>>249 受身返し 十の六
少年は風の音で目が覚めた。戸を開けると並木の広葉樹が前後に大きく揺れていた。
頭上の雲は渋滞にはまった高速道路の車みたいにのろのろと――でも実際はおぞましく速いスピードで――流れていた。
しかし、幸いなことに雨は降っていなかった。
居間に降りると、そこはまだ真っ暗だった。ただ風だけが借金取りのように戸を叩くばかりだった。
休日なので父親は遅くまで寝ている。だから母親も今日は起きてくるのが遅い。
照明を付ける。仏壇の線香は白い粉となって香炉に埋まり、お供え物は昨夜のままだった。
テレビを付けると六時五十分の天気予報が始まっていた。
台風はやや速度をはやめて沖縄を通過し、少年の住む町は夕方ごろから雨が降り出すと天気予報士は深刻な面持ちで述べた。
「よかった!」
少年が喜んで飛び上がったとき、アナウンサーが台風による死傷者の情報を述べていた。
「鬼子お姉ちゃんに会える!」
少年にとって、外出できるかどうかは雨が降ってるか降ってないかによってのみ決まる。
母が起きていたら大慌てで止められるだろうが、寝ているのであれば、出かけたもん勝ちである。
少年はなるべく音を立てずに身支度を始め、七時を過ぎた頃には外にいた。
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鬼子が公園にやってきたのは、十時四十分を過ぎた頃だった。
少年はそれまでの間、公園に植えられた木の枝のしなりを見て待っていた。
それからアリの巣を観察したが、アリはちっとも出てこなかった。飽きると雲を眺めて、それも飽きるともう一度枝を見た。
そうしているうちに鬼子がやってきたのだ。
「遅くなってしまいました」
はじめ、少年はその声が誰から発せられているのかよく分からなかった。
いや、鬼子の声だということはすぐに分かったし、誰もいない公園に来た女性がおそらく鬼子であろうということも分かっていた。
しかし、彼女は修道服を着ておらず、紅葉柄の着物と藍色のチューリップハットという姿であった。
かぐや姫だ、と少年は思った。
和服の鬼子は、修道女とはまた違う美しさを醸し出していた。同じ椿の香りがするのにこうも印象が違う。
黒く長い髪が、ふつふつと湧き出る美を示していた。
ぼうしをぬいじゃえばもっときれいだと思うのに。少年は心の中で考えを巡らせたが、すぐに撤回した。
そんなことは些細な問題なのだ。
帽子があろうとなかろうと、鬼子の美しさに変わりはない。紅葉の、儚く散ってゆく様がどうしようもなく似合う。
儚さが似合う人なんて、そうそういない。兄一郎の言っていたように、鬼子はあらゆる点で一般人とは異なっているのかもしれない。
紅葉柄の着物然り、修道服然り。いや、多分服装なんて象徴にすぎない。もっと根本的な部分で、鬼子は儚さを抱いているのだ。
だがそんなことは悩んでいても仕様のないことである。特に鬼子本人でなく、りくと少年が悩んだって、何が変わるわけでもない。
「まだ十一時じゃないからへいきだよ」
だから少年は考えがまとまらぬまま、公園の隣にある図書館の駐車場に立つ時計柱を指した。
十時四十三分を示している。時計柱は風で小刻みに揺れていた。風のやむ気配はなく、勢いは強まるばかりであった。