どうも、歌麻呂です。こにぽん誕生日おめでとう!
というわけで、まず最初に、
「FALL BLOE」のライナーノーツ的なものをここに載せようかと思います。
自分の作品を作品外で語るのは好きじゃないんですが、
鬼子さんWikiを頻繁に更新してくださってる方から、
「編集人の性として、作品の魅力を極限まで伝えきりたい!」
という強い要望があったので、思い切って投下することにしました。
自分としても、残したいものは少しでも残したいと思っているので。
ただ、こういうものは作品理解をより深めることができる一方で、
読み手の興を醒ましてしまう可能性もあるものだと思うので、
「そーゆー見方もあるんかいなー」って程度に読んでください。
あらゆる詩、歌詞に言えることですが、
解釈なんて人それぞれですし、答えなんてないもんですからね。
以下の書き込みは、歌詞の一側面なんだなー、程度に読んでください。
というわけで、次の書き込みから始めようと思います。
最初に二レス使って、自分の情景解釈をしまして、
次の二レスで、細かいところを追究したいと思います。
よろしくお願いします。
旅の道はひとり身の道
山の下の海はあかねで
岩の岸はしぶきを立てる
叫ぶ心を見ているような
一番第一聯は、旅をする鬼子が、山の迫る岩の岸から海を眺める場面である。
森を分ける 道なき道を
山を駆ける 陽すらも射らず
波を聞ける 迷路は抜ける
視界ひらけてワタツミの空
一番第二聯は、一聯(海に行き着くまで)の回想である。木々の生い茂った山を駆け、海岸まで出る経過を描く。
夕波千鳥秋日和
思えば渚眺めてた
ふるさと胸に想いを馳せた
さあ海原へ 進みゆかん
一番第三聯は、回想を終えた鬼子の決意と新たな一歩を表している。
くれない紅葉 散るさまを見て
ひとり少女は舞い立った
迫る月夜のささめき覚え
走る面影 それは秋風(FALL BLOW)
一番第四聯、サビは鬼子と心の鬼の戦いをモチーフにした。
里の日々をふとして思う
山の村の稲はこがねで
川の小石 手に取り集め
笑顔まぶしいみんながいたな
二番第一聯は、鬼子の古里の日々を回想している場面である。里で、大勢の仲間たちと戯れた日々を懐かしんでいる。
森を見たら 小川が流れ
川を見たら 青空うつる
空を見たら 雲らが集い
雲を見てたら涙が出てた
二番第二聯は、回想を終えた鬼子が、情景を眺めている場面である。森から小川、小川から青空、そして青空を見る。
そこには沢山の雲が浮かんでおり、鬼子は里の「みんな」を重ね、思わず涙を流す。
夕焼小焼秋桜
思えば胸の中にいた
ひとりじゃなくて 支えられてた
さあ峠の坂 進みゆかん
二番第三聯は、鬼子が孤独でないことを悟る場面である。孤独からの脱皮、成長を描いている。
くれない紅葉 散るさまを見て
ひとり少女は旅立った
無垢で無邪気な花守るべく
走る面影 それは秋風(FALL BLOW)
二番第四聯、サビは鬼子が戦う動機をモチーフにした。小日本を守るために戦う……この歌詞ではそれを理由の一つとした。
一番は全体を通して、日本鬼子の過去、現在、そして未来を描こうと心を砕いた。
一番第一聯では「日本鬼子」というものを描いた。鬼子の背負う孤独、あらゆるものを受け容れる姿を旅路と海原で表現した。
また、あかねは鬼子のイメージカラーであり、海は先ほど言った通り、鬼子の譬えである。
鬼子はその海を見ている。すなわち鬼子は鬼子自身を見ていることになる。これは、代表でない鬼子を暗に示している。
岩の岸のしぶきは、多くの人々に支えられて今に至っているという日本鬼子の「叫ぶ心」を表している。
一番第二聯の「道なき道」とは、日本鬼子の誕生が、今までにないものであったということであり、
それはつまり道のない道を進まねばならなかったことを示している。
そして私自身、前代未聞の衝撃を受け、道なき道を鬼子と共に歩もうと考えた。「陽すらもいらず」とは、その当時の苦心を描いた。
その頃、ある作品が世に出た。それが「HAKUMEI」であった。
それは、視界が開けて見える海と空のような輝きを放っていたのである。
一番第三連目の「夕波千鳥」は、歌聖柿本人麻呂の造語と言われている。
近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば
心もしのに 古思ほゆ
荒廃した旧都を訪れた人麻呂が偲んで詠んだ歌である。
しかし、私は今の鬼子を嘆いて「夕波千鳥」を組み入れたつもりはない。その情景の美しさに見とれて、組み入れたのである。
鬼子の故郷は「旧都」である。つまり「過去」である。
あったことは紛れもない事実であるが、しかし今はもうその姿は見当たらない。夕波と鳥だけがそのままでいる。
だからこそ、鬼子が進むのは海原という広い世界か、海原という「日本鬼子たち」なのである。
なお、「海原の先に何があるか」という議論がかつてされたが、私は太平洋のどこか、程度にしか考えていない。
歌詞を書くにあたって、真鶴岬に訪れた。岬付近に「御林」と呼ばれる森があり、山は海のすぐそばまで迫っている。
この景観に見惚れて、作品にしたい、と思い、書いた次第である。
一番第四聯、サビの「紅葉」は鬼子を象徴するものである。
よって「くれない紅葉」は「紅色の紅葉」と「暮れない鬼子」という意味を込めている。これは作者の願望である。
しかし、私は実際、人気が衰えていく様(散るさま)も見ている。
同様に、鬼子をこよなく愛し、盛り上げようとする人々も大勢見てきた。彼らの姿と、鬼子の舞い立つ姿を私は投影した。
秋の「FALL」は、「落ちる」という意味もあるのはご存知だろう。
これは「葉の散るさま」を意味している。一方風の「BLOW」は「一陣の風」を意味している。
鬼子を愛する一陣の風が、再び鬼子を舞い上げよう、そんな願いを籠めた。
四
二番は全体を通して、小日本の存在を散りばめている。
第一聯、第二聯、第三聯には、それぞれ「小石」「小川」「小焼」と、
「小」の字が入っているのは、全て小日本をほのめかしている。
何故なら二番は、鬼子と小日本の関係性を描いているからである。
二番第一聯「村の稲」や「川の小石」は、小日本候補に挙がった全ての小日本を指している。
鬼子は、小日本ひとりひとりの笑顔を思い返しているのである。
二番第二聯の「森」はうっそうと茂ったイメージから、混沌を意味する。その中にある「小川」は、先述の通り小日本を表している。
加えて、川は海(=鬼子)に通じることから、鬼子と小日本の繋がりを象徴するものである。
空は広がりを意味する。広がりはネットの世界を髣髴させる。
空に浮かぶ雲らは、つまりネット上で鬼子の世界に集まった我々である。雲らが集い、あらゆるものを創りだす。
それが「FALL BLOW」であり、多くの鬼子作品である。
我々の創りだしたものが、人に感動を与えるのである。
二番第三聯の「夕焼」はその色から、鬼子の意味であり、「小焼」は先述の通り小日本である。
「秋桜」は、「秋」が鬼子で、「桜」は小日本である。また、「秋桜」はコスモスの和名でもある。
コスモスは宇宙であり、それは鬼子の世界の象徴でもある。
「胸の中」というのは、鬼子の世界の中にいる全てのキャラクターを指し示している。
鬼子の世界は、鬼子ひとりだけではなく(もしくは鬼子と小日本だけではなく)、
多くのキャラクターによって支えられているのである。
峠の坂は、苦境を意味している。それは鬼子にとっては天魔党との戦いであり、数多の心の鬼との戦いであろう。
永遠とも思えるような坂道だが、それは一歩を踏むごとに高みへと近づいている証拠でもある。
峠の坂を進むのは、地道な努力の積み重ねであり、それが高嶺へ至る最善の道であるといえる。
一番のサビでは、鬼子をこよなく愛する人々を描いたが、二番第四聯のサビでは、小日本をこよなく愛する人々を描いた。
二番の「FALL BLOW」は、舞い散る桜の花びらが、春一番によってふわりと舞い上がるさまをイメージさせる。
と言った感じで。ちなみに今日の夕方ごろに
『【編纂】日本鬼子さん十三』を投下しようと思ってます。
三日に分けて連載するので、よろしくお願いします。