鳴き場/小場の流れがあるのに、自分に動きの取れない手牌(手役の第一候補がリーチ)が来る場合には、
自分が「反主流派」にあることが分かる。
逆に、動きの取りやすい手牌(役牌、タンヤオ、ホンイツなど)が来る場合には、「主流派」であることが分かる。
天運がないときには、多くの局で「反主流派」になりやすい。
その場合には、第一打から動きの取れる手牌組みを目指し、「主流派」に加わることを考える。
具体的には、「面前テンパイ確率」よりも鳴ける形を重視した打牌選択になる。
例えば、字牌を大切にする、動きをとるためのターツ落とし・シャンテン戻しもありうる(←努力・工夫)。
ただし、端牌ドラのトイツ落とししてタンヤオに向かうという意味ではない(←やりすぎ)。
そういった努力・工夫を積み重ねることで、「主流派」に追いつき、「流れ」に乗ることができる。
ちなみに、第一打字牌切りの禁止は、そういった手牌構成力をつけるための効果的なトレーニング方法。
片山まさゆきの指摘を待つまでもなく、
高いレベルにおいては「流れ論」も「デジタル論」も「打撃系」も「伝説」も、
結局は同じような結論を導き出すものであり(「牌賊オカルティ」)、
結局は同じ中身の入ってる箱に「流れ論」という名前のラベルを貼るか、「デジタル論」というラベルを貼るか、
これは好みの問題としか言いようがない
しかしここで一つ考えなければならないのは、インターネットとコンピューターの普及による
大量の牌譜の可視化と統計の可能化、という問題
小島や桜井が麻雀を打っていた頃は、今のようにネット麻雀も無かったし、コンピューターによる成績集計もできなかったから、
相手が何をやっているか、どういう局面でどういうことをすれば何が起こり、結果がどうなるか、ということが可視化できなかった
しかし今はできる
そこで麻雀というゲームによって起こる現象を「目に見えない」「検証できないもの」という前提に、
「流れ」というラベルは貼りづらい
なぜなら牌譜や統計として検証できるから
したがって桜井流の流れ論が支配的なパラダイムになることはこの先は無い
桜井にしても小島にしても麻雀界特有のメディア状況の中で生まれた奇形的なアイドルであり、
現在の水準から見ると技術的にも理論的にも単にレベルが低い
歴史的な役割は終わったってことなんだろうね