太田市長メルマガ(2/6)より
■県大会優勝、関東大会ベスト4 なぜダメ?
昨晩のことである。ユニフォームを真っ黒にした子どもたちの顔
が夢のなかにでてきた。
「くやしいな。がんばったのに」
「もう、いいっすよ。夏やりますから」
彼らは涙をこらえて、声をつまらせながら…。
言葉とは裏腹に、いつもの力強さはなかった。
決まったことにくよくよ言ってもどうにもならない。それは分か
っている。でも、選考のやり方を公開してくれないと…。後味が悪
くて仕方がない。それよりもなによりも、これではセンバツが泣く
のではないか。
ベスト4ではだめで、なぜベスト8なのか
分からないのは、関東で4校しか選ばれないのに、なぜベスト8
が選抜されたのかということだ。また、べスト8のなかで水戸短大
付属が選ばれたのはなぜか。「太田商業よりも強そうだから…」な
んて理由なのだろうか。ありえないと思うのだが。
試合をやらせて強いか弱いか決めるならだれでもあきらめはつく。
試合をやりもしないのに、ベスト8のチームがベスト4のチームよ
り強いと言えるのはなぜか。試合をさせてもらえばはっきりしたと
思うが、ランクの違う(一足お先に帰ってしまった)チームを呼び
戻して戦わせるなんておかしなことはできるはずはない。なのに、
なぜベスト8が選ばれたのか。全然わからない。
選考過程が公開されなければセンバツは田中真紀子さんがいた外
務省と同じ(伏魔殿)になってしまう。
「準決勝で準優勝した浦和学院にコールド負けしたから」という
新聞解説があった。
野球は、いやスポーツは、1試合、1試合がすべてである。同じ
対戦相手であっても、もっと言わせてもらえば、同じ選手が同じ会
場で同じ天候で戦っても違う答がでるのである。勝ち負けだって変
わるのは常識である。ましてや、僅差で負けたから強くて大差で負
けたから弱いということなど絶対にない。点差が多い少ないで強い
弱いなど、神様だって言いっこない。野球をやったことのある人な
らそんなことは百も承知のはずである。
ピッチングなんてその日のコンディションによってブレが大きい。
前橋高校の松本監督が、かつて甲子園で完全試合をしたことがある。
すばらしいできであった。「次の試合も…」と県民は期待いっぱい
であった。しかし、乱打を浴びて惨敗した。
乱打を浴びた試合も事実。完全試合も事実。乱打を浴びたことに
よって完全試合が汚れることはない。金字塔は永遠なのだ。一つひ
とつの試合はその試合で完結するのである。だから、野球はおもし
ろいのだ。
>154の続き
オリンピックだってそうだった。リーグ戦でベスト4が決められ
たが、僅差とか大差とかはまったく関係のない話。ベスト4はベス
ト4なのだ。ベスト4までが決勝トーナメントに出られるのに、ベ
スト8で「こっちの方が強そうだ」とベスト4のチームをはずした
ら大騒ぎになる。そんなことは誰一人として許しはしない。スポー
ツのなかでそんなことをする競技はない。おそらく、センバツの選
考基準に「コールド負けしたらセンバツには出られない」などとい
うのがあるはずはないのである。
太田商業が県大会で優勝した。同じベスト4(関東)でなぜ準優
勝校だけなのか、県大会はどんな位置にあるのか。
関東大会に出場するのに決勝戦をする。優勝と2位が決まる。関
東大会では1回戦で優勝校と2位が対戦するように組み合わせる。
このことは優勝したチームの方が2位のチームよりも強いというこ
とを認めているからだと解釈していた。
太田商業は前橋高校に3−0で、しかも1安打完封であった。完勝
しようが僅差であろうがそんなことはどうでも良いが、太田商業の
方が強いことははっきりした。
蒸し返すようだが、太田商業に完封された前橋高校に食い下がら
れた宇都宮工業は果たして強いのか弱いのか。直接対決した結果か
らみれば、宇都宮工業(4−3)は太田商業(3−0)よりは弱い。太
田商業にコールド勝ちした浦和学院は宇都宮工業に負けた。関東大
会ですべてのチームが当たらない限り、どっちが強そうだという主
観的な判断の入る余地はないのである。組み合わせが「ベスト4」
を出させるようにしているのだ。
太田商業と水戸短大付属はベスト4とベスト8で試合をすること
はできなかったが、甲子園に出場する前橋高校とは試合をして答が
でているのである。同じベスト4に残って、しかも3−0で勝った太
田商業がはずされたのはどういうことなのだろうか。
「県大会は関係ない」とでも言うのだろうか。同列(ベスト4)
に並んで、県大会で勝ったチームがはずされ負けたチームがセンバ
ツされるのでは県大会が泣く。県大会を無視するのであれば、ごち
ゃ混ぜにして組み合わせをしなければ変だと思うのだが…。
前橋高校とともにベスト4に残れた。両校、甲子園にいけるもの
と喜んでいた。万が一、「県にひとつ」というルールがあるなら、
群馬県の優勝校である太田商業がいけるものと信じていたのである。
子どもたちの心をもてあそんではいないか
>155の続き
もうひとつ、我慢のならないことがある。「野球が青春のすべて」
である子どもたちのことを考えたことがあるのだろうか。県大会で
優勝した。小粒ながらチームワークを大切にして強敵といわれる作
新学院、市立船橋を破って関東でベスト4になった。子ども心なが
ら、甲子園は見えたはずである。群馬県の優勝校としてはずかしく
ない試合ができたと満足であったはずだ。
あれから3ケ月、そのつもりで夜遅くまで練習を重ねてきた。甲
子園に出られようと出られまいと練習をするのはあたりまえである。
そのことをどうのこうの言うつもりはない。ただ、彼らには非常に
強いプレッシャーがあった。いや、学校全体にプレッシャーがあっ
たのだ。私も、おそらく校長先生やOBまでもが「甲子園では浦和
学院との試合のようなことはするな。もっと強くなれ」「人から後
ろ指さされるようなことはするな。取り消されることにならないよ
うに」と彼らに言ってきた。
「握手するならそうっと握れ。強く握って相手の指になにかあっ
たらはずされる。石ころを投げるなら…、いや投げてはいけない。
人に当たればはずされる。物に当たってもはずされる」というジョ
ーク?も聞いた。全校生徒が甲子園出場というプレッシャーのなか
にいたのである。
「関東大会ベスト4」「群馬県大会優勝」というのは関係者すべ
てが、もちろん子どもたちすべてが甲子園を実感していたのである。
「それは、そちらの勝手。選考はこちらで決めるもの」
それはそうでしょう。「しかし、…」である。「強そうだ。弱そ
うだ」という選考する側の主観で決められるとは思ってもいなかっ
たのである。「子どもたちの心をもてあそんでいる」としか言いよ
うがない。分かりの良い格好をする大人たちは「それも試練」とい
う。私は試練とは思わない。試練は公平平等のなかで課すべきもの
と思うからである。選考ルールがあいまいな中で、子どもたちに
「試練」などという言葉を使ってはいけない。「なにが公平でなに
が平等か考えられる大人になれ」と私ならいう。「夏があるから」
ともいう。
それはまったく別次元のことである。ルールがあって初めてスポ
ーツは成り立つ。ルールを明確にし、そのことをスポーツを愛する
だれもが共有し競技をする。そこに感激がある。涙があるのだ。
「…ではなかろうか」とか「まあまあ、こんなところで…」とい
うあいまいな決め方は大人には通用するかもしれないが、スポーツ
が大好きな子どもたちにはあまりにも酷ではないだろうか。もちろ
ん、そんなあいまいであるはずがないと思うが…。
私は推測で書いている。いくらか感情的になってもいる。
出場校を決めるきちっとしたルールがあるのを知らないだけかも
しれない。そのルールを子どもたちに説明してやって欲しいのだ。
そのことが、私たち大人がとるべき最も教育的な行為ではないだろ
うか。
スポーツは人間形成のうえで「教育そのもの」なのである。