【長編SS】鬼子SSスレ6【巨大AA】

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262歌麻呂 ◆Bsr4iViSxg
>>258   受身返し 十の八

「りくと君と一郎さん、仲がよさそうでうらやましいな」

 鬼子のやわらかな口調が耳に入りこみ、少年はようやく大量の冷や汗を流していたことに気付いた。
風は相変わらず街路樹を揺らすほど強くて、汗だくの少年から体温を奪っていった。
それでも二人は歩いていて、友人アキラの家へ向かっているわけで、信号のない十字路を左に折れたばかりなのであった。

 先程の光景は少年の妄想にすぎない。
竹藪の中のあばら屋も、ござの上の鬼子も、そしてあの声も、全て妄想である。
少年は公園からずっと鬼子と手をつないでいたし、その手は白くてあたたかいし、着物は合わせ薫物が芳しかった。

 しかし、架空にしてはやけに現実的だった。
非現実的なのは、帽子の中に隠された「それ」だけだった。

 帽子の中に、何があったっけ。少年は首を傾げた。
確かにそれは奇妙なものであったはずだ。でもそれがどんな形であったのか、いまいちはっきりとしない。

「りくと君?」
 鬼子が不安そうに顔を覗いてきた。少年は心の中の靄を振り払った。
今は悩むよりもおしゃべりを楽しみたい。
「お兄ちゃんとなんてなかよくないもん。だって、ぼくにすぐいじわる言うんだ。
きのうだって、鬼子お姉ちゃんとあそんじゃだめだって」

 あら、と鬼子は呟きを洩らして驚いた。そして、何がおかしかったのか、声をひそめて笑いだした。
「一郎さんは弟思いなのね」
 どうして弟思いなのか、りくと少年には分からなかった。

「小さい子が好きで、一生懸命で」
 鬼子はひとりごとをぼやいた。
「一郎さんがね、こんなこと教えてくれたんだよ。
『小さな子を守ってやれるのは大人だけなんだ。保育園で過ごした記憶のほとんどは忘れるだろうが、
この時期を楽しく過ごせたら、これからどんなに辛いことがあっても、きっと挫けることはない』って」

 鬼子は少年の兄の声を真似して、低く唸るように言った。
 そんなこと、難しくて分かんないよね、と鬼子は苦笑いした。

 それは当然のことであった。少年は保育園児でないにせよ、学校で過ごした時間より園内で過ごした時間のほうが長い。
保育園時代のことだって、記憶に残っていることは多い。
その頃から一続きで今に至っているわけであって、懐かしむこともないし、思い出にふけようとも思わない。
りくと少年はまだ過去というものを持っていないのである。

「りくと君は、一郎さんのお母さん、見たことないよね?」
 少年は頷いた。りくと少年の知る一郎の生みの母は、高さ二十センチにも満たない額縁写真であった。
写真は笑顔を絶やさなかったので、明るい人だったのだろうと勝手に想像していた。
誰からもその人のことを教えてくれなかったから、全て少年の思い描く像でしかないのだが。

「きっと、一郎さんのことを、大切に、大切に育ててきたんだと思う。だから一郎さん、保育士になりたいんだろうなって」
「鬼子お姉ちゃん、お兄ちゃんのお母さんのこと、しってるの?」
 少年が問うと、鬼子は笑って首を横に振った。

「わかんない。全部私の想像。でも、りくと君も一郎さんみたいに誰かに夢を与えられる子になれたらいいね」
 少年は頷いた。そして、疑問を抱き、鬼子の横顔を仰ぎ見た。
「どうしてそんなこときくの?」