【編纂】日本鬼子さん十三続き
十一の四(本日は四から六までを掲載)
犬地蔵師匠の村で暮らしていたころ、一匹狼のように見栄を張って、独りきりであった。
少なくとも、寄り添ってくる奴らを無視して、独りであろうと努めていた。それでもなお俺に近付く物好きがいた。
それが邪主眠と風太郎だった。
邪主眠は、数年前にひょっこり姿を現した天竺の鬼神だ。
ここでの鬼神というのはつまり、鬼とも神ともとれる、程度の意味で、荒々しい神という意味ではない。
異国の神さまなんてどっちつかずなもんだ。
俺がどんなに拒絶しても、奴はちっとも気にすることなくちょっかいを出してくる。これが腐れ縁というやつだろう。
風太郎は天狗一族の少年で、邪主眠の近所に住んでいる。俺たちは知らぬ間に村中を探検するほどの仲になっていた。
いわゆる幼なじみというやつだ。いつだって俺が先頭で、風太郎は背中にいた。
歳が近く、性格が対になっていて、補い合える関係だったから今まで一緒にいられたのかもしれない。
俺は先に行動するのに対し、風太郎は先に思考する。風太郎は饒舌だが、俺はそれほどしゃべらない。
「心の鬼の探究、それはある種、自分自身の心の探究でもあるんです」
屋敷の中で、風太郎はお茶を手にしながら言った。軽い自己紹介のはずだったのだが、いつの間にか心の鬼の話になっている。
奴は心の鬼を熱心に研究する変わり者でもあった。幼い頃から聞かされているから、もううんざりである。
「その姿を見て、瞬時に特性を理解しなくては、無防備な心に付け込まれてしまいます。
姿かたち、知性、口癖……そういう観点を統合して、あとは勘に頼らざるを得ないんですけど、
鬼のある程度の特性なら、一目で判断できるようになりました。
例えばヒワイドリ。数多の乳を平等に愛する色欲系の鬼で、その数はごまんといる。
人間の三大欲求はご存知ですよね? すなわち食欲・睡眠欲・性欲です」
「はんにゃー、せーよくってなあに?」
「大人になったらわかるわよ」
小日本の問いかけに、般にゃーは平然と答えた。
「むー……。こに、早く『オトナ』になりたいなあ……」
大人にならないでくれ、と切に願う俺がいる。
風太郎の演説は、二人の問答を無視して続いていた。
「これらの欲求から生じる心の鬼、たとえば痩せたい願望があるにもかかわらず暴食に走らせる餓鬼(かつき)、
布団のぬくもりに誘われて惰眠を誘う布団羊鬼(ふとんのようき)、そしてヒワイドリや押栗鼠鬼(おしりすきー)
……そういった鬼たちは単純でわかりやすいから、その数も非常に多い。そして、亜種もあります。
本来どんな乳でもいいはずなのに、ある一人に執着するヒワイドリがいたっておかしくない。
何しろ心の鬼は全て解明されたわけじゃないですからね。
欲求から生じる鬼がいる一方、怒りや恨み、虚勢高慢、罵詈雑言。
そういった感情から発生する鬼は多種多様で、まさに十人十色否十鬼十色百鬼百色。
同じ鬼なんていないと言っても過言ではなく、つまり――」
「その話、まだ続くの?」
般にゃーはすっかり呆れていて、紅葉饅頭をかじっていた。小日本はうとうとと頭をゆらゆらさせ、邪主眠は般にゃーの二又尻尾を興味深げに眺めていた。
「す、すみません! 鬼閑獣(きかんじゅう)が憑いちゃったみたいですね」
心の鬼で冗句を言う輩を、奴以外に見たことがない。しばらく見ない間に、ずいぶんな通になったようであった。
「ま、その知識は評価するわ。わんこも見習ったらどう?」
「んなこと――」
「いえ、僕は全然ですよ。わんこに敵うのはこの雑学と空を飛べるくらいですし……」
反論しようとしたところで風太郎が謙遜の言葉を述べた。
おかげで俺はすっかり何も言えなくなってしまい、自棄になってお茶を一気に飲み干した。
舌が火傷するほど熱かっだが、何食わぬ顔をする。
十一の五
「ところで般にゃーサマ」
咳払いをし、風太郎が問いかけた。
「般にゃー、でいいわ」
「恐れながら……般にゃー、僕たちを何の目的で呼んだんですか?」
「あー、そういえば、犬地蔵のジッチャンはなんも言ってなかったねー。ただ、般にゃーのとこへ行けって」
邪主眠が饅頭を頬張りながら言った。
すっかり忘れていたが、確かに気になる。村からこの山まで、結構な日数を歩かなくちゃいけない。
遊びに来るだけではあまりにも遠い。般にゃーのことだ、師匠に理由を言わずに二人を寄越したのだろう。
「邪主眠は風太郎の護衛のために来させたの。風太郎、貴方に重要な役目を与えるわ。いい? わんこの御供をなさい」
一刻の沈黙が流れた。驚愕のためというより、疑問を孕んだ沈黙だった。転寝から覚めた小日本が、きょろきょろと辺りを見渡した。
「なあ般にゃー、俺は鬼子の供をしているつもりだ。供が供を持っちまっていいのか?」
再び静寂が続いた。小日本が心配そうに俺と般にゃーを交互に見ていた。般にゃーは眼鏡を上げると、おもむろに立ち上がった。
そして、縁側から庭に降り、再び煙管を取り出した。人差し指に火を燈し、煙管に火を点けると、一口吸い、大きく息を吐き出した。
霞のような紫煙が浮かび、そして消えた。紅葉の一葉がさらりと落ちた。
「わんこ、貴方は旅に出るの。鬼子の元を離れて、風太郎と一緒に国を巡るのよ」
「な……」
言葉を詰まらせた。あまりに突然のことで、どう切り返せばいいのか分からなくなってしまった。
そもそも、頭の中でちゃんと整理できておらず、何一つまとまってすらいない。
「き、聞いてねえよ、そんなの!」
だからその程度のことしか言えなかった。
「そりゃ、今初めて話したんだから」
般にゃーは至極当然と言った風に返した。
「道中苦しんでいる人間がいたら助けるの。それが貴方への課題よ」
「人間を助ける? 冗談じゃねえ」
人間はただ鬼子を畏れ、苦しめるだけの存在だ。その真実が頭の中を駆け巡っている。でも、思考は止まったままだ。
「神が人を愛さなければ、だれが人を愛すのよ。貴方は半人前にしろ、愛す側なの。立場をわきまえなさい。
ちょっとは感謝されるようになってから私の前に現れることね」
「んなこと言われたったって」
般にゃーの一言一言が突き刺さって、じわりと胸と顔が熱くなった。立場ってなんだよ、愛するってなんだよ。
そんなの、俺には分かんねえよ。人間は人間を愛さないのかよ。それなら、人間の存在理由ってなんなんだよ。
般にゃーは、何食わぬ顔で煙管を吸っていた。それが腹立たしくて仕方なかった。
いっそ旅に出て、般にゃーを見返してやろうかとも思った。
でもそれは般にゃーの思う壺だろうし、鬼子の元を離れることに、どうしようもない不安を覚えていた。
「こには、こにはやだよ!」
小日本が精一杯の声を張り上げた。
「わんわんいなくなっちゃうの、や!」
「そうですよ、最近の鬼が強くなってることだって、般にゃーならご存知でしょう?」
風太郎も般にゃーの意見には反対の姿勢であった。
「聞く話によれば、隊を組んで襲う鬼だっているそうじゃないですか。今、わんこを別行動させる必要があるんですか?」
「だからこそ、よ」
般にゃーは煙を吹き散らして言った。
十一の六
「わんこを旅に行かせるのは、緊急事態だからよ。今はまだ鬼子一人で互角に戦えるけどね、手に負えなくなる日がきっと来るわ。
その前に底上げをしなくちゃ、私たちは死ぬしかない。私達はそういう綱の上に立っているの」
底上げ、という言葉に俺は身震いがした。それは、俺がみんなの足を引っ張っているような、そんな響きを持つ言葉だった。
俺を否定するような言葉。左遷。旅へ行かされるってことは、戦力外ってことなんじゃ。
「連携も大切よ。でもね、賢い相手は弱点を突いてくる。一度崩れた連携ほど哀れなものはない。間もなく卑劣な死がやってくるわ」
「でも、旅をしなくたって、鍛えられるし、連携だって……」
傍から見れば、今の俺は目を覆いたくなるくらい悲愴な姿をしているのだろう。それでも、俺はここに留まりたかった。
「根本的なことを分かってないみたいね」
訴えは容易く切り捨てられた。
「どうも最近、嫌な予感で髭がぴりぴりするのよ。強い邪気はちっとも感じないのだけど、例えばあの木の上とかね」
俺は呆然としていて、般にゃーの言葉を聞き流してしまっていた。
だから、煙草の煙を吹いた般にゃーが、不意に煙管を紅葉の幹に投げつけても、しばらくそれに気付かないままでいた。
煙管の突き刺さった紅葉が勢いよく燃え上がった。それは焔の幻影であった。ようやく俺は事に気付いたのであった。
「出てきなさい、卑しい鬼よ!」
叫ぶが早いか、燃え上がる紅葉から人型のものが落ちてきた。忍の服を着た者だった。
体中に付いた幻影の火を払いのけているうちに、般にゃーが駆け出していた。
忍は袖を払うのをやめ、手裏剣を般にゃーに投げつけると同時に左へ走り出した。般にゃーは手裏剣を掴みとり、投げ返す。
直接忍にではなく、その進行を妨げるために奴の足元を狙い、それは突き刺さって烈火となった。
忍は飛び退き、樹上に隠れた。
紅葉山がざわめきだす。
風が枝葉を揺らしているのだろうか。それともあの忍が風のように木々を伝っているのだろうか。
奴は今、どこにいる?
「邪主眠は私の援護を。わんこはこにを守ってあげて」
「りょーかーい」
邪主眠はのんびりと庭に降りると大きく伸びをした。胸が引き上げられ、大きさが強調される。
一方俺は「戦力外」の言葉を追いやって、小日本を茶の間の隅にやり、その前に立ちはだかっていた。
一切の攻撃も通させない。その心意気だった。
「風太郎、どうかしら、何か分かる?」
風太郎は一呼吸の間に思案し、常に肌身離さず持っている書を開いた。そこにはありとあらゆる鬼の図が書かれていた。
「忍の鬼のようですから、身は素早く、多くの武器を駆使するはずです。
心の鬼か、堕ちた神の鬼かは分からないですが、少なくとも戦い慣れてはいるはずです。
邪気は薄いけど、気を抜かないほうがよさそうですね。むしろ強い邪気を隠していて、僕らを翻弄する気かもしれない。
呪術に長けた鬼によくある型ですよ、これは!」
「御明察だな」
部屋から女性の声がした。
俺ははたと部屋を見渡した。今、この間にいるのは、俺と小日本と風太郎の三人だけだ。
そして、それは明らかに小日本の声ではなかった。無邪気さはなく、研ぎ澄まされた理性を持った声だった。
般にゃーのような間延びた印象はなく、きびきびとした鋭さを感じる。
間違いない、敵だ。
とっさに臨戦態勢に入るも、姿が見えない。さっきからどこに隠れている? そのくせ先の声はとても近くから聞こえた。
「まさか!」
直感が天井を見上げさせた。奴は今まさに天井から落ちてくるところだった。
音もなく畳に着地し、両股を大きく開いて重心を下げている。
忍の姿だった。