ったんだぞ」とは本人の弁だが・・・≫
ー 2回目の甲子園は、2年後の昭和45年選抜。ここで初の全国制覇ですね
「ええ、東尾が3年とき1年生だった島本講平(後に南海入団)たちの代です。」
ー このころから箕島といえば“負けないチーム”のイメージがありましたね
「いや、そんなことはありません。その後はなかなか勝てなくなりましたから。選抜初優勝の年
の夏は、甲子園で2回戦負け。その2年後の昭和47年選抜では倉敷工に初戦敗退。それで
一度は監督をやめることになったんです。」
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/28 23:21 ID:T/AYBWkH
昭和52年選抜優勝したときの準決勝の智弁学園戦、最後はタッチアップアウト
でゲームセット。しびれた、かっこよかったなぁ。(箕島2−0智弁学園)
智弁のピッチャーはその後プロに行った気がするが。
このスレいいですねぇ。読んでいて感動してしまいます。
>>12 尾藤監督のことはあまり知らない世代だけれど泣ける話だね。
野球の裏側というのはつらく厳しいんだね。
>>82 自分も読んで感動しています。
age
おい尾藤スマイルは胡散臭くないか?
@蔦さんは50歳近くになって初めて甲子園に出たが
尾藤さんは若くして甲子園に出た。
A蔦さんは豪快、尾藤さんは緻密であった。
B蔦さんが監督を引退したときの池田は全盛期を過ぎていたとはいえまだ余力があった。
尾藤さんが監督を引退したときの箕島は智弁和歌山に圧倒されていて、存在感がなかった。
@甲子園に初出場してからの下積み期間がない。池田も箕島も初出場から
すぐ優勝なり準優勝なりしている。
A田舎の何の土壌もない公立高校を全国トップ校までに仕上げた。
B両監督の後継者がいまひとつ育っていない。
1991年春が箕島、そして尾藤監督最後の甲子園。
初戦の旭川竜谷戦は快勝したが、続く大阪桐蔭戦で逆転負け。
ちなみにその年の夏、大阪桐蔭は全国制覇を果たす。
数年前の新聞より4
【不信任一票で監督辞任】
ー 選抜優勝監督が、その2年後の選抜出場後に一度は辞任されている。いったい何が
「その年の選抜では1回戦で負け、後援会の中かに『もう尾藤では勝てん』という声が起き
たわけです。私自身には身に覚えがなくても、『アイツ、ここんとこ生意気や。ちょっと増長
してるんやないか』と思われたのかもしれません。私も私でして、まったく若気の至りという
やつですが、『オレが監督をやめるか、後援会が解散するかのどっちかや』とたんかを切っ
てしまいましてね(苦笑い)。」
ー なぜ、そのような過激なことを
「実は自分なりに自信があったんです。一緒に厳しい練習をやってきた30数人の部員たちに
聞いてみようと。もし全員が全員、『尾藤さんと一緒に野球をやりたい』と言ってくれたなら、
後援会に『もう一度やらせてください』と頭を下げようと思っていました。
それで部員を対象に、私の信任投票をやったわけです。」
ー で、で、結果は?
「一票だけ不信任がありました。これはショックでしたよ。全員が私を信任してくれると信じて
疑いませんでしたからね。それで『こういう結果が出た以上、やっぱり辞めよう』と決心した
わけです。昭和47年の5月末のことでしたね。」
≪監督を辞任した尾藤さんは、情熱を注ぎ込んだ箕島高グランドから有田川をはさんで
対岸にあるボウリング場に勤めた。そして数ヶ月たったある日、一人の部員が「スイングを
見てください」と前監督を訪ねてきた。そして、その部員は「不信任の一票は私です」と打ち
明ける。「おー、そうか、そうか。お前がそう考えたんなら、それでええねん」と前監督。
このあたりに、尾藤公という人物の一端がうかがえる≫
>>89 その夏の箕島は、県予選3回戦で、智辯和歌山が創部して以来、練習試合を含めて、初の黒星を喫した。
ー ボウリング場勤務。野球では味わえない、さまざまな経験をされたでしょう
「そうですね。最初のころ、お客さまがボウリングシューズに履きかえるクロークの担当に
なりましてね。あるとき、私がサイズを間違えて靴を出したのかどうか、酒の入った客が
『こんなもん、履けるかっ』と私の顔めがけて靴を投げつけたんです。当時はその程度の
スピードにはついていけたのでサッとよけましたけど、カッとして右手が上がりかけましてね。」
ー それで
「でも、思いとどまりましたよ。『いかん、いかん。オレはサービス業なんや』と。その後、
だれもいない場所に行って冷静になろうとしましたが、悔し涙があふれてきて・・・」
ー 甲子園で優勝した監督がそんな思いまで・・・
「しかし、その方とは友達になりましてね。今もときどきお会いしています。まあ、選手たちに
命令する立場から、お客さんから命令される側に変わったわけですから。小中学生から
『おっちゃん、この自動販売機、壊れてるで。どないなってんねん』と言われたりね。
ー よく我慢したものですね。
「いやいや。私は『神様か仏様かが“尾藤という男を鍛えてやれ”と、私を試しているんだ』と
思っていましたから。もっとも、そう思うようになったのは、後のことですけど(笑い)。ボウリ
ング場勤務は3年間でしたが、この期間の経験がなければ、今の私があったかどうかと
つくづく思うんですよ。」
>>87
2002年秋季地区大会県予選準優勝の結果をだし近畿大会も9年ぶりに出ました。
観戦に訪れた尾藤元監督は「選手は自信を持ってやっているし、
児嶋監督もよくやっている。もう児嶋のチームだよ」と監督と選手への
信頼を語り、児嶋監督は「経験不足が出た」と悔しそうな表情を見せたが、
「明日からまた練習です。甲子園に行けるだけのチームになってもらわないと」と
話すその姿には、甲子園への揺るぎない思いを感じさせた。
これからです。
age
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/29 23:38 ID:yoM5cas/
昭和54年夏3回戦あの星稜との延長18回の死闘のあとのこと。
「試合がおわって宿舎に戻り、ミーティングのとき。みんなで顔合わせて泣いて
しまったよ。みんなでえんえん泣いたよ。」てなこと読んだことあります。
練習は鬼の形相、試合中はミスしても尾藤スマイル、そして試合後は感涙。
いい監督だったんですねぇ。自分は関東在住であまり関西のチームは応援していないが、
不思議と尾藤監督、箕島高校は好感が持てた。
復活して欲しいよ箕島、そして解説者でもいいからまた甲子園に出て欲しいよ尾藤さん。
今日は箕島負けてしまったね。新チームは期待できないのかな?
1です。某スレじゃないけど 箕島が活躍した時代70年代80年代に
2ちゃんねるがあったらどんなふうにカキコされてたんでしょうね?
ちょっとみてみたい気がします。
そんなスレたくさん続いたらうれしいな
名スレの予感
だれかー
>>97の返答してくださーい。
70年80年代箕島活躍時代に2ちゃんねるがあったら何とスレのタイトル
内容を書きますかー
さぁ・・
いいスレだったのに・・スレ汚しがでたなぁ
ショック・・・。はあ・・・。(TT)
いずこへ・・・・。
このスレどこへいっちゃうの?
1です。また明日の夜仕切り直しします。
おやすみなさい。
おれは和歌山の弱小チームだったが、下級生に上手い奴が何人かいた。
次の試合のため紀三井寺のベンチ裏で待機していた尾藤さんに
「あの投手と、あの野手とあの野手は1年か? 去年はいなかったな。」
と聞かれた。「そうです」と答えると、にっこり笑って、
1年後、2年後は強くなるなあ。と言いました。
実際、2年後はシード校になり、甲子園2歩手前くらいまでいったし。
まぐれ、まぐれと言われたけど。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/30 12:07 ID:ZDi8dO84
>>97 >>99 「高校野球史上最高の名監督はだれ? 」
はいつの時代もありそうじゃない。
ただし、登場人物はちょっと変わってくる。
その頃だと尾藤(箕島)、中村(PL)、斉藤(銚子商)、和田(早稲田実)、
原の親父(東海大相模)あたりで議論が展開されたんじゃない。
それとありそうなのが「★★箕島−PL史上最強はどっちだ★★」
・逆転のPLだろ。
・いや箕島の春夏連覇は大きい。こっちが史上最強だろ。
なんて議論になってたんじゃない。
当然、アンチスレも乱立していることでしょう。
age
数年前の新聞より5
【エラーが出ても“笑顔”】
ー ボウリング場勤務の2年半を経て、監督に復帰されたのが昭和49年9月。
ブランクをはさみ、指導法も変わったのでは
「変わりました。選手たちと対話する機会が多くなりましたね。以前は『こうやってみろ』
と命令調だったのが、選手の性格に合わせて『オレはこう思うんやけど、お前はどう
思う?』とか、選手の考えを聞いたうえで『そうか。それをやってみろよ。もしうまくいかん
かったら、こうやればいいんと違うか』といったようにね。」
ー 押し付けの指導から、選手の個性を伸ばす指導に
「ええ。それぞれが違ったものを持っているわけですから、それを認めたうえでやっていこうと。」
ー やはりボウリング場勤務時代の体験が大きかった
「その通りです。私を意識的に育ててくれた人、ボウリングの靴を投げつけた人・・・。
いろいろな方と接し、さまざまな経験をしたなかで、人生なんてしゃくし定規にはまるわけ
ではない、誠実に物事に対処していけば、たいていのことは解決できるんだと分かるよう
になって。我慢することも覚えたし、いろいろな気配りもできるようになった。これがなか
ったら、監督に復帰しても、またすぐやめざるを得ないような状況になったかもしれません。」
ー 分かります
「ですから、批判するわけじゃないけど、学校の先生は学校の中で、先生と生徒という
関係での生活ですよね。私は先生には経験できないような面を体験できたわけで、
ものすごくプラスになったと思いますね。」
≪尾藤さんといえば、代名詞はスマイル。どんな窮地に追い込まれても絶やさぬ笑顔が、
箕島ナインのここ一番での二枚腰を生み出した。後に延長18回の末に敗れることになる
星稜・山下智茂監督などは「箕島の強さは秘密は尾藤スマイルにあり」と断じ、自宅玄関に
大鏡を据え付け、毎朝5分間、鏡の前で“笑顔の研究”を続けたというエピソードもある≫
ー 例の“尾藤スマイル”は監督復帰後からですか
「いえ。選抜で初優勝した2度目の甲子園からでした。エラーした選手が落ち込んでいた
ので、気持ちをほぐしてやろうと思い、笑いながら『お前には、あと3つぐらいエラーを予定
しているから気楽にやれよ』と声をかけましてね。すると、私の隣におったひょうきんな子が
『いつも監督がそんなにニコニコしてくれていたら、僕らはやりやすいし、力を出せるんや
けど』というわけですよ。『そうか。そんならいつでもニコニコしてやろうやないか』とね。」
ー そうだったんですか
「以来、笑う努力をしましてね。やがて自然に笑顔が出るようになりました。空振りの三振を
してベンチに戻ってきた選手には『今のは次につながる三振や。次は絶対打てるぞ』と声を
かけ、エラーが出ても『いいやないか。一生懸命やった結果なんやから』と。それで選手たち
は『ウチの監督は練習ではガミガミ言うのに、試合だとニコニコして怒らん』と、試合になると
リラックスしてくれるようになったんですよ。」
ー 伝統でもあった箕島ナインの土壇場での底力は、そのあたりに秘密があったんですね
「今にして思えば、選手に教えたつもりが、彼らから教えてもらっているんですよね。
つくづくそう思います。」
1です。106さんサンクス。
某スレじゃないけど箕島が活躍した時代70年代80年代に2ちゃんねるが
あったらどんなふうにカキコされていたんでしょうね。
時を越え2003年2ちゃんねるにて箕島が活躍していた70年代80年代の
あの試合が復活します。伝説のスレは生まれるのか?!
2ちゃんねるにまた新たな歴史を刻むこととなるでしょう。
やっぱり監督さんの持ってるカバンは、
ルイ・尾藤 かな
〔今夜復活〕2ちゃんねるが70年代(80年代)にあったなら・・・〔箕島高校〕
1:名無しさん@お腹いっぱい。
吉井も箕島OBだったと思うけど、尾藤さんの指導受けたってことだよね?
>>113 指導を受けてるし、甲子園にも出てるよ。吉井本人が練習中に尾藤監督から往復ビンタを
食らった話をしてるのを、聞いた事がある。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/30 23:13 ID:qeXsqL5u
吉井は2勝はしたけど今一つの出来だった。
吉田戦は奇跡的勝利、春ベスト8の駒大岩見沢にも接戦、
高知商戦は津野の満塁ホームランで敗退。
3試合で10数失点は多過ぎ。
確かに吉井は安定感が全くなく、これが箕島のエースかよって
感じだった。
練習試合で吉井からうちらは8点とったからなぁ。
たいした事無かった覚えがある。
イマイチ地味なスレ
吉井の高校時代はノーコンだったな。むしろ1年後輩の嶋田の方が実力は上だったよ。
甲子園では未勝利だが、スピード、カーブの切れ、制球力とも抜群だった。プロでは
故障に泣いたが、あのまま行けばプロでも成功したはず。
sage
思ったより盛り上がらないスレだな。
所詮過去の話というわけか
はあ 伝説が・・・。 (TT) 消えていく
がっかり
ここで語ってる方ってやっぱりだいぶ年配の方なんでしょうか?
僕は箕島の名前は知ってるものの全く知らないんで・・・
ここでカキコしてくださってる方がお幾つなのかわかりませんが
少なくとも30はこえていらしゃる方?が多いと思います。もっと年上の方ばかり?
自分も世代が違うのでよくわかりませんが教えてもらうばかりです。
ここでカキコしてくださってる方は和歌山の人が多いのかな?
和歌山での地区大会の話がよく出ているので・・・・。
今は智弁野球に魅せられてますが・・
和歌山ってすごいんだね!過去も現在も
和歌山の人は野球好きで熱心な人が多いときいたことがあります。
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/31 01:43 ID:oJuLouDx
根来衆かぁ
?
昔延長の試合で戦ったことがあるってきいたことある。
その詳細キボンヌ。
雑賀衆ですが、なにか?
前に和歌山に行ったとき小さい子が歌うたってた。どっかで
きいたことあると思ったら智弁の校歌だった。小さい子まで
和歌山が野球が浸透しているのかと実感した。
気がつけば和歌山関連のスレがたくさんあるって感じ
っていうかそれだらけと思ったりする。箕島の昔の話は
元野球部?見たいな人が語っている話とかあるけど内部の話
過ぎてさっぱりわからない。
20年後くらいには智弁もこんなスレができてるんだろうな。
「智弁高島監督の思い出を語るスレ」みたいな
そんなん考えると何か淋しいもんやな
20年後そうなんのかな。その時和歌山ではどこが優勝しているのだろうか?
昔有名でその監督がいなくなって復活させるため頑張ってるという高校
全国に増えてきてる 20年後には箕島でもなく智弁でもなく別の高校が
優勝してるのかもしれないし
淋しくなってきた…
和歌山の人で年配の人が集まってるスレなんですね。
箕島高校が好きで尾藤監督が凄く好きな人ばかりですね。
オールドファン?と呼ばれる世代の人達なら池田高校とかPLとか
の話も出てくるのにここにはあまり出てこないですよね。
尾藤監督の隠されたエピソードとか多いですね。有名な話とかいうよりは
好きな人達がじっくりと昔を語ってるといった感じがします。
よくわからない?話もあるけれど、いい話をじっくりときけるスレですね
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/31 09:40 ID:5PZKZXH/
第42回(70年)優勝 箕島
◇17年ぶりの近畿対決
万国博覧会が大阪であった70年の優勝戦は、17年ぶりの近畿対決。
5―4、延長十二回サヨナラという熱戦となった。
北陽は七回に3―3と追いついて延長十回表に1点。打たれた箕島・島本
(その後南海入団)は気落ちしてベンチに帰ってきた。尾藤監督はそんなエースを
ベンチから追い出して投球練習を命じて士気を再び高めた。十回裏2死一塁、
カウント2―1で打席は森下。外角に外したボール球に食らいついて右翼線に
同点二塁打。ナインに助けられた島本は十二回裏、自らサヨナラ安打を放ち、
熱戦に終止符を打った。
▽第42回大会優勝戦
北陽 200000100100◆4
箕島 000120000101◆5
(延長十二回)
(毎日新聞2002年3月5日大阪朝刊から)
age
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/08/31 22:20 ID:e79ptdfp
やっぱり↓の試合でしょう。毎年、選手権が近くなるとナンバー等の雑誌は名試合の
特集を組んでいるが必ずこの試合が出てくる。また、他スレで「思い出に残る試合」
なんて盛り上がっていたが、集計するときっと一番だろう。
延長16回万事休すの直後のホームラン、そのときの尾藤スマイルは今でも忘れられない。
ナイターの照明を浴びていい顔だった。あれで箕島に流れが完全にいったね。
-----あるサイトの引用--------------------------
<星稜−箕島>1979/08/16
星稜 000100000001000100=3
箕島 000100000001000101X=4(延長18回)
午後4時6分から7時56分までカクテル光線の中で行われたこの試合は、「神様が創った試合」と呼ばれる。春夏連覇を目指す王者・箕島と、それに挑む星稜。延長に入って神様が動き出す。
12回、1点リードされた箕島は、2死走者無しの絶体絶命。一番・島田宗彦は監督にHRを宣言。2球目のカーブを見事にレフトスタンドへ。これで同点。
16回に再び試合が動く。またも星稜が1点リード。16回裏、箕島は再び2死走者無し。六番・森川が打った打球は、一塁ファウルフライ。決着か、と思われたが、一塁手が足を取られて転倒。仕切り直して5球目がなんとHR。
18回裏、体力・精神力ともに限界の星稜・堅田投手を攻め、五番・上野がサヨナラヒット。
「神様が創った試合」は3時間50分で決着がついた。両校投手200球以上を一人で投げきったが、四死球は6個、2個とすばらしい内容だった。まさに球史に残る名勝負だろう。
数年前の新聞より6
【優勝の陰にエースの優しさ】
ー 2度目の全国制覇は昭和52年春ですね。左腕エースの東裕司投手は大変な
努力家だったと聞いていますが
「その通りです。彼は定時制の生徒でして、早朝、和歌山市内の自宅から電車で箕島
まで来て、全日制の生徒と一緒に高校に向かう。そして教室に入る全日制の生徒と別
れ、彼は野球部の部室でトレーナーに着替え10キロ離れた仕事先の自動車修理工場
へ走り始めるわけですね。それで野球部の練習に間に合うように仕事を切り上げ、再び
10キロを走って高校のグランドに戻って練習をこなし、今度は練習を早めに終えて教室
に向かい、授業を受ける。これを3年間も続けたんですよ。」
ー 高校生、社会人、そして野球部員の一人三役
「それも三年間にわたってですよ。その精神には頭が下がります。」
ー その努力が全国優勝という形で報われた
「そうです。あの全国優勝は東に負うところが大きかった。彼が甲子園で実力を発揮でき
た最大の理由は、まさに彼の日常の努力にあった。」
≪甲子園での東投手は前年秋の近畿大会で痛めた左ひじが完治せず、文字通り苦闘の
マウンドだった。試合日程は6日間で5試合。決勝戦を除く4試合の夜、東投手と尾藤監督
は報道陣の目を逃れ、箕島で治療を受けるために甲子園周辺の宿舎と箕島をタクシーで
往復した。夜8時に出発し、甲子園に戻るのは未明の2時、3時。最後は左ひじのまわりが
内出血で紫色に変色し、大会後、2ヶ月はボールを投げられなかったことからも、東投手の
気力の投球が分かる≫
ー すごい精神力ですね
「精神面での強さと優しさ。それが彼を甲子園の優勝投手に導いたんだと思います。」
ー 優しさ?
「ええ、卒業して何年か後、彼に冗談半分で『ホントに3年間、走り通したんか』と聞きまして
ね。すると彼は『走りましたよ』といいながら、打ち明け話をしてくれたんです。」
ー どんな?
「勤務先への行き帰り、同じ時間に同じコースを走るもんだから、やがて道路沿いの家の窓
があいて、おじいちゃんやおばあちゃんから『がんばりや!』と声をかけてもらうようになった。
窓をあけ、拍手をしてくれる家がだんだん増え、今度はおじいちゃんやおばあちゃんたちが
彼が走り過ぎる時間になると、道まで出てきて、声をかけ、拍手してくれるようになったとい
うんです。」
ー いい話ですねえ
「いや、いい話はこの後です。あるとき、小雨まじりの天気で彼自身が風邪で熱っぽい日が
あった。『今日は走るのやめようか』と思いながら、結局は走ったんですね。『なぜや』と聞い
たら、彼の答えはこうでした。『もし自分が走らんかったら、おじいちゃんやおばあちゃんたちは
30分でも1時間でも外に立って自分を待ち続け、体調を崩してしまうかもしれん。そう考えたら
走らんわけにはいかんかった』とね。」
ー ・・・
「走ってみると、やっぱりおじいちゃんやおばあちゃんたちは雨にねれながら道に立って彼を
待っていたそうですよ。『あの励ましがあったから、走り続けることができました。』という彼の
言葉を聞き、単なる甲子園優勝投手ではない、東裕司の人間性をかいま見たような気がしました。」
うちらは、東から3点とったんだけど、強かった。箕島は
数年前の新聞より7
【息子にはつらくあたり・・・・】
≪尾藤さんには一人息子がいる。若気の至り(?)で結婚式から半年後に誕生したと
いう強さん、三十歳である。カエルの子はカエルで、強さんも箕島高野球部でエース
として活躍した。ところが強さんの話になったとたん、尾藤さんは思いもしなかった一面
を見せたのである≫
ー 息子さんの時代、甲子園出場は?
「一緒に甲子園に行きたかったですよ、息子と。でも、あと一歩のところで夢を果たせ
なかった。それも私がいらんことを言ったばかりに・・・。」
ー と言いますと?
「息子が二年生のときの和歌山県大会決勝です。八回まで3−2とリードし、九回表の
相手の攻撃を抑えれば甲子園という場面で、マウンドに向かう息子につまらんことを
言ったんです。『強っ、ランナーが一人でも出たら代えるぞ!』とね。息子じゃなかったら、
あるいはそれまでの私なら『一点取られても同点や。気楽にいこう』と声をかけていたのに、
なぜそんなことを言ったのか。八回までは監督をしていた私が、甲子園が目の前に見え
てきた九回に一人の親父になってしまった。」
ー で、どうなりました
「先頭打者が出塁し、みんなの前で怒鳴った手前、息子を代えざるを得なくなった。
急にリリーフした投手は肩も心構えも準備できておらず、打ち込まれて逆転負けです
よ。どうして最後まで監督でいられなかったのかと、ものすごく後悔しましてね。翌年の
夏は県大会の準決勝で負けて、結局、甲子園には行けずじまいでした。」
ー そうだったんですか
「息子にとっては、つらい苦しい三年間だったと思います。私にすれば、練習で
真っ先に目につくのが息子であり、一番先に怒鳴り、バチーンと手を出してしま
うのが息子でした。恥ずかしい話ですが、僕は息子がメチャクチャ好きなんです。
高校に入るまで手をかけたことはおろか、怒ったこともなかった。心の中で泣き
ながら、息子につらくあたっていたんです。」
≪話しながら尾藤さんは泣いていた。あの“スマイリー尾藤”の目には、うるうる
と涙が盛り上がっていた。「笑顔の名将」が見せる初めての涙である。愛する息
子との三年間、息子と同様、いや、親父はそれ以上につらかったのだ≫
ー 分かります、その心境。でも、その分を家庭で・・・
「それが違うんです。箕島に入部が決まったとき、息子が『僕、みんなと同じ条件
で野球をやりたいんや』と言い出しまして。どういう意味か分からないでいたら、
息子は『学校でオヤジに野球を教えてもらい、家に帰って、またオヤジにアドバ
イスをもらったら、みんなと同じ条件やない。不公平や』と言い、下宿を望んだん
です。」
ー できた息子さんだ
「いやいや、昼も夜もオヤジの顔を見るのがかなわんと思って、そう言ったのか
もしれんし(苦笑)。それで、甲子園で活躍した島田兄弟の実家に三年間お世話
になりました。お父さんが『ウチは二人の息子がお世話になった。今度は監督の
一人息子を世話する番だ』と言ってくれましてね。」
ー いずれにしても並じゃない。私にも息子がいますが、えらい違いです。
「いえ。お子さんにはお子さんの素晴らしい面が必ずあります。子供たちは子供
たちで一生懸命生きていますよ。」
>>145 実際には、7回途中で原井と交代してるんだが・・・なんでだろう?
一人息子を愛するあまりにでれなかった。息子を溺愛しすぎたから
甲子園でれなかったのかな
>>149 尾藤さんが、そんな記憶違いを起こすなんて、信じられん!親子で甲子園に行けなかったから
極度のショックでそんな事に・・・
息子一人じゃなくて子供三人ぐらいいたらまだチャンスあったかも
しれないのに
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/02 20:10 ID:M3CfnjUH
原井がプロでヘボだから尾藤に憶えてもらえねえんだよ。
尾藤さんはリっ子?
前にテレビで野村さんが出ていた。厳しい顔つきをしていたが
息子が今阪神二軍?で自分の球団と試合する様子がテレビで流れていた
がその後、息子の話になると自分の力不足みたいなことをいいながら
なみだ目になっていたけど
なかなか息子となると監督でずーっとはいられないようで
親父になってしまうのだなあと思ったりした。
一人っ子は駄目だね(笑)
>155だね(笑)
山下監督は親子鷹達成できたんだよね。これに関しては尾藤さんより
勝ってる。親子で甲子園は難しい。尾藤さんの息子は子供とかいないの?
つまり尾藤さんに孫はいないのかな?いたら是非箕島で野球やって
甲子園に出てくれ。そしておじいちゃんを喜ばしてあげるべし
息子さん確かエースで主将で四番だったかな
>156
親を悲しませるんじゃない!(笑)
自演でつか?
>>159
自演じゃないよ
>>158
親を悲しませる?どうして?自分がでれなかったから?
実際のところどうなんだ?尾藤さんに孫はいるのかな? いたら
最低二人は男の子で箕島でピッチャーとして甲子園にでておくれ
尾藤さん喜ぶだろうなあ
エースで4番で主将はかなりしんどいなあ
孫に期待 age
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/02 21:22 ID:M3CfnjUH
和歌智の高嶋監督の息子は甲子園に出たね。92年・茂雄さん。
>>157 息子さんはエースで3番。主将は坂本だったよ。
高嶋監督の息子は成績はどうだったの?
山下さん高嶋さん以外に親子鷹は他にいるのかな?
祖父孝行してあげてよ 頼んだよ。
しかし高嶋・山下監督と親子で甲子園達成できているのに
尾藤監督でれないなんて・・・。ちょっとね・・・。
南部の井戸監督も息子(確か主将)と甲子園出てる。
01年のセンバツ
尾藤Jrは今何しているの?
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/02 21:50 ID:M3CfnjUH
>>164 補欠だったと思う。拓大紅陵に初戦敗退だったし、いずれにせよ目立った活躍はなかった。
他の親子鷹で箕島絡みは、東海大相模の原監督。昭和45年春の初戦が、その年の春夏優勝チームの対戦となった。
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/02 21:51 ID:O5aek3rn
目隠しをされ、男優2人から好き放題されます。
梨奈ちゃんは本当にかわいくセーラー服が似合います。
現役といっても通用するそのロリ顔にはファンが多いのも納得です。
気持ちいい、とうっかり言ってしまうと止めてしまうという
男優のいじわるに結構楽しんでしまっている梨奈ちゃん。
感度良好の彼女にとっては焦らし作戦に匹敵する快感なのでは?
こんなエロエロ無料ムービーが見てみたいなら
http://www.uradouga.com/
尾藤さんどうして親子で出れなかったのかな?みんな出てるのに
親子鷹は必ず「熱闘甲子園」のネタになるな。
親子鷹で甲子園でベスト8とかまで残ったりしたのはいたのかなあ
どの親子も成績はいいとまではいかずって感じかあ
尾藤さんの孫よ。親の分まで、祖父孝行してあげてくれ
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/02 22:01 ID:0xLB2vQC
原はいいところまでいっていなかったけ。
記憶が正しければ昭和50年のベスト8で定岡の鹿児島実に負けているはず。
ピッチャーは現東海大甲府監督の村中だったのでは。
尾藤さんが親子でどうして甲子園に出れなかったのか不思議だったけど
一人息子への溺愛だったとは
>>174 翌年の選抜では準優勝してるよ。
投手は村中です。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/02 22:19 ID:M3CfnjUH
帝京の前田監督は、息子と思われるくらい似てる投手で優勝。吉岡。
冗談はさておき、育英の藤村富美男の子孫は親子鷹でベスト4だったような。
マジレスすればお孫さんはいらっしゃいます。男か女かは知らんが
別の雑誌のインタビューで、「僕は息子が大好きなんです。孫もいるん
ですがやっぱり息子の方が好きです」みたいな発言をしてた。
>>180
マジっすか?!孫は何歳だろうか まだ小さいだろうが・・。
息子のほうが好き孫よりそうなん?孫はよほど可愛くないのか?
それとも何か理由があるのか
その別の雑誌インタビューとやら見てみたいなあ。
興味あり
息子大好き=溺愛しすぎ
親子鷹ってそんなに世間は興味あるの?
孫期待age
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/02 22:42 ID:0xLB2vQC
174です。
>>177 ありがとうございました。
186 :
180:03/09/02 22:48 ID:???
本棚から探してきた(w
ベースボールマガジン社「高校野球強豪校伝説」の箕島の項の一部
「尾藤さん、息子さんがいらっしゃいましたよね。一緒のチームで監督と選手というのは
やりにくくなかったですか?」と訊くと、尾藤さんは「そんなことはなかったよ」と笑って答え
た後、こんなことを言った。
「僕はね、息子が大好きなんです。尊敬しています。息子に子供ができて、まあ、私の孫
なんだけど、今でも孫より息子の方がかわいいんですよ」
この息子とは、尾藤強さんのことである。87年に“尾藤ジュニア”として注目を集め、箕島
ではエースを務めたほどの選手だ。これほど手放しの息子礼讃に戸惑ったのは、尾藤
さんに対して「怖い監督」というイメージがいまだに残っているからだ。
ちなみに文はあの小関順二氏です(ww
小関順二ってだれ?
古関祐而ならきいたことある
尾藤ジュニア今なにしてるんやろ? 会社員かな?
親子の話飽きた?他の話しよう
次の奴に考えてもらうか?
↓ 頼んだぞ いいネタを出してくれ。
1尾藤さんと山下さん
2尾藤さんと蔦さん
3尾藤さんの未来
4尾藤さんと高嶋さん
どれにしますか(笑)?
尾藤さんの未来って 解説者として現在活躍中やろ?
他に何をしたりしているのだろうか?解説の仕事も限られてるだろうし
蔦さん蔦さんと慕って尊敬する現役の監督はたくさんいるらしいが
尾藤さんを慕って尊敬する現役の監督はいるの?
尾藤さんは球児に人気あったよなぁ。
蔦さんはそれほどでもなかったような・・・・
尾藤監督に野球を教えてもらいたいという球児がたくさんいたのかあ。
最近見てないなあ 箕島とアルファベットで書かれたユニフォーム懐かしいなあ
もし今度 箕島と星陵が甲子園で試合をするような機会があったら
山下さん燃えるだろうなあ
あの時のOBが、スタンドに勢ぞろいしそうだが
やはりあの試合で負けてから尾藤さんを尊敬したのか?
それ以前から?
テレビの取材があったら尊敬してますっていわなしゃーないぞ。
負けてからだよ
山下さんにとってあの試合はどんな風に位置づけされているのだろう?
あの試合に勝てば星陵は優勝したりしていたのだろうか?
自分が山下さんなら悔しいなあ もし今度一生のうちで
箕島とやる機会があるなら 勝利してから 一生を終えたいな
?
??
???
山下さんにとってあの試合は、己の甘さを思い知らされた一戦
だっただろう
?
そうなん?
よっぱがクダまいてるのか?
山下さんはあの一戦を糧にがんばったんだろう
どっかできいたけど星陵のエラーした奴だったか?かな
その当時の選手がその後車?の仕事かなんか販売か営業の仕事してて
客に自分はあの時失敗した奴です。みたいなことをいって
販売成績を伸ばしているというのをきいたことがある?が
山下さんの無念さは手に取るようにわかる
あの甘ちゃんぶりが松井にも微妙に影を落としているよね
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/03 00:43 ID:HWiI9y2t
あの試合のメンバーでOB戦をやったと数年前に雑誌で読んだ記憶がある。
その時、尾藤さんは「星稜には是非優勝してもらいたい。」と山下監督に
エールを送ったそうですね。
明徳の松井に対する5敬遠はむかついた
尾父さんが “まだ未練がましく監督してるのか?さっさとやめちまぇ〜”とはいえんだろ。
尾藤さん余裕のコメントやね
5敬遠されて負けた後、監督自らが「勝負してほしかった・・」とよ
甘い監督でしょ?
山下は甘い 甘すぎる 大事なとこで失敗する
もう一回ぐらい 失敗するかもしれないが
清水のトンネルを出るまで呑み続けたが、
彼は国境に近い “石打”という駅に降りた。
彼はヨーカン色のモーニングに 裾の切れた縞ズボン 茶色の靴を履き、
それに何をしこたま詰め込んだか 大きな茶色のトランクを下げていた。
OB戦どっちかったの?
あまいよ。、あまい。おおあまや。
?
甘下監督???
おおあまの山下に尊敬される尾藤さんって・・・。
人影もない山間の小駅の、
砂利の敷かれたフォームに降り立ったのは彼一人であった。
晩秋であった。
甘下監督に名前変わりました。
甘下に尊敬されたら甘党さんになっちゃうね
>>231
何の話?
この『風博士』の如き異様の人物の背景は、全山の紅葉だった。
紅葉という言葉もいかがなものか。
雄大な雑木の山々は、
坂口君のトランク色のすさまじい火災を起している様であった。
木枯しが来て、これが一斉に舞い上がったら、と私は思った。
えらいこっちゃ 甘党いやや
甘下監督は早実とか似合いそう。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/03 01:04 ID:P/YSF+w2
甘下甘下甘下!
息子も甘いのか?
甘下の甘はアマチュアの甘?
甘党かんにんやでぇ
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/03 01:06 ID:P/YSF+w2
尾藤さんのイメージにない 甘党だけはやめてくれ
>>239
納得
頭を無造作に分けた彼の顔は、河童のようであった。
彼は、長い事手を振って私を見送っていた。
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/03 01:08 ID:P/YSF+w2
甘下監督ファンはこれをみたらどう思うのだろう?
やっぱあ、甘下は尾藤や木内とは全然違うわな
尾藤や木内はアマの中のプロ
甘下はアマ中のアマ
松井は甘下を尊敬しているのか?
蔦さんは何味?
いい親爺さん程度では?
塩味
優しい監督さんなのかな> 甘下は
一見厳しい甘下さん
山下さん=甘下さん
尾藤さんと山下さんの話はこれで終わりかよ(笑)
山下さんの無念はどこに消えたのだろう?甘下さんかよ
甘い監督は采配も甘い
詰めも甘い
脇も甘い
選手にも甘病が移る
甘下さんさほど後悔してないなって今日のスレ見て思った(笑)
でも山下は親子鷹できたんだよなあ
ワキガ甘い?
ばーか
次の人またお題考えといて 寝るわ
↓
全然関係ないけど昔尾藤さんの家探しにいったことあるわ
ストーかちゃうで 有田までいったわ
age
数年前の新聞より8(終)
【腰次第でもう一度監督に】
≪水量豊かな有田川沿いにあり、上質な有田ミカンを産するミカン山を一望できる箕島
高グランドは、まさしく「尾藤野球」の道場だった。通算二十九年にわたって優しく厳しい
ノックバットを振り続け、無名の一県立高校を率いて甲子園に一時代を画した尾藤さんだ
が、平成7年秋、突然のように監督を勇退した≫
ー 腰痛が勇退の理由だったそうですが
「ええ。腰痛のため、納得のいくノックができなくなった。ノックというのは、日々の練習に
おける選手たちとの対話でもあるんです。あれこれ言わなくても『もう少しや』『よう捕った』
といったことをノックを通じて語り合える。」
ー 対話ですか
「そうです。ところが、思ったところにボールを打てなくなったのでは、選手との対話もでき
ないし、第一、伸びる可能性を持った選手たちを十分に鍛えることもできない。その年の
春ごろから『これでは選手に失礼や。できるだけ早く監督をやめるべきや』と考えるように
なりまして。」
ー ノックといえば、甲子園で名勝負を演じた星稜の山下智茂監督が有名ですね
「山下さん、すごいですよ。私より二つ若いけれど、今でも打球は速いし、実にうまいところ
に打つ。酒も飲まず、ふだんから節制してますよね。その点、私は興が乗ればとことんい
っていまうクチでしょ。その差ですかね(笑い)。」
ー 監督をやめられて、甲子園を見る目は変わりましたか
「変わりましたね。監督のころは、どうしても勝ち負けの中でしか高校野球を見ていなか
った。このチームに弱点はないか・・・といったようにね。ところが今は違う。気楽に見てい
るというか、表面的なできごとよりも、いいプレーができた過程は何だろうとかね。自分で
言うの何ですが、見方が深くなったように思います。だから一日に三試合や四試合を見て
も、苦にならなくなった。」
ー 現在は全日本アマチュア野球連盟選手強化本部委員。まだまだ高校野球とのつなが
りは続きますね
「考えてみれば、私が長くグランドに立つことができたのも、教えているつもりが逆に選手
たちに教えられ、いろいろな方々にお世話になったおかげだと思います。息子を三年間預
かってくれた島田兄弟のお父さん、ボウリングシューズを投げつけた人・・・。いろいろな方
と出会い、人間的に成長させていただいたおかげと、しみじみ感じるんですよ。」
ー まだ五十代半ば(五十六歳)。もう一度、グランドに立ってみたいという気持ちもおあり
なのでは
「正直にいえば・・・ありますね。でも、今のような腰痛ではどうにもならない。すべては、
この腰次第ですね。」
≪甲子園の優勝監督になること四回。少年たちの心を鮮やかにつかんだたぐいまれな
手腕が、大向こうをうならせる“のびのび野球”を生み出した最大の理由だった。七日に
開幕した夏の甲子園。この夏もまた、ネット裏からは尾藤さんの「野球少年が好きで好き
でたまらない」慈愛に満ちた視線が注がれている≫
= おわり
尾藤さんの腰が良くならないことを祈るばかりだ
辞めるの随分早いなあ 50代でやめるなんてなあ 木内爺なんか
72なのに・・・。 名将と呼ばれる人で一番早くにやめたかもしれないね
尾藤さん最後どんな感じだったかしらないのだが選手にどんな言葉を
最後にかけたのだろうか?現役最後の言葉知ってますか?
静かにそっとやめたという印象だけれどねえ
ひっそりと・・。 木内さんのようにはいかなかかったなあ
尾藤さんの監督としての最後の試合見た人いますか?
「バーカ、ターコ、やってらんないよ」なんて言わなかったよ
じゃあなんていったんだ?
ぶっちゃけ智弁にゃ勝てねえと、こんなカンジで降りたんでしょ?
>>270 本音はそんなところかもな。
このまま負け続けたら、名将と謳われた監督としての晩節を汚すことになる。
あああ いっちゃったよ。私学と公立は違うし、仕方ないよ
全国的にだけど
>>271
ほんとのところはそうだと思ってた。それに
このまま続けたら名将がという意見も同じ 潔く?やめたのか
智弁は平成の常勝軍団だし
高嶋長崎に帰って母校の監督引き受けないよな
奈良の天理と和歌山の箕島ならどっちを倒したほうが
甲子園に出やすいか?と高嶋は考えたときいたが
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/03 20:55 ID:vWyWM1bz
箕島のユニフォーム好き。
緑のアンダーシャツ。
Mr甲子園
広陵にユニフォーム似てなかったっけ?
似てない
ほんとは腰はさほど痛くないのか?
>>280 まあ腰が悪いのも事実なんだろうけどさ、
それは一つの側面でしかないんだろう。
腰痛は辞める理由のひとつでしかないと
>>276 それは、明訓だろ、とつっこんどく。
箕島は紺。
最近見てないなあ
箕島のユニフォーム。池田も見てないけど
もうどこの野球チーム監督もやらないのかな
個人的に尾藤さんの雑誌インタビュー記事はいつも読んでるけれど
あれは今日で最終回ですか
>>272 箕島は環境や人材集めは私立と遜色なかったよ
最後の方は県内に良からぬ噂が流れたからね・・・
事実なのか陰謀なのかは知らんが・・・
尾藤さんが腰いたいからやめるというのをもう一年だけとかいって
周りがひきとめたとかも聞いたけど?
よからぬ噂というのは?どういったこと
智弁がらみ?
和歌山県の人は尾藤さんの勇退最後をどのように思っていたのですか?
どういった情報が流れたのでしょう?
悪く言えば10みたいな言い方かもしれないけど、普通に
野球の交流を深める活動ということなのかもしれませんよ。
尾藤信者の監督さんが北海道にいてるみたいだし
いろんな噂も陰謀とかもあるのかもしれませんね
あれだけ凄い監督の最後が静かだったり陰謀やらとかでいろんな
噂が出たりとかで何か最後の終わり方が不思議だなあ
事実はどうだったのかな
気がついたら辞めてたって感じ
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/04 00:13 ID:SkeLCGDB
今年の箕島はどうなんですか?
去年は惜しかったけど・・。今年は・・・。
一年に期待
最後のあたりの話になるとあまりみんな知らないのかな?
野球詳しい人しゃべって
尾藤さんの名前、なんて読むの?
箕島が春夏連覇したのは、俺が生まれる4年前…。
尾藤公 びとうただし
最後のことが気になって寝れないよ(W
303 :
300:03/09/04 00:56 ID:0HEdVqWw
>>301 「ただし」ですか。ありがとうございます。
若いのになぜ、この掲示板にあそびに来たの?
尾藤さんのこと知ってるの?
>>304 はい。小2のときに箕島対星稜戦を知って以来、箕島信者です。
(基本的に高校野球ヲタなんですが…。)
尾藤さんのエピソードで、確かこういうのがあったはず…。
箕島が不祥事で出場停止になったとき、落ち込む部員の前で尾藤さんがノックをするふりを始め、
それをナインが捕って送球するふりをし始めた。
ボールもバットもない、空のノック練習は延々と続いた…。
いい話…(つД`)
あんまり自分と年変わらないけど自分より 詳しいね
でも詳しいのに尾藤さんの下の名前が読み方を知らないなんてね(笑)
尾藤さんの辞めたころのは話は知ってますか?
知ってたら教えて
307 :
300:03/09/04 01:27 ID:0HEdVqWw
>>306 あ〜、それは知らないです。
たぶん
>>10みたいな事でしょう。それか都市伝説。
>>286 これは、4,5年前のサンケイ新聞に載ったもので、これでおわり。
8年前の毎日新聞に載った記事もあるけど・・・。
矢風の箕島トピ読んだらいいよ
前半は詳しく振り返って書いてる人がいるから
悪い噂ってのもなんとなくわかるよ
>309
ヤフーの箕島のトピックス?ってこと
>308
8年前の毎日新聞の記事も本棚から取ってきてもらえませんか(笑)
>307
都市伝説って?
質問ばかりですいません
>310
そう。ヤフーの高校野球カテゴリの箕島トピのこと。
ヤフーをあちこち記事探してたのですがなかなかすぐには
でてきませんでした。
凄く遅れた情報ですいませんが探してて初めてメジャーの吉井って
箕島出身だったんですね。 知りませんでした。
どこの吉井って思ってたら・・。あの吉井だったとは
もう寝ます
314 :
288:03/09/04 03:06 ID:???
本人が語っている部分を抜粋しますね。
デイリースポーツ 21世紀の野球理論 尾藤公の高校野球編
総論28「レギュラーの決め方 その2」
(ベンチ入りの選手を投票で決める方法を取り入れ)
最初の5年間ぐらいは自分の名前を書かず、下級性の名前を書く上級生が多く見られ、
私も驚かされました。
(中略)
皆が納得できる、健全な投票がしばらく続いたのですが、その先は「チームのために」と
いうものがなくなったように思います。「3年間やってきたものを認めてもいいのではない
か」と考えたのか、だんだん自分の名前を書いて投票するようになった。私も「自分の
主張をしなさい」と言ってはいたのですが・・・。
1試合も出場していない選手を自分も書くし、また周りも書く。監督生活の最後の方では、
買収のようなこともあったと聞いたこともあります。それでも、彼ら自身で決めたメンバー
で戦うべきだという信念でやってきました。
後は察して下さいという他ありません。じわじわと部内の士気と選手獲得面で影響が出た
かと。
くれぐれも私は煽りや荒し目的ではありませんのでそこだけはご理解を。
>>314 なんつーか、尾藤野球って感傷的で甘ったるいな。
俺、こういう人の下では絶対にやりたくないわ。
昔の話なんかつまらん。
>>315 尾藤さんも絶対にお前を指導したくないと思う。
>>315 なんで?
基本的にはいいと思うけどな>選手の投票制度
319 :
315:03/09/04 03:36 ID:???
>>317 だろうな
>>318 こういう形でベンチ入りの人選をする人って、
詰まるところ自分でケツ持つのが嫌なだけでしょと。
最後まで責任を取る覚悟がないんじゃないかと穿ってしまうワケ。
あげく 「皆が納得できる、健全な投票がしばらく続いたのですが」 でしょ?
監督本人の中で固定されたメンバーがあるなら、堂々とそれを発表すりゃいいじゃんと。
腹の中では予定調和を望むくせに、
さも決定権は選手にあるみたいなやり方はどうなんだと。
実際問題、ベンチ入りとスタンド観戦じゃ雲泥の差だからな。
自分の名前を書きたい気持ちはよく分かるよ。
あさましい人間が多くなったんだよ。
父兄会とか盛んになってきた頃だよな。公立だとどうしても父兄が口出すから・・
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/04 04:20 ID:Kkm4DSAb
非常にむずかしい問題だわね、最終的には買収疑惑まで浮上するあたり.
3年生 「あとでアイス奢るから俺の名前書けよ」
2年生 「了解ッス!」
こんな感じでw
324 :
315:03/09/04 04:22 ID:???
>「3年間やってきたものを認めてもいいのではないか」と考えたのか、
>だんだん自分の名前を書いて投票するようになった。
こんなの当たり前だっつーの。
本心を吐露すりゃ誰だって自分の名前を書きたいよ。
最後の夏くらい試合用のユニホーム着てベンチ入りしたいのは自然の感情だろ。
それを自ら抑えて他人の名前を書けってどうゆう了見だよって話。
そこまで残酷な選択を17・8歳のガキにさせんなよと。
クソほど辛い練習に耐えさせて、それでもベンチ入りすら叶わない選手は絶対にいる。
そいつ等に心の中で詫びながら、それでも毅然と振る舞うのが監督の大切な役目だろ。
と多少興奮気味に書き込んで、寝る。
おやすみなさい
尾藤の笑顔に釣られんな
この問題は難しいね。監督が決めたほうがいいかと
選手の投票は参考程度にしといたほうが・・。 後投票の時、理由とか書いたりして
最後は監督が決めるべき
今の監督ではどんな制度とってんの?
選手が最後自分たちで決定する方法? それならいつまでたっても
甲子園でれないかもよ
箕島高校は 尾藤監督や高校野球で有名ですが、
林ますみもここの卒業生である。
70へぇ
星稜OBですが、甘下監督にはワラタ
でも、その詰めの甘いところが好きだったりする。
優勝できなくてもいい、華々しく散ってくれ(w
それはさておき、大昔NHK-BSで尾藤さんと山下さんが例の延長18回の試合の
VTRを見ながらぐだぐだとしゃべる、という番組があったのですが、御覧に
なった方いらっしゃいますでしょうか?
甘下甘下甘下
息子も甘いのかあ。
箕島って公立だろ?なんで強かったの?
どうやって選手集めたのよ
昔、平安に逝こうとしていたトンビを尾藤が口説いて和歌山に残したって話は
知ってるけど
公立=選手を集められない てのは都会の話。
田舎は私立が少ないから公立で偏差値の低いところは声をかければ集められる。
箕島は機械科があるから学区関係なく選手取れたし
上の話は、過去の成功を引っ張り過ぎた典型例ですね。
機械科マジックか。なるほど
>>331
その番組でどんなこと尾藤さんと山下さんしゃべってたの?
>>337 山下「エース小松、四番打者松井だったらウチが勝ってた」
尾藤「プッ」
他には?
>>331
普段の山下さんってどんな人ですか?
山下さんて一時期、血液型を参考にしてたりしたよね
B型は外野、キャッチャーはA型でどーたらこーたらとか・・・
ユニークな人だと思う
>>338 そんなこと言ってたっけかな?
そもそも松井が星稜入る前の放送だったような?
隠し玉のシーンで尾藤さんが
「スクイズでも何でもできる、さて何をしようか?と思っているうちに
アウトになってしまった(w。」
で、その当時の箕島サイドのスコアブックには隠し玉の箇所におおっきな文字で
「汚い隠し玉」
と書かれてましたが、尾藤さんは一言、
「隠し玉も作戦」
とさらりと答えてたような。山下さん、尾藤さんを前に若干緊張気味でしたが
基本的に飲み屋のおっさん同士の会話のような放送だった記憶があります。
山下さんの勇退の時はどんな感じだろうか?
もう一試合ぐらい伝説を勇退までにつくりそうな気がするが
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/04 23:11 ID:JTOI0ZSm
おっさん同士仲良しこよし
346 :
331:03/09/04 23:21 ID:???
私は授業(社会科)で習ってただけですが、まあ面白い先生でしたよ。
やっぱ野球好き。鈴木啓示がTVで特集されたときは
「おまいら見ろ、そして感想をカタレ」
とか(女子生徒にまで「草根」について語らせるなよ)。
また、山下監督が星稜に赴任したとき、野球部員を集めて、
「みんなで頑張って甲子園に行こう」
と言ったら部員にゲラゲラと笑われた、という話は記憶に残ってます。
名物監督が一度は受ける洗礼なんでしょうかね?
尾藤さんって監督業だけ?何か授業教えてたの?
道徳の時間が尾藤さんだったら豪華?
エピソード キボンヌ
尾藤さんは雇われ監督
教諭ではありません
給与は低いですか?
尾藤さんは箕島高校で選手だったんですよね?
そのころは、活躍してましたか?選手のとき甲子園いきましたか
351 :
尾藤:03/09/05 00:40 ID:???
エピソード キボンヌ
352 :
尾藤:03/09/05 00:43 ID:???
箕島復活キボンヌ
箕島の復活はありそうですか?
今年はどうですか?
尾藤さん 今頃何してるんだろう
>>313
掲示板とかHP見てたら、『スローカーブをもう一球』という本にぶつかりました。
その中に『カクテル光線』や江夏の21球とかおもしろそうなので
本屋に買いに行こうと思います。
313さんは読んだことありますか?
おもろないぞ、そんな本。
高校生の時、審判を殴りかけたらしいね
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \
/ ヽ
l:::::::::. |
|:::::::::: (●) (●) |
|::::::::::::::::: \___/ | 私、甘いですか・・・・
ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ 山下 \
/ ヽ
l::::::::: |
|:::::::::: (>) (<) |
|::::::::::::::::: ∪ ┌┐ ∪ | ソウデスカ…ヤッパリアマイデスカ
ヽ:::::::::::::::::::. └┘ ノ
スローカーブをもう一球に期待age
カクテル光線はまだ彼らの心の中にある。というフレーズが好きだ。
おもろないぞ、その本
今日本屋で山際さんの本買ってきました。
山下さんが 宇治金時のアイスキャンディをしゃぶってて二回戦は
宇治高校やと思いついたと書いてたのは笑えました。
インタビュー記事も入ってて描写が隅々まで書かれていたので
ゲームを見たことのない人間でも目の前にその風景があらわれるような
感じでした。
特に印象に残ったのは、星陵の堅田投手のグランドが妙に白く見えるんですよね
その時終わったんだなあって。すべてが終わったのに夏がまだ続いてるのが
嫌だったという言葉が何ともあの試合を経験しないとでてこない言葉だなあ
って余韻が残りました。
ファウルフライを落とした人が弁解といったら言葉がおかしいけれど
負けたチームが本の中で本音で話せたことはよかったと思いました。
あれは勝った箕島の試合だとゲームを見たことのない自分は思ってましたが
星陵の堅田投手のほうが負のヒーロなんですかね?
江夏は脂ギトギト
?
まだこのスレ続いてたのか?何かきわどいな(w
石渡がへったぴぃなだけwww
高校生ならスクイズきめていたよん。
堅田今年の決勝戦主審してたよな
江夏 江夏 江夏
脂 脂 脂
ネタ切れか?(w
つーか、あのころの箕島人気は異質やったとおもう。
公立校やったし、毎年そこそこ強かったし。
木内の常総とは格が違うとおもうな。
箕島って今の現在活躍してる学校でいったらどこのチームみたいな
学校ですか?
あんまり公立ってのは関係ないよ
昔は公立の強豪が当たり前に存在してたもん
専用グラウンドもあるし選手集めもするし
どれぐらい強かったですか?明徳とか智弁とかぐらい?
春夏連覇してない明徳や智和歌とは比べ物にはならんだろ。。
>>374 公立の強豪で春夏連覇したとこあるのか?氏ね!
箕島は、甲子園決勝では、負けたことなし。
明徳より強いってかなり強いね。昔の学校は何か迫力ある感じする
名前聞いただけで強そう
しかし昔の話ですね。。淋しぃが
昔は雑誌やテレビとかで人気ありましたか?
先の話はしようがないからな。過去にあるだけまし。
今の東北とかみたいに人気あった?ダルビッシュとかみたいに
もう甲子園に箕島高校は出てこないのですか?
甲子園通算成績
勝率 勝敗 優勝 準優勝
1 PL学園(大阪)・・・・・ .778 91勝26敗 7 4
2 箕島(和歌山)・・・・・・ .761 35勝11敗 4 0
3 池田(徳島)・・・・・・・・ .759 41勝13敗 3 2
4 中京大中京(愛知)・・ .745 117勝40敗 10 4
5 智弁和歌山(和歌山) .722 39勝15敗 3 3
6 常総学院(茨城)・・・・ .711 32勝13敗 2 2
7 横浜(神奈川)・・・・・・ .709 39勝16敗 4 1
8 松山商(愛媛)・・・・・・ .696 80勝35敗 7 4
9 帝京(東京)・・・・・・・・ .691 38勝17敗 3 2
10 報徳学園(兵庫) ・・・ .681 45勝21敗 3 0
チーム自体の人気はファン層が広かった。
ダルのように個々の選手に人気というようなチームではなく、
箕島そのものが人気あった。今年の雪谷のように出るだけで人気。。
東北はまだそのレベルじゃないとおもう。
昔強すぎたから今出てこないの?
甲子園出てこないとなかなかスレ続かないのでは
今弱いからでてこないの。
だあろうな フン
最近は大阪からもこなくなったしなぁ
木の葉が沈み石が浮くのが高校野球
残念ですね スローカーブをもう一球という本を私も今度読んでみよっかなあ。
気になりました。
どうかな。あのような本を読むと本質的な野球の面白味が
失せるような気がする、うまく云えないけど・・・
どんなあらすじですか?
木の葉が沈み石が浮く????????
意味わかんねぇ〜
>>397 実力どおりの結果にならないということでしょう。
江夏の35球とかあったなwくだらねーから忘れちまった。
読むなら大和球士の真説日本野球史を明治期からよんだほうがいい。
>>398 そーなんだぁ。。なんとなくわかる気がしてきました。
深い言葉だなぁ
ええええーーーー
そうですか?スローカーブをもう一球は否定派の人ばかり?
否定派云々じゃなくて読むに足らないってこと。
近藤正之のほうがまだまし。
でも人気本でしょ?
木の葉と石のたとえはよかった。
二宮にしても山際にしてもくだらねー文ばっか書きやがって。
そっそそっそそんなに怒らんといて!
普通に面白いだろ。
野球ファンなら必読。
人気があるってことは素人向きってこと。。
あれ以来バカなライターが変な文書き出した。
くっだらねーーーーーー。死ねってかんじだよって、、もう死んだな。
とりあえず読んでみることにします。どういう本なのか
更に興味を持ってしまいました。
確かに必読かもしれんが、中学生までによんでおくもんだw
海老沢泰久?とかの堀内の本とかのほうがおもしろかった。
坊ちゃんとかは読んでるよ。川端康成とかも
まず、映画の英霊たちの応援歌を見るのが先だろ!!w
三四郎はこないだまで新聞に連載されてた。
どうして名古屋駅で女と同じ宿にとまったのにやらなかったのか疑問。。
?
坊ちゃんって野球のはなし?
何がおすすめなのかようわからんようになってきた
基本はツーダンフルベースだろw
尾藤さんとかかわりのある本みたいなのでおすすめありますか?
ない
原点に戻ってとりあえずあの本よんでみます。
___________________________
終了
_______________________________________
開始
あの本ってなんだよ?大島信雄署の野球ルールの本?
内緒
あの本って?赤尾好夫のマメタン?
そろそろ終りですね。
今回このスレで今更箕島、今更尾藤さんと思ってる人が多かったようです。
すべては過去の話だから・・・。月日は流れ、知らない人が増え、スレも途切れ
途切れ、昔は昔 今は今 昔のことを今聞かれてもピンとこないのでしょうかね
寂しい気がしました。特にこのスレもあまり盛り上がることもなく、ネタもなく
そんなこんなでここまできました。
尾藤さんが好きな人って少ないのでしょうかね?
だって強かった頃なんか子供すぎて知らないし。
つよかったな、箕島
坊ちゃんって野球のはなし?
ううん違うよ。夏目漱石だけど
中学時代に読んだ本聞かれたから書いただけ
>>427 俺の少年時代のヒーローは尾藤さんだったよ。特に昭和54年の箕島は、尾藤さんを中心と
した神のチームだった。
やっぱり甲子園に復活して強い箕島を全国に知らせて欲しい
そして新たなファン拡大をして、今現在知らない世代達にも
箕島の名前を知ってもらおう。個人的にもう一花どんな形でも
いいから尾藤さんに咲かせてもらいたいと思う。
このままで終わってしまうのは非常に残念だ。
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/07 16:27 ID:Gk3jBAG1
尾藤さんはいいんだけど、復活しても終身名誉監督ぐらいにしておいて
もっと若い人で次の世代をつくっていくべきでしょう。
高校野球は監督の交代で凋落する高校がほとんどである。
その情勢の中で中京大中京、平安、松山商、広陵、徳島商あたりは
昔も今も強いがどうやってその監督交代を乗り越えているのだろうか?
そのシステムを構築しないときっとまた同じことの繰り返しになる。
松山商、平安は昭和50年代は苦労してたぞ。。
昔強くて有名な監督が辞めてその後新しい若い監督で成功してる
学校ありますか?
平安やろなぁ、、、
広陵の中井や平安の原田。
OBのネットワークもあるけど結局は
監督の指導力や情熱で選手が集まってくる。
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/07 16:48 ID:Gk3jBAG1
松山商や平安みたいになれるのかこのまま凋落していくのか、
箕島は今その試練の時期ってことですね。
後援会とか、学校がうるさいときついかもな。。
尾父さんをおろしたとこやから、あさましい香具師がおおいんじゃねーのか?
>>436 箕島と同時期に活躍した高校でいえば、東洋大姫路が挙げられる。
梅谷監督時代は甲子園に出れば、ベスト4、優勝などの好成績を収めていた。
梅谷監督勇退後、井上監督に代わってから、兵庫県でも初戦敗退など含め10年
位低迷していた。
しかし現在の藤田監督就任後、今春はアンを擁してベスト4など序々に復活傾向
にある。またいい選手も集まる傾向にある。
監督次第で栄枯盛衰がくっきりしている。
8年前、毎日新聞の夕刊に載った特集から
「尾藤公の世界」@
《和歌山県立箕島高校野球部監督の尾藤公監督(52)が、この夏、勇退した。
ミカンと農業の地方都市で、母校野球部を率いて二十九年。甲子園では、春夏連覇
を含めて四度優勝した。ピンチにも絶やさぬ「尾藤スマイル」が「のびのび野球」を生
み、高校野球の歴史に一時代を築いた名物監督だった。》
「29年間、短かったけど1年1年があっという間。あっ、あっ、が29回、という感じです。
甲子園へは、今年の夏もテレビ中継の解説で行ったのですが、アナウンサーに『箕島
高校の前監督』と紹介されて、『そうか。わいは、辞めたんやなぁ』と。会う人たちから、
『目が優しくなった』としきりに言われたけど、どうですかねえ。巨人の長嶋(茂雄)さん
にあこがれて野球を始めたんですが、僕にとって『甲子園というところは、どこか長嶋
さんに似ているなあ』なんて、ふと思った。永遠のあこがれ、という意味で。
ー 退任を決意した最大の理由は何ですか。
「腰痛がひどいんです。普通の生活には差し支えないが、自分で納得のいくノックが
打てなくなった。高校野球の監督は毎日練習でノックするでしょ。それによって選手と
対話しているんです。いちいちあれこれ言わない。きわどいところに打って『もっと頑張
れ』と励ましたり、『よう捕れた』と褒めたり。
昔は外野に直径1メートルの円を書いて、そこを狙えばほぼ100%打てた。ここ数年
は、ゴムのチューブを腰に巻きつけたりして痛みをこらえていたのですが、今年なんか、
百本のうち、満足いくのは2、3本ですよ。
これでは伸びる可能性のある選手を十分に鍛えられない。むろん対話もできない。
選手に迷惑をかけるわけで『もう、やめないかんな』と決心した。和歌山大会の前でした。
ノックといえば、星稜の山下(智茂)監督です。僕より学年で二つ下かな。相変わらず
うまい。しかも、速い。練習試合で箕島に来たとき、打ってもらいましたが、うちの選手た
ちは10分ほどでヘバってしまった。今年も甲子園の試合前のノックを見ていて、うらや
ましかった。今、僕もあれくらい打てたらなあ、と。」
ー 退任前の準備は?
「突然放り出すわけにはいきませんから、新監督になった教え子の松下(博紀)君に、
野球部長として数年前から勉強してもらっていた。例えば、ダブルヘッダーの練習試合
では、相手に断った上で、二試合目の指揮は彼がとるとか。
この春、広島商とも組んでもらいました。かつて、僕がめざした緻密な野球を肌で
感じてほしかった。広島商監督の金光(興二)君は、昔と変らぬ野球をやってくれました。
この夏、やはり退任しましたが…。」
ー 最後の夏、和歌山大会の準決勝で高野山に敗れ、どんな気持ちでしたか。
「甲子園に出場して辞めることができるかな、と思わないでもなかった。ところが高野山
の投手の緩い球が打てない。対策を教えていなかった。今年はそこまで手が回らなか
った。練習でやっていないことを試合でできるはずがない。
仕方ないか、と思いました。退任を発表させてもらったのは8月4日でした。
今年は仙台育英の竹田(利秋)さんも辞めた。節目の年なのかも知れませんね。
職探しをしなきゃいかんのですが、具体的な話となると、まだ進んでいないですね。」
ー この夏、甲子園で、いろいろな思い出が去来したのではありませんか。
「一塁側にファールフライが上がれば、あの星稜戦の延長16回、ファールフライを
追った星稜の一塁手が、人工芝に足をとられて倒れたことを思い出しました。
決勝にはその星稜が満身創痍で進出してきた。解説中に星稜の打者が死球を
受けたときには、『もう、これ以上、選手を傷つけないでほしい』と思わず叫んでしま
いましたよ。
監督をしていたころはプレーそのものにしか注目していませんでしたけど、今年は、
ボールボーイとか裏方さんに目が行きましたね。」
確かにうまかった。尾藤さんのノックは。
緩急あって、、、卓球みてーだなっておもった。
復活を目指して頑張っている高校は尾藤さんと縁が深い2ちゃんでも某スレ
で復活を目指す池田高校。PLも今年久しぶり?に出てましたよね。
天理も久しぶり?だったような復活してますよね・・・。奈良の智弁も昔に比べたら
あんまりでなくなったかな?
平安は服部くんで大復活ですね
>>443 教え子の松下くんに新監督とこのインタビュー記事には書いてますが
途中で箕島高校の新監督は松下さんから児島監督にかわったのでしょうか?
かつて甲子園の強豪校として名を馳せながら、甲子園から遠ざかっている箕島高校野球部。
今季に入ってから新人戦、秋季近畿地区大会県予選でいずれも準優勝し、
近畿大会にも9年ぶりに出場した。同大会はでは1勝して8強進出。
同県対決となった2日の準々決勝で智弁和歌山に4―7で逆転負け、
上位進出はならなかった。それでも、その粘り強い戦いぶりは、
内外に「箕島復活」を印象付けた。
観戦に訪れた尾藤元監督は「選手は自信を持ってやっているし
児嶋監督もよくやっている。もう児嶋のチームだよ」と監督と
選手への信頼を語り、児嶋監督は「経験不足が出た」と悔しそ
うな表情を見せたが、「明日からまた練習です。甲子園に行け
るだけのチームになってもらわないと」と話すその姿には、甲
子園への揺るぎない思いを感じさせた。
>>446 詳しい時期は分からないが、
2000年の夏までは、松下監督、
2001年の夏からは、児島監督。
変わった理由が知りたい。松下さんと児島監督は
指導者としてどうですか?
今度は児島監督で甲子園目指そう!!
98年夏の出場辞退が関係あるんでは
下級生への暴行でイメージ下がったし
あのあと99、00年はかなり弱くなった憶えがある
今度は出場辞退とか不祥事とかそういうのなくして
出てほしい。とりあえず甲子園は近づいてきてるのかあ
去年もあと少しやったのに
今年の秋のゲームでこないだ残念だったよね
新チームは春と夏目指すことはできそうですか?
箕島高校復活に足りないものは????
ズバリ・・
箕島高校復活に足りないものは????
難しいなあ
何?
森山直太郎
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/07 22:50 ID:LhDI5oiY
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/07 23:53 ID:LkI8LQ5/
だから監督だよ監督。その児島監督の成長に期待するしかないじゃん。
尾藤さんのノウハウ全て吸収+自分らしさでいいんじゃない。
若い監督と熟練の監督さんとでは甲子園目指すとき選手にとって
どうなんだろう? 影響や違いはあるのかな
児島監督も尾藤さんの教え子?
野球部ってどこでも不祥事ってあるんやな
どこでも は言いすぎ
尾藤→松下→児島
偉大な人の後だとプレッシャー大きいな
「尾藤公の世界」A
ー 一番の思い出の試合はやはり星稜戦ですか。
「そう、あの16年前の試合が一番。次にはすぐに思い浮かばない。あれほど選手
と気持ちが通じ合った試合はない。延長12回、星稜に1点を入れられ、その裏2ア
ウト。実は、試合後の取材にどう答えたらいいかな、とベンチで考えていた。
すると嶋田宗彦が『監督、ホームラン狙ってもいいですか』と言い出した。普通なら
『何を言うんだ。センター中心に打ち返せ』と叱ったでしょう。でも、『よし、狙ってこい』
と送り出したんです。
打席に向かう後ろ姿を見ながら、あっ、と思いましたね。僕が試合をあきらめかけ
ている、と選手は感じたんですよ。嶋田は、それじゃいかん、という意味を込めてあん
なことを言ってくれた。大ぼらとも取れるような言葉でね。その嶋田が言葉通りホーム
ランを打って同点。甲子園では選手に教えられることがいかに多いか。」
ー その晩、宿舎で、『わいはおまんらと野球ができてうれしい』と男泣きしたのもそん
な思いですかね。
「あの時の投手石井にも教えられることが多かった。卒業式寸前、記者の方が『春夏
連覇もでき、いい高校野球生活だったね』と聞いたら、こう答えたというんですよ。
『三年間、うれしいことなんてなかった』と。
早起きして近所の神社の石段で足腰の強化をする。昼間は皆と一緒の練習内容を
こなし、自宅に戻れば腕の力の強化のための軒先から下げたロープを上がる。ふろ
に入ることさえ、筋肉を柔らかくするトレーニングだった。そういう三年間だったわけです。
本当の根性というのはこういうことか、と悟らされました。試合で激しいスライディングを
するとか、ゴロを飛びこんで捕る、というのは一瞬の根性です。黙々と、誰にも指示され
るのでもなく、自分に課して続ける。すごいことです。」
ー 春夏連覇につながる深い意味を持つ試合でしたね
「高校生にとって、選抜で優勝し、もう1度、選手権で優勝するのは大変なこと。たとえ
力はあっても、気持ちをピークにもっていくのが難しい。
連覇のチームは和歌山大会の初戦で、正田(耕三=現広島)のいた市和歌山商に
1−0で苦しんで勝って、気持ちが引き締まった。チーム力は東尾(修=西武監督)の
時の方が上だと思う。あの時はよく言えば個性的。まあ、選手の意思はバラバラだった。
僕も若かった。今でも連覇のチームほ『強い』とは思わないけど、主将の上野山(善久)
を中心に『負けにくいチーム』でした。」
ー 逆に、敗れた試合で印象深いのは。
「84年(第66回選手権大会)の取手二(茨城)との試合。常総学院を率いておられる
木内(幸男)さんが監督でした。七回まで3−0でリードしながら八回に5点取られた。
甲子園で逆転勝ちはあっても逆転負けの記憶はあまりなかった。夏はあれが最後の
甲子園でした。
翌年、阪神にドラフト一位で入団した嶋田弟(章弘)が先発で、八回に捕まった。
やはりドラフト一位で広島へ入った杉本(征使)をレフトから急きょ、登板させたんですが、
打たれた。普段なら、八回の頭から、杉本に交代させているところです。監督に迷いが
あるといかんな、と思い知らされました。」
《星稜・山下智茂監督の話》
「尾藤さんとは対照的に、僕はこわもてでしょ。尾藤さんの写真を張って、鏡で見比べ
ながら笑顔の練習をしましたよ。心の底から笑えるようになったのは、つい最近です。
尾藤さんの笑顔は生徒への愛情の表われなんだ、とわかった。この夏の大会後、
それを尾藤さんに話したら、『お前、今度こそ全国優勝できる。頑張れ』って。」
《嶋田宗彦さんの話》
「尾藤さんは大先輩であり、師匠でもあった。野球のことから私生活まで、適切なアドバ
イスを受けた。頭の切り替えが非常に早くて、監督に向いていたと思います。春夏連覇
した時の宿舎でミーティングで『センターポールに校旗が揚がる、と思って寝ろ』と決まっ
て話した。あの言葉が忘れられません。」
age
「尾藤公の世界」B
ー 日ごろ、「箕島だから監督がやれた」とおっしゃっていますね。
「学校のある有田市は、ミカンと漁業の町です。ミカン農家は年に一回の収穫のために、
黙々と手入れを続ける。実に忍耐強い。1979年に甲子園で春夏連覇したときのメンバ
ーでいえば、投手の石井が(毅)がミカン農家の出です。
一方で辰ケ浜という漁師町がある。気性は荒い。『板子一枚下は地獄』という言葉があ
りますが、瞬時の判断ができなくては命にもかかわる。捕手の嶋田(宗彦)はそこの出身。
辛抱強い投手に強気の捕手、と対照的でした。
主将の上野山は(善久)はサラリーマンの家ですが、これはチームを取りまとめるのが
得意だった。
箕島の校歌の歌い出しに『冬吹き止まぬ西の風』とあるんです。和歌山というと暖かい
イメージがあるでしょうが、冬になると、学校に近い有田川の川風がとても冷たい。だか
らこそ『凛冽の意気』が養われる。校歌にあるこの言葉、好きだなぁ。
実はほかの学校からも何度か誘われました。『一億円だすから九州で監督を』と言われ
たこともあるけど、箕島で、と断わったんです。」
ー 監督就任は二十三歳でしたね。
「高校で三年間お世話になったから、その恩返しのつもりだった。進学した近大は一年
で中退しました。両親が離婚したり、僕も腰を悪くしたりで、野球ができないのなら、とね。
親類の紹介で銀行に入ったんです。まあ、仕事は早々と片付けて、週に三度は和歌山
や湯浅の支店からスクーターで練習の手伝いに通っていたんです。
貸し借りの利ざやで給料をもらっているとわかっていても、何かねえ。自分でものを作
りたかった。高校野球の監督は多感な子供たちを染めていける。やりがいがあると思い
ました。
で、昼間は、先輩の経営している米屋で配達の仕事をして、午後からは監督、という
生活に変りました。四万円くらいだった月給が六、七千円に減ったけど、カネには換え
られないものがありました。独身だったし、だめなら人生やり直しもきく、と思っていた。
最初は本当に三年のつもりだったんです。東尾(修=西武監督)との出会いが人生を
変えた。こんなに長く監督をやるとは…。」
「監督としては、高校一、二年で教わった成瀬(修)先生と、三年の時の吉川(嘉造)先生
(現和歌山県高野連理事長)のやり方が土台です。高松商、松山商、徳島商、土佐など
の四国の野球と広島商の野球、それに大阪の野球をミックスすれば強いチームができ
る、というイメージはありました。
近大をやめて帰ってきたのだから、自分には足りないものが多い、という気持ちは強か
った。だから、チームドクターを務めてくれた内科医の楠本(博一)先生をはじめ、いろん
な意見を聞いて試してみよう、と考えた。効果がなければやめればいい、と割り切ってい
ました。」
ー 「尾藤スマイル」と言われた笑顔はどのようにして生まれたのでしょう
「あれは島本(講平、元近鉄)がいて七〇年の選抜大会で初優勝したときのことです。
初戦で東海大相模(神奈川)と当たり、中盤、同点にされた。急造の捕手だった。追加点
のピンチを切り抜けてベンチに戻ったとき、思わず笑顔で迎えたんです。そうしたら、だ
れかが、『いつもそんな笑顔でいてくれたら、僕らはやりやすいです』と言い出した。よし、
おまんらがそういうなら、いくらでも笑ってやる、と。それが始まりです。
当時はユニホームを着て白い歯を見せるということ自体、タブー視されていた。批判の
手紙もずいぶんいただきました。それにしても、笑ってくれといわれて、そう笑えるもので
はなく、鏡を前に一人で練習したものです。『あ、まだ目が引きつっているな』とかね。」
《吉川嘉造さんの話》
「尾藤君は和歌山県内で屈指の好捕手で、阪神からも誘いがあった。でも体が小さかっ
たから、私の一存でプロ入りを断わって近大へ入れたんです。指導者として成功した理由
は、人間的な優しさだ。家庭的には恵まれているとはいえなくて、肩身の狭い思いをしたこ
ともあったろう。人の心の痛みがわかるんだね。」
私立にうつってたらもっと長く続けてたかもしれない。
箕島にこだわりすぎた?
でも箕島だから監督は続けることができたんやろ
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/09 23:09 ID:CWIwbh4x
もう一度見たいね、尾藤スマイル
昔の選手への指導法と今の生徒には合わなかったら勝てなかったのかな?
尾藤スマイルはもう見れないよ
解説席以外では
公立辞めて私立にうつり木内さんみたいな年までやってたら
また尾藤さんの監督人生も変わってたのかな
変わってたね(w
482 :
尾藤:03/09/10 00:40 ID:???
箕島復活はなかなか厳しいな
わいは おまいらと野球ができてうれしい
「尾藤公の世界」C
ー この夏の甲子園では伝令を頻繁に送る監督が目立ちました。
「守備の時に伝令を飛ばすのは過保護です。自分たちで考える訓練をしておかないと。
間合いは捕手が取ればいい。その点、今年の星稜はよく鍛えてあった。
僕がじっと座っていたのは、うろうろする姿を見せたくなかったためです。だから腕組み
していた。立てば歩き回ったでしょうね。神経質な方だけど大胆、豪放磊落に見られたい
から、努めてそう振る舞ってきた。」
ー 指導法は変りましたか。
「最初は選手との年齢差が兄弟くらいだったから、身持ちも考えもほとんど一緒だった。
それが親子ほどになり、今年など、教え子の子を七人も預かった。今だから話すけど、
昔は手を上げることもありました。しかし、自分に子供が生まれてからは、簡単に手を
出せなくなった。我が子をいとおしいように、この子たちにも両親がいて、宝物だと思っ
ている。そう感じるようになったんです。
一人息子(26)も箕島の選手でしたが、こいつを甲子園に連れて行けなかったのが
残念。二、三年のとき、和歌山大会の決勝、準決勝で負けたんです。多くのことを学べ
る場に一緒に行きたかった。それはともかく、昔は「わいが甲子園に連れてったる」とい
う気分だったが、後には『選手に連れていってもらう』になりましたね。好きな言葉は若い
ころは『闘魂』だったけど、最近は『平常心』。」
ー 生徒の気質は変わってきましたね。
「それは痛感する。昔は選手を叱るとき、『もう帰る』と言って、僕がノックバットを放り
出すと、その選手が『帰らんでください』と足にしがみついてきた。今は『帰れ』と言うと、
ほかの選手が『可哀相だ』と一緒に帰ってしまう。『厳しさ五分、優しさも五分の人間に
なれ』なんて言ってたけれど、今は『優しさ八分』かなあ。五度やめて六度入部する子
もいたのに、このごろは退部した子が廊下ですれ違っても顔を背ける。寂しいですよ。
テレビゲームの影響があるのかも知れない。失敗してもすぐリセットできるでしょ、あ
れは。ノックしていて、軽くさばいてそらした選手に『もう、いっちょう』なんて簡単に言わ
れるとね。『監督なんてノックマシンくらいにしか考えてへんのかな』なんて思ったりしま
すよ。
そうは言っても、女房と話したんです。『監督やってカネは残らんやったけど、教え子
が家まで訪ねてくれる。それが一番の財産や』って。
ー これからの高校野球はどうなると思いますか。
「日本高校野球連盟の会長をつとめて亡くなられた佐伯達夫さんの言葉に『高校野球
の心はバントの中にある』というのがあるんです。最近、その意味が少し理解できた気
がする。自分を犠牲にして走者を進め、次の打者にチャンスを託す。そりゃあ誰だって
思いきり打ちたいですよ。その気持ちを抑える。バントの心を、高校野球はずっと大切
にしていってほしい。
勝つために何をしてもいい、という高校野球はわからない。むしろ負けて覚えることさ
えあると思う。
監督生活で僕を支えてきたのは負けん気だけど、『恥をかきたくない』という思いもあ
るんです。負けることも恥だけど男として卑怯なことをするのはもっと恥。だから隠し球
と逆モーションのけん制は教えた事がないし、敬遠も指示したこともない。高校野球は
男を磨く場だから。
高校野球が衰退するときですか?県外から集まった選手が増えて、郷土意識とかけ
はなれたチームばかりになったときかなあ。」
ー おわり ー
尾藤さんは昔の古い時代の気質の監督さんなんですね
今の子への指導法が合わなくて勝てなくなってしまったのか
>>486 考え方が古いといえば古いが、現状把握はできてるよね。
心を鬼にしないと監督はダメだよ尾藤さん後半は優しすぎた?
選手の親父になったらだめだよ
尾藤さんの言葉どおり高校野球は今後更に衰退していくのか?
古いタイプの監督さんだよね。
早めにやめてよかったのかも・・・。
でもこの人ブローカみたいなことをしてたのでしょ?
ガキが終わったらそれで終わりなんだよ
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/11 20:52 ID:ys+5kySm
>>495
詳しく教えて。今は解説者としての仕事をしてるのとちがうんか
解説者って春と夏の数日ぐらいしか依頼ないだろ・・・・・
少年野球とかは教えたりはしてないのか?
ブローカが裏の顔なのか?
あの尾藤さんがブローカ信じられないな
尾藤さんは、どこかの高校でコーチをやってるって何かの本に書いてあったよ。
今現在コーチやってんの?監督をやらずに
何か疑問が残る。辞めた理由は腰が悪くノックが出来ないというけれど
やっぱり・・・。
北海道のコーチとか?
うろ覚えでスマソだが、確か新潟の高校だったと思う。
なんで新潟? 郷土意識が残ってるから?
それとも新潟に尾藤信者の監督がいるからか?
どうして突然やめたのだろうか
>>504 なにぶん二年前に一回読んだだけなので、その本を探してみたが、どうしても見つからない。
俺もその時、何で新潟なのかと思ったが、多分臨時コーチではないかなと。と言うのも、元PL
の中村氏(現名商大監督)もどこかの高校で臨時コーチか何かやってて、尾藤さんはそれをきいて
「何か競争させられてるみたいで、嫌だね。」と言ってたのを記憶している。
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/12 00:44 ID:q1XVhfeC
北海道のとある高校に関西の選手を送り込んでるのは誰だ?・・・・
新潟の五条とかだったかな?
佐竹が山県、鍛冶舎が岐阜のアドバイザーしてるようなもんだろ。
>>508 そう、五条だか五泉だか・・・とにかく五が付く名前だった。
ブローカーを他の監督さんでやってる人とかいますか
少年野球のコーチとか本業にしてほしかったけれど
お金の問題でブローカの仕事をしているの?
谷脇さんも北海道の学校のコーチしてるな。
尾父さんは文化人だぞ。講演活動で食ってるんだよ。
>>485を読んで違和感を覚えるのは俺だけかな。
俺だけなんだろうな。
>>515 やっぱそうかw
でも、
自分の求心力の枯渇をいまの子供の気質に責任転嫁するのはどうかと思うなあ。
今も昔も付いてくるヤツは付いてくるし、イヤになったら辞めちゃうヤツはいるんだよ。
多少の違いはあるかも知れないけど、選手の気質がそれほど劇的に変わったとは思えない。
尾藤さん、アンタちょっと卑怯じゃありませんかと。
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/12 13:14 ID:7sI1d9Sq
でも野球が変わったのは事実だぞ
>>517 野球が変わったのは事実だね。
松井の5打席連続敬遠あたりがその象徴かと。
アレを境にピッチャーは堂々と逃げるようになった。良くも悪くも、ね。
格好つけすぎ、理想を求めすぎ、甲子園なんかムリ
選手気質はかわったよ。越境してくる奴らが多い学校はともかく、
公立では腰抜けばっか
選手の気質が変わっても木内監督は優勝までやってのけたし、
選手をうまくあやつった。尾藤さんにはできなかったのか?
それとも尾藤さん自身の人間性の部分でそれをすることが
できなかったのか
公演活動といったって月に数回あればいい方だろ?
それで食べていけるのか?
公演活動が一番ボロいんだよ。
殊更教育関係者のオファーは多い、元高校野球監督の肩書きは旨みがあるんだよ。
尾藤さんクラスなら最低でも80万(1公演)は固い。
今やちょっとした小金持ち、間違い無い。
今でもどっかのコーチを続けてるのか?
公演とか取材とかってやめてすぐのころや2、3年はマスコミ
とか公演とか多そうだがそこから後は減少していきそうだから
小金もちか?
尾藤監督は理想求めすぎ 時代遅れ
尾藤さんか懐かしい名前やな自分の青春時代を思い出すよ。
暇な奴語ろうぜ
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/13 00:49 ID:HdXXA9s2
確かに皆の言うとおり、時代に遅れてしまったね。
会社の経営と似ているよ。20年前と同じことをやっていても誰もついてこない。
変革すべきところ、伝統として受け継ぐところを識別しなくてはね。
それと選手との年齢差の話も違うな。それは521の言うとおり。
箕島復活には全てを壊してもう一度作るぐらいしないとダメかもしれない。
是非、頑張って復活して欲しい。
理想を追い求めすぎたよ。甲子園に出たいのなら改革すべき
このおいさんの心に闘志を燃やさないとでれない
平常心という言葉は引退した人間の言う言葉だよ。
甲子園から遠ざかった頃から闘志がだんだん薄れていったのではないか
勝負師ではなくなったのではないか
植草さんの事務所が尾藤さんの講演等のプロデュースしてたけどね。(今は知らない)
ところでいつから高校野球は衰退していったんだ?
何が原因で観客が減りテレビ局が中継を減らすことになったんだ?
大震災のころから客減ったよね?
Jリーグブームあたりからじゃないの
和歌山はサッカーなんて関係ないけどな
サッカーの人気が野球人気をつぶしたとは考えられないが
観客が入らなくなって不人気になった理由が知りたい
サッカーだけでなくスポーツが多様化したんだよ、10年くらい前から。
昔みたいに野球一辺倒ではなくなったのは確か。
高校野球の魅力が低下した原因は?
>>537 野球の魅力が低下したんじゃなくて
それに魅力を感じる人が減ったんだよ
植草の本にも尾藤、箕島、箕島ー星稜
の試合について書かれてるぞ。
もっとも、その本的には「私(植草)は全くの偶然で星稜が話題になった
試合を担当した事が多い」
として星稜の話題が多かったけどな
一番人気のあるスポーツが昔は野球だったけど
今は一番人気は何
プロ野球より高校野球のほうが全然好きだけど
542 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/13 08:44 ID:gzW1pG36
しばらく興味なかったけれど98年の松坂の時からまた見るようになった。
そういう人、多いのでは。今年も結構盛り上がってたじゃない。
やはり、高校生は 野球>>サッカーじゃないか。NHKが全試合中継する
というのは国民的スポーツと言っているし、注目度が違うよ。
高校生は普通にサッカー>>野球です。
もちろん所属する高校が毎年甲子園を狙えるほどの強豪校であれば
話は別ですが。関係ないところからすれば高校野球の人気なんてほとんど
ないに等しいです。
好きなプロスポーツという観点からでもおそらく
サッカー日本代表戦>>>>Jリーグ≒プロ野球という感じでしょう。
サッカーてワールドカップの時だけだよ。
Jリーグ人気ないよ プロ野球の方が人気あるだろ
>>544 実際似たようなものです。
ワールドカップの時だけというのは明らかに間違ってます。
野球の低迷かあ悲しいな
この人、どこから給料貰って生活してたの?
この人よわばれかよ
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/13 13:36 ID:NvqhO7rM
>>547 監督時代は、その傍ら地元の会社役員でもあった。
ただし、名前のみで会社経営自体には深く関与していなかった。
あくまでも「箕島高校で監督を行う」という条件付きでの雇用だったらしい。
>>549 その会社が給料を肩代わりしてたってことですかね
アロチの帝王
アロチって何?
和歌山市の歓楽街
尾藤さんにあんまりそんなイメージないなあ
雇われ監督なんかどこも後援会が負担はしてるとおもうよ。
なんか、タダの俗物みたいだね>尾灯さん
蔦さんだってもらってたからな。
教師の月給の2倍が相場だよ。
ヤフトピにはよくない噂話もあったね
>558
どんな噂?
>559
13、305あたり
余韻浸りながら阪神優勝age
なぜかよくない噂やそんな話ばかり
いい話はないのか?
引退した監督で一番人気は蔦さんで次は尾藤さん?
過去の人ですかね。淋しいな
>564
もう辞めてしまったのだから過去の人です。
亡くなった蔦さんに辞めた中村さんも木内さんも
過去の人です。
高校野球の監督さんにはもう尾藤さんはならないのですよね?
蔦さんの次は尾藤さんなんでしょうか?名将ということになると?
今年の箕島はどうですか?
私たちの会社はN県のSさんをうまくだまし200万円ゲット
東京の渋谷にある会社。フリーダイヤル0120884851
age
うわーだれもいなくなっちゃったよ
(tt)
おまけに秋まけたんだよね
残念ながら負けました。夏へ期待します
age
過去の話ばかりだね。
過去の話はまだ続くの
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/24 19:38 ID:0jLOjW+a
このスレは尾藤監督の「思い出」を語るスレです。
>>577 thanks
思い出だから過去なんです。当たり前ですが
age
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/09/30 00:39 ID:N9Aj7v2n
尾藤公元監督 蔦さんを語る発見↓
これが近年の高校野球がスクイズ野球からパワー野球に変わった転換点ということか。
htt://www.topics.or.jp/Tokushu/tuta/kataru.html
-------------------------------------
蔦さんとの対戦は、七九年夏の決勝戦が初めてだった。初回、池田が長打で先制し、
四回には本塁打で追加点。グイグイと攻めてくる迫力に、春の覇者は押されっぱなし。
八回にスクイズで逆転したが、「やまびこ打線」の真骨頂を目の当たりにした。
蔦野球を豪放らいらくとすれば、尾藤野球は一点を積み重ねる野球。両極端に見える
戦法だが、池田の選手はどっかとベンチに腰をおろす蔦さんに見守られ奔放に、箕島の
選手は「尾藤スマイル」のもとでのびのびと戦った。「失敗を恐れず積極的に」という点は同じだった。
蔦さんとは対戦を契機に親交が始まった。「尾藤君、酒にスダチ入れたらうまいぞ」。
酒を酌み交わしながらの野球談議もたびたび。「同じ県立高校で相通ずるものがあった。
おやじのような温かさで、いろいろ教えてもらった」と懐かしむ。
八二年、箕島高校で行った練習試合。一試合目は0−0。二試合目、控え投手を起用した
尾藤さんに対し、蔦さんはエースを連投させ、18−1で圧勝。「何としても勝つという気迫が
みなぎっていた」
その年の夏、畠山投手を擁した池田は初めて全国制覇し、翌春も日本一を勝ち取った。
尾藤さんは「あれほど徹底的に攻撃して相手をねじふせるチームはなかった。今の強豪校も
池田の流れを引き継いでいる」とたたえながら「攻めダルマ」をしのんだ。
>>580 その練習試合覚えてるよ。懐かしい。ただ実際、その練習試合は八二年ではなく、
八十年の秋、畠山投手が1年生の時に行われ、第二試合のスコアは18−3だった。
池田高校って最近でてこないよね?
583 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/04 23:19 ID:3k1mMwWV
同じようなスレ立っているしね。
箕島復活はあるのだろうか?
応援してるのに
age
復活までに長い時間がかかる模様。
箕島も池田もガンガレ!
保全
あげ
おっは〜おら今から病院行くお〜(^^)
もうお家には帰れないかもぉ・・・(^^)
おらがいないと寂しいかお?(^^)
しばらくは病室にもパソコンあるからそこからカキコしてあげるねぇ〜(^^)
あはは〜
箕島復活
age
595 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
age