>>242 受身返し 十の四
「飲み物買ってくるから、向こうで待っててくださいって言いましたよね? どうしてこんな寂れた公園にいるんです」
「この子が泣いていたので」
鬼子の紹介で、一郎は初めてりくと少年の存在に気づいたようだ。
少年を見た一郎は顔をしかめ、大きな息をついた。
「とにかく、帰りましょう。神父様が心配します」
「そうですね、ご迷惑をおかけしました」
修道女鬼子の足が一歩前に出た。
少年が不安げな眼差しで彼女の背中を見つめていると、
鬼子は視線を察したのか、振り返り、指を組んで祈りの意を示した。
「また、明日ね」
修道女の声に、少年は大きく頷いた。
「うん、またあした」
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台風は明日沖縄に上陸するようだ。それから一気に北上し、少年の地元に最接近するのは明日の深夜になるらしい。
風と波に気を付けてくださいと天気予報士は二度三度繰り返した。
少年は居間のテーブルで、マス目のノートを広げていた。週明けに出す宿題をやっているのだ。
しかし、『予定』という熟語を練習した列の隣に『日本鬼子』という字を三列にわたって書きつづっていた。
「ひのもと」という字と「おに」の字は兄の一郎から教わった。「ひのもと」は思った以上に簡単な字だった。
「おに」は、てんを打って田んぼの「田」を書いて、「ル」に「ム」だった。
少年はかの修道女の名前を必死で覚えようとしていた。
宿題は乗り気でなかったが、こういうことになると必要以上に興味が湧いてしまうのである。
一方兄は台所で夕食の準備をしている。脇で少年の母が鍋の火を見ているが、二人に会話はなかった。
少年の母、とわざわざ書いたのは、彼女と一郎は直接血がつながっているわけではないからである。
一郎は自分の作った野菜炒めを仏壇に供えた。
「理空人」
台所に戻った一郎は、使い終えた包丁とまな板を洗いながら少年に声をかける。
「なぁに?」
りくと少年は鉛筆を置いて返事をした。
「ひのもとさんと何話してたんだ?」
「ひみつ」
少年はわざともったいぶった口調で答えた。
鬼子と過ごしたひと時を鬼子以外の誰とも共有したくなかったのもあるが、
兄と鬼子が知り合いであることに不満があったので、それに対する反発でもあった。
反発というより、やきもちと言ったほうが正しいのかもしれないが。
「ま、理空人の友達の……アキラ君だったか? アキラ君がいなかった時点で予想は付くけどな」
見透かされている。少年は一郎と話していると、ときどきそう感じておののくことがある。
兄の人を観る目は人並み以上であることを少年は子供心ながらに思っていた。