ずっと規制されていたので、急に立てられてびっくりした
今から500年前まで、魔法とは一部の魔法使いだけの物であった。
その事を憂いた『偉大なる魔導師<グランド・マージ>』は、誰でも簡単に魔法が扱えるよう、
『共通魔法<コモン・スペル>』を創り出した。
それは魔法を科学する事。魔法を種類・威力・用途毎に体系付けて細分化し、『呪文<スペル>』を唱える、
或いは描く事で使用可能にする、画期的な発明。
グランド・マージは一生を懸けて、世界中の魔法に呪文を与えるという膨大な作業を成し遂げた。
その偉業に感銘を受けた多くの魔導師が、共通魔法を世界中に広め、現在の魔法文明社会がある。
『失われた呪文<ロスト・スペル>』とは、魔法科学が発展して行く過程で失われてしまった呪文を言う。
世界を滅ぼす程の威力を持つ魔法、自然界の法則を乱す虞のある魔法……
それ等は『禁呪<フォビドゥン・スペル>』として、過去の『魔法大戦<スクランブル・オーバー>』以降、封印された。
大戦の跡地には、禁呪クラスの『失われた呪文』が、数多の魔法使いと共に眠っている。
忌まわしき戦いの記憶を封じた西の果てを、人々は『禁断の地』と名付けた。
ロスト・スペラー(lost speller):@失われた呪文を知る者。A失われた呪文の研究者。
B(俗)現在では使われなくなった呪文を愛用する、懐古趣味の者。偏屈者。
ひたすら設定を積み上げて、物語を作ったり作らなかったりするスレ
時には無かった事にしたい設定と再会しながら、じわじわスレを進めて行くよ
膨大な量の設定と、それらを絶え間なく投下し続ける持久力
ホントに頭が下がります。がんばって下さい
たまにレスがあると何事かと思って緊張してしまう
でもありがとう
500年前の魔法大戦で、全てが海に沈んでしまった。
魔法大戦の勝者、共通魔法使いの指導者である、偉大なる魔導師と8人の高弟は、
沈んだ大陸に代わり、新たな大陸を1つ浮上させた。
共通魔法使い達は、唯一の大陸に6つの魔法都市を建設し、世界を復興させ、魔導師会を結成して、
魔法秩序を維持した。
以来400年間、人の間で大きな争いは無く、平穏な日が続いている。
過去に2回以上登場した人物で今後も登場予定がありそうな人々
サティ・クゥワーヴァ
第一魔法都市グラマー出身の、十年に一度の才子と呼ばれる魔導師。
良家の三姉妹の次女。
古代魔法研究所の研究員で、プラネッタ研究室に所属している。
僻地を訪ねて、唯一大陸各地に残る民間伝承を調査している……が、それは表向きの言い訳。
再び禁断の地に挑むべく、密かに外道魔法を調査している。
普段は猫を被って、寡黙で典雅貞淑な振りをしているが、行動的なので化けの皮は直ぐ剥がれる。
その実は挑戦的な性格で、実力者には対抗するし、売られた喧嘩は買う、困った人。
魔法資質は緑。
※最近キャラクター付けに困っている。
ラビゾー
禁断の地で暮らしていた過去を持つ、旅商の男。
正確には「ラヴィゾール」だが、決して自分では名乗らない。
好い年しながら、行く先々で老若男女問わずディスられ、その度に心に傷を負っている。
しかし、性格や行動を見直そうとしないので、自業自得と言えば、その通り。
魔法資質が低い上に、魔法色素が薄く、殆ど発色しない。
ジラ・アルベラ・レバルト
サティの調査に同行し、彼女を監視ている、魔導師会の執行者。
動物好きで、使い魔を飼いたいと思っているが、幼い頃から彼女は飼っている動物を可愛がり過ぎて、
構い過ぎた挙句、ノイローゼにしてしまうので、自重している。
標準的な魔導師で、得手不得手は特に無く、特別優秀ではないが劣等でもない、普通の人。
元補導員で、それらしく、良識と良心を備えた性格。
少々押しに弱い。
魔法資質は紫。
イクシフィグ・ヴァルパド・コロンダ
事故で魔法暦1000年から500年の時を遡った、未来少年。
自由都市ティナー出身。
諸般の事情で、グラマー市ニール地区魔法刑務所の、管理棟に監禁されている。
魔法は全く使えない。
コバルトゥス・ギーダフィ
各地を旅する自称冒険者。
父親はグラマー地方出身、母親はティナー地方出身、本人はエグゼラ地方出身。
端正な貌付きの優男だが、身勝手で軽薄、口が軽く、平気で嘘を吐くし、戦いも苦手。
本人曰く「やれば出来る」。
女を口説く事と、労せず儲ける事だけに熱心な、快楽主義者。
破滅型の人格に見えるが、社交性は高く、悪運も強いので、滅多な事では倒れない。
強者には諂い、弱者の振りをするが、物怖じしない胆力もあり、実力は未知数。
しかし、如何せん保身に走る為、彼が本気を出す事は無い。
グージフフォディクス・ガーンランド
ティナー中央魔法学校の中級課程に通う女学生。
成績優秀で品行方正な模範学生だが、突出した才能の持ち主ではない。
所謂委員長系。
グージフフォディクスは、伝統的な家系が故の長名だが、本人は気にしている。
友人・家族は「グージフフォディクス」と呼ばないので、尚更。
愛称はグー。
プラネッタ・フィーア
古代魔法研究所の教授で、サティ・クゥワーヴァの師、彼女の上司でもある。
第四魔法都市ティナー出身。
週に一度、グラマー市内の魔法学校で、上級課程の学生に、古代魔法史(選択制)を教えている。
ティナー中央魔法学校の上級課程を首席で卒業し、その数年間で最も優秀と謳われた魔導師。
高位の魔導師で、取り分け呪歌が得意であり、日常的に精霊言語の歌を口遊む。
公学校時代の愛称はネッフィー、ネア。
禁断の地には因縁があり、過去に触れられる事を嫌う。
魔法資質は青。
パステナ・スターチス
第六魔法都市カターナの海洋調査会社で、部長を務める女性。
海洋調査に懸ける志は高く、新しい時代を自らの手で拓こうとしている。
ティナー地方北東部の小村トックの出身で、プラネッタ・フィーアとは公学校で同級だった。
魔法は人並みに使えるが、得意と言う程ではない。
明るく朗らかな人柄。
愛称はパスチー、パスタ。
姓と名を合わせた愛称は、ティナー地方の一部で独特の物。
カーラン・シューラドッド
B級禁断共通魔法の研究を行っている老魔導師。
禁断共通魔法研究施設『象牙の塔』B棟地下にある、カーラン研究室の室長にして、
同研究室に所属している唯一の研究員。
研究の事しか頭に無く、倫理観が崩壊している上に、人の話も聞かない、狂人研究者。
B棟の地下に封じられている体だが、犯罪性向が強い訳でも、嗜虐趣味を患っている訳でもないので、
無闇に人に危害を加える事は無い。
その代わり、日常的に死体集めを行っており、時には自らの体を実験台にする事も厭わない。
よく誤解されるが、死体集めは実験に必要だから行っているのであり、死体愛好家の気は全く無い。
白髪で万年白衣の為、陰で「幽霊博士」と呼ばれている。
魔法資質は白。
バーティフューラー・トロウィヤウィッチ・カローディア
禁断の地で生まれ育った、『色欲の踊り子』と呼ばれる魔法使い。
実家を妹に任せて、禁断の地を飛び出した。
人を誘惑する魔法の使い手で、男を取っ替え引っ替え生活している。
外道魔法使いでありながら、好んで堂々と都市部に住む、変り種。
結婚恋愛相談所を経営している。
ラビゾーとは知り合い。
バーティフューラーが姓、カローディアが名。
トロウィヤウィッチは、旧暦の地名『トロウィ』の魔女を意味する称号名。
魔法色素は、青・赤・緑・黄・水・紫・白の七色に変色する特質型で、
自ら『虹色の<イリデッセンス>』を名乗る。
ニャンダコーレ
妖獣の祖先と思われているニャンダカニャンダカの仇敵、ニャンダコラスの子孫を自称する化猫。
身体に他の妖獣と異なる所は見当たらないが、並外れて知能が高く、温和で理性的。
妖獣神話を信じており、妖獣を監視して、逆襲を未然に防ぐ事が、自らの使命と信じて疑わない。
一部地方では、お喋り好きな化猫として、都市伝説になっており、『黒靴下』の通り名を持つ。
「ケトゥルナンニャ」が合言葉。
「コレ〜」「〜だコレ」等、何かとコレコレ鬱陶しいが、コレコレ言う前は人語が下手で、
会話中、頻りに「ニャ」を連発していた。
ある日、それでは他の化猫と同じだと思い、「ニャ」の代わりに「コレ」と言い始める。
時々返事代わりに、「ニャ」「ニャム」「ニャー」と言ったりするが、そこは気にしていない。
魔法色素は水色。
アラ・マハラータ・マハマハリト
旧暦から生き続ける旧い魔法使い達の中でも、取り分け古い魔法使い。
古めかしい魔法使いの格好をした、白髪白髭で猫背の老人。
ラビゾーの師。
名前は全て呪文名であり、周囲の者は慣習から、アラ・マハラータを尊称、
マハマハリトを親称と呼び分けているが、大した意味は無い。
過去にチカを弟子として育てたが、破門した。
長い間、禁断の地で暮らしていたが、ラビゾーに先立って、各地を巡る旅に出た。
チカ・キララ・リリン
共通魔法使いを憎む、外道魔法使い。
数年〜数十年に一度、若返りの魔法を使って、命を存えている。
禁断の地でマハマハリトに育てられたが、その魔法を無闇に振るった為に破門された。
しかし、破門された後も、師に対する敬慕の念は変わっていない。
師と同じく、名前は全て呪文名。
高い魔法資質が災いし、復讐の為に恨みを募らせた果てに、邪精化が進行中。
旅先の供である青い鳥チッチュと、師への想いを心の支えにし、危うい所で精神を安定させている。
後に弟弟子ラヴィゾールの存在を知り、彼が師の弟子に相応しき存在か、確かめようとする。
魔法資質は赤。
アクアンダ・バージブン
八導師親衛隊の女性。
既婚者で子持ちの上に、三十路を越えていながら、高い魔法資質を有する為に、老化が遅く、
少女の外見を保つ。
八導師の勅命により、イクシフィグの目付け役となった。
リャド・クライグ
象牙の塔でD級禁断共通魔法の研究を行っている博士。
時間と空間を操る共通魔法の使い手。
ブリンガー地方出身の元魔法学校教師で、象牙の塔では希少な妻子持ち。
象牙の塔で唯一の、D級禁断共通魔法研究室の室長。
狂人扱いのカーラン博士と違い、常識人で、人望が厚い。
妻のカリュー・クライグは、魔法実験の失敗で、独りだけ時間の流れが周囲より遅い。
魔法資質は妻共々黄。
レノック・ダッバーディー
旧暦から生き続ける、旧い魔法使いの1人。
ティナー地方南部に隠れ住み、時折都市部に降りて来る。
500年以上の時を、幼い少年の容姿で過ごしているが、ずっと子供だった訳ではなく、
旧暦では青年魔法使いだった。
マハマハリトとは旧暦からの付き合いだが、レノックの方が若い。
自分に直接係わらない物事には、無関心を装っているが、その実、結構な世話焼き。
ルヴァート・ジューク・ハーフィード
ティナー地方出身の、『緑の魔法使い』と言う、植物を操る外道魔法使いの男。
元共通魔法使いの『VM<バーサティル・マジシャン>』。
共通魔法秩序に反発し、無益な破壊活動を行っていた前科を持つ。
その後、執行者に捕らえられ、師との死別によって更生し、現在は、街から離れた地方で、
静かに暮らしている。
直情的だった若い頃とは、打って変わって、柔和な人格者になった。
後に2人の弟子の師となる。
魔法資質は緑。
※VMのVは、versatile(形容詞:多才な)が正しいと思うのだが、過去の設定を見返すと、
versatility(名詞形:多才)になっている。
何か理由があったのか、当時の記憶は定かでない。
クロテア
神の祝福を受けた少女。
髪、目、肌、魔法資質、全てが白い。
神聖魔法使いの祈りの結晶にして、幸いの化現、幸福を齎す存在。
幸福は彼女と共にあり、悪意や災厄は彼女を避ける。
故意による妨害ばかりでなく、偶然の事故すらも彼女を傷付ける事は出来ない。
しかし、彼女は無為である。
ホリヨンと異なり、彼女は悪を罰する術を持たない。
※白い魔法色素を持った者が生まれる確率は低い。
ドミナ・ソレラステル
クロテアの従者にして保護者。
旧暦から生きる神聖魔法使いの神官。
クロテアを己の信仰を捧げるに相応しい存在と認識し、彼女を崇拝している。
それは余りに盲目的、余りに独占的、余りに庇護欲求的過ぎて、本人には煙たがられている。
やや人間不信の気あり。
対外的には、クロテアとの関係は、親子で通している。
彼女を含め、旧い魔法使いには魔法色素を持たない者が多い。
ドミナは称号、ソレラステルは名、姓は無い。
※既に数回登場しているが、名前を呼ばれたり、自ら名乗ったりする場面が、未だ無い。
誰これ?状態。
蛇男
魔法で蛇男にされてしまった人間……と思い込んでいた、合成獣。
僅かに人の性質を備えた、手足が無い、巨大な緑色の蛇。
実際は、限り無く人工生命体に近い事が、カーラン博士によって明らかにされた。
魔法資質は水色だが、身体構造上、精霊言語が話せず、共通魔法は使えない。
己の出生を知る為、執行者ストラドと共に、生みの親である外道魔法使いを探している。
巨大な蛇の容姿を他人に見られると、大抵驚かれ、酷い時には、石を投げられたりするので、
普段は裾の長いフード付きローブを着て、正体を隠している。
ストラド・ニヴィエリ
第三魔法都市エグゼラ出身の魔導師。
アウトロー気取りの不良執行者で、口と勤務態度が悪い。
蛇男を生み出した外道魔法使いを逮捕すべく、蛇男の親探しを手伝っている。
その他色々、新世界ファイセアルスで暮らす人々の話。
エグゼラ地方南部の小村ビリャにて
エグゼラ地方は南部のみ、夏季に限って、作物の栽培が可能である。
ビリャ村は人口の割に農地が広く、魔法農作物である改良油豆の産地として有名であった。
冬が長いエグゼラ地方で、油豆は凍結を防ぐ為に、植物性油脂を実に大量に蓄える性質を持っている。
油豆の実は、暑い地方では油脂が直ぐに腐敗するので、寒冷地でしか栽培出来ない。
ビリャ村はエグゼラ地方の中では、最も油豆の栽培に適した土地なのだ。
この年4月末にビリャ村は妖獣に蹂躙され、壊滅的な被害を受けた。
現在、ビリャ村は復興の只中である。
しかし、村民の心は――……。
ラビゾーがビリャ村に訪れたのは、雪が完全に消える6月の末。
定期的に村を訪れるラビゾーは、妖獣襲撃事件を聞いて、どんな風に村が変わってしまったのか、
恐々としていた。
所が、彼の予想に反して、村は荒らされた痕跡が無かった。
元から土地建物の被害は大した事が無かったのか……。
それとも既に忌まわしい傷痕は消し去られた後なのか……。
ラビゾーは村の様子を見て回りながら、この村に来た時は必ず訪ねる、
村唯一の小さな店に足を向けた。
幸いにして、小店の主は無事であった。
魔犬に姿を変えられたが、医療魔導師の魔法で人の姿に戻れたと、店主は語る。
「犬っころになっていた間の記憶は無いんですがね」
ラビゾーの記憶にある店主の姿と、現在の店主の姿に、印象の変化は無い。
親しみ易い砕けた話口と、エグゼラ地方によく見られる、がっしりした骨太で頑健そうな体付き。
本当に、噂に聞く様な惨劇の被害者なのか、見た限りでは判らない程だ。
「そういう魔法だったんでしょう」
「いえ、中には朧気ながら記憶が残ってる人もいましたよ」
身内に死者も無く、今では平穏な毎日を送っている――かと思いきや、そうではないらしい。
店主はラビゾーに打ち明けた。
「家は全員無事だったんですが、ただ娘の様子が変なんですよ。
どこか余所余所しくて、どうやら記憶が少し……」
「ああ、それは……何と言って良いやら……」
「一家全滅という所もありますから……。
家族皆、命があっただけでも有り難いと思うべきなんでしょうがね……」
ラビゾーは慰めの言葉が思い付かず、ただ神妙な面持ちで頷き、同調するしか無かった。
それから他愛無い世間話を続ける2人。
ラビゾーは店主が時々顔を顰めるのに気付く。
「どうしました?
何所か、具合でも……?」
「ええ、犬っころになってた後遺症か……偶に臭いに敏感になる時があって……、
最近は治まっていたんですが……」
店主は鼻を擦りながら答えた。
「あ、そうなんですか……大変ですね」
「そればっかりか毛深くなっちまって……」
店主は長袖を捲くってラビゾーに見せる。
白い腕全体、地肌が見えない位に、金色の長い毛が生えていた。
「暖かそうですね」
ラビゾーが呑気に軽口を叩くと、店長は呆れ半分で眉を寄せ、苦笑した。
「本当に大変なんですよ?
手入れとか……でも、私なんかは見た目で判らない分、未だ良い方です。
中には犬っころの尻尾とか、残った儘の人もいますからね……。
医師様は、数年経てば自然に元に戻るだろうとは言ってましたが……」
復興への道程は長い。
小店の店長と会った後、ラビゾーは再び村を見て回った。
成る程――、もう暖かいと言うのに、外を出歩く村民の中には、手袋を嵌めて、
コートやマントを羽織っている者が見受けられる。
寒さに強いエグゼラ地方民は、夏が来て暖かくなれば、他の地方民なら肌寒さを感じる様な天候でも、
薄着で普通に過ごせる。
今の時期、厚着をしている者は、身体に獣だった時の跡が残っていて、それを見られたくないのだろう。
その事に気付いたラビゾーは、余り往来の人をじろじろ観察するのは失礼だと思い、
深く気にしない様にした。
彼は旅の身であり、村人との関係は薄い。
不審人物と思われては堪らない。
そう言えば――と、ラビゾーは耳を澄ます。
(犬の鳴き声が聞こえないな……)
田舎では、田畑を荒らし家畜を襲う、野生の妖獣を追い払う為、それと不審人物の侵入を防ぐ為、
魔犬を番犬に飼っている家が多い。
ラビゾーの記憶では、このビリャ村も例に漏れず、魔犬を飼っている家が殆どであった。
(妖獣に殺されたのか?)
品種改良された魔犬は、よく人に懐き、よく人の言う事を聞く。
人も魔犬を家族の様に思って、愛犬の死後、直ぐ新しい魔犬を飼う事に抵抗を感じる者もいる。
犬の鳴き声が聞こえない理由が、その通りであれば悲しい事だ。
ラビゾーは感傷的な気持ちになって、小さな溜め息を吐いた。
それから暫く歩いたラビゾーは、村の外れに、空の檻が沢山置いてある空き地を発見した。
「これは何だ?」と興味を持った彼は、何の気無しに空き地に踏み入る。
檻の大きさは大小様々で、熊が飼える大きな物から、犬猫を閉じ込める小さな物まであった。
ラビゾーは一つ一つ檻の中を確認したが、どれもこれも空。
一体何に使ったのか、それとも、これから何かに使う檻なのか、彼は首を捻る。
「ニャー……」
その時、か細い猫の鳴き声が、彼の耳に入った。
余りに細い声だったので、音源は判らなかったが、それなりに動物の知識があるラビゾーは、
鳴き声の主が何を訴え掛けているか、鋭く察した。
(この鳴き方は……助けを求めている!?)
元より正義感の強い彼は、甚く心配して、必死に猫を探した。
「ニャー……」
断続的に発せられる、弱々しい鳴き声。
なかなか動物の姿を発見出来ず、焦るラビゾーであったが、遂に音源を探し当て、そして驚いた。
彼が見付けたのは、大きな檻の中に閉じ込められている、泥茶気た汚い布を被った、怪しい「何か」。
布の下の物の、正確な大きさは判らないが、膨らみから、少なくとも人の五歳児程度はあると、
推測出来る。
猫の鳴き声は、確かに、汚い布の下から発せられている……。
どうするべきか、ラビゾーは迷った。
布を剥ぐって正体を確認するか、何も見なかった事にして立ち去るか……。
村は妖獣の襲撃を受けた後である。
檻に入れられている事から、これは危険な妖獣の可能性が高い。
君子危うきに近寄らずとも言う。
「ここから離れよう」とラビゾーが決心し掛けた時であった。
「コレ……ラビゾール?」
布の下から聞こえた、自分の名を呼ぶ声に、ラビゾーは身震いして飛び退いた。
ラビゾーは確認の為に、呼び掛ける。
「……ラ、ラビゾー?」
その直後、布の下から白い塊が飛び出した。
「ああ、コレ!!
ラビゾール、コレ!!」
「うぉわわわ!?」
白い塊の正体は、半身以上ある大きな化猫であった。
化猫は、二度驚いて体を竦めるラビゾーを見て、目を細める。
「にゃー……コレ、相変わらず小心は治ってないんだな、コレ。
いや、コレ、人は二十歳を境に成長が止まるのだったかなコレ?」
「……ニャ、ニャンダコーレさん?」
ラビゾーが恐る恐る問い掛けると、化猫は2本の足で立ち上がり、背筋を伸ばして胸を張った。
「コレ如何にも!
我輩はニャンダコラスの子孫、ニャンダコォーゥレである、コレ」
ラビゾーと化猫ニャンダコーレは、互いに見知った仲である。
ラビゾーは警戒を解き、数歩檻に寄った。
「その名乗りって一々やらないといけないんですか?」
「コレ、ニャンダカの子孫である、妖獣共と一緒にされては困るのでコレ。
いや、しかし、コレ、君に会えて良かったコレ。
天は我を見放さなかったんだな、コレ……」
ニャンダコーレは脱力して、ぺたんと座り込んだ。
それに合わせてラビゾーは屈み込み、ニャンダコーレに訊ねる。
「一体、どうして檻の中に?
何か悪い事したんですか?」
「コレ、失敬な、コレ!
私は何も悪い事なんてしてないんだなコレ!」
ニャンダコーレは大いに憤慨し、機嫌を損ねた。
疑いの眼差しを向けるラビゾーに、ニャンダコーレは訴える。
「そんな事より、コレ早く出して欲しいんだな、コレ」
「いや……でも、詳しい訳を話して貰えないと」
「コレ、後でも良いじゃないか!
にゃぐぐ……信用が無いのだなコレ……」
ニャンダコーレの抗議に、ラビゾーは弱った顔するも、動こうとしない。
「後ろ暗い事が無いなら、話してくれたって良いでしょう?」
「コレ、全く困った物だな、コレ。
ニャム……、隠す様な事でも無いし、コレ、聞きたいなら聞かせるが……。
好い加減に柔軟さを身に付けて欲しい物だなー、コレ」
原理原則に拘る性格のラビゾーに、ニャンダコーレは渋々事の経緯を説明する。
「私はティナーの都市で、コレ、不穏な噂を聞いた……。
ニャンダカの子孫がコレ、北の地に集結し、地上の支配を企んでいると。
私は奴等の野望を止めるべく走ったが……コレしかし、間に合わなんだコレ……。
コレ、既に多くの血が流された後で……やはり、ニャンダカの連中は、コレ――」
ニャンダコーレは猫の面でありながら、静かに鬼の形相を作る。
「……詰まり、事前に情報を入手して、急いで駆け付けたけど、着いた時には、全部片付いた後で、
妖獣と間違えられて、捕まった訳ですか……。
間が悪かったですね」
ニャンダコーレの様子から、不穏な空気を感じたラビゾーは、ニャンダコーレが現状に至った理由を、
「間が悪かった」の一言で片付けて、さっさと話を切り、檻に取り付けられている錠に触れた。
「解りました。
檻、何とか開けてみます」
「ニャ、有り難い」
ラビゾーは万能ナイフの鋸で、檻の錠を削って破壊する。
ガリガリガリガリ……長く地味な作業であった。
1針後、ラビゾーは錠を外し、ニャンダコーレを解放した。
長時間の監禁で、ニャンダコーレは酷く衰弱しており、その足取りは、よろよろと頼りなかった。
食料を要求するニャンダコーレに、ラビゾーは魚の缶詰を開けて手渡す。
1匹では、再び捕まらないとも限らない。
そう心配したラビゾーは、ニャンダコーレを連れて、この地方から離れる事にした。
しかし、当然ではあるが、すんなり帰れる訳が無い。
空き地の近くを通り掛った、1人の中年の村人が、ニャンダコーレを連れているラビゾーを発見する。
「おい、お前!
そいつは……」
見るからに力のありそうな、体格の良い中年男は、髭の濃い熊面を顰め、ラビゾーに詰め寄る。
ラビゾーは内心しまったと思い、硬直した。
「あんた余所者だな?
勝手な事をされちゃ困る。
こいつは俺等が捕まえた化猫だ。
妖獣共は一匹残らず駆除する事になっている」
威圧的な中年男の言い草に、すっかり気後れするラビゾー。
一方、妖獣呼ばわりされたニャンダコーレは、牙を剥いて怒る。
「コレ失礼な奴だな、コレ!
私はコレ、妖獣共とは違うと言うのに!」
赤子の様に両手を振り上げ、小さく一歩踏み出すニャンダコーレ。
口周りには、食べ滓が付いている。
「ニャー!」と擬音を付けたくなる、可愛らしい威嚇だが、中年男は過敏に反応して、大きく一歩退った。
「こ、コレコレ喧しい!
畜生の分際で喋るな!」
冷や汗を掻いて声を荒げる中年男に、ラビゾーは違和感を覚えた。
自分より小さな化猫を罵声で嚇す姿は、ラビゾーの目には恐怖を隠そうと焦っている様に見えた。
まるで動物恐怖症……。
この中年男も、上着と手袋で地肌を隠している。
中年男とニャンダコーレの遣り取りで、心に余裕が生まれたラビゾーは、ニャンダコーレを制し、
自分が表に立って交渉しようと、中年男の前に進み出た。
厳つい中年の男が相手とは言え、ラビゾーも年齢は大して変わらない、おっさん同士なのだから、
萎縮する必要は無いと、開き直ったのである。
「だ、大丈夫ですよ。
彼は賢く大人しいですから」
「……『彼』だと?」
正体の判らない男が、突然、化猫を「彼」と言い出したので、中年男は戸惑った。
それまで何もせずに棒立ちしていた姿が、酷く落ち着き払っている様に見えた事も相俟って、
中年男は俄かに慎重になる。
ラビゾー自身も、ニャンダコーレを「彼」と言う事には抵抗があったが、丁寧な口調で説明した。
「彼は僕の知り合いです。
そこらの妖獣とは違い、理知的で、話が出来るんですよ」
「だが、妖獣は妖獣だ。
それに知能が高いと言う事は、何を仕出かすか分からない……。
危険なんだ」
ラビゾーを相手と認めた中年男は、歯噛みして顔を歪める。
ビリャ村を襲った妖獣は、人語を解する高い知能を持った妖獣に、指揮された集団であった。
中年男にとって、妖獣は憎い、小賢しい物は尚憎いと言う訳だ。
その激しい憎悪に、ラビゾーは一部同情した。
「コレ、だから妖獣では――」
ラビゾーは、抗議しようとしたニャンダコーレの頭に手を置き、視線を送って黙らせる。
そして中年男の目を見て、懇願した。
「……何とか見逃して貰えませんか?」
「ならんね。
大体、妖獣駆除は魔導師会の指示なんだ。
あんたは魔導師会に逆らうって言うのか?」
「……彼は例の事件とは無関係です」
「それを証明する事が出来るか?
いや、よしんば証明出来たとしても、そいつを駆除の対象から外す事は出来ない。
魔導師会の指示は、『妖獣を駆除する事』なんだ。
例外は無い」
中年男は頑として意思を曲げない。
極寒のエグゼラ地方では、魔導師会の協力なくして、発展が望めなかった。
魔導師会が絶対であるかの様に振る舞う性質は、エグゼラ地方では何ら特別な物ではない。
それに加えて、村が妖獣の襲撃を受けた事で発生した、「妖獣は危険な物」と言う直観的な認識が、
中年男の思考を支配していた。
危険物を排除したい、ある種、本能的な拒否感が、「魔導師会の指示」と言う後ろ盾を得て、
露骨になったのである。
ラビゾーも譲らない。
「それは横暴ですよ……。
僕は別に動物愛護主義者じゃないですけど……、野良の妖獣を絶滅させる気ですか?」
「野良に限らない。
少なくとも、この近辺の妖獣は全部片付ける」
中年男の答えを聞いたラビゾーは、はっと感付く。
「……まさか、犬の鳴き声が聞こえないのは――」
「そうだよ、あんたの想像通りだ」
「いやいや……いくら何でも、それは――」
ショック受けた様子のラビゾーに、中年男は不快感を露にして、態度を硬化させた。
「あんたは何も知らないから、そんな事が言えるんだ。
大方、見た目可愛い動物が殺されるのは可哀想ってだけで、逃がそうと思ったんだろう?」
「いや、僕は……――」
そんな安っぽい同情で言っているのではないと、ラビゾーは反論しようとしたが、中年男に遮られる。
「とにかく、そこの奴は諦めな。
高が妖獣の為に、魔導師会を敵に回すか?」
魔導師会の名を出されると、ラビゾーとしては弱い。
彼は数極逡巡した後、答える。
「……誰だって争い事は避けたい。
僕は彼を連れて村を出て行く、そして、この付近には二度と近寄らない……。
それでは駄目ですか?」
ラビゾーはニャンダコーレを庇い、腰を落として低く身構えた。
掛かって来るなら、暴力も辞さない姿勢である。
しかし、ラビゾーは喧嘩上手でもないし、武術の達人でもない。
体格からして、取っ組み合いでは、中年男に敵わないが、そんな事は問題ではなかった。
「おいおい、正気か?
どっちが怪我するか、分からん訳ではあるまい」
冷笑する中年男に、ラビゾーは言う。
「はい……。
あなたは魔導師ではないでしょう?」
ラビゾーは男を睨み付けた儘、右手でコートのポケットを漁り、魔力石を取り出して見せた。
最早、形振り構わぬ足掻きであった。
中年男は魔力石を見るや、ぎょっとして、途端に慌て出した。
「はは……マジで気が狂れてるのか?
止めろ止めろ、魔法で人を攻撃する事は、禁止されている。
本当に魔導師会を敵に回す事になるぞ!」
しかし、ラビゾーは完全に戦闘態勢である。
嘘の下手な彼は、その気が無い脅しは見透かされると思っていた。
己の胸の内に燻る、理不尽さに対する怒りを奮い立たせて、鷹の様な鋭い目付きで中年男を睨み、
自分が本気と言う事を必死でアピールする。
「魔導師会、魔導師会って、魔導師でもないのに、あなたは何なんです?
ここらの妖獣を絶滅させようと、どうしようと、そんなのは僕の知った事じゃないですよ。
でも……無関係な彼をどうこうしようってなら、それは見過ごせない」
高揚した気分に任せて、苛立っている風に捲くし立て、触れなば斬らんと凄む。
傍から見れば気違いだが、それが功を奏した。
「待て待て、落ち着け!!」
酷い奴に出会した物だと、中年男はラビゾーに絡んだ事を後悔し始めていた。
とにかくラビゾーの気を逸らせようと、必死に知恵を絞る。
「……あっ!!
あんたの後ろにいた化猫は、何処に行った!?」
ぎりぎりと魔力石を強く握り締め、今にも何か仕出かしそうな勢いのラビゾーに、中年男は、
化猫の姿が見えなくなった事を指摘した。
「……何?」
ラビゾーは罠ではないかと、中年男を警戒しながら、そろそろ慎重に周囲を確認した。
針葉樹林に囲まれた土地、田畑が寂しく広がる。
ニャンダコーレの姿は、何処にも見当たらない。
ラビゾーは静かに構えを解き、両手をコートのポケットに突っ込んだ。
気不味い沈黙が訪れる。
半点後、中年男はラビゾーを強く睨んで、吐き捨てる様に言った。
「これで人死にが出たら、あんたの所為だからな」
中年男は、その場を足早に去る。
暴論だが、ラビゾーは何も言い返さなかった。
中年男と別れた後、ラビゾーは早々に村を離れる事にした。
ラビゾーはビリャ村を離れる前に、自ら小店の店主に事情を説明し、別れの挨拶をした。
当分の間、或いは一生、彼はビリャ村には入れない。
店主は同情し、人死にが出るとは限らないし、仮に出ても誰の責任とは言えないと、
ラビゾーを慰めたが、「また来てくれ」とは言わなかった。
「コレ、申し訳無い事をしたなコレ……。コレ、魔導師会を敵に回して、大丈夫なのかコレ?」
「多分ですけど、妖獣駆除は魔導師会じゃなくて、市とか地方とかの行政レベルの指示です。
魔法に関する事以外で、一般人に何かをさせる事は、魔導師会の権限を超えていますよ。
魔導師会が何とかって言うのは、はったりか、そうでなければ、勘違いだと思います。
魔導師の職務は、魔導師以外が代行する事は出来ません」
「コレ、よく解らんが……そうなのかコレ?」
「……多分。それより、人を恨んでいませんか?」
「ニャ、恨む事は無いな、コレ。
元はと言えば、コレ、ニャンダカの子孫共が凶悪な事件を起こした所為。村人の反応は当然だコレ」
「……有り難う御座います」
「コレ、礼を言われる事ではないなコレ。寧ろ、コレは我が身の無力と、浅慮を詫びる所だコレ」
「人にはニャンダカニャンダカの子孫も、ニャンダコラスの子孫も、同じ妖獣に見えます……」
「承知している、コレ」
「……ニャンダコーレさんが妖獣でも、僕は同じ事をしましたよ」
「ニャム。コレ、君の友情に感謝する……コレ」
「当分、エグゼラ地方では独りにならない方が良いでしょう。僕が付いて行きます」
「コレ、助かる。
ニャ、しかし……コレ、私が言うのも何だが……もっと上手い躱し方が、コレ、あったと思うのだコレ」
「はい。でも、僕は口が回る方ではないので」
「コレ、朴訥を気取るのは、良い事では無いぞコレ。損をするのは君なのだ、コレ」
「……解っています。でも、本当に、あの場は他に案が浮かばなかったのです。後悔はしません」
「コレ、相変わらず意地っ張りだなコレ」
「意地が張れなきゃ男じゃないですよ」
「ニャフ! 言う様になったな、コレ」
「フフッ、オ・ケ・セラ・セラ。過ぎた事ばかり考えても仕方ありません」
「ニャー……、そこまで開き直れるなら、コレ、もう少し堂々として欲しい物だな……コレ」
「……心掛けます」
魔法色素と魔法資質
魔法色素とは、魔力の流れを感知して発色する、色素である。
人を含む、魔法資質を有する動物は、生まれ付き持っており、赤、青、緑の光の三原色を、
父母から一色ずつ受け継ぐ。
その配色によって、赤、青、緑、黄、紫、水色、白の7色と、魔法色素を持たない場合(黒)を含めて、
全部で8通りのパターンがある。
統計上、白と黒はレアケース。
魔法色素自体は、生体以外にも含まれ、魔法色素を含む鉱石や、湧き水もあるが、
外部から摂取しても、体内に長時間蓄えられる物ではなく、遺伝しない。
色素の有無と、魔法の得手不得手は、全くの無関係で、魔法資質が赤だからと言って、
火の魔法が得意とは限らないし、水の魔法が苦手とも限らない。
ここまでは、以前説明した通り。
魔法資質の優劣とも無関係だが、高い魔法資質の持ち主は、多くの魔力を扱えるので、
当然ながら発色は強くなる。
魔法色素の濃淡には、個人差があり、余り発色しないからと言って、魔法資質が低いとは限らないし、
強く発色するからと言って、魔法資質が高いとも限らない。
しかし、一般的には、発色が強い者は、魔法資質が高い証との認識で間違い無く、
開花期の終わり頃まで、一部地域では平穏期になってからも、発色が弱い者は、
魔法資質を過小評価された。
この為、魔法色素を摂取して、生まれ付きの魔法色素を誤魔化す事が、流行った時期もあった。
魔法色素が薄い事は、何も悪い事ばかりではなく、発色しない事を逆手に取り、
執行者が囮捜査を行う場合もあるが、大抵の発色しない者は、魔法資質の低い者で、弱者と侮られ、
犯罪の被害者になるケースが多い。
標準的な魔法資質の持ち主は、魔力石を手にした際に発色する。
魔法資質の高まり
開花期から、人通りの多い街角では、魔法によるストリートパフォーマンスが、よく見られる様になった。
平穏期に入ってからは、娯楽魔法競技の普及と重なって、この様な大道芸は、都市ばかりでなく、
地方でも広く一般的となる。
しかし、魔法暦400年代も終盤になり、停滞期と呼ばれる頃になると、
大道芸は再び都会でしか見られなくなった。
放浪芸人は、余裕のある時代の生き物だったと、そう言う事だろう。
それを嘆き、昔を懐かしむ者もいるが、人の集まる所で芸を披露し、投げ銭を貰うと言う、
芸人本来の姿に落ち着いたとも言える。
中には、街路に面した店舗と契約して、人寄せにパフォーマンスを行う者もいる。
人を楽しませる目的とは言え、多くの都市では条例を設けて、届出の無い街頭芸を禁止している。
しかし、事前に届け出て許可を得るパフォーマーは少ない。
通行の障害や、店舗の営業妨害にならない限りは、見逃されているのが、現状である。
第四魔法都市ティナー 繁華街にて
冬の繁華街の大通りに、人集りが出来ている。
人々の注目を集めているのは、娯楽魔法競技フラワリングの、ストリートパフォーマンス。
ギャラリーは、ざっと1000人以上いるだろうか……。
人垣で、輪の外からは、パフォーマーの姿は見えない。
魔法の灯と共に、時々歓声が起きるので、偶々近くを通り掛った暇人が、
野次馬根性で必死に覗こうとする。
よく確認をしない儘、野次馬が憶測で、やれ有名人だ何だと言って、人伝に話が広まる。
そんな訳で、人集りが一定以上になると、人が人を呼ぶ現象が発生するのである。
偽客によくある手法だが、実際の所どうなのかは、見てみなくては判らない。
時を遡る事、数刻前――東南東の時。
後に人集りが出来る、この場所には、1人の女共通魔法使いがいた。
大体、女の大道芸人と言う物は、美女とか愛らしい娘と決まっている。
見目麗しくなければ、人目を惹き付けられない。
この女共通魔法使いも例に漏れず、色の薄い髪を長く伸ばした、色白の美女であった。
彼女が着ている暗い色合いの服は厚手で、見るからに動き難そうであり、
激しい描文動作を伴うフラワリングの競技者らしくなかった。
彼女は数人のギャラリーの前で、自らの両手の平に、小さな炎を出現させ、それを空間に固定して、
幾つも出現させる。
一度パンと手を叩けば、炎は一斉に消え、二度叩けば、青い色の炎になって現れる。
「置き火」と「色変え」と言われる技法である。
彼女の魔法は、そう派手ではなく、技巧に優れた(一般的には地味と言う)物であった。
但し、技巧に優れているとは言っても、この程度は魔導師クラスの者なら、誰でも出来る芸当で、
こんな物では、日に何万も目の前を通り掛かる者の内、10人前後を数点引き止める効果しか無い。
人の目を引く、魔力を大量に消費するフラワリングの大技は、魔法資質の高さを誇示する物でもあり、
魔力石を持たないでも使用可能な者は限られる。
この後、彼女は如何にして、1000を越す人を集めるのだろうか……?
余り人が集まらない儘、南東の時になる。
気温が上昇し、人通りが俄かに多くなり始める頃だが、それでもギャラリーは20人弱に増えた程度。
女共通魔法使いは、長時間の描文動作で、玉の様な汗を滲ませ、肌を淡く染めていた。
彼女は上がった息を整えると、人目も憚らず、上着を脱ぎ捨てた。
勿論、彼女はストリッパーではないので、ゆっくりと肌をちらつかせながら……と言った、
扇情的な脱ぎ方はしない。
そんな事をしたら、直ぐに都市警察を呼ばれて、お縄になってしまう。
色気を出すより、健康的に堂々と、暑くて堪らないと、ばっさり脱ぎ捨てるのだ。
その下は、汗で濡れた、薄いシャツ1枚である。
さて、彼女は何故、その様な行為に出たのか……?
理由は多々ある。
客引き。
それもあるだろう。
薄着で踊る美女が通りにいれば、足を止めて見入る男も出て来る。
いや、単に暑かったから上着を脱いだとも言い切れる。
しかし、何れも本質を突いてはいない。
彼女が服を脱いだ最大の目的は、魔法資質を高める為である。
既に忘れ去られている感のある設定だが、魔法資質が高まる条件は、個人で区々である。
肉体と精神の状態によって、魔法資質は変動する。
共通魔法使いは、体調が良く、落ち着いた精神状態で、魔法資質が高まる者が殆どだが、
中には極限状態で、能力の限界が引き出される者もいる。
この女共通魔法使いは、後者。
恥じらいを擲つ際の、神経の昂り、感覚の鋭敏化を以って、魔法資質を高めているのだ。
本人は堂々としているが、結局の所は、恥ずかしくて仕方無い。
その恥ずかしさを堪えて、開き直り、彼女は魔法を使う。
それまで披露出来なかった、魔力を大量に消費する大技を。
肌を見られて興奮する――と言うと、ただの変態だが、雑念を抑えて魔法に集中するのは、
並大抵の事ではない。
しかし、衆人環視の中でしか実力を発揮出来ないのは、娯楽魔法競技者に向いているとは言え、
一流とは言い難い。
この様に、惜しい人材が、多く魔導師になれないでいる。
魔法資質が高まった証拠に、女共通魔法使いの白金色の髪が、赤の魔法色素で、
くすんだピンク色に変わる。
ここからが彼女の本領発揮。
パワーアップした魔法資質で、次々と大技を繰り出す。
「光の壁」、「火柱」、「光球」、「電流」……何れも魔法資質が高い程、良いパフォーマンスを行える、
資質重視の技である。
女共通魔法使いの魔法資質は、ギャラリーが増える毎に高まり、その魔法も派手になって行く。
肌は桃色に、髪は朱色に染まって行く。
――現在では余り見られなくなったが、肌や髪、服装、全体的に薄い色を女性が好むのは、
魔法色素が綺麗に映えるからである。
それなりに魔法資質が高い者は、髪を脱色したり、日焼け対策をしたりと、白くなる方法を考える。
逆に、魔法資質が低い者は、地が白くても発色しないと惨めなので、濃い色を好む傾向にある。
一方で、魔法資質が極端に高い者は、気を纏う様に発色するので、肌の色を一々気にしたりはしない。
この女共通魔法使いでも、娯楽魔法競技者全体では、それなりのレベルに留まるのだ。
パフォーマーの活躍で、ギャラリーが何百と集まると、今度は輪の外に押し遣られて、
見事な芸を拝めない者が出て来る。
この溢れた者を目当てに、別のパフォーマーが近くで芸を披露する。
こうして人集りが膨れて行くのである。
その果ては、群衆による街路封鎖、通行妨害。
警戒していた都市警察が、直ぐに飛んで来て、一時の祭りは終わり、大道芸は大成功となる。
そうならなければ、幾ら稼ぎが成功しても、パフォーマンスは失敗と言って良い。
人が人を呼ぶ現象は面白い物で、最初に人集りを作った者が、最大の名誉を得る代わりに、
最大の富は、2番手、3番手に譲る場合が多い。
これは何も悪い事ではなく、最初に人集りを作った者は、最も安全に警察から逃げられるので、
最も確実に儲けられる。
後から輪に参加した者程、人集りの外側にいる事になるので、先に捕まる可能性が高い。
先にパフォーマンスを行っていた者は、人の流れが読めるので、余所が盛り上がり、
自分の所が寂しくなる、中空化現象が起これば、引き際も見極め易い。
中には、最後まで張り合う負けず嫌いもいるが、それでも他の者より捕まり難い事には変わり無い。
パフォーマーには、儲け優先の為に、盛り上がり所の2番手、3番手を計画的に狙う者もいる。
その者達はフォロワーと呼ばれ、技巧に優れ、魔法資質も高い者が多いが、
他人の客を奪う格好になる為、時に場荒らしと蔑まれ、事情通の間では、評価が低い事が多い。
評価の高いフォロワーは、自分に近い実力者や、上位の相手に喧嘩を売り、知名度が低い者の客を、
横から掻っ攫う様な真似はしない。
ただ、地域によっては、パフォーマー同士で縄張りを決めている場合があり、
礼を欠いた余所者には容赦無い事もある。
「……何見てんの?」
「いや、何も……」
「へー」
「な、何ですか……?」
「嫌ぁね。男って」
「えっ……」
「何、その不満そうな顔は? お前が言うなって?」
「あの……」
「あーあ。アンタ、あんなのが好みなのね」
「あんなって……」
「アタシの方が、もっと人呼べるけど」
「……お願いですから、張り合おう何て思わないで下さい」
「独占欲?」
「揉め事になりそうですから……」
「フフン。アンタが横いなければ、やってたかもね」
「済みません。鈍臭くて」
「ええ、全く」
外道魔法使いの共通魔法使い
外道魔法使いの中にも、共通魔法を使う者がいる。
外道魔法を捨てた訳ではなく、共通魔法社会で生きるのに、少し共通魔法を利用させて貰っている、
そんな連中だ。
外道魔法の多くは、特定の目的に特化した物で、汎用性では共通魔法に遠く及ばない。
「外道魔法使いの共通魔法使い」の多くは、目の前にある便利な物を、躊躇わず使った結果で、
裏切りだの潜伏だのと言った、深い意味は持っていない。
意固地に共通魔法を拒む外道魔法使いもいるが、それは外道魔法使い全体では少数に留まる。
多くの外道魔法は、呪文を与えられて、共通魔法に組み込まれているので、
余程特殊な魔法でない限り、外道魔法を使っても、素人目には共通魔法との区別が付かない。
普段、人に紛れて共通魔法を使っていれば、外道魔法使いと疑われる事も無い。
共通魔法を使う事によって、外道魔法使いが被る害は、無に等しいのだ。
魔法暦300年を過ぎた辺りから、魔導師会は、外道魔法の取締りを緩めた。
汎用性に於いても、専門性に於いても、共通魔法が外道魔法を完全に上回るまでに発展した事を、
認定したからである。
後は共通魔法の管理と教育さえ怠らなければ、時の流れる儘、人の心の儘に、
外道魔法は自然消滅する見通しであった。
外道魔法が衰退して行く中で、例外的に、共通魔法の脅威となり続けて来たのが、呪詛魔法である。
人を呪い、貶める魔法は、共通魔法に組み込まれていない。
対象の健康状態を悪化させたり、精神状態を不安定にさせたりする魔法は、共通魔法にも存在するが、
魔法資質によって効果範囲が制限される。
その為、多くの場合、相手と対峙する必要があった。
遠く力の及ばない存在に、どうしても害を与えたい。
或いは、相手に正体を知られる事無く、密かに害を与えたい。
その様な臆病者が、人を呪う為だけに、呪詛魔法に手を出した。
勿論、そんな旨い話は、そうそう無い。
独学の呪詛は、不発に終わる事が多かった。
魔法資質が高い者が、稀に呪詛魔法を成功させたが、心測法によって、直ぐに足が付いた。
魔法資質の低い者は、呪詛魔法を成功させられないかと言うと、そうではなく、例外があった。
呪詛魔法使いによる、捧呪の代行である。
依頼者の命を要求されたりと、代償は大きいが、強い恨みを持つ者は、躊躇わず捧呪を実行した。
呪詛魔法を使用した罪は、社会的正義の側面があった場合、少々の情状酌量は付く物の、
大抵は魔法封印以上、時に死刑相当の厳罰を与えられる。
嘘
偽りを禁じる「真実の魔法」と、「果実の魔法」、そして過去を暴く「心測法」によって、
致命的な嘘を吐く人間は、唯一大陸には存在しない。
吐くとしても、軽い嘘、罪にならない嘘ばかり。
その事を逆手に取り、稀に恐ろしい嘘を吐く大悪人がいるが、確実に裁かれる。
「真実の魔法」は、人の「偽ろう」と言う意識を禁じる。
「果実の魔法」は、人に有言実行を強制する。
何れも意識に関わる魔法であり、一定以上の知能を持つ物にしか効果が無い。
偽る心が無ければ、真実の魔法は効果が無い。
約束を憶えていなければ、果実の魔法は効果が無い。
これ等が抜け穴となり、真実の魔法と、果実の魔法を使われても、結果的に嘘を吐く事は可能である。
人に焦がれた妖獣の話
ボルガ地方西部にある、ゴノミ山に、人になる事を望んだ鬼熊の伝説がある。
復興期、未だ魔導師会がボルガ地方に訪れる前の事。
ゴノミ山には、主と呼ばれる、巨大な鬼熊がいた。
ゴノミ山の麓には小さな村があり、村人は鬼熊の縄張りに立ち入らない事、
鬼熊は村に降りて来ない事で、双方の平和が保たれていた。
所が、山の主の鬼熊は、人の生活を遠くから眺めている内に、人に憧れる様になった。
しかし、人と仲良くしようにも、人は大きな鬼熊を恐れるばかり。
人が自分を恐れるのは、自分が人に似ていないからと思った鬼熊は、人になる方法を考える。
先ずは人と同じ物を食べて、人と同じ性質になろうとし、草を食べたが、体が受け付けずに吐いた。
鬼熊は群れを作る習性が無いので、魔犬を従える事で、集団生活の真似をしてみたりもしたが、
魔犬には対等と言う物が解らない。
人の細工を真似ようにも、熊の手先は小器用な作業を熟せる様には出来ていない。
無理を重ねた鬼熊は日に日に弱り行き、やがて魔犬にも見放された。
ゴノミ山の麓の村では、ある日から、山の主の鬼熊を見掛けないと、話題になった。
同時に、奇妙な噂が広まった。
ゴノミ山に登ると、何処からとも無く、人を呼ぶ声がすると。
その怪しい声に応じると、2身もある黒い影の巨人が現れ、連れ去られると言う。
実際に被害者が出た訳ではないので、連れ去られる等、嘘も大概だが、この噂は村人を恐怖させた。
何より体験談が多かった。
ゴノミ山に入った者は、殆ど皆、この怪しい声を聞いていた。
そこで度胸のある村の若い男衆が、10人がゴノミ山に入り、声の正体を確かめる事になった。
山に入って1刻、「おーい、おおーい」と低い男の呼び声が聞こえた。
男衆は、仲間の誰かが呼んでいるかと思ったが、お互いに確認し合って、そうではない事に気付く。
「おーい」呼び声は未だ続いている。
男衆の1人が、「おーい」と応じると、先程と同じ声ではあるが、嬉しそうな調子で、
「おーい」と返事が来た。
今度は声のした方向が、はっきりと解った。
山の斜面の上方、男衆を見下ろす様に立っている、巨人の影。
光の加減ではなく、本当に輪郭だけの、黒い影なのだ。
それが発した「おーい」と言う、一際嬉しそうな声に、男衆は肝を潰した。
男衆は蜘蛛の子を散らす様に逃げ惑い、山を下る。
そうして噂は本当と言う事になった。
永らく恐れられていたゴノミ山の怪人であったが、その噂に終止符を打ったのは、やはり魔導会。
予断を持たない魔導師が、数人でゴノミ山を調査した所、それらしい影は見当たらなかった。
その代わり、鬼熊が掘ったと見られる風穴と、剥製化した鬼熊の死体を発見。
目撃情報とは多少食い違うが、伝聞に信憑性は期待出来ないとして、それで全てを片付けた。
事実、風穴を塞いだ後、怪物の声を聞いた者も姿も見た者も、ぱったりと出なくなった。
冒頭の話は、鬼熊のミイラが発見された後、その理由を故事付けたと物とされている。
しかし、復興期に有り勝ちな事ではあるが――魔導師会の誰が何をしたと言う、正確な記録は無い。
ただゴノミ山の麓の小さな村……現在のゴノミ村だけに、伝承が残るのみである。
ボルガ地方西部の小村ゴノミの公民館にて
サティ・クゥワーヴァは、村人から聞いた伝承と、第五魔法都市ボルガの中央図書館で閲覧した、
民話の記録を照らし合わせ、差異の有無を確認をしていた。
ボルガ地方は魔導師会の訪問が遅かった事もあり、妖獣との係わりを基にした逸話が、
1つの小村に必ず1つは遺されている。
それに拠れば、ボルガ地方では人と妖獣との間で、共存共栄が図られていた。
――いや、共存共栄は言い過ぎだろう。
ここでの妖獣との係わりは、大抵が妖獣優位で、人は妖獣に見逃されるか、保護される形で、
平穏な毎日を送っていた。
水蛇の一族は、例外的な存在であり、故にボルガ地方で強い影響力を持っていたと言える。
飽くまで、伝承が事実と言う仮定での話だが……魔導師会が来るまで、ボルガ地方の多くで、
妖獣が信仰されていたのは事実。
知能の高い妖獣は、復興期から数多く存在し、人を支配していた?
多くの者が畜生の戯れ言と聞き流す「妖獣神話」……その真偽について、
真剣に考える必要があるのではないかと、サティは思い始めていた。
しかし、ボルガ地方以外では、自然信仰はあっても、人を支配する妖獣の話は聞けない。
これは何を意味するのだろうか?
そして、もう1つ――……。
共通魔法使い以外の魔法大戦の英雄達
魔法大戦の英雄と言えば、魔法大戦の六傑や、偉大なる魔導師の八人の高弟と言った、
共通魔法勢力ばかりが有名だが、敵対勢力にも強大な力を持った英雄がいた。
予言者フリックジバントルフ、呪われし者ネサ・マキ・ドク・ジグ・トキド、断罪のエニトリューグ、
神王ジャッジャス・クロトクウォース・アークレスタルト、竜人タールダーク、甦るリリリンカー、
千変万化のラルゲーリ、精霊王チュエルンテュ・アト・アエ・ザン・サルガバナレン、
大魔王アラ・マハイムネアッカ等、『古の賢者達<オールド・ウィザーズ>』……
更に、各々が一国の軍隊に匹敵する配下を従えており、故に魔法大戦は熾烈を極めた。
予言者フリックジバントルフには顕現士、呪われし者ネサには無形無蓋の匣、
断罪のエニトリューグには九人の死神、神王ジャッジャスには神聖十騎士と神王軍、
竜人タールダークには双竜の戦士と竜人軍、甦るリリリンカーには不死不滅の一忠臣と不死軍、
千変万化のラルゲーリには増子増増子、精霊王チュエルンテュには四大精霊子と精霊軍、
大魔王アラ・マハイムネアッカには五天侯と魔神軍、加えて各々が所属する勢力と、
その他の魔法使い勢力があり、それ等が1つの陸に集まった魔法大戦は、
万単位の戦力が激突する、正に混沌の戦争だった。
しかし、現在の禁断の地は、これ等の大勢力が自由に動ける程、広大ではない。
魔法大戦の果てに、禁断の地は大部分消滅したと言われているが、結論は出ていない。
顕現士
予知魔法使いの大聖、フリックジバントルフの予言を実行する、11人の予知魔法使い。
フリックジバントルフの予知魔法の加護を受け、確実に予言を顕現させる。
実現ではなく、顕現。
他勢力との直接戦闘を避け、各勢力を転々としたが、九人の死神に全滅させられる。
無形無蓋の匣
呪詛魔法を完成させた者が所有する、人の負の感情を詰め込んだ匣。
その名の通り、形を持たない。
無形無蓋の匣とは、物体ではなく、溢れ出す邪念の形容。
長らく各勢力を苦しめたが、大戦六傑滅びのイセンに封印された。
九人の死神
心理魔法使い、断罪のエニトリューグの命令で動く、9人の殺人鬼。
何の感動も持たない、殺戮機械。
その正体は、エニトリューグに操られた人間で、意識はある物の、心を操られていた。
倒される度に、倒した者を乗っ取り、永遠に減らない仕組み。
呪われし者ネサに止められるまで、9人より減る事が無かった。
神聖十騎士
神聖魔法使いの祈りを受ける聖騎士。
元々は1人の強大なホリヨンの側近だったが、彼が崩御した後に分裂する。
ベルリンガー(鳴鐘人)、バグパイパー(笛吹き)、フラグレイザー(旗手)、ランスベアラー(槍持ち)、
シールドベアラー(盾持ち)、キャリッジドライヴァー(御者)、ヴァレット(従者)、ストラテジスト(軍師)、
プレアーリーダー(祈り子長)、ジェネラル(将軍)の10人。
時代によって、一国の王だったり、一地方領主だったり、権力とは無縁の地位に没落した家もあったが、
神王ジャッジャスの登場によって、再び10人が1人の王の下に集った。
しかし、激戦で一人また一人と減って行き、最後に残ったプレアーリーダーも、
ジャッジャスと共に断罪のエニトリューグに殺された。
双竜の戦士
巨人魔法使いの英雄、竜人タールダークの両腕として活躍した、2人の戦士。
ケドゥスとスーギャ。
魔法大戦の伝承には、屈強な戦士だったとあるが、魔法使いだったとは記されていない。
九人の死神との戦いでケドゥスが死亡、スーギャも神聖十騎士に敗れる。
不死不滅の一忠臣
生命魔法使い、甦るリリリンカーに忠誠を誓った、1人の人間。
名をティアルマと言う。
リリリンカーの生命魔法により、不老不死の肉体を与えられた。
肉体が消滅しても、本人の意思とは無関係に、完全修復される。
これが消える時は、術者のリリリンカーが死んだ時だが、リリリンカーも不死。
しかし、断罪のエニトリューグに操られ、その間に大戦六傑滅びのイセンにリリリンカーを殺されて消滅。
増子増増子(ましこましましこ)
変身魔法使い、千変万化のラルゲーリが持つ、無限に増える黒い液体。
一度容れ物から出すと、体積が倍々計算で増える。
ラルゲーリは黒い水を魔法生命体に変えて、戦わせた。
大戦六傑滅びのイセンによって、増殖を止められる。
四大精霊子
精霊魔法使いの王、精霊王チュエルンテュに従う、火、水、土、風の精霊の子。
火のマッワル、水のリュア、土のディドッツ、風のヨーデの4人。
何れも強大な精霊魔法使い。
大戦六傑灼熱のセキエピ、地を穿つマゴッドと幾度にも亘って激戦を繰り広げたが、
度重なる戦闘で消耗し、最後は五天侯に敗れた。
五天侯
大魔王アラ・マハイムネアッカが使役する、東西南北と中央(真上)の空を統べる、5柱の魔神。
ダシャルクテーン、ロレバテーン、ジェノブテーン、シュメリテーン、フォッコテーンの5柱。
多くの魔神を配下に持つ、魔神の中の魔神。
この世ならざる者共。
他勢力を圧倒、大戦六傑織天ウィルルカをも退けるが、滅びのイセンに敗れる。
創世神話にも似た、これ等の伝説を鵜呑みにしている者は、現在では少ない。
魔法大戦の伝承でも多くを語られておらず、記述の矛盾も存在し、信憑性に欠けるからである。
それでも長い間、エニトリューグの『呪傀儡の魔法』、リリリンカーの『不老不死不滅の魔法』等の禁呪、
そして、ネサの『無形無蓋の匣』、ラルゲーリの『増子増増子』、神聖十騎士の『神器』等の禁具は、
禁断の地に封じられていると信じられていた。
それ等を求めて、開花期には多くの冒険者が、禁断の地に挑んだ。
これを危険視した魔導師会も、魔法大戦の再来を防ぐ為、禁断の地に向かった。
しかし、凶悪な魔法生命体に阻まれ、誰も何も得られぬ儘、華の開花期は終わり、
禁断の地に挑む冒険者は絶えてしまう。
禁断の地に挑む愚か者が減った事で、魔導師会も禁断の地から去った。
それまで誰も立ち入る事の無かった禁断の地だが、確かに中心部への侵入こそ阻まれた物の、
伝承にある様な想像を絶する驚異を目にした者は無く、禁断の地を巡る一連の動きは、
やはり伝説は伝説と認識される、大きな契機となった。
現在では、禁断の地の中心部に辿り着けなかった原因は、魔力の狂い、地形の複雑さ、道程の険しさ、
棲息する魔法生命体の多様さ、そして、魔導師会の妨害の為と言われている。
それなりの実力と、かなりの財力を持っていれば、禁断の地の攻略は、決して不可能ではなかったとも。
事実として、禁断の地の中央に到達した者はいない為、伝承を全て嘘と断じる事は出来ない。
しかし、禁断の地全域踏破の難易度は、カンガー以上、世界一周未満とされている。
魔法暦364年 ガンガー山脈を制覇したウェン・ライ・ン・ンに取材した際の記録より
――何故、ガンガー山脈に挑もうと思ったのですか?
「私は自分の目で確かめたかったのです」
――「確かめる」とは、何を?
「様々な噂、伝説……何より、空に最も近い所の風景を」
――「空に最も近い所」、ウェンさんらしい詩的な言い回しですね。
「いや、事実を言っただけですが……」
――ははは。それで、「空に最も近い所」は、どんな所でした?
「恥ずかしい話ですが……実は、よく憶えていないのです。必死でしたから、あの時は」
――それ程、ガンガーは険しかったと?
「ええ。『もう駄目だ』、『ここで死んでしまう』と、何度も思いました」
――こう言っては失礼ですが、よく生きて帰れましたね。
「はい。ずっと夢を見ている様でした……。全部夢だと言われても、納得してしまいそうです」
――そんな寂しい事を仰らないで下さい。
「いいえ。登頂の証に、山頂の氷を持って帰るのが、私には精一杯で……。
ただ行って帰って来たに過ぎないのです」
――いえいえ、そんな事はありませんよ。正確な記録に残るガンガー制覇、これは偉業です。
「有り難う御座います……」
(以下、詰まらない話が続く)
ウェン・ライ・ン・ンは、世界各地の高峰を制覇した、登山家の英雄である。
しかし、彼はガンガー山脈制覇について、多くを語りたがらなかった。
ブリンガー地方のソーダ山脈や、ボルガ地方の霊峰を制覇した時は、嬉々として、事細やかに、
時に詩的な表現を交えて、その感動を過ぎる程に伝えたのだが……。
ガンガー制覇以後、ウェンは完全な鬱状態になった。
日を経るに連れ、彼の行動・言動は不安定になり、最期は入山自殺に限り無く近い形で、
ガンガー山脈で凍死した。
彼が発つ前に遺した最後の言葉は、「もう一度、確かめに行く」であった。
鬱病になった理由について、詳しい事は判っていないが、長らく極限状態に置かれたトラウマと、
高山病の後遺症が原因とされている。
「こんな事を言っても、誰も信じてくれませんが……私は精霊の声を聞いたんです」
「幻聴では?」
「やはり、あなたも信じてくれない……! 何度も、何度も何度も、私に語り掛けて来たんです!」
「お、落ち着いて下さい」
「あ、ああ、済みません……。幻聴……? ええ、幻聴、そう考えるのが自然ですよね……」
「その精霊とやらに、何か言われたんですか?」
「いいえ、大した事じゃないんです……。ええ、確かに、幻聴に違いありません」
「どうやら、お疲れの御様子。心の整理が付くまで、どこか静かな所で、お休みになられては――」
「はい。そうします」
ガンガー山脈の最高峰は、標高1区1通1巨、通称オールワン。
極北人の伝承では、そこには精霊の父がいると云う。
しかし、精霊の父とは如何なる存在なのか、詳しくは伝わっていない。
エグゼラ地方ガンガー北極原にて
ガンガー山脈の北に広がる平原は、分厚い氷に覆われた、草木の一本も生えない死の大地である。
同じ極北人でも、ガンガー山脈の北側と南側の民族は、殆ど接点が無い。
ガンガー山脈南麓の民族は、時代が進むに連れて他民族と混血し、純血種は残っていないが、
ガンガー北極原で暮らす民族は、全くと言って良い程、交雑が進んでいない。
ガンガー山脈の北側は、人が住める所ではないのだ。
深刻な食糧不足の為、ガンガー北極原で暮らす人々は、食物を選ばない。
年に数度現れる大海獣、氷海を漂う極小の甲殻類、氷を深く掘った下にいる泥虫、土中の無機質物、
同族の死肉……。
魔導師が訪れ、魔法作物を栽培する様になって、生活は多少豊かになったが、劇的な変化は無かった。
この民族は、人を襲って食べる訳ではないのだが、史記にあるガンガー山脈南麓の民族と混同され、
その誤解から未だに人肉食と恐れる者もいる。
サティ・クゥワーヴァが、ガンガー北極原の調査に向かうと言い出した時、ジラ・アルベラ・レバルトは、
彼女の正気を疑った。
サティは極北人の集落で調査を行うばかりでなく、旧暦の遺跡探索と、ガンガー山脈制覇をも、
目的にしていた。
極北の大地は、見渡す限りの氷原で、太陽も沈まず、極北人の案内無しに移動する事は出来ない。
その地理に詳しい極北人でも、余程の事が無い限りは、安全なルート以外を歩かない。
旧暦の遺跡は既に魔導師会が探索を終えた場所で、開花期以降は近寄る者が無く、今となっては、
極北人でも道を知る者はいない。
ガンガー山脈は、登山道こそ確保されている物の、何より山登りが厳しい。
ガンガー山脈の南側は傾斜が急で、途中から断崖絶壁になっており、中腹までしか登れず、
山頂を目指すなら、寒風吹き荒れる北側から登るしかない。
復興期から、ガンガー山脈の頂に挑んだ者は数知れないが、山頂に辿り着いた者は指折り数える程。
1人は大戦六傑のミタルミズである。
ガンガーの北は、如何にサティが十年に一度の才子と呼ばれる存在であっても、
容易に歩き回れる場所ではないのだ。
しかし、サティはジラの制止を聞かなかった。
エグゼラ地方に入ってから、サティは以前にも増して無口になり、超越した態度を取る様になった。
だから――――もしかしたら……彼女なら平気かも知れない。
そんな有り得ない事を、執行者ともあろう者が、考えてしまうのだ。
元からサティは口数の多い方ではなかったし、魔法資質に劣る者を見下す節があった。
サティの事は、ジラの気の所為だったかも知れない。
常識で考えれば、広大なガンガー北極原を1人で移動するのは、無謀。
サティ・クゥワーヴァの監視役である執行者、ジラ・アルベラ・レバルトは、
何としても彼女を止めるべきであった……。
サティ・クゥワーヴァとジラ・アルベラ・レバルトは、地元民の案内で、7月の中旬に、
ガンガー北極原に入った。
季節は夏だが、ガンガー北の夏は、他の地域とは全く違う。
白夜が有名だが、昼間は氷霧が発生して、只でさえ弱い日差しが、更に弱まり、
真冬と気温の差が殆ど無い。
完全防寒装備で臨むジラとは対照的に、サティは相変わらず服装を変えなかった。
これには極北人の案内人も驚いた。
極北人の集落に着いたサティとジラは、僻地の異文化に触れる。
極北人の集落は、雪原に幾つも並んだ小高い丘。
雪が解けないガンガー北では、極北人は雪と氷の下に『家<イグルー>』を構える。
小高い丘の一つ一つの地下に、住居があるのだ。
極北人は、地下4身も掘って漸く姿を現す、固い土の上に砂利を敷き、その上に毛皮を被せ、
氷の天井と壁を煉瓦で覆う。
天井には通気孔と小窓が幾つか。
毛皮のコートを着て丸々と膨れ、地下壕の様なイグルーに出入りする人々の姿は、
まるで極北に棲む大熊の様だが、内装は整っており、(こう言っては失礼だが)意外に文明的である。
サティとジラは、旅行者用の空き家を借り、そこを拠点にした。
外は雪風でも、イグルーの中は一定の温度と湿度があり、快適とまでは言えないが、
体を休める事が出来る。
翌日の調査に向けて、早速準備を進めるサティと、何とか思い止まらせようと説得を試みるジラ。
しかし、サティの意志は固く、低い太陽は時の儘に、西へと流れて行った。
夕方になると、極北人の案内人が、2人に夜食を持って来た。
案内人が差し出した、布巾の掛かったバケットを、ジラは笑顔で受け取る。
「有り難う御座います。
これは何ですか?」
「ドロむしです」
北方訛りの語調で、案内人は答えた。
「泥蒸し……。
何の泥蒸しですか?」
「えや、虫です。
泥虫の丸煮」
泥虫とは土中に潜む無足種(ワーム状生物)の総称であり、特に種類を区別しない。
ミミズもウジも全部泥虫である。
味も臭いも無いが、極北では貴重な蛋白源。
ジラは引き攣った笑みを浮かべて訊ねた。
「こ……ここの方々は、こう言った物を日常的に食してらっしゃるのですか?」
ブリンガー地方出身のジラは、虫が怖い訳ではないが、虫を食べる事には抵抗があった。
「いいえ、我等は普通生食です。
……あのォ、調理せず、生の方が、宜しかったでしょうか?」
生食の物を調理した事が、無粋だったのかと、案内人は謙って尋ねる。
生きた虫を食わされては堪らないと、ジラは慌てて否定した。
「いいえ!
お気遣い、どうも……ははは……」
異文化交流は中々難しい物である。
案内人が去った後、ジラはサティに相談する。
「こんな物、頂いたんだけど……どうしよう?」
悪戯気分で、彼女はサティにバスケットの中身を見せたが、サティは動じない。
「食べれば良いんじゃないでしょうか?」
「え、食べるの?」
「――と言うか、他に使用方法があります?
何処でも虫ぐらい食べるでしょう。
ブリンガー地方では、バッタや芋虫を揚げて菓子にすると聞きましたが?」
「何処の田舎の話?
虫を食わせる所なんて、ブリンガーでは下手物屋くらいの物よ」
開花期までは、何処でも食虫の習慣があった。
所が、魔法作物の登場によって、食料の生産量が増えると、虫を食べる地域は徐々に減って行き、
特にブリンガーとティナーでは、平穏期の中頃には既に、家庭の食卓に並ばなくなった。
現在でも虫を普通に主食副食としている地域は、食糧の自給が心許無いグラマー地方とエグゼラ地方、
虫料理が盛んなカターナ地方、それ以外は、都市との交流が少ないド田舎くらいの物。
ジラの反応は、「ブリンガー市民としては」普通である。
サティが何の躊躇いも無く、太ったウジ虫を摘まみ、そして口に運ぶのを見て、
ジラは食べてもいないのに、げんなりした表情になる。
丸々と太ったウジ虫、ミミズの様な紐状の虫……赤、青、緑、黄、色形は様々で、統一性が無い。
食用とか食用でないとか、そんな区別はされていないのだ。
「お、美味しいの?」
「この類の虫は、そんなに味のする物ではありませんよ。
気になる泥臭さもありませんし、そこは配慮して下さったのでしょう。
――っと、赤いのと小さいのは酸っぱいので気を付けて下さい」
トカゲや砂虫(砂の中に潜む無足種の総称)を食べる習慣がある、グラマー地方民のサティは、
味わった結果を冷静に報告した。
「いや、誰も食べるとは言ってないけど……。
それ……例えるなら、どんな味?」
「一般的には、小エビに似た味――と表現するらしいのですが……グラマー地方では、
エビを食べる機会が無いので、それで正しいか私には解りません。
サソリとは違いますし」
ジラは小声で唸りながら、虫の死体を凝視する。
サティは続けて言った。
「尤も、虫料理を食べられない人の大半は、味以前に、先入観から嫌悪感が先行し、
過敏になって、口に含んだだけで吐き気を催すと聞きます。
無理に食べなくても、良いんじゃないでしょうか?」
暫し、沈黙の時が訪れる。
サティは数匹食べた所で手を休め、真面目な声でジラに話し掛けた。
「ジラさん、お話があります。
私に付いて来て下さい」
ジラはバスケットに残った虫の山を見て、「サティも虫が余り好きじゃないのかな?」と、
見当外れな事を思った。
そして、大した疑問も抱かず、雪風荒ぶイグルーの外に出たサティの後を、追ったのである。
ジラが防寒着を装備し終え、イグルーの外に出る頃には、地吹雪は止んでいた。
静かに晴れたガンガー北の夜は、氷海の海獣も凍え死ぬ寒さ。
薄明かりの中、空には蛍光緑のカーテンが掛かっていた。
氷雪の大地は、天空のカーテンを映し、淡い緑に仄光る。
緑に染まった不毛の地、幻想的な風景の中で、サティはイグルーから離れた位置に、
やはり何時もと変わらないローブ姿で、寂しく立っていた。
「こんな時期でも、オーロラが見えるんだね……」
ジラはサティに歩み寄りながら、空を見上げて、白い息を吐く。
(――オーロラに、見えますか?)
ジラは不意に聞こえた囁きに驚いた。
少し遅れて、これが共通魔法によるテレパシーだと理解する。
成る程、極北の乾燥した冷たい空気で、喉を痛めずに済む、合理的な方法ではある。
その事に感心して、ジラはサティが言った事の意味までは気にしなかった。
ジラはテレパシーの共通魔法で、サティに尋ねる。
(話って何?
って言うか、この寒いのに、わざわざ外に出る必要があったの?)
この時、彼女は何と無く察していた。
話と言うのは、恐らくガンガー北極原の調査に関する事で、ジラが何と答えようと、
サティは調査に行くと言って譲らないに違い無い。
ジラは職務上、これを見過ごす訳には行かない。
断固たる姿勢で臨めば、魔導師会を敵に回す様な真似は、サティには出来ないと、
ジラは高を括っていた。
サティは徐にベールを取って、黒く長い髪を解き、極北の風に流した。
そして身を屈め、氷の大地に両手を突いて、土下座する様な体勢になる。
(ジラさん……私は出来る事なら、この姿を人に見せたくありませんでした。
しかし、こうでもしなければ、あなたは納得しないでしょう)
(何を大袈裟な……そんな事くらいで、私の考えは変わらないけど?)
てっきりジラは、頭を下げて許しを請うと思っていた。
しかし、そうではなかった。
そうではなかったのだ。
サティは達観した調子で、淡々と意思を伝える。
(そうですか……。
確かに、私の監視役なら、既に知っていても不思議ではありません。
では、篤と御覧下さい。
ここで私が行う事、あなたが見た事、全て、魔導師会に報告して構いません。
私は遂に至りました)
(何の事?
あなた何言ってるの?)
ここに来て漸くジラは、この事態が尋常でない事に気付いた。
夏のエグゼラ地方では、オーロラは見られない。
氷の大地から、陽炎の様に上り立つ、淡い緑の揺らめきは、地表に舞う細かい雪の粉を、
天空のオーロラが照らし出した物ではない。
雲に覆われて吹雪いていた空が、ほんの2、3点で、雲一つ無い晴天に変わる事は無い。
これ等は全て、サティが――……。
「止めなさい、サティ!!」
ジラは悪寒に身を震わせ、衝き動かされる様に、大声で命令した。
サティが何をする積もりか、彼女には全く解らなかったが、何もさせてはいけないと思った。
(ジラさん、私は理解したのです。
それを今――)
サティの自信に満ちた心が、テレパシーを通じてジラに伝わって来る。
この事態は、本当に尋常ではない。
サティの青白い肌は、まるで死人……ジラは、北方の伝承、雪の精を想起した。
極北の凍える風は、魔導師のローブだけで耐えられる物ではない。
氷雪の中で、身動ぎ一つしないサティは、魔法で体を護っていると言うより、生気の無い体を、
魔法で動かしている様な……そんな印象だった。
深く考えてはいけない。
ジラは全くの無意識に、サティの異常性に関する考察を止める。
サティは知ってはならない何かを知ってしまったと、それだけを認識して。
「サティ……お願い、もう止めましょう?
あなたの目指す先に、あなたを幸せにする物は、何も無いわ」
サティは何も答えず、ジラの問いは、氷の大地に虚しく響く。
何処までも静かな夜に、ジラは己の無力を痛感した。
(……ジラさん、私はガンガー北の調査を行います)
「……あなた独りでやると言うのね?」
(はい)
事は既に、ジラが判断して良い問題ではなくなっていた。
「解った……。
好きに……すれば良い」
ジラ・アルベラ・レバルトは、サティの説得を諦めた。
彼女は執行者の職務を放棄したのだ。
この後、サティ・クゥワーヴァは宣言通り、単独でガンガー北極原の調査に赴く。
ジラ・アルベラ・レバルトは、体調不良を理由に、極北人の集落に残り、サティの帰りを待った。
ジラが魔導師会に、この事を正確に報告したかは、定かでない。
禁断共通魔法の使用が許可されるまで
禁断共通魔法が、資格を持っている者に限るとは言え、公に使用を許可されるには、
長い期間と手順が必要となる。
新しく開発された禁断共通魔法は、象牙の塔で実験を繰り返し、実用に堪えられる物か試される。
その後、査定官の審査を受け、倫理的に問題が無いか、悪用された場合の危険性は如何程か、
十分に期間を置いて吟味し、許可範囲を決める。
更に、試用期間を置き、全体に導入する前に、実際に問題が発生しないか確認。
そこで問題が無いと確認されて、初めて禁断共通魔法は、大衆の生活に関わる物になる。
魔導師会は基本的に、禁断共通魔法の例外を認めたがらない。
民間に需要が発生して、早期に導入する様に圧力が掛かってからでないと、査定官の動きも鈍い。
時には、態と審査を遅延させ、機運の挫折を図る。
然るに、禁断共通魔法の限定的な解放は、強い要望があって、初めて為される物であり、
万が一に問題が発生した際にも、魔導師会が負う責任は大幅に(完全ではない)減免される。
これは時に利権と絡み、水面下で激しい政治的な駆け引きや取り引きが行われるが、
魔導師会は対立する2つの意見が存在する場合、基本的には独自に決定を下さず、
双方の直接対話を促し、妥協点を探らせる。
自己判断をしない究極の役所仕事だが、政治的判断を極力避けると言う意味では正しい。
魔導師会の目的は、飽くまで魔法秩序の維持と管理なのである。
「今年の6月に、エグゼラ地方で再生魔法の試用が行われたそうです」
「やっとか」
「条件が厳しすぎましたからね。実際に使わせる気は、無かったのかも知れません」
「エグゼラ魔導師会の手柄だな」
「それが、そうでもなくて……結局、再生魔法の解放は、取り止めになる見込みだそうです」
「そりゃどうして?」
「術者の負担が大き過ぎる事、人手が掛かり過ぎる事、魔力消費が大き過ぎる事、
この3つが原因と言われていますが――」
「いますが?」
「それは以前から判っていた事ですから、もしかしたら誰か感付いたのかも」
「……だったら仕方無い。あれは危うい」
「再生魔法の解放中止について、一般の反応は?」
「市民団体からの抗議声明が幾つか」
「具体的には?」
「助かる命を見捨てるな、魔力と人命を引き換えにするのか――と、こんな所です」
「瀕死の者を1人救う魔力と人員で、より多くの者を救えると……そう割り切れる物では無いか」
「救急救命ではなく、身体欠損の修復手段として、解放を期待する声もあります」
「それは倫理的な問題が未解決と」
「市民間で意見が統一出来ていない事から、今の段階では、その言い訳で何とか凌げていますが、
将来完全な合意の下で解放要求が提出された場合は、どうなさるのですか?」
「……私が決める事では無いにしても、見解の表明は必要になるだろうな」
「はい」
「歴代は時の趨勢に任せると言っていたが、今思えば中々無責任な発言だ。
未だ先の事だと良いが――どうだろうな」
「カーラン・シューラドッドの存在があります。B級禁断共通魔法の開発状況は加速するでしょう。
知ろうと思えば誰でも知れる状況になるのは、そう遠くないと思っています。
今代、私の代では無いにしても……」
「魔法大戦の傷は未だ癒えぬ。魔法を大衆の手に委ねるには早過ぎる。
人々には今少し夢を見ていて貰わねば」
「何も知らせぬ儘、時を迎えさせるのですか?」
「それが最良。魔法は費え、全ては幻であったと」
「魔導師会創設当初の意志とは違いますが……」
「時代は変わったのだ」
魔法暦496年 禁断の地にて
バーティフューラーの誘惑を退けたラビゾーは、流石はアラ・マハラータの弟子と、
禁断の地の住民から、一目置かれる様になっていた。
しかし、それをラビゾーは買い被りだと思っており、自己評価との落差から、
彼は尊敬の眼差しで見られる事に、心地悪さを感じていた。
そんな、ある日の事。
ラビゾーはアラ・マハラータ・マハマハリトに連れられ、禁断の地の森に出掛けた。
凶悪な魔法生物が徘徊する森の中、マハマハリトは村から離れ、森の深く深くへと立ち入る。
一体どこまで行くのか、ラビゾーが不安になり始めた時、マハマハリトは急に立ち止まった。
「あれを見よ、ラヴィゾール」
師が指した先には、大きな霊獣の鹿……いや、牛?
とにかく立派な角を持った、巨大な有蹄の動物が立っている。
1頭で、孤独に。
「あれが、どうかしたんですか?」
何が出ても不思議ではない禁断の地の森では、比較的常識的な形状の生物であるが故に、
標準より大き目の動物を見た位では、ラビゾーは然して驚かなかったが、この後の師の答えに、
我が耳を疑う。
「あれはゴーパーさん家の山羊でな」
ゴーパー家は、禁断の地の村で代々牧場を経営している一家である。
外部との交流が殆ど無い禁断の地では、牧場経営者は比較的高い地位にある。
同様に村で牧場を経営している家は他にもあり、ゴーパー家は何も特別な家柄では無かった。
「あれが山羊!? ゴーパーさん、あんなの飼ってたんですか!?」
牛より一回り所か、二回りも大きな怪物山羊の存在と、一見普通の牧場主であるゴーパー家が、
誰にも知られず怪物山羊を飼っていた事の衝撃。
「声が高いぞ、ラヴィゾール。
……あぁ、気付かれたわい」
気の抜けた師の声から、ラビゾーは山羊が逃げ出したのかと思った。
しかし、己の目で確認した事実は、予想とは全く違った。
体高1身半もある山羊……最早、山羊と言って良いのか判らない、その大型動物は、
ラビゾーとマハマハリトを睨み付け、鼻息荒く蹄で土を蹴って威嚇している。
こんな物が突進して来たら、一溜まりも無い。
ラビゾーは何時でも逃げ出せる様に身構えたが、彼の師であるマハマハリトは、泰然自若としていた。
「ホッホッ……恐れるでない、ラヴィゾール。
弱気を見せれば付け込まれる」
流石は我が師であると感心するラビゾーだったが、自身の不安は抑え切れない。
挙動不審になる小心の弟子に構わず、マハマハリトは言う。
「少し儂の話を聞け。
哀れな子山羊の話よ」
「何と無く長い話になりそうな気がしますけど――」
今は悠長に話をしている場合なのかと、問い質そうとしたラビゾーだったが、
マハマハリトは無視して語り始める。
「あの山羊は放し飼いにしてあるのでは無い。
捨てられた訳でも無い。
自ら牧場の柵を越えたのだ」
「……確かに、見るからに暴れん坊って感じです」
「元々は、周りの山羊より少し体が大きいだけの奴だった。
だが、それが災いしてか、好戦的に育って、何事も力尽くで通す癖が付いてしまってのォ……」
マハマハリトは溜め息を吐く。
ラビゾーの目付きが鋭くなった。
「詰まり、八分られた訳ですね。
それで戻るに戻れないでいると」
「う、うむ……お前さんは時々妙に勘が良くなるの」
集団において、攻撃性の高い個体の役割は、外敵を撃退する事である。
しかし、その攻撃性は、外敵が存在しなくなると、内へ向かう場合が多い。
結果、仲間から疎まれ、八分にされるのだ。
そうして、この山羊は群れに居辛くなり、自ら牧場の外へと飛び出した。
それから森の中で魔法生命体と戦う内に、こんなにも逞しくなってしまった。
――だが、山羊は群れる生き物。
どんなに強くても、1匹では寂しいのだ……。
だから今でも、村から近過ぎず遠過ぎない距離を彷徨いている。
大凡の事情を察して、怪物山羊を同情の目で見詰めるラビゾー。
彼の反応を確かめたマハマハリトは、満足気に頷いた。
「ラヴィゾール、課題を与えよう。
この山羊を手懐け、村に連れ帰るのだ」
「えっ!?」
「これも魔法を極める試練。
何、今日一日でとは言わん。
好きなだけ時間を掛けるが良い」
そう言うと、マハマハリトは平然と怪物山羊に背を向けて、来た道を引き返し始める。
ラビゾーは師の後を追おう思ったが、怪物山羊から目を離す事が出来なかった。
隙を見せれば、この怪物山羊は間違い無く、襲い掛かって来る。
ラビゾーは先に帰った師を、狡いと恨んだ。
立ち竦むラビゾーの背に、遠くから師の声が掛けられる。
「ラヴィゾール!!
この課題を達成するまで、日の明るい内に村に入る事は許さん!」
「そ、そんな……」
ラビゾーの気弱な呟きは、誰の耳にも入らなかった。
マハマハリトがラビゾーに怪物山羊の連れ帰りを命じて、早十日。
事情を知っている村人は、ラビゾーの為に弁当を用意したり、使い古しの探索装備を下ろしたりと、
何かと彼に協力的だったが、未だ目的は達成されていなかった。
その間、ラビゾーは律儀に日が昇り切らない内に森に出掛け、夕方暗くなり始めるまで、
村に帰ろうとしなかった。
そうする事が、村人の厚意に対する誠意と思っていたからである。
この十日間、一応進展らしい物はあった。
ラビゾーは数日で怪物山羊の行動範囲の把握に成功し、一日中森を歩き回れば、
取り敢えず怪物山羊に遭遇出来る様になった。
しかし、そこからの進展が殆ど無かった。
ラビゾーは何度も怪物山羊に挑み、その回数だけ退けられた。
怪物山羊は見た目、普通の山羊と違うので、それなりの知能の高さを期待したラビゾーは、
初めは平和的解決を目指し、共通魔法での対話を試みたが、魔力制御が上手く行かず、
徒労に終わった。
魔法で駄目なら、生理的な欲求を利用しようと、餌付けも試みたが、これも失敗。
ラビゾーが何をしても、怪物山羊は頭突きで応じた。
ただ連れ帰るだけなら、様々な方法があるだろう。
しかし、師マハマハリトの言い付けには、「山羊を手懐けよ」ともあった。
実際、マハマハリトがラビゾーに教えたかった事は、手の抜き方である。
舌先三寸で無理難題を躱し、相手を遣り込める、狡猾さ、小賢しさ。
そう言った物を、身に付けさせようとしたのだが……ラビゾーは不器用過ぎた。
ラビゾーは中々思う通りに事が運ばない為、己の不出来を恥じ、師と顔を合わせる事すら、
避ける様になっていた。
半月が過ぎた頃、ラビゾーは怪物山羊の行動について、ある事実に気付いた。
最近、遭遇頻度が増している。
まるでラビゾーの行く先を知っているかの様に、待ち構えている事が多い。
餌を持って来ると思って、狙われているのかも知れない。
これは問題だと、ラビゾーは頭を抱えた。
所詮、相手は畜生なのだ。
奪える奴から奪う物を奪った、それだけの事に、恩義を感じる事は無い。
(弱ったな……)
有無を言わせず課せられた難題とは言え、自分で一度やると決めた事で、
「出来ません」と音を上げるのは、彼にとっては大きな屈辱だった。
しかし、力尽くで従わせようにも、怪物山羊とは生物として根本的な所で、差があり過ぎる。
(――根本的?)
ふとラビゾーは疑問に思った。
一体どうして、この山羊は化け物染みた変化を遂げたのだろうか?
全身を覆う真っ黒な長毛は、よく見れば山羊の物に見えなくも無いが、異常に伸びて前に突き出した角、
凶悪な貌付き、何より牛馬をも上回る巨体は、山羊本来の物とは懸け離れている。
突然変異にしては、余りに異常過ぎる。
元から山羊ではなかったのか、それとも――これが禁断の地と云う場所なのか……。
(今考えても、詮無い事だが)
そんな事より、何とか怪物山羊を連れ帰る方法を見つけなくてはならない。
諦めるか、続けるか、ラビゾーの心は揺れ始めていた。
それから何の進展も無い儘、二十日が過ぎた。
ラビゾーは山羊を手懐ける所か、警戒心を緩める事すら出来ていなかった。
彼は自分でも、毎日毎日何をしに出掛けるのか、意味を見失っていた。
焦燥から心苦しさばかりが募る。
そんな時、ラビゾーは村の外れで、バーティフューラーと出会った。
「あら、ラヴィゾール。
アンタ、面白い事してるってね」
「何も面白くなんか無いですよ」
彼女の軽口に、不機嫌になるラビゾー。
その反応に、バーティフューラーは意地の悪い笑みを浮かべる。
「知ってるわよ、逃げ出した山羊を捕まえに行くんでしょう?
ねぇ、付いて行っても良い?」
「危ないですよ……」
禁断の地の森には、魔法生命体が徘徊している。
「じゃ、アンタが守ってよ」
「本当に危ないですって」
ラビゾーは逃げ足には自信があるが、人を庇う余裕は無い。
それに理由は解らないが、彼は危険な場所に女性を連れて行く事に、強烈な抵抗を感じていた。
「平気よ。
森の中を歩くのには、慣れてるからさ」
しかし、バーティフューラーは聞く耳を持たない。
「でも……」
「男なんだから、少しは頼り甲斐のある所を見せなさいよ」
彼女は気の弱いラビゾーを罵り、強引に頷かせた。
……そして、ラビゾーは何時も通り怪物山羊と出会い、何時も通りに撃退された。
怪物山羊の頭突きで弾き飛ばされ、地面に転がったラビゾーに、バーティフューラーは言う。
「アンタ、何がしたいの?」
「僕にも解りません……一体、どうすれば良いのか……」
「毎日こんな事やってるの?」
「……そうですね」
「馬鹿じゃないの?」
ラビゾーは何も言い返せなかった。
ここ数日間、彼は明らかに迷走していた。
それでも何もしない訳には行かず、無意味に当たっては砕けていた。
バーティフューラーは溜め息を吐く。
「アタシの魔法を使えば連れて帰るのも簡単だけど?」
「……駄目ですよ。
僕の課題なんですから」
「結果は同じなんだから、誰がやっても良いじゃない」
禁断の地の住民とは、押し並べて、この様な物なのだ。
この時、ラビゾーは感付いた。
この試練は目的さえ果たせれば、何をしても良い、人の手を借りても良いと。
「同じ……じゃないですよ。
この儘で帰ったら、こいつ、どうなるんですか?」
「さぁ?
後の事は、どうでも良いじゃない」
「それだと同じ事の繰り返しですよ。
こいつは、また牧場を飛び出してしまう」
「それは牧場主の責任でしょ?」
「あぁ……」
一瞬、ラビゾーは納得しそうになった。
人を安易な方へ誘惑するバーティフューラーは、旧暦の伝説にある悪魔の様。
いや、ここでは安易な方法を選んで良いのだ。
怠惰であるとか、堕落するとか、そんな小言を吐く者はいない。
しかし、天邪鬼なラビゾーは、流れに逆らいたくなる。
師の用意した答えに従うのではなく、自分は自分だと示したくて。
「それでも、僕は自力でやり遂げたいんです」
「アンタは本当に、変わってるわねェ……」
バーティフューラーは心底呆れ返った。
……1月が過ぎた。
ラビゾーが格好付けた割に、進展は何も無かった。
余りの滞り具合に、村民はラビゾーの行動を気に留めなくなり、次第に興味を失って行った。
しかし、以前とは違い、ラビゾーは焦らなくなっていた。
自分の進むべき道を知った事で、怪物山羊の行動を冷静に観察して、反応の変化を待つ、
精神的な余裕を持てる様になっていた。
そして迎えた1月と1日目、ラビゾーは恐るべき物を目にする。
天気は小雨。
こんな時に限って、何故か遭遇地点に怪物山羊がおらず、ラビゾーは怪物山羊を探して、
泥濘んだ地面に足を取られながら、薄暗い禁断の地の森深くに進入した。
1針もしない内に、彼は新しい獣道を発見した。
その先には……重傷を負い、息も絶え絶えに寝そべっている怪物山羊がいた。
立派な両角は憐れにも根元から折れ、雨に濡れた長毛からは、脈打つ様に赤い水が滲み出ている。
(これは死ぬな)
医学的な知識の浅いラビゾーでも、一目で判る位、絶望的な状態だった。
ここで死なれては、試練は失敗扱いになるかも知れない。
怪物山羊の死体を持って帰り、師の前で「大人しくなったでしょう」と頓知を披露する考えも浮かんだが、
実行する気は起きなかった。
何とか治療出来ない物かと、ラビゾーは怪物山羊に近寄ろうとしたが、怪物山羊はラビゾーを警戒して、
起き上がろうとする。
下手にラビゾーが動くと、失血死を誘い兼ねない。
(僕は敵じゃないってのに……!)
ラビゾーは歯痒い思いで、怪物山羊を睨んだ。
……死に行く物を睨んでばかりいても始まらない。
ラビゾーは怪物山羊の敵意を取り除く為に、共通魔法の「動物と話す魔法」を使おうとした。
もう何度も何度も試した方法である。
今回ばかりは、意思の疎通は出来なくても、自分に敵意が無い事を解って欲しかった。
「E1E1A5、E1E1A5・EG4K3F4――」
ラビゾーは魔力の流れが読めない。
魔力を制御出来ているか認識出来ないので、完全に詠唱を終えるまで、魔法が成功するか、……
失敗するかも判らない。
只でさえ、禁断の地では共通魔法が失敗し易いのに。
(生きろ、生きろ、生きろ)
それでもラビゾーは必死に、心の中で念じながら、呪文を唱えた。
――彼の想いが届いたのか、それとも力尽きてしまったのか、怪物山羊は緩やかに動きを止めた。
死んでしまったのかと、ラビゾーが蒼褪めた時……怪物山羊に異変が起こった。
ラビゾーの目の前で、怪物山羊は音も無く見る見る凋み、空気が抜けた紙風船の様に、
外皮だけになって、ぺしゃんこになってしまったのだ。
ラビゾーは我が目を疑い、言葉を失った。
誰かの悪戯か、物の怪に化かされたのか、未知の自然現象か、彼は大いに戸惑い、混乱した。
(……僕の所為じゃない……よな?)
共通魔法が何らかの悪影響を及ぼした可能性もある。
とにかく、どうなってしまったのか確認しようと、ラビゾーが怪物山羊の残骸に近寄ると……。
「メェー!」
高い鳴き声がして、真っ黒な子山羊が、毛皮の下から這い出て来た。
体長半身弱、至って普通の子山羊である。
(なななな、何だ!?)
子山羊はラビゾーに纏わり付き、彼の体を嗅ぎ回り始める。
「何が一体どうなって…………って、痛!」
呆けていたラビゾーは、脛に子山羊の頭突きを受けた。
「こ、こいつ……」
瘤の様な角が当たった場所が、じわじわ痛む。
しかし、この子山羊からは、怪物山羊の様な悪意や敵意は感じられなかった。
これを1匹で森の中に置いて帰るのは、危険だと判断したラビゾーは、理由を考える事を止めて、
雨の中、子山羊を抱えて村に戻った。
子山羊は意外と大人しかったが、その重量と温もりは、決して幻では無かった。
黒い子山羊を連れ帰ったラビゾーは、師マハマハリトを頼った。
そして全ての事実を、洗い浚い有りの儘に話し、何が起こったのか、説明を求めた。
「まさか、師匠の仕業じゃないですよね……?」
「お前さんが何を言っとるのか、儂には全く解らん。
だが、お前さんの言う事に偽り無ければ、課題は熟した事になるの」
しかし、マハマハリトは考える素振りも、悩む素振りも見せず、真剣に取り合おうとはしなかった。
そればかりか、事実の追求もせず、課題の合格を認める発言をした。
「え……いや、嘘は吐いてませんけど……それで良いんですか?」
「何じゃ?
他の課題が欲しいんか?」
少なくともラビゾーの目には、そう映った。
「い、いいえ……。
……あの、この子山羊、どうしましょう?」
「ゴーパーさん家に持って行けば良かろう」
こうしてラビゾーは、自分でも訳が解らない儘、師に課された難題をクリアした事になった。
誰も予想しなかった結果に、村中の者は驚き、流石はアラ・マハラータの弟子と、ラビゾーを称えた。
しかし、当の本人にとっては不満の残る終わり方であり、やはり過大評価であると、
暫くは悶々とした日々を過ごす破目になった。
「ラビゾー、森の暴れ怪物山羊を仕留めたってな」
「仕留めてなんかいませんよ」
「怪物山羊を子山羊に変えて、持ち帰ったんだ。大して変わらないだろう」
「……その言い方だと、まるで僕が怪物山羊を、子山羊に変えたみたいじゃないですか」
「違うのか?」
「あの日、怪物山羊は大怪我して死にそうな状態で……、死んだと思ったら見る見る凋んで……、
毛皮の絨毯みたいになって……、その下から子山羊が現れて……。
僕は子山羊を、森の中から連れて帰っただけなんです」
「悪い、何言ってるか全然解らない」
「とにかく、僕は何もしてないんですよ」
「それは変だ。誰も何もしないのに、独りでに姿が変わった何て」
「その変えた変わったって言うのも、正しいか判りません。何れにせよ、僕は無関係です……多分」
「それじゃ何かい? 怪物山羊は自分で、子山羊に姿を変えたって?」
「……そうかも知れません」
「不思議な言い方をする。マハマハリトさんみたいだ」
「違いますよ。あの人は解って惚けているんです。僕は本当に何も知らない」
「ラヴィゾール、話は聞いたわ。アンタ、一体何をしたの?」
「何の話です?」
「あの暴れ山羊の事よ」
「……知りませんよ。僕が聞きたい位です」
「あらら、惚ける気?」
「違います。本当に知らないんですよ」
「はいはい。アンタの魔法に関係する事なら、深くは聞かないわ」
「いや、本当に知らないんですって」
「この子は、あんたに相当懐いとるな」
「懐かれる様な覚えは無いんですが……こいつ、何か変わった所ありませんでしたか?」
「いいや、普通の山羊だね。毛色以外、あれとは似ても似付かない」
「……こいつ本当に何なんでしょう?」
「あんたが解らん事、私等に解る訳も無い。確かな事は、あんたが森から山羊を連れ帰って、
私の牧場に山羊が1匹増えた事。そして、それは良い事さ」
「はい……そうですね」
拝啓 プラネッタ・フィーア様
今年も残す所、数日となりました。
グラマーでは寒さが厳しくなる頃と存じます。
私は現在、カターナ地方のガラス市に滞在しています。
カターナ地方での調査は、今回で一通り終了しました。
振り返れば今年一年、大きな障害となる様な事は、ありませんでした。
これもプラネッタ先生を始め、多くの方々の、お心添え、御心配あっての事と感謝しております。
終末週を迎える前には、グラマーへの帰途に就く予定です。
グラマーに着き次第、先生に直接お会いし、改めて調査報告と、御礼の御挨拶をさせて頂きます。
敬具
11月20日 サティ・クゥワーヴァ
カターナ地方は、全体的に魔導師の数が少ない。
共通魔法を使う者も、他の都市と比較して少ないが、魔導師になる者の比率となると、
更に極端に落ち込む。
しかし、娯楽魔法競技の人気は非常に高い。
娯楽魔法競技人口も多く、概して優秀であり、高い魔法資質を持つ人材が豊富である。
それにも拘らず、カターナ地方に魔導師が少ない理由は、魔法資質が高いが故に、
労せず魔法を使える事で、原理を学ぶ意欲が低いからとされている。
……魔法に限らず、快活なカターナ市民は、成果が見え難い精神労働を嫌う傾向があるので、
その事とも関係があると言われている。
カターナ地方の小都市ガラスにて
この日、この街で、娯楽魔法競技フラワリングの公開演習が行われようとしていた。
一口に『公開演習<エクシビション>』と言っても色々あるが、今回ガラス市で開催される物は、
著名な競技者を呼び寄せ、フラワリングが一体どの様な競技なのか、実演して見せる物である。
普通、この様な形式の物は、最も実力がある者を主任にし、その前に中堅所を、
更に前に無名だが実力のある新人を充てる。
今回のプログラムは、南南東の時から2針毎に1人が実演する形式で、南の時に半角の小休止を挟み、
南南西の時から再び2針毎に1人が実演、南西の時に終了する。
東方の3人は新人2人と中堅1人、西方の3人は新人、中堅、大物が各1人。
計6人の演者がフラワリング技術を披露する。
新人、中堅、大物の公演料は、(総額では)殆ど変わらない。
新人は先輩の胸を借りる形になり、食い潰す積もりで掛かるが、中堅の場合は事情が複雑になる。
新人に食われない様にするのは当然だが、興行としての公開演習を成功させるなら、
大物を食わない配慮が要る。
新人が場を白けさせてしまった時には、『火付け』の役割を、逆に上手く盛り上げた時には、
その勢いを落とさない『火守り』の役割を熟さなければならない。
この事から、大物の前に出る中堅は、『営火長<ファイア・チーフ>』と呼ばれ、主任以上に、
興行の成否に係わる、重要人物となる。
勿論、主催や主任の顔を立てると云う事に、関心を持たない者もいる。
そもそも実力至上主義の娯楽魔法競技では、大物に配慮する必要は殆ど無い。
しかし、常識的に言えば、自分より上位の存在を追い落とす舞台は、公開演習ではなく、
各地から実力者が集う、公式大会の場であるべき。
公開演習は全体で1つの見世物であり、誰が1番かを決める物ではないのだ。
さて、今回の公開演習、主任は娯楽魔法競技の英雄、今六傑の1人、ライトネス・サガード。
第四魔法都市ティナー出身の魔導師である。
得意競技はフラワリングで、華やかさに懸けては、絶対の自信を持っている。
今六傑が主任であれば、盛り上げ役の中堅も、主任に見劣りしない様に、
最高の技を披露しなくてはならない。
所が、思わぬアクシデントが発生した。
公演前になって、営火長が倒れたのである。
しかも、代役を熟せる人物が、面子の中にはいない。
……と言って、プログラムに穴を開ける訳にも行かない。
主催も含め、一同は大いに慌てた。
重要なのは営火長ばかりではない。
新人や中堅が幾ら失敗しても、最後を飾る主任が、立派に役目を果たせば、成功とは言えなくとも、
興行の体は保てる。
故に、主任は絶対に失敗を許されない。
その点で、今回の主任ライトネスは、非常に頼もしい存在であった。
ライトネスは、周囲の狼狽振りとは対照的に、落ち着いていた。
飛び入りで素人が来ても、ライトネスは絶対に自分のパフォーマンスを成功させる。
本人を含めて誰もが、そう信じて疑っていなかった。
問題は、欠員を誰が埋めるか、誰が営火長の代わりを務めるかだった。
フラワリングは華やかな印象に反して、相当体力を使う物であり、1人が2人分を熟す事は難しい。
舞台準備の手伝いに、公演に参加しない新人が、数人付いて来ているが、
主任が今六傑の1人とあって、舞台に立つ者は、新人であっても高いレベルを要求される。
当のライトネスは気にしていないが、見栄えを考えると、それなりの実力者である事が望ましい。
営火長の代わりは、自動的に、もう1人の中堅競技者が務める事になるが、
この人物は実力はあっても、営火長の経験が無く、中堅競技者の中でも、
比較的新人に近い立場だった。
故に、今六傑の舞台で営火長を務める等、畏れ多いと、主任前を固辞したのである。
フラワリングに於いて、主任前と営火長は、同義語として使われる事が多いが、
主任前は主任の前にパフォーマンスをする人物の事で、調整役の意味は無い。
それが営火長になると、責任は一気に重大になる。
しかし、この者が不足なのは事実だが、他の誰が務めても不足には変わり無い。
誰かがやらねばならぬのだ。
誰もが主任前を避けるのは、何も責任の重さばかりが理由ではない。
先も説明した様に、公開演習は全体で1つの見世物である。
各々の役割、一連の流れは、固定されている。
披露する技の一つ一つが、公演前に決まっているのだ。
技と技の間に小技を挟んだり、技に我流のアレンジを加えたり等、少しのアドリブは許されるが、
技その物を変えたり、構成を組み替えたり等、全体の流れに影響する様な変更は出来ない。
今回の場合は、それが最も大きな問題と言える。
プログラムを変える時間は無いし、練習する時間も数刻しか無い。
今六傑の1人を呼んでおきながら、今回の公開演習は、興行としては開演前から、
失敗したも同然だった。
しかし、新人の1人が、奇跡的に助っ人を連れて来て、公開演習は無事に終了した。
サラサ・スティーヴァと言う名の、若い共通魔法使いは、主任前と言う大役を、
可も無く不可も無く遣り遂げ、興行成功の一因となった。
公開演習の主催は、後日彼女に十分な礼をしようと、共通魔法競技者のリストを調べたが、
そんな人物は存在しなかった。
冬のカターナ地方は、暖かく、過ごし易い。
2年目の現地民俗調査を終えたサティ・クゥワーヴァは、日程の調整も兼ねて、
ガラス市で羽を伸ばしていた。
彼女が報告書の纏め作業の気分転換に、街を歩いていると、見知らぬ女性が声を掛けて来る。
「あ、サティ!」
サティは、その声には聞き覚えがあったが、一体誰なのか思い出す事が出来なかった。
肌の露出が多い、派手な服装をしている女性は、サティと同い年か、それに近い程度の若さ。
ローブ姿のグラマー市民を見分けられる事から、非常に優れた魔法資質か、
観察眼の持ち主である事が窺える。
しかし、心当たりは全く無かった。
不信の目で見るサティに、その女性は言う。
「私の事、忘れたの?
薄情だなー。
公学校でも魔法学校でも、一緒だったじゃない」
「まさか、ラッチ?」
「思い出したか、スー・クゥワーヴァ」
「忘れた訳じゃないけどさ、デン・ディーナン……」
学生時代の友人の変貌振りに、サティは閉口した。
グラマー市民は普通、肌の露出を嫌う。
サティの知る限り、ライチ・ディーナンと言う人物は、標準なグラマー市民から、
大きく外れた所のある者では無かった。
グラマー市民のサティには、大腿や腹、肩を出している同性の姿は、見るに堪えない物。
情け無いと思うよりも、ショックだった。
同郷の者が有られもない格好をしている事は、到底受け容れ難かった。
動揺を隠せないサティに、ライチは困り顔で問う。
「……やっぱり、サティから見ると、変かな?」
彼女は自分の服装を確認して、恥ずかしそうに俯いた。
「私ね、魔法学校の中級をクリアした後、フラワリングの『競技者<プレイヤー>』になったんだ。
勿論、公式の競技者ね。
その関係で、こんな格好してる訳だけど……」
グラマー市民は観察眼が優れており、ローブを着込んで顔を隠した、女性を判別出来る。
友人を他人と間違える程度なら、恥の一字で済むが、妻や血の繋がった者を間違えては、
個人の信用に係わる。
ティナーの古いジョーク集には、「グラマーでは浮気すると殺されるが、浮気が発覚する事は無い」と、
グラマー市民を揶揄した物があるが、それを真に受けて浮気すると、本当に殺される。
姿絵であっても、細部まで精巧に描かれた物なら、夫は妻を容易に見分ける。
しかし、グラマー市民同士では個人を見分けられても、外部の者は見分けられない。
それは娯楽魔法競技者にとって、大きなハンデになってしまう。
その辺りの事情はサティも知っているので、ライチの思いも理解出来ないでは無いが……。
サティはコメントに困った。
似合わない訳では無いので、余計に。
「な、何か言ってよ……」
自戒的なグラマー市民は、体型が隠れていても、崩れを気に懸けない事は無い。
寧ろ、自分の体は平時は使用を許されない、必殺の武器と考えている。
だからこそ、軽々に人目に晒す者は、侮られるのだ。
それもグラマー地方での話。
ここはカターナ地方。
グラマー地方の慣習を持ち出して、ライチを責める事は出来ない。
都市同士の交流が進んだ現在では、ライチの方が進歩的である。
全ての事情を勘案して、サティの出した結論は――、
「別に変じゃないよ。
こんな所で会うとは思わなかったから、吃驚して……。
私は魔導師になって、古代魔法研究所に入ったの。
今日は調査で来てるんだけど、ラッチは?」
適当に感想を言って、早々に別の話題に切り替える事であった。
「私は公開演習でね」
「へー、舞台に立つんだ」
フラワリング界隈の事情に疎いサティには、どの程度の実力と実績があれば舞台に上がれるのか、
現在のライチの評価も知らなかったが、取り敢えず言ってみた。
「違うよ、今回は只の手伝い。
今日の公演は、今六傑のライトネスさんが主任だから、私なんか出られる訳無いって」
自虐的に笑うライチ。
その様子から、彼女は未だ新人である事が窺える。
しかし、サティは舞台に上がれない旧友に同情するより、今六傑の名が出た事に驚いた。
それ程、今六傑とは社会的に影響力を持っている存在なのだ。
大戦六傑の名を言えない者でも、今六傑の名は言える事が多い。
「今六傑が、こんな地方都市に?」
「そうそう。
だから主催にしてみれば、絶対に成功させたい所だったんだろうけどね……。
今朝、主任前の人が倒れてさ、代わりがいないって今大慌て」
ライチは大きな溜め息を吐いた。
「大事だね……ラッチ、こんな所で油売ってて良いの?」
「良いの、良いの。
私に出来る事なんて何も無いし」
欠員が出ても、彼女は舞台に立てないと言う訳だ。
下っ端故の気楽さである。
「サティもフラワリング競技者だったら、今日の主任前の代わりが出来たかもねー」
「買い被り過ぎだって」
「でも、サティは学生の頃、フラワリングで出来ない技が無かったじゃない?
上級専門書に載ってた奴も、全部実演してくれたし」
サティはライチの「フラワリングで」との前置きに、少し向きになった。
「フラワリグだけじゃないけど」
学生時代の話だが、十年に一度の才子である彼女にとっては、呪文も動作も指定されているのに、
それが出来ない事の方が不思議だった。
しかし、聞こえていなかったのか、態と無視したのか、ライチは反応せず話を続ける。
「主任前の人、難易度が高い技でプログラム組んでて、その通りに演れる人がいないんだよね。
ライトネスさんの前で、余り下手な真似も出来ないしさ」
繰り返す程、重要な事でも無かったので、サティも言わなかった事にした。
学生時代の思い上がり……今は昔の話である。
それより、ライチの話を聞く限りは、事態は手詰まりの様に感じられ、サティは訊ねる。
「……それで、どうするの?」
「んー、プログラムを変更するんじゃないかな?
禁じ手だけど、そうするしか無いし……。
お客さんとしては、不満だろうけど」
「仕方無いよね」
相槌を打って、理解を示そうとしたサティに、ライチは非常識な事を言う。
「……サティ、本気で今日の主任前を演る気無い?」
「え、何言ってるの?」
「いや、サティなら本当に出来そうだなーって思ったから」
「……私は、誰かの代わりにはなれないよ」
「良いよ、プログラムに支障が無ければ。
腕は落ちてないんでしょ?」
「当然。
あの頃よりは上がっている」
自分の実力に関して、サティは嘘が吐けない性格である。
誇張しないが、卑下もしない。
旧友だけあって、ライチはサティの扱いを心得ている。
「じゃ、お願い出来る?」
「あのね、私は仕事で来てるの。
フラワリングの公開演習に参加するなんて、そんな事……」
「偽名使えば良いじゃない!
大丈夫、大丈夫、ばれやしないって」
ライチは無責任にも思える位、気軽に答えた。
僕の会全国使い魔コンテスト地方予選
毎年10月30日の全国大会に先駆けて、各地方では予選が行われる。
グラマー地方とティナー地方、ボルガ地方では5月15日、ブリンガー地方では6月10日、
エグゼラ地方では6月30日、カターナ地方では4月20日と、予選の日は地方によって区々。
使い魔を持つ、約1500万人の魔導師の中から、各地方を代表する6人を決めるとは言っても、
1500万人が全員予選に参加する訳では無い。
参加するのは、精々300万人程度。
一発芸大会なので、予選では3点の時間制限がある上に、一度しか芸を披露する機会は無いが、
それでも長くなる。
特に魔導師の数が多いティナー地方では、数日に亘って予選が行われ、1週にも及ぶ事がある。
最初から真面目に見ていると、見る方も飽きて来るので、審査も適当になる。
その為、実は予選開始前から、本選に進める実力のある者は選抜されており、
最後の方に出番が集中している。
予選の前半は使い魔と主人の触れ合いを、後半は大会常連の卓抜した技術を見るのだ。
前半は本当に下らない。
全く芸が出来ない使い魔、披露させる気も無い飼い主が、普通に登場する。
中には変わった使い魔で参加しに来る者もいるので、どんな使い魔を人が飼っているのか、
参考にはなるが……。
多くは、コンテストの体験を話の種にする、或いは、人の話の種になる積もりで、参加した人々である。
後半は使い魔の見事な芸を見られるが、各地方によって評価される基準が異なる。
グラマー地方では、詠詩・詠歌が高評価……と言うか、それ以外は殆ど評価されない。
ブリンガー地方では、とにかく珍しい使い魔の、珍しい行動が高評価。
エグゼラ地方では、逞しさをアピールした使い魔が高評価。
ティナー地方では、器用さと優雅さに重きを置く。
ボルガ地方では、純粋な芸の技量の高さを見る。
カターナ地方では、使い魔が大きければ大きい程、高評価。
この様に各地で全く価値観が違い、使い魔の種類によっては明確な有利不利が生じる。
……本選の審査員達は、一体これをどう纏めているかと言うと、実は余り深く考えておらず、
バランスとか調和とか難しい事は無視している。
審査員の出身地によって、使い魔の評価は大きく変わり、それが良い悪いと言われない。
本選出場時点で、使い魔の優秀さは既に証明されており、一応優勝とは言っても、実質的には、
他の大会で言う所の、審査員特別賞に該当する。
全国大会の本選とは、出場者にとっては、地方優勝の凱旋の様な物なのだ。
僕の会は全国使い魔コンテストを、使い魔の優秀さを誇示し、競い合う場であっても、
勝者と敗者を決める場では無いと断言する。
しかし、最初から明確な思想があった訳では無く、グラマー以外の地方出身魔導師が増え始めた、
復興期の終盤から、僕の会は、各地の選抜基準を考慮した、客観的で公平な評価基準を定めようと、
開花期の間も努力し続けたが、全く収拾が付かなかったので、仕方無く現在の形に落ち着いた。
魔法暦462年 第一魔法都市グラマー魔法史料館にて
魔法史料館には、毎月、魔法に関する書類が運び込まれて来る。
しかし、研究者の論文、古文書、その全てに目を通している訳では無い。
中には、思わぬ魔法書が紛れ込んでいる事もある。
図書館事件の際、魔法史料館側の管理体制の甘さが指摘され、糾弾されたが、
果たして本当に『禁呪の書』が、魔導師会が回収に乗り出さねばならない程、
危険な文書に該当する物だったのか、知るのは当事者のみである。
図書館事件で問題となった書は、『占術(SCRY)』、『神界』、『霊<スピリタス>』、『鬼人の法』の4冊。
これ等は旧暦の信仰に関係する古文書で、魔導師会は、市民の間に迷妄を宣伝する悪書として、
回収に動いた。
しかし、魔法史料館は、書の内容は信頼に足る物ではなく、迷妄が広まる危険性は低いとして、
史料的価値を重視し、提出を拒んだ。
当時の報道で言われていた様な、魔法史料館の暴走ではなく、見解の相違による対立が、
この事件の真相に近い。
魔法史料館の主張は正当な物であり、実際、4冊全てが問題のある書物だった訳ではなく、
魔導師会は特定の書を回収する為に口実を作り、その条件に該当する物が偶々あったに過ぎない。
これには本当に問題となった書物が、何かを隠す狙いもあった。
一体何が問題かを知る事、それ自体が既に禁忌なのだ。
回収されるのが先の4冊だけなら、図書館事件と呼ばれる様な、大騒動にはならなかっただろう。
それが魔法暦史に残る事件に発展した理由は、後付けの口実の為に、4冊以外の、
それ以前に収蔵していた古文書まで、全て回収する話が出て来た為である。
魔導師会は回収する書物の基準を明示しておらず、適用範囲が全ての古文書、及び、
その関係書物に拡がる危険があった。
可能性として、そうなるかも知れないと言う事だったが、図書館連盟は反発した。
図書館連盟の危機感は、杞憂と言い切れない部分がある。
魔導師会としては、司法権の恣意的な運用との批判を避ける為に、収蔵前に検閲を怠った、
魔法史料館側の落ち度と言う事にしたかった。
所が、恣意的な運用を避けようとすれば、適用範囲が際限無く拡大する。
それを避ける為には、回収指示を撤回して、新たに基準を設ける必要がある。
しかし、危険な書物が明らかになっている以上、基準作りに掛ける時間が惜しい。
このジレンマを解決する為に持ち出されたのが、『法の法による決定』である。
特に理由を明示されなくとも、魔導師ならば、『法の法による決定』には従わなくてはならない。
これは魔法史料館のみに有効なので、他の図書館に累が及ぶ事は無い。
図書館連盟側の反発も抑えられる筈であった。
……だが、問題の書は既に、魔法史料館の手を離れて、地方の図書館に移されていた。
これは書の回収を強行された場合に備え、図書館連盟が手引きした結果だが、
この事が一層問題を複雑にした。
魔導師会と直接の関係を持たない図書館連盟は、『法の法による決定』に従う義務が無い。
魔導師会は移動された4冊の書を、魔法史料館が正式な手続を踏まずに、無断で貸与した物として、
即日返却を要請。
即日と言っても、要請の回答に数日掛かる事が予想され、その間に書の内容を転写される虞がある。
魔導師会内では、所謂「鉄砲玉」を用意して回収を強行し、後で責任者の首を差し出す方法も、
真剣に考えられていたが、世間の注目が集まり過ぎている中、それは出来ないとして、
八導師が秘密裡に動く事になった。
八導師の説得によって、書は無事に回収された。
誰も書の内容を記憶している者はおらず、転写もしなかったとして、部外者を罪には問わず、
管理体性が甘いとされた魔法史料館も、関係職員の厳重注意と、指導書の見直しで済ませられた。
公には八導師が動いた事は伏せられ、4冊の書は『禁呪の書』で、危険な魔法の呪文を記した書物が、
誰の目にも触れられる状態だったと言う事になった。
魔導師会は危機を未然に防ぎ、魔法史料館は落ち度を認め、図書館連盟は巻き込まれた形になり、
禍根は残った物の、1週に亘った騒動は一件落着した。
古の信仰より
「獣が長い年月を経て魔性を帯び、妖となるのなら、魔性を帯びた人は何になるのでしょうか?」
「違う。人は魔性を帯びた獣なのだ。獣は魔性を備えて、獣を超え、人となる」
「では、妖とは?」
「成り損ないだ」
「……それなら人は、相応の魔性を備えていなければ、道理に合いません」
「人は魔法が使えるではないか」
「魔法が使えなければ、人ではないと? しかし、魔法を使う獣もいます」
「獣の魔法は、不完全だ。完全なる魔法は、人のみが扱える」
「私は人と言えるでしょうか……?」
「どうかな? 私の言う人とは、種族の事ではない。生まれ付いての人は存在しない。
人間とは違う意味だ」
「では、人ではない人も存在するのですね?」
「そうだ。人は状態の一つに過ぎない」
「……では、人が更なる魔性を得たら、それは何と言うのですか?」
「魔人……と言うのだろう。しかし、それでも人の枠は超えない」
「人の枠を超えた人と言う物が、存在するのですか?」
「存在する。それは人の姿をしていても、人ではない」
「では、何なんです?」
「生物の枠を超えた存在。言うなれば、精霊、魔神の類だ」
「『精霊<ジン>』?」
「超自然的な神秘の存在を言う」
「……では、精霊が更なる魔性を得た時、何が生まれるのでしょう?」
「何も生まれない。霊を維持出来なくなり、消滅する。
循環するのだ。土塊から獣が生まれ、獣は人となり、人は精霊となり、精霊は土塊に還る」
魔法暦496年 禁断の地にて
それはラビゾーがバーティフューラーの誘惑を退けてから、数日後の事であった。
「今日は、ラヴィゾール」
村外れの小道を歩いていたラビゾーは、バーティフューラーと再会した。
爽やかな春風が吹く中、清水瀬々らぐ小川の端で、美しい娘に声を掛けられる。
人によっては、運命的な物を感じるのかも知れない。
しかし、ラビゾーの反応は……。
「あ……」
表情を固くして、体を強張らせ、然も悪い物に遭遇したかの様。
「『あ』って何よ?」
「い、いや……お久し振りです」
あの一件は、ラビゾーがバーティフューラーに対して苦手意識を持つには、十分な出来事だった。
ラビゾーの好い加減な挨拶に対し、バーティフューラーは冷静に一言。
「そう久し振りでも無いわ」
「そ、そうですね」
緊張して吃るラビゾーを、バーティフューラーは訝った。
「何警戒してんの?」
「そんな事は別に……」
宛ら、蛇に睨まれた蛙、猫の前の鼠。
彼女は口篭るラビゾーに向かって、捌けた口調で言う。
「良いのよ、取り繕わなくて。
慣れっ子だし。
下手に誤魔化されると、こっちが辛いわ」
ラビゾーは慌てた。
彼がバーティフューラーを警戒していたのは事実だし、彼女に苦手意識も持っているが、
だからと言って、心底嫌っている訳では無い。
誤解されてはいけないと、ラビゾーは口を開く。
「あの、僕は、貴女が嫌いと言う訳では……それに……皆さん、本当は、仲良くしたいと……」
それは彼女への誠意であると同時に、恐らくは同年代と思われる女に臆してなるかと言う、
男としての矜持でもあった。
「説得力が無いわ。
引け腰で何言ってんの」
痛い所を突かれ、ぐっと顔を顰めるラビゾー。
情け無さに、悔しさが込み上げるが、その悔しさを追い越す感情がある。
擦れ違いを捨て置けない、世話心。
自覚の無い、控え目な庇護欲。
「……その……誘惑の魔法、抑える事は出来ないんですか?」
怖がってなんかいないと、ラビゾーは食い下がる。
ラビゾーの必死さに、当のバーティフューラーは気を良くしていた。
一度は拒まれたが、やはり魔法は効いていたのだ。
でなければ、こんな下手に出てまで、しつこく関わろうとはしない。
この男は恋愛に対して臆病なだけ。
そう理解した彼女は、素っ気無い振りをして、ラビゾーの話に応じる。
「出来るけど?」
「だっ、だったら、制御すれば、あれですよ、避けられる事も無くなる……」
「今、抑えてるけど。
アンタ、アタシを避けようとしたじゃない」
バーティフューラーは続けて、ラビゾーの意識を試す言い方をした。
「いや、それは、第一印象と言うか、防衛反応と言うか……」
そんな事は露知らず、ラビゾーは真面目に考え、言葉に詰まる。
確かに、バーティフューラーの魔法の性質を知っていれば、誰だって警戒する。
「解った?
今更普通に接しよう何て、無理なのよ」
消気るラビゾーを見て、バーティフューラーは突き放す態度を取った。
少しの寂しさを織り交ぜて。
ラビゾーは掛ける言葉が見付からず、俯いている。
「解決方法、無い事も無いけど」
そこに彼女は救いの手を差し伸べた。
「あ、あるんですか?」
当然、ラビゾーは飛び付く。
宛ら、釣りである。
ラビゾーは餌に惹かれた、哀れな雑魚。
右に左に揺すってやれば、その通りに靡く。
確かな手応えを感じたバーティフューラーは、心の内で密かに笑った。
彼女は非常に性格が悪かった。
弄んだ後は、餌を食わせて釣り上げるだけ。
「誰かアタシの魔法を受け止める人が、傍にいてくれたら――」
ちらりと流し目。
「――って、僕ですか?」
ラビゾーは自信が無さそうな、面倒そうな、とても乗り気では無い顔をする。
予想外の反応にバーティフューラーは、もう一度揺さ振りを掛けた。
「嫌なら良いのよ」
「……あっ……あ、あの……それって、傍にいるだけで良いんですか?」
今度は予想通りの反応で、バーティフューラーは安心する。
「そうよ。
要は、他の男には興味が無いって示せれば、それで良いの」
「その位なら、お安い御用です」
「本当?」
「はい」
こうしてバーティフューラーは、自分だけの新しい男を手に入れた……と思い込んでいた。
彼女の見込み違いが発覚するのは、暫く後の事である。
以降、バーティフューラーは、これ見よがしにラビゾーを連れて、村を歩いた。
外の人間と言う、珍しい物を手に入れた、凱旋である。
「あら、ラビゾー。
……ちょっと、その娘は――」
村の婦女子は、ラビゾーの隣にいる女の正体に気付くなり、途端に蒼褪めた。
「今日は」
バーティフューラーは勝ち誇り、今まで他人に見せた事が無い、それはそれは穏やかな美しい笑顔で、
会う人会う人に挨拶する。
彼女は人々の畏怖の視線を集め、これぞバーティフューラーのあるべき姿と、悦に入った。
それは初めの内だけで、村人は直ぐに、連れ添う2人を見慣れてしまったが……。
ラビゾーとバーティフューラーは、傍目には幸せな恋人同士に見える。
しかし、本当の所は全く違った。
バーティフューラーはラビゾーを手玉に取っていると思っていた。
恋人と言うより、下僕を従える感覚だったのである。
この時が、バーティフューラーの幸福絶頂期だったと言っても、過言では無い。
初めて得意の魔法が通じず、物に出来なかった相手に、雪辱を果たしたと言う事実は、
未だ経験の浅い彼女の自尊心を十分に満たした。
加えて、ラビゾーが傍にいる事で、これまでバーティフューラーを避けていた人々が、
皆々好意的な態度で接する様になり、孤独感からも解放された。
バーティフューラーは全くの無自覚に、自分の意図しない所で、まるで幼子の様に、
人に愛される幸せを受け入れていた。
勿論、彼女はラビゾーに満足していなかった。
外の人間である事と、マハマハリトの弟子である事、2つの付加的な要素が、
ラビゾーの価値を高めていたのであり、そうでなければ見向きもしなかったに違い無い。
本質的な所で、彼女がラビゾーを好いていた訳では無いのだ。
故に、バーティフューラーは自分の都合で幾度と無くラビゾーを振り回しながら、
彼に感謝した事は一度として無かった。
一方のラビゾーも、彼女に何かを求める事は無かった。
彼は「バーティフューラーさん」と他人行儀な呼び方を貫き、距離を縮める努力をしなかった。
これが異常な事だとバーティフューラーが気付くのに、そう時間は掛からなかった。
ある日、バーティフューラーはラビゾーに尋ねた。
尋ねずにはいられなかった。
「ラヴィゾール、アンタ今の生活に不満は無いの?」
「不満?
無いと言えば嘘になりますけど……それが何か?」
あっけらかんとしたラビゾーの態度に、バーティフューラーは苛立つ。
鈍い等と言う物では無い。
「……アタシに何か言う事は無い?」
「いえ、バーティフューラーさんに何をして貰おうとか、そんな積もりは全然無いですから」
その一言に、バーティフューラーは衝撃を受けた。
ラビゾーは晩熟であり、自分のアプローチを待っていると、彼女は思っていた。
所が、彼に下心は無く、飽くまで善意で、バーティフューラーの我が儘に付き合っていたのだ。
バーティフューラーは、その事を認めたくなかった。
もし、それが本当なら、彼女は有り触れた善意を、慕情と勘違いして浮かれる程、
人の愛に飢えていた事になる。
ラビゾーに疚しい所が無ければ困るのだ。
バーティフューラーにとって、彼と付き合い始めてからの日々は、本当に幸せだった。
それが逆に、寂しかった自分を浮き彫りにする。
『ラヴィゾール』の名と相俟って、彼女は深みに嵌まって行く。
その名は呪い。
バーティフューラーは、マハマハリトの偉大さを思い知り、ラビゾーを恐れた。
……それから数日、バーティフューラーは人前に姿を現さなかった。
ラビゾーにも思う所が無かった訳では無い。
彼はバーティフューラーの思い違いに、薄々感付いていながら、敢えて何も言わなかった。
それが彼女を傷付けたのではないかと、ラビゾーは深く悩んだ。
村の人に「彼女は?」と聞かれる度に、彼は「分かりません」と嘯いた。
人々は「あれだけ傍にいて全く誘惑されていない」だの、「流石はアラ・マハラータの弟子」だのと、
半ば冷やかす様に称賛した。
約1週の間を置いて、ラビゾーはバーティフューラーと再々会した。
「お早う、ラヴィゾール」
村外れの小道、彼女は何事も無かったかの様に、ラビゾーに話し掛けて来た。
「あ……お早う御座います、バーティフューラーさん」
彼は挨拶を返し、余計な事は何も言わなかったが、内心では安堵していた。
バーティフューラーの無遠慮な態度は相変わらずだったが、彼女は以前より少し、
ラビゾーと距離を置く様になった。
それは付かず離れずの微妙な間隔で、何かを測っている様でもあった。
1週間で、彼女の心境に如何な変化があったか等、ラビゾーには知る由も無い。
ともあれ、全ては程好い所に落ち着いた。
第一魔法都市グラマー ニール地区 魔法刑務所 封印塔にて
この日、イクシフィグ・ヴァルパド・コロンダの元に、象牙の塔からの来客があった。
アクアンダ・バージブンが連れて来た、客人の名はリャド・クライグ。
時空を操るD級禁断共通魔法の研究者である。
「初めまして、イクシフィグ・ヴァルパド・コロンダ君。
私はリャド・クライグ。
君を未来へ帰す計画の責任者で、時間と空間に関する魔法の研究をしている」
D級禁呪を「時間と空間に関する魔法」と平たい言い回しに置き換える辺りに、
他の研究者とは一線を画す、彼の柔軟さが見て取れる。
その紳士的な物腰に、イクシフィグは気後れした。
元の時代で学生だった彼は、苦手な教師の影をリャドに重ねて見たのだ。
そうでなくとも、イクシフィグ位の年齢なら、見知らぬ大人の男には、反発を覚える物。
緊張した面持ちのイクシフィグに、リャドは言う。
「君に見せたい物がある。
私に付いて来てくれ」
リャドは個室のドアの前に立ち、イクシフィグに外へ出る様に促した。
イクシフィグはアクアンダの顔を窺い、本当に部屋から出ても良いか、暗に尋ねる。
「大丈夫ですよ、イクシフィグ様。
彼……リャド博士は、時間を操る魔法の専門家。
この部屋の魔法陣をデザインしたのも、リャド博士です」
彼の意図を読み取ったアクアンダは、子供をあやす様に、優しい笑顔で答えた。
イクシフィグはリャドの後に付いて、恐る恐る光溢れる外へ向かう。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
アクアンダは同行せず、イクシフィグの帰りを待つと言った。
イクシフィグが外に出るのは、彼自身の感覚では、約1週振りの事だった。
昼も夜も判らず、その殆どを眠って過ごしていたので、正確な所は知らなかったが……。
いざ外に出てみると、体が鉄の様に重い。
ぎらぎら太陽は真夏の様に照り付け、痛い程に肌を刺す。
思わず身を屈めたイクシフィグを、リャドは気遣った。
「大丈夫かな?」
「……ど、どうなってんですか?
体が鈍ったにしては、何か……」
「今、君の時間の流れは、周囲の約5分の1になっている。
一応、負荷の軽減措置を施しているが、それでも完全に普段通りとは行かない。
具合が悪くなったら、教えてくれ」
イクシフィグはリャドの言った事を、直ぐには理解出来なかった。
どうやら時間を弄られている様だとは思ったが、雲を掴む様な話で、実感が湧かない。
しかし、ふと魔法刑務所の敷地内を見下ろして、漸く得心が行った。
地上では、作業服を着た建設業者らしき人々が、忙しく動き回っている。
誰も彼も、目を疑う程の早足で。
時間の流れが変化していると、一目で解る光景だった。
魔法に関しての知識が乏しいイクシフィグでも、リャドが偉大な魔法使いである事は、疑い無かった。
イクシフィグは重い体を引き摺りながら、リャドに従った。
幸い、体の動きが鈍いだけで、調子が優れない訳では無い。
リャドは歩調をイクシフィグに合わせながら、封印塔の外壁の内側に沿う螺旋階段を降りて行く。
封印塔とは、不思議な施設である。
建物は高いのに、上階に人が住んでいるだけで、中は空洞。
内側には大小多数の魔法陣が描き込まれている。
何の為に魔法刑務所内に存在する施設なのか、職員にも答えられない。
この時代の常識に疎いイクシフィグは、見張り塔の様な物だと勝手に思い込んでいた。
リャドに連れられ、地上階に着いたイクシフィグは、高速で地下階に出入りする、
大勢の作業員に驚いた。
間近で見ると、塔の上から見下ろした時よりも、早く動いている様に感じられる。
作業員達は、時間の流れが違うと知ってか知らずか、リャドに甲高い声を掛ける。
挨拶しているのだ。
リャドと同じ時間の流れの中にいるイクシフィグには、作業員達の言葉が全く聞き取れなかった。
態度で何と無くは判るのだが、返事は出来ないのに……と、イクシフィグが思っていると、
リャドは突然作業員に向けて高い声を発した。
イクシフィグに聞き取れなかったと言う事は、彼は普通の速さで喋ったのだ。
その間、イクシフィグに掛かっている魔法が解けた痕跡は無い。
少なくともイクシフィグには認識出来なかった。
時間の魔法を完全に使い熟しているリャドに、イクシフィグは頼もしさを感じ始めていた。
リャドはイクシフィグを連れて、封印塔の地下へと降りて行く。
リャドとイクシフィグは、作業員と擦れ違いながら、地下1階のフロアに下りた。
地下1階は、如何にも工事中と言う感じの空間で、無駄に広い。
ざっと見た所、40人程度いる作業員は、壁面や床面に文様を描いている集団と、
フロアの中央で何かを組み立てている集団に、分かれている。
イクシフィグはリャドに尋ねた。
「ここは何なんですか?」
「君の為の空間だ。
君は、ここで500年の時を過ごす」
「ええっ!?」
リャドの発言に、たじろぐイクシフィグ。
500年云々とは前以ってアクアンダに知らされていたのだが、実際に計画が進んでいる事に、
彼は焦った。
その様子を見て、リャドは言う。
「何、時間が止まっている君にとっては、ほんの一夜の眠りだよ。
私は計画の責任者だ。
この際だから、疑問に思っている事は、何でも聞いてくれ」
暫し沈黙して独り考えた末、イクシフィグが最初にした質問は、計画の安全性についての事だった。
「……500年って、本当に大丈夫なんですか?」
「残念ながら、それは保障出来ない。
500年もの間、時を止める魔法を使い続けるのは、魔法暦史上初めての事だから」
(そりゃそうだ)
現在の魔法暦は500年と少し。
よく考えなくとも、当然である。
「しかし、基本的には魔力供給が途絶えなければ、君が途中で覚醒する事は無い。
それに万が一、魔力が供給されなくなった場合に備えて、約10年〜200年分の魔力を、
蓄積可能な様に設計している」
「豪いバラつきですね……」
「仕方が無いのだ。
現時点では、人の手に依らず、魔力を完全に安定させる方法は、発見されていない。
時代と共に研究が進めば、追々改善されて行くだろう」
リャドの説明は正直過ぎて、イクシフィグの不安は解消されない所か、絶望が増した。
技術的な問題である以上、安心感を得られる答えは返って来ないと悟ったイクシフィグは、
今度は趣の異なる質問を始める。
「どうして俺なんかの為に、ここまでしてくれるんですか?」
何か、凄い大掛かりな事になってるし……」
「私は魔導師会の指示に従っているだけだから、そこら辺の詳しい事情は知らないな。
立場上、憶測で余り変な事を言う訳にも行かない」
型通りの大人の対応に、イクシフィグは心の内で密かに不信感を募らせる。
しかし、リャドは突き放す様な態度は取らなかった。
「……だが、時間と空間に関する魔法の研究者として言わせて貰えば、君の存在は、
この世界だけで無く、君がいた未来に至る一連の時間軸に、悪影響を及ぼす可能性がある。
君は本来、この時代に存在してはならない、謂わば『異物』だ」
「難しい話は解りませんけど……」
「この世界と言うか、この時代の状態としては、君が存在していないのが正常なんだ。
仮に、俗に言う『修正力』なる物が働くなら――私は修正力には懐疑的立場だが――、
君を『今』に適合させるか、『今』から排斥するか、何らかの反応を示すだろう。
その都合で、本来辿るべき未来が破棄されるかも知れない」
「……詰まり、どう言う事なんです?」
イクシフィグは話の内容に付いて行けない。
リャドは困った顔をして、暫し沈黙した後、深刻な面持ちで告げた。
「君の存在していた未来が、消えてしまうかも知れない」
イクシフィグは身に余る事態の大きさに、声を失った。
本当に、そんな事になってしまうのか?
イクシフィグは一所懸命に考えたが、如何せん知識が足りなかった。
そうであって欲しくない願望から、取り敢えず否定する。
「ははっ、そんな馬鹿な……」
彼の顔は引き攣っていた。
「可能性の話、何が起きても可笑しくない。
未来だけに留まらず、現在も含めた一連の時間軸が消滅するかも知れない。
そもそも君の未来と私達の未来が、同じ物とは限らない。
目覚めた未来が、君のいた所と全く違う物だったりな」
リャドはイクシフィグが考えない様にしていた、恐ろしい想像を、遠慮無しに平気で言って退ける。
「いや、でも、俺が聞いた話では、ちゃんと戻れるって」
「私の個人的な見解だ。
八導師には、私には及びも付かない、何らかの思惑があるのかも知れない」
「さっきから、『かも知れない』、『かも知れない』って、あんたは計画の責任者じゃないのかよ!?」
不安を煽るばかりのリャドに、イクシフィグは遂に切れた。
実際の所、誰にも本当の事は分からないのだ。
しかし、リャドは真面目な顔の儘で、イクシフィグに言う。
「……イクシフィグ君、私は疑問に思っているのだ。
人間と言う大きな物体が、未来から時間を遡って過去に出現する事があり得るのか?
未来では、人を過去に送り込む装置が完成していたのかも知れない。
しかし、君の話を聞く限りは、そうでは無い様だ」
徒ならぬ雰囲気のリャドに、イクシフィグは冷静さを取り戻した。
……いや、取り戻したと言うよりは、強制的に引き戻された感覚だ。
イクシフィグはリャドに潜在的な恐怖を感じていた。
「お、俺だって信じられませんよ!
でも、今は魔法暦500年代だって……」
「イクシフィグ君……この時代に初めて来た時、身体に何か変わった所は無かったか?
どんな些細な事でも良いから、思い出してみてくれ。
私の仮説が正しければ、D級禁断共通魔法は飛躍的な進歩を遂げるだろう」
リャド・クライグの瞳は、狂科学者の物に変化していた。
「イクシフィグ・ヴァルパド・コロンダについて、聞きたい事がある」
「何でしょう?」
「深部心測法は行われたのか?」
「公式には、記録がありません」
「……成る程。では、通常の心測法は?」
「簡易心測法なら」
「今後、正式に深部心測法を行う予定は?」
「ありません」
「それは奇妙だな」
「彼は貴重な情報源です。失敗して何も得られなくなる事を危惧したのでは?」
「本当に、そうだろうか?」
「その発言、魔導師として、どうなんですか?」
「全ては疑う事から始まる。八導師への敬意は変わらないが、妄信はしない」
「象牙の塔の研究者とは、皆、あなたの様な人ばかりなのですか?」
「行ってみれば判るよ。勧めはしないが……」
「絶対に行きません」
「計画に支障が出る様な事は、なさらないで下さい」
「解っている。その時には、正式な上申書を提出する」
「本当に解ってらっしゃるんですか? それと、彼に変な事を吹き込まないで下さい」
「私は嘘は言わない」
「……如何にリャド博士でも、許されない事がありますよ」
「真実に対して常に真摯であれ。共通魔法教書には、そう書いてある」
「そんな物を持ち出したって――――」
「どうするのが『彼の為』に良いのか、私は真剣に考えているよ」
「魔導師会の……八導師の意向に逆らう事になっても?」
「怖い事を言わないでくれ。厄介事を起こす積もりは無い」
ボルガ地方北部閉鎖海域の小島サメにて
閉鎖海域のサメ島は、隣島のサマ島を経由してしか訪れる事が出来ない、北海の孤島である。
大陸との交流が始まるまで、島民は海産物を主食にして生活していた。
サメ島民は漁業権を巡って、隣島のサマ島と何度も諍いを起こしており、その度に流通が絶たれた為、
貧困に耐え、自給自足の生活を送る習慣が身に付いている。
そんな小島同士の小競り合いも、魔導師会が訪れてからは、昔の事となった。
サティ・クゥワーヴァとジラ・アルベラ・レバルトが、この島を訪れたのは、8月の初め。
エグゼラと同緯度にある閉鎖海域は、夏でも涼しいが、サメ島は文字通りの孤島なので、
交通の便が悪く、観光客は殆ど訪れない。
貸し切り状態の定期船(と言う名の小船)で、2人の魔導師はサメ島に乗り込んだ。
ここでは船での海獣漁が有名だが、余所者は漁船に乗せて貰えない。
他に見世物になる事と言えば、海獣の解体作業現場か……しかし、そんな物は誰も見たがらない。
一般人にとっては、何も見所の無い僻地の小村に過ぎないのだ。
それでもサティは民俗調査の為に、「そんな物は見たくない」と言うジラを置いて、
進んで海獣の解体現場を見学した。
サメ島民は魔導師を珍しがったが、恐れ畏まる様な事は無く、取り立てて騒ぎになる様な事も無く、
静かな探訪であった。
しかし……――――。
島民からサメ島の歴史に関しての情報を集め終えたサティは、その晩、宿で独り考察に耽っていた。
(やはり、おかしい)
サメ島の住民は、何処から来たのか、由来が明確でない。
それだけなら、よくある話で済まされるが、問題は唯一大陸全体が、同じ様な状態である事。
500年前、あらゆる物が海に沈み、後に唯一大陸が浮上した。
この唯一大陸の各地方に住む人間は、それぞれ人種が違う。
それは500年の間に分化したのではなく、より以前から別々の人種が存在していたとされている。
それならば、現在唯一大陸にいる人間は、何処かから漂着した人間の子孫の筈である。
グラマー地方の人間は、魔法大戦で生き残った共通魔法使いの子孫。
ブリンガー地方の人間は、大部分がグラマー地方からの移民だが、原住民の由来は不明。
ティナー地方も、ブリンガー地方と同様。
エグゼラ地方の調査は、これからだが、恐らくブリンガー地方と似た様な物ではないかと、
彼女は推測している。
ボルガ地方は、民家にも古いの記録が残っている事が多いが、如何にして大陸に渡って来たか、
復興期より前の事は、他地域と同様に全く不明。
はっきり海から来たと伝えられているのは、カターナ地方の一部の小島に住む民族のみ。
まるで降って湧いた様……。
魔法大戦から魔法暦に移る際の、白紙の年間が、大陸中に存在する。
魔導師会が過去の記録を隠滅したと言う話は、全く聞けなかったので、間接的に、
あらゆる記録が失われてしまう様な大破壊を肯定するしかない。
しかし、サティは腑に落ちない物を抱えていた。
最も不可思議な事は、どの地方にも、他所と交流が始まっていない時期があった事。
普通なら、陸続きの大陸で、その様な断絶の時期は存在しない筈である。
特に、大陸の中心ティナー地方。
記録に残る以前、何処かしらと交流していたが、後に断交したと言うなら、未だ理解出来るのだが……。
言語にも不自然な部分がある。
旧暦には系統の異なる様々な言語が存在していたのに、魔導師会の開拓史には、
翻訳や意思の疎通に苦心した痕跡が無い。
明らかに母体の異なる文化圏が存在しているのに、言語が同じ理由とは?
その答えを彼女が得るのは、未だ先の事である。
死者の弔い方
ファイセアルスでの死者の弔い方は、地方によって異なる。
グラマー地方では、遺体を火葬にして、墓を建てない。
遺灰は砂漠に撒き、風に散らす。
ブリンガー地方とティナー地方は、グラマー地方の影響が強く、遺体を火葬にして墓を建てない。
遺灰は川に流すか、山や丘の上に風に撒いて、風に散らす。
魔導師会が訪れるまでは、土葬にして墓を建てる風習があったので、
僻地では土葬の習慣が残っている所もある。
エグゼラ地方とボルガ地方では、遺体は焼却せず、共同墓地に埋葬する。
地域によっては、遺体を海や川に流す所や、山や森に捨てる所もある。
カターナ地方では、遺体を海に流し、墓を建てない。
離岸流に乗って陸地から離れる海流に乗るので、遺体が陸に帰って来る事は無い。
唯一大陸全体では、墓を建てないのが普通であり、エグゼラ地方やボルガ地方の共同墓地は、
他の地方民には、死体を纏めて置く場所として、気味悪がられる。
墓を建てない地方では、死者に対する情が薄い。
生死は一体の物として、突然の不幸でも、余り深刻にならず、受け流す傾向がある。
魔導師には美形が多い?
優れた魔法資質を持つ者は、整った容姿の者が多い。
しかし、優れた魔法資質を持つ者の美しさは、どこか冷たい美しさと言われ、
畏敬の対象になったりはする物の、温か味が無い、人間味が無いと感じる者が多く、
恋愛に於いて、敬遠される事が少なくない。
時代に拘らず5%以下と言う、魔導師同士の結婚率の低さが、それを象徴している。
下世話な言い方をすると、優れた魔法資質を持つ者は、憧れの対象にはなるが、
性的な親しみ易さを感じられない。
グラマー市民が肌を隠すのは、その為と言われたりするが、それは誤解である。
確かにグラマー市民は、魔法資質が優秀な者の割合が、比較的高いと言えるが、全員が全員、
優れた魔法資質の持ち主と言う訳では無い。
それに、優れた魔法資質の持ち主は、全員が全員、冷たいと言う訳では無く、愛され上手で、
人に好まれる者もいる。
同様に、全員が全員、美形と言う訳でも無い。
飽くまで、割合が多い程度の話である。
優れた魔法資質の持ち主は、冷たい印象を避ける為に、非対称の服装や髪型を心掛ける。
中には全く無関心な者もいるが、魔法資質が高い者で、服を着崩したり、癖っ毛を直さない者は、
意図している場合がある。
幼少の頃は、誰でも身形を良くする様に躾けられるので、少々隙がある方が好まれる事を知るのは、
思春期を迎えた後になる。
公学校時代は近寄り難かった人が、公学校卒業後には人が変わった様に、
気さくで打ち解け易い人になっている事も、珍しくはない。
各市民の能力的特徴
・グラマー市民
成人の平均身長は1身弱で、体が軽く、筋力は余り強くない。
魔法文明の中心地の民らしく、優れた魔法資質を持つ者が多く、魔法資質が低い者は殆どいない。
自戒的で、向こう気が強い。
男女で体格が大きく変わらない。
乾燥には慣れているが、湿気は苦手。
・ブリンガー市民
成人の平均身長は1身を超え、発育が良く、筋力も強い。
魔法資質に関しては、突出した者が余り見られない。
のんびりした性格で、余り物事に動じない。
男女の体格差が目立つが、女性でもグラマー市民の男性より大きかったりする。
年中温暖な土地で過ごしているので、極端な寒さや暑さには弱い。
・エグゼラ市民
成人の平均身長が1身を超え、筋力が強い点は、ブリンガー市民と似ているが、
膨よかな印象のブリンガー市民とは違い、エグゼラ市民は筋張っている。
魔法資質が高い者と低い者で、両極端に分かれる。
芯が強く、ブリンガー市民とは別の意味で、余り動じない。
男女の体格差が大きく、男性はブリンガー市民より大きい一方で、女性はブリンガー市民より小さい。
余談だが、エグゼラ市民の理想体型は、ブリンガー市民の様な感じなので、
ブリンガー市民はエグゼラ市民に好かれ易い。
寒さには強いが、暑いとへたばる。
・ティナー市民
様々な地方から人が集まっているので、平均値が測り難い。
しかし、元から住んでいた人々は、背が低く、筋力も弱く、魔法資質も低かった。
その代わり、話術が巧みで、頓知が利いた。
元々男女の体格差は余り無かった。
現在のティナー市民は、他の地方民に口の達者さが具わった、所謂ハイブリッドで、
口の巧さは優性遺伝、体格は劣性遺伝と言われる。
純粋なティナー市民の血統は希少。
・ボルガ市民
成人の平均身長は1身弱で、グラマー市民と似ているが、体力面では優れている。
優れているとは言っても、ブリンガー市民やエグゼラ市民には及ばない。
魔法資質が突出して高い者は少ないが、極端に低い者も少ない。
規範的で、従属的。
手先の器用な者が多いと言う特徴もある。
男女の体格差があり、ボルガ市民の女性は、六都市の中で最も小さい部類に入る。
湿潤気候で育った為か、乾燥した土地では、体調を崩し易い。
・カターナ市民
成人の平均身長は1身前後で、ブリンガー市民程では無いが、発育が良い。
魔法資質は平均して高いが、魔導師になる者は少ない。
男女の体格差は、それなりにある。
気儘な性格で、束縛を嫌うが、特に意志が強かったり、我が強かったりする訳では無い。
暑さには慣れているが、寒さに弱い。
見よ、血で汚れた大地を。
見よ、果て無く広がる大海を。
戦いに勝ち残った私達に遺された物は、この小さな陸のみ。
彼は震えた。
魔法大戦とは何だったのか……?
――――「魔法大戦の伝承」より、第六高弟ユーバーの嘆き
魔法大戦の様子を記した書物の中で、最も確かであろう物は、魔法大戦の伝承と云われている。
魔法大戦の伝承のみが、魔法大戦に至るまでの数年間(詳細は不明)と、魔法大戦の3年間、
終戦後日談の全てを記しており、魔法大戦に関する史料の中では、最も古い。
その他の魔法大戦に関する史料は、開花期になってから、仄聞の形で記録された物ばかり。
中には、魔法大戦の伝承の内容と、全く重複している物もある。
しかし、魔法大戦の伝承の原文を知っている者は少ない。
多くの者は、魔法大戦の概要か、昔語の中の簡略化された物しか知らない。
魔法大戦の伝承ですら、その記述が全て真実として、受け容れられている訳では無いのだ。
故に、公学校の授業では、魔法大戦の概要しか教えられないのである。
一方で、魔法大戦の伝承を真面目に信じている者も、少なからず存在する。
他に適切な史料が無い為に、それを信じざるを得ない――と言う訳では無く、共通魔法の偉大さを、
盲信する者達。
魔導師会が魔法大戦の伝承を史料としか認めていない事すら曲解し、話の通じない人々。
その狂信者達でも、魔法大戦の伝承の内容は、伝聞でしか知らない者が多い。
ユーバーの嘆きにある様に、魔法大戦に関わった者の多くは、争いに明け暮れた時を後悔していた。
これは公学校では教えない。
概要から外れる、余計な事だからである。
……魔法大戦の伝承の内容を、どれだけの人が知っているだろう?
その内容を真に受ける事が、何を意味するか、解っているのだろうか?
時々発掘される旧暦の神話を、今の人々は鼻で笑う。
所が、狂信者達は笑わない。
それを打ち滅ぼした、偉大なる魔導師と魔法大戦の英雄の物語に心酔する。
今でも狂信者達は信じている。
魔法の世界が再び訪れると。
魔法の世界
魔法大戦の開戦前に、偉大なる魔導師が来るであろうと予言した世界。
それが何を意味するかは、よく分かっていない。
魔法大戦の伝承にある原文は、以下の通り。
グランド・マージは言った。
権力は、法に拠って、確立される。
魔法に依る身で、権力に固執する者は、蒙昧無知である。
魔法の法は、法を歪める。
法が歪めば、魔法の世界。
我が子弟よ、寝食の暇も惜しみ、唱えよ。
三月の後、魔法の世界、来る。
グランド・マージと、その子弟達は、三月の間、寝食を断って、詠唱を続けた。
果たして、三月の後、魔法の世界は、訪れた。
魔法の世界とは、偉大なる魔導師が魔法大戦を予言した物とする説が、古今一貫して主流。
偉大なる魔導師とて、旧暦の人物であり、その思想は旧い信仰を基にしていたと考えられる。
偉大なる魔導師の言葉の意味を知るには、魔法の対になる概念、理法を知っていなければならない。
理法とは、道理に適った法の事。
旧暦で言う理法は、効果が明らかな自然法則及び、社会法則を言う。
これに対して魔法は、誰にでも理解出来る物では無く、特定の資質を持った者に限り、
その存在を認められる物で、資質を持たない者が学ぶ事は不可能とされていた。
故に、理法の対である魔法には、魔学と言う学問は存在し得なかった。
神聖魔法の支配圏では、神学と言う物があったが、魔法を教える物では無かった。
しかし、多くの魔法使いは、自らの魔法技術を後世に伝える為に、独自に魔法を研究し、
それを託すに相応しい後継者を探した。
魔法を学問として扱う素地は、共通魔法が誕生するより以前に、既に完成していたのである。
偉大なる魔導師は魔法を解明すべく研究したので、魔法も理法の内と云う思想を持っていたと、
誤解され易いが、実際に偉大なる魔導師が、その様な趣旨の発言をした記録は無い。
寧ろ、魔法の世界に続く一連の発言からすると、魔法と理法を明確に区別していた節がある。
「魔法の法は、法を歪める」とは、「魔法は理法を歪める」と認識していたとも取れる。
一般には、「既存の法を根拠にした権力は、共通魔法によって覆る」と、指摘したと解釈されている。
魔法暦497年
「お前さんは何にしても、何故、何故と、理由を追求し過ぎる。事実を有りの儘に受容せよ」
「事実は事実として認めますよ。でも、無邪気に肯定は出来ません」
「そんなに怖い目をするな」
「済みません。でも、僕は羊じゃありません。
何も知らなくて良いなんて、そんなの余りにも馬鹿にしています」
「――君が連れて来た山羊の事を、憶えているか?」
「突然、何の話です?」
「あの山羊は、あの儘ずっと野で生き続けるのと、今の牧場で暮らしている状態と、
どちらが幸せだと思う?」
「それは僕が決める事ですか?」
「自分の感覚で構わん。君が山羊なら、どちらを選ぶ?」
「……僕なら前者を選びます」
「ほぉーゥ、言うたの。それでは何故、君は山羊を連れ帰った?」
「何故? 連れて帰れと言ったのは、師匠でしょう」
「そうだな。だが、君は何とも思わなかったのか?」
「……いいえ。でも、あいつは寂しそうでした」
「それを理解しているのに、君は孤独に耐えて生きる道を選ぶのか?」
「はい。僕は人です。家畜の様には生きられません」
「迷い無い。若いな」
「仮に家畜の生を選ぶとしても、納得尽くで選びたい。人とは、そう言う物ではありませんか?」
「そうだな」
「そうだな、じゃなくて……」
「本当に行くの? ラヴィゾール」
「はい」
「やっぱり、こんな村じゃ不満?」
「別に、そう言う訳じゃないですけど……」
「だったら……。ねェ、ラヴィゾール……何も彼も忘れて、幸せに生きたいとは思わない?」
「思いますけど、それが出来れば苦労しません」
「アンタは幸せを拒むのね」
「それは価値観の違いです。この心の衝迫を抑えて、平穏に生きる事を幸せと言うなら……
いえ、それは確かに幸せなんでしょう。でも、苦しいんです。僕には耐えられない」
「忠告するわ。村を出ても、その苦しみは変わらない。それ所か益々苦しむ事になる。
態々苦しみを増しに、アンタは村を出て行くの?」
「違います。僕は僕を取り戻しに、本当の事を探しに行くんです」
「アンタの師匠は、あの通りの性格よ。真実を言ってるとは限らない」
「……師匠は僕の迷いを見抜いていたと思うんです。だから、村を出ろと」
「好意的解釈と言うより、盲信ね。アンタの言う事は、一々偽善臭くて嫌いだわ」
「……それでも、僕は行きます」
「あっ、そう。勝手にすれば?」
「いや、僕は初めっから……。呼び止めたのは――」
「何か言った?」
「何でもありません。有り難う御座います」
「は? 何で? アンタに礼を言われる筋合いは無いわよ」
「僕の意志を試してくれたんでしょう?」
「……そうね。そう言う事にしといてあげるわ」
「行って来ます」
ティナー地方北東の都市エスラスにて
禁断の地を出たラビゾーは、自分の名前を取り戻す事が、自分の魔法を見付ける為の、
手掛かりになると信じて、ティナー地方トック村に向かっていた。
ラビゾーの過去に繋がっているであろう、2つの鍵。
身分証にあった、「ワーロック・アイスロン」と言う名前と、ティナー地方トック村の住所。
過去の記憶は無いが、実際に行ってみれば、何か思い出すだろうと、初めは気楽に考えていた。
彼は僅かに持っていた(禁断の地では使い途が無かった)MGで、馬車鉄道を乗り継ぎ、
ティナー地方北東部の都市、エスラス市へ。
長らく街から離れていたラビゾーだったが、街中での振る舞い、人に紛れ込む方法は、
体が憶えていたので、問題となる様な事は起こらなかった。
……しかし、彼はトック村に入れなかった。
ティナー市の北側に隣接しているエスラス市は、平穏期の間に、20の小町村を吸収合併して、
拡大した市である。
トック村は、エスラス市に吸収合併された一行政区で、現在は市の北東端に位置する、
一地区となっている。
伝統的なティナー系とボルガ系の血が混ざった地域であり、住民は内向的。
故に、外部との混血は少ない。
大都会ティナー市から見れば、取るに足らない、辺境の街だ。
ティナー市北東部では、エスラス市街へ往復する馬車鉄道が、1角に1便の割合で、
毎日運行しているが、始発は東の時、終発は西の時で、しかもトック村までは行けない。
トック村へは徒歩で行くか、馬を借りるしか無い。
所持金に余裕の無かったラビゾーは、徒歩でトック村を目指した。
エスラス市街からトック村への道は、石畳で整備されており、上り坂だが勾配は緩い為、
険しいとは言えず、迷う様な所も無い。
それでもラビゾーは、トック村に入れなかった。
トック村に近付くに連れて、鉄球付きの足枷を嵌められた様に、足が重くなるのだ。
道端に立てられた、『トック村まで あと何区』と書かれた標識を見掛ける度に、
足枷の錘は重くなって行く。
ラビゾーは『トック村まで あと半区』の標識を見上げて、絶望の溜め息を吐いた。
もう1歩も前に進めなくなってしまったのだ。
それなのに、引き返そうとすると、嘘の様に両足は軽くなる。
(先に、自分の魔法を探せと言うんですか……?)
これを師の呪いと理解したラビゾーは、初めて心の底から師を恨んだ。
禁断の地にいた頃から、ラビゾーには常に、今の自分は本当の自分では無い、違和感を抱えていた。
その様な状態で、自分の魔法を見付けられるとは、彼には到底思えなかった。
それに「世界を巡れ」と言われても、先立つ物が無い。
禁断の地に戻ろうにも、引き返す分だけの馬車賃すら無い。
目的を失ったラビゾーは途方に暮れ、ティナー市内に引き返し、当ても無く街を彷徨き回った。
第四魔法都市ティナー 貧民街にて
第四魔法都市ティナーは、唯一大陸の中心にして、大陸最大、即ち、世界最大の都市。
ティナー市民は我が街を、自信と誇りを持って、億兆の街と称する。
しかし、ティナー市の南部、マスタード市との境には、貧民街が集中している。
重要機能が集中している都市の中心部は、都市警察が目を光らせている為に治安が良く、
反対に外縁部は治安が悪くなり易い。
主要街道の安全は確保されていても、少し道を外れて裏通りに入ると、途端に人気が無くなり、
柄の悪い連中が湧き始める。
その柄の悪い連中を取り仕切っているのが、コーザ・ノストラの一、マグマ。
マグマは統率の取れた組織では無く、大小様々な犯罪集団の集合である。
その中の代表者が集まり、仲間内のルールを決めたりするが、強制力は無い。
責任は個々の集団の長にあり、取り決めを守らずに問題を起こした集団は、集合から切り離される。
マグマは個であり全だが、個と個の繋がりは薄く、集団同士で、密告、騙し合いが頻繁に行われており、
中には都市警察と密接な関係を持つ物もある。
マグマが唯一共有する目的は、居場所を守る事。
彼等は居場所が同じと言うだけの、奇妙な集団なのだ。
ラビゾーがマグマと出会ったのは、禁断の地を離れて1月も経っていない頃、未だ旅商になる前で、
無け無しのMGを無意味に消費して、ティナー市内を歩き回っていた時である。
マグマの存在を情報として知っていながら、ラビゾーは迂闊であった。
マグマの若い数人のストリートギャングは、裏路地に迷い込んだ見窄らしい男を恐喝した。
「金を出せ」
「無い」
「嘘を吐くな」
「嘘じゃない」
「痛い目に遭いたいか?」
「嫌だ」
「好い加減にしろ」
「こっちが言いたい」
押し問答を繰り返し、ラビゾーと不良少年は対立を深める。
双方共に、引き下がる積もりは無かった。
痺れを切らした不良少年の1人が、固く握り締めた拳を突き出して、ラビゾーに言う。
「手前、やるってのか?」
「……やれるのか?」
鬱憤を晴らす為、ラビゾーは逃げずに、敢えて相手を挑発した。
ごろつきに、魔法資質の高い者は少ない。
ラビゾーは、その事を知っていた。
「後悔すんなや!」
不良少年の一人が、威勢良くラビゾーに殴り掛かる。
左斜め下から頬に一発、アッパーカットが浅く入った。
溜め込んでいた様々な負の感情が、急な痛みで撹拌され、ラビゾーは無性に腹立たしくなった。
先に手を出したのは向こうだと、湧き上がる嗜虐心を正当化する。
他の不良少年も、次いで疎らに動き出し、ラビゾーを取り囲んで、袋叩きにしようとした。
ラビゾーとて、無抵抗ではいない。
ラビゾーは背後に回り込んで来た、比較的小柄な若い少年を、力任せに殴り飛ばした。
数で劣るとは言え、腕力ではラビゾーに分がある。
一人一人叩き伏せ、確実に仕留めて行く。
「こいつ、意外とヤバいぞ!」
「調子に乗んなよ、この野郎!」
カモと思っていた男の意外な強さに、格好だけのストリートギャングは狼狽え、魔力石を取り出した。
魔法資質が低くとも、魔力石を所持していれば、ある程度の魔力行使は可能になる。
「E3・I1EE1・I3L4……」
不良少年は、下手な精霊言語で、詠唱を始める。
魔力石が目映い輝きを放った。
ラビゾーは「しまった!」と思うと同時に、由来の不明な屈辱感を思い出し――、
「L2F4M1!!」
自分でも驚く位に凄まじい剣幕で、そして自然な動作で、無効化の呪文を発動させていた。
不良少年の手に握られた魔力石は、一瞬で輝きを失う。
「な、何しやがった!?」
「おい……こいつ、不味いんじゃねぇか?
ここは下がった方が……」
「ちっ、一旦退くぞ」
見慣れぬ魔法に怖気付いた少年ギャングは、ラビゾーを睨み付けた後、素早く引き揚げて行く。
裏路地に独り取り残されたラビゾーは、動悸と昂りを抑えようと深呼吸した。
殴り合いの最中は気にならなかったが、打撃を受けた部位が強く痛む。
安堵と同時に、涙が溢れる。
冷静に思い返せば、幾ら売られた喧嘩とは言え、自分より年下の未成年を挑発して、
返り討ちにすると言う、大人気無い行為。
それを恥じる心は、持ち合わせていた。
涙は止めようと思っても、中々止まらなかった。
無様な姿を人目に晒さない様、心が落ち着くまで、その場で立ち尽くしていたラビゾーだったが、
約3点後、如何にも筋者と言う出で立ちの男に絡まれた。
余所者をのさばらせては、この近辺を仕切る集団の沽券に関わると、手下に応援を頼まれ、
本物のギャングが登場したのだ。
勿論、ギャングにとっては、用心を重ねての事。
ラビゾーの外見から、都市警察や魔導師会の関係者では無いと、そして行動から、
周囲に待ち伏せが無いと確認済みである。
「おい、兄ちゃん、何処の者だ?」
ギャングの男は、低い声で凄みを利かせて尋ねた。
都市の法に縛られない者とは言え、突然殴り掛かる真似はしない。
ティナー周辺にはマグマ以外にも、ならず者の集団が複数ある。
大きな物だけでも、北のノーザ・コストラのウーサ、東のマフィアのルキウェーヌ、
西のマフィアのシェバハと、3つ存在する。
都市警察や魔導師会の関係者では無くとも、別のグループの所属者の可能性がある。
マグマの構成は特殊で、マグマとは集合であり、集団では無い。
小さな問題の処理は、個々の集団の責任で行わなくてはならない。
下手を打つと、マグマ中の組織から弾かれる。
「何処の者だ?」
――その質問は、ラビゾーにとっては答え難い物だった。
どの組織に属しているのか訊ねられたとは、堅気のラビゾーには解らない。
彼は素直に、何処の出身か尋ねられたと思っていた。
後ろ盾の無いラビゾーに、ギャングの相手をする度胸は無い。
彼は今更ながら、厄介な連中と関わった事を後悔し始めていた。
故郷に関して確かな事は言えないので、自分が何処から来たかを答える。
「西の……」
ラビゾーが言い掛けると、男は顔を強張らせる。
「シェバハの弾か?」
答え切らない内に、次々と質問を続けるのは、会話の主導権を渡さない為だ。
ラビゾーには隠語は理解出来ないが、自分は警戒される様な存在では無いと、必死に否定する。
「違います。西の西、西の果て……禁断の地から――」
男の顔色が、恐れを含んだ物に変わる。
「あんた、外道魔法使いか?」
外道魔法使いは、何処でも良い顔をされない。
「ち、違います」
ラビゾーの嘘が吐けない性格が、ここで裏目に出た。
ラビゾーの師、アラ・マハラータ・マハマハリトは、外道魔法使いである。
外道魔法使いの弟子であるラビゾーは、間接的には外道魔法使いと言えなくも無い。
動揺が顔と言葉に表れていた。
「隠す必要は無いぜ。
兄ちゃん、運が良かったな。
あー、先ずは詫びさせてくれ。
家の若造が手荒な真似をして悪かった」
しかし、ラビゾーの予想とは逆に、この男は友好的な態度に変わった。
ギャングの男は妙に馴れ馴れしく、ラビゾーに言う。
「こんな所で立ち話も何だ。
俺に付いて来てくれ。
何、悪い様にはしない」
ラビゾーは訝り、従って良い物か迷ったが、下手に逆らうと後が恐ろしいと思い、黙って行く事にした。
本物のギャングには逆らえない。
ラビゾーの不安の原因は、この男が外道魔法使いに態度を変える所にある。
ラビゾーは外道魔法使いと言うには、余りに中途半端だった。
『多彩<バーサ>』であれば外道魔法使いとも言えようが、ラビゾーは今の所、共通魔法しか使えない。
師の知名度が、どの程度かも判らないので、師の名前で信用して貰えるか怪しい。
もし外道魔法使いと認められなかったら……。
ラビゾーは独り恐怖した。
「禁断の地」を口に出したのは、間違いだった。
彼は何度目か知れない後悔をする。
自分は何故、禁断の地と口走ってしまったのか……?
「禁断の地」とは、常人には立ち入る事の出来ない、文字通りの「禁断の地」。
それに関わる者と仄めかせば、恐れてくれるとでも思っていたのか……?
考えれば考える程、ラビゾーの心は苛立ち、腐って行った。
そんなラビゾーを余所に、ギャングは裏路地を上へ下へ右へ左へ、無人の建物を幾つも通り抜け、
表通りから遠ざかる。
ティナー市の外縁には、廃屋が並ぶ不気味なゴースト・タウンが、幾つもある。
倒産企業のビル、工場、レジャー施設。
それ等は法の目から逃れたい浮浪者や、コーザ・ノストラの恰好の拠点となる。
ギャングが部外者をアジトの中に引き入れる時は、通常ルートを態と外して、遠回りを繰り返し、
地理を覚えられない様に混乱させる。
このギャングの男も同様にして、ラビゾーを廃屋の一室に案内した。
「先生、例の外道魔法使いを連れて来ました」
そのドアの前で、ギャングの男は畏まった口調で、中にいる人物に伺いを立てる。
「失礼します」
……返事は無いが、ギャングの男はドアを開け、ラビゾーに先に入れと身振りで指示した。
ラビゾーは仕方無く、恐る恐る室内に踏み入る。
中は廃屋とは思えない程に清潔であり、主の地位の高さを窺わせた。
「先生!」
ラビゾーの後に続いて、入って来たギャングの男が、高い声を出した。
それに驚いたラビゾーは、反射的に振り返り、ギャングの男と目が合って、気不味い思いをする。
「……何だ?」
「……何でも無いです」
2人のコント染みた行動に、反応する声があった。
「何をやっとるんだ君等は?」
声の主は、豪華なクラシックソファに腰掛けた、初老の男。
「先生、予言の――」
「ああ、君は帰って良いよ」
彼はギャングの男を、連れ無く追い返す。
そして真顔でラビゾーを見詰め、こう言った。
「初めまして、アラ・マハラータの弟子よ。
私は『予知魔法使い』のノストラサッジオ」
ラビゾーは身構えた。
予知魔法使いと言えば、魔法大戦で共通魔法使いに敗れた、『古の賢者達』の一である。
ノストラサッジオは不気味な笑顔で、ラビゾーに問い掛ける。
「私は名乗ったが……お前は自己紹介してくれないのかな?」
ラビゾーは状況から、ノストラサッジオをマグマの一員と認識していた。
心証を損ねられては、この後どうなるか分からない。
無礼な態度は取らない方が賢明である。
「……僕は――」
しかし、ラビゾーは自分の名前を言う事が出来なかった。
禁断の地にいた時から、自分でラビゾーと名乗る事は、自分が自分で無くなる様な、
自分を否定する行為の様な気がしていた。
「言えないのか、言わないのか――」
ノストラサッジオの表情が険しくなる。
身の危険を感じたラビゾーは、遂に名乗った。
「……ラビゾー」
いや、それは名乗ったとも言えるし、発音しただけとも言える。
「ラビゾー?」
「ラビゾーです」
ノストラサッジオは、ラビゾーを静かに睨んだ。
「……まぁ良かろう。
ラヴィゾール、構える必要は無い。
お前が来る事は判っていた。
アラ・マハラータに、宜しく言われていたのでな」
(予知じゃないんだ……)
マハマハリトは、ここにラビゾーが来る事を読んでいた……?
その可能性に思い至ったラビゾーは、何とも言えない複雑な気持ちになった。
それは無いと言い切れない所が、マハマハリトの恐ろしい所である。
師との親交を匂わす言動に、気持ち警戒心が緩んだラビゾーは、ノストラサッジオに尋ねた。
「それで……僕に何の用ですか?」
「用があるのは、お前の方だろう?」
ノストラサッジオはラビゾーを揶揄う様に、問い返す。
「え……?
僕は、さっきの人に連れて来られたんですけど……」
「鈍い奴だな。
お前は私に何か有益な物を齎せるのか?」
「いえ、知りませんけど……」
理解が遅いラビゾーに、ノストラサッジオは失望の溜め息を吐いて見せる。
「お前の人となりを確かめた事で、私の目的は殆ど果たされた。
私は予知魔法使いだ。
お前は私の魔法を利用して、知りたい事があるだろう?」
「いいえ、そんな事は考えてなかったですけど」
ノストラサッジオは二度溜め息を吐く。
「お前の未来を照らす導になってやろうと言うのだ」
「……良いんですか?」
「お前は解らん奴だな。
私は『ノストラ・サッジオ』だ」
ラビゾーが最初に出会った外道魔法使いは、何処と無く師マハマハリトと似た雰囲気の人物であった。
「……予知魔法使い、なんですよね?」
「そうだ」
「共通魔法使いを恨んでいませんか?」
「他に聞くべき事があるだろう」
「でも……」
「そんなに気になる事か? 昔の話だ。お前が私に何をした訳でもあるまい」
「……その、あなたは何故、マグマに?」
「あのな、他に聞くべき事があるだろう」
「はい、そ、そうですね」
「誤解されては困る。私はマグマの一員になった憶えは無い。私はノストラ・サッジオだ」
(ノストラ・サッジオ……名前以上の意味があるのか?)
「私の様な者は、都市では生き辛い。マグマの連中には、居場所を守って貰う代わりに、
少しばかり知恵を貸している。それだけの関係だ」
「そ、そうですか……」
「連中も連中で、複雑な関係の様だがな。……私の事は良いから、自分の事を考えろ」
「僕は師匠に、自分の魔法を探せと言われました。僕は自分の魔法を見付けられるでしょうか?」
「無理だと言ったら、諦めるのか?」
「それは……」
「もっと意義のある質問をし給え」
「……これから僕は、どうすれば良いでしょうか?」
「数多の魔法を知れば、お前に相応しい魔法の形が、見えて来るだろう」
「はい。…………で、どうすれば良いんでしょうか?」
「……そうだな、運び屋をして貰おう。経費は支払う。大陸一周の旅だ。嬉しかろう」
「あ、有り難う御座います。でも、あの……どうして、そこまで親切にして下さるんですか?」
「何と無く。誰にでもある、気紛れの善意だ。気にするな」
「……はい」
「お前が余り気にする様だと、気が変わってしまうかも知れんぞ」
(……結局、予知魔法は関係無かった様な……)
終末週 第一魔法都市グラマー クゥワーヴァ家にて
1年の終わり終末週。
一部例外を除き、殆どの者は実家に戻って、一家団欒の時を過ごす。
魔導師の血を色濃く継いで来た、良家クゥワーヴァとて例外ではない。
家から離れていた、長兄ラジャン、長女イードラ、次女サティの3人が戻り、使用人のいない屋敷で、
慎ましやかな宴が開かれる。
火を囲んで蛇酒を飲み、父イクターに1年間の出来事を報告する子供達。
母ジャマルと三女レムナは、宴の裏方に回る。
陸運会社に勤務しているラジャンが、仕事での苦労話を語ると、本職の織物工と見合い話との間で、
気苦労の絶えない長子イードラが、その程度で何だと鼻で笑う。
一方で、古代魔法研究所に所属しているサティは、口数少なであった。
実利とは無縁な、非実用的な研究職の話には、誰も余り興味を持たない。
サティは色々な意味で、浮世離れしている。
サティは魔法資質が極端に高い為に、それなりの魔法資質がある者には、警戒される。
それは例えるなら、筋骨隆々の巨漢を見て、圧倒され、恐怖するのと同じ事。
魔法資質を持つ者は、より強い魔力を纏う者を、本能的に恐怖して、威圧感を受ける。
赤子の頃からサティを知っている家族は、今更彼女を恐れはしない。
それでも順応には相当の時間を要した物で、末娘のレムナに至っては十を過ぎるまで、
泣きじゃくって顔も合わせられない程だった。
古今変わらず男性優位のグラマー地方に在りながら、家長のイクターですら、
サティとの表立った衝突は避ける有様。
幸か不幸か、それが理によって諭す教育姿勢に繋がり、サティの暴走を抑えていたのだが、
今も変わらない彼女の挑戦的な性格は、往時の孤独感に由来する部分も、少なからずある。
勿論、家族に対する感謝の念や、愛情、親しみと言った物が、無い訳ではない。
ただ、少し……そう、ほんの少し、溝があると感じるのだ。
それは小さく浅い溝だが、この上無く大きく深い溝でもある。
皮肉な事に、家族の中で最もサティを理解している者は、最も彼女を恐れていた末子のレムナである。
兄姉と比較して、レムナは取り得が無く、褒められる所は、愛想の良さと、勤勉な態度位の物だった。
その代わりと言うべきか、よく気が利き、心配りが出来る子で、故に誰にも可愛がられた。
人の心の機微に敏感なレムナは、家庭内でのサティの孤立にも気付けた。
家に余り居場所が無かったサティの話を聞いたのは、レムナだけであった。
しかし、サティは次第にレムナからも距離を置く様になって行った。
同情されていると感じたのか、妹に甘えてはいられないと思い切ったのか、
本当の所は誰にも分からない。
恐らく、本人にも……。
静かに席を離れ、中庭に出たサティを、レムナは追った。
月が無い分、星の綺麗な夜。
サティは詰まらなそうに俯いていた。
「サティ姉さん」
そっとレムナが声を掛けると、徐に振り向く。
「レムナ、どうしたの?」
「どうしたのって、私が言いたいよ」
レムナの抗議する様な声で、サティは白状した。
「……私、面白い話、出来ないからさ」
「サティ姉さんは、見栄を張り過ぎだと思うよ」
「解ってる。
……でも、笑って失敗話なんて無理よ」
育ちで決まってしまった性格は、そう簡単には変えられないし、長い付き合いの家族に、
急に接し方を変えるのも難しい。
「辛くない?」
「慣れてるし、何とも思わないよ。
大丈夫」
姉の言う「大丈夫」が、どこまで「大丈夫」なのか、心配になるレムナであった。
ティナー地方西の都市デュラーにて
ティナー地方の西側は、シェバハと言うマフィアの勢力圏である。
このシェバハは、反社会的行為を働くと言うよりは、反社会的組織を違法に潰して回る、
確信犯的地下結社だが、魔導師会には忠誠を誓っている、可笑しな連中でもある。
反社会的行為を働く者を裁く為には、手段を選ばず、それが許されるのは自分達だけと思っている。
シェバハはシェバハの信じる正義があり、正義に反する取り引きは通用せず、稀に暗殺も請け負うが、
堅気の者には決して手を出さない。
組織の統制を保つ為に、構成員となる人材を選んでおり、故に規模も活動範囲も一定に留まる。
しかし、都市から見れば、シェバハは司法権を無視して私刑を行う、凶悪な反社会的組織。
ティナー西の都市警察は、シェバハが動くより早く犯罪者を捕まえなければならないし、
シェバハの暴走を食い止めなくてはならないので、比較的初動が早い。
この為、シェバハは必要悪を自称している。
デュラー市の路地裏で、大男がシェバハの構成員に囲まれていた。
シェバハの構成員は全員、短剣を右手に、魔力石を左手に持ち、臨戦態勢。
対して大男は、威風堂々と立ち聳え、彼等を全く相手にしていない様。
「お望み通り、誘い込まれてやったぞ。一体、己に何用だ?」
「外道魔法使いは殺す。我等の領域に入った迂闊さと、己が生まれを呪うが良い」
シェバハは共通魔法至上主義の集団でもある。
外道魔法使い狩りは、シェバハの使命。
しかし、シェバハに魔導師会との繋がりは無い。
法的に手が出せない者を裁く、所謂「汚れ仕事」は、シェバハの役割であると、
勝手に思い込んでいるだけなのだ。
「大人しくしていれば、一思いに殺してやる」
シェバハの構成員には、魔法資質の高い「魔導師崩れ」が多い。
組織的な「狩り」は、彼等の得意とする所である。
既に大男は、蒼の魔法陣の罠に掛かっており、身体能力を大幅に削がれている。
シェバハの者が、大男に抵抗を諦める様に促したのは、何も相手を慮っての物ではない。
彼等は魔力石を持っているが、魔法で人を傷付ける行為は、魔法に関する法律違反。
魔導師会と敵対する事を、シェバハは最も恐れている。
死人に口無しとは言え、魔法で人を殺した痕跡は、残したくないのだ。
一見窮地の様だが、大男は動じない。
「共通魔法使いとは、下らないな。群れて、この程度か?」
シェバハの構成員は、威圧されて竦んだ。
自信に満ちた態度が、大男をより巨大に見せる……いや、彼等は気付いていないが、
大男の身長は実際に伸びている。
最初から1身1足は優にあったが、今は更に1足大きい。
「覇ッ!」
大男が気合を入れ、一喝すると、全身の筋肉が膨れ、蒼の魔法陣が消し飛ぶ。
「脆い。まるで砂細工だ」
肉体を鍛える者は、魔法資質に劣る者が多い。
シェバハの者にとって、魔法資質の低い外道魔法使いは、労せず狩れる相手の筈だった。
標的の力量を計り違えたシェバハの構成員は、しかし、撤退しなかった。
外道魔法使い如きに後れを取っては、共通魔法使いの恥。
シェバハの構成員の小班長が、号令を出す。
「『刺又』!」
刺又と言っても、武器を取り出す訳ではない。
陣形の一つだ。
Y字に構え、前衛が敵を止めている間に、後衛が魔法で攻撃を行う。
狭い路地裏では、少人数でも陣形の効果が高い。
「F3D5I1――」
「遅い」
しかし、無意味だった。
誰の詠唱が終わるより早く、大男の巨体は、軽々と人を弾き飛ばし、あっと言う間も無く、
シェバハの構成員を全滅させた。
「憶え置け、己の名は――……ちっ、聞こえぬか……」
正に死屍累々の有様を見て、大男は詰まらなそうに、溜め息を吐く。
彼は巨人魔法使い。
自身の能力を強化する、巨人魔法の使い手。
『蒼の魔法陣』
『青』は心を落ち着かせ、集中力を高める色だが、煤んだ青を意味する『蒼』は、青の持つ、
負のイメージを強くする。
孤独、不安、寒さ、憂鬱、内向、眠り。
『蒼の魔法』とは、煤んだ暗い青の魔法――即ち、活力を殺ぎ、能力を減退させる魔法の総称である。
『蒼の魔法陣』は、獲物を誘い込み、罠に嵌める時、最も多く使用される魔法陣。
実際に、魔法陣が青色をしていなくても、能力を減退させる効果を持つ魔法は、蒼の魔法と呼ばれる。
これの対になる色は、明るい『黄』であり、希望、解放、軽快、幸福のイメージを持つ。
『黄の魔法陣』は、能力を高める効果がある。
これ等は色彩魔法の影響を強く受けた物である。
「君は巨人魔法使いだね?」
「如何にも。己は巨人魔法使いのビシャラバンガ。小僧、貴様、徒者ではないな。名乗れ」
「やれやれ……中々に無礼な若造だな。私は旧い魔法使いのレノック。
巨人魔法使い君、余り目立つ真似は控えて貰えないだろうか?
この街は共通魔法使いの支配下にある。我等旧い魔法使いは、静かに暮らしたい」
「弱者は淘汰されて然るべき。止めたければ、能力を示せ」
「その血気に逸る性格では、魔導師会と衝突するのも時間の問題だ。
そうなった時、迷惑を被るのは我々の方だと、理解して欲しい」
「魔導師会とやらが何か知らんが、纏めて叩き潰せば良かろう」
「魔導師会は、この大陸を支配する、巨大な共通魔法使いの組織だ。
君独りに、どうにか出来る物ではない」
「無理と言われると、余計に挑みたくなる物だ」
「止せ、止せ。
私の見立てでは、君の実力は、現存している旧い魔法使いの中でも、中の中と言った所だ。
その程度で、数多の魔法勢力を滅ぼし、魔法大戦を制覇した、共通魔法の組織に敵う訳も無い。
私の知る最も優れた魔法使いを、倒せる力量が無い限りは、とてもじゃないが……」
「興味深い。それは誰だ?」
「彼の名は――……」
「彼は各地の旧い魔法使いを訪ねて歩いている」
「最も優れた魔法使いか……フフン、楽しみだな」
「……ビシャラバンガよ、一つ訊きたい。巨人魔法使いは、英雄の血統だ。祖先の名は何だ?」
「知らぬ。魔法大戦で敗れた者の名に、興味は無い。道は己が通った後に出来る。
この己が新たな英雄となり、巨人魔法の歴史を創るのだ」
「貴様が森の魔女、使役魔法使いだな?」
「殺気を止めて。狼達が怯えている」
「これを怯えと言うのか? 怒りに狂っている様に見えるが……?
今にも己の喉笛に食い掛らん勢いだぞ」
「それは、あなたが怖いからよ。あなたは誰? 何が目的?」
「名乗り遅れたな。己は巨人魔法使いのビシャラバンガ。強い奴を探している」
「呆れた人……。残念だけど、私は期待に応えられない。狼達を見れば解るでしょう?」
「フン、所詮は獣、己より強い者とは戦えぬか……」
「あなたは道を見失っている。魔法の何たるかを知るべき」
「何だと? 貴様が己に何を教えられると言うのだ!」
「私には無理……だけど、私の知る最も優れた魔法使いなら、それを教えられる」
「それは誰だ?」
「彼の名は――……」
「会いたかったぞ、予知魔法使い」
「全く、困った若造だ」
「予知魔法使いならば、己の目的も既に知っていよう。己の名は――」
「名乗らずとも結構。やれやれ……今時、強さに拘るとは、酔狂な奴よ」
「己を前に、その余裕……大層な自信だな」
「おっと、早まらないでくれ。私は予知魔法使い。私の魔法は、戦いには不向きだ」
「……だから何だ? 見逃せとでも言うのか?」
「代わりと言っては何だが、私の知る最も優れた魔法使いを、教えよう」
「フン、それは誰だ?」
「彼の名は――……」
「貴様が噂に聞くアラ・マハラータ・マハマハリトか?」
「如何にも、儂の名はマハマハリトだが……噂? はて、何の事やら――」
「惚けるな。誰もが口を揃えて、貴様の事を、最も優れた魔法使いと言う。
己は巨人魔法使いのビシャラバンガ。
偉大なる魔法使いアラ・マハラータ・マハマハリトよ、一つ手合わせ願いたい」
「こんな爺を捉まえて、何を言うんじゃい……。その腕に掛かれば、儂なんぞ一捻りじゃろう。
主は悪神か、荒王か、熊蓑か?」
「成る程、話に違わぬ。貴様に挑むのなら、のらくら躱されぬ様にと、それは多くの者に注意された」
「誰ぞ、余計な事を言いよった奴は……」
「いざ、尋常に――」
「待てい、待てい。見ての通り、儂は腕力では主に敵わんよ」
「最も優れた魔法使いが、力押しに屈すると言うのか? それは面白い」
「何も面白くないわい。お前の様な奴等は、皆々魔法大戦で滅び去った。
そうなるべくしてなった連中だった」
「戦う気になってくれた様だな」
「……儂からは手を出さん。お前は自ら敗北を認めるだろう」
魔法使いは何を以って、優れた魔法使いを決めるのだろう?
優れた魔法使いとは何だろうか?
魔法資質の高さ?
魔法の知識?
どんなに魔法の扱いが上手くても、それだけでは魔法使いとして優れているとは言えない。
優れた人の評価と同じだ。
人より能力的に優れているだけでは、それは優秀な人としか言えない。
優れた功績ですら、魔法使いとしての優劣とは関係が無い。
「己の攻撃が当たらぬ……! 貴様は何者だ? 物の怪か、幻姿か、幽霊か? 人ではあるまい!」
「魔法使い」
「手も足も出ないとは、この事か……! くっ……参った」
「若さとは良い物だ。過る事が出来る」
「マハマハリト――いや、アラ・マハラータ! 最も優れた魔法使いよ!
どうか己に魔法の神髄を御教授願いたい!」
「神髄と言われても……主は巨人魔法使いじゃ。巨人魔法使いには、巨人魔法使いの秘奥がある筈。
主の師は、どうした?」
「……己の師は病に倒れ、最期に広い世界を知れと、そう言い遺して――」
「成る程。では、儂の弟子に会うが良い。儂と同じく、世界を回っておる。彼の名は――……」
怪人伝
グラマー地方 ブンデン町
グラマー地方には、魔法大戦の英雄や、魔導師会の偉人等、実在の人物に絡んだ伝説が多い。
名誉を重んじるグラマー人は、身近な存在を英雄として語りたがる。
一方で、奇人・変人・犯罪者の類は、歴史に残り難い。
その代表例が、ブンデン町にある、殺人鬼ミダラの伝説。
開花期、グラマー地方には、禁断の地に挑む者が多く訪れていた。
馬車鉄道が完全に整備されていない事もあって、グラマー地方の宿は、どこも一杯。
仕方無く、民家の床を借りる者もあったと云う。
ミダラはブンデン町の女だったが、どこの誰だったと云う話は無い。
身寄り無く育ったとか、身内と死に別れたとか、とにかくブンデン町に住んでいた、
無縁の人物――と云う事になっている。
彼女は宿の無い旅人を家に招き、眠っている隙に縊り殺して、金品を奪っていたと云う。
しかし、それだけでは単なる強盗殺人犯に過ぎない。
ミダラが伝説になったのは――ブンデンの者は決して多くを語りたがらないが――、
男を誘惑していたからである。
グラマー地方の女性は、貞淑を重んじ、少女から老婆まで、決して人に肌を見せない。
結婚は親、家、或いは周囲の者が段取りを付け、男女共に、夫婦となる者以外には、
体を許してはならない風潮がある。
この様な文化的背景があるので、女が男を誘惑する事は、無いとは言わないが、稀である。
男が女の誘いに乗る事は、即ち、結婚と同義であり、複数人と関係を持つ事は禁忌とされている。
文化の違いから、グラマー地方の女は、他の地方の男には敬遠される。
容姿が明らかでない上に、結婚を強要されるとなれば、そう易々と応じられないのが普通だ。
それでもミダラに引っ掛かる男が多かったのは、彼女がグラマー地方の女性の、
潜在的な魅力を熟知していたからに他ならない。
即ち、見せない美しさである。
勿論、本当に美しいかは、確かめなくては判らない。
美しい想像を掻き立て、その実を確かめずにはいられない魅力を、彼女は備えていた。
これは、知りたければ命を懸けろと言う、男に対する挑戦だった。
殺人鬼ミダラの伝説は、斯様に淫蕩且つ狡猾で猟奇的な、正しく魔女と呼ぶべき存在は、
ブンデンの恥、延いてはグラマーの恥として、余り詳しくは語られず、
時代が開花期の始め頃と云う事もあり、顛末は一貫していない。
ミダラの家で男が消える事を不審に思った、近所の者の通報を受けて、魔導師会が強制捜査に入り、
悲劇は終わったとされているが、肝心のミダラの生死については不明。
魔導師に殺されたとも、追い詰められて自害したとも、逃げ延びたとも言われている。
犯行の様態についても、処女は守っていたとか、異常性癖者で殺した者を食べていたとか、
悪魔的な儀式を行っていたとか、様々な噂がある。
グラマー地方民の性格からして、殺人鬼ミダラはグラマー史上の暗部・恥部として、
存在を抹消されても可笑しくは無かった。
しかし、歴史は――いや、グラマーの人々は、ミダラの事件を表沙汰にはしなかったが、
密かに語り継いだ。
それは猥談を楽しむ様な心だったのか、それとも或いは女の誇りだったのか、
人によって思う所は違うだろう。
比喩「ミダラの様に美しい」は、グラマー地方特有の官能表現であり、
それなりの知識を持つ大人ならば、大体は意味を知っている。
ブリンガー地方 ルテロ町
ブリンガー地方のルテロ町には、「マスター・ノート」と云う怪奇談がある。
ルテロ町はブリンガー地方によくある、農業を中心とした田舎町で、静かな所だ。
開花期の中頃、このルテロ町に1人の男が引っ越して来た。
男の名はカミノ・スコノシュート。
無口で陰気な男で、越して来たばかりの彼は、ルテロの町の者とは、挨拶すらしなかった。
しかし、丁度1年が経ったのを境に、途端にカミノは社交的になった。
初めの内は、会話の拙さを隠し切れない部分もあったが、数月も経てば違和感無く、
ルテロの人々に溶け込んだ。
カミノは不思議な男で、町民の名前を一人一人全員記憶していた。
記憶しているのが、名前だけなら、単に「記憶力が良い」で済ませられる。
しかし、年齢、職業、交友関係、その日の悩み事に至るまで、全てを把握していたら、どうだろう?
カミノはルテロ町に住む者に関しては、町の中の誰よりも詳しくなっていた。
その事を気味悪がる者はいたが、カミノは既に立派な町民の一員となっていたし、
記憶力が良いなら、細かい事を憶えていても、不自然ではなかった。
何よりカミノは無害であった。
10年が経った時、カミノは突然ルテロ町から姿を消した。
何かの事件に巻き込まれたのか、どこかへ引っ越したのか、事情を知る者はいなかった。
いつかカミノが帰って来るかも知れないと、彼の家は数年間、誰も立ち入らず、その儘にされていた。
カミノが失踪してから10年が過ぎ、ルテロ町民は、カミノ・スコノシュートなる男が存在していた事すら、
忘れ掛けていた。
もう誰もカミノが帰って来るとは思っていなかった。
そんな折、ある一家が新しくルテロ町に越して来て、空き家となったカミノの住居で暮らす事になった。
気の好いルテロ町の人々は、一家の引越しを手伝い、カミノの家を片付けていた。
カミノの家は、生活に必要最小限の物しか残っていない、物寂しい住居だったが、
彼の寝室にはノートが何百冊も残っていた。
全てのノートの表紙には日付が書いてあった事から、それ等は日記と思われた。
余り他人の日記を見るのは良くないと、誰も分かっていたが、人々は興味本位でノートを開いた。
ノートには、その日その日の出来事が、詳細に書かれていた。
どこの誰が、いつ、どこで、何をしていたか……。
そう、それはカミノの私生活を記した物ではなく、彼によるルテロ町民の観察日記だったのだ。
それを見た人々は驚愕した。
日記には、悪戯、密会、陰口、一体どこで見聞きしたのかと思う様な、秘密の事まで、
全部書かれていた。
町民を観察した範囲が、飽くまで人が一人で行動可能な範囲内であった事が、より生々しく、
ノートの内容が偽りだとは思えなかった。
最初の2年間は、カミノが町民を徹底して観察していた様子が窺えたが、3年目からは、
黒字で書かれた日記の横に、赤字で訂正が入る様になっていた。
カミノは町民の行動を予測して、答え合わせをしていたのだ。
初めは真っ赤な日記だったが、日付が進むに連れて、赤の割合は減って行った。
最後の2年には、赤字が全く無くなっていた。
これが「マスター・ノート」である。
引越しの手伝いに来ていた町民は、この恐るべきノートを一冊残らず燃やし、処分した。
余りの衝撃に、ルテロ町民は以後百年間、外来の者を警戒する様になったと云う。
肝心のマスター・ノートは、焼失してしまったので、この話の信憑性は薄い。
仮にノートが残っていても、既に過去の事だから、幾らでも捏造が可能である。
それに――カミノ・スコノシュートに、他人の行動を観察する悪癖があったとして、
本当に彼が未来を完全に見通せる様になっていたとは限らない。
赤字が減っていたのは、実は訂正が面倒になっただけかも知れない。
ルテロ町民が、勝手に恐ろしい想像を膨らませいた可能性もあるのだ。
この話は現在では主に、「隠し事は嗅ぎ付けられる」と云う教訓と共に語られる。
ボルガ地方 クイ村
復興期、ボルガ地方山間の小村クイに、それはそれは美しい女がいた。
この女は、村一番の金持ちの家に生まれ、美貌を鼻に掛けて我が儘放題の、とんでもない悪女だった。
クイ村の男共は、何とか彼女に気に入られようと、我が儘を進んで聞き入れ、時に罪まで犯した。
両親の手にも負えない、不孝者だったと云う。
この村には、この女の家とは別に長者があった。
それ程大金持ちではないが、名誉だけはあると言う家。
この家の一人息子は、礼儀正しく高潔な人物だったが、醜男だった。
美しい女の言う事を聞かない男は、色を知らない子供と、この醜男だけだった。
醜男は彼女の願いを聞かないばかりか、逆に悪事を諌めた。
その為か、美しい女は醜男に辛く当たった。
何かと容姿を貶し、小さな失敗を論っては、笑い者にしようとした。
しかし、醜男は人格者で、人望もあったので、試みは悉く失敗した。
痺れを切らした女は、取り巻きの男共に、醜男を襲撃させたが、これも返り討ちにされた。
余りに我が儘が過ぎた為、やがて美しい女は飽きられ、他の男共にも見放されて行った。
これだけなら、よくある話で済むだろう。
この後、美しい女は醜男と夫婦になるのだが、それもよくある話。
問題は、そこに至るまでの過程にある。
どう言う訳か、醜男は美しい女の顔に傷を付けた。
その結果、美しさを失った女は、醜男の妻となる訳だが……そうしなければならなかった理由とは?
この村に独特の風習があった訳ではないし、女の顔に傷を付ける行為は、寧ろ、
大きく非難される類の物であった。
事実、醜男は村中の者から非難されている。
悪意的な見方をすれば、美しい女を醜男に釣り合う様にしたとも言えなくはない。
美しい儘では醜男に相応しくない、或いは、醜男には傷物が似合いと言う皮肉。
普通に考えれば、美しい女が改心して、醜男の妻になれば、それで丸く収まりそうな物。
女が顔に傷を負う必要は無いし、男が傷を付ける必要も無い様に思われる。
ここで最も重要なキーワードは、醜男が礼儀正しく高潔な人物と云う所にある。
……この話は酷く精神的で、純粋な愛の物語である。
美しい女が顔に傷を負う事は、女が今まで罪を犯して来た事に対する、所謂「けじめ」、
禊の意味があるのだろうか?
確かに、顔に傷を付けられて、醜男の妻となる事、それ自体を罰とする見方も、出来なくは無い。
しかし、話の中で醜男は、村の誰にも非難されている。
如何に腹に据え兼ねた所があったにしても、皆に見放されて弱っている女の顔に、
傷を付ける事は無いだろうと。
即ち、敗者を叩く行為と、受け取られたのだ。
これの一体どこが、愛の物語なのか?
この話には、美しい女と醜男が、未告白の相思相愛であったと言う、隠れた前提がある。
先に紹介した悪意的な見方――『相応しい存在になった』と言う考えは、強ち間違ってはいない。
対等なのだ。
女は顔に傷を付けられた事で、美貌を失った。
男は女の顔に傷を付けた事で、名誉を失った。
美しい女と高潔な男は、互いの最も大事にしていた物を差し出し合った。
同時に、男は女の手の届く所まで降りて行った。
それが全て。
…………我が儘な女は、醜男の何に惚れたのだろうか?
答えは、この話の最後に添えられた、「人は美しい物に惹かれる」と云う、一文にある。
美しさは、何も見た目だけに宿る物ではない。
この男女は良き夫婦になったと云う。
エグゼラ地方 イミル村
唯一大陸で最も怪奇談が多いのは、エグゼラ地方である。
その殆どが極北人に関係する物。
人肉食の者、何十年も独り雪山で過ごした者、獣の群れに混ざって暮らした者、
何年も氷漬けの状態から復活した者、妖獣を魔法を使わず素手で殺した者、等々。
余所の者からすれば、これ等は全て十分に怪奇談と言えよう。
所が、エグゼラ地方では、現在でも実際に起こる話だ。
魔法使いでない、原始的で野蛮な、しかし、屈強な人種である極北人は、エグゼラ地方では昔から、
畏怖の対象であった。
過去には、その野蛮性を指して、極北土人と言った物だが、差別語として平穏期から死語になった。
共通魔法使いに敗れた後、極北人は他の地方民との混血が進んで、現在では、純粋な極北人は、
ガンガー北極原に住む一部に限られている。
それでも血気盛んな極北人の血は濃いのか、エグゼラ地方の年間の暴行事件発生率は、
唯一大陸で最も高く、単位人口当たりで5%にも上る。
詰まり、100人が暮らしていれば、最低でも中5人は暴行事件の被害者になっている事になる。
通報されない程度の物も含めれば、もっと多くなるだろう。
ティナーのジョーク集には、次の様な物がある。
「エグゼラ人が、初中殴り合いの喧嘩をするのは何故だい?」
「寒いから、温め合っているのさ」
イミル村の怪談は、そんな喧嘩好きの酔っ払いに関する話である。
開花期、イミル村の酒場に、2人の男が訪れた。
体格が良く、物々しい装備をしていた事から、村人は冒険者かと思った。
環境柄、吝嗇家の多いエグゼラ地方では、風来の冒険者を客としては余り信用しないのだが、
身形も良いし、事ある毎に『小遣い<チップ>』を撒くので、これは余程の金持ちに違い無いと思い込み、
好きに飲み食いさせていた。
挙句、2人は周りの者も巻き込んで、これは奢りだと大盤振る舞い。
皆して何の疑問も抱かずに調子良く有り難がり、飲めや食えやの大騒ぎ。
この2人、やたら酒に強く、飲んでも飲んでも潰れない。
酒場の主は、世の中には大した者がいる物だと、感心していた。
そんな楽しい雰囲気を壊したのは、当の2人である。
何が原因か誰も知らないが、2人は行き成り立ち上がって、小突き合いを始め、大声で喚き出した。
2人の言い争いは、次第に殴り合いへと発展し、辺り構わず暴れ回る。
2人は取っ組み合った儘、雪が積もる酒場の外へ転がり出て、外でも殴り合いを続け、
少しずつ酒場から離れて、夜の闇に姿を消した。
……要するに、食い逃げの話である。
喧嘩に夢中で、他の事に全く気が回らなかったとする見方もあるが、語り調からして、
詐欺を取り扱った物とした方が自然。
然して凶悪でもない、珍事件の類。
それがエグゼラ地方では、語り草になる。
結局、この2人は捕まらず、他の土地で似た様な犯行手口も無かった。
誰もが自分の飲み食いした分を支払い、2人が消費した分は、酒場の損になった。
この話を聞いたエグゼラ地方民は、皆々同じ感想を口にする。
「何故この2人は力尽くで、店から食い物を奪い取らなかったんだ?」
腕力があるなら小狡い真似をせず、堂々と奪い取るべきだと。
エグゼラの人々にとっては、これは奇怪な出来事なのだ。
価値観の違いではあるが、エグゼラ地方が野蛮な地と云われる所以である。
エグゼラ地方 ナーラク市
ナーラク市は、エグゼラ地方の北西に位置する、小都市。
メッサー大雪原に隣接する市であり、ガンガー北極原へ向かう場合は、必ず通過する事になる都市。
開花期には、氷原を探索する魔導師会の調査員や冒険者で賑わったが、現在は寂れ気味である。
当時の冒険者の多くは、ガンガー北極原にある、旧暦の遺跡を目指していたが、
実際に辿り着けた者の話は、殆ど聞けない。
氷原の厳しさに追い返されたのだ。
他方、魔導師会の調査員は、静かに遺跡の調査を進めていた。
遺跡に住む怪物、ジャッバリング・ウォーカーの話が出回ったのは、この時期である。
物陰に潜み、聞き取れるか聞き取れないか位の音量で、意味不明な事を呟き歩く、不思議な影。
追えど追えど、姿は見えず……。
それは極限状態で見た幻覚か、未知の自然現象か、それとも新種の生物か、何者かの魔法か……?
結局、正体は明らかにならず、やがて開花期も終わり、遺跡の探索も中断された。
このジャッバリング・ウォーカーに関心を持ち、熱心に研究していた者がいる。
ブリンガー地方出身のエルシダ・ドゥニグ博士。
彼女は未知の自然現象を解明する学者で、ジャッバリング・ウォーカーの噂を聞き付け、
態々エグゼラ地方の外れまで、足を運んだのだった。
しかし、結論から言うと、彼女の試みは失敗した。
実際に遺跡に行く事は出来た。
実際にジャッバリング・ウォーカーを目撃した。
それでも解明出来なかったのは、技術の限界と言うより、彼女の精神の限界であった。
ジャッバリング・ウォーカーを研究し続けたエルシダ博士は、やがて不明言語に脳を侵蝕され、
完全に不明言語しか話せなくなってしまったのである。
果たして、その様な言い方が適切かは判らない。
特定の方言が日常的に使われる地方で、長年暮らしていると、訛りが伝染すると云う。
不明言語を喋っていたのは、それと似た様な物で、精神を病んでしまったのは、
全く別の事が原因かも知れない。
低体温症による脳障害の他、言語野に障害を起こす、新種の病気の可能性もある。
寧ろ、そちらの可能性の方が高い。
彼女以外に、ジャッバリング・ウォーカーを目撃して、発狂した者は(少なくとも知られている限りは)、
存在しない。
エルシダ博士は、言語の崩壊と並行して、行動も奇怪になって行った。
何も無い壁を黙って見詰めたり、障害物を避けずに当たったり、虚ろな目で独り言を呟き続けたり……。
それは完全にジャッバリング・ウォーカーになってしまった様だったと云う。
調査の続行が困難になったエルシダ博士は、ブリンガー地方に帰還し、数月静養したが、
病状は悪化する一方だった。
彼女は手書き文字に、精霊言語の発音記号を用いる様になった。
しかし、翻訳しても意味不明で、恐らくジャッバリング・ウォーカーの発音を当て嵌めて、
真似た物だろうと言われている。
何か意味があるのかと、言語の専門家が解読を試みたが、何も分からず終い。
魔導師会は心測法を用いて、一体エルシダ博士が何を見て、何を感じたのか、
何故まともな言語を喋れなくなったのか、調べようとしたが、その直前に彼女は失踪した。
魔導師会は直ぐに彼女の足取りを追ったが、ブリンガー地方の南端、ファンテル町で途絶えており、
海へ飛び込み自殺したと推測。
遺体の回収は困難として、捜索を打ち切った。
幸か不幸か、このジャッバリング・ウォーカーに纏わる恐ろしい話は、殆ど広まっていない。
遺跡への進入禁止を呼び掛けるまでもなく、ガンガー北極原自体が進入困難な区域である上に、
エルシダ博士の研究を知っている者が限られており、更に魔導師会が関わっている事もあって、
噂する者が少なかった。
旧暦の遺跡に近付く者が増えない限りは、今後も極北のジャッバリング・ウォーカーの怪談が、
広まる事は無いだろう。
カターナ地方 タルタモ市
唯一大陸で最も平均標高が低く、海が近いカターナ地方では、海に纏わる怪奇談が多く見られる。
カターナ地方では、死者は海に流される。
死体は遠洋への海流に乗って陸から離れ、直ぐに大海獣か、大型魚類の餌になる。
遺族が感傷に浸って見送っている間に、棺ごと大魚に食べられてしまったと云う話が、
よく聞かれる位だ。
尤も、それが大して問題になっている訳ではなく、それはそれで自然に還ると、
カターナ地方民は気楽に受け止めている。
「帰って来た死人」は、この様なカターナの葬送に関係する、不思議な話。
開花期が終わり、平穏期になったばかりの頃、タルタモ市で1人の老人の葬儀が行われた。
老人は身元不明の行き倒れで、タルタモ市役所の者は、見送る者も無く哀れだから、
せめて丁重に葬ってやろうと思い、棺に花を添えて、海に流したと云う。
所が翌日、棺は海に流した時と全く変わらない状態で、タルタモ市の浜辺に打ち上げられていた。
カターナ地方の者が、海流を読み違えるとは考え難く、この棺は突風か何かの影響で、
向岸流に乗ってしまったと思われ、タルタモ市は即日改めて水葬を行った。
しかし、老人の棺は三度帰って来た。
当時のカターナ地方民は、未だに原始的な思考をする者が多く、この様な事が起きるからには、
陸に何所か未練を残した者に違いないと、タルタモ市役所の者は、魔導師会を頼った。
心測法を試して欲しかったのである。
しかし、心測法はA級禁断共通魔法に分類される物であり、濫りに使用してはならない。
捜査官を派遣して貰えるか、怪しい所だったが、そこは重大な事件に繋がる可能性があると報告して、
誤魔化した。
いや、もしかしたら当人達は、重大な事件に繋がる可能性を真剣に考えていたかも知れない。
気楽な市民性からか、カターナでは重大事件は起こり難い。
他に重大案件を抱えていた訳でもないので、カターナ魔導師会は難色を示す事無く――
別に快諾とも言えないが――捜査官をタルタモ市に派遣した。
カターナ魔導師会の捜査官は、腐敗し掛かりの老人の死体を見るや、こう言った。
「これは外道魔法使いじゃないか?」
捜査官は死体が纏う魔力の名残に、共通魔法使いとは異質な物を感じたのである。
外道魔法による呪いを受けた可能性もあるとして、捜査官は念の為に、簡易心測法を実行したが、
やはり事件性は薄かった。
当時は外道魔法使い狩りの流行が、漸く落ち着き始めた頃で、この老人も苦労して来たのであろう。
捜査官が見守る中、タルタモ市役所の者は改めて祈りを捧げ、海に流した。
そうした所、棺が陸に戻って来る事は無かったと云う。
タルタモ市役所の職員は、棺が陸に帰って来ない様に、特別工夫した訳ではない。
棺が陸に戻って来た2度の水葬は、時間も場所も殆ど同じ。
事の真相は、極短期間の一時的な海流の変化であろうと、多くの者は推測する。
共通魔法使いは、完全に死した者が、意思を保って何かを行うとは考えない。
魔力の塊に意識を写し、スピリタスの擬似霊魂を作る方法が、禁断共通魔法にあるので、
死者が悪さをする時は、先ず魔法による現象が疑われる。
魔力行使の痕跡が無ければ、それは他の自然現象で片付けられる。
カターナ地方 クダノナ島
カターナ地方の大陸周辺小島群の一、クダノナ島には、伝説の漁猟法がある。
「ヒダル漁」と呼ばれる、その伝説の漁では、2丁の大鉈が用いられる。
仕留めるのは、体長が1大から1巨の巨大魚類、もしくは大海獣類。
ヒダル漁を行う者が備えているべき条件は、3つ。
吸気を3点以上止められる事。
水深3巨まで潜れる事。
外皮が非常に堅いユユの実を素手で剥ける事。
これ等を満たした者に限り、ヒダル漁は許される。
2丁の大鉈以外に、余計な物は持たない。
ヒダル漁とは……態と巨大な生物に丸呑みされ、内部から腹を破って、獲物を仕留める漁である。
この漁の実践は、非常に困難である。
先ず、目的の獲物に、上手く丸呑みして貰えるか、問題となる。
無防備なので、牙の鋭い中型魚類の群れに狙われては、食い千切られてしまう。
また、素早く腹を破らないと、消化されてしまう。
それには背側でなく、確実に腹側を切り裂かねばならないし、消化前に腹を破っても、
水深3巨以上に潜られては、水圧で死んでしまう。
この為、食われてから30極以内の脱出が目安となる。
上記の問題が全て片付き、命が助かっても、獲物が死なない事がある。
よって脱出時に、出来るだけ大きな傷を付ける事が、望ましいとされる。
ヒダル漁は、実際に行われたと云う、明確な記録が無い。
現代に継承者は残っておらず、伝説として存在するのみである。
海獣漁に慣れた者でも、流石に、これに挑もうとはしない。
カターナ地方の多くの市町村で、実行が認められない。
しかし、カターナ航海軍では、このヒダル漁の訓練が行われた。
飽くまで訓練であり、実際に海獣を仕留めてはいないが、万が一の事態に陥った場合に備え、
緊急手段として取り入れられた。
それは大型魚類や海獣に呑み込まれた時の、緊急脱出方法、即ち、護身の手段であって、
ヒダル「漁」とは言わず、ヒダル式護身術と呼ばれていた。
ヒダル漁が大鉈2丁のみで腹の中に飛び込むのに対し、ヒダル式護身術では口や喉を傷付けて、
或いは共通魔法を使って、呑み込まれない様に指導があった。
臨機応変に、時には牙に押し潰されてない様に、敢えて口中に飛び込む事も必要と言われたが、
実効性は定かでない。
所詮は空論に過ぎない物だったが、カターナ航海軍編成以降、ヒダル式護身術は、
カターナ海上警察の訓練課目に組み込まれて、現在でも続けられている。
実在する魔法大戦の遺物
神槍コー・シアー
神聖魔法使い、神聖十騎士ランスベアラーが携えていた槍。
大軍を一突きで、布を裁ち鋏で裂くが如く散らした事から、『軍団断ち(corps shear)』の名が付いた。
コー・シャー、コルシア、コープス・シアー等の表記揺れがある。
物体なら何でも突き抜け、真っ二つにすると云う、『槍<ランス>』とは思えない性能を持つ。
不死でさえ殺せると云われ、ランスベアラーの死後、滅びのイセンがリリリンカーを倒すのに用いた。
現存している、数少ない魔法大戦時代の遺物の一で、魔導師会本部の地下に、
厳重に保管されている。
しかし、共通魔法とは異質な魔力の流れを感じられはする物の、分類的に、「制作時代の割には」、
性能の良い魔法道具の範疇を出ない物で、伝承の性能は誇大と言われている。
貴重な史料であり、魔法暦が記念周年を迎える毎に、魔法史料館に展示される。
その他の神器、ベルリンガーの『ベル・オーメン』、バグパイパーの『オー・トレマー』、
フラグレイザーの『制圧旗<マスタリー・フラグ>』、シールドベアラーの『セーヴァス・ロコ』は、
禁断の地に眠っているとされているが、確証は無い。
仮に形を留めて残っていても、神槍と同質の物ならば、単なる魔法道具に過ぎないので、
既に風化している可能性が高い。
鏡の箱
大魔王アラ・マハイムネアッカが所持していた(とされる)、魔神を召喚する箱。
別名、魔神の箱、魔法の箱。
外面は美しく複雑な幾何学文様が描かれており、内側は全面鏡張になっている。
箱は1辺1手の正12面体で、バラバラにして、正五角形の鏡に分解可能。
この箱から数々の魔神を呼び出したと云われているが、どう見ても普通の箱で、
魔法道具とすら思えない。
魔力の流れも全く感じられず、召喚方法は不明。
これの所為で、魔法大戦の伝承が疑われていると言っても、過言ではない。
しかし、魔導師会は堂々と、この何の変哲も無さそうな箱を、魔法大戦の遺物として厳重に保管し、
神槍コー・シアーと同等に扱っている。
魔法大戦が実際にあった事を信じる者は、鏡の箱は目眩まし、所謂トリックの為の道具であり、
ミスリードを誘う仕掛けであったと理解している。
一説には、光を閉じ込める事が出来たと言われているが、信憑性は低い。
神聖十騎士の神器
神聖十騎士が持つ神器は、真のホリヨンと、十騎士の血統の者しか扱えないとされている。
しかし、旧暦にはホリヨンが複数存在していたし、十騎士は十騎士で、どこかしらに子孫がいたので、
使用可能な者は、相当存在していた。
一説には、信仰心さえあれば、誰でも使用可能だったが、能力と信仰の大きさによって、
効果が大きく変化するとも。
神槍コー・シアー以外は、禁断の地に眠っているか、失われてしまったと伝えられている。
ベルリンガーのベル・オーメン(『兆しの鐘<bell omen>』)は、効果が不明。
ベルリンガーの鐘が鳴り響けば、聖なる物が降臨すると云う。
聖なる物とは、ホリヨン(holy one)を指す言葉だが、ベル・オーメンが呼ぶ聖なる物は、
必ずしもホリヨンとは限らず、人智を超えた天上の存在、聖なる力を宿した物を指す。
それが如何なる物か、全く解っていないし、果たして実在するのかと言えば、否であろう。
バグパイパーのオー・トレマーは、『畏敬の震え<awe tremor>』の意味を持ち、
その音は悪しき物を震え上がらせ、敵対の意思を挫くと云う。
力の弱い物は、音を聞いただけで滅ぶとも。
フラグレイザーの『制圧旗<mastery frag>』は、掲げれば勝利が確定すると云う、訳の解らない代物。
一応条件があり、敵陣に立てる必要がある。
正確には、旗を立てた場所(及び旗が見える位置)が、旗手の勢力の完全な支配下に入るのだが、
この完全な支配の意味も、よく解っていない。
誰であろうと、一度掲げられた旗を折る事は、不可能とされている。
シールドベアラーのセーヴァス・ロコは、『安全な場所<salvus loco>』の意味を持つ盾で、
この裏側には如何なる攻撃も届かないと云われている。
伝承の通りならば、盾の前面に立っている限りは、遠隔攻撃だろうが、精神攻撃だろうが無意味。
裏側に関しての言及が無い事から、流石に背後からの攻撃は防げないと思われるが、
背後からでも、直に背を撃たないと無効化される虞がある。
キャリッジドライバーの馬車、将軍の剣、祈り子長の杖は、神器と認定されていない。
神王ジャッジャス・クロトクウォース・アークレスタルト
クロトクウォース・アルセアルは、若くして一国の王となったホリヨン。
没落貴族の家に生まれたが、神託を受けて覇道を歩み始めた。
旧暦、腐敗した貴族社会に革新を齎す存在として期待され、分裂していた周辺国を纏め上げて、
千年振りに(正確には不明)十騎士を揃え、神聖アークレスタルト法国の王となった。
王位に就いた後、クロトクウォース・アークレスタルトに改名し、司教に神名ジャッジャスを与えられた。
その性格は実直で、礼儀正しく、情に篤いが、不正を許さない、正義の人だったと云う。
神聖魔法使いとしての能力は凄まじく、相当高位の魔法使いでなければ歯が立たず、
一対一では無敗だったと、伝わっている。
しかし、権力に固執する王侯貴族に離反され、国力は衰退。
国内事情を纏め切れない裡に、魔法大戦が始まってしまった。
国内の混乱を抑える為に、神聖魔法使い以外の魔法使いを厳しく取り締まった事から、
そこは自業自得とも言える。
旧暦のアークレスタルト国内の事情は、偉大なる魔導師の第二高弟、オッズの伝記に遺されている。
魔法大戦に於ける神聖魔法使い
神聖魔法使いは、旧暦で勢力を誇っていた一大魔法勢力で、絶大な権力を持っていたが故に、
魔法大戦の伝承では、共通魔法使いの宿敵であったかの如く、描かれている。
しかし、神聖魔法使いにとっては、共通魔法使いは数ある敵対勢力の一に過ぎず、
特別に敵視して弾圧していた訳ではなく、他の魔法使いと等しく排除対象であった。
神聖魔法使いへの強い敵意は、当時弱小勢力に過ぎなかった共通魔法使いによる、
一方的な敵愾心と言える。
その為、魔法大戦の伝承では、神聖魔法使いに関する記述が、取り分け多い。
魔法大戦後の魔導師会(当時は啓発会)は、神聖魔法使いを伝説通りの強大な存在と認定する事で、
それと戦った八導師や大戦六傑、延いては、八導師が所属する魔導師会、
及び共通魔法全体の威信発揚に利用した。
歴史の授業でも、旧暦の悪しき魔法使いの例には、必ずと言って良い程、
神聖魔法使いの名が挙げられる。
農産物コンテストとブリンガー地方民の性質
唯一大陸最大の食物生産量を誇るブリンガー地方は、各都市に農産物を輸出している。
ブリンガー市民は、他の地域に何で劣っても、農産物の出来では負けてはならないと思っている。
のんびり屋のブリンガー市民が、唯一対抗心を持つのが、農産物なのだ。
故に、ブリンガー地方では、農産物に関してのみ、馬鹿みたいに研究が進んでおり、独走状態。
更なる技術発展を促す為に、ブリンガー地方では、毎年季節毎に農産物コンテストが行われる。
ブリンガー地方では、農産物は大きく、甘味が強い程、良いとされ、農産物コンテストでは、
根菜、葉菜、果菜、菌茸の各部門で、大きさと甘さ、色形の良さが競われる。
面白い農産物、一風変わった農産物には、審査員特別賞もある。
農産物コンテストでは、家畜のコンテストも行われ、こちらは体の大きさ、毛並みの良さ、
健康具合が競われる。
味が良く、栄養豊富な農産物が市場に溢れているので、ブリンガー地方民は、
塩以外の調味料を殆ど使わず、生で野菜を食べる。
その所為か、ブリンガーの平野地都市部を中心に暮らす者(※)は、意外と料理下手な者が多い。
また、甘味が好とされる風の反面か、刺激物、辛い物は苦手な者が多い。
※:山間部、都市から離れた田舎では、山菜の毒を抜いたり、野生の鳥獣を食肉処理する為に、
高い調理技術を身に付けている者が多い。
各地の食文化と料理の上手下手
各地方によって、食文化は大きく異なる。
香辛料を山と使うグラマー人、調味料嫌いで子供舌のブリンガー人、肉食で悪食のエグゼラ人、
味音痴のティナー人、味に煩いボルガ人、水産物が主食のカターナ人。
以上の様な関係から、グラマーとブリンガー、ティナーとボルガの者は、夫婦になると、
苦労すると言われている。
他に、エグゼラ人は毎食肉が無いと機嫌が悪くなるとか、カターナ人は四足の獣肉を嫌忌するとか、
地味に面倒な部分がある(その割合は、余り多くない)。
一部山間地を除き、ティナー地方民は復興期以前、貧しい土地で生活していた為に、味の濃淡、
風味に鈍感であり、それは味覚障害の域に入るとさえ言われる。
現在でも市民の6分の1は、絶望的に料理の才能が無く、余程の刺激物でない限りは、
殆ど何でも食べられる。
軽度の者を含めれば、味覚障害者は2分の1にも至ると言われている。
困った事に、優性かと思える位に、ティナー人の味音痴は遺伝する。
確かに、生存には有利な能力に違い無いが……。
魔法を殺す者達
魔法技術士会は、魔法技術の開発と同時に、魔法道具協会と共同で、魔導機の開発も行っている。
現在では殆ど全ての自然科学的現象が、魔法で再現可能になっている為、論理的には、
同じ事が魔導機でも可能である。
しかし、魔導師会によって魔導機の普及は制限されており、市民は高い技術水準に見合わない、
レトロな生活を強いられている。
――とは言え、ある程度自由に魔力石が売買されているし、何より大魔力路が整備されているので、
都市部では文化的な生活を営むのに、必要な最低限の魔力供給が確保されている。
誰も不自由はしていない。
人々は「非効率的だが、それなりに豊かな生活」を送っている。
一方で、魔導師会内でも、魔法関連の全機能の魔導機化(=自動化)を推進する動きが無くも無い。
魔法資質の優劣による格差を撤廃する為に、魔導機をもっと普及させるべきと考える者は少なくない。
だが、大前提として世界的な魔力の不足がある以上、魔導機は普及させられない。
現状で魔導機を普及させれば、安定的な魔力源を巡る都市間抗争から、
第二の『魔法大戦<スクランブル・オーバー>』を引き起こし兼ねない。
第一魔法都市グラマー ニール地区 魔導機開発研究所にて
グラマー市の魔導機開発研究所は、各地から魔導回路理論の専門家が集まる、
大陸最大の魔導機研究機関である。
グラマー市では魔導機を使う者は殆ど存在しないが、ここでは最先端の技術を利用した、
魔導機開発が行われている(一部の禁断共通魔法の魔導機を除く)。
しかし、ここで開発された魔導機が一般に出回る事は、殆ど無い。
魔導機に用いられる魔導回路の構造は、魔力伝導の良い物質で、魔法陣を模った、
至って簡単な物である。
魔法陣の複雑さ、或いは、特殊な魔導回路によっては、決して簡単とは言えないが……。
先ず、職人が真っ平らなブリンガー鉄の板に、不動鉄の鏨で、魔法陣を模った溝を掘る。
これが鋳型となる。
鋳型にブリンガー鉄を用いる理由は、傷付き易い半面で、非常に硬く、熱に強い性質を持っている為。
次に、浅く掘ったブリンガー鉄の溝に、熔かした魔導合金を流し込む。
それを静かに冷やし、取り出せば、現在よく使われている、最も単純な魔導回路が出来上がる。
あらゆる魔法陣の鋳型は、少なくとも5つ以上保存してあり、何時でも量産可能になっている。
……だが、現状では何処まで行っても、魔導機開発者は冷や飯食いだ。
魔力を人工的に、且つ安定的に、大量に発生させる方法が発明されない限りは、
研究者としてしか食べて行けない。
新型魔導機の図面を眺めながら、魔導機研究員の1人は溜め息を吐いた。
「こんな物、幾ら造った所で、端金にしかならんのですよねェ……」
「この御時世、評価賞金は決して安くありません。
文句ばっかり言ってると、罰が当たりますよ」
制約から、商業利用が中々進まない魔導機開発では、新技術を開発した研究者には、
魔導師会から褒賞金が出る。
「はいはい、そうですね」
「今回の発明は、魔導機の概念を大きく変えるでしょう」
新型魔導機は、それまでの常識であった、「1つの魔導機に1つの魔法」を覆す物だった。
魔導回路をカートリッジ式にして、組み合わせにより、発動する魔法の効果を変化させる。
組み合わせは、ある程度決まっている物の、更に発展・応用させれば、複雑な魔法陣の魔法も、
発動させられるかも知れない。
……しかし、それも魔力が余分にあっての話だ。
「確かに、可能性は感じますが……それより喫緊の問題は魔力不足。
どんな発明を披露しても、その後に出て来る言葉は、省魔力。
省魔力、省魔力、嫌になりますって」
「大魔導計画が完遂されていたら、現状は違ったのでしょうが……」
「否、そんな事は思ってませんよ。
大体、大魔導計画なんぞ、勢いで始めた物だから見通しが甘々で、完成しないと判って、
止めた訳ですし」
「……魔力不足の解決は、魔法開発の研究者に任せましょう。
私達の仕事は、魔導機開発です」
同僚に諭され、文句を言っていた研究員は、不満気な表情で俄かに沈黙した。
「A3C5H1の魔法陣を利用した、自動魔力充填式の新デザイン案も出ていますよ」
(今の技術では、魔導師会を説得出来ない。
欲しいのは革命的な発明……)
魔導機開発者の未来が明るくなるのは、何時の日か……。
言霊使い
第四魔法都市ティナー 繁華街にて
第四魔法都市ティナーは、唯一大陸の、そして六大魔法都市が描く五芒星の魔法陣の中心である。
都市間の交易の中心地でもあり、最も人と魔力の集まる地。
しかし、年中昼夜飽かず繰り広げられる、人間同士の苛酷な競争風景を見ると、
まるで人の妄念までも集めた様である。
その日、ラビゾーはティナー市で、服屋を探していた。
旅商の癖に、見た目を余り気にしないラビゾーは、何時も草臥れた服を着ていて、ともすれば、
乞食や瘋癲に見えなくもない。
ある意味、瘋癲で間違っていないのだが、そこは今は置くとしよう。
そんな彼が服を新調するのは、決まって、破れたり、穴が開いたりして、どうしようも無くなった時。
正に吝嗇の窮みである。
しかし、今回は問題が発生した。
ティナー市の服屋は、どれも小洒落た雰囲気で、ラビゾーの様な風体の者が、気軽に出入りするのは、
躊躇われるのだ。
彼は色々な所を歩き回るので、丈夫で飾り気の無い、上着が欲しかったのだが……。
幾つもの店を回って、やっと良い物を見付けたかと思うと、呪文が編み込んだりしてあって、
値段が2桁違ったりする。
彼は変な所で、拘り屋である。
少しでも気に入らない部分があると、食指が伸びない。
妥協するのは何時も、二順、三順した後だ。
理想の服を探して、ラビゾーは普段は全く通らない小路に、足を踏み入れた。
その小路でラビゾーは、1人の少女と出会った。
「そこの人、良くないよ」
「え?」
紺のオーバーオールを着て、鍔付帽を被った少女は、まるで少年の様。
行き成り話し掛けられ、無視すれば良い物を、ラビゾーは立ち止まる。
ティナー市内では、子供を独りで行動させる事は、先ず有り得ない。
しかし、貧民街の者には見えなかった。
「良くない、良くないよ。
負のオーラが滲み出ている」
少女はラビゾーの顔を覗き込み、何も彼も見透かしているかの如く、嫌らしく笑う。
危険な臭いを感じたラビゾーは、無視しようとしたが、相手が子供なので、そう辛くも当たれない。
迷うラビゾーを見て、少女は再び得意気に言う。
「ああ、やっぱり良くない。
どっち付かずだね、君は」
言動の怪しい少女に、師と似た雰囲気を見たラビゾーは、恐る恐る尋ねた。
「……外道魔法使い?」
「共通魔法使い側の呼び方は止してくれないか、ラヴィゾール君。
私は『言葉の魔法使い』、ワーズ・リアライザー」
外道魔法使いと聞いて、ラビゾーは警戒を緩める。
「『言葉の魔法』……初めて聞きました」
「それは初めまして。
古い魔法だから、若い人は知らなくて当然かな」
ラビゾーを「若い人」と言う事は、この少女も見た目通りの年齢ではない。
既に、似た様な人物と出会っているラビゾーは、然して驚きこそしないが、どうにも慣れない部分があり、
眉を顰める。
「あ……、初めまして、どうも」
遅れて鈍い挨拶をするラビゾーに、少女は忍び笑いした。
大人の男が、子供と話し込んでいると、何かと誤解され易い。
ラビゾーは人目を気にして、一旦周囲を確認する。
「心配無い。
ここの人は、気にしないよ」
少女はラビゾーの心を読んで、呆れ気味に言った。
街の人々は、ラビゾーにも少女にも全く目をくれず、しかし、確りと避けて、横を通り過ぎて行く。
この現象に、ラビゾーは覚えがあった。
少女は、元々他人に関心が薄いティナー市民の性質を利用して、注目されない様にしている。
人の意識を操っているのだ。
それでもラビゾーは人が気になって落ち着かず、おどおど少女に尋ねる。
「しかし、どこで僕の名を?」
知らない相手に、自分の事を知られているのは、何とも心地悪い物である。
彼は幾度も、そう言う体験をして来た。
「風の便りを聞いたんだ」
それでは答えになっていないと、不満気に黙り込むラビゾーを見て、少女は意地悪く笑う。
「フフフ、本当だよ。
何たって、彼の弟子だからね……皆、噂したがる」
少女の振る舞いは、本当に師に似ている。
ラビゾーは改めて、そう思った。
これ以上追求しても、余り意味が無いと悟ったラビゾーは、別の質問をする。
「それで『言葉の魔法使い』さん、僕に何か用ですか?」
「さっき何度も言ったけど、君は本当に良くないんだ。
私は君の良くない所を、何とかしたい。
――だからさ、君の願いを1つだけ、叶えてあげるよ。
どうか良い選択を」
少女は苦笑しながら答えた。
魅力的な話ではあるが、ラビゾーは訝る。
「どんな願いでも?」
「君に出来る事なら」
意味深な物言いに、ラビゾーの疑念は深まる。
「……何で、そんな事を?」
「善意だよ。
魔法使いの本能とも言うべき、善意。
困難に陥っている者を救う、所謂『魔法使いの役割<ウィッチ・ロール>』さ。
君の選択次第では、魔法使いは『悪魔<イネイブラー>』にもなり得るけどね」
(何だか面倒臭いなぁ……)
早くも逃げ腰のラビゾーの心中を察し、少女は言う。
「フフッ、安心しなよ。
私は『言葉の魔法使い<ワーズ・リアライザー>』。
願いが叶う様に、言葉に重みを持たせるだけ」
「重み?」
「そう、言葉には重さがある。
同じ言葉でも、人と時と場合によって、重さは変わる。
軽い言葉に縛られる者はいないが、逆に重い言葉なら、幾千万の人を動かせる。
私は言葉に重みを与える事で、人の志を確かな物に出来る。
『君に出来る事なら』、どんな願いでも叶えさせられるのさ」
「そう言う理屈ですか……」
ラビゾーは得心すると同時に、大きく落胆した。
とにかく少女に願いを言わない限り、ラビゾーは解放されそうに無い。
「聞かせて、君の願いを」
馬鹿馬鹿しくなったラビゾーは、取り急ぎ叶えたい願いを言った。
「それなら、服が欲しい……とか、そんなのでも叶えられますか?」
見るからに貧乏臭い男が、服を欲しがると言うのも、可笑しな話だ。
それを自覚していたラビゾーは、遠慮気味に少女の顔色を窺った。
少女は呆気に取られ、声も出せずにいる。
何か不味かったのだろうかと思い、ラビゾーは丁寧に言い直した。
「あの、この服、もうボロボロですから、そろそろ新しい服が欲しいんですよ」
「あー……、そう言う事?
いや、もっと叶えたい願い事があるんじゃない?
もっと大切な事が」
「僕にとっては、結構切実な願いですけど」
「う……うぅむ……、そりゃ叶えられるだろうけど……賢い選択とは言えないよ?」
「僕は、そんなに賢くは生きられないんです」
ラビゾーの言葉に嘘偽りは無い。
少女は渋々引き下がった。
「分かった、分かった。
『君は新しい服を手に入れる』……こんな願いなら、程無く叶うだろうさ」
「あ、有り難う御座います」
「別に良いよ、礼なんて」
願いを叶えてくれるとは言え、実際に叶えるのは自分である。
少女は憮然として、ラビゾーを適当に遇った。
……その1角後、ラビゾーは大体自分の思い通りの上着を、安値で手に入れる事が出来た。
「ラヴィゾール、馬鹿な人だね。
『言葉の魔法使い』が、自ら『ワーズ・リアライザー』と名乗る意味に、気付かなかったのかな?
でも――、成る程、成る程……覚えたよ、『ラヴィゾール』」
第四魔法都市ティナー 繁華街にて
ティナー中央魔法学校の中級生、グージフフォディクスは、独りで下校途中、繁華街の魔法道具店に、
寄り道していた。
魔法学校は実力さえあれば、早く卒業出来る。
逆に、実力が無いと、中々卒業出来ない。
その為、同級の友人が作り難い。
実力の差を全く気にしない者同士なら、『級<クラス>』の違い等、気にしなくて済むのだが、
現実は厳しい。
どうしても人を隔てる優劣と、向き合わなくてはならなくなる。
長く付き合える、同程度の実力の友人を探すのが、魔法学校生活を楽しく送る秘訣だ。
グージフフォディクスは成績が良く、今の級の面子では、最も早く上級に進める学生の1人である。
故に、同級生との関係は浅くなり勝ち。
しかし、彼女は貴重な友人達の誘いを断って、独りで行動していた。
向かう先は、魔法道具店の中にある、使い魔選定コーナー。
彼女は犬、猫、鳥と、数ある使い魔の中から、ザブトンガエル(trunk bufo)の幼生、
所謂「オタマジャクシ」を見に行くのだ。
「いらっしゃいませ、グージフフォディクス様」
何度か足を運んでいる内に、彼女は完全に店員に顔を覚えられてしまった。
ザブトンガエルのオタマジャクシは、相変わらず藻だらけの水槽で、彼女に「だけ」白い腹を見せる。
初めは「カエルなんて」と思っていたグージフフォディクスも、今では少しずつ愛着が湧いて来ている。
ぬめぬめした生物を愛でている姿は、余り級友に見せられないが……。
「そろそろ決心されては如何でしょう?」
最近、店員はグージフフォディクスに、頻りに使い魔の購入を奨める様になった。
しかし、幾ら推されても、未だ自立していない身のグージフフォディクスには、独断での購入は難しい。
「魔導師を志す方なら、早い内から使い魔を持っていて、悪い事はありませんよ。
何でも食べますから、世話も容易で、毎日の食べ残しや野菜屑を上げれば、問題ありません。
水の交換は週1回程度必要ですけど、大人しいって言うか、オタマジャクシの間は、
殆ど動きませんから、手間は掛かりません。
カエルになったら旺盛な食欲で、虫やネズミを駆除してくれますよ!
排泄も躾けられます!!」
「そう言われても……」
「お金の心配は要りませんよ?」
何故か、今日の店員は、一段と押しが強かった。
尋常では無い様子に、グージフフォディクスは気圧される。
「その話は、また今度に――」
「グージフフォディクス様……私は確かに、この使い魔の購入を検討して頂きたいと、
お客様に申し上げましたが、ここは使い魔を預かる場所ではありません。
その気が無いのでしたら、そう仰って下さい。
何より、この子が可哀想です」
店員は途端に声の調子を落とし、真面目に告げた。
確かに、売れない物を店に置くのには、限界がある。
買い手に使い魔を想う気持ちがあれば、時間を置かずに、購入するか、諦めるか、どちらか選ぶ。
グージフフォディクスが決断を先延ばすのにも、限界があった。
「んー……」
グージフフォディクスは短く唸り、仰向けに浮かぶオタマジャクシを見詰める。
彼女は使い魔を買う話を、未だ両親にも話していない。
暫し悩んだ後、グージフフォディクスは言った。
「もう少しだけ、時間を下さい」
「『少し』とは?」
「1週……いいえ、3日で構いません」
自ら期限を短く切ったのは、今まで結論を出そうとしなかった、自分への戒めである。
清く正しく生きて来た積もりの彼女は、逃げる様に、ずるずると期日を引き延ばすのは、
避けたかった。
「承知致しました。
有り難う御座います」
店員は淡々と肯いた後、グージフフォディクスに笑顔を見せた。
唯一大陸での正装
唯一大陸での正装は、グラマー地方の形式に則り、『法衣<ローブ>』である。
ローブは長袖に限り、裾の丈は膝より下、脛程度、足に掛かってはならない。
顔以外の肌の露出は避ける。
材質は問わないが、透ける物は不可。
ローブの下に着る服は、何でも構わない。
極端な事を言えば、裸であっても問題無いが、どんなに暑くても、普通は服を着る。
形式張った組織では、ローブを指定する他、下に着る服にも決まりがある。
ローブの上に帯を巻くのは自由だが、体の線を強調し過ぎては駄目。
『靴<ブーツ>』はロング・ブーツで、履き口はローブの下に隠す。
場合によっては、ローブを着用せずとも、マントを羽織れば、準正装になる。
この場合も、肌の露出は極力避ける。
マントの丈は自由だが、肩を隠した上で、短くとも肘より下で、床に着いてはならない。
魔導師会が関係する行事では、老若男女を問わず、正装を義務付けられる。
魔導師の制服もローブであり、公務中は制服を着用しなければならない。
但し、一部任務に於いては、例外が認められる。
この他、就業時に作業服が指定されている場合は、これに従う様に決まっている。
魔法学校の制服もローブであり、公学校でも指定制服がローブになっている所がある。
魔導師会の紋章
魔導師会は正八角形と八芒星を組み合わせた紋章、通称ピオニー(花相)章を、会章としている。
これは魔導師会を結成した初代八導師と、共通魔法の生みの親であるグランド・マージを称えた物で、
『芍薬<ピオニー>』を意識して創られた物ではない。
故に、ピオニー章は通称であり、飽くまで、八角八芒星章が正式名称である。
八角八芒星章は、魔法陣で描く場合を除き、魔導師会以外は使用禁止になっている。
魔導師の制服であるローブには必ず、目立つ場所に八角八芒星章が付いている。
中央運営委員会の委員は、その証として、八角八芒星のバッジを付けている。
全都市の魔法学校の校章も、この八角八芒星章になっている。
因みに、その他の公共施設では、五芒星の紋章が多い。
序列
個人名の前に付く、以下の単語は、序列を表す。
レダ、ネク(デン)、スールド、ワーズ、レザフ、グージャ、ブローダ、マーゼ、ニューン、トロス、トロット、
トローデン、トロールド、トロワーズ、トロレザフ、トロージャ、トロローダ、トロアーゼ、トリューン、
デロス。
左上から順に、1位、2位、3位……となっている。
古代エレム語、古代スナタ語、古代南洋語を混ぜた、旧暦の暗語。
滅多に使われないが、20以上はルドロス、ワズロス、レザロス、グジャロス、ブロダロス、マーゼロス、
ニュロスとなる。
ルドロス以降は古文献で使われた事が無く、完全な合成造語。
3位以降の1桁は、頭2音だけを取って、省略する事がある。
元来、権力の継承を表す物で、組織の序列だけでなく、兄弟間でも用いられたが、最近は使われない。
古くは家督の継承を意識して、父がレダ、長男がネク、次男がスー(ルド)と言う風に、
男系男子のみで用いられていた。
時代が進むに連れ、継承順位とは無関係に、レダを第一子、デンを第二子に当て嵌めるようになる。
ネクとデンの使い分けは、継承の有無と、実質的な権力を持っているか否かによる。
単純に2番目を表す時はデン、何らかの権力を継承する立場にある時はネクとなる。
地域単位通貨
魔導師会が発行している『MG<マグ>』の他に、各地方は地域単位通貨を発行している。
単位は各々、ブリンガーの『B』、エグゼラの『X』、ティナーの『T』、ボルガの『W』、カターナの『K』。
当然、他の地方では使えないので、両替する必要がある。
グラマー地方だけは、MGしか流通していない。
各地方の値札には殆ど、地域単位通貨と同時に、MGでの価格表示があるのだが、
一部では、地域単位通貨しか取り扱っていなかったり、逆に、MGでしか取り引き出来ない所も存在する。
両替には税金と手数料が掛かるので、小額の差損益で設けるのは難しい。
地域単位通貨の導入は、平穏期になってからで、それなりに広まっているが、MG程の信頼性は無い。
序列由来の名前
序列に由来する、名前の付け方がある。
例えば、長子にレダ、第二子にデン、第三子にスールドと付けたりするのは、復興期から開花期まで、
よく見られた(所謂、一郎、次郎)。
その他、家督を継ぐ2代目をデン、3代目をスールドと名付ける事もあった。
レダを男性名化してレド、デンを女性名化してデナとする等の工夫を経て、最近では安直に、
その儘の名前を付ける事はしない(全く無い訳ではない)。
時に、レード、レッドと言う風に、長音や吃音が入る事もある。
名前の最後が接尾語の様に、〜レド、〜レダ、〜デン、〜デノ、〜デナとなっている人名は、
序列を意識して付けられた物。
中には、全く無関係な事もあるが、アリスレッド、ウィルデーナ等、一部が人名として分割出来る場合は、
高確率で序列由来と言える。
開花期の一時期は、父親や母親の名前に付け足して、誰の子と判る様にしていたが、最近では、
その様な名付け方は余り見られない(これも全く無い訳ではない)。
稀にレダ〜、デン〜と、接頭語の様に使われる時もある。
元は唯一大陸東部に特徴的な名前だったが、現在では全土で見られる。
凹む
魔法暦496年 禁断の地にて
その日、ラビゾーは師に命じられ、兎狩りに出ていた。
果たして禁断の地に、兎が棲息しているのか、いたとして、まともな兎なのか、ラビゾーは知らない。
それにラビゾーは獣狩りをした事が無い上に、弓矢を扱う技量も無かった。
そんな者が狩りをしても、成果は期待出来ない。
ラビゾー自身も徒労に終わると思っていたが、それでも師の命とあらば、従わざるを得なかった。
ラビゾーが果無く帰ると、師は決まって落胆した表情をし、その日の食事の量を少なめた。
それは決して、食料の貯えが残り少ないとか、食欲が無いと言う理由からではなく、
無能なラビゾーに対する当て付けだった。
傍には意地悪く思える師の仕打ちを、ラビゾーは修行の一環として、甘んじて受け入れた。
しかし、ラビゾーが狩りに成功する日は、中々訪れなかった。
成否の前に、そもそも兎を見付けられなかった。
ラビゾーとて、何も無為に過ごしていた訳ではない。
村人から狩り場を教えて貰ったし、弓術の練習もした。
追い立て、待ち伏せ等、狩りの方法も幾つか教わった。
しかし、肝心の兎は一向に姿を見せなかった。
ある日、狩りに出掛けたラビゾーは、バーティフューラーに出会った。
何をしているのか尋ねられ、ラビゾーが「兎狩り」と答えると、彼女は笑った。
「アンタが捕まえられる兎は、疾うの昔に絶滅したのよ」
嫌味を言われ、ラビゾーは消気る。
「大体、アンタ本気で兎を捕まえる気があるの?」
続いて放たれた一言は、ラビゾーの心を深く抉った。
「捕まえる気が無いから、捕まらないって言うんですか?
そんな精神論……捕まえる、捕まえないの前に、目にする事すら出来ないんですよ」
向きになったラビゾーを見て、バーティフューラーは上機嫌になる。
「フフン、どうかしらね?
それは冗談として――、そうそう兎なんて獲れないわよ。
居ないとは言わないけど、絶対数が少ないから、滅多に見掛けないし。
畑の罠にも掛からないでしょう?
少し頭に血を巡らせば、分かりそうな物だけど……察しなさいよ」
彼女の言う通り、禁断の地に棲息する兎が少ない事は、ラビゾーも村人から聞いていた。
「でも、僕は兎を獲らないといけないんです」
しかし、彼にとって、兎の棲息数は関係無い。
それが師の命なのだ。
バーティフューラーはラビゾーを小馬鹿にした様に言う。
「頓知を利かせろって事じゃないの?」
何と無く、そうだろうなとは、ラビゾーも思っていた。
兎の代わりに鳥でも獲って、その肉を兎の肉と偽って出せば、誤魔化せるかも知れない。
「例えば、鳥肉を持って帰るとか?
兎の肉って、食感は鳥肉に似てるって言うじゃない」
ラビゾーが思っていた事と、全く同じ事を、バーティフューラーは提案する。
しかし、ラビゾーは嘘が苦手だ。
それに、師を騙すのは、彼の良心が咎める。
「そうですね」
バーティフューラーの言った事が正解だろうと思っていても、その気が無いラビゾーは、
生返事しか出来なかった。
そんなラビゾーの様子に気付かないバーティフューラーは、話を先に進める。
「そうと決まれば……アンタ、手持ちの道具で鳥を獲れる?」
「獲ろうと思えば、獲れない事は無いと思いますよ」
ラビゾーの返事に、バーティフューラーは眉を顰めた。
「もしかして、鳥を獲った事が無いとか?」
「……はい」
「もしかしなくても、捌いた事も無い?」
「はい」
「捌くって、アレよ?
殺して、皮剥いで、臓取って――」
「だから、無いって言ってるじゃないですか……」
「嘘……男なのに?」
バーティフューラーは、目を見開いて驚いた。
禁断の地では、男子は森で狩りをして遊ぶ物。
ラビゾーが動植物の知識を持っている事から、彼女はラビゾーも狩りの経験があると思い込んでいた。
禁断の地から出た事が無いバーティフューラーは、外の常識を知らない。
彼女に悪気は無かった……とは言えないまでも、然程悪意は持っていなかった。
だが、ラビゾーは「男なのに」と言われ、深く傷付いた。
一部の記憶が失われる前から持っていた、消極的な性格に由来する、男らしさへの劣等感である。
「外の人は狩りをしないの?
それならアタシが獲って来ようか?
でも、捌くのは自分でやってよね」
バーティフューラーの態度は、まるで子供に世話を焼く母親。
自分を大人だと思っているラビゾーにとっては、屈辱でしかない。
「バーティフューラーさん、止めて下さい。
自分で出来ますから」
事実、彼は年齢的には大人だが、その立ち振る舞いや精神が大人かと言うと、
そうとは言い切れなかった。
「変な意地張らないで。
狩りをした事が無い上に、碌に魔法も使えない。
アンタ、高が兎狩りに、何年掛ける積もりなの?」
バーティフューラーの憐れみを含んだ物言いに、ラビゾーは頭の中が真っ白になった。
それは確かに無神経な発言だったが……。
「僕の事は、放っといて下さい!!」
果たして、我を忘れて怒る様な事だったろうか?
行き成り声を荒げたラビゾーに、バーティフューラーは面食らった。
我に返ったラビゾーは、慌てて取り繕う。
「済みません……御免なさい。
狩りが上手く行かなくって、気が立ってるんだと思います」
バーティフューラーは無反応だった。
ラビゾーは取り返しが付かない事をしてしまった思いに駆られ、感情的になった自分を恥じた。
2人共無言の儘で、数極の時が流れた。
気不味い沈黙を破ったのは、バーティフューラーの方。
「ラヴィゾール……アンタ、本当は狩りなんてしたくないんでしょう?」
彼女の突飛な発言に、ラビゾーは戸惑った。
先程、本気で兎を捕まえる気があるのか、疑われたばかりである。
くどいと思ったが、確信を持たれている様で、ラビゾーは動揺した。
「な、何故そう思うんです?」
「見てれば判るわ。
アンタは生き物を殺すのに抵抗がある」
バーティフューラーの見通しは正しかった。
ラビゾーは迷いながら狩りをしていた。
兎が見付からないと嘆いていた彼だったが、仮に兎が現れても、仕留める事は出来なかっただろう。
「優しいのは良い事よ。
少なくとも、粗暴に振る舞う事しか出来ない者よりは、ずっと。
でも……優しいだけで何も出来ない男は屑よ」
バーティフューラーは的確に、ラビゾーの失われた記憶に繋がる古傷を開いた。
それが意図された物だったか、ラビゾーには知る由も無かったが、記憶の無いラビゾーは、
由来の不明な苛立ち、不安、焦燥と言った、負の感情に襲わなければならなかった。
「解ってますよ……」
ラビゾーはバーティフューラーに、不貞腐れた返事をした。
目的を果たす為には、自らの禁忌を冒し、凝り固まった価値観を砕かなくてはならない……。
これは間違い無く、師の試練であった。
しかし結局、ラビゾーは兎を獲れなかった。
何月経っても、兎を見掛ける事すら無かった。
痺れを切らした師は、ラビゾーに「兎は獲れたか?」と事ある毎に尋ねたが、その都度、
ラビゾーは正直に「見付かりませんでしたよ」と答えた。
やがて師は兎の話をしなくなり、ラビゾーに新たな試練を課した。
ラビゾーの師、アラ・ハマラータ・マハマハリトの最大の誤算は、ラビゾーが真面目過ぎた事である。
ラビゾーは心の底で師を疑っていた。
故に彼は、偉大なる師を、己の中に生み出した。
しかし、彼は自ら生み出した、偉大なる師の影を越えられなかった。
宜なるかな……それは本当の師ではない事を、彼は知っていたのだから。
彼は所詮、何も出来ない人間だった。
魔力を吸う花
第一魔法都市グラマー 古代魔法研究所 プラネッタ研究室にて
ある秋の日、プラネッタ・フィーアは、サティ・クゥワーヴァが旅先から研究室宛に送った、
小包を受け取った。
その中には、簡素な文が添えられた、透明な小瓶が入っていた。
魔力で育つ植物
鑑定をお願いします。
取り扱いには呉々も御注意下さい。
小瓶の中には小さな黒い種が十数粒入っていた。
プラネッタは資料保護用の白手袋を嵌めて、ピンセットで種を一粒だけ摘まみ出した。
それをデスクの上に置き、ルーペで外見を観察する。
種は黒褐色の豆状で、硬い。
それ以外に、これと言った特徴らしい特徴は無い。
魔力で育つと言う事は、魔法農作物の原種だろうか?
旧暦の文献に、その様な性質を持つ植物の事が、記されていた覚えがある。
(確か、インバイバーと言う種類の……)
しかし、種の状態では特定は難しい。
本当に魔力で育つ植物なのか、プラネッタは確かめようとした。
魔法資質を持つ植物は、魔力の補助を得て、大きく成長する。
飽くまで、魔力は植物体の生長を補助する物であり、適度な環境管理無しに、
急激に育つ事はあり得ない。
魔力が幾ら豊富でも、栄養分が足りなければ、植物体が大きくなる事は無い。
栄養が十分でも、日長や気温等の環境条件を満たしていなければ、茎幹が太くなり、
枝葉が伸びるばかりで、花が咲き、実を付ける事は無い。
同様に、必要な条件が満たされなければ、種から芽が出る事も無い。
サティから送られた、謎の植物の種が発芽する条件は、プラネッタも知らない。
その他の多くの植物の様に、室温で水と土があれば、芽を出すのではないかと考えた彼女は、
休憩時間を利用して、手の平に乗る小さな鉢を探し、適当な土を詰めて、種を植える事にした。
プラネッタの仕事は、古文書の解読、旧暦の社会調査で、生物学的な調査は専門外。
本来なら、この種は古生物学の研究室に持って行くべきだった。
彼女が自分で植物の種類を特定しようとしたのは、簡易鑑定もせずに余所の研究室に丸投げすると、
迷惑になると思ったから。
調べた上で判らなかったら、その時は人を頼る。
プラネッタが、可能な限り独力での問題解決を試みるのは、昔の友人の影響である。
プラネッタは種を植えた小さな鉢を、魔法陣を描いた机の上に置いた。
そして両手を翳し、魔力を集め始めた。
プラネッタの魔法資質は、サティに優るとも劣らず、かなり高い部類に入る。
目を閉じると感知能力が研ぎ澄まされ、魔力の流れが視覚情報として映る。
魔法資質と他の感覚器官とのリンクは、魔法資質が低い者には不可能な高等技術である。
プラネッタには、魔力が種に吸収されて行く様子が見えた。
ゆっくりと種が割れて、芽が地表に出る――。
その一連の動きが、魔力を通して解るのだ。
しかし、奇妙な事に、根の広がりは感じられなかった。
種からは芽だけが、真っ直ぐ地上に向かって伸びている。
その理由にプラネッタが気付いた時は、既に手遅れだった。
(寄生植物!)
プラネッタが芽だと思っていた物は、寄生植物の根だった。
土の中から飛び出した根は、目にも留まらぬ速さで伸び、投げ網の様に、
立ち上がって机から離れようとしたプラネッタの右手を捕らえる。
そして、するすると指に絡み、確りと手の平に固着した。
寄生植物はプラネッタを宿主に決めたのだ。
小さな鉢の中には、土しか残っていない。
魔力を吸って根は伸び続ける。
プラネッタの手の平に移った種からは、若緑色をした本当の芽が突き出していた。
「魔力で育つ」と書いてあっても、魔力その物を養分にして育つとは、プラネッタの予想外であった。
そんな植物の存在は、彼女は聞いた事が無かった。
寄生植物の根は、ローブの袖口に潜り、プラネッタの腕に伸び始めた。
「あっ……、やっ!」
だが、人体に魔力は蓄えられない。
魔力の誘導を抑えれば、この寄生植物は成長を止める。
しかし、プラネッタは徐々に侵蝕される嫌悪感に、冷静な判断力を失っていた。
過去のトラウマがフラッシュバックして、能力を暴走させる。
「キャーーーーッ!!!」
プラネッタは金切り声を上げ、魔法資質の限界を引き出して、魔力を集中させた。
寄生植物は、更に貪欲に魔力を吸おうと、プラネッタの腕を伝って這い上がり、
体にまで根を張ろうとしていた。
小さな芽は見る見る成長して、蔦に変化し、根を覆う様に伸びる。
蔦の所々には、小さな赤い花が咲き始めていた。
この儘では1点経たない内に、プラネッタの全身を覆い尽くし、絞め殺してしまうだろう。
(早く……、火を!)
プラネッタは自らの腕が燃えるにも拘らず、火の魔法を放った。
「A17!」
正確には、恐怖と嫌悪感から逃れたい一心で、そこまで思考が及んでいなかった。
魔力で出来た植物体は、魔法の炎に反応して、よく燃える。
寄生植物は、激しい炎に包まれ、あっと言う間に燃え尽きた。
「ぐぅっ……!」
魔導師のローブは全く燃えなかったが、消化を急いだにも拘らず、プラネッタの手袋は焼失し、
白い腕は真っ黒に焦げた。
皮膚の焼ける香りが漂う。
炎の勢いで、天井が少し煤けたが、資料に燃え移らなかったのは、不幸中の幸いであった。
プラネッタは深呼吸を繰り返した後、大きな安堵の溜め息を吐き、落ち着きを取り戻した。
その直後、悲鳴を聞いて懸け付けた同僚が、研究室のドアを叩いた。
「プラネッタ先生、大丈夫ですか!?」
大事にしてはいけないと思ったプラネッタは、努めて冷静に返事をした。
「だ、だいじょうぶ……。
大丈夫、大丈夫です!」
初めは震えて掠れた声しか出なかったが、落ち着いて言い直す。
「何があったんですか?
この臭い……それに煙が……」
「お騒がせして、済みません。
大した事はありませんでしたので……直ぐに片付けます」
右腕は大火傷、肘から先の表皮は完全に死んでいると言うのに、プラネッタは冷静だった。
この程度なら魔法で再生可能と判断しての事である。
「小火ですか?
場合によっては、始末書を提出させられますよ。
気を付けて下さい」
「はい、御心配をお掛けしました」
同僚は不審がりながらも、深くは追求せず、立ち去った。
プラネッタは遠ざかる足音を聞き、2度目の安堵の息を吐いた。
プラネッタは激痛を堪え、左手で右腕に呪文を描き、魔法で治療を始めた。
腕の状態が戻ると、根と蔦で締め付けられた感触が甦る。
まるで火傷が癒えるのと引き換えの様に、過去が思い出され、プラネッタは涙が止まらなくなった。
あの時は今と違い、魔法が使えなかった。
どうやって助かったか、彼女は憶えていない。
「クロト様、これ以上戦ってはなりません」
「そうも行かぬのだ……私はホリヨン。人を守る為に、剣となり、盾となる宿命」
「クロト様……」
「二度と、その名で呼ぶな。私はジャッジャス。ジャッジャス・アークレスタルト」
「……はい。ジャッジャス様」
「迷うな、『祈り子長<プレアー・リーダー>』。迷えば死ぬぞ。お前に死なれては困る」
「はい。」
「『私<ホリヨン>』には、『お前<プレアー>』が必要なのだ」
「はい。『我が主<マイ・ロード>』」
神託を授かり、使命を帯びたホリヨンは、人格が変わると云う。
魔法暦500年 第一魔法都市グラマー 魔法史料館にて
魔法暦500年を記念し、魔法史料館では、魔法大戦の遺物を展示していた。
神槍コー・シアー、鏡の箱、魔法大戦を記した書物の原本、激しい戦いを描いた白暦の絵画、
初代八導師や、魔法大戦の六傑の遺品。
どれも平時は目にする事が出来ない代物である。
展示期間は、4月の1日から30日まで、1月間。
魔法大戦の遺物を一目見ようと、大陸全土から人が集まり、期間中、魔法史料館は人で溢れ返る。
その中に、逸れた子を探す、女の姿があった。
ローブを着て、ベールを被っている彼女は、傍目にはグラマー市民に見える。
展示品には目も呉れず、彼女の視線は水平より下に向いている事から、探している子は、
小さな幼児であると窺える。
「クロテア、クロテア!」
子の名を大声で呼び、女は人を掻き分けて歩く。
しかし、雑踏の中では、その声も遠くまでは届かない。
焦燥から、時の流れが速く感じられる。
約2針後、女は漸く子を発見した。
だが、女は安堵の息を吐く事が出来なかった。
女が探していた幼子は、神槍コー・シアーの展示台に縋り、高く掲げられた穂先を、
食い入る様に見上げていた。
女は蒼褪め、慌てて子に駆け寄った。
「離れなさい!
それは、あなたが手にして良い物ではない!」
周囲に注目されるのも構わず、女は幼子を抱え上げると、見てはいけない物を隠す様に、
神槍コー・シアーに背を向けた。
幼子は女の耳元で、低い声で囁いた。
「兆しの鐘、畏敬の震え、軍団断ち、制圧旗、安全な場所……私を待っている。
『軍馬<コーサー>』は何処だ?
剣を持て。
十の騎士を従え、我は往く」
女は即座に囁き返す。
「違う、あなたは違う!」
「苦難に喘ぐ数多の者に、救いを」
子は取り憑かれた様に、焦点の定まらない瞳で、譫言を繰り返す。
「違う、違う、あなたはクロテア、クロテアよ」
女は必死に否定しながら、神槍から遠ざかった。
女は魔法史料館から出ると、路地裏に隠れ、子を地面下ろした。
そして、踞み込んで、子の顔に両手を優しく添え、その虚ろな瞳に訴え掛けた。
「あなたは『女<プレアー>』、私と同じ『祈り子<プレアー>』なの!
『男<ホリヨン>』とは違うのよ!」
しかし、虚空を見詰めた儘、女に反論する。
「誰も宿業から逃れる事は出来ぬのだ。
私をその様にしたのは、他ならぬ、お前ではないか……」
否、反論したのは、子に取り憑いた何かだ。
女は子の体を抱き締めて震えた。
「お赦し下さい……どうか、この子を連れて行かないで下さい……。
この子まで私から奪わないで下さい……どうか、どうか……」
「慈悲を請うのなら、猶予を与えよう。
だが、責務を果たさず、祝福だけを得る事は叶わぬ。
努々忘れるな」
そう言い残すと、子は気を失い、女に身を預けた。
クロトクウォース・アルセアルは、母親の胎内で2年もの時を過ごし、母親の命と引き換えに、
この世に誕生したと云う。
クロトクウォースを宿していた母親の胎は、普通の妊婦の倍以上の膨れ方をしており、
既に胎児は死亡していると思われていたが、帝王切開で摘出しようとした所、母親の腹を破って、
彼は産まれた。
産まれ立てのクロトクウォースは、血に塗れながら2本の足で歩き、産声の代わりに、
悍ましい唸り声を上げたと云う。
顔付きは父にも母にも似ず、身長が半身、体重は2桶もあり、老人の様に真っ白な髪を伸ばして、
歯は最初から生え揃っていた。
その異様な誕生の所為で、クロトクウォースは、周囲から鬼子と忌まれて育ったと云う。
その通り、クロトクウォースは、あらゆる能力が人間離れしていた。
言語の習得に1月と掛からず、マーブルを握り砕く怪力を持っており、時に予知までした彼は、
天の申し子か、さもなくば鬼神、悪魔の子かと噂された。
年が経つに連れて、見掛けは普通の子と変わらなくなったが、能力は増大する一方だったと云う。
ボルガ地方の都市 メートドリにて
サティ・クゥワーヴァとジラ・アルベラ・レバルトが、メートドリ市の宿で一泊し、
近隣の都市イゼットに移動しようとしていた時、同じ宿に泊まっていた中年の男から、
「イゼットに向かうなら一緒に行きましょう」と申し出があった。
何も変な下心を抱いての事ではない。
彼は商人で、イゼットへ行くのに護衛が欲しいと思っていた所だった。
魔導師が護衛に付いてくれるなら、これ程心強い事は無い。
その代わりに、無料でイゼットまで馬車に乗せてくれると言う事で、サティとジラも快く引き受けた。
この商人は、荷馬車6台と、幌馬車1台を所有していた。
しかし、人員は御者が7人と、荷の積み降ろしを行う作業員が6人だけ。
サティとジラが、他に護衛はいないか尋ねると、商人は「民間の護衛は頼りにならない」と答えた。
普通、馬車を何台も所有して、自ら運送業も兼ねる商社は、長期契約の護衛を雇っているか、
懇意にしている警備会社の1つや2つ、あって然るべき。
それが無いと言う事は、所謂「まともでない」企業である。
停滞期の不況で、護衛に掛ける金も惜しいのだろうが……何時か、事件に巻き込まれるだろう。
サティもジラも、これは問題だと思ったが、忠告はしなかった。
絶対に護衛を雇わなければならない法律は無い。
この商人は全て承知の上で、この選択をしたのだ。
何が起ころうと、自己責任である。
いやいや、もしかしたら邪推が過ぎるのかも知れない。
偶々、そう偶々、護衛を引き受けてくれる所が見付からなくて、困っていた可能性もある。
ジラが馬車の積荷は何かと尋ねると、商人は「ゴミですよ」と答えた。
商人は廃品の中から、使えそうな物を回収して歩いていると言う。
そうやって集落を巡り、イゼットの工房で再加工し、それを売って儲けているのだ。
成る程、廃品回収に金を掛けるのも馬鹿らしい。
ゴミを奪いに来る強盗も、中々いないだろう。
元々、そんなに護衛は必要なかったのかも知れない。
――と、それはジラがブリンガー地方民だから思う事。
魔法の到達が遅かったボルガ地方では、生産と消費のバランスを取る為に、
復興期から再加工事業が盛んだった。
しかし、開花期以降は技術が発達して、大量生産が可能になり、中小規模の再加工事業では、
採算が取れなくなって来た。
廃品回収に大きな手間が掛かる為、回収効率の良い大都市を中心に活動しなければ、
事業の継続は難しいので、必然的に大型化した企業のみが残る。
今時、中小企業が再加工事業に手を出すと、どうしても無理をしなければならない所が出て来る。
護衛が無いのは、詰まり、そう言う事だ。
メートドリからイゼットは馬車で2角。
長い道程である。
最近は強盗が出没して危険だと、商人は運転席のジラに語った。
ジラが運転席に座っているのは、魔導師の存在をアピールする為である。
旧暦、山の多いボルガ地方では、人気の無い道では、必ずと言って良い程、山賊が現れた。
開花期には魔導師会の活躍で随分と数を減らしたが、景気の悪化から平穏期中頃には微増し、
停滞期になると取り締まりが厳しくなって再び数を減らした。
その代わり、近頃はティナー地方の地下組織が、触手を伸ばして来たと言う。
マフィアのルキウェーヌと、コーザ・ノストラのウーサの小競り合いが、ボルガ地方でも展開されている。
商人の男は冗談とも本気とも付かない調子で、「魔導師会が何とかしてくれ」と執行者のジラに言ったが、
彼女は「どうにも出来ない」と首を横に振った。
魔導師会は治安維持の権限を、各地方の行政機関に移譲した。
魔法に係わる犯罪でない限り、魔導師会は動けない。
それ以外で魔導師会が出動する為には、行政機関の承認が必要。
地方行政の独立性と自主性を侵さない為に、魔導師会は独断で介入出来ないのだ。
魔導師も、それに従わねばならない。
一方、サティは幌の上に座り、早朝の暖かな日差しと、涼しい風を浴びながら、魔法による探知で、
奇襲に備えていた。
彼女の優れた魔法資質は、3区先から不穏な気配を感じ取っていた。
混乱を避ける為、取り敢えずジラだけに、テレパシーの魔法で、何者かの存在を知らせる。
(ジラさん……約3区先に、待ち伏せている集団があります)
ジラもテレパシーで返す。
(……盗賊?)
(何とも言えませんが、その可能性は高いと)
(数は?)
(数人……多くとも、十は超えていないと思います。
他に仲間が散っている可能性もありますが……。
後1区程近付けば、完全に判ります)
魔力石を持たない普通の魔導師は、2通か3通先を見る事が出来れば、良い方である。
サティの常人離れした能力に、ジラは改めて感心した。
敵だったらと思うと恐ろしいが、味方であれば心強い。
1針後、サティは再びジラにテレパシーを送った。
(確定しました……全部で39人です。
道沿いに8人の集団、道から大分外れた所に23人の集団、見張りが散り散りに8人。
全員武装していますが、高い魔法資質の持ち主は、含まれていません。
未だ、こちらには気付いていませんが……もう1区進めば、発見されると思います)
人通りの少ない道に配置される数にしては、多過ぎやしないかと、ジラは疑問に思った。
(狙われていた?)
(人数からして、そうかも知れません)
(困ったなぁ……。
私達が魔導師だと判っても、女2人と侮って襲撃を強行するかも知れない)
心配するジラに、サティは尋ねる。
(何か問題が?)
(何かって……私達は大丈夫だけど、この積荷と人を全部守れるの?)
(はい)
相変わらず、自信過剰とも思えるサティの態度に、ジラは呆れた。
(取り敢えず、この先に盗賊が潜んでいる事を全員に話して、進退の判断をして貰いましょう)
(いえ、遭遇前に狙撃して追い払えますが……)
(そ、そう?)
何とも頼もしい仲間であった。
ジラは商人に待ち伏せの事を教えたが、進路は変更されなかった。
2針後、商隊は盗賊との遭遇予測地点を通過したが、何も現れなかった。
よく晴れ、北風が涼しい夏の日。
何も知らない者にとっては、穏やかな旅であった。
過去を忘れよう
「未練は無いか?」
「無いと言えば、嘘になりますが……構いません。僕は疲れたんです」
「未だ若いのに、何を言う。お前は生まれ変わるのだ」
「気分は如何かな?」
「何とも無いですけど……何か変わったんですか?」
「自分の名前を言ってみろ」
「ええっと――…………あれ?」
「故郷は思い出せるか?」
「…………いいえ」
「理解した様だな。真っ新になった感想は?」
「……何だか、落ち着きません」
「いかん、忘れとった。君に新しい名前を授けよう。今日から、君はラヴィゾールだ」
「え?」
「ラヴィゾール、君の名前だ」
「いやいや、それって……本気ですか?」
「不満か?」
「もう少し……その、何とか……なりませんか?」
「気にするな。今日から、ここが君の故郷となる」
「そう言われても……」
「認められんか? フム、時が経てば馴染むだろう」
「儂はアラ・マハラータ・マハマハリト」
「知ってます」
「――ラヴィゾール、君の師だ」
「師?」
「君は儂の弟子だからして、儂の魔法を理解せねばならぬ」
「待って、待って下さい。少し混乱しています。
確かに……『あなたの弟子になる』と、そう言った覚えがあります。
ありますが……どうして僕は、あなたの弟子に? 理由と言うか、動機が今一つ解りません」
「余り深く考えるな。『忘れた』と言う事は――」
「あ! ……いえ、思い出せそうです。
森で怪物に出会して……見逃すとか何とか、そんな感じの記憶が……あります」
「まさか、憶えとるのか?」
「眷属になる……眷属になれば生かして帰すと、誰かに言われた様な……?
アラ・マハラータさん、僕は――」
「『師匠』だ」
「え? ……あっ、はい、師匠。僕は……――僕は、師匠に命を救われたんですか?」
「うむ、その通りだ」
「ラヴィゾール、儂は君から名前を奪い、過去の軛から解き放とうとした。それは君も望んだ事だ。
……なのに、今度は過去が無い事に苦しむ始末。これは、どうした事だ?」
「『今』とは、『過去』の積み重ねだと、僕は思います。
『過去』を失った『今』の僕は、譬えるなら、不安定になったジェンガです」
「観念的過ぎる。現を抜かすな。お前さんは、積み木とは違う。崩れる事は無い」
「……心が空ろなのです。あるべき筈の物が無い。そんな感じがします」
「何も無さ過ぎて、落ち着かんのだろう。清々すると思うたんだがの……。
気に病むな。失くした分は、これから積み重ねて行けば良い」
「本当に、そうなんでしょうか? 時々、無性に心がざわついて、落ち着かなくなるんです。
取り戻せ、取り戻せと、そう訴え掛けられている気がするんです」
「全く忘れてしまうのも、考え物だな。難儀な奴よのう、ラヴィゾール。そりゃ疲れるわい。
だが、過去の記憶を取り戻すだけでは、元の木阿弥だぞ。
我が魔法の神髄を得よ。それで全てが解決する」
「神髄って、そんなに都合の良い物なんですか?」
「信じられんか?」
「上手い話には裏があると言います」
「信じられんのか、それとも……信じたくないのか? 儂の目には、君が逃げとる様に映る。
前に進む事を、拒んでいる様だ」
「そこは本当に、僕が進むべき道なんでしょうか?」
「何を愚図っとる? 迷うなら行けば良い。ここは外とは違う。惜しむ様な時間は、そもそも無い。
お前さん、本当は……名前を取り戻す事が――過去と向き合う事が怖いんじゃないか?」
「……分かりません。そうなんでしょうか?」
「悩むな。答えは近いぞ、ラヴィゾール」
「その……ラヴィゾール、ラヴィゾール言わないで貰えますか?」
「ん? 不満か? 良い名前じゃろう?」
「良い名前と言えば、そうですけど……」
「気に入らんなら、リーバイスターレス、アステラルト、ヤガピノーラ、ピヤラサバ……、
何でも好きに名乗り変えるが良い」
「……どうしても譲れないんですか? 師匠は僕をどうしたいんです?」
「君が思う儘に」
第一魔法都市グラマー 古代魔法研究所 アーリマテラ研究室にて
古代魔法の研究者プラネッタ・フィーアは、同僚で魔法古生物学の研究員アーリマテラ・レコディーマに、
サティ・クワーヴァから預かった植物の種の鑑定を依頼した。
妖獣の様に、魔法資質を持った生物は、魔法大戦の前後から急速に増えた。
その為、旧暦と魔法暦では、動植物の生態が大きく異なる。
加えて、魔法資質を持った生物は、適応進化が早いので、高々数百年前でも、古生物学が成立する。
しかし、生物間の魔力の奪い合い(主に人間の所為)で、中には発生から数十年足らずで、
絶滅した種も存在する。
古生物学が扱うのは、旧暦の生物と、魔法暦100年以前に環境変化に対応出来ず、絶滅、
或いは絶滅寸前まで激減した生物。
その中でも、魔法資質を持った物の生態と進化の過程を探るのが、魔法古生物学である。
「魔力を吸って成長する植物です。
気を付けて下さい」
アーリマテラはプラネッタから、植物の種が入った小瓶を受け取ると、縦横に振ったり、小突いたりして、
種の一粒一粒をよく観察した。
それがプラネッタには粗略に扱っている様に見え、瓶が割れて、種が零れ出たら、
どうなってしまうかと思うと、気が気でなかった。
「魔力で成長すると言えば、『風船花<バルーン・フラワー>』ですが……見慣れない形状ですね。
新種かな?」
風船花とは、その名の通り、丸く膨らんで空を漂う植物である。
魔力を吸って育つので、質量が殆ど無く、風に吹かれて移動する。
復興期には普通に見られたが、魔力不足により、開花期には激減した。
現在では幻の花と言われる、絶滅危惧種である。
眺めているだけでは判らないので、アーリマテラはプラネッタに言った。
「取り出しても良いですか?」
「蔦状の寄生植物です。
十分、注意して下さい」
「……成体を見たんですか?
どんな物でした?」
アーリマテラに問われたプラネッタは、自身の失態を思い出して、一瞬返答を躊躇ったが、
誤魔化す様な事ではないと思い直し、冷静に答えた。
「成長の途中で処分したので、完全な成体を見た訳ではありませんが……。
魔力を感知すると、種が割れて、白い根が展開し、宿主を捕らえます。
その後、根は魔力源を求めて螺旋状に伸び続け、その伸長に伴って、若緑色の蔦が、
根を保護する様に展開します。
蔦には葉が無く、その代わりに、赤い小さな花を各所に付けていました」
プラネッタの話を聞いたアーリマテラは、難しい顔をする。
「不思議な成長の仕方ですね……実際に見てみない事には……」
「……本当に気を付けて下さい。
植物体の殆どが魔力で構成されている為か、成長が異常に『速い』のです」
くどい位に、プラネッタは何度も注意を促す。
それは博愛の域を超えて、個人的な好意が向けられている様にさえ感じられた。
アーリマテラは照れ笑いした。
「ははは、プラネッタ先生に心配して頂けるとは」
「アーリマテラ先生、真面目に聞いて下さい!」
軽口を叩いた途端、プラネッタが向きになったので、アーリマテラは面食らった。
何時も穏やかで冷静な、プラネッタらしからぬ態度だった。
アーリマテラは、プラネッタとは古代魔法研究所に所属する者同士、十年近い付き合いだが、
この様な所は見た事が無かった。
アーリマテラの唖然とした表情に気付いて、プラネッタは我に返った。
流石に、失礼な言い方だったと、内省する。
「私は魔法古生物の知識を余り持ち合わせていませんから、専門のアーリマテラ先生にとっては、
過剰な反応に思えるかも知れません。
しかし……」
初めからプラネッタの関心は、植物の種にしか無かった。
平然と取り繕った様から、これは個人的な好意とは別物だと理解したアーリマテラは、
心の中で少し残念がった。
「大丈夫ですよ、プラネッタ先生。
お話から、大体どの様な性質の物かは、想像が付きます。
十分、注意しますから……少し離れていて貰えませんか?
プラネッタ先生、これは多分、そんなに危険な物ではありませんよ」
嫌に自信あり気に、落ち着いた感じで、アーリマテラが言ったので、今度は逆にプラネッタが驚いた。
アーリマテラの言動は矛盾している。
危険ではないのに、離れている必要がある?
プラネッタは混乱した。
真相は、何の事は無い。
プラネッタの魔法資質が、剰りに高過ぎたのが悪いのだ。
アーリマテラは植物の種を、自らの手の平に乗せると、魔力を注ぎ始めた。
静かに種が割れ、根が緩やかに絡み付いて、確り固着する。
瞳孔を開いて身構えるプラネッタに、アーリマテラは笑って言う。
「そう怖い顔をしないで下さい。
魔力の供給を止めれば、これ以上は生長しませんから」
その通り、芽は出掛かりで、根の伸長も止まっている。
魔力を制御する事で、成長も制御出来るのだ。
アーリマテラは言外に、どれだけ大量の魔力をプラネッタが注いでいたのか、示していた。
危険は無いと悟り、小さく息を抜いて、気を緩めるプラネッタ。
アーリマテラは寄生植物が巻き付いた手の平を、繁々と見詰めて言う。
「しかし、魔力以外の養分を必要としないとは、不思議な植物ですね。
実際は、幾らか空気中の物質を吸収しているのでしょうが……。
余程、魔力に満ち溢れていた時期の物なんでしょう。
どこで発見したんです?」
プラネッタは答え倦ねた。
「ボルガ地方……と言う事しか、分かりません。
詳しい事はサティに聞かなければ……」
「そうですか……未だ種は数残っていますし、こちらで預かって、もっと詳しく調べてみたいのですが、
構いませんか?」
「はい。
元より、その積もりでしたので」
こうして、謎の植物の種は、アーリマテラ研究室で解析される事になった。
第一魔法都市グラマーより
砂漠に朝日が昇る頃、グラマーを発つ1羽の鷹があった。
サティ・クゥワーヴァの使い魔、シロクロサバクオオタカのヒヨウである。
これから主人の元へ旅立つ所だ。
大事な荷物は脚に括り付け、食料は包みにして両足で掴んで運ぶ。
この種には、自分の体重と同程度の重さの物なら、余裕で持ち運べる体力がある。
目的地は、遥か遠く第五魔法都市ボルガ。
シロクロサバクオオタカの、最大で角速1旅になる飛行速度を以ってすれば、3日で着ける。
食料の配分を自分で行う知能があり、不足すれば、そこらで鳥でも鼠でも虫でも魚でも捕獲する。
本来、長距離を渡る種ではないが、方向感覚は確りしている。
ヒヨウは特殊な訓練を受けているので、地図を読む程度の事は出来る。
空の旅で迷う事は無い。
このヒヨウは、移動中のサティを、思念を頼りに探し当てる。
ヒヨウに限らず、殆どの使い魔は、伝達の魔法で、主人との意思の疎通が可能である。
伝達の魔法は、使い魔が使う訳ではなく、主人が使い魔に掛ける物で、効果が切れない様に、
定期的に掛け直す。
施術者と被術者の魔法資質と魔力状況によっては、何旅もの距離を越えて伝達が可能であり、
主人の危機を察して使い魔が駆け付け、命を救った等のニュースは、各地で聞かれる。
しかし、使い魔に掛ける伝達の魔法は、主から使い魔への一方的な物である事が多い。
使い魔側の情報は、主には不要なのだ。
一方で、伝達の魔法を全く使わない主人もいる。
サティは他の多くの主人と同じく、ヒヨウに魔法を掛けているが、それは双方向性を有する、
『交感の魔法』で、五感に加えて、感情や魔法資質を含めた、より多くの情報を共有出来る。
サティに限らず、高位の魔導師は、交感経路を自由自在に調節可能で、不要な情報を遮断したり、
逆に完全に憑依して、分身にする事もある。
交感の魔法は、禁断共通魔法ではないが、これを応用した『精神支配の魔法』は、
A級禁断共通魔法に分類されている。
第四魔法都市ティナーにて
ヒヨウは旅の途中、高層ビルの屋上に留まり、小休憩していた。
足と嘴で、器用に包みを開け、干し肉を啄ばむ。
細やかだが、幸福な時間。
食べ終わった後は、これも足と嘴を器用に使って、包みを縛る。
しかし、その日の分の干し肉を平らげても、ヒヨウは未だ腹を空かせていた。
下界では、カラスが路地裏の残飯を漁って、大騒ぎしている。
ヒヨウは音も無く高層ビルから飛び降り、滑空して加速しながら、建物の隙間を縫って、
円の伸開線を描き始めた。
半径2通まで飛び回ると、そこから急に中心へと向きを変えて、突撃を開始する。
瞬間最高速度は、角速2旅。
標的は地上ではなく、上空を舞っているカラスの集団。
猛禽の姿を確認した見張りのカラスは、急いで逃げる様に、警戒音を発するが、遅過ぎた。
ヒヨウの狩りは、一般の猛禽とは違い、翼を畳んだ儘でカラスの集団に突っ込み、擦れ違い様に、
高速で連れ去る。
カラスは鋭い爪で掴まれた瞬間に、衝撃で気絶するか、絶命する。
見事、獲物を捕らえたヒヨウは、街を汚さない様に、郊外の高木に留まって食事を始めた。
その気になれば、十歳前後の子供を攫えるが、流石に人間は襲わない。
他人の使い魔や家畜も、食わない様に教育されている。
それを識別するだけの知能もある。
食料の少ない砂漠で生きる、シロクロサバクオオタカは、巨体に似合わず、飲まず食わずでも、
数日は生きられる。
少々の空腹は我慢出来るのだ。
サティの使い魔になって、餓死の心配が無くなったヒヨウのカラス狩りは、戯れに過ぎない。
勘を鈍らせない為の、訓練である。
全くの無益とは言えないが、どうしても必要な殺生ではない。
狩りを繰り返し、カラスを5羽仕留めたヒヨウは、漸く満足して、ボルガ地方に向かって飛び立った。
開花期の後半には、各地の交通網が整備され、使い魔に郵便を任せる事は減った。
秘密郵便以外での、使い魔を介した遣り取りは、現在では風流で楽しむ程度の物である。
⇒『恋猫』
『恋猫<ラヴァーズ・キャット>』
よく手懐けた動物、或いは使い魔による通信は、旧暦から行われていた。
『恋猫<ラヴァーズ・キャット>』とは、呼び名の通り、恋人達の猫であり、手紙や贈り物を運んで、
男女の仲を取り持つ猫である。
古くは旧暦の伝承から、演劇や童話、そして現在の生活でも見られる。
犬や鳥ではなく、猫が配達員になる理由は、身軽で忍び込むイメージが強い事と、
他の動物に狩られる心配が余り無い事に由来する。
正規の郵便配達には、犬が使われる事が多い。
現在の恋猫は、妖獣の化猫を配達員代わりにするが、旧暦での恋猫は、
普通の猫を使っていた。
本来は、直接会えない、或いは接点の少ない相手に、自分の想いを伝える為、
猫に恋文を託した物である。
「よく見掛ける猫が、想い人の飼い猫だった」とか、「飼い猫が想い人と仲良くしていた」時に、
出会いの機会を与え、交際を支えてくれるのが、恋猫なのだ。
この為、使い魔の化猫は賢過ぎて、普通の『伝令<メッセンジャー>』と変わりなく、浪漫が無いと言われる。
尤も、妖獣発生後の魔法暦では、魔法資質を持たない食肉目は大きく数を減らしたので、
普通の猫を使った旧暦の真似事は中々難しい。
その代わり、使い魔でない、ペット用の化猫なら、旧暦の気分が味わえる。
恋猫を使った文通は、演劇のイメージが強く、女子の憧れである。
特に、年頃の子は、猫の使い魔を選びたがる。
そんな好い加減な理由で使い魔を選ぶ事は、決して褒められた物ではないが、使い魔は、
男女の出会いに、一役買っている面もある。
最初の一歩である話題作りの他、使い魔の躾け方や、他人の使い魔への接し方は、
人となりを判断する材料になる。
唯一大陸では、猫の一般的なイメージに、幸運を齎す者、切っ掛けを与える者、人の縁を結ぶ者、
愛を語る者があるが、これ等は恋猫に由来した物である。
それとは逆に、悪い巡り合わせ、悲恋や失恋、破談の元ともなる事から、悪縁を齎す者、誘惑者、
破滅を呼び込む者のイメージもある。
猫は良くも悪くも、変化の象徴なのだ。
『開拓街道<フロンティア・ロード>』、ハイウェイ、ロング・ウェイ
六大魔法都市を結ぶ大街道の内、グラマーとブリンガー、グラマーとエグゼラ、エグゼラとティナー、
ティナーとボルガ、ボルガとカターナの間を結ぶ物は、『開拓街道<フロンティア・ロード>』と呼ばれる。
それぞれ順に、開拓街道1番、開拓街道2番、開拓街道3番、開拓街道4番、開拓街道5番と、
名付けられている。
その他の大街道は、普通にハイウェイと呼ばれ、1番ハイウェイはグラマーとティナー、
2番ハイウェイはブリンガーとティナー、3番ハイウェイはエグゼラとボルガ、
4番ハイウェイはブリンガーとカターナ、5番ハイウェイはティナーとカターナを結んでいる。
番号は何れも開通順番。
大街道には、この他に、五芒星を描くロング・ウェイがあり、こちらは番号ではなく、
地名を繋げた名前になっている(グラターナ、カタクス、エグゼリング、ブリウォール、ボルクラム)。
各大街道には、必ず馬車鉄道と魔力路が通っており、開拓街道1・2・5番と、
3・4番ハイウェイ、そして全てのロング・ウェイには大魔力路が配置されている。
巨人魔法使い 対 魔法使いの成り損ない
ブリンガー地方スィーフ市エグゼリング街道にて
スィーフ市は、グラマー地方とブリンガー地方とティナー地方の境界が重なる点の、
ブリンガー地方側に位置する都市である。
その日は天気が良かったので、ラビゾーは徒歩で大街道を移動していた。
気分に余裕がある時の彼は、この様に無駄な行動を好んで取る。
そこには深い様な浅い様な理由があるのだが、それを彼が自覚するのは、当分後の事になる。
このエグゼリング街道で、ラビゾーは大男と出会った。
ラビゾーより1足以上背が高い、筋骨隆々の大男は、擦れ違い様に彼の肩を掴み、こう言った。
「貴様がラヴィゾールだな」
とても常識では考えられない、失礼な態度だったが、見慣れない厳つい男に詰問されて、
堂々と抗議出来る程、ラビゾーは強くなかった。
彼は内心おどおどしながら応じる。
「そ、そうですけど……貴方は?」
「己は巨人魔法使いのビシャラバンガ」
大男の発言に、ラビゾーは慌てて右左に目を向け、周囲の様子を窺った。
巨人魔法使いは、『旧い魔法使い達<オールド・マジシャンズ>』の中でも、それなりに有名なので、
どんな物かはラビゾーでも知っている。
道行く人は、ビシャラバンガの巨体に驚いて、二度見、三度見、振り返り注目している。
彼が巨人魔法使いと名乗ったのを聞かれていないか、ラビゾーは不安だった。
「聞いているのか?」
落ち着かないラビゾーに、ビシャラバンガは苛立ちを露にして尋ねる。
ラビゾーは声を潜めて答えた。
「は、はい。
聞こえてますから、少し声を落として貰えませんか?」
「何故だ?」
「共通魔法使い以外の魔法使いが、どんな目で見られているのか、知らない訳ではないでしょう?」
各地を旅しているラビゾーは、外道魔法使いの弟子と、共通魔法使いの、2つの面を持っている。
自身が外道魔法使いと関わっている事は、余り他人に知られたくなかったし、何より、
このデリカシーに欠ける男に、人通りが多い所で、問題を起こして欲しくなかった。
それは全ての外道魔法使いの印象に波及する。
本来、外道魔法使いは1つに括れる物ではないが、残念な事に一般人には、
共通魔法使い以外の魔法使いは、全部同じ物にしか映らない。
ビシャラバンガは冷淡な目で、ラビゾーを見下した。
「下らん奴だ。
貴様も魔導師会が怖いのか?」
「確かに、魔導師会も怖いですが……本当に怖いのは、普通の人に疎外される事だと思います。
僕は元々共通魔法使いでしたから、そんな深刻には思いませんけど、他の人は……。
貴方だって――」
「疎まれるのは辛いでしょう?」と続く、ラビゾーの言葉を遮って、ビシャラバンガは新たに問う。
「そんな詰まらん話をしに来たのではない。
ラヴィゾール、貴様はアラ・マハラータ・マハマハリトの弟子だな?」
「はい。
そうです」
ラビゾーが素直に答えると、ビシャラバンガは俄かに神妙な面持ちになった。
「……貴様は魔法の神髄について、何か知っているか?」
次は何を言われるかと構えていたラビゾーは、神髄と聞いて、より警戒を強める。
そんな物を知りたがると言う事は、師と敵対する人物なのか、何らかの暗い企みを持って、
自分に近付いたのではないかと、彼は疑い始めた。
そして、雰囲気に圧されて無闇に、正直にマハマハリトの弟子だと答えてしまったのは、
間違いではなかったかと、今更ながら後悔した。
しかし、疑惑が真実である確証も無い。
黙っている訳にも行かなかったので、取り敢えず、質問には答える事にする。
「いいえ。
それを見付ける為に、旅をしているんです」
「見付けようと思って、見付かる物なのか?」
それは素朴な疑問であった。
ラビゾーはビシャラバンガの思惑を量り兼ね、何と答えた物か迷った。
そこで、思い切って、訊ねる事にした。
「貴方の目的は、一体何なんです?
事情があるなら、話して貰えませんか?」
ビシャラバンガは暫し沈黙した。
ビシャラバンガは考え倦ねていた。
普通は、見知らぬ者に対すれば誰でも、大なり小なり魔力の揺らぎが生じる。
しかし、この目の前のラヴィゾールなる人物からは、魔法資質が殆ど感じられない。
ラヴィゾールの師である、アラ・マハラータ・マハマハリトには、不規則な魔力の流れがあったが、
それとも似つかない。
本当に魔法使いなのか、疑わしくなる程。
嫌に下手に出るのも、能力が無いからに違いない。
魔法の神髄に関しても、全く知らない様ではないか!
そんな者に、正直に事情を話して、得る物があるのか、ビシャラバンガは疑問だった。
彼は何故マハマハリトがラビゾーを紹介したのか、その理由が解らなかった。
今のビシャラバンガは、ラビゾーと同レベルであると言う、痛烈な皮肉と受け取れない事も無いが……。
思案中のビシャラバンガは、無意識にラビゾーを睨み付けていた。
ラビゾーは無遠慮な発言で、彼の機嫌を損ねたのかと思い、恐縮していた。
「……その……無理にとは言いませんよ。
個人的な事情は、他人には話し難い物でしょうし……」
だが、ラビゾーの声は、ビシャラバンガには届いていなかった。
気不味い沈黙が続く。
「おい、そこの2人!」
そこに、街道の巡回警備員が、声を掛けて来た。
ラビゾーがビシャラバンガに恐喝されていると、誤解したのだ(完全に誤解とは言えないが……)。
大男が見窄らしい男に詰め寄っているので、傍からは、そうとしか思えない。
所が、ビシャラバンガは反応せず、代わりにラビゾーが振り向いた。
「……な、何ですか?」
それに倣う様に、遅れながらビシャラバンガも、警備員に目を向ける。
「2人共、身分証を出しなさい」
ならず者に言う様に、警備員は高圧的な態度で命令した。
大街道の警備は、魔導師会と都市警察が協力して行っている。
幸い、この警備員は魔導師ではないが、問題が起これば、直ぐに魔導師の応援が駆け付ける。
事を大きくしたくなかったので、ラビゾーは警備員の指示に従い、大人しく身分証を取り出して見せた。
「そこの大男、お前もだ」
警備員はビシャラバンガにも身分証の提示を要求したが、彼は聞こえていないかの様に、
何食わぬ顔で無視した。
そもそもビシャラバンガは、共通魔法社会の外の者なので、身分証を持っていない。
共通魔法社会の常識に縛られないビシャラバンガは、身分証の提示を求める警備員に対して、
何をするか分からない。
この儘では不味いと思ったラビゾーは、ビシャラバンガと警備員の間に割って入った。
そして先ず、小声でビシャラバンガに尋ねる。
「身分証持ってますか?」
「知らんな」
冷たく突き放されたラビゾーは、小さく舌打ちし、今度は警備員に対する。
「彼は身分証を持っていないんですよ」
「何だと?」
「疚しい事はありません。
彼は田舎から出て来た物知らずで、道に迷ったと言うので、教えていた所です」
当人が聞いていないのを良い事に、好き勝手言い訳するラビゾー。
今回は、彼にしては珍しく、頭の回転が速かった。
身分証は、旅をするのに欠かせない物だが、普段の生活では必要無い。
近くの村人と言う事にしてしまえば、身分証を持っていなくとも、怪しまれずに済む。
色々と突っ込み所はあるが、実際に何も悪い事はしていないのだから、追及される事は無いだろうと、
ラビゾーは数年の旅で学んでいた。
しかし、嘘に不慣れな彼の言葉は、完全には信用されなかった。
警備員はビシャラバンガとラビゾーを交互に見詰め、疑い晴れない渋い表情で言った。
「……困った事があったら、街道警備隊を頼りなさい」
どうやら見逃してくれそうだと思い、ラビゾーは少し安心した。
「いいえ、大丈夫ですんで……」
「問題を起こさない様に、気を付けて」
去り際に釘を刺され、ラビゾーは苦しい愛想笑いで応じる。
警備員が遠ざかって、やっとラビゾーは安堵の息を吐いた。
「馬鹿馬鹿しい」
傍で冷めた見方をしていたビシャラバンガは、権力に諂って汲々と生きる、小人物のラビゾーを蔑んだ。
彼の目には、あれこれ気を揉んで苦労しているラビゾーが、憐れに映ったのだ。
それは弱い者の生き方である。
「ラヴィゾールよ、悲しくならないのか?
貴様に力があれば、あんな奴に――」
「どんなに力があっても、警察の世話になる様な事はしませんよ」
ラビゾーは内心、誰の所為で警備員に目を付けられたと思っているのか、控え目に憤りながら、
ビシャラバンガの言葉を否定する。
しかし、ビシャラバンガは「卑屈になる必要は無い」と言いたかったのであって、論点が錯れている。
故に、ビシャラバンガには、「能力があっても生き方を変える気は無い」と伝わった。
(それが魔法の神髄だと言うのか……?)
争いを避ける為の弱者の技を、魔法と認められない彼は、ラビゾーに言った。
「ラヴィゾール、己は巨人魔法使いのビシャラバンガ」
「大きな声で言わないで下さい。
それは一度聞きました。
どうかしたんですか?」
「貴様の魔法と、己の魔法、どちらが上か決めてくれよう」
ビシャラバンガは、戦う為の彼の魔法と、戦わない為のラビゾーの魔法、反する魔法が相対した時、
どうなるかを見極めようとしていた。
応じずとも仕掛けるとビシャラバンガに脅され、ラビゾーは仕方無く、彼と戦う事を決める。
大街道から外れた、人目に付かない河原で、巨人魔法使いと、未熟な魔法使いは対峙した。
当然、正面から戦って、ラビゾーに勝ち目等、ある訳が無い。
魔法でも腕力でも勝負にならないし、敏捷性に自信がある訳でもない。
ラビゾーは文字通りの巨人を前に、師の教えを思い返していた。
――不争は大徳なれど、傷を恐れて、不戦を謳うべからず。
――戦ならば、争わずして勝つべし。
――武を以って、武に臨むなかれ。
争わない事は素晴らしいが、傷付く事を怖がって、戦う事からも逃げてはいけない。
どうしても戦わなければならない時は、争わずに勝つ事を心掛けろ。
武力を持つ相手に、武力で対抗するな。
(……で、どうすれば良い?)
――小を失っても、大を得よ。
――負けて勝て。
――目的の為に、目標を見失うな。
痛い目を見る事になるが、ビシャラバンガに負けて、この場を乗り切る事は簡単だろう。
そもそも大街道で戦いを拒んでいれば、勝手に暴走したビシャラバンガは、
凶漢として街道警備隊に逮捕され、無傷で済んだ。
しかし、それではいけないと、ラビゾーは思っていた。
余りラビゾーは偉そうな事を言えた立場ではないが、ここで何とか考えを改めさせなければ、
ビシャラバンガは遠からず、魔導師会と事を構える。
師の言葉の中で、ビシャラバンガの説得に有効な物は無いか、ラビゾーは更に記憶を遡る。
――重荷の馬車は、足が遅い。
――持つ者は、故に狙われ易く、守るも難し。
――持たざる君だからこそ、出来る事があるだろう。
(僕に何が出来る?)
――それは自分で考え給え。
師は何時も肝心な所は教えてくれなかった。
ラビゾーが考えを纏め切れない内に、ビシャラバンガは攻撃を開始する。
ビシャラバンガに、話し合う気は全く無い。
彼は魔法を、戦う為の能力だと思っていた。
故に、戦う事しかしなかった。
確かに、巨人魔法は、戦う為の魔法である。
それで間違っていないが、ビシャラバンガは己の魔法が完全でない事に、薄々感付いていた。
本当に、これで良いのか?
今の儘で、間違いは無いのか?
そう言った心の迷いが、ビシャラバンガを惑わしていた。
……不安は的中し、彼はマハマハリトを倒す事が出来なかった。
その時に、この儘では良くないと、漠然と感じていた事が、確信に変わった。
しかし、魔法の神髄を知る手掛かりとして、マハマハリトが紹介したラビゾーは、
戦いを避ける弱者だった。
ビシャラバンガは益々混乱した。
彼は戦う事にしか、己が魔法の意義を見出せない。
戦う事でしか、己が存在を確かめられない。
普通は魔法の意義が何だの、意味が何だので、悩み苦しむ事は無いのだが、
ビシャラバンガは魔法使いだった。
ビシャラバンガに魔力が集中する。
魔法資質が低いラビゾーにも、その様子は視覚を通して確認出来た。
元から大きかったビシャラバンガの体が、更に大きくなって行く……。
見上げるラビゾーの視点では、自身の倍はあるかと思われた。
正に巨人と呼ぶに相応しい巨体で、ビシャラバンガは剛腕を振るう。
呪文の詠唱は無い、単純な、高速のアッパーカット・スウィング。
ビシャラバンガの迫力に気圧されて、咄嗟には体が動かなかったラビゾーは、回避を諦めて、
何とか受け様とした。
(あ、こりゃ無理だ)
だが、受ける直前になって、そう気付き、受けも避けも中途半端になって、ラビゾーの体は宙を舞う。
軽く1大程は飛ばされ、彼は地面を転がった。
即座に追撃されたら、ラビゾーの命は無かったが、ビシャラバンガは止めを刺しに来なかった。
その代わり、彼はラビゾーに告げる。
「思い知ったか、ラヴィゾール!
如何に理屈を捏ね様と、実力がある事を示さなくては、強者に気紛れに虐げられ、
一方的に奪われる存在に成り下がるのだ。
それでも貴様は、ネズミの様に魔導師会から逃げ回り、隠れ住めと、この己に言うのか?
他の魔法使い達が、そうせねばならなかった様に!!」
吹っ飛ばされて威力が落ちた上に、こっそり受身に成功していたので、見た目程は、
ラビゾーにダメージは無かったが、彼は時間稼ぎに、態と起き上がらなかった。
ラビゾーは寝転がった儘で、ビシャラバンガが言った事を、反芻していた。
(魔法大戦か……)
ビシャラバンガも、他の魔法使い達の様に、使う魔法が共通魔法でないと言うだけで、
外道魔法使いと呼ばれ、蔑まれて来たのだろうか?
魔法大戦後の、多くの外道魔法使いの苦労は、ラビゾーには解らない。
解らないが、ビシャラバンガの思想を認める訳には行かなかった。
自分なりに考えを纏めると、ラビゾーは徐に起き上がる。
「そうじゃなくて、無意味に争う必要は無いと――」
しかし、ビシャラバンガはラビゾーの話を最後まで聞こうとしなかった。
「未だ理解しないのか、ラヴィゾール……。
暴力と言う物は、好むと好まざるとに関わらず、天災の様に、理不尽に襲い来る物なのだ。
今し方、己が貴様を殴った様に、力尽くで服従を強いる者が現れた時、非力な貴様に何が出来る?
平身低頭して許しを請う以外に、何が出来る!」
巨人に凄まれ、ラビゾーは身が竦む思いだったが、同時に彼は、ビシャラバンガの心の裏に潜む、
小さな迷いの様な物を感じ取っていた。
「……徒に能力を誇示して、自分の思い通りに物事を推し進めようとすれば、
それが新たな戦いを呼ぶ火種になる。
その事を知っているから、誰も戦おうとしないんです」
「フン……、それは実力がある者の台詞だ。
実際に退っ引きならない状態に陥ったら、どうするのだ?
抗おうと思えば、抗えると言うのか?」
力を持たないラビゾーの訴えは虚しい。
ビシャラバンガは鼻で笑い、不快を露に、ラビゾーを睨む。
「ラヴィゾール……今が、『その時』だ」
そして暗い殺気を放ちながら、ラビゾーに詰め寄った。
ビシャラバンガは黄金のオーラを纏い、片手でラビゾーの首を掴み、高々と引き上げた。
巨大なビシャラバンガの手は、お世辞にも細いとは言えないラビゾーの首を、
親指と人差し指で作る輪に、填め込んでいる。
ラビゾーは抵抗しなかった。
ビシャラバンガの黄金のオーラは、黄色の魔法色素。
その目映い輝きが、魔法資質の高さを物語っている。
ラビゾーの魔法資質では、共通魔法を使っても、効果が無い。
「何故逃げない?
殺せないと、高を括っているのか?」
ビシャラバンガは、指に力を込め、ラビゾーの首を絞めた。
締めると言うより、握り潰す感覚である。
ビシャラバンガの言う通り、本気で自分を殺しはしないだろうと、ラビゾーは思っていたが、
少しだけ不安だった。
窒息より、頚椎が折れるより先に、持ち上げられているだけで、首が千切れそうな位に痛むのだ。
喉が潰れて、声が出なくなる前に、ラビゾーは言った。
「ぐっ、ぐぐ……お、お前の魔法は、こんな事の為にあるのか?」
「何だと?」
癇に障ったのか、ビシャラバンガはラビゾーの首を更に絞める。
ラビゾーは切れ切れに、声を絞り出す。
「人を甚振るのが……、お前の魔法なのか……?」
「黙れっ!!」
ビシャラバンガは忌々しさに表情を歪め、腕を振り回して、ラビゾーを地面に叩き付けた。
首が絞まって、目が回って、背中に強い衝撃を受けて、ラビゾーは一瞬、呼吸が止まり、
天地を見失った。
闇に沈もうとしていた意識を、激痛が叩き起こし、彼は巨人魔法使いと戦っていた事を思い出す。
「ブハッ……ゴホッ、ゴホッ」
ラビゾーは激しく咳き込み、息を吹き返した。
真昼だと言うのに、目を開ければ周囲は暗く、小さな星が幾つも瞬いている。
そんな彼の耳に、ビシャラバンガの声が届く。
「己の魔法は――……巨人魔法は、戦いの魔法。
立ち塞がる敵を倒す、覇者の魔法だ!」
(僕を敵と思っていたのか……?)
ラビゾーは未だ確りと働かない頭で、茫然と考えていた。
何故、彼は自分と戦わなければならなかったのか?
巨人魔法で、覇者になる積もりだったのか?
(――『古の賢者達<オールド・ウィザーズ>』――……)
ラビゾーは何と無く、ビシャラバンガの苦悩に触れた気がした。
ビシャラバンガは、伝承の巨人魔法使いの姿しか知らない。
それに己を重ねているのだ。
彼は痛む体を起こし、片膝を立てて、ビシャラバンガの目を真っ直ぐ見る。
「旧暦は……魔法大戦は終わった」
「だから魔導師会に従えと言うのか?」
「今の時代、魔導師会が魔法を管理する事で、皆それなりに平和な暮らしをしている……。
魔導師会と敵対すると言う事は、その平和を脅かすと言う事……。
そうまでして、貴方は巨人魔法で何を成す?」
ラビゾーの問いに、ビシャラバンガは何も答えられなかった。
ビシャラバンガは巨人魔法が、戦う為の魔法であると知っていた。
故に、巨人魔法使いであるビシャラバンガは、戦いを求めた。
彼はマハマハリトに出会うまで、自分は未熟であると言う思いから、強者と戦って強くなる事しか、
考えていなかった。
ビシャラバンガに足りなかった物は、戦う目的……力を向けるべき、正当な相手である。
彼は強者と戦い続け、マハマハリトに出会い、そこで止まってしまった。
ビシャラバンガはラビゾーに問う。
「……ラヴィゾール、貴様は魔法で何を成す?」
「僕は……それを探しているんです」
眩暈から立ち直ったラビゾーは、喉を摩って、呼吸を整えながら答える。
「それが魔法の神髄なのか?」
「分かりません……。
大事なのは、『在り方』だと、師匠は言っていました。
どんな魔法使いになるべきなのか……、どんな魔法が良いのか……。
僕は、それを探す旅の途中です」
「己の在り方……」
ビシャラバンガは、己が師の言葉を思い出していた。
284 :
創る名無しに見る名無し:2012/01/13(金) 22:09:31.54 ID:0C7tv+kC
巨人魔法使いであるビシャラバンガの師は、名も無き孤児を拾い、彼に巨人魔法を教えた。
その孤児が、ビシャラバンガである。
ビシャラバンガは偶々才を持っていたが、英雄の血統ではなかった。
(ビシャラバンガよ、魔法大戦の巨人魔法使いの事は忘れろ。
彼等は敗れ去ったのだ。
お前は彼等とは違う……あの様になってはならん)
(ビシャラバンガよ、己を強者と奢り、戦うべき時と、戦うべき相手を誤るな。
真の強者は無用な戦いを避ける)
(ビシャラバンガよ、力とは、使う者と使い方次第。
無ければ蔑まれ、過ぎれば疎まれる。
有用だが、決して万能ではない。
お前は力持つ者、力を振るう時は、心せよ)
(ビシャラバンガよ、お前は全ての巨人魔法を修め、十分に強くなった。
しかし、魔法使いとしては未熟……。
旅に出ろ、広い世界を知れ。
何時の日か、お前の力及ばぬ相手が、現れるだろう。
その時こそ、お前は真の魔法使いとして、大きく成長出来る。
お前の命は、お前の物……後は自分で学ぶのだ)
ビシャラバンガは静かに両目を閉じた。
ビシャラバンガの師は、真の意味で、旧い魔法使いであった。
巨人魔法は、戦いの魔法、覇者の魔法。
彼は新しい平穏な時代に、巨人魔法使いの生き方を見出せなかった。
故に、共通魔法社会から遠ざかり、僻地で静かに暮らしていた。
何時か、己の力が必要とされる時を信じて……。
しかし、その時は終に訪れなかった。
何百年と言う平和な歳月は、巨人魔法使いとしての彼の命を、徐々に蝕んで行った。
老いた師がビシャラバンガに期待したのは、新たな巨人魔法使いの在り方である。
その事に、今漸く、ビシャラバンガは感付き始めた。
「巨人魔法使いは、死んだのか……」
ビシャラバンガは独り言ち、師亡き後初めて、魔法使いの死を受け入れた。
在り方が生死に関わる、魔法使いの命を悟ったのである。
同時に、自分が未熟である事を改めて理解し、真の魔法使いへの一歩を踏み出した。
ビシャラバンガは魔力の集中を解いて、ラビゾーに歩み寄り、静かに両膝を突いた。
「ラヴィゾール、感謝する」
「……ど、どう致しまして?」
心内で構えていたラビゾーは、不意に礼を言われて困惑し、取り敢えず型通りの返事をする。
彼はビシャラバンガの為になる事を、言えた気がしていなかった。
ラビゾーとて、未だ己の魔法に迷う身。
自らと同じ、出口の見えない迷宮に引き込んだ様な物である。
魔法の神髄と、魔法使いの在り方を巡る、ビシャラバンガの困難は、これからと言えよう。
更に、ラビゾーは知らないが、己が使命を自覚したビシャラバンガは、巨人魔法の未来を、
独りで背負う事になった。
或いは、盲目の儘で、共通魔法使いと戦って絶えた方が、大戦の英雄である巨人魔法使いには、
相応しかったかも知れない……。
「貴様の言う事は、理解した。
己は、己のあるべき姿を探そう」
「そうですか……」
ラビゾーの説得は、一応成功した事になるのだろう。
ビシャラバンガは、ラビゾーが伝えたかった以上の事を、学んでいた。
ビシャラバンガは去り際に、ラビゾーに尋ねた。
「ラヴィゾール、何故抵抗しなかった?
己の心を見透かしていたのか?
それとも……」
ラビゾーは、はにかみながら答える。
「……いえ、正直怖かったですよ。
でも、貴方は僕の名を口にしました」
「『ラヴィゾール』……それが何だと言うのだ?」
「師匠が考えた名前です。
未だに、自分で名乗るのは、抵抗があるんですが……。
今日程その名前を有り難いと思った事はありません」
答えになっていない答えに、ビシャラバンガは問わずにはいられなかった。
「どう言う意味だ?」
ラビゾーは難しい顔をして、大分躊躇った後、短く言った。
「……――『愛』ですよ」
それを聞いたビシャラバンガは、舌打ちして忌々しさを露にし、無言で立ち去った。
置き去りにされたラビゾーは、傍に置いたバックパックを取りに歩き、怪我の手当てをすると、
静かに寝転がった。
『ラヴィゾール』よ、旧い信仰では、『世の全ては、大いなる愛の上に成り立っている』のだそうだ。
儂は信徒ではないが、それは間違っとらんと思うよ。
愛があるから存在し、愛が無くなれば消えるのだ。
第一魔法都市グラマー 象牙の塔にて
ラーファエル、オイヤードントリダントス、タタッシーの3人は、A級禁断共通魔法の研究者である。
30代の寡男同士、所属する研究室こそ違うが、同じ職場で馬鹿を言い合う仲。
好い年した男達なのに、馬鹿笑いのラーファエル、女口説きのオイヤー、皮肉屋のタタッシーと、
揃いも揃って、まるで問題児グループの様に扱われている。
彼等の日常の遣り取りは単純だ。
オイヤーが女絡みで事を起こし、乗りの良い2人を巻き込む。
大抵、オイヤーは成果を上げられず、タタッシーが皮肉って、ラーファエルが笑い転げる。
一連の流れが様式美とも言えるテンプレートと化している。
しかし、3人共、研究者としての能力・知識は申し分無い。
オイヤーは女が絡まなければ、まともな大人の男。
ラーファエルは過去の実験で神経が少し狂った為、普段から笑いっ放しだが、
思考自体は至って正常である。
オイヤードントリダントスとヘイゼントラスターロット
ヘイゼントラスターロットは、オイヤードントリダントスと同郷の幼馴染みであり、
象牙の塔にも同時期に入った。
B級禁呪研究棟にいるヘイゼンは、普段はオイヤーと離れているが、友人として、それなりに親しい。
しかし、オイヤーとヘイゼンは、お互い身近過ぎると言う理由で、恋仲にはなれないと断言する。
自由時間に楽し気に会話している姿から、事ある毎にタタッシーからは、くっ付けば良いのにと、
冷やかされるのだが……。
オイヤーは口煩い女は嫌いだと言い、ヘイゼンは軽薄な男は嫌いだと言う。
「嫌よ嫌よも好きの内ってな」
「フフッ、フフフ、ヒャハハハハハ!」
「冗談じゃないよ、俺は可愛い女が好きなんだ」
象牙の塔の男女事情
象牙の塔で働く者達にとって、最大の悩みは、気軽に敷地外に出られない事である。
生涯研究一筋、それ以外に興味無しと言う変人も、それなりの割合で存在しているが、
やはり多くは普通の生活を望んでいる。
それは生涯の伴侶を選ぶ場合でも同じ。
勤務時間外では、研究の事は忘れたいのか、象牙の塔の研究員が、同業者と付き合う事は、
滅多に無い。
故に、象牙の塔の事務職は、男女共に被求婚率が高い。
象牙の塔は、敷地外に出るのに、許可こそ必要な物の、敷地内での生活に不便しない様に、
一通りの施設は揃っている。
それ所か、本当に必要なのか疑わしい、レジャー施設まで充実している。
そして、殆どの施設は無料で使える。
移動範囲と人間関係が限られる以外は、不自由しないし、各地から人が集まるので、
グラマー地方特有の習慣に悩まされる事も無い。
メリットとデメリットが極端な為、外部の人間から見た、禁呪研究者と付き合う事に関する評価は、
大きく分かれる。
残念な人達
禁呪の研究者の内、新しい呪文開発に携われる者は、僅かである。
多くは助手として、能力がある研究者の補佐をする。
勿論、それにも相応の知識と経験が必要で、誰でもなれる物ではない。
……が、言われる儘に動くだけなら、別に誰でも良いじゃないかと思うのも間違ってはいない。
「――タタッシー、こう言う労働専門の人を雇っても良いと思わないか?
何て言うか、俺等の仕事じゃない気がするんだよな……」
設備保管庫から実験に使う器具を持って来てくれと、室長に依頼されたオイヤーは、
戸棚を漁りながら、偶々その場に居合わせたタタッシーに、同意を求めた。
「そうも行くまい。
素人には、どの実験に何を使うかも、機器の取り扱いも、全く分からんだろう。
機密の問題もあるしな」
タタッシーの返答は冷静である。
まともに反論出来なくなったオイヤーは、溜め息を吐いた。
「やれやれ、詰まらねえ野郎だな」
「長い付き合いだろ。
察しろ」
薬瓶のラベルを確かめながら、タタッシーは言い返す。
能力に見合った地位を望む心と、過大な責任を負う事に不安になる心。
誰もが、それを持っている。
こうして駄弁っていられるのも、気楽な立場だから――と言って、万年助手で納まっている気も無い。
「それに……室長になったら、女に構ってる暇なんて無くなるぜ」
「そうだよ、だから『今』頑張ってんだ」
「成る程、合理的だ」
オイヤーが存外真面目に答えたので、タタッシーは感心して笑った。
2人共、必要な物品を持って、揃って設備保管庫から出ると、近くを若い事務員の女が通り掛かった。
「やあ、マナリー」
オイヤードントリダントスは若い女を見ると、取り敢えず話してみて、自分の好みの女か、
判別する習性を持っている。
A棟の事務員マナリーは、彼が目を付けている娘の1人だ。
オイヤーの好みは、控え目な大人しい女であり、声を掛けた女が、顔を赤らめたり、
間誤付いたり等の反応を見せるのが、堪らなく良いと感じる。
そう言う意味で、ヘイゼントラスターロットは、彼の恋愛対象にはなり得ない。
彼女は余りにも、オイヤードントリダントスと言う『人間』を知り過ぎている。
「今夜一緒に、どうかな?」
「オイヤーさん、そんな事言って……また手当たり次第に誘ってるんでしょう?
もうダブルブッキングは嫌ですよ」
しかし、象牙の塔にも、オイヤーの困った性質を知らない女はいない。
誰もが一度は声を掛けられている。
「ハハハ、あれは君が曖昧な返事をするからだよ。
最初から確り約束してくれたなら、必ず君を優先したのに」
「どうだか、怪しいですね……」
「誤解しないでくれ。
この人しかいないと決めたら、俺は一途なんだ」
「それなら、私は未だ『大切な人』じゃないって事ですか?」
「君が良いとさえ言ってくれたら――」
「良いって言ってくれるなら、誰でも……なんて考えは駄目ですよ」
「それは――」
果たして、マナリーはオイヤーに脈があるのだろうか?
鬱陶しがっている様にも、駆け引きを楽しんでいる様にも感じられる。
その曖昧な雰囲気を楽しむ余裕が、オイヤーにはあった。
オイヤーの職務放棄振りを見兼ねたタタッシーが、横槍を入れる。
「オイヤー、早く行かないと、今度こそ懲戒物だぞ!」
タタッシーの忠告通り、オイヤーが道草を食って、全体の進行を遅らせたのは、一度や二度ではない。
「分かってるよ!!
……御免、マナリー」
オイヤーは残念そうな表情で、マナリーに言った。
「早く行って下さい。
遅れたのを私の所為にされても困ります」
タタッシーは先に行ってしまい、もう姿が見えない。
「そんな事しやしないさ」
オイヤーはマナリーに笑顔を見せて、小走りで研究室に戻った。
オイヤーの毎日は、大体この様な物である。
旧暦の生き残り達
「やあ、ラビゾー。今日は機嫌が良さそうだ」
「あの、僕って、そんなに判り易いですかね……?」
「『妖精<シルフ>』が付いているからね」
「え?」
「君には見えないのか? あ、いや、悪かった。そんな積もりでは……」
「いえ、それより……妖精が付いてるって、どう言う事ですか?」
「時々、君の周りを飛んでいるんだよ。今も……」
「えっ!?」
「……まぁ、害は無いから、安心し給え。好かれているんだろう」
(僕に見えないって事は、スピリタス系の魔法生命体?)
夜の人
ブリンガー地方 スファダ村にて
スファダ村は、ブリンガー地方とティナー地方の境にあり、スィーフ市に隣接する、小さな村である。
人口は2000人程度、人々は農業を中心に、細々と生活している。
ある日の夜、スファダ村の宿に、ローブを着た2人組が訪れた。
1人は魔導師会の執行者と判るが、もう1人はフードを深々と被って、顔も見えない。
宿の主人は怪しみながらも、執行者が同伴していると言う事で、フードの人物について、
あれこれ詮索しなかった。
日付が変わる、深夜、北の時。
スファダ村の宿の一室から、長さ2身近い大蛇が這い出した。
大蛇は誰にも覚られる事無く、宿を抜け出し、近くの森へと姿を消す。
大蛇は夢現で、自らに語り掛けて来る、何者かの声を聞いた。
(――目を覚ませ……我等が同類……)
大蛇は我に返り、恐怖した。
村の宿で眠っていた筈が、気付けば真っ暗な森の中。
帰る道も判らない。
とぐろを巻いて、彼は周囲を警戒する。
(おお、ピュトンの子よ!)
「誰だ!?」
大蛇が問い掛けると、風が渦を巻き、闇の中に、真っ黒な影の男が現れる。
「ピュトンの子……我等、『夜の人<アントロポス・ニヒタス>』の同類よ。
漸く探し当てたぞ」
「誰だと聞いている!」
大蛇の怯えた様子に、真っ黒な影の男は態度を改め、恭しく礼をした。
「失礼した。
私は『影<スキア>』の『嫌われ者<フォヴィトロ>』。
君と同じ、アントロポス・ニヒタスだ」
「スキアのフォヴィトロ?
アントロポス・ニヒタス?」
「『夜の種族<ナイト・レイス>』と言えば通じるか?
私は『影<シェイド>』の『嫌われ物<ベタ・ノイア>』。
いや、『嫌われ者』の『影』と言うべきかな?
君は『大蛇<ピュトン>』の子だろう?」
「何を言ってるか、全然解らない。
俺はピュトンの子なのか?
相方は『蛇男<ヴァラシュランゲン>』と呼ぶが……」
「成る程、『蛇男<フィーダントロポス>』か!
共通魔法使いが付けそうな名前だ。
確かに、ピュトンの子よりは威厳が落ちるな」
大蛇は恐怖心こそ無くなったが、嫌に馴れ馴れしい影の男に対する、不信感は解けなかった。
睨み続ける大蛇に、影の男は悲し気な声で言う。
「君は共通魔法使いに、良い様に利用されているのだ。
旧暦、我々ナイト・レイスは、人に忌み嫌われる、夜の住人であった。
しかし、共通魔法使いは、我々から夜をも奪った!」
大蛇が目を凝らして瞳孔を拡げても、影の男は真っ黒で、何処から声を出しているか不明。
訳の解らない物の出現に、大蛇は困惑する。
「お、俺はナイト・レイスなんて知らない。
新しく、何者かによって造られた存在だと――」
「……何だと?
新しく造られた?」
「元々人間だった俺の意識を、この造り物の体に宿らせた奴がいるらしい」
大蛇自身も、自分が生まれた時の事は覚えていないので、それが本当かは判らない。
だが、影の男が言う様に、自分がナイト・レイスとも信じられなかった。
しかし、とぐろを巻いて警戒するのも、這って移動するのも、蛇の性質。
体の動かし方が、人とは根本的に違うので、無意識に出来る物ではない。
「――その割には、随分と熟れた動きだが?
君は本当に『人間』だったのか?」
影の男に指摘され、大蛇は苛立った。
態と自分を揺さ振り、不安を煽っている様に思われたのだ。
「知るか!
俺に聞くな!
それを確かめる為に、ここまで来たんだ!」
大蛇の答えは、投げ遣りではあるが、正直な物だった。
影の男の輪郭が揺らめく。
「……それが本当なら、興味深いな。
我等アントロポス・ニヒタスを復活させようとしているのか……?
同類か、気違いか、それとも――……」
それは思案する心が、その儘、形になった様。
何とも不気味で、大蛇は訴え掛ける。
「とにかく、俺は何も知らない。
帰してくれ」
すると、はっとした様に、影の揺らめきは収まった。
「――ああ、怖がらせる積もりは無かったのだ。
君は我々の仲間かも知れないと言う事、それだけは心の隅に留め置いて欲しい。
今日の所は、これで引き下がろう。
……今少し、君を見守らせて貰うとするよ」
影は徐々に形を失い、地中に染み込む様に消えた。
暗い森の中に取り残された大蛇は、帰り道も判らなかった。
「……どうやって帰るんだよ……」
下手に動くと、村から離れる事になり兼ねない。
影の男が去って緊張が解れたのか、迷っている内に強い睡魔に襲われたので、大蛇は仕方無く、
とぐろを巻いた儘、静かに眠る事にした。
(奴は一体、何だったんだろうか……?
訳が解らない。
俺は宿で眠っていた筈だし――……夢?
目覚めたら、ベッドの上とか……だったら、良いな……――――)
物を考えようにも、眠気が勝り、思考が纏まらない。
妖獣に襲われないか不安もあったが、辺りは静かで、物音一つしなかった為、
大蛇は直ぐに意識を失った。
朝。
大蛇は明るい日差しを受けて、目を覚ました。
場所は宿のベッドの上。
とぐろを巻いて、眠っていた。
(……夢?)
隣のベッドでは、執行者の男が布団を被って寝ている。
「ストラドさん、起きてますか?」
「未だ寝させろ」
呼びかけた所、返事はあった。
「一つ聞きたいんですが、昨日の夜、俺は――」
大蛇が彼に、昨夜の事を尋ねようとした所……、
「手前の寝相の悪さは、どうにかならねえのか?」
布団を被った儘で、行き成り嫌味を返された。
同室の男は、酷く機嫌が悪かった。
「何で、あんな所にいた?」
「『あんな所』って……?」
詰問されて、たじろぐ大蛇に、男は言う。
「裏手の森の中だ。
勝手な行動を取るなと、前に言ったよな?」
「お、俺にも解らないんですよ。
気付いたら森の中で、ナイト・レイスって奴が……」
「寝惚けてたのか?
もう良い、話し掛けるな。
俺は寝るんだ」
「……ストラドさん?」
男は大蛇の話を、ろくに聞かずに遮り、深い眠りに落ちた。
昨夜の事は、どこまで夢か、はっきりしない。
大蛇は布団に潜って、とぐろを巻き、昨夜の事を思い返しながら、浅い眠りに就いた。
「ストラドさん、昨夜の事ですけど、ナイト・レイスって言うのが――」
「おい、蛇野郎……手前は俺に対して、他に言うべき事があるだろう?」
「え……何ですか?」
「チッ! 申し訳無いとか、有り難う御座いますとか、あって然るべきだろうよ」
「す、済みません」
「ナイトが何か知らねえが、夢の話なんかするな。分かったか?」
「……はい」
拝啓 プラネッタ・フィーア様
グラマー地方では、長い乾季に入った頃と存じます。
私は現在、ボルガ地方南部の町、トノギにいます。
ここ数日、涼しい日が続き、こちらでも秋の深まりを実感する様になりました。
翌日にはトノギを発ち、徐々に南下して、来月にはカターナ地方へ移ります。
敬具
10月26日 サティ・クゥワーヴァ
アイダ渓谷 カンダの滝にて
小滝が連なる、所謂カスケードが続くアイダ渓谷の上流には、カンダの滝がある。
カンダの滝は幅4通、落差4巨の大陸最大の滝で、タンク湖からアイダ渓谷に水を流し込んでいる。
タンク湖はティナー地方の管轄だが、カンダの滝とアイダ渓谷はボルガ地方の管轄となっており、
水利権の問題で、度々小さな衝突が起こる。
カンダの滝は、ボルガ地方の観光名所の一で、アイダ渓谷を跨ぐカタクス街道の橋、
カタクス渓谷橋から見える風景が美しく、観光目的の来訪者が絶えない。
しかし、街道からアイダ渓谷に降りて、滝の麓へ行く者は少ない。
理由は幾つかある。
滝の麓へ行くには、濡れた岩の上を歩かねばならず、足を滑らせて、
流れの激しいカスケードに呑み込まれてしまうと、先ず助からない。
更に、危険を冒して辿り着いても、そこは日時に拘らず霧に覆われいて視界が悪く、
殆ど何も見えない。
流れ落ちる水音が煩く、非常に耳障りな事もあって、わざわざ街道から外れて、
下から滝を見上げようとする者は、余程の物好きである。
サティ・クゥワーヴァは、その物好きであった。
彼女に付き合わなければならないジラ・アルベラ・レバルトの苦労は、察するに余りある。
「本当に行く気なの?」
街道から見下ろす、滝の麓に降りる道は、途中から霧に包まれて、底が見えなくなっている。
「大丈夫ですよ。
私は飛べますから」
サティの監視役であるジラは、彼女から離れる訳には行かないが、危険な場所には、
出来るだけ近付きたくないのが本音だ。
「そうじゃなくてね……『お嬢さん<ラ・フィーリア>』、私の事も考えて欲しい訳よ」
問題は、ジラにとっては危険でも、サティにとっては危険でない場合が多い事。
故に、サティは単独行動を取りたがる。
「別に、ジラさんが困る様な事は何もしませんから。
信用なりませんか?」
「そうじゃなくてね……『お嬢さん<ラ・フィーリア>』、私に仕事をさせて欲しい訳よ」
「熱心ですね」
サティの冷やかしにも負けず、ジラは言い返す。
「ただ物見に行くんじゃないでしょう?
サティ、あなたの目的は何?」
この様な時、サティは何かしら企んでいると、ジラは知っていた。
サティは仕方無く答える。
「このカンダの滝には、幾つかの伝承があるんです。
それを確かめに」
「伝承?」
「大した事ではありませんよ。
竜がいるとか、鬼がいるとか、そんな感じの話です」
彼女の呆れた様な口調は、本当に下らない事だと思っている風だった。
しかし、サティとジラは、ボルガ地方に来てから、竜神、古代亜熊と、実際に化け物を目にしている。
ジラは今回も、何かが本当に潜んでいるかも知れないと、警戒した。
「でも、竜神の件が――」
「ですから、一応」
だが、サティは冷静で、脅威は微塵も感じていない様だった。
ジラが得心行き兼ねる表情をしていると、サティは言った。
「ここは観光名所です。
道は整備されていますし、僻地の田舎村とは違いますよ。
何かいたら、疾っくの昔に知れ渡っているでしょう」
ジラは「成る程」と思ったが、それでも不安は拭い切れなかった。
「……私も行くわ」
「良いですけど、危ないですよ?」
サティはジラを気遣ったが、彼女はムッとして無言の意思表示をした。
滑落防止の手摺りに、石畳の階段。
滝の麓に降りる坂道は、急勾配ではある物の、人が歩くのに困らない程度の整備はされている。
案内看板には、次の様に書かれている。
この先 カンダの滝壷
坂道注意・急勾配1方
濃霧・視界不良注意
足場不良・滑落注意
悪天候及び増水時の立入禁止
とにかく注意だらけだ。
「私一人なら、落ちた方が早いのですが……」
手摺りの上を滑りながら、ぼやくサティを見て、ジラは疑問を感じていた。
(体重、どの位なんだろう?)
空を飛ぶ魔法の正体は、高レベルの複合魔法である。
解放の魔法で体を軽くし、風の魔法で移動する。
両者は相反する属性を持ち、上手く制御しないと、浮くだけか、風が吹くだけになる。
その上、大量の魔力を必要とする。
サティは長い距離を移動する際は、殆ど浮遊している。
最初に出会った時は、余りにも当然の様に振る舞っている為に、深く気にしていなかったが、
よくよく考えれば、如何に魔法資質が高いとは言え、余程体重が軽くないと、浮遊し続ける事は困難。
サティの体重が、余り重くないだろう事は、1年以上旅の供をしたジラなら判る。
彼女は体格の割に、食が細い。
まるで、お伽噺の仙人。
高い所から落ちた程度では、死なない……と言うか、重力が働かないイメージを、
ジラはサティに持っていた。
まあ、体重が幾らだろうが、グラマー市民は、そうした表面的、或いは肉体的な性質に、
関心を持つ事自体を厭うので、どんなに親しくても、質問してはならないが……。
思考を逸らす為に、ジラは別の事をサティに尋ねる。
「サティ、この滝に関する伝説、具体的に教えてくれない?」
「――魔導師会に報告しますか?」
ジラは、サティが魔導師会に知られたくない秘密を抱えているのかと、一瞬驚いたが、
微かに恥らう様な訊ね返し方から、そうではないと直ぐに気付いた。
サティが報告されたくないのは、誰も信じない様な伝承の真偽まで、一々丁寧に確かめている事。
それを察したジラは、意地悪く、態と曖昧に答える。
「何かあれば、それは報告せざるを得ないね」
サティは少々思案した後、静かに語り始めた。
アイダ渓谷は、別名『霧の谷』と言われる程、霧の晴れる日が無い。
霧が発生する原因は、気温の変化だけでなく、滝から立ち上る水煙もある。
その為、アイダ渓谷は、日時に拘らず、霧に覆われている。
この霧の発生に関して、復興期のボルガ地方の人々は、様々な想像を巡らせた。
その一つが、霧を吹く水竜。
巨大な水竜の息吹が霧となって、アイダ渓谷を覆っているのだと。
水竜の特徴を纏めると、鯨になる。
詰まり、巨大な鯨が滝壷に潜んで、霧を噴き出していると、昔の人は考えたのだ。
冬にアイダ渓谷の霧が濃くなるのは、秋になると、水竜の仲間がカスケードを登って、滝壷に集まり、
冬を越すからと言われた。
勿論、それは誤りである。
渓谷が霧に覆われているのも、冬に霧が濃くなるのも、自然現象に過ぎない。
他にも、滝に掛かる虹を潜って、水蛇が水竜に変じるのだとか、虹を渉って天に昇った水竜が、
雲の上から霧雨を降らせるのだとか、復興期の人々の想像は、現在の常識では及びも付かない。
この水竜の伝承とは別に、霧の中には、魔物が潜むと言う話もある。
巨大な頭を持つ川鬼と云う魔物は、霧の中から迷った人に声を掛けて惑わし、川縁に呼び寄せると、
川の中から襲い掛かり、一気に引き摺り込んで、丸呑みしたと言う。
この川鬼は、水蛇の一族の様に、先述の水竜を操る能力を持つとも言われた。
恐らく、霧の中で迷ったり、足を滑らせて激流に呑まれたりして、帰らぬ人が多かった事から、
ありもしない噂が広がったのだろうと、考えられている。
――サティが一通り語り終える頃には、辺りに薄い霧が立ち込め始めていた。
「予習は完璧ね」
どこで勉強したのかと、呆れ半分で感心するジラに、サティは真面目に答える。
「時間は有限ですから」
「辺境の民俗調査から旧い文化と魔法の変遷を辿る」との名目で、共通魔法の領域外を巡る旅。
これをサティが計画した切っ掛けは、禁断の地でラビゾーに出会った事だった。
サティは我が儘を通す為に、日常業務であった、古文書の解読を継続しつつ、表向きの目的である、
民俗調査も行って、尚且つ、これはと思う場所に目を付けて、足を運ぶ暇を作らねばならない。
ジラの目には、仕事合間の息抜きとしか映らないが、サティにとっては、これこそが本命なのだ。
道を降るに連れて、霧は濃くなって行き、やがて数身先も見えなくなる。
濃霧の中は、ぞっとする程に寒く、薄暗く、そして静かで、本当に何が潜んでいても不思議ではないと、
認めさせる様な雰囲気だ。
「サティ、余り早く行かないで」
石畳の階段が終わり、ジラは艶黒い岩盤の上に降り立つ。
足場不良・滑落注意の警告に違わず、濡れた岩場は滑り易い。
サティは浮いているから良いが、ジラは転倒しない様に気を付けなければならないので、
どうしても移動速度が遅くなる。
「ここで待っていて下さっても、結構ですよ」
サティは丁寧に言ったが、ジラを足手纏いと思っている事は、明らかだった。
ジラにとっては口惜しいが、危険なのは事実。
ここは甘んじて受けるべきか、彼女が迷っていると、サティは冗談めかして言う。
「先程お話した川鬼は、同伴者の声を真似て、淵に人を誘う事もあるそうです。
注意して下さい」
只でさえ心細いのに、脅されては堪らない。
「待って、置いて行かないで!」
ジラは何度も足を取られて、バランスを崩しながらも、何とか転倒を避けて、サティを懸命に追った。
余りに霧が濃いので、普通だと数歩移動しただけで、往く道も来た道も判らなくなる状態だが、
サティに迷う様子は無かった。
滝壷への道は険しくなる一方で、徐々に幅を狭めて行く。
岩盤に打ち込んだ鉄杭に、縄を張って作られた落下防止柵が、カスケード沿いに続く。
ジラは縄に掴まり、不安定な体を支えながら進んだ。
直ぐ傍は、流れの激しいカスケードだ。
危なっかしいジラを見兼ねて、サティは自ら手を差し出した。
「ジラさん、私に掴まって下さい」
しかし、ジラは躊躇う。
「……大丈夫なの?」
自分より軽いサティでは、体重を支え切れないのではないかと、彼女は心配していた。
「もっと魔法を信じて下さい」
サティは有無を言わせず、ジラの手を取る。
砂ネズミの皮を加工して作られた、魔導師の手袋は、ドレスグローブの様な外見ながら、
断熱・保湿効果に優れ、且つ手先の器用さを損なわない。
お互い確りと手を握り締める。
「こう言う、余り人が訪れない場所は、自然が独特の魔力の流れを形成する事があります。
ジラさんが感じている不安は、普段私達が接している、共通魔法の物とは異るな魔力の流れに、
魔法資質が過剰反応して、引き起こされる症状です」
「そうなの?」
表に出した積もりが無い、内心の不安を言い当てられた事より、今まで聞いた事も無い理論に、
ジラは驚いた。
「魔法資質が一定水準に満たない者には、余り関係の無い事ですし、少々の事なら、
環境の変化が原因のストレス性神経失調で片付けられますので、一般には殆ど知られていません。
治し方は、慣れるか、魔力の流れを変えるか、何方かですね」
サティも同じ様な経験をしたが故に、この事に詳しくなった等、ジラには知る由も無い。
「今、私の魔力支配圏内に入ったので、少し楽になったでしょう?」
確かに、ジラが感じていた恐怖は、消え失せていた。
ジラはサティに導かれ、滝壷に向かう。
それは引っ張られていると言うより、体が自然に動いている様な感覚だった。
2人は滝壷に着いたが、霧の濃さは変わらず、殆ど何も見えない儘だった。
見える物と言えば、足元の岩盤と、流れ落ちる大量の水だけ。
ジラは大きな溜め息を吐く。
「サティ、ここで何をするって言うの?」
彼女の問い掛けに、サティは振り向いたが、落水の音が余りに煩く、何を言っていたか、
聞き取れてはいなかった。
(済みません、テレパシーで話し掛けて貰えませんか?)
ジラは改めて問う。
(ここで何をするの?
何も見えないし、何も聞こえないのに)
(……少し、この辺を調べてみたいと思います。
何も無いとは思いますが、念の為に)
サティは真剣である。
藪を突いて蛇を出す様な真似はして欲しくないと、ジラは密かに心配した。
サティは魔法による探知で地形を調べ、怪しい所を見て回ったが、彼女が期待する様な物は無かった。
結局、体長が1〜2身程度の、大型魚類が多数生息している事以外、得た情報は無し。
粗方調べ終えると、サティは「こんな所でしょう」と言って、滝の麓を後にした。
霧から出ると、ジラの髪は雨に打たれた様に濡れ、身に着けていた魔導師のローブも、
大量の水滴を撥いていた。
一方サティは、ジラより滝の側を動き回っていたのに、全く濡れていなかった。
ジラは「フードを被っていれば良かった」と言いながら、丁寧に髪を撫で、魔法で乾かす。
同時に、護衛としての自分の存在価値に、改めて疑問を感じていた。
サティ・クゥワーヴァ風邪を引く
唯一大陸は、地方によって気候が大きく異なる為、地域独特の風土病が数多く存在する。
地元民は風土病に対して、免疫や防御手段を持っているが、余所から来た旅人等は、
長患いする事が多い。
グラマー地方では熱砂病と渇飢病と枯肌病、ブリンガー地方では豊水病と怠惰症、
エグゼラ地方では冬眠病と冷血病、ティナー地方では衰弱病と黙唖症、
ボルガ地方では脆弱症と盲目症、カターナ地方では腐敗病と騰血病が、
特に注意すべき疾病として知られている。
復興期の移民にとっては、風土病は何より恐ろしい物だった。
防疫技術が発達した現在でも、それは変わらない。
風土病は何も深刻な物ばかりとは限らない。
治療法が確立されていても、見知らぬ土地での体調管理には、気を付けなければならない。
旅先では、生物・生水は摂らない事、嗽・手洗いを欠かさない事、栄養と睡眠は十分に取り、
体力を落とさない様にする事、決して痩せ我慢や無理はしない事。
旅の心得である。
第六魔法都市カターナにて
その日、サティ・クゥワーヴァは体調が悪かった。
粗方調査を終えて、溜まっていた一年の疲れが出たのか……。
思い返せば、サティは随分と無理をしていた。
彼女は素直に、ジラに体調が優れない事を伝え、その日は予定を変更し、一日休養に充てる事にした。
「日頃の無理が祟ったのかな?」
それを聞いたジラの考えも、大凡サティと同じだった。
一日休めば、高い魔法資質を持つサティの事だから、十分回復するだろうと、彼女も思っていた。
しかし、翌日になっても、サティの体調は良くならなかった。
前日からあった、熱っぽさと、倦怠感、疲労感に、頭痛と睡眠不足が加わって、寧ろ、
症状は悪化していると言えた。
回復が遅い事を心配したジラは、「お医者さんを呼んだ方が良い?」と尋ねたが、
サティは「重い症状ではないですから」と言って断った。
病気や怪我とは無縁の人生を送っていたサティは、生まれた時以外、医師の世話になった事が無い。
故に――と言って良いかは判らないが、彼女は医者嫌いの病院嫌いであった。
食わず嫌いならぬ、係らず嫌いである。
……とは言え、大抵の病気や怪我なら魔法で治せるサティでも、回復が遅いと言う事は、
深刻な病気の疑いが強い。
各地を回っていたので、潜伏期間が長い病気であれば、感染経路の特定も難しい。
それはサティも理解していたので、明日になっても病状が改善しなければ、その時は医師に係ると、
彼女は渋々ながらジラと約束した。
魔法での病気の治し方は、3通りある。
1つ目は、魔法で患部の組織を正常に戻す事。
2つ目は、病気の原因である、病原菌・ウィルス・寄生虫を魔法で死滅させる事。
これ等は病気の原因が明らかになって、初めて効果が期待出来る手段である。
予め病原を特定していないと、効果が薄い。
病原が不明な場合は、必然的に3つ目の手段を採る事になる。
それは体力を保って、自然治癒を待つ事。
医学知識を持つ魔導師は、3通りの手段を全部組み合わせる。
即ち、体力を保持させ、病原を除去し、患部を回復させると言う、最も安全で確実な治療法である。
サティは魔法の知識はある物の、医療魔導師ではないので、医学知識は人並み。
彼女には、魔法で体力を保ち、自然治癒を待つ事しか出来ない。
実際、サティ・クゥワーヴァの病状は、どうだったかと言うと、かなり深刻であった。
医者嫌いから本当の所は黙っていたが、魔法を使って、何とか平静を保っている状態。
死にこそしない物の、魔法を使わなければ、熱と頭痛で発狂し兼ねない程度に、辛かった。
大人しく医者に係って、安静にしていれば良い物を、サティは自力で病気を治そうと、
ジラの看病も断り、1人で「旅の医学書」を読み込んでいた。
風邪を拗らせた様な感覚で、腹痛、胸痛が無い事から、内臓系の疾患ではなさそうと、当たりを付ける。
頭痛が激しいので、脳の寄生虫ではないか……と一瞬考え、悪寒が走った。
或いは、『呪い』――サティは呪詛魔法使いの存在を思い浮かべる。
彼女は直接呪詛魔法使いを見た事は無いが、その噂は聞いていた。
呪詛魔法使いの『呪詛魔法』は、察知が困難で、防御手段も知られていない。
サティには誰かに恨まれる覚えは無いが、元より恨みの感情とは理不尽な物。
些細な擦れ違いから、命を狙われる事もあると言う。
(それより、早く病原を突き止めないと……)
発熱と頭痛で意識が朦朧として、思考が纏まらず、集中が続かない。
……結局、サティは該当する物を見付けられない儘、一日を終えた。
その日の晩、サティは酷い頭痛で、中々寝付けなかった。
疲労困憊していた彼女は、熱に浮かされて、夢とも現実とも付かない、奇妙な幻覚を見た。
サティが眠っているベッドの傍に、幽霊の様な、白い影が立っている。
それは何か独り言を呟いている。
サティは身動きが出来ず、ただ静かに、それを聞いていた。
(我々は精霊、魂の子である)
(遥か古、全ては海に沈んだ)
(魔法大戦は何も残しはしなかった)
(溢れる魔力の海以外は……)
(生き残った人々は、魔法で夢を形にした)
(夢は世界を甦らせた)
(しかし、夢は夢……)
(人々は夢を現実にする為、長い時を掛ける決意をした)
それは何とも不思議な語りであった。
1人の語りでありながら、何人もの声がする。
サティは白い影の正体を確かめようと言うより、何処か物悲しいが、しかし心地好い、
この語りを聞いていたい気持ちが強かった。
(人は肉を失った魂を、魔法で精霊に変えた)
(人は肉と精と霊からなる)
(精霊は肉を持たぬ)
(持たぬが故に、肉に惹かれ、焦がれる)
(そうして人が甦る)
(溢れる魔力を集める者よ)
(還れ、還れ)
(溢れた魔力を引き連れて)
それはサティに向けられていた。
サティは尋ねずには居られなかった。
「何処に?」
(知っている……)
(呼んでいる……)
白い影は明確には答えず、徐々に小さくなって、終には消えた。
逃がしてはならないと、サティは体を起こし、自然に魔法で気配を探ったが、影も無かった。
その代わり、ベッドの傍にはジラが居た。
転寝していたジラは、サティと目が合い、驚いた表情をしていた。
「あ、起こしちゃった?
御免ね」
ジラに謝られ、サティは困惑する。
果たして、起こして悪かったのは、何方だろうか?
「いいえ……。
ジラさん、何時からそこに?」
サティが尋ねると、ジラは寝惚け眼を擦り答えた。
「少し……2針位前からかな。
魘されていたから、心配になって。
余計な世話だとは思ったけど、H3N1O1H1の魔法を掛けていたの」
サティは自分が着ていた、宿の備え付けの寝間着の乱れに気付いた。
慌てて服を整える彼女に、ジラは欠伸しながら言う。
「酷い汗掻いてたから、序でに拭いといたよ」
(……幻だったのかな?)
サティは白い影が消えた事が、不思議だった。
意識は連続しており、眠りから醒めた感覚が無いのだ。
「所で、具合は?
どんな感じ?」
ジラに問われ、サティは思考を現実に戻す。
気怠さは残っている物の、就寝前の様な苦しさは失せていた。
「……お蔭で、大分良くなったみたいです。
有り難う御座います」
「本当?
無理して誤魔化してない?」
サティは今まで無理を押して来た。
ジラが疑うのは、尤もである。
ジラはサティの両頬を包む様に、両手を添えて、体温を確かめた。
「……未だ熱があるよ。
大人しく寝てなさい。
明日は、お医者さん呼ぶからね」
「……ええ」
白い影の事が気になって、サティはジラの話をまともに聞いていなかった。
それ自体が、体調が万全でない証拠であろう。
あれは夢だったのか……夢でなかったのか……。
夢現で、サティは静かに深い眠りに落ちた。
明くる朝、3日目を迎え、サティの容態は快方に向かっていたが、ジラは昨晩言った通り、
医師を呼びに行った。
サティは唯一つ、「女性の医師に診て欲しい」と注文を付けた。
ジラは彼女の希望通り、女性の医療魔導師を、宿に連れて来た。
カターナの医療魔導師は、薄手の白いローブを着ているが、それは医療に携わる者を表す、
記号の様な物で、基本的には他のカターナ市民と同じく、露出度が高い。
サティは診察中、終始無愛想な表情だった。
女医はサティの顔を見て言う。
「……寝不足ですね」
「それは結果です。
私達は原因を知りたいんです」
「はいはい」
ジラの突っ込みを女医は軽く受け流し、魔法でサティの診察を始めた。
幾つかの問診の後、女医は病因に言及する。
「……これは魔法疲労だと思います。
お話を聞いた限りでは、魔力行使能力の酷使が原因ですね。
――と言うか、それ以外に考えられません。
重度の魔法疲労は、魔法の効力が落ちるだけに留まらず、全体に不調を及ぼします。
魔法資質が優れているからと言って、魔法を使い過ぎれば、当然疲れますよ。
寧ろ、今まで何とも無かったのが、不思議な位です」
「そうなんですか?
魔法疲労って、聞き慣れないですけれど……」
ジラの疑問に、女医は答える。
「普通は、他の疲れが先に出ますから。
それを魔法で補い続けていると、魔力行使能力が参ってしまうんです。
魔法の使用を控えて、暫く安静にしていれば、治りますよ。
もう治り掛けみたいですけれど、今後は注意して下さい」
サティもジラも、そんな病気があるのだと、初めて知った。
魔法での自然治癒を試みたサティの行動は、全て逆効果であった。
それでも治ったのは、彼女の魔法資質が図抜けて優れていた為である。
4日目には、サティは完全に回復していた。
しかし、熱に浮かされて見た一夜の夢――白い影の事は、忘れられなかった。
サティは白い影の語りに、覚えがあった。
後に、第一魔法都市グラマーに帰還した彼女は、魔法大戦後に関する古文書を読み漁る。
ここで一旦、魔法資質の設定整理
一般に言われる魔法資質は、魔力感知能力の事。
魔法資質が無くても、魔法を使う事は出来る。
しかし、それは目が見えない者に「絵を描け」、耳が聞こえない者に「曲を演奏しろ」と言うに等しい。
その為、魔力感知能力は、その儘、魔力行使能力になる。
「魔力」は人によって感じ方が異なり、また同じ人でも、状況によって感じ方が異なる。
魔法の効果量も、人と状況によって変わってしまう。
それは生物全般でも、機械的に作用させた場合ですら、同じ。
故に、ある程度の量の多少は判っても、細かい数字で表す事が困難。
生物が持つ魔力感知器官については、魔導師会は一定の研究成果を上げているが、
公にはしていない。
魔法色素と魔法資質は関係が薄い。
……と自分で設定したにも拘らず、このスレの最初の方で、魔法色素を魔法資質と誤記している。
1スレ目から違う物と定義していて、全く違う物なのに、どうして混同したのか自分でも?
多分、「魔法資質が低くて魔法色素が反応しない」とか、ラビゾーの設定で書いた所為。
魔法色素には赤・青・黄・緑・紫・水色・白の七色ある。
配合は光の三原色と同じで、赤・青・黄の要素が遺伝して混ざる。
個人の保有色素量には、濃淡がある。
魔法色素が薄くても、魔法資質が高い人は存在する。
魔法色素が濃くても、魔法資質が低い人も存在する。
魔法資質(=魔力感知能力)が無くても、魔法色素が有る人は存在する。
魔法資質が高くても、魔法色素が無い人も存在する。
魔法色素と魔法資質が、両方無い人も存在する。
魔法色素を全く持たない人は、魔法色素が黒いと言われる。
全く無い訳ではなくても、魔法色素が極端に薄い人は、黒と見做される事がある。
ラビゾーの魔法色素は、一応有るが、薄い上に、魔法資質が低いので、黒扱い。
本人は、黒扱いされる事に、不満を持っているが、誤解を解く為には、
自分の魔法資質が低い事を明かさなければならない為、中々言い出せない。
「本当に黒だったら良かったのに」と、密かに思っている。
魔法暦484年 ティナー地方エスラス市トック村 トック村立公学校にて
トック村は人口4000人程度、これと言った特産品も無い、平凡な田舎である。
トック村立公学校は、全校生徒600人程度の小規模校。
他の公学校と同じく、校舎は5年生(10歳)までが勉強する下級学舎と、
10年生(15歳)までが勉強する上級学舎に分かれている。
公学校で魔法を教えるのは、下級の最上級(5年生)の1つ前である、4年生から始まる。
ワーロック・アイスロン9歳
誰にも不得意な物はある。
トック村の公学校に通う4年生の男子、ワーロック・アイスロンにとっては、それは魔法だった。
魔法陣の図形が簡単で、魔力を余り必要としない魔法なら容易に使えたが、魔法陣が複雑化したり、
大きな魔力が必要になったりすると、途端に成功率が落ちた。
魔法資質が低過ぎるのだ。
魔力石を持っても、彼の魔法の成功率は上がらなかった。
本来なら輝く筈の魔法色素も、全く反応しなかった。
田舎の狭い学校で、誰もが顔見知り。
ワーロックは、特に虐められていた訳ではなかったが、魔力石を手にした級友達が、
互いに魔法色素を確かめ合う中で、独り劣等感に打ち拉がれていた。
公学校の魔法の授業時間。
高が半角、一時の事ではあるが、幼い子にとっては、この世の終わりにも等しい絶望。
普通なら、真面目に授業を受ける気が起こらなくなる程の、能力の低さだが、しかし、
厳格な家庭で育ったワーロックには、仮病で魔法の授業を欠席したり、無断で学校を抜け出したりする、
選択肢が無かった。
そんな度胸は無かった。
魔法資質は生まれ付いての物で、努力によって一定の成長はするが、大きな変化は望めない。
それでも努力家のワーロックは、何時か己の才能が開花すると、叶わぬ夢を抱いて、
密かに魔法の練習を繰り返していた。
その行為は、全く無意味と言う訳ではないが、魔法資質が低い彼には、余りに効率が悪い方法だった。
魔法の授業があった日は、ワーロックは必ず居残り、魔法の練習をした。
「努力は陰で行う物」と言う個人的な信条から、彼は練習場所に、人が滅多に寄り付かない、
下級校舎の裏を選んだ。
時偶、難しい魔法の発動に成功すると、努力の結実を実感して、小さくに喜んだ。
しかし、それは魔法資質が上昇した訳ではなく、その場に限った魔力の流れに応じた、
魔法の発動させ方を、身に付けたに過ぎない。
魔力の量や質が変われば、忽ち発動しなくなる。
故に、授業では初めは必ず失敗し、試行錯誤を繰り返して、何度目かで成功させた。
魔法以外では、それなりに優秀な成績だっただけに、失敗した儘では終われないと言う意地があった。
人に置いて行かれる事が怖かった彼は、そうまでして、「やっと」人並みに追い着いて、安心していた。
学年が上がると、魔法の授業日数は増え、それに伴って、やがて校舎裏での秘密の特訓は、
日課になって行った。
ワーロックの陰の努力は、彼自身は秘密にしていた積もりだったが、実は5年生になる頃には、
同級生の殆どに知られていた。
魔法暦485年 ワーロック・アイスロン10歳
ワーロック・アイスロンは、公学校5年生の時、人生の転機となる出会いを経験した。
その人物は、第四魔法都市ティナーの公学校からの転校生、プラネッタ・フィーア。
新学年に成り立ての3月、ワーロックと同じクラスに編入して来た彼女は、
地方小村トックの公学校に於いては、異質な存在だった。
全校生徒の殆どが、北方訛りで喋る田舎校に在って、都会から来た少女は、高貴と言うか、
優雅と言うか、洗練された美しさを放っていた。
それは単に、ワーロック自身が田舎育ちと言う事に、劣等感を持っていただけかも知れない。
或いは、思春期の気の迷いか……。
同じクラスでありながら、晩熟のワーロックにとっては、プラネッタは高嶺の花であった。
故に、初めの頃は、同級と言う以外に、殆ど接点は無く、また、自ら接点を作ろうともしなかった。
公学校5年の魔法の授業で、プラネッタ・フィーアは人並み外れた魔法の才能を持っている事が、
明らかになる。
難しい魔法を楽々と熟し、美しい青の魔法色素を放つプラネッタは、見る者を虜にした。
周囲は素直に彼女の実力を称えたが、それはワーロックの中に潜む劣等感を一層煽り、
やがて彼はプラネッタの存在に、反感を抱くようになった。
しかし、小心で優しい彼は、表立って反抗する事も、陰口を叩く事もせず、ただ心の内で、
どうにもならない擬かしさと闘うだけであった。
己の狭量を恥と思うワーロックは、プラネッタと顔を合わす事が出来ず、静かに彼女を避けた。
プラネッタがクラスに馴染んでも、ワーロックだけは離れ気味だった。
いや、正確には、周りの者がプラネッタとの距離を縮める中で、彼だけが変わらない位置に居た。
一方、プラネッタもワーロックを不審に思っていた。
最初はワーロック・アイスロンを、魔法の下手な男子としか思っていなかった彼女だが、
クラスに溶け込み、周りの者が概ね好意的に接してくれる様になった中でも、
彼だけが嫌に余所余所しい態度を取り続ける事が、気懸かりでならなかった。
ワーロック・アイスロンが孤独主義者なら、いざ知らず……彼は基本的に親切で、嘘偽りを口にせず、
故にクラスの内外で、それなりに信頼のある人物だった。
彼に嫌われるからには、相応の落ち度があるに違い無いと、プラネッタは思っていた。
ある日プラネッタは、ワーロックについての悩みを、彼の幼馴染みであるパステナ・スターチスに、
打ち明けた。
「パスチー、私……何だかワーロック君に避けられてる気がするの。
何か悪い事したかな?」
「くぬすだねて。
ワークンは、ふとむすで晩熟だかの、恥ずがってだ」
きつい北方訛りで、冗談めかして返すパステナ。
しかし、プラネッタの表情は晴れない。
「……そうなのかなぁ?」
「そだそだ。
本なくぬなーだったぁ、ワークンぬ直接くけやぁ良かが」
明るく言い放つパステナに、プラネッタは「そうだよね……」と頷く他に無かった。
ワーロック・アイスロンとプラネッタ・フィーアの関係は、5年生の7月、夏休み前の放課後に、
大きく進展する。
その日は魔法の授業があった日で、プラネッタはワーロックの秘密の特訓を、
目撃してしまったのである。
偶然ではない。
意地の悪い友人が、冗談半分で彼女に告げ口したのだ。
他人の努力を冷笑し、嘲る……と言っては、悪し様に過ぎる。
この年齢の子供にとっては、精々悪戯に揶揄う程度の物。
それにプラネッタは、人の努力を笑う様な性格の子ではなかった。
この話を聞いた時、プラネッタは初め、ワーロックに対して、同情と申し訳無さが入り混じった、
複雑な感情を覚えた。
彼が熱心に呪文を唱え続ける現場を、実際に確認すると、その感情は益々強まった。
ワーロックは単に「魔法が下手な男子」ではなかった。
「どんなに努力しても魔法が上達しない男子」だった。
プラネッタが感じた物は――そう、哀れみである。
ワーロックが自分を避ける理由は、魔法資質の差にある事を、プラネッタは直感的に覚った。
そして、彼女はワーロックに、救いの手を差し伸べた。
あろう事かプラネッタは、特訓中のワーロックの前に姿を現した。
ワーロックが特訓の事を話した相手は、成り行きで仕方無く明かした、親しい数人のみ。
その全員に、他言しない様、頼んでいた。
それは殆ど無意味だったが、誰も空気を読んで、ワーロックの特訓を邪魔する事はしなかった。
故に、プラネッタに声を掛けられた瞬間のワーロックは、驚きの余り、何とも間抜けな顔をしていた。
彼は即座に特訓を中断して、何気無い風を装った。
「な、何?
ここに何か用?」
ワーロックは、まさかプラネッタが、自分に用があるとは思わず、この場に何をしに来たのか尋ねた。
既に丸判りだと言うのに、必死に誤魔化す様は、プラネッタの側からすれば、何とも滑稽である。
しかし、この時のプラネッタには、ワーロックの慌て振りすら、愛おしかった。
「今の、A4H1H3C5の呪文だったよね?」
彼女は優しい口調で、ワーロックに歩み寄り、彼が練習していた魔法の呪文を描いて見せた。
プラネッタが指先で宙に魔法陣を描くと、その軌跡に沿って、魔力の光が灯った。
空中に魔法陣を描く動作は、『空描文』と呼ばれるが、普通は描文の軌跡は見えない。
プラネッタは光を放つ魔法を裏詠唱で、描文動作と同時に、発動させているのだ。
魔法陣が完成すると、その中央に、小さな光の球が出現する。
一体何なのかと、呆気に取られているワーロックに、プラネッタは言う。
「魔法を使う時、私には、これが見えているの」
彼女が両目を閉じて、深呼吸をすると、2人の周囲の空気が、青く輝いた。
それは水面に弾かれる陽光の様に、不規則に揺らいでいる。
「な、何これは……?」
突然の謎の現象に、ワーロックは目を見開いて、驚いた。
驚きの剰り、若干引き気味の彼に拘らず、プラネッタは説明する。
「これが魔力」
輝いているのは、空気ではなく、魔力。
プラネッタはワーロックでも魔力の流れが判る様に、色を付けて見せているのだ。
「ワーロック君、よく見て……」
プラネッタは、先程の魔法陣をなぞって、もう一度描文を行う。
彼女の指先の動きに従って、青い魔力が集まり、光の球を形成する。
「これが魔法」
一連の動作を終えた後、プラネッタはワーロックに得意気に言った。
それは罷り間違えば、反感を抱かせてしまう態度だったが、ワーロックは素直に感心していた。
「これが、魔法……」
彼は初めて見る魔法の原理に、心奪われていた。
プラネッタの魔法は、公学校の魔法教師が使う物より、模範的で美しかった。
ワーロックは今日まで、嫉妬の感情を抑える為に、魔法の授業中は彼女を見ない様にしていた。
しかし、この時彼の心に湧いた感情は、嫉妬ではなく、尊敬と憧れであった。
プラネッタは続けて、ワーロックに魔法を使う様に促す。
「ワーロック君、呪文を描くのでも、唱えるのでも良いから、やってみて」
「えっ」
「大丈夫、出来るから」
ワーロックは戸惑いながらも、プラネッタを真似て、描文で魔法陣を描いた。
彼の指先の動きに従って――プラネッタ程、綺麗ではないが――青い魔力が魔法陣をなぞる。
魔法陣の完成を急ぎ過ぎると、魔力は途切れ、逆に遅すぎると、魔法陣が完成しない。
その事を、ワーロックは初めて、体感した。
魔法資質が低い者には、話に聞くばかりで、一生理解出来ないかも知れない感覚。
それを幸運にも、ワーロックは知る事が出来た。
ワーロックは魔法資質が低い為に、魔力の流れが読めず、魔法を上手く使えない。
そんな彼の悩みを、プラネッタは見抜いていた。
魔法陣は少し歪ながらも完成し、プラネッタが作った物より、やや弱い光の球が完成する。
「そうそう、上手だよ」
(そんな言い方されたって……)
プラネッタは我が事の様に喜んだが、ワーロックは小馬鹿にされている様に感じ、
心の中で小さく反発した。
だが、その半面、魔法を手伝ってくれた事に関しては、嬉しくも思う。
ワーロックは申し訳無さそうに言った。
「……でも、これじゃ駄目だよ。
独りで出来る様にならないと」
「独りで魔法を使う時も、この感じを覚えていれば、大分違うと思うんだ。
時間ある時は、付き合うよ」
ワーロックは無意識に、プラネッタを仰ぎ見ていた。
これまで彼が彼女に抱いていた暗い感情は、意識出来なくなる程に薄れていた。
この日から、プラネッタは自然に、ワーロックの魔法の練習に付き合う様になった。
ワーロックの魔法資質が上がる事は無かったが、彼は持ち前の熱心な性格と向上心で、
徐々に魔法の技術を高めて行った。
それに伴って、彼の心は少しずつ、プラネッタに惹かれて行った。
打てば響くワーロックに、プラネッタも好意を持つ様になった。
やがてワーロックは、魔導師になると言う、分不相応な夢を抱く様になる。
「あ、プラネッタさん」
「ワーロック君、本当に毎回やってるんだね」
「まあね……。所でさ、プラネッタさん……ワーロックって言うの、止めて欲しいんだ」
「何で?」
「『魔法使い<ワーロック>』って、余り良い意味じゃないし……」
「付けて貰った名前を、そんな風に言うのは良くないよ」
「それは……解ってるけど、名前負けしてるって言うか……」
「……じゃあ、何て呼べば良いの?」
「普通に、皆が呼んでるみたいに」
「ワークン?」
「うん」
「それなら、『ワークン』、私も渾名で呼んで」
「えっ」
「皆が呼んでくれる様に、ネッフィーでも、ネアでも、好きな方で」
「好きな方でって……」
「だって、私だけ呼び方変えるのって、何か嫌らしいじゃない?」
「そ、そうかな? じゃあ、ネ、ネッフィーで」
「はい」
「……何だか、その……こう言うのは……」
「皆と同じよ。何でも無いって。他の女子は渾名で呼んでるのに」
「そ、そうだね」
>>332 光の三原色は赤・青・緑
細かい事でも調べて初期設定を見直す
次は間違えないように自戒
呪い
第四魔法都市ティナー ミスト地区にて
第四魔法都市ティナーでは、強盗や殺人と言った、所謂「凶悪事件」は少ないが、その代わり、
法の目を潜った詐欺が多い。
ティナー地方では、公学校教育で契約遵守が徹底されるのだが、それ故に、
契約ならば何をしても良いと考えてしまうのだ。
一般的なティナー市民の印象は、悪知恵ばかり働く小悪党で、二言目には、金、金、金だが、
一部地下組織の縄張りを除けば、金は取られても命までは取られないし、暴力を振るわれる事も無い。
よって、金持ちが暮らす所と言うイメージに反して、貧乏人にとっては、割合安全な所だったりする。
これは大都市の事であり、僻地や小都市では、犯罪自体が少ない。
その代わり(と言っては何だが)、マフィアが幅を利かせている事が多い。
それ等は田舎マフィアと呼ばれ、独自のルールを周囲に強いる為、逆に治安を良くしている面がある。
勿論、マフィアの存在は誉められた物ではなく、マフィアが自ら新たな犯罪組織を呼び込み、
囲う事もある。
こう書くと良い所無しだが、表向きは皆、普通に暮らしているし、当然マフィアが存在しない地域もある。
ミスト地区はティナー市の南東にある一区で、タンク湖に近い位置にある。
『霧<ミスト>』の名の通り、気温が低い日は、タンク湖から漂って来る霧に覆われてしまう。
その為、霧の名を冠した店舗や商品が多い。
魔法暦400年頃までは、『フォッグマン』と言うマフィアの拠点だった。
しかし、『血の霧<ブラッディ・ミスト>』事件でフォッグマンは壊滅し、以降は四大地下勢力の支配も、
この地域には及んでいない。
血の霧事件は、連続猟奇自殺事件である。
自殺者は何れも、フォッグマンの構成員。
全員が発狂の末、刃物を用いて自らの心臓を抉り出すと言う、奇怪極まり無い過程を経て死した。
これが1人や2人なら未だしも、52人――フォッグマンの幹部は粗全滅した。
フォッグマンはミスト地区内で活動する小規模地下組織で、住民を外部の無法者から守る一方、
用心棒代を徴収していた。
一応は、住民と持ちつ持たれつの関係を保っていたフォッグマンだったが、魔法暦300年代後半から、
本性を表したと言うべきか……、資金徴収活動を強化し、住民を脅す様になった。
開花期が終わり、不景気が長引いて、住民側に用心棒代を支払う余裕が無くなって来た頃にも、
好景気の時代と変わらない見ヶ〆料を要求し続けた結果である。
組織の面目を保つ意味合いもあったのだろうが、住民は都市警察を頼り始め、これが市内全域の、
不法組織の排除運動に繋がる。
これを受けてフォッグマンは、表向きは大人しくなったが、裏では地区外の組織と結託して、
時に犯罪者を囲い、陰で住民や警察に対し、執拗な嫌がらせを行っていた。
血の霧事件は、その様な時に発生した。
最初の死者が出た時、余りに猟奇的な為、誰もが初めは他殺と噂したが、都市警察は捜査の結果、
自殺だったと発表した。
しかし、自殺現場の自宅の寝室は、物盗りが進入した後の様に荒らされていた。
死体はベッドの脇に凶器を持った儘で座しており、ベッドの上だけが嫌に綺麗で、
祭壇に捧げ物をするかの様に、心臓が差し出されていた。
まるで……ではなく、暗黒儀式その物である。
生前に、怪しい信仰をしていた事実も無い。
フォッグマンは都市警察を疑い、独自に調査を開始した。
犯人は、外部の地下組織か、魔導師会の協力を得た都市警察か、怨みを持つ住民か、
内部の裏切り者か……敵は余りに多い。
その後も自殺者は続出し、フォッグマンは疑心暗鬼に陥る。
この不自然な連続自殺を、都市警察も傍観していた訳ではなかった。
彼等は彼等で、共通魔法による強制命令か、人を操る類の外道魔法と見当を付け、
魔導師会に捜査協力を要請していた。
魔導師会から派遣された執行者は、現場検分の後、都市警察に対して、捜査を魔導師会に一任し、
一切手を引けと命令。
しかし、幾ら時が過ぎても、一向に執行者の捜査が進展する様子は無かった。
結局、フォッグマンが壊滅するまで、自殺が止む事は無かった。
ミスト地区の住民は、魔導師会と都市警察は、フォッグマンを見殺しにしたのだと噂した。
実際は、少々異なる。
執行者は何度もフォッグマンと接触し、魔導師会の保護下に入る様に、勧告していた。
フォッグマンは組織の威信に懸けて、これを拒否。
勧告に従うべきと主張する下級構成員と、面子を重視する幹部の間で意見が割れ、
内部分裂状態になり、その争いでも死者が発生する。
「儂等はヤクザ者だけに、恨まれて当然、まともな死に方は期待せんのよ。
私刑(リンチ)拷問当たり前、手足の一本、命を落とす覚悟も出来とる。
背中刺されるんも、寝首掻かれんのも、仕方のォ思うとる。
――だけど、だけどなァ、あれは無いって。
あれは、いかんて。
助けて遣ぁさい、檻(ハコ)ん中でも構わんで、人の儘で死なして下せぇ……」
――保護を求めて来た、フォッグマンの下級構成員の言葉より。
魔導師会の保護と言えば聞こえは良いが、実際は魔法刑務所への収監である。
そこが最も安全なのだが、それだけでは不十分だった。
魔導師会は、ミスト地区の住民にも、都市警察にも、フォッグマンにも、誰にも知らせなかったが、
血の霧事件の真相を把握していた。
災いの根源は、呪詛魔法である。
――いや、そもそもの始まりは、フォッグマンなのだ。
呪詛魔法は、憎悪・怨恨の念があって、初めて成立する物。
フォッグマンは相応に怨まれていた事になる。
ミスト地区の住民は、この怪事件は、フォッグマンに強い怨みを持つ者の仕業だと、薄々感付いていた。
しかし、フォッグマンも都市警察も、確証が無いので、そうと認める訳にはいかなかった。
現代でも生き続ける呪詛魔法使いの話は、唯一大陸にいる者なら、殆どが知っており、
大人が子供を躾ける時に、よく使う。
人を恨んではいけません。
人に恨まれる様な事をしてはいけません。
何故なら、強い怨みの感情は、呪詛魔法使いを呼んでしまうから……と。
しかし、呪詛魔法使いに遭遇する者は、稀である。
人は大人になるに連れ、呪詛魔法使いは現れない事を知り、恐れを忘れる。
そして、知らず知らずの内に、一線を越えてしまうのだ。
呪詛魔法使いの呪いを避けるには、魔除けの魔法を使うか、その魔法効果がある、
魔法道具を身に付けるかすれば良い。
その為、職業上の理由で怨まれ易い者は、魔除けのアクセサリーを身に付けている事が多い。
それは即ち、人柄の悪さの証でもあり、魔除けのアクセサリーを過剰に飾り付けている者は、
筋者と認識される。
しかし、真に怨まれている者には、そんな物は無いも同じなのだ。
魔法暦の呪詛魔法には、2種類が確認されている。
1つは、旧暦と同じ系統の呪詛魔法。
効果の発動と維持には魔力を必要とし、殆どは予防・解呪が可能。
『呪い返し』で反撃も出来る。
もう1つは、旧暦には確認されていなかった、呪殺専用の凶悪な魔法。
発動源は不明で、発動は即死を意味し、解呪不可能。
一説には、『無形無蓋の匣』が関係していると言われている。
後者の存在は、魔導師会にも正体が確認出来ていない事から、公式には伏せられており、
お伽噺や都市伝説に分類されている。
当然、それには以下の様な疑問が生じる。
そんな恐ろしい物を隠し通して、大丈夫なのだろうか?
……大丈夫――とは言い切れないが、この呪殺魔法に関して、魔導師会は一定の法則らしき物を、
掴んでいる。
『新しい呪詛魔法』の被害者は、法の裁きを受けない悪人である場合が殆どだった。
魔導師会が予想している、「呪われる」条件は、以下の2つを満たした時。
社会的影響が大きい罪を犯した者、或いは、法に触れていなくとも、非道徳的・非倫理的・反社会的等、
非難されて然るべき振る舞いをした者か、その指示者、もしくは、協力者、受益者。
それに関連した死者を出している(間接的要因・自殺を含む)。
……例えば、その者の行為が、ある者にとっては善で、ある者にとっては悪であった場合は、
どうなるのかと言った、曖昧な所は残るが、少なくとも、人の命に関わる様な、
大きな罪を犯していない者は、対象にはならない。
逆説的に、これで呪い殺された者は、何らかの大きな罪を負っている事になる。
これに呪詛魔法の性質を考慮すると、呪いを掛ける側から、条件が絞れる。
一、逆恨みでない事(仇討返しの禁止・呪怨連鎖の防止原則)。
一、殺害するに足る正当な理由と、確かな根拠がある事(過罰性・不当性の排除原則)。
一、害を受けた本人である事(復代行の禁止原則)。
詰まり――、『新しい呪詛魔法』は、死者の呪いなのである。
故に、不確実ながら、回避方法も存在する。
呪いを免れるには、呪いを掛けた者に、許される事を措いて他に無い。
最低限、全ての罪を告白し、相応の罰を受けて、反省と謝罪の意思を顕わさねばならない。
だが、多くの者は罪を認めたがらない。
当然である。
呪い殺されるのだから、犯した罪も相当の物。
法の裁きを受けて、死刑を宣告されでもしたら、死ぬのが早いか遅いかの違いにしかならないし、
そうまでしても、確実に呪いから逃れられるとは限らないのだ。
中には、自ら首を括ったり、服毒したりして、呪いを避ける者も出た。
故に、フォッグマンは壊滅した。
生き残ったのは、下級構成員と、数人の幹部のみで、彼等の証言だけでは、
血の霧事件の切っ掛けとなった、怨みの根源を掴む事は出来なかった。
猟奇自殺が止んだ後、フォッグマンの残党は、全員稼業から足を洗ったが、普通の生活に馴染めず、
……と言って、再び裏に戻る事も出来ず、やはり自殺する者が多かった。
血の霧事件の噂は、周辺の地区にも伝わり、曰く付きとなったフォッグマンの後釜には、
誰も座ろうとはしなかった。
以降、人死にが出る度に、血の霧事件が住民の間で、囁かれる様になる。
地下勢力の空白を都市警察が完全に埋め、四大地下勢力の睨み合いもあって、
事件から百年が過ぎても、ミスト地区には地下勢力が存在しない。
ミスト地区は、治安は良いが、それと同時に、常に誰かに見張られている様な、
後ろ暗さの漂う地区となってしまった。
人々は静かに、細々と暮らしており、大都会ティナーに在りながら、余り活発ではない。
プラネッタ先生の講義
皆さん、今日は。
今回は旧い魔法使いの禁忌について勉強しましょう。
現在の共通魔法社会に、『魔法に関する法律』がある様に、旧暦の各魔法流派にも、
冒してはならない『禁忌<タブー>』がありました。
旧い魔法使いの禁忌は、『魔法使いとしての禁忌』と、『禁断魔法』、そして『社会的禁則』の、
3つに分けられます。
『魔法使いとしての禁忌』とは、その魔法流派を名乗るからには、絶対にしてはいけない事です。
これを破ると、その流派内では、外道と見做され、排除対象になりました。
排除は時に死を意味し、良くて破門の上、追放でした。
代表的な物としては、『他の流派の魔法を使う事』が挙げられます。
中には、異流の魔法の使用を認める、或いは、黙認する流派もありましたが、どの流派でも、
絶対に譲れない『魔法使いの本分』とでも言うべき物が、必ず定められていました。
例えば、神聖魔法使いは、人を呪ったり、貶めたりする魔法が使えません。
そもそも神聖魔法には、そう言った魔法が存在しません。
そう言った魔法を使う者は、神聖魔法使いとは認められないのです。
意識している人は余りいませんが、共通魔法使いにも、『魔法使いとしての禁忌』は存在します。
共通魔法教書に載っているので、皆さん各自で確認してみて下さい。
これを理解していなければ、魔導師にはなれないでしょう。
因みに、『魔法使いとしての禁忌』と、素直に書かれている訳ではありませんよ。
次は、『禁断魔法』。
その魔法流派で正道を貫き通すなら、絶対に使用してはならないとされていた魔法が、
『禁断魔法<フォビドゥン・マジック>』です。
『魔法使いとしての禁忌』と概念が重なる部分もありますが、魔法として流派に組み込まれていますし、
魔法の窮極には習得しなければならない性質の物です。
しかし、使用する事は許されません。
多くの流派では、最高指導者か、それに近い立場の者のみが、習得を許可され、資格の無い者は、
その存在を知る事すら出来ませんでした。
故に、禁断魔法については、流派内でも極秘事項として扱われ、『裏秘術』、『闇術』とも呼ばれました。
これを破ると、『魔法使いとしての禁忌』を冒した場合と同様に、排除されました。
いえ、魔法の秘奥に係わる分、より厳罰に処される可能性が高かったと言えます。
歌唱魔法使いの『呪歌』、料理魔法使いの『毒盛』、巨人魔法使いの『狂戦士法』等、
大抵の魔法流派は禁断魔法を持っていました。
これ等は、共通魔法では、『禁呪』、即ち、禁断共通魔法に該当します。
魔法大戦では、勝利を勝ち取る為に、多くの魔法使いが禁断魔法の封印を解きました。
……その結果は、魔法大戦の伝承の通りです。
最後に、『社会的禁則』。
勢力圏を確立した旧暦の魔法使い達には、『魔法使いとしての禁忌』と『禁断魔法』以外にも、
守るべき掟がありました。
それが社会的禁則です。
各流派によって、その定め方は様々で、明文化されていた物ばかりではありませんが、
『魔法に関する法律』の基になった考え方と言えます。
強大な魔法勢力には、社会の秩序を守る役割も、期待されていました。
旧い魔法使い達としても、造反や内乱を防ぎ、組織を纏めるには、秩序が必要でした。
よって、強力な魔法を持つ大勢力程、多くの内規と禁忌を設けなければなりませんでした。
中でも、最も多くの禁忌を持っていたのが、当時最も凶悪と言われた呪詛魔法使いです。
名明かしの禁止、術明かしの禁止、共感の禁止、自己顕示の禁止、自発的投呪の禁止、
仇討返しの禁止、復代行の禁止、同士呪いの禁止、復讐の禁止、呪怨連鎖の防止、過罰性の排除、
不当性の排除、その他、禁止事項及び原則は、判っているだけで、20以上に及びます。
勿論、それ等が全て守られていた訳ではありません。
王侯貴族に仕えていた呪詛魔法使いの中には、権威に逆らえず、仕方無く掟に背く者もあれば、
立身出世の為に、進んで掟を破る者もいました。
呪詛魔法使いに限らず、社会的禁則を守ろうとしない者は、制約の多さに比例して増えました。
勢力が大きくなると、制約を増やさねばならず、すると制約を破る者が増えてしまう。
それを取り締まる為に、また制約を増やし……こうした堂々巡りの中、権力を持った者が、
公然と規則を破る例も、多くありました。
こうして魔法秩序は次第に形骸化して行き、無法が社会を侵蝕し始め、終には魔法大戦が起こります。
現在の共通魔法社会も、秩序と規律の上に成り立っている事には、変わりありません。
そして、それは一人一人の意識で、守られているのです。
皆さんも、魔導師を志すなら、秩序と規律を重んじる姿勢を忘れないで下さい。
『魔法使いとしての禁忌』と、『禁断魔法』、そして『社会的禁則』は、後世の分類です。
旧暦当時に於いては、その3つは必ずしも、明確に区別されていた訳ではありません。
旧暦では、多くの流派に共通して、魔法の秘密を守る為に、異流の魔法解析は禁止するのが、
暗黙の了解で、自ら魔法の原理を明かす事も、不要不急時の濫用も、禁止されていました。
中には指導者の特別な許可が無い限り、魔法が使用出来ない例もありました。
これは『魔法使いとしての禁忌』とも言えますし、『社会的禁則』とも言えます。
『禁断魔法』を定めたのも、魔法使いとしての禁忌や、社会的禁則を考慮した部分が、
少なからずあるでしょう。
旧暦の魔法使いは、私利私欲の為に、徒に魔法を使って、人を苦しめていたと誤解され勝ちですが、
実際は多くの制約の為、人前で魔法を使う事は殆どありませんでした。
それより、魔法で地位を得る事と、地位を利用した権力の濫用が、旧暦に於ける魔法社会の、
最大の問題でした。
それに大きく関係しているのが、『魔法使いとしての禁忌』の軽視です。
一定の勢力圏を確立し、人を支配する様になった魔法使いは、『社会的禁則』さえ守っていれば、
『魔法使いとしての禁忌』は守らなくても問題無いと考え始めました。
それは現在で言う、「法律さえ守っていれば良い」と言う思考に通じます。
魔法は便利な物ですから、旧い魔法使い達――取り分け、地位を持たない者達は、
魔法の使用に制限を掛ける、魔法使いとしての禁忌が、疎ましかったのです。
魔法使いとしての禁忌は、魔法使いの在り方を示した物。
個人の利害、善悪の判断に優先して、魔法の性格を決定付けます。
神聖魔法使いは、神の力を借りて、善を為す。
精霊魔法使いは、精霊の力を以って、自然を制す。
呪詛魔法使いは、怨念を以って、人を呪う。
旧暦では、魔法使いと魔法は、全く性質が同じ物でした。
それぞれの魔法には、「こうすべきである」と言う、『正しい使い方』があり、それと同様に魔法使いにも、
「こうすべきである」と言う、『正しい在り方』がありました。
成立意義を失えば、魔法は純粋な手段の一に成り下がります。
先の話と繋がりますが、魔法使いとしての禁忌が形骸化して、在り方を見失った魔法使いは、
思想の乏しさから、自己利益の最大化を目指して、社会的禁則の抜け穴を探しました。
その行為は社会的禁則をも、形骸化させてしまいました。
成立意義を失った規則は、最早意味を成さず、誰も守らなくなります。
『魔法使いとしての禁忌』と、『社会的禁則』は、互いに無関係ではないのです。
旧い魔法使いの禁忌が、正しく守られていれば、旧暦の魔法社会の腐敗は食い止められ、
魔法大戦は起こらなかったかも知れません。
皆さん、共通魔法使いの『魔法使いとしての禁忌』を、確認して下さい。
そして、自分を省みて、魔導師になろうと言う志が、功利目的でない事を、よく確認して下さい。
今日の講義は、ここまで。
次回は旧暦の言語について勉強しましょう。
雷さん
禁断の地の空、遥か高くに、白い雲がトライアングルを描くと、禁断の地の森に住まう物達は、
こう噂する。
「雷さんが起きたぞ」
雷さんは恐ろしい存在で、禁断の地の怪物さえも、雷さんを避ける。
住民は子供等に、決して雷さんの領域に近付いてはならないと教える。
「今日は雷さんの機嫌が悪いから、森には行かない様に」
「雷さんに睨まれると、雷に打たれて死んでしまうよ」
その注意は、間違っていない。
子供でも雷の恐ろしさは知っている。
空が数度瞬いた後の、大地が揺れる程の轟音は、人を小さな存在に貶める。
雷に対する恐怖は、ある種、本能的な物だ。
ラビゾーが「雷さん」と出会ったのは、彼が禁断の地の住民となった、その年の事だった。
未だ事情をよく知らなかった彼は、森に入った際、雷さんの領域を侵してしまった。
その場所は、木々が生い茂る森の中にありながら、奇妙に開けていて、所々に炭の塊が転がっていた。
香木の焼ける良い香りが漂っている……。
(何があったんだ?)
ラビゾーは匂いを嗅ぎながら、周囲を観察した。
近くにあった炭の塊を蹴っ転がすと、黒い中で嫌に目立つ、白い牙が覗き、
それが動物の死体だったと判る。
「まるで燻製だな……」
鼻孔を擽る、食欲をそそる香りに、彼は独り言を呟いた。
だからと言って、地面に転がっている物を食べようとは、流石に思わないが……。
誰が、何の為に、こんな事をしたのだろうと、ラビゾーは考える。
まさか食う為に料理したのではあるまい。
(どうやったら、こんな風になるんだ?)
炭化する程、焼け焦げていながら、周囲に炎が燃え広がった様子は無い。
(魔法?)
この先に潜む物の正体を確かめようと、ラビゾーが歩き始めた時、空が白く瞬いた。
彼は思わず足を止めたが、何が起こったのか、直ぐには解らなかった。
(フラッシュ?)
直後、空が唸る。
(雷……雨が降るのか?)
天空にはトライアングルの奇妙な雲があるだけで、他に雲らしい雲は殆ど無く、快晴と言って良い。
とても雨が降る様には見えなかった。
(これが青天の霹靂って奴か……)
自然現象と解れば、何も恐ろしい事は無い。
余り体験出来ない事に、呑気に感心して、少し得した気分で、彼は再び歩き出そうとする。
「おい、止まれ。
貴様何者だ?」
今度は突然声を掛けられ、ラビゾーは驚いて再び足を止めた。
彼が聞いたのは、人の物とは思えない、エコーの掛かった、ざらざらした声だった。
どんな化け物かと思って、ラビゾーは声の主を探したが、見える範囲には誰も居ない。
(どこか物陰に潜んでいるのか?)
彼は背を屈めて、警戒心を露にする。
そんなラビゾーを嘲笑うかの様に、再び声が響く。
「探しても無駄だ。
貴様の目が届く所に、私は居ない」
「誰なんだ?!
僕に何の用が?」
「私は『雷』だ」
「雷?」
ラビゾーは「雷さん」を知らない。
ざらついた声の主は、彼の反応が鈍い事を怪しんだ。
「……見慣れない奴だな。
村の者ではないな?
――と言って、共通魔法使いでもなさそうだ。
『雷精<フォンク>』が反応しない所を見ると、魔法使いですらないのか?
本当に、貴様は何者なんだ?
私の知らない間に、またも世界は変わってしまったのか?」
問い掛ける度に、声の主は混乱して行く様だった。
穏便に話を進めたいラビゾーは、この儘では埒が明かないと悟り、自ら名乗る。
「ぼ、僕は……ラ、ラビゾー……ラビゾーと言います」
『ラヴィゾール』と口にするのは憚られ、彼は態と発音とアクセントを変えた。
ラビゾー。
偽名と言う程ではないし、そもそも「ラヴィゾール」自体が本名ではないので、嘘の苦手な彼でも、
名乗る事に抵抗は少ない。
「師匠の名は、アラ・マハラータ・マハマハリトです。
御存知ありませんか?」
しかし、ラビゾーの配慮は無意味だった。
「ラビゾー?
マハマハリト?
知らんな」
「えっ」
「悪いが、弱小魔法使い連中の名は、一々憶えていられない。
流派を名乗れ」
(流派……?)
高圧的な命令口調に、ラビゾーは内心立腹したが、見知らぬ者を弱小扱いした事から、
この「雷」と言う者は、それなりの実力を持った魔法使いと推測出来た。
魔法が得意でないラビゾーが、未知の魔法使いと敵対するのは、賢い選択ではない。
無闇に反抗しても良い事は無いと思い、ラビゾーは応じる。
「分かりません」
「どう言う事だ?」
「師匠は謎の多い人なので……」
嘘や誤魔化しではなく、彼は本当に知らなかった。
「言う程の事ではないのだろう。
いや、そんな事が聞きたかったのではない……。
雷精が貴様に反応しないのは何故だ?」
他方、「雷」はラビゾーが特殊な魔法能力の持ち主だと誤解していた。
勿論、ラビゾーに特殊な能力等、ありはしない。
「『雷精<フォンク>』?
何の事です?」
「そこら中に漂っているだろう?
見えないのか?」
「見せませんけど」
「まさか、貴様は魔法資質が――」
その後に続く言葉を、ラビゾーは許さなかった。
彼は不愉快そうに答える。
「ええ、そうですよ」
「……貴様、ラビゾーと言ったな?
今は魔法暦何年だ?」
ざらついた声の主は、明らかに狼狽していた。
「魔法暦?
確か、495年……だったと思います」
禁断の地に住まう物が、魔法暦を気にする事は、余り無いので、ラビゾーは少し驚いた。
「あれから300年……来るべき時が来ようとしているのか……。
ラビゾーよ、ここに貴様が訪れたのも、運命なのだろう。
我が下へ来い」
そして声は止んだ。
(来いって、どこに居るんだよ……)
ラビゾーは、どうすべきか悩んだ。
ここは村から離れた森の中の、少し開けた場所。
ラビゾーが来た道以外に、道らしい道は無い。
どう行けば良いのかラビゾーには判らなかったが、無視して帰って雷の機嫌を損ねたくも無かった。
しかし、変に進んで、森の中で迷うのは避けたい所。
約1針間、ラビゾーが困っていると、再び雷の声が響いた。
「早く来い。
こっちだ」
同時に、ラビゾーを誘う様に、ふわふわ漂う小さな青い光球が幾つか、道無き森の中に出現する。
「これで貴様にも雷精が見える様になっただろう。
あれに従え」
雷の声は、少し呆れていた。
「早くしろ。
危険は無い」
本当に行っても良いか躊躇い、直ぐには動き出さないラビゾーを、雷は苛立った調子で急かす。
ラビゾーが青い光球の群れに近付くと、それ等は誘い込む様に、木々の間へ逃げて行く。
彼は注意深く、後を追った。
この時のラビゾーは雷を、村から離れた所に住む、変わり者の魔法使いと思っていた。
そう言う、人と馴れ合わない魔法使いが何人かいると、彼は村の者から聞いた事があった。
青い光に導かれていると、ラビゾーは不思議と物悲しい気分になった。
彼は次第に無気力になり、流される儘の自分を惨めだと思う様になっていた。
ラビゾーは数点歩いた後、森の中の巨大遺跡に辿り着いたが、その頃には気力が失せていた。
遺跡は石造りの建造物で、余程古いのか、表面は多少風化していたが、森の中にありながら、
植物には侵蝕されていなかった。
しかし、これだけ謎が秘められた遺跡を前にして、ラビゾーは何の興味も感動も無かった。
「入れ」
雷の声が響くと、石造りの外壁とは異なる、黒い金属製の扉が左右に割れ、青い光を放つ雷精が、
吸い込まれる様に、遺跡の中へ入って行った。
ラビゾーも後に続いて、暗い遺跡の内部に、足を踏み入れる。
彼は良からぬ気配を感じていながら、「危険は無いと言われたから大丈夫なのだろう」、
「何かあっても自分の所為ではない」と、自分の事なのに、投げ遣りな気持ちになっていた。
何時も先を行く青い光が、そんな気持ちにさせたのだ。
遺跡の中は窓が無く、暗い。
雷精が石壁に埋め込まれたランタンらしき物に触れると、それは明るい橙の光を放ち、
石の廊下を照らした。
明かりの正体は、古い遺跡には不似合いな「電灯」だったが、無気力なラビゾーは気付けなかった。
自動で開閉する金属の扉を何度か抜けると、人が入れる程度の容積の、ガラス製と思しき、
筒状の透明な水槽が幾つも並べられた、大部屋に出た。
床に壁に天井に、よく解らない器具の一つ一つまで、至る所に、ラビゾーにも見覚えのある、
共通魔法の物に似た魔法陣が、刻まれている。
宛ら、魔法実験施設であった。
「初めまして、ラビゾー。
『甦った人類<アルヒャー・アントロポス>』よ」
そこに「雷」は居た。
相変わらずの、ざらついた声。
黒いフード付きのローブを着た「雷」の顔は見えない。
「アルヒャーン……?」
ラビゾーは意味が解らず、間抜けに鸚鵡返した。
雷は答える。
「『古代<アルヒェオス>』の『人間<アントロポス>』。
私は『雷』――ビジャリ、ファーローン、ドンダー、村の者達の呼び方は様々だが、
何れも『雷<ディオス>』、雷に関する物を表す」
「『古代<アルケオス>』の『人類<アントロプス>』?
意味が解りません。
それより僕に何の用なんです?」
独りで話を先に進めようとする雷に、ラビゾーは抵抗を試みた。
「ラビゾー、貴様は村の者ではないな?」
しかし、通じない。
彼が顔を顰めて、不機嫌さを示して見せても、無駄だった。
「だったら何なんですか?
……そうですよ。
僕は最近、ここに来たんです」
人の話を聞こうとしない雷に、長年独りで暮らしていると、こんなにも会話能力が無くなる物かと、
ラビゾーは空恐ろしくなった。
しかも、実力がありそうなので、性質が悪い。
そんなラビゾーに構う様子は、相変わらず全く無く、雷は続ける。
「――と言う事は、貴様は森の外から来たのだろう。
話を聞かせてくれ。
前は……確か、魔法暦200年頃だった。
今は500年になろうとしているのだな?」
ラビゾーは「魔法暦200年」が気に掛かった。
当時は開花期の後半。
禁断の地を探索する冒険者が、未だ多かった時期だ。
但、気に掛かっただけで、話を広げる気は無かった。
「そうですけど、僕は別に話したい事なんてありませんよ。
って言うか、そろそろ帰らないと」
「待て、急ぐ必要は無かろう。
魔導師会は、未だ存在しているのか?
愚かしき共通魔法使い共は、今も生き残っているのか?」
もう、これは会話に付き合った方が早いと思い、ラビゾーは退出を諦める。
「魔導師会も、共通魔法も、無くなったりしないでしょう」
彼は呆れた様に、そして、当然の様に言う。
ラビゾーが生まれる前から、共通魔法を中心とした社会が連綿と続いている。
信頼性と実績がある、魔導師会の共通魔法の支配を、迷惑に思う人は殆ど居ない。
「どうかな?
それは扨置き……フム、魔法の在り方は、今も昔も変わらないか……。
貴様は、さぞ苦労した事だろう」
雷はラビゾーの答えから、未だに魔法資質優位の社会を想像し、彼に同情した。
「……いえ、苦労って言うか……まあ、色々あったんですけど……そうですね」
ラビゾーが苦労したと言うのは、間違ってはいない。
ラビゾーは過去にあった出来事を、知識としては憶えていた。
例えば、彼には、公学校に通った記憶はある……が、教師ばかりか、同級生の顔も名前も、
思い浮かばないし、学校名も判らない。
授業の内容、学校行事、どれも思い浮かぶのはシチュエーションばかりで、自分にとって、
身近な者の存在が抜け落ちている。
ラビゾーは魔法資質が低い為に、魔法学校で揶揄われ、侮られた。
それ自体は憶えているのだが、彼を馬鹿にした者の顔や名前は思い出せない。
その時の悔しさ、辛さも忘れており、人伝に話を聞いたのと、何も変わらない状態。
普通なら、実際に体験した事なのか、信じられなくなるだろう。
しかし、それを真実と決定付けている物がある。
それは――今も変わらない、「魔法資質が低い」と言う、厳然たる事実に由来する、劣等感だ。
それだけが、ラビゾーを過去に縛り付けている。
雷の発言は、そんな彼の劣等感を揺さ振った。
雷はラビゾーに告げる。
「――だが、気に病む事は無い。
そう……昔は誰も、貴様と同じだった。
貴様は少しだけ、生まれて来るのが早かったのだ」
生まれて来るのが早かったと言われても、ラビゾーには何の慰めにもならない。
そもそも「昔」とは何時なのか、「同じ」とは何の事なのか、ラビゾーには解らなかった。
しかし、解り易く説明を求めると、話が長引きそうで、言い出せなかった。
無言のラビゾーの内心を知ってか知らずか、雷は続ける。
「感謝するぞ、ラビゾー。
貴様に会う事で、私は漸く使命を思い出せた。
『甦った人類』との接触が、私の記憶の封印を解く鍵だったのだ。
私は失われた歴史への導き手。
私と出会った最初の『人間』、ラビゾーよ、今こそ語ろう、その全てを――」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
何か重大な話をされそうな雰囲気に、ラビゾーは物申さずには居られなかった。
彼には、雷の語りは、軽易に触れてはならない物に感じられた。
「どうした?」
「あの……今の僕に、そんな話をされても……。
察するに、その話を聞くのは、どうしても僕じゃないといけない訳じゃないんでしょう?」
「その通りだが、誰にでも話せる物ではない。
貴様は資格を持っている」
「資格?」
「魔法資質を持たない事だ」
「一応、僕にだって魔法資質はありますよ……一般より低いだけです」
それは少し苦しい言い逃れであった。
その疑問に、ラビゾーは答えられない。
禁断の地を訪れた理由は、名前と共に忘れさせられてしまった。
もし過去の自分が、何かを求めて禁断の地を訪ねたのなら、それは雷の語る物だったかも知れない。
そう思うとラビゾーは、この儘去るのが惜しくなって来た。
「……時間を下さい。
今の僕には、真実を知る資格はありません」
「成る程、心の準備が必要なのだな?」
「……そんな所です」
「そちらにも事情があるのなら、落ち着くまで待とう。
悪かったな……人と話すのは久方振りだったので、少々急いていた様だ。
貴様の様な者が現れたと言う事は、人の復活も、そう遠くは無いのだろう」
漸く雷が、まともに話を聞いてくれたので、ラビゾーは安心した。
帰るなら、今しか無いと、ラビゾーは速やかに去ろうとする。
「では、失礼しました」
「おっと、待て」
しかし、雷は彼を呼び止めた。
「偶に、顔を見せてくれ。
何百年と言う長い年月は、流石に退屈過ぎた。
外の話も聞かせて欲しい」
「え……ええ、偶には」
早く立ち去る為に、不本意な約束をして、ラビゾーは遺跡を後にした。
そして帰り道……雷精が居なかったので、ラビゾーは森の中で迷ってしまい、再び遺跡に戻って、
雷に帰り道を尋ねなければならなかった。
それで雷精を用意して貰い、ラビゾーは何とか村に帰る事が出来た。
村に帰ったラビゾーは、先ず雷精を連れていた事を村民に驚かれ、次に雷に会った事を話して、
2度驚かれた。
村民等は、ラビゾーが雷と話をした事を知ると、「流石はアラ・マハラータの弟子」と彼を讃えたが、
師マハマハリトは無関係な上に、雷と話が出来た理由は、魔法資質が低かったからなので、
ラビゾーは素直に喜べなかった。
「全ては海の底だ。これから、どうするのだ? この私は……どうすれば良い?」
「先ずは大地を蘇らせる。そして、人工精霊計画の技術を以って、人類再生計画を実行する」
「ロードン、不死身になった貴様に、頼みたい事がある」
「貴様にしか、出来ない事だ」
「解っている。私に封印の番人になれと言うのだろう。
しかし……道理ではなく、心理的に快諾し兼ねる」
「そうは言っても、仕方が無いだろう」
「貴様は死んでしまったのだから」
「我等には、新世界の秩序を創る使命がある」
「ああ、ああ、解っているとも。ただ、これだけは確認させてくれ。
……私の死も、計画の一部だったのか?」
「フフフ……さて、どうかな?」
「グー・ユーバー、巫山戯けるな。不謹慎だ」
「冗談では済まされんぞ」
「……もう良い。どの道、この私には、引き受けるより他に無いのだ。不承不承だが、任されよう」
「ロードン、我等は明日発つ」
「急な話だな。独り残る私には、何の相談も無しに決めよって、薄情者共め」
「……何百年と言う時を、孤独に生きるのは辛かろう。その間に、心変わりしないとも限らない。
そこで――」
「イセン、どうした?」
「貴様の為だと言っても、通じまい……恨んでくれて構わん」
「何をする気だ!?」
「使命に忠実になれる様、呪いを掛ける」
「貴様っ!」
「済まない……」
「何故だ!? 貴様等も所詮は奴等と同じ、不信の渦に呑まれる存在か!」
「時の流れに、人の心は耐えられない」
「そんな事を訊いているのではない! イセン、何故だ? そんなに、他人が――――」
第四魔法都市ティナーにて
第四魔法都市ティナーに、ソリッド・クレジット社と言う会社がある。
社名に『信用<クレジット>』が付く会社は、金融機関を表している。
ソリッド・クレジット社も例に漏れず、企業や個人に現金を融資して、その利息で儲けている。
ただ、少々やり方に問題がある。
ソリッド・クレジット社の債権回収部門で働いている、ヨハド・ブレッド・マレッド・ブルーターは、
部下のタロスと共に、今日も仕事で街を回る。
ヨハドは自分の仕事が心底嫌いだった。
人に恨まれ、嫌われても、自分に大義があるなら、我慢出来るし、誇りも持てようと言う物。
しかし、賢い彼は、そうではない事をよく知っていた。
同社の『営業部』の連中は、ノルマ達成の為に、返済の見込みも無い貸付を平気で行い、
汚れ仕事をヨハド等『回収部』に押し付ける。
社長以下役員共は、それを問題視する所か、寧ろ推奨している有様。
そんなに嫌なら会社を辞めれば良いのだが、停滞期の今日、こんな前職の履歴があっては、
他に良い仕事に付ける筈も無い。
ヨハドは社名を見る度に、『確かな信用<ソリッド・クレジット>』とは何なのかと、思わずには居られなかった。
彼の唯一の部下タロスは、貧民街の出身で、社名の意味すら解らない男だ。
そんな者に債権回収を任せる――どう考えても、真っ当な会社ではあり得ない。
こんな会社潰れてしまえば良いのにと、ヨハドは何時も思っていた。
貧民街出身のタロスは、頭も育ちも悪い男だが、ヨハドにとっては信頼出来る部下である。
知識も教養も足りない為、ヨハドを「兄貴」と慕い、命令には忠実に従う。
ヨハドが日頃の不満を吐露出来る社内の人間は、タロス以外には居ない。
2人は上司と部下と言うより、義兄弟に近い間柄だった。
ある日、ヨハドは社内で不穏な噂を聞いた。
「乱暴な取立をしていた回収社員が殺された」――悲しい事に、この業界では間々ある話だ。
更に悲しい事に、そう言う悪い話を、面白可笑しく社内で広めるのは、大抵は営業の連中である。
明日は我が身かも知れない、回収の人間にとっては、本当に笑えない。
しかし、こんな事で一々腹を立てていては、『仕事』は務まらない。
「殺された奴が馬鹿だった」と、一笑に付し、ヨハドは今日も部下のタロスと仕事に出掛ける。
……それが最後の仕事になるとも知らずに。
ヨハドが回収に乗り出すのは、返済期限を過ぎても、借主から返金が無い時である。
彼の出動は、謂わば最後の警告だ。
ヨハドが出て行っても、返済に応じない時は、法に則った強硬手段が採られる。
故に、彼の仕事に、少々のトラブルは付き物。
時には同業者と鉢合わせたり、時には用心棒擬きと戦ったり、時には『代論士<ゴロス>』
(弁護士の様な物)と論戦したり、借主が行方を晦ましていれば、探し出さなくてはならない。
『目線隠し<ブリンカー>』に、首輪に、腕輪に、指輪に、バッジ……魔除けのアクセサリーを、
これでもかと見せ披かす様に飾り付け、我が身を守ると同時に、市民を威嚇して恐れられる。
それも仕事の為。
返せない金を借りる奴は馬鹿だが、返せないと知って貸す奴は、もっと馬鹿だ。
その回収を他人に任せる奴は、人間の屑だ。
ヨハドは常々そう思っている。
まともな営業の人間は、とっくに仕事を辞めている。
上司が部下を人と思っていなければ、部下も上司を人とは思わない。
今の社員に、会社への忠誠心を持っている者は、一人も居ない。
社長ですら、そうだ。
連中は人の姿をした獣で、どんなに賢く、知恵があっても、人間ではない。
それなら、どんなに愚鈍であっても、部下のタロスの方が、余っ程人間らしい……。
何よりヨハドを苦しめているのは、その人非人に自身が含まれている事実だった。
彼は自分も嫌いだった。
ヨハドが回収の時に願うのは、借主が極悪人である事。
初めから借金を踏み倒す気で、返済期限が来るまで、遊びまわっていたなら、遠慮無く叩き伸せる。
心が痛む事は無い。
尤も、彼が直接手を下す事は滅多に無く、それは専らタロスの役割なのだが……。
命令を下すのは、飽くまでヨハド。
悪人を演じるのも、疲れるのだ。
しかし、「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」と言うのと同様に、悪人の振りをする彼も、
悪人と違い無い。
賢いヨハドは、それも知っていたので、自己嫌悪せずには居られなかった。
今回の回収相手は、小企業の社長。
社長本人は、既に行方を晦ました後で、ヨハドとタロスは、密集住宅街にある従業員の元を訪ね、
社長の行方を訊き回っていた。
鍛えられたヨハドの観察眼は、瞬時に居留守を見抜いてしまう。
素直に話し合いに応じない場合は、態と近所に聞こえる様な大声を出して、『事実』を喧伝する。
ティナー市民は口性無く、悪い噂程、よく広まる。
どんな者でも、庇い立てれば共犯と見做すと脅せば、大体は口を割る。
それでも知らないと言い張る者は、余程の事情があるか、本当に何も知らないかだ。
その真偽を見分けるのは、ヨハドが魔法学校の中級課程で覚えた、共通魔法である。
『愚者の魔法』と言われる魔法で、人の精神に働き掛け、思考を縛って、偽りの発言を封じる
(類型の魔法に、『狂者の魔法』と言う、嘘しか吐けなくなる魔法があるが、今は措く)。
割と強力な魔法で、誤魔化し、逸らかしだけでなく、お世辞も使えなくなる。
これを使えるが為に、ヨハドは扱いこそ悪いが、それなりの高給を貰っている。
そんな便利な物があるなら、最初から使えば良いと思われるかも知れないが、愚者の魔法は、
禁断共通魔法でこそない物の、一般常識として使ってはならない類の魔法。
濫用すれば、魔導師会に睨まれるので、ヨハドは怪しいと思った者にしか使わない。
彼は今更、一般市民から疎外される事を恐れはしないが、それでも魔導師会は怖いのだ。
脅して揺さ振りを掛けるのは、嫌がらせ目的ではなく、『安全に』容疑者を絞り込むのに、
必要な行動だからである。
しかし、元社員等への『聞き込み』は、空振りに終わった。
ヨハドが魔法を使うまでも無かった。
次の段階は、関係の薄そうな知人等に、聞き込み対象を拡大せねばならない。
どこから始めるか、ヨハドは迷う。
返済期限日より前は、ヨハド以外の回収の者が、夜逃げしていないか確認する。
確認が疎かだった場合、その責任はヨハドには無いが、責任逃れには必死な他の社員共の事だから、
夜逃げしたのは昨日今日と見て間違い無い。
何とか社長が遠くに逃げない内に、追い詰めなくてはならない。
聞き込みの順序によっては、取り逃す可能性もある。
尤も、取り逃した所で、ヨハドが首になる事は無い…………減給されはしても。
何故なら、彼は優秀な回収部門の社員なのだから。
嫌々ながらも仕事を熟すヨハドは、ソリッド・クレジット社を徒に存えさせている。
嫌だ嫌だと口で言い、心の中でも思っていながら、行動は全く逆の事をやっている。
彼が社に存在している限り、不幸な犠牲者は増え続ける。
賢いヨハドは知っている。
本当に誰よりも屑なのは、ヨハド自身なのだと。
ヨハドとタロスは、次の聞き込み先に向かって、街中を歩いた。
往来の人々は、決して2人と目を合わせようとしない。
中には、物珍しさから凝視する者もいるが、ブリンカー越しに睨み付けるだけで、退散する。
何時もの事、慣れた風景だった。
……しかし、暫く歩いた2人は、道に迷った。
「兄貴、どこに行くんです?」
タロスはヨハドの後を歩いていただけなので、道に迷った事には気付いていなかったが、
ヨハドが通り慣れない道を歩いて、路地裏に入ったので、変だとは感じていた。
ヨハドはタロスに声を掛けられて、初めて正気に返った。
「……タロス……俺は何時から?」
「あ、兄貴?」
ヨハドは街中の通りを歩いていた積もりだった。
魔除けのアクセサリーが効かなかった事に、悪寒が走る。
「気を付けろ、タロス」
「兄貴、疲れてるんじゃないですか?」
「そうじゃない!
俺は道を間違えていない!
迷ったんじゃない、迷わされたんだ!」
愚鈍なタロスはヨハドの発言の意味を、理解出来なかった。
しかし、ヨハドを信頼している彼は、良くない状況である事だけは理解した。
この時のヨハドの焦りは、相当な物だった。
命を狙われた事がある彼でも、何の予兆も無く、感覚を狂わされる体験は、初めてだった。
迷い込まされた路地裏には、誰も居ない。
軽い悪戯や、嫌がらせでは済まない。
「その気になれば、何時でも殺せるぞ」と言う、恐ろしい脅迫である。
いや、これが単なる『警告』か、それとも『処分』なのかも、現時点では判らない。
「タロス、周りに気を付けろ。
万が一の時には……お前だけでも逃げとけ」
「そ、そんなにヤバイんですか?
いや、でも、逃げませんよ。
俺みたいな奴(の)にだって、意地があります」
「何の役にも立たない、下らねえ意地なんか捨てちまえ。
仕事でもねえのに、『俺みたいな奴』の為に、お前が死ぬ事は無えってんだ」
「だけど、兄貴……」
タロスがヨハドを慕うのは、上司だからと言うだけではない。
ヨハドは貧民街出身のタロスを人間扱いする、社内で唯一の人間だった。
「黙ってろ」
愚図るタロスを、ヨハドは一言で抑える。
敵は、少なくともヨハド以上の共通魔法使いか、未知の外道魔法使い。
魔除けのアクセサリーを無力化していた事から、実力差は天地だ。
ヨハドには、人に恨まれる覚えは、あり過ぎる程にある。
人の恨みが回りに回って、自分に返って来たとでも言うのだろうか?
来るべき時が来たのだと、ヨハドは半ば死を覚悟していた。
彼自身、日々の苦痛から解放される、この時を待っていたのかも知れない。
心ここに在らずのヨハドより、タロスが先に何かを発見する。
「兄貴、変な餓鬼が……。
こっちを睨んでやがる」
ヨハドが周囲を見回すと、何時の間に現れたのか、不気味な少女が、2人から約4身離れた位置に、
立っていた。
赤黒い長髪、大き目のウィッチハットに、大人用のハーフマントを羽織って……。
「追っ払いましょうか?」
ヨハドの返事を待たず、タロスは少女に向かって、数歩出る。
しかし、少女は退こうとしない。
「おい、何見てんだ!
餓鬼がっ!」
生意気な子供だと思い、タロスは怒声で威圧した。
「止せ、タロス!
子供相手に」
ヨハドはタロスを制するのに、「子供相手に」と言ったが、それは後付けだった。
そう言わなければ、愚鈍なタロスの振る舞いを、納得して止めさせられないと思ったのだ。
少女は何か魔法を使っている訳ではないし、実力を見せ付ける様な行動も、一切取っていない。
それでも賢いヨハドは、少女が危険な存在だと感付いていた。
タロスは不満気な顔で、ヨハドに言う。
「餓鬼なら尚の事、力尽くで解らせてやるべきですよ。
俺が餓鬼の時分は――」
「俺が止せと言った」
貧民街出身のタロスは、荒んだ世界を知っているが故に、大人と子供を区別しない。
ヨハドは強い調子で、二度タロスを制す。
そして、少女に問い掛けた。
「俺に何の用だ?」
「余りに不仕合せな顔をしているから」
少女は笑っていた。
全てを見透かしている様な、人を馬鹿にした、憐れみを含んだ、嫌らしい笑み。
「餓鬼が……」
「良いから、黙ってろ、タロス……。
俺の事に、お前が口を出すな」
タロスが小声で呟いたのを聞き、ヨハドは三度制する。
彼は何としても、「自分の事」にしたかった。
良く言えばワインレッド、悪く言えば血溜まりの様な色合いの、赤黒い髪の少女。
その髪の長さは膝辺りまである。
この年齢の少女が、そこまで髪を伸ばすには、それなりの手入れが欠かせない。
故に、長く美しい髪は、古くから高貴さの証とされて来た。
タロスが少女を嫌うのは、その妖しい優美さが半分。
残りの半分は、見るからに粗暴そうなタロスの脅しにも、物怖じしない所か、
まるで存在を無視しているかの様な、澄ました態度だ。
ヨハドがタロスを抑えるのに苦労しているのを見て、その少女は悪戯っぽく笑った。
「そこの人は邪魔だね」
挑発的な言動に、短気なタロスは打ち切れる。
「調子くれてンなよ、このっ……!」
「止めろっ、馬鹿がっ!」
ヨハドの再三に亘る制止も聞かず、タロスは身を乗り出す。
だが、一歩踏み出した所で、ぴたりと動きを止めた。
自制したのかと、安堵したヨハドだったが、直ぐに様子が変だと気付く。
「おい、タロス……?」
タロスは時間が止まったかの様に、瞬きすらせず、固まっていた。
「馬鹿が居ると疲れるね」
少女はヨハドに対して、同情気味に言う。
ヨハドは心の中で舌打ちし、タロスの事は一先ず置いて、改めて尋ねた。
「……俺に何の用なんだ?」
「賢い人は好きよ」
しかし、少女は答えを逸らかし、己が優位である事を示す。
ヨハドは少女の真意を確かめようと、自ら問い掛けた。
「俺を殺しに来たのか?」
「殺される覚えがあるの?」
嫌味な切り返し方にも、彼は動じない。
「……ああ。
怨まれて当然の事をして来たからな」
「殺して欲しい?」
「冗談じゃない」
少女は値踏みする様に、ヨハドの反応を注意深く観察している。
年不相応の態度から、彼女は外道魔法使いに違い無いと、ヨハドは当たりを付けた。
「何が目的だ?」
「フフフフフ……」
「……俺が不幸せだと言ったな?」
「ええ」
少女の返事は短く、自ら多くを語ろうとしない。
外道魔法使いには、外道魔法使いなりの流儀がある。
彼女は、ヨハドから何か言い出すのを待っているのだ。
「お前は、『不幸せな俺』に何の用だ?
何をしてくれる?
何か出来るのか?」
少女は我が意を得たりと、にやりと口元を歪めて笑った。
ヨハドは内心、仕舞ったと思った。
少女は途端に饒舌になる。
「ヨハド……あなたは社会に不満を持っている」
(『社会に』ってよりは、『会社に』だけどな)
「力が欲しくない?」
「力?」
突然の事に、ヨハドは戸惑い、思わず尋ね返した。
少女は力強く頷く。
何時の間にか、彼女はヨハドの傍に立っていた。
「そう、復讐する力」
「俺が?
誰に?」
「それは、あなたが誰より知っている」
ヨハドが憎む物……。
彼は暫し思案した後、何度も首を横に振る。
「……そんな度胸、俺には無い」
「いいえ、そんな事は無い」
少女は笑顔の儘で、ヨハドを睨んだ。
ヨハドは彼女の射る様な視線に耐え兼ね、苦し紛れの言葉を吐いた。
「俺には、人を不幸にする事しか出来ないのか?」
それは偽らざる本心、彼の苦悩であった。
少女はヨハドの答えが、余程意外だったのか、驚いて彼の目を見詰めた儘、固まっていた。
気不味い沈黙の時が流れる。
その間、ヨハドは自分の言葉を、心の中で何度も反芻していた。
(俺には、人を不幸にする事しか出来ない)
余り深く考えずに吐き出した言葉は、よく弾むゴムボールの様に、思わぬ強さで跳ね返って、
彼自身を傷付けた。
「そう……あなたみたいな人も居るんだね。
残念、期待外れ、見込み違いだった」
少女は徐にヨハドから目を逸らし、俯く。
その暗く沈んだ物言いは、本心からの失望を表していた。
それだけではない。
彼女の声は、落胆以上に、深い悲しみを湛えていた。
「復讐だの何だの、お呼びじゃないんだよ」
ヨハドは、それに気付いていたが、見当違いである事だけを指摘し、深入りは避けた。
少女は面を伏せた儘、一歩二歩と後退る。
「あなたを見縊っていた。
お詫びに、あなたの願いを叶えましょう。
さようなら。
2度と会わない事を祈って……、キラリラリン」
少女は謎の呪文を唱え、踵を返すと同時に、マントを大きく翻す。
赤い髪が靡いて、その動きに合わせる様に、一陣の旋風が巻き起こった。
砂埃が舞って、ヨハドの目を潰す。
ブリンカーを掛けているとは言え、素肌に飛礫が当たれば痛い。
ヨハドは目を閉じ、両腕で顔を覆った。
風が収まり、ヨハドが目を開けた時には、少女の姿は無かった。
「いててっ、砂が……!」
直後、タロスの情け無い声が、ヨハドの耳に入る。
タロスはブリンカーを外し、両目を腕で隠して、蹲っていた。
運悪く、ブリンカーの隙間から砂が侵入し、目に当たったのだ。
「くっそ、餓鬼めぇえっ!!
打ち殺スッ!!」
動きを止められていた間、タロスは意識が無かった。
その為、「急に突風が吹いて、目に異物が入った」と言う、理不尽な仕打ちを受けた彼は、
全ての責任を少女に転嫁した。
少女の姿が無い事も、未だ理解していない。
「タロス、静まれ。
もう奴は居ない」
ヨハドは、散々少女に馬鹿扱いされたタロスを哀れに思い、宥める。
大の男が、赤く腫れた両目を擦って涙ぐむ様は、何とも滑稽であった。
「チッ、逃げやがったか……。
あの餓鬼、一体何だったんだ?
兄貴、何ともありやせんか?」
「寧ろ、お前が大丈夫なのか?」
「へっ……この位、何とも無いですよ」
ヨハドに心配されたタロスは、目をしぱしぱさせて、涙を拭いながら強がる。
大袈裟に取り乱した割には、大した事は無さそうだと、ヨハドは安堵した。
目の痛みが治まって、落ち着いたタロスは、ヨハドに尋ねる。
「兄貴、どうします?」
「……そうだな、今日は帰るか……」
「えっ、ばっくれるんですか?
仕事は?」
ヨハドが早引けすると言ったので、タロスは驚いた。
彼の目には、情に流されず、淡々とノルマを熟すヨハドは、仕事熱心に映っていた。
ヨハドは事も無気に言う。
「何だか馬鹿馬鹿しくなって来てな……どうも仕事を続けられる気分じゃない。
俺は今まで働き過ぎだったんだ。
偶には休んでも、罰は当たらんだろう」
「お、俺は……どうすれば……?」
タロスには持ち家が無い。
帰ると言っても、彼の居場所は、会社にしか無い。
ヨハドは「仕方無いな」と溜め息を吐いた。
「俺に付き合え。
時間の潰し方を教えてやるよ。
思えば、この仕事を始めてから、久しく遊んでいない」
そして、2人はティナーの街に姿を消した。
翌日、ソリッド・クレジット社の社長が死亡した。
死因は社員には伝えられず、病死か事故死か、それとも自殺か他殺か、不穏な噂だけが、
社内で広まった。
その後、タイミングを見計らったかの様に、ソリッド・クレジット社に監査機関のメスが入る。
結果、無理な経営実態が明るみに出て、社は倒産させられた。
コネの無い者は、再就職も儘ならず、ヨハドとタロスは、目出度く無職の身となった。
刀剣の心
共通魔法が中心の唯一大陸では、魔法陣の完成動作を妨げる、重い武器は嫌気される。
軽い武器を持って、鋭利さ等を魔法で強化して扱うのが一般的。
共通魔法を以ってすれば、短剣も長剣と変わり無く、棒切れも槍や剣に勝る。
そこで用いられるのが、短刀、杖、鞭の、魔導三具と呼ばれる物。
これ等は例外的に、所持していても、凶器とは見做されない。
しかし、優秀な共通魔法使いは、そもそも武器を持たない。
彼等は、手刀で大木を切断し、拳突きで岩石を貫く。
共通魔法が広まる以前、復興期は、旧暦の名残もあり、妖獣退治の為に、武器を持つ人は多かった。
特に、人間同士の争いが激しかったエグゼラ地方、そして、共通魔法の到達が遅く、
大型の妖獣が多く棲息していたボルガ地方とカターナ地方では、両手で扱う様な大型の、
長剣・長槍・戦斧・槌・弓矢が、敵を倒す武器として、普通に使われていた。
火薬式の武器は、爆弾・大砲はあったが、小銃の類は発達しなかった。
一方、身を守る防具は、盾・軽鎧・具足・篭手と、部位防具は開発されたが、旧暦とは異なり、
完全な防御を目指した重鎧・全身装甲の類は、殆ど造られなかった。
それには復興期の技術的限界、物質的限界も、原因の一にあった。
所が、共通魔法の到達は、破壊力と貫通力が求められた武器と、頑丈さが求められた防具の概念を、
大きく変えた。
武器は敵を直接攻撃する物から、魔法を補助する物に変わり、扱い易さが重視されると共に、
武器自体の破壊力は失われ、呪文を描く『刻刀<グレイバー>』から、機械的に魔法を放つ、
魔導機の開発に繋がる。
破壊力を重視した旧来の武器は、次第に廃れて行った。
エグゼラ、ボルガ、カターナには、現在でも伝統的な武具職人が存在する。
武具職人は、鋳造職人とも、一般の鍛冶職人とも、明確に区別され、一種のステータスとなっている。
勿論、武具ばかり造っている訳ではなく、武具「も」造れるのであって、他の仕事も普通に請け負う。
特にボルガ地方では、ブリンガー地方で農産物コンテストが盛んに行われる様に、
武具職人による武具コンテストと、達人による武芸コンテストが頻繁に開催される。
武具コンテストは、魔法陣を配った魔導武器の他に、純粋に破壊力を追求した物、
美しさを追求した物、鋭利さを追求した物と、目的別に部門がある。
武具コンテストに出品される武器は、殆どの都市で刀剣類の抜刀が禁止されている事もあり、
現在では使い途が皆無に等しい。
その代わりに、謝礼や褒賞、祭事の奉納で寄贈する等、縁起物や装飾品の意味合いが強くなり、
所持者の社会的地位(栄誉)を表す、ステータス・ウェポンと言う概念が生まれた。
大きな剣、頑丈な鎧と言った武具には、失われた時代への浪漫があり、実用性を超えて、
それ自体が価値ある物との認識から、武具専門のコレクターも存在する。
第五魔法都市ボルガ 非公式取引所にて
第五魔法都市ボルガは、武具コレクター活動の中心地である。
小町村レベルでも技量の高い職人が存在し、思わぬ掘り出し品が手に入る事も多い。
武具コレクターと一口に言っても、様々な者が居る。
剣、槍、斧と言った、種類別の収集家。
年代物を集める、ヴィンテージ・コレクター。
記念物を集める、メモラビリア・コレクター。
とにかく質の良い物を集める、ハイクウォリティー・コレクター。
その他、独自の価値観・志向を持つ、ユニーク・コレクター。
様々なコレクターが、ボルガ地方に集まる。
こう言ったコレクター交流の場に、非公式取引所が使われる事が間々ある。
普通に取引所で売買する以外に、お互いにとって価値がある物を交換したり、情報を集めたりするのだ。
武具の取り引きが行われる、ボルガ地方の非公式取引所に、初老の紳士が訪れた。
整った身形に、マントを羽織って、背筋を真っ直ぐ伸ばした様は、宛ら旧暦の騎士を思わせる。
武具コレクターには、実際に武芸を嗜んでいる者が多いので、彼の様な者は珍しくないが、
その正体は外道魔法使い、『魔法剣士<ミスティック・ソーディアン>』。
『魔法武器の戦士<マジック・ウェポン・マスター>』、『武器の魔法使い<ウェポン・マジシャン>』、
『付与魔法使い<エンチャンター>』とも呼ばれた『魔法戦士』の一派。
彼等は、魔法主体の流派ではなかったので、『古の賢者達<オールド・ウィザーズ>』に数えられなかったが、
旧暦では、卓越した剣技に魔法を乗せて戦い、名を馳せていた。
しかし、それも昔の話。
魔法大戦に敗れた今は、愛刀を差して歩く事も儘ならず、武具コレクターとして、静かに暮らしている。
そんな彼が非公式取引所で探す物は、やや流行遅れのデザインの刀剣類。
大金を持っていない事もあるが、その時代時代で一般的なデザイン「だった」物を揃え、
流行の変化を眺めて、過ぎ去った時を想い、独り悦しんでいる。
常人には中々理解し難い感覚だが、『収集家<コレクター>』とは得てして、そう言う物である。
一般には、武器は持ち歩けない事になっているが、移送の為には、厳重に包装した状態なら、
持ち歩いても良いと、都市の法律で定められている。
故に、武具を扱う取引所内は、長方形の箱が山と持ち込まれる。
「これ、見せて貰っても宜しいですか?」
「ええ、どうぞ」
老紳士が箱を指差して尋ねると、売人は好意的に答えて、その箱の封を解き、
鞘に納められた剣を差し出した。
老紳士は徐に抜刀するが、売人に驚いた様子は無い。
この場では、「見る」とは「刀身を見る」事である。
武器なのだから、実際に刃を見ない事には、物の良し悪しを確かめ様が無い。
抜刀は売り手側にも、買い手の技量を見極める意味がある。
鞘から抜くのに一々苦労する者や、危険な取り扱いをする者には、売る気も失せると言う物。
因みに、取引所内に限り抜刀は許されるが、それはボルガ地方に限られた事で、他の地方の都市では、
危険な抜刀行為は、先ず認められない。
それは余り血気に逸る事が無い、ボルガ市民の性質あっての事なので、
ボルガ地方が武具コレクターの活動中心地になったのは、必然とも言える。
老紳士は刃渡り1歩程度の段平を、『剣礼<サルート>』の様に立て、刀身を見詰める。
約1点間眺めた後に、今度は水平にして光の反射具合を確かめる。
如何にも玄人然とした所作だが、これは値切る為の前振り。
老紳士は余り金を持っていないので、適当に文句を付けられる所が無いか、探しているのだ。
しかし、よく手入れされていて、値段相応か、寧ろ安いと言って良い位だったので、
彼は仕方無く剣を納めて、売人に返す。
「良い物ですね」
「お買い上げにならないのですか?」
「良い剣は、良い使い手の元にあるべきです。
私の手には余ります」
「中々の技量と、お見受けしますが……」
「有り難う御座います」
飽くまで紳士的に、謙遜して。
その言い分に納得して、少し負けてくれれば儲け物と、邪な思惑も働かせつつ断る。
……結局は、譲って貰えなかった訳だが。
老紳士は挫けず同じ調子で、あちこち冷やかし回り、やはり何も買えないでいた。
少し疲れた彼は、取引所内で顔見知りを発見して、声を掛ける。
「や、ラヴィゾール君!」
草臥れた服を着た、中肉中背の壮年の男は、驚いて身構える。
「師範!
お金なら持ってませんよ」
「師範」とは、老紳士が小村で剣術の講師をしている事に、由来する。
老紳士と男が、師弟関係にあると言う事は無い。
「……金の無心に来た訳ではない」
老紳士が顔を顰めると、男は決まり悪くなって頭を掻いた。
「そうですか?
済みません。
毎度の事なので、つい」
男が素直に謝ると、老紳士は表情を緩めて笑う。
「まあ許そう。
それより、何か良い物を持ってないか?」
「僕は気紛れに立ち寄っただけで、ここで売れる様な物は何も……」
男は誤解していた。
老紳士の言う「良い物」とは、武具ではなく、金目の物、取り引きに使える物の事だ。
「何でも良い、金になりそうな物は持ってないかと聞いている」
「持っていたら、何なんです?」
急いた様子の老紳士に、男は疑いの眼差しを向けた。
老紳士は冷やかしの間に、目を付けた商品があった。
しかし、手持ちが僅かに足りなかった。
値切りも失敗した所で、顔見知りに小額の「投資」をして貰いに来たのである。
老紳士は気を落ち着けて、改まった態度で言う。
「私のコレクションを担保に、金を貸してくれないか?
金が無いなら、換金出来る物でも良い」
「無理ですよ、無理無理。
武器は安くっても何十万とか――生活費が足りなくなります」
困り顔で断る壮年の男に、老紳士は苛立ちを抑えて、懸命に頼み込んだ。
「最低限、10万で良い。
戦士の名誉に懸けて、必ず返す」
「名誉を懸ける程の事ですか!?
いや……でも、駄目ですよ、貸せません。
10万でって、十分高いですよ。
って言うか、今まで何度か貸したのに、未だ全然返して貰ってないんですけど」
「だから、私のコレクションを担保にすると言ってるじゃないか!
聖剣でも魔剣でも譲ってやるよ」
「要りませんよ……。
高価い物は勿体無くて売れない性質ですから」
「くっ……貧乏性の吝嗇家め」
「そんなんだからゲントさん、本当に欲しい物が買えなくなるんですよ」
男の言い分は、全く正しい。
反論出来ない老紳士は、憤りと悔惜の念を堪えて、口を噤む。
そして、大きな溜め息を吐き、恨めしそうに壮年の男を見詰めた。
「どうして、こうなってしまったんだろうな……。
旧暦では、男は誰も戦士だった。
武具は戦士の分身であり、誇りであり、命だった。
一生物に巡り逢えば、肌身離さず持ち歩き、我が子の様に大切にした物だ。
そして、戦いの中で技術(わざ)を磨くと同時に、高い精神性を追求した。
……今の時代、本当の戦士は一人も居ない」
「今の時代」とは、老紳士の口癖である。
共通魔法が普及してから、武器を持ち歩く者は、殆ど居なくなった。
武具を扱う心得が無いのは、当然と言える。
「腕力が全ての野蛮な時代が終わらせたのは、戦士の心、武術の精神だ。
魔法の時代が訪れても、魔法は魔法、武術は武術で、両存し得た。
実力の似通った魔法使い同士、魔法が通用しなければ、武器を持っての戦いになるのだから。
だが、魔法は強くなり過ぎた。
武器での遣り取りが無意味になる程に」
壮年の男は、「また始まった」と呆れ、黙って聞き流していた。
「やがて、武術は野蛮な時代と結び付けられ、蔑まれる様になった。
それは戦士に対する侮辱だ。
天地を揺るがす、恐ろしい魔法に対抗する為に、戦士は強い武具を求めねばならなかった。
神聖魔法使い等の『神器』にも劣らない、魔法の力を持った武具を……」
この話を、男は過去に何度も聞いていた。
外道魔法使いと言う、老紳士の素性を知っていて、話が出来る相手は、他に居ないからなのだが……
顔を合わせる度に、この調子では、辟易されても仕方無い。
老紳士は、構わず続ける。
「だが……だが、それは結果として、益々人を武術から遠ざけてしまった。
一振りで山を砕き、海を割る武器に、武術が何の役に立つ?」
それは問い掛けではなく、反語であった。
どんなに武具の扱いに長けていても、基本性能の差は如何ともし難い。
「そうして、心が失われて行くのだ。
ラヴィゾール君、聖剣や魔剣と呼ばれる物と、普通の剣の違いが解るか?」
「えっ、何です?
行き成り……」
独演が続くと思っていた壮年の男は、急に話を振られて、戸惑った。
所が、彼の答えを俟たず、老紳士は自ら言う。
「何も違わぬのだ……。
強いて言えば、使い手の違い。
切る物を選ばぬのなら、聖剣とて鉄の塊と変わり無い。
魔導機の開発を封じた、魔導師会の判断は正しい。
心の無い者が、余る力を手にすれば、狂う。
結局、武具は名誉を回復しない儘、無用の物に成り下がってしまったが……」
老紳士の心は語り調と共に沈んで行き、目から力強さが失われ、老いた表情になって行く。
壮年の男は、掛ける言葉が無かった。
「ここに並べられた、武具の数々を見給え。
使い手に恵まれぬ、哀れな物達を。
壁に飾られ、一度も振るわれる事無く、錆びて行くだけの存在。
心無く振り回され、人を傷付けないだけ、良いと思うか?」
老紳士は悲しい瞳で、男に訴え掛けた。
男は真面目な顔で答える。
「そんな事言われても、お金は貸せませんよ」
老紳士は舌打ちした。
『土精<コボルト>』
コバルトゥス・ギーダフィは、剣聖ゲントレン・スヴェーダーの弟子である。
若くして独り立ちした彼は、各地を巡り、ボルガ地方で師と出会って、二刀剣術を学んだ。
才能があったコバルトゥスは、我流の短剣術を編み出し、ゲントレンの下を去った。
ゲントレンは、往事を振り返って、こう語る。
「コバルトゥスには天賦の才があったが、人の言う事を聞かない問題児だった。
奴は私の教えを半分も理解しない内に、私のコレクションの一を奪って、勝手に出て行ってしまった。
しかし、それはそれで構わない。
少なくとも、教えに囚われて枠に嵌まり、小型の人間になる事は無いのだから。
奴は旅の中で、己と向き合いながら、技を高めて行くだろう。
ただ……コレクションは早目に返して欲しいがな」
コバルトゥスは余り真面目な性格ではないので、今でも剣技を磨き続けている保障は無い。
しかし、ゲントレンは、コバルトゥスは必ず帰って来ると言う。
コバルトゥスには、剣士の心がある。
剣に見合った実力を付けた後、真に相応しい所有者を決める為に、ゲントレンと刃を交えるのだと。
「持ち逃げされる心配は?」
「持ち逃げなら、既にされている。
帰って来なければ、それまでの男だったと言う事だ。
早晩、剣に捨てられるだろう」
「逆に、剣を売り飛ばしてたりして」
「それは無い。
奴は『自分の型に合った』剣を持って行った。
高く売れる剣なら、他に幾らでもあったのに」
「大した信頼だ」
「一応、師弟の関係にあったのでね」
エグゼラ地方 トス平原にて
自称冒険者のコバルトゥス・ギーダフィは、精霊魔法使いアガルド・ギーダフィを父に持つ。
名の由来は『土精<コボルト>』より。
魔法資質は人並みだが、その詠唱方式は独特。
故に、人前では滅多に魔法を使わない。
彼は父の跡を継ぎ、各地を放浪して、精霊の伝達係をしている。
一体、精霊に何を伝えるのか?
精霊に情報を理解する知能があるのか?
そもそも精霊は実在するのか?
コバルトゥスは旅の理由を冒険者だからと嘯き、自身が精霊と係わっている事は、
他人には絶対に言わない。
精霊魔法は、共通魔法の基になった魔法で、両者には共通点が多い。
呪文も似通っており、共通魔法は精霊魔法の派生型と、一般には認識されているが、
精霊魔法使いは、共通魔法と精霊魔法を、明確に区別する。
共通魔法で必ずと言って良い程に使われる、命令の意味を持つ基本呪文『I3L4』は、
精霊魔法では『J3K1B7』に置き換えられる。
これは『頼む』、『願う』と訳される。
精霊魔法使いは、精霊を使役するのだが、それは強制ではない。
旧暦、精霊王と呼ばれた、精霊魔法使いの指導者でさえ、『精霊の試練』と呼ばれる儀式を越えて、
精霊達の支持を得なければならなかった。
精霊魔法は、精霊と心を通わせて使う物なのだと、精霊魔法使いは主張する。
それ故に、共通魔法使いとは距離を置く。
しかし、魔導師会は精霊の存在を確認していない。
一般に精霊とは、不安定な魔力の流れを、気紛れな心に見立てて、人格を与えた物と、
解釈されている。
コバルトゥスは、雪が深く積もったトス平原を、歩いて移動する。
夏とは言え、半身以上も雪が残る、エグゼラの大地。
普通は雪に足が埋まるのだが、コバルトゥスは足が沈まない様に、雪の上を歩ける。
精霊魔法だ。
精霊魔法は外道魔法の中でも、共通魔法に近いので、人前で精霊魔法を使ったからと言って、
他の外道魔法を使った場合とは違い、罰せられる事は少ない。
魔法の知識が深い者でなければ、共通魔法との違いに気付く事すら無い。
一応は、共通魔法社会で育ったコバルトゥスだが、彼は共通魔法を使いたがらない。
それが精霊魔法使いとしての矜持なのか、それとも単に共通魔法が下手だからなのか、
知る者はいない。
雪しか見えないトス平原の中心で、コバルトゥスは白い息を吐くと、静かに両目を閉じて、
人には聞き取れない声を呟く。
普段の透かした彼が、決して見せる事の無い、穏やかな安らいだ表情で。
深呼吸を何度も繰り返し、コバルトゥスが精神を集中すると、雪の粉の様な、小さな白い光の欠片が、
彼の周りに現れた。
コバルトゥスは静かに目を開くと、光の欠片に向かって、再び聞き取れない声を呟き始める。
光の欠片は、コバルトゥスの側をふらふら漂っているだけで、その様子からは、
彼の声に反応しているとは思えない。
果たして、意思が通じているのか否か、真相はコバルトゥスのみが知る。
そして、約1角後……。
「じゃ、また来るよ」
呟きを止めたコバルトゥスは、柔らかい声で、白い光の欠片に別れを告げた。
白い光の欠片は、別れを惜しむ様に、コバルトゥスに纏わり付く物と、その場に留まって、
静かに消える物に分かれる。
コバルトゥスがトス平原の中を通る道路に近付くと、彼に纏わり付いていた光の欠片も、
徐々に消えて行った。
旧暦の遺跡
唯一大陸及び、その周辺では、旧暦の遺跡が時々発見される。
その中でも、特に有名な4つの遺跡を、四大遺跡と呼ぶ。
グラマー地方の西の砂漠に一、ブリンガー地方のキーン半島の北部に一、
エグゼラ地方のガンガー北極原に一、カターナ地方の周辺小島群に一あり、
ティナー地方とボルガ地方には然程有名な物は無い。
グラマー地方の西の砂漠には、「砂漠の死都」。
ブリンガー地方のキーン半島の北部には、「神殿遺跡」。
エグゼラ地方のガンガー北極原には、「氷下壕」。
カターナ地方の周辺小島群には、「引き裂かれた王都」。
この4つの中では、幾つもの小島に跨って存在する、「引き裂かれた王都」が最大規模。
次いで、「砂漠の死都」、「神殿遺跡」、「氷下壕」の順に並べられる。
「引き裂かれた王都」、「砂漠の死都」は、王城を含む都市の全貌が確認出来るのに対し、
「神殿遺跡」は旧暦でも市街から離れた所にあったのか、周辺に他の建築物は残っておらず、
「氷下壕」にしても同様である。
この中で、最も訪れ易い場所は、引き裂かれた王都で、観光名所にもなっている。
次いで、砂漠の死都、神殿遺跡、氷下壕と、規模の並びと同じ。
禁断の地にも、旧暦の遺跡が多く残っていると思われているが、実際に確認した者が居ない為、
四大遺跡には数えられていない。
ブリンガー地方 キーン半島
キーン半島は、南部にルイン村と言う小さな集落がある以外は、町と言える所が無い。
大魔法結界から、大きく外れているので、共通魔法の支配も弱い。
外道魔法使いにとっては、魔導師会の目に付かないと言う点では、恰好の潜伏場所なのだが、
如何せん都市から離れすぎているので、生活の便が悪い。
その為か、『森の魔女』と呼ばれる使役魔法使いが、ルイン村近くの森に住んでいる以外は、
キーン半島に外道魔法使いの定住は、確認されていない。
大都会、第四魔法都市ティナーの市街の方が余程、外道魔法使いの潜伏場所として、
好まれているのは、皮肉な事である。
神殿遺跡にて
神殿遺跡は、旧暦の祭祀施設跡地で、キーン山脈の麓に、半壊した状態で野晒しにされている。
内部には、巨大な人型の巨像を設置していた跡があり、所謂、偶像崇拝を行う場だったと、
推測されているが、肝心の偶像が、脛から下の部分を残して、他は崩落しているので、
実際に何を祀っていた神殿なのかは、よく解っていない。
開花期に、魔導師会が調査を行ったが、碑文の一部から、エレム語圏の物と言う事が判明したのみで、
他に大して得られた情報は無く、修復を試みられる事も無く、放置された。
旧暦からの文化的・社会的連続性は、魔法大戦によって、一度絶たれた上に、当時は既に、
旧暦の事を知る者が去った後で、旧暦の話は殆ど伝えられておらず、神殿遺跡と旧暦の文化を、
関連付ける要素が不足していた。
共通魔法の開発が途上だった事もあり、見た儘の情報を記録するだけに、留まったのである。
開花期が終わると、僻地を活発に訪れる機運は衰え、過去に一度書き留められた情報のみで、
研究が進められる様になってしまった。
余程の物好きであっても、ソーダ山脈を数日掛けで越えてまで、神殿遺跡を訪れる者は居ない。
サティ・クゥワーヴァとジラ・アルベラ・レバルトが神殿遺跡を訪れたのは、夏の終わり。
キーン半島での調査を終えた帰り、序でに立ち寄ったのであり、何か新しい発見を期待して、
向かったのではない。
全く期待していなかった訳ではないが……。
神殿遺跡の外観は、白い石造ブロックを積み上げた、約2区四方の巨大建造物である。
別名、『白い城』。
先ず目に付くのは、高さ1〜3身のブロック塀の囲い。
石造ブロックを接着剤で組み上げた物で、完成から何百年と経過した現在でも、
ハンマーで叩いた程度では壊れない、頑丈さを保っている。
完成した当初は5身程度あったと見られているが、魔法大戦の天変地異で崩れたのか、
今では、破壊されたブロックが周囲に散乱しており、虫やネズミの隠れ家になっている。
塀を越えると、1歩四方の石板が敷き詰められた、神殿の前庭に出る。
石板の上には砂が積もっており、隙間からは雑草が生えている。
前庭には、5身平方、高さ1身弱の、これも石造りの台座が、10身間隔で、W字形に配置されている。
台座の上には、何か乗せられていた様だが、今となっては、それを確かめる術は無い。
前庭からは本殿が見える。
地上から約2身の基礎の上に築かれた、高さ20身(=1巨)もの本殿は、所々天井が抜けていたり、
壁が崩れていたり、柱が折れていたりと、保存状態が良いとは言えない。
神殿内に、人が住んでいた形跡は無く、居住空間も見当たらない。
過去には存在していて、海に沈んだ際、或いは、大陸浮上の際に、流失したのかも知れないが……
どの道、今となっては、確かめ様が無い。
全ての真実は、遥か旧暦――海の底である。
唯一大陸の者にとって、驚くべきは、これが魔法によって造られた物ではないと言う点だろう。
神殿のブロックは、付近の岩石とは性質が異なるので、何処からか重い石を大量に運んで来て、
ブロック状に加工し、この神殿が造られた事になる。
「こんな物、魔法も使わずに、よく造ったわ……。
魔導師会本部より大きいんじゃないの?」
それが、神殿を見たジラの、最初の感想だった。
「旧暦では、無闇に巨大な物を造って、権力を誇示する風習が、一部あったらしいですから。
魔導師会は、そんな事しませんけど。
後、敷地面積では、魔導師会本部の方が大きいですよ」
一体、どれだけの歳月と労力を掛けて、これが造られたのだろうか……。
想像も付かない規模の事に、ジラは只々感心するばかりである。
「『神殿』遺跡……ねェ……。
『お城』なら判るけど、『神殿』って?」
ジラはサティに訊ねた。
魔法暦以後、唯一大陸では、神を仰ぐ事をしない。
故に、彼女には神殿を造る意味が、今一つ理解出来ない。
「神殿は、神を祀る所です。
ここで祈祷や誓願を行ったのでしょう」
「だったら、どうして僻地に?
困った時に、お祈りしたり、お願いしたりするなら、身近な所に建てた方が良くない?」
「旧暦では、もう少し交通の便が良い場所だった……にしても、市街から離れ過ぎていますから、
これは恐らく、神聖な物は俗世には置けないと言う、『畏れ』の精神が関係していると……」
「へー」
然して興味無さそうに、ジラは相槌を打つ。
説明するサティにも、本当の所は、よく解らない。
所詮は、他人の受け売りの知識である。
2人は前庭を抜けて、本殿に近付いた。
その儘内部に立ち入ろうとするサティを、ジラは呼び止める。
「サティ!」
静かな神殿に高い声が響き、梁の上から、カラカラと欠片が落ちる。
サティは足を止め、ジラの方に振り返った。
「……危なくない?」
何百年も放置された神殿は、何時崩落しても可笑しくない老朽化具合。
威圧感溢れる巨大さと、頭上から覆い被さる様に掛かる影が、倒壊時の恐ろしさを、
どうしても想像させてしまう。
サティは黙ってジラの元に引き返し、小声で囁いた。
「お静かに……。
なるべく大きな音を立てず、そっと歩けば、大丈夫です」
「そ、そう?」
余りに真剣にサティが断言したので、ジラは頷く他に無かった。
サティは軽く宙に浮いて、全く音を立てず、本殿の中に侵入する。
サティの後に続いて、恐る恐る内部に立ち入ったジラは、正面扉を潜ったと同時に、
不思議な安心感に包まれた。
見る者を圧倒する外観とは、正反対の印象。
所々抜けた天井から差し込む陽の光すら、彼女には神聖な物に感じられた。
これは神殿に仕掛けられた、魔法陣の効果である。
魔法が未発達な時代に、人の手で造られた物が、何百年経過した現在でも、生き続けているのだ。
強固な魔法結界が、建物と人を守る構造は、現代の建築様式と共通する。
その事に、ジラは感じ入っていた。
時を越えて、今と旧暦を繋ぐ、魔法の歴史。
人類の叡智、魔法は、確かに受け継がれている。
しかし、壁や天井の崩れた部分から、雨風が吹き込むので、外観程ではないにしても、
内部の保存状態も良いとは言えない。
精巧だったであろう彫絵も、恐らくはエレム語で書かれていた文字も、今は擦れて読み取れない。
遠からず、魔法の効果は失われるだろう。
相当な文化的価値があるのに、朽ちて行くだけなのは惜しいと、ジラは思った。
そして、サティも同じ事を感じているのではないかと、彼女の方を見た。
サティは壁や床を見て回り、解読出来る文字が残されていないか、探している所だった。
何をするにも予習を欠かさないサティは、神殿遺跡の一般資料を予め用意していた。
大体、サティにも読める様な文字は、過去の研究で既に解読済みである。
それでも「百聞は一見に如かず」を地で行くサティは、「やってみなくては分からない」と熱心に、
資料を片手に解読を試みる。
だが、300年を超す時の流れは、無情にも神殿の内部まで風化させ、当時読めていたであろう、
殆どの文字は解読出来なかった。
サティは天井近くの文様も確認したが、やはり彼女に読める様な文字は無かった。
心測法が使えれば、過去に遡り、失われた往時の姿を知れただろうが、流石のサティも、
知らない呪文は唱えられない。
彼女は歯痒い思いをしながら、事実だけを確認し、魔法紙に記録する。
有りの儘を記す、記憶の魔法で。
記憶の魔法は、その時の出来事を呪文に変換し、印し残す物。
解読呪文を唱える事で、保存された情報を再現出来る。
魔法書に多く用いられている技術だ。
かなり難易度の高い部類に入る魔法だが、情報を正しく記録出来ていれば、特殊な心測法を用いて、
記録された物の過去まで遡る事も可能。
過去に行われた、神殿遺跡の調査が、どの様な物か、詳細は魔導師でも知らない。
一般向けの書籍では、神殿の概要と、一部の彫絵、彫刻文字に解説が付けられているのみで、
調査に心測法は使われたのか、どの程度まで記録が残してあるのか、不明である。
歴史研究目的で、どうしても調査が必要になる事を証明しない限り、原資料に触れる事すら許されない。
こうした融通が利かない魔導師会の姿勢は、今に始まった事ではないし、辺境の民俗調査を主とする、
サティの現在の研究と、神殿遺跡の調査は、直接の繋がりを持たないので、
彼女が原資料に触れられないのは、仕方の無い事である。
しかし、公式には調査は一度限しか行われておらず、当時は現在程、共通魔法が発達していなかった。
記憶の魔法にしても、心測法にしても、現在の物と比して、正確性、その他の性能で全面的に劣る。
施設の状態保存は無理でも、更なる情報収集の為に、追加調査を行わなければ、
貴重な旧暦の文化を知る手掛かりを、無為無策に放置したとして、怠慢との謗りは免れない。
だが、魔導師会をフォローする意識はサティには無く、彼女が魔法紙に記録を印しているのは、
自分なりに旧暦の情報を集める上で、それが必要と判断したからに過ぎない。
サティの魔導師会に対する忠誠は篤く、彼女は独断で「魔導師会の為に」動く事を、僭越だと考える。
今、描き印している魔法紙を、自ら魔導師会に提出する事は無い。
サティは20枚余りの魔法紙を、書類鞄に仕舞い込むと、ジェスチャーでジラに退出する旨を伝える。
左手で自分の胸を押さえ、右手で出口を指差す(余談だが、左手を自分の胸ではなく人に向けると、
『出て行け』になる)。
ジラも特に用と言える用があった訳ではないので、サティと共に本殿から出た。
外に出ると、太陽が眩しい。
ジラは目を伏せて、サティに訊ねる。
「気は済んだ?」
ベールを被ったサティは、明るさの変化に強い。
真っ直ぐ前を見て、短く答える。
「ええ」
「新しい発見とか、あったの?」
「いいえ」
相変わらず、サティの返事は素っ気無い。
「まあ、そうだよね。
所で、魔法で紙に何か描いてたみたいだけど……?」
ジラにも一応、監視役としての任務がある。
サティが隠し事をしていないか、確かめねばならなかった。
余計な誤解を生まない為に、サティは素直に答える。
「彫刻を記録していました。
後で何か判るかも知れませんし」
「御覧になりますか?」と言って、彼女は複雑な文様が描かれた魔法紙を、ジラに手渡した。
ジラとて魔導師、それも執行者である。
一目で、それが記憶の魔法を使って描かれた物だと理解した。
「読んでも良い?」
「汚さないで下さいよ」
ジラは解読の呪文を唱え、記録を起こす。
神殿の壁に描かれた彫絵の、克明な映像が、ジラの脳裏に浮かんだ。
問題無いと判断したジラは、全ての魔法紙を確認する事はせずに、サティに返す。
「有り難う」
「いえ」
ソーダ山脈を越えて帰る途中、遺跡に立ち寄った。
何と言う事は無い、普通の一日だった。
魔法暦500年1月19日付ティナー日日新聞 コラム欄より
停滞期を終わらせるために
魔法暦500年を迎え、2月1日にティナー市長選が行われる。
世論調査では、現行保守派のミッター・プロスター氏と、改革急進派のファイン・スタック氏の、
一騎討ちになると見られている。
だが、得票予想ではミッター氏がファイン氏の2倍近い票を得て、圧勝するとの結果が出た。
ファイン氏のフルネームは、ミッター・ファイン・アロー・スタックで、実は両氏は同名の候補である。
ファイン氏は、既に名の知られたミッター・プロスター氏に、「ミッター」の名を譲った。
このままでは、市長の座も譲る事になるだろう。
改革急進派を名乗るファイン氏は、市民を説得できるだろうか?
現状を見る限り、それは望み薄に思われる。
平穏期からの景気の悪化によって、市内の犯罪は増加し、それが規制の強化と厳罰化を呼ぶ、
負の循環。
これは魔法大戦が始まる前の、旧暦末期の状態に、よく似ている。
現状に危機感を覚え、大胆な改革が必要とするファイン氏の主張は、それが上手く行くかは別として、
間違ってはいない。
しかし、改革は性急過ぎると批判する識者を、冷笑主義者と糾弾する彼の演説姿勢には、
大きな誤りがある。
市民の間には、停滞を受容する雰囲気がある。
それを、緩やかな死を呼ぶ甘い囁きと受け取るか、我慢強く漸進しながら静かに機を窺う、
忍耐の時と受け取るかは、人によりけりで、どちらの未来にも転がる可能性を秘めている。
「どうせ改革は失敗する」と嘲ける冷笑主義者は確かに存在するが、だからと言って、
一切の反論を冷笑主義と突き放すファイン氏の態度は、賢明とは言えない。
理解を得ようとする努力をしない者こそ、真の冷笑主義者なのだ。
大上段に構えるのではなく、懇々と改革の必要性を説き、目的を達成するためなら、
時には回り道をする強かさが、為政者には欠かせない資質だろう。
市民と危機感を共有し、支持を集める事から始めなければ、改革派に保守派への不信感を植え付け、
禍根を残すだけに終わってしまう。
それが氏の目的ならば、最早何も言う事はできない。
一方で、ミッター・プロスター氏にも、心に留めて欲しい事がある。
ファイン氏に期待する市民は、全有権者の5分の1を占めると見られている。
同氏に賛同はできないが、旧態依然とした政策は認められないと言う市民も多い。
市民の意識は、「現状維持」ではなく、「現状改善」にある。
これを勘違いしてはならない。
得票予想は統計に過ぎず、この結果を受けて、これから市長選までの10日間に、
風向きが変わらないとも限らない。
仮にミッター・プロスター氏が当選しても、任期中に市民が期待する通りの改革を進められなければ、
次期選挙で保守派は、勢いを増した改革派に圧されるだろう。
ティナージョーク
ティナー市民に冷笑主義の気があるのは、今に始まった事ではない。
復興期の頃は、そうでも無かったが、開花期からティナー市に出入りする人の動きが活発になり、
本格的に流通の中心地として機能し始めると、都市部で皮肉を交えたジョークが流行した。
そして市民同士で、如何にして上手い事を言うか、頭の回転の速さを競う様になった。
他愛無い駄洒落から、音韻合わせ、造語――異文化と触れる機会の多かったティナー市民は、
柔軟な思考で、次々に言葉を生み出した。
ティナー市民の真似をしたければ、取り敢えず「比喩」を使うと良い。
乗りが良いティナー市民は、ジョークとして滑っていても、快く拾ってくれる。
但し、都市部に限る。
田舎では、小癪だと思われ、嫌われる傾向にある。
譬え話をする時は、故事を引くより、卑近な例を出す方が好まれる。
例:自ら動かない人を指して
「彼は犬の様だ。
命令があるまで動かない」
「犬なら言う事を聞いてくれるだけ、未だ良いさ。
彼は何かと理由を付けて怠けようとする」
「怠け者の犬だな」
「熊が必要だ(※)」
※童話より。
この場合、熊=怖い上司。
アイロニーター
アイロニーターとは『鉄食い<アイロン・イーター>』の事であり、『錆獣<ラスト・モンスター>』の一種。
金属を溶かして食べる害獣である。
同類に、ジュエルイーター(宝石食い)、ストーンイーター(石食い)が存在する。
体長は1身(尾の先まで入れると2身近く)で、洞窟を掘って棲み処とする。
夜行性で、暗所を好み、夜になると巣から出て、徘徊する。
アイロニーターの巣は、人が歩いて入れる程大きく、その中で群れを形成している。
分類では、爬虫類に入るが、害獣なので妖獣と呼ばれる事もある。
旧暦には存在が確認されておらず、魔法大戦以降に発生したと見られている。
トカゲとカメの中間の様な外見で、金属を食す事から鈍重と思われ勝ちだが、手足が不気味に長く、
虫の様な這い方をし、素早くはないが、器用に立ち回る。
その奇怪な姿は、宇宙生物ではないかと、噂された程。
目は退化しており、動く物を捉える程度の働きしかせず、その代わりに発達した嗅覚と、
顎の鱗が変化した4本の長い触角を使い、臭いと振動で物を探知する。
食した金属が鱗・骨・爪を構成する為、全身が硬いが、熱・電気等をよく通す。
その為、夏に陽の当たる場所に出ると日射病で死に、冬は寒い所に居ると凍死し、
雷雨の日は巣から外に出ない。
臆病な性質で、外敵に遭遇すると硬直し、接近されると触角を振って威嚇しながら後退し、
攻撃されると臭い強酸を吐いて反撃する。
勿論、金属だけを食べている訳ではなく、原石と共に口に含む、土中の有機物、
その他の養分を摂取している。
酸で溶かした物を啜る習性もある事から、性質的には雑食。
小さく円らな瞳、長い手足、全身を覆う『板金鎧<プレート・アーマー>』の様な鱗、髭の様な触角は、
一見気持ち悪がられるが、よく見ると中々愛嬌があり、物好きな共通魔法使いの中には、
これを使い魔にする者も居る。
鱗は食した鉄の種類によって変色し、それなりの頑丈さもある事から、養殖もされている。
アイロニーターの棲息地は、ブリンガー地方とボルガ地方。
人が滅多に足を踏み入れない山の中に、少数の群落が確認されている。
アイロニーターが居る場所には、鉱脈があると言われ、開花期には『鉱山掘り<ディガー>』が、
アイロニーターを探す姿が、よく見られた。
アイロニーターの中でも、金色のアイロニーターはゴールドイーターと呼ばれ、金鉱の目印とされていた。
他に、赤銅を食べるカッパーイーター、黒銀を食べるシルバーイーターと呼ばれる物もあり、
熟練の鉱山掘りは、アイロニーターの微妙な体色の違いから、その土地の地質を知る事が出来た。
しかし、貴重な鉱石を食べる事から、アイロニーターは鉱山掘りには嫌気され、加えて、
その鱗や爪には利用価値があるので、魔法暦200年頃には濫獲の為に、絶滅の危機に瀕した。
後に、需要を満たす為に、養殖される様になり、使い魔としても飼われ始め、
現在では保護動物に指定されている。
※鉱山掘り
開花期当時は、「鉱山夫」、或いは「鉱夫」と言っていたが、平穏期からは男女を区別しない様に、
「鉱山掘り」、「鉱員」が一般的になった。
金食い虫
ブリンガー地方ディアス金鉱
ディアス平原は金鉱石が採れる土地として、開花期から有名な場所である。
魔導師会は、魔法で石や土から貨幣を製造しており、金の使い途は、一部の製品と装飾品に限られる。
その安定性と美しさから、旧暦では権威の象徴だったり、国家間での取引に使われていたりしたが、
魔導師会が唯一大陸を掌握してからは、宝石類の一つに過ぎなくなった。
それでも金の魔力に惹かれる者は多く、ディアス平原は金を巡る様々な争いが、
絶えなかった土地でもある。
このディアス平原にも、アイロニーターが棲息していた。
土地の豊かなブリンガー地方の中で、ティナー地方に近いディアス平原は、比較的痩せた土地で、
年中乾燥しており、大型生物が少ない。
その為、アイロニーターは天敵の居ない土地で、大繁殖していた。
しかし、ディアス平原に金を求めて集まった人々は、「金食い虫」のアイロニーター、
事ゴールドイーターを濫獲し、巣を見付けては荒らして、絶滅の危機に追い遣った。
現在、ディアス平原には、野生のアイロニーターは生息していない。
代わりに、ブリンガー地方東部、ソーダ山脈に棲息するアイロニーターを持って来て、
養殖用に飼育している。
拝啓 プラネッタ・フィーア様
秋の終わりが近付いて、冷たい風が、小雪を運ぶ様になりました。
私は現在、ブリンガー地方ディアス市に滞在しています。
ここは金の産地と言う事で、お土産には何か、それに関連する物をお贈りしたいと思います。
余り期待せずに、お待ち下さい。
私の3年に亘る旅は、ここで最後となります。
これまで我が儘な請願を聞き入れて頂いたプラネッタ先生には、感謝の言葉もありません。
帰郷の折には改めて、御礼申し上げます。
敬具
11月22日 サティ・クゥワーヴァ
アイロニーター養殖場にて
サティ・クゥワーヴァの最後の旅は、ディアス平原。
開花期の初めに金鉱が見付かるまで、殆ど人が訪れなかった不毛の地には、
開花期までの歴史は無に等しい。
白暦から復興期の民俗調査が目的なら、先ず訪れる必要が無い所である。
このディアス市で、サティ・クゥワーヴァは、アイロニーターと金に纏わる伝説を聞いた。
アイロニーターは、その性質から、滅多に人前に姿を現さない珍獣で、余り知名度は高くなかった。
旧暦に存在していなかった生物だった事もあり、ディアス平原でアイロニーターを発見した者は、
大層驚いたと云う。
最初の発見者は、金を求めてディアス平原を訪れた、商人だったと云われている。
金の輝きを持つアイロニーターに付けられた、初期の名前には、『金のリクガメ<オーレア・テストード>』、
『金トカゲ<オーレア・レチェルタ>』、『金竜<オーレア・ドラコ>』と、何れも金色を意味する語が見られる。
これがゴールドイーターと呼ばれる、アイロニーターの亜種だと判ったのは、開花期になってから
(正確には、時系列的にはゴールドイーターの方が後付けで、当初ゴールドイーターは、
アイロニーターと同属の別種だと思われていた)。
ディアス平原のヒロック(小さな丘)に見られる、アイロニーターの巣では、金鉱石が採れた事から、
旧暦の伝承にある『竜<ドラゴン>』(財宝を巣に貯える性質を持つ)と関連付けられ、金を貯える竜として、
周辺地域で噂になった。
既に、ディアス平原は砂金が採れる場所として有名だったが、アイロニーターの巣から、
金鉱石が採れると判ると、人々はアイロニーターの巣を狙う様になる。
しかし、アイロニーターは巣に侵入する者があると、酸を吐いて攻撃を仕掛ける為、
安全に金鉱石を採るには、アイロニーターを倒さなければならなかった。
金色をしたアイロニーター自体にも、それなりの価値があった為に、ディアス平原のアイロニーターは、
欲に塗れた人の手によって、悲惨な運命を辿る事になる。
濫獲――。
アイロニーターを倒す為に、人は知恵を絞り、手を尽くした。
巣に毒を流し込んだり、爆弾を放り込んだり。
そうして発見された最も有効な手段は、巣穴に火を放って、高温で蒸し殺す事であった。
巣への放火は、確かに採掘作業を安全にしたが、アイロニーターの成体ばかりか、無抵抗な幼体、
卵まで殺す事になる為、ディアス平原のアイロニーターは、10年と経たない内に激減した。
それは濫獲と言うより、無分別な駆除と言った方が相応しい。
ゴールドイーターが、アイロニーターの一種と認識される様になると、その生態から「金食い虫」として、
益々駆除が盛んになる。
結局、ディアス平原のアイロニーターが絶滅するまで、駆除活動が止む事は無かった。
現在では、「保護意識の欠如」、「過当対処」の代表例として、批判的に取り上げられる事が多い。
旧暦の伝承にあるドラゴンは、財宝の守護者だった。
アイロニーターは、財宝を守る為に洞窟に棲んでいるのではなく、アイロニーターが掘った穴が、
偶々金鉱だっただけなのだが、開花期の初め頃までは、ドラゴンと同一視されていた。
旧暦のドラゴンとは、人間にとって、一体どの様な存在だったのか?
それが覗える旧暦の伝承の一に、「ツメイヤの竜」と云う話がある。
――ツメイヤ(※1)の悪竜は、年に一度、村を襲い、略奪の限りを尽くす。
その塒には、村から奪った財宝が貯えられている。
村の勇士が何度も竜退治に出掛けたが、誰一人帰って来なかった。
悪竜の噂を聞き付け、村の外からも、何人もの勇者が挑んだが、誰も竜を退治する事は出来なかった。
やがて悪竜ツメイヤ(※1)の名は、遥か遠い国にまで知れ渡り、これを倒した者こそ真の勇者であると、
実しやかに囁かれる様になった。
しかし、誰も悪竜を止める事は出来なかった。
ある年の事、グリース(旧暦の国名)の男がツメイヤ(※1)を訪れた。
村の様子を見た男は、宿で晩飯を食べながら、主人に訊ねた。
「この村は、どうして寂れているのだ?」
宿の主人は答えた。
「毎年、ツメイヤの悪竜が、村を襲うのです。
何度立て直しても、その度に襲われるので、村人は疲れています」
それを聞いた男は、こう言った。
「その悪竜とは、夜の翼に、鉄の鱗、燃える足を持つ、巨人の竜(※2)か?」
宿の主人は頷いた。
「そうです。
あなたも噂を聞いて来たのですね。
悪い事は言いませんから、諦めた方が良いですよ」
彼から忠告を受けた男は、笑った。
「それなら、もう退治してしまった」
だが、男は酒に酔っていたので、誰も彼の言う事を信じなかった。
男が村を去った後、ツメイヤの竜を退治しに、グリースから別の男が来た。
この男は、村人の一人を証人として雇い、竜退治に出掛けた。
しかし、ツメイヤの竜は既に、何者かに退治された後だった。
血溜りに倒れた悪竜の喉は、大きく一文字に切り裂かれていた。
一体誰が、ツメイヤの悪しき竜を倒したのか、村中で話題になった時、宿の主人が、
前にグリースから来た男の仕業ではないかと言った。
村の人々は、竜を退治した、グリースから来た男を探した。
その後、多くの者が「自分が竜を退治した」と名乗り出たが、誰も宿の主人が憶えている者とは違った。
村の人々は、「グリースの男(※3)」を英雄として称え、宿の主人の記憶を頼りに、勇者の像を立てた。
※1:ハイエル語の原文直訳。
ツメイヤは地名なのか、竜の名前なのか、今一はっきりしない。
人名、種名の可能性もある。
※2:夜の様に黒い翼、鉄の様に硬い(或いは鉄の様な鈍い銀色の)鱗、燃える様に赤い足の意味。
ハイエル語に限らず、古代語は暗喩が多い。
巨人の竜も、巨大な竜と訳した方が自然。
しかし、記述の通りだとすれば、多少の誇張表現を認めても、自然界では余り見られない、
奇怪な配色である。
※3:後の神聖十騎士のランスベアラー、或いはジェネラルとも言われる。
両者共に、若き日の武勇伝に、竜退治がある。
元は無関係な民間伝承に、英雄の存在を故事付けたとの見方も出来る。
この様に、旧暦ではドラゴンは悪しき物、人の手には負えない災いの権化として、扱われていた。
アイロニーターは旧暦の悪しき物と重ねられ、誤った英雄的行為と対抗心の下に、駆除されたのである。
――所で、「ツメイヤの竜」には、未だ続きがある。
竜に奪われた財宝は、当然村の物になると思われていたが、グリースの地方領主が所有権を主張して、
接収に乗り出した。
理由は2つ。
1つは、竜を退治したのは、グリースから来た男だった事から。
もう1つは、竜はグリースの領民も襲っていた事から。
しかし、財宝の大部分は、村から略奪された物であった。
双方共に、財宝は自分達の物だと言って聞かず、この取り分を巡って、グリースの地方役人と、
村民との間で、激しい抗争が始まったのである。
地方領主の私兵隊とは言え、
……村の独立が保たれていたのは、ツメイヤの竜が居たからである。
ツメイヤの竜は、確かに村に災いを齎す存在だった。
竜が居なくなれば、村に平和が訪れる予定だったし、それを誰も疑わなかった。
しかし、実際は新たに悪辣な者が現れ、村民を脅かした。
竜が居た頃に比べれば、幾分増しとは言え、それは村の誰もが望んだ結末ではなかった。
幸い、地方領主の暴走を見兼ねたグリース国王が、この争いの仲裁に入った事で、
財宝は正しく分配され、劣勢だった村側は財産権を保つ事が出来た。
この一件で、地方領主は罷免され、村はグリースの保護下に入る。
話を開花期のディアス平原に戻そう。
金鉱を守るアイロニーターが減ると、今度は人間同士の争いが激化し始めた。
ディアス平原はブリンガー地方にあるから、ここで採れた金はブリンガー地方の財産だと、
ブリンガー地方統治府(現・ブリンガー地方代表者会議)が主張すれば、否々、
ディアス平原は正確には複数の地方に跨っているし、発見者の中にはティナー市民も居たので、
我が方にも管轄権が発生すると、ティナー地方統治府(現・ティナー地方都市連盟)も訴える。
地方の対立を背景に、現地での小競り合いは、都市同士の小規模な抗争、自治法を利用した報復へと、
無秩序に拡大して行った。
最終的には、魔導師会が介入して場を収めたが、これは逆に言えば、当時強い影響力を持っていた、
魔導師会の存在が無ければ、更に対立が深まって、取り返しの付かない大抗争になる可能性があった。
「ツメイヤの竜」の話と、金を巡ってディアス平原で起こった事の顛末は、旧暦と魔法暦で、
人は大きく変わる物ではない事を表している。
尚、完全に余談ではあるが、グリースは神聖魔法使いが統べる国で、グリースの国家代表は、
神聖十騎士が一、シールドベアラーのリジェリアー家が、代々務めていた。
国家代表は施政者の任命と解任を行うが、その殆どは議会の追認であり、冠を戴くだけの存在だった。
その為に、議会で強い発言権を持つ、上級貴族の横暴が罷り通っていた。
しかし、後に神王の座に就く、クロトクウォース・アルセアルの登場で、事情は一変する。
彼が神王として正式にジャッジャスの名を受けると、グリース国王は王の名を取り下げ、
グリース王国はグリース公国と国名を改めた(正確には元に戻した)。
>>454 ――所で、「ツメイヤの竜」には、未だ続きがある。
竜に奪われた財宝は、当然村の物になると思われていたが、グリースの地方領主が所有権を主張して、
接収に乗り出した。
理由は2つ。
1つは、竜を退治したのは、グリースから来た男だった事から。
もう1つは、竜はグリースの領民も襲っていた事から。
しかし、財宝の大部分は、村から略奪された物であった。
双方共に、財宝は自分達の物だと言って聞かず、この取り分を巡って、グリースの地方役人と、
村民との間で、激しい抗争が始まった。
村民と戦ったのは、地方領主の私兵。
彼等は荒事を得意とする賊崩れで、村民は苦しい戦いを強いられた。
……村の独立が保たれていたのは、ツメイヤの竜が居たからである。
ツメイヤの竜は、確かに村に災いを齎す存在だった。
竜が居なくなれば、村に平和が訪れる予定だったし、それを誰も疑わなかった。
しかし、実際は新たに悪辣な者が現れ、村民を脅かした。
竜が居た頃に比べれば、幾分増しとは言え、それは村の誰もが望んだ結末ではなかった。
幸い、地方領主の暴走を見兼ねたグリース国王が、この争いの仲裁に入った事で、
財宝は正しく分配され、劣勢だった村側は財産権を保つ事が出来た。
この一件で、地方領主は罷免され、村はグリースの保護下に入る。
一度推敲を始めたら終わるまで閉じない事。
途中の場合は後で判る様にする。
ファイの地
この世界をファイセアルスと言うが、Fai-Se-Als(表記揺れFai-Seals/Fai-Se-alls他)
=ファイの地とは、正確には唯一大陸の事である。
この星の主な陸地は、唯一大陸しか無かった為に、ファイセアルスは世界と同義になった。
現在では区別の為に、「唯一大陸」は唯一大陸のみ、「ファイの地」は全ての地上、
「ファイの星」は天体を指す時に使われる。
単に「ファイの地」と言った時、その範囲は広く、人が住める平地だけを言う事もあれば、
時に海底や海面を含む事もある。
現在の「ファイの地」の意味は、「自分達が暮らしている世界」、「自分達の認識・支配が及ぶ世界」。
より口語的に、含みを持たせて、「我々の地」と訳される事が多い。
天文学
ファイの星は月との距離が近く、一日の間でも地上の重力が数厘単位で変動する等、
月の影響が非常に大きいので、旧暦から天文学は発達していた。
潮の満ち引きも激しく、干潮時に出来る干潟は急勾配ながら数通(時に数区)に及び、
波は高く大きく畝る。
海洋への進出を試みるには、月の影響を見定める事が先ず欠かせなかった。
その為、本星が空に浮かぶ数多の星々と同じく、無数にある天体の一つだと、旧暦の人々は、
早くから認識していた。
魔法が発達する前から、一般常識として、太陽の周りを本星が周っており、
本星の周りを月が回っていると言う、衛星の関係が知られていた。
月の直径は本星の約3分の1で、太陽の直径は本星の約70(より正確には73)倍である。
月は魔法に及ぼした影響も大きい。
月が近付く時は、昼夜に拘らず、重力の減少と共に、地上の魔力が増加する。
個人差は大きいが、多くの者は魔法資質も高まり、魔法の成功率が上がった。
魔法資質が高い者には、月の魔力を受けて、測量魔法で直接、月と本星との距離を測れる者も居た。
高度と気圧と気温の関係から、空の上は空気が薄くて寒い事も判っているが、実際に、
宇宙空間に飛び出した者は存在せず、絶対零度の真空間だと予想はされているが、
それを身を以って確かめた者は居ない。
月
空に浮かぶ巨大な月は、魔法資質を高めた為に、神秘的な物として扱われた。
しかし、旧暦の魔法使いには、魔法資質の高まりを実感して、気分が昂揚し、
暴走する者も多かった事から、月は人を惑わす悪い物との認識が拡がった。
一部地域では、月が最も明るく、長く見える夜を、「狂い月」と呼び、外出を禁じる風習もあった。
日中も月の影響力は変わらない事から、昼夜を問わず、月が見える時に凶悪な事件を起こした者は、
「月に囁かれた」と言われた。
多くの魔法儀式は、人目に付かず、且つ魔法資質が高まる、月の日の夜に行われたが、
魔力が最も高まるのは、月と太陽が共に出ている時、即ち、日食の時である。
月が大きく見える為に、ファイの星では、部分日食を含めると、多い年には月に1度以上の割合で、
日食が発生する。
唯一大陸では、その内の半分、2月に1度は日食が見られる。
言語
現在、ファイの地で公に使用されている言葉は、標準語と言われる物で、唯一大陸なら、
何処でも通じる。
この「標準語」は、古代エレム語が変化した物と考えられている(一説には類似のハイエル語とも)。
復興期までは、エレム語を基にした混成語(所謂ピジン語に相当する)で、各地方民は交易していた。
独自の言語は混成語の中に存在するのみで、同郷の者でも、この混成語で会話していた。
共通魔法の伝達と共に、公学校教育によって、標準語が定められ、浸透して行くのだが、
しかし、混成語の名残は、地方独自の文化として各地に根付き、現在でも標準語に混じって、
混成語を使う者は未だに多い。
混成語は、暗語、隠語として使われる事もある。
それでも大体の意味は通じるので、特に混成語を矯正する動きは見られない。
未来の話
第一魔法都市グラマー ニール地区魔法刑務所 封印塔にて
封印塔の最上階にある一室で、魔法暦1000年からの訪問者、イクシフィグ・ヴァルパド・コロンダは、
八導師親衛隊アクアンダ・バージブンに、未来の話をしていた。
イクシフィグの語る魔法暦1000年では、次の様な事が起こっている。
魔法暦600年の何時頃か、唯一大陸の南西に新大陸が浮上する。
唯一大陸は、アラジン大陸と名を変え、新大陸を第2の大陸として、デン大陸と名付けた。
イクシフィグが言うには、このデン大陸には、「別の進化」を遂げた、新人類が棲んでいたと言う。
魔法暦632年に、アラジン大陸とデン大陸の間で、アラッデン戦争が始まり、たった数年間で、
両大陸が変形する程の、激しい戦闘が繰り広げられた。
街が消滅する等して、指導者を失った両大陸は、惰性で戦争を続けたが、次第に人々は疲れて行き、
戦闘は徐々に小規模化。
その後、都市の独立、部分的な和平交渉、海底国家の出現等、幾つもの出来事が起こり、
魔法暦701年に戦争は完全終結。
以降、魔法暦1000年まで、平和が続いている。
魔法暦1000年では、魔法は失われた技術扱いで、市民の生活に魔力は一切利用されていない。
イクシフィグが魔法の実在を疑う事から、共通魔法の技術は、一部で極秘裏に伝承されているか、
或いは、途絶えてしまったと見られる。
誰でも扱える事が、共通魔法の最大の長所だったので、誰にも伝えられず失われるとは考え難い。
魔力不足が解決されない儘、新大陸の浮上、戦争、人口の増加によって深刻化し、
誰も魔法が使えなくなった可能性がある。
魔導師会は大陸同士の戦争の影響で壊滅したか、そうでなければ、世界規模の魔力変動で、
魔法が使い物にならなくなり、解散したか、地下に潜ったか、何れかと思われる。
また、イクシフィグも含めて、一般人はAnno Sors(A.S.)が『魔法暦』を意味すると知らず、運命の年、
予言の年と理解して、『天暦』と呼んでいる。
未だ学生の身分と称するイクシフィグが、一部の常識的、或いは専門的な知識を欠いている可能性は、
十分に考えられる。
未来の事を語る際に、彼自身、歴史に余り詳しくないと白状しているし、歴史事件の年号も、
それが正しいか自信が無い様である。
彼が知らないだけで、未来でも魔導師会は存在しているかも知れないし、何処かで共通魔法の技術が、
生きているかも知れない。
ただ、彼が知らない程度には、魔法は一般的な物ではなくなっている。
イクシフィグが語るに、魔法暦1000年では、魔法の替わりに、熱機関・電動機関が使われている。
『燃える水<エフレクタ・ネロ>』と呼ばれる可燃性の液体、光を閉じ込める『鏡の箱<レイズ・パーチ>』、
電気を貯える『電気石<ベルク・ゼルカン>』が、動力源に用いられる。
それぞれ略して、エフ水、パーチ、ゼル石と呼ばれている。
熱電光変換技術は、魔力を利用した物に比べると劣っていると思われる。
先端技術には、電磁波信号も使われている。
現在でも、熱機関は一部ではあるが使われているし、電動機関に必要な電気理論も完成している。
しかし、万能と言える魔法の存在があるので、これ等が主流になる事は無い。
一応、魔導機の技術を応用して、研究だけは進められている。
これが受け継がれ、後の熱電光技術の発展に貢献した可能性は高い。
唯一大陸に続く、第二の大陸の出現、そして大陸が変形する程の戦争が起こると聞いたアクアンダは、
深刻な表情をしていた。
その時――魔法暦600年まで、後100年幾らか。
海中から突然、人が住む新大陸が浮上するとは、俄かには信じ難いが、それを言ったら、
唯一大陸の誕生も似た様な物である。
100年は、長い様で短い。
自分は既に逝去していても、孫の代は当事者となるであろう。
彼女は戦争開始の理由を、イクシフィグが知らないのが、何より恐ろしかった。
新大陸からの先制攻撃だったかも知れないし、逆に、こちらが仕掛けた結果かも知れない。
判断するのは自分ではないと、解ってはいても、心を砕かずにはいられなかった。
「未来は全て織り込み済みで訪れる」と八導師は言った。
定められた未来に至る運命は、変えられないと言う事か、それとも別の意味があるのか、
アクアンダには解らない。
イクシフィグの未来と、この世界の未来が違う物であり、新大陸が浮上しない事を祈るばかりである。
時間と空間
D禁断共通魔法の研究者、リャド・クライグ博士は、時間と空間を操る魔法の専門家である。
彼は空間の構成要素、『広がり』に干渉する方法、D(dimension)理論を完成させた
(D理論の研究自体は、開花期から続けられていた物であり、リャド博士一人の手柄と言う訳ではない)。
D理論では、空間の『広がり』を操る事で、『無』の空間を拡げたり縮めたり出来る。
この『広がり』に干渉する際、時間が動く。
『広がり』を大きくすると、時間の流れが遅くなり、逆に小さくすると、時間の流れが速くなる。
それは一時的な物で、周囲の空間が『広がり』の変化に馴染むと、時間の流れは元に戻る。
リャド・クライグの妻、カリュー・クライグは、魔法実験の失敗で、無限に『無』を生み出し続けている。
D級禁断共通魔法を利用した転送技術は、『無』を削って物を移動させ、然る後に、『無』を復元する。
よって、中間に障害物がある場合、それを避ける事が出来ない。
これを解消する為に、物体を粒子レベルまで分解して転送し、その後に再構築するが、
構造が複雑な物は、再構築に多大な魔力を費やすので、現実的な運用はされていない。
但し、文書等の転送は既に実用レベルにある。
これを利用した、遠隔発動(描文)と言う技術も存在する。
このD理論の応用技術に、小人化、巨人化があるが、人体への負担が大き過ぎる為に、
先ず使われない。
若返りの魔法は、厳密には時間と関係が無く、D級禁断共通魔法には含まれない。
ある時の『状態』を記憶し、魔法によって経時変化を取り除いて、その『状態』に戻す為である。
管轄としては、どちらかと言うと、B級禁断共通魔法の部類に入る。
カリュー・クライグ
カリュー・クライグ(旧姓ワラクレア)は、元はリャド・クライグの助手で、彼と共に象牙の塔に赴任した、
言わば同期の間柄である。
2人が結ばれたのは、自由恋愛ではなく、魔法実験の失敗(正確には不慮の事故)に巻き込まれた、
カリューの責任をリャドが取る形での婚姻であった。
互いに憎からず思っていたにせよ、それは良い出来事とは、とても言えない。
それが証拠に、結婚に至った経緯を語る際、2人は必ず言う。
「出来れば、違う形で結ばれたかった」と。
カリューはリャドの妻となった後、研究助手の立場から退いた。
それはリャドの配慮だった。
現在、リャド・クライグの助手を務めているのは、彼の元教え子の、ウィルク・マクス・ストーヴスと、
ベルータ・マリアン。
教え子の中でも、取り分け優秀……と言う程ではないが、探究心の強い、良き生徒であった2人である。
カリューは夫のリャドに対して、秘密にしている事がある。
彼女は、自らの意思とは無関係に、無限に生み出される『無』を、ある程度利用出来る。
『無』の放出を抑えられない代わりに、その力を振るう術を身に付けたのだ。
一線からは退きはしたが、カリューの研究者としての魂は死んでいない。
空間を操る魔法に於いては、実用的な技術だけを取れば、実は魔導師会一と謳われるリャドより、
上かも知れない。
Abandon the past
ワーロック・アイスロン
父アークロック、母メーデウス(旧姓リシャン)、弟ロッデン、祖父ロックスター(元魔導師)。
彼は魔法資質は低かったが、それを補う向上心と克己心で、魔法学校上級課程にまで進学した、
秀才である。
しかし……――。
魔法暦496年 禁断の地にて
ラビゾーは暇が出来ると、よく独りになり、禁断の地の村から少し外れた所にある、
『大樹の丘』と言う場所に行って、遠くを眺めていた。
大樹の丘は、その名の通り、天辺に大きな1本の木が生えている丘である。
その木は、周囲の森の木に比しても、明らかに大きく、そして高く、遠くからでも判別出来るので、
森の中で方角を確かめ、村への目印にするのに使われる。
流石に、木々が天を覆う、森の深部――樹海では、目印にならないが……。
丘の大樹は高さ1巨もあるが、下枝は低い位置にあり、大人なら幹に足を掛ければ、
登れる様になっている。
子供でも、それなりに運動神経の良い者なら、容易に登れるであろう(降りられるかは別として)。
ラビゾーは大樹の丘に来ると必ず、この木に登って、3身程度の高さにある、
幹と言っても良い位に太い下枝に腰掛け、物思いに耽った。
それ以上の高さには、登れない事も無いが、少々足場が不安定。
高所恐怖症と言う程ではないが、臆病なラビゾーは、それより上に行けなかった。
ここに訪れる事を、ラビゾーは誰にも知られていない積もりだったが、村の者は大体知っていた。
ある日、何時もの様に、大樹の太い枝の上で、ぼんやり遠くを見詰めていたラビゾーに、
声を掛ける者があった。
「ラヴィゾール、そんな所で何してるのー?」
不意の出来事だったので、驚いたラビゾーは枝から落ちそうになったが、反射的に脇枝を掴んで、
何とかバランスを保つ。
ラビゾーが引き攣った顔で下を見ると、そこにはバーティフューラーが居た。
彼女は余程、慌てたラビゾーの顔が滑稽に見えたのか、笑いを堪えながら再び問う。
「ねえ、何か見えるー?」
「いえ、大した物は何も……」
「なぁにー?
聞こえなーい」
3身も離れていては、大きな声を出さないと届かない。
一々上を向いて叫ぶのが、煩わしくなったバーティフューラーは、女だてらにスカートの儘で、
木に登ろうとする。
「あ、危ないですよ!」
ラビゾーは止めたが、バーティフューラーは大人しく彼の言う事を聞く様な娘ではなかった。
木の枝や窪みに、器用に手を掛け、足を掛け、ラビゾーより上手に駆け上る。
そして、ラビゾーが腰掛けている下枝に、あっと言う間に到達した。
バーティフューラーはラビゾーに向かって得意顔をし、何と枝の上を歩いて近寄る。
彼女が一歩踏み出す毎に、枝の揺れが伝わり、ラビゾーは慌てた。
「危ないですって!」
集中しているバーティフューラーは、ラビゾーの注意には全く反応せず、とうとう彼の隣まで来て、
そっと並んで腰掛けた。
「どう?」とラビゾーの顔を窺う、バーティフューラー。
要らぬ心配だったと、ラビゾーは力無く息を吐いて、間抜けに空けていた口を閉ざす。
そして、視線を遥か彼方に戻した。
暫しの沈黙が訪れる。
「ねェ、何を見てたの?」
こうなった時、先に口を開くのは、決まってバーティフューラであった。
ラビゾーは答える。
「別に、何も……。
ただ遠くを見ていました」
遠い目をするラビゾーを真似て、バーティフューラーも遥か森の向こうに目を遣る。
空と交わる所まで、一杯に広がっている緑の海は、果てが無い様に思われる。
……だが、その向こうには、雨の降らない砂漠があり、更に向こうには、土地の痩せた荒野があり、
その先に共通魔法使いの街があると言う。
「ラヴィゾール、アンタは外から来たのよね……」
態々確認するまでも無く、既に知っている事を、バーティフューラーは尋ねた。
ラビゾーは静かに頷く。
「……戻りたいの?」
「分かりません。
ただ……」
「ただ?」
「この儘で良いのかって気はします」
「そう……」
そして言葉が失われ、2人は何を見るでも無く、遠くを眺めた。
時折、バーティフューラーはラビゾーを気にする。
ラビゾーにとっては、かなり気不味い時間だった。
こう言う時に、女子の相手をせず、黙っているのは良くない。
ラビゾーは間を持たせようと、ウェストバッグから小さなカードを取り出した。
「それ、何?」
興味を示したバーティフューラーに、ラビゾーは隠す事無く、それを見せる。
人の名前と住所が書かれた、小さなカード……。
「身分証です」
都市で使われる、身元証明書である。
バーティフューラーは、そこに書かれている文字を読み上げた。
「ワーロック……イセロン……地域・テイナー……街・エスラース……村・トック……?」
「ワーロック・アイスロン、ティナー地方エスラス市トック村」
ラビゾーが読み方を訂正すると、バーティフューラーは不思議そうな顔をして尋ねる。
「どう言う意味?」
バーティフューラーは愚鈍ではない。
予め身分証と言われていれば、それ等の文字列が、大体何を指しているかは想像出来る。
物を知らない振りをするのは、男を煽てる為だ。
賢く頼れる女を演じるか、か弱く守られる女を演じるかは、相手の好みによる。
彼女はラビゾーが求める理想像を読み取っていた。
しかし同時に、ラビゾーには本質に触れたがる、厄介な性質がある。
ころころ態度を変えると、却って怪しまれるので、明から様に媚を売る事は出来ない。
普段は強気に振る舞い、時々隙のある所を、飽くまで「演じて」見せる。
回りくどい真似をしなければならなくなったのは、元々は魔法で篭絡する積もりで、
初対面から安易に素で接したのが始まりだ。
狙った獲物を射止める為には、労力を惜しまないのが、バーティフューラーと言う女である。
ラビゾーと言う男が、労力に見合った価値を持つかは別として、彼女が彼を墜とす事に固執するのは、
魅了の魔法を使う者としての意地と言っても良い。
そんなバーティフューラーの思惑も知らず、ラビゾーは答える。
「『ワーロック・アイスロン』は名前、『ティナー地方』からは住所」
「誰の?」
バーティフューラーが問うと、ラビゾーの表情が曇った。
「……多分、僕の」
「アンタはラヴィゾールって――」
ラビゾーは静かに首を横に振る。
「それは師匠が」
バーティフューラーは心の内で、成る程と納得した。
『ラヴィゾール』、『良い名前』、彼が名乗りたがらない理由。
「じゃあ、『ワーロック』がアンタの本当の?」
「……多分」
「多分?」
「名前は師匠に取られてしまったので……」
この時バーティフューラーは初めて、ラビゾーの心に触れた気がした。
『ラヴィゾール』は偽りの名。
「記憶が無い……のとは違うのよね?」
「説明し難いんですけど……憶えてる事と、憶えてない事があるんです」
彼とって大切だった物は全て、意識から遠ざけられている。
それは一体どれ程の孤独だろう……。
ラビゾーの真実は外に繋がっていて、故に思い煩わずには居られないのだ。
バーティフューラーは、甘えた声でラビゾーに言う。
「ねェ、ラヴィゾール……外の事を教えてよ」
「え?」
「アンタは何時も寂しそうな顔してる。
誰かに話す事で、少しでも気が紛れるなら……」
バーティフューラーは、ラビゾーの心に開いた穴を埋める存在になろうとしていた。
それは困っている者の支えになりたいと思う、人として当然の感情の表れだったが……、
果たして、彼女の本心と言えるだろうか?
悩める心を利用して、自らに依存させようとする、悍ましい企みが無いと言い切れるだろうか?
自らを偽る者は、永遠に本当の心を知る事は無い。
バーティフューラーが真実に悩まされるのは、今少し先の話になる。
「アンタの心には、今も誰かが眠っているのね。
名前と共に奪われた儘、永遠に目覚めない想い人が……」
「何の事です?」
「……アタシを見て、ラヴィゾール」
「一体どうしたんです?」
「アタシ、どんな風に見える?」
「別に、何も変わった所は……」
「人はアタシに夢を見る。心の中の理想を、アタシに映して。
ねェ、ラヴィゾール……アンタにアタシは、どう見えてるの?」
「バーティフューラーさんは、バーティフューラーさんでしょう?」
「いいえ、違うわ。その人は青い髪で、優しい声の人……」
「止して下さい。あの時の事は……」
「フフッ、どうしたの? ねぇ、『ワーロック』……」
「バーティフューラーさん、今の――」
「何?」
「……今、『ワーロック』って言われた時……その、こう、心臓が高鳴って……」
「アタシの魔法が効いたのかしら?」
「これは愛おしいって感情でしょうか……? 込み上げて来て……胸が詰まる様な……、
苦しいと言うか、切ないと言うか……」
「我慢しなくて良いのよ? 私に影を重ねても……」
「……あの……抱き締めても、良いですか? 余計な事は、何もしませんから」
「あなたになら、されても構わないわ。あなたの心の望む儘に」
「いえ、そんな……」
「フフッ。どうぞ、ほら」
「……では、失礼します」
「震えてるわ……緊張してるの? あっ、ん……」
「済みません、強過ぎましたか?」
「良いの。大丈夫よ、『ワーロック』……」
「…………止めましょう。やっぱり、こんなの駄目です」
「どうして?」
「あなたはバーティフューラーさんです」
「はぁ……そうね、アンタの言う通り、私はバーティフューラーのカローディア。
そして、アンタは『ワーロック』じゃなくて、『ラヴィゾール』――」
「いや、僕は『ワーロック』かも知れないんですけど……」
「『ラヴィゾール』、今日の事は、お互いに忘れましょう」
「はい」
「はぁ……アタシ、何やってんだろ……」
「姉さん、どうしたの? 元気無いね」
「何でも無いわ」
「またラヴィゾールさんが原因なの?」
「……ルミーナ、黙ってて」
「図星なんだ……。姉さんって、あれだよね。何だ彼んだ言って、経験不足だよね」
「は? アンタが一体どれ程の経験を積んでるって?」
「そんな向きにならないでよ」
「アタシは長女だから! 魔法を継ぐ義務があるから! ルミーナ、アンタとは違うの!
アタシが居るから、アンタは――!」
「解ってる、解ってるよ。御免、姉さん。悪かったって」
人物:バーティフューラー・ルミーナ
バーティフューラー・トロウィヤウィッチ・カローディアの妹。
トロウィヤウィッチの魔法は、女系長女にのみ発現する一子相伝型なので、姉とは違い、
村人に忌避されていない。
社交的な性格で、明るく素直、何より姉想いであり、ラビゾーが現れるまでは、
姉と村人達との仲介役を務めていた。
何らかの理由で、姉が子を遺さず死亡すると、後継はルミーナになり、彼女に魔法の力が発現する。
トロウィヤウィッチは尽く尽く特殊な血統で、その魔法を受け継いだ者は、望むと望まざるとに拘らず、
徒に人を魅了する性質を持つ様になる。
その性質を最大限に発揮し、有効に利用する技術を磨いて来たのが、バーティフューラーの一族。
更に、トロウィヤウィッチの魔法を受け継いだ者は、女子を宿す確率が飛躍的に高まり、
特に第一子には必ず女子を儲ける。
男子が生まれた例は、極稀にしか無い。
男系の家督継承が一般的だった旧暦、女系継承のバーティフューラーは、希少な例であると同時に、
他家にとっては、長子がトロウィヤウィッチと交わる事は、家系の断絶と同義であった。
一子相伝型の魔法使いの裔が多い禁断の地で、粗確実に、しかも優先的に発現する、
トロウィヤウィッチの魔法は、故に村人から忌避される。
姉の存在が無ければ、ルミーナも村人から忌避されていた。
色々な魔法使い達
禁断の地の村には、多くの魔法使いの裔が住んでいる。
しかし、今も代々の魔法を受け継いでいる者は少ない。
理由は、その殆どが一子相伝である為だ。
魔法は「秘して明かさず」が原則の旧い魔法使いたちは、魔法に関する知識を人々と共有する、
共通魔法使いとは共存出来ない。
故に態々禁断の地で暮らしている訳だが、誰もが独自の魔法を持っているので、伝承の際に、
父母どちらの魔法を継ぐのか、大問題になった。
どちらの魔法も使える、VMを育てようと言う発想は、固陋な魔法使い達には、そもそも無い。
そんな旧い魔法使い達が、魔法を存えさせる為には、魔法に関する知識を持たない「普通の人間」が、
どうしても必要だったのだ。
その為に、元は一子相伝ではなかったが、他の魔法使い達との折り合いを付ける為に、
一子相伝型に変更した例が多い。
中には、魔法使いに成り切り、人としての生き方を忘れ、子も生さずに数百、数千年を生きる、
旧い魔法使いもいるが、それは極少数だ。
夢魔
禁断の地に住む魔法使い達の中でも、『夢の魔法使い<ドリーム・トラベラー>』と呼ばれる、
特に変わった魔法使いが居る。
名はソーム・バッフーノ。
日一日眠りっ放しで、外出する時も、言動と足取りが不安定で、まるで夢遊病の様。
彼が目を開けた所を、誰も真面に見た事が無い、本物の変人だ。
ラビゾーの師、マハマハリトと同じく、旧暦から生きる魔法使いの一と言われている。
『夢魔法<ワンダー・ドリーム>』とは、眠っている人が見る夢に干渉して、夢と夢を繋いだり、
夢の中に入り込んだり、白昼夢を見せて引き込んだり、とにかく夢に関する魔法である。
基本的には精神に作用する類の物で、直接の殺傷能力は持たない。
ソームは村から離れた所に居を構え、自ら村に近付く事は無い。
そして村人が彼を訪ねる事も無い。
それはソームが気紛れであり、何でも彼んでも夢の世界に引き込んで、
運が悪ければ帰して貰えないからである。
――村人がソームに近付かないのは、夢の中に誘い込まれると、帰れなくなるかも知れないからと、
言うだけではない。
眠っている間に見る夢は、意識的に制御が出来ず、無防備な心の内を晒してしまう。
村人が本当に恐れているのは、心の弱さや醜さを、ソームに知られてしまう事だ。
だが、ソームは果たして本当に気紛れなだけの魔法使いなのか?
彼の思考や性質について、村人は本当の所を全く知らない。
近付かないから、分からない。
ただ「恐ろしい物」と、漠然とした認識を抱き、それを村人同士で共有している。
ラビゾーが、夢の魔法使いソームを訪ねたのは、彼が禁断の地に来た年の事。
村人達とも、それなりに親しくなり始めた頃だった。
好奇心旺盛な村の子供達が、ソームの住み家に「探検」しに行った際、その内の2人が取り残され、
誰か様子を見に行かなければ……となって、ラビゾーに話が回って来た。
本来は保護者が行く所なのだが、大人に怒られるのを嫌った子供等が、ラビゾーを頼った結果である。
そんな訳で、ラビゾーは独りソームの住家を訪ねる事になったのだが、彼はソームをよく知らなかった。
子供等は、ソームは「恐ろしい魔法使い」だと説明していたが、それは所謂「雷親父」に類する物だと、
ラビゾーは楽観的に考えていた。
ソームの物と同様に、村から少し離れた所に置かれた魔法使いの住家は、他にもあるので、
その内の一つと言う認識だったのだ。
ソームの住家は、とても辺鄙な森の中にあるとは思えない程、巨大で恐ろしい外観をしていた。
ラビゾーが、どこの城かと思った位である。
お屋敷、大屋敷とでも言うべきだろう。
しかし、使用人が居ないのか、壁と言う壁は蔦に覆われている。
ソームと言う者は、ここに独りで暮らしているのだろうか……?
使い魔の数匹は居るとしても、長年だだっ広い屋敷に独りで暮らし、村人にも避けられ、
寂しくないのだろうかと、ラビゾーは思った。
人を帰さないのは、孤独を紛らわす為ではないかと、彼は少しだけ同情した。
立派な門構えを潜り抜け、敷地内に踏み入ったラビゾーは、ソームに怒られはしないかと恐れながら、
建物に向かった。
しかし、彼の予想に反して、人の気配は全くせず、遂に何事も無く、屋敷の扉の前に辿り着いてしまう。
困った事に、その扉にはノッカーも呼び鈴も付いていなかった。
ラビゾーは不気味な静寂に身震いする。
――屋敷の中には、子供が取り残されている。
ここで愚図っていては、何にもならない。
ラビゾーは覚悟を決め、声を張った。
「今日は、誰か居ませんかー?」
だが、彼の呼び掛けは虚しく木霊するばかりで、何の反応も無かった。
仕方無く、扉に手を掛け、押す。
鍵こそ掛かっていないが、ドアベルが付いている訳でもなく、ギィッと木が軋む嫌な音が響く。
ラビゾーの目下の心配は、ソームに不法侵入者と思われて攻撃される事であった。
屋敷の中は暗く、足を踏み出す先すら、よく見えない。
「今日はー!」
ラビゾーは再び呼び掛けたが、やはり返事は聞こえない。
それは諦めるとして、どうして屋敷の中は暗いのかと、ラビゾーは訝った。
屋敷の外観には、窓があった筈である。
明るい所から陰に入って、暗く感じたにしても、真っ暗で何も見えない事は無い。
よく確認していないので、「窓があった」と言うのは、思い込みかも知れないが、全く窓の無い建物は、
常識的に考えてあり得ない。
この地では、そう言った常識が、どこまで通用するか、怪しい所ではあるが……。
(いや、それでも流石に変だ!)
そう何極も悩まない内に、ラビゾーは目の前の奇妙な現実に合わせ様としている思考を、振り払った。
今、自分が開けている扉からも、明かりが差し込まないのは、あり得ない。
これはソームの魔法であると、ラビゾーは確信的に予想した。
この建物の中に、完全に踏み入っては危険だと理解したかれは、取り敢えず身の安全を確保する為に、
屋敷の外へ出ようとする。
しかし、それは不可能だった。
ラビゾーが退出を決意した瞬間、彼は暗闇に閉ざされた。
屋敷への出入り口が、扉諸共、文字通り消えて無くなったのである。
ラビゾーは扉を押して屋敷内に入った後、立ち止まって、扉から手を放さず、
慎重に様子を窺っていたのに、何の予兆も読み取れなかった。
暗闇の中、付近を手探りで歩いても、直ぐ側にある筈の壁にすら触れられない。
暗闇に目が慣れる気配も、一向に無い。
物の理を全く無視された形で、ラビゾーは独り真っ暗闇の中に置かれてしまった。
――ソームは恐ろしい魔法使いだと、村の子供等が言っていた事を思い出して、
ラビゾーは久しく味わった事の無い、危機感に慄いた。
この状況では、取り残された子供を連れ帰る所か、自分の身も危うい……。
(どうした物か……)
募る焦燥を余所に、幾ら探しても、出口が見付かる気配は無い。
ラビゾーは参ってしまった。
彼は彷徨くのを止め、冷静になって考える。
(そもそも僕は子供を捜しに来たんだよな……)
思い返せば、暗闇に置かれた瞬間から、自分が戻る事ばかり考えていたと、ラビゾーは自省する。
こんな訳の解らない所に囚われた子供の方が、ずっと不安な筈ではないか……。
乗り掛かった船、ここで退いては格好が付かないと、ラビゾーは開き直った。
(自分の事ばっかり考えてたら駄目だ。
話が通じるか分からないけど、先ずはソームと言う人に会わないと。
臆病風に吹かれて、無意識に避けていた所が、あったかも知れない。
もう一度、何か無いか探してみよう)
屋敷を訪ねるまでに1度、屋敷の門を潜るのに1度、屋敷の扉を開くのに1度、これで4度目。
小さな勇気を小出しにして、ラビゾーは進む。
そして1点後……。
前向きな心が道を拓いたのか、ラビゾーは意外な程あっさりと、壁に辿り着けた。
まるで彼が決意するのを、運命が待っていたかの様であった。
相変わらずラビゾーの目は暗闇に慣れないが、壁を伝って歩くと、ドアの取っ手らしき物に触れる。
丁寧に調べてドアを押すと、隙間から目映い光が溢れ、彼は堪らず目を閉じた。
ラビゾーが目を開けると、そこは先程とは真反対の、真っ白い部屋の中だった。
目に映る物は白以外に無く、ラビゾーは混乱する。
壁、床、天井の境すら見えないのだ。
影一つ無い、本当に真っ白な空間。
余りに白くて、どの位の広さなのかも、見当が付かない。
その上、この部屋に入って来た時に通ったドアは、またしても消えていた。
(どうなってるんだ?
幻覚の類なのか?)
疑問を抱いたラビゾーは、試しに自分の頬を叩いてみたが、痛い事に変わりは無く、
意識も確りしている。
仕方無く、彼は真っ白な部屋を探索する事にした。
しかし、この白い部屋も、真っ暗闇と同じで、歩けど歩けど、どこかに辿り着く気配が無い。
憖、目が見えるばかりに、白一色で変化が無いと言うのは、精神に堪える。
ただ白いばかりでなく、自分の影さえ落ちていないのは、一体どう言う事か?
(これ本当に幻覚なのか?
……幻覚じゃないなら、何なんだ?
魔法的な空間?
空間を創り出す……、そんな魔法があるのか?)
歩き疲れたラビゾーは、その場に座り込んだ。
その時、閃く。
この部屋が、どの位の広さかは判らないが、唯一調べられる場所がある。
それは――――足元だ。
(どれどれ?)
ラビゾーは手の平で床を叩いた。
……ペチペチと固い音がする。
(流石に床を打ち抜くのは無理か……)
石材か、それに近い材質の物で、素手で破壊する事は困難。
ラビゾーは咳払いした後、大きく息を吸い込んだ。
そして大声を出す。
「――ワッ!!」
一見、奇行にしか見えないが、反響から部屋の広さを推測する為である。
本来なら、もっと早く試すべき事だったが、生憎と今日の彼は、そこまで冴えていなかった。
出来不出来に斑があり、安定して能力を発揮出来ないのは、成熟していない証拠。
ラビゾーの欠点である。
さて、ラビゾーは声の響き具合を確認したかったのだが、彼の予想に反して、反響は全く無かった。
完全に無音。
(これ、かなり広いんじゃないのか?)
ラビゾーは脱力感に襲われ、途方に暮れた。
そもそも常識が通用しない空間なので、吸音素材の可能性は考えなかった。
彼は無闇に歩き回って体力を消耗したので、休憩がてら、この空間を生み出した、
創造主の目的について、考察を始める。
それが、この理不尽な空間から抜け出す、近道になると思ったのだ。
(――――これがソームの仕業だとして……、この空間は何の為の物なんだ?
前の暗い場所と、ここには、何か共通点があるのか?
僕はソームに試されているのか……?)
しかし、思考は中々纏まらない。
考え疲れたラビゾーは、何気無く床を見詰めた。
(真っ白だな……)
彼はウェストバッグから短刀を取り出すと、自らの手の平に軽く刺して、滲み出た少量の血を、
床に擦り付けた。
真っ白な空間で行動する為の、目印にしようと思っての行動ではない。
ただ何と無く、この気が滅入るような嫌味な白を、汚してやろうと思ったのだ。
「これは目印になるんじゃないか?」と思ったのは、その後である。
所が、奇妙な現実は思わぬ方向に転がった。
ラビゾーが擦り付けた血の跡は、謎の材質に染み込んで、見る間に赤から黒に変色し、
明らかに元の量を超えて、徐々に拡がって行った。
黒の侵蝕が始まったのである。
「な、何だっ!?」
ラビゾーは思わず声を上げて驚き、拡がる黒から飛び退いた。
黒の侵蝕は緩やかではあるが、止まる気配を見せない。
(これに触ると、どうなるんだ?)
まじまじと黒を観察するラビゾー。
見た感じ、黒は液体でも固体でもなく、白が黒に変色していると言うのが、正しい表現なのだろう。
白の中の黒は、宛ら無限の奈落。
そこで彼は、はっと思い付いてしまった。
(飛び込めと……?)
半ば絶望的な状況で、やっと起こった変化である。
この空間から抜け出す為には、何でも試してみなければ始まらないと、ラビゾーは心を決めた。
彼は幅跳びの要領で、拡がり続ける黒に飛び込む。
(1、2の、3!!)
何事も無く着地したら、少し間抜けだなと思いつつ。
The fool fall in a hole……そんな言葉が浮かんだ。
結果は――――。
ラビゾーの足は黒を踏み付け、普通に着地した。
穴など開いていなかった。
しかし、新しい変化は直ぐに現れた。
白一色の空間は、一瞬で見慣れない森の中に変化した。
まるでテレポートしたかの様に。
変わったのは、自分か、場所か?
(ここ、どこだ?
外に出たのか?
今までのは幻覚?
それとも、これも幻覚?
魔法?)
森の中は、木と土の匂いがする。
手の平には小さな傷があり、少し痛む。
ラビゾーは初め驚きこそした物の、もう深く考えるのは諦めた。
そして、人の気配を求めて歩き始めた。
天を覆う枝葉の隙間からは、太陽が覗く。
未だ日が高い事を確認して、ラビゾーは少し安堵した。
感覚的には、随分長い間、彷徨っていたので、日が暮れ始めていないかと、心配していた所だった。
それでもラビゾーは、これが現実かと言う事については、安心していなかった。
仮に現実だとしても、覚えが無い場所なので、ここが禁断の地だと言う確証は無い。
どこへ向かうでもなく、ラビゾーは短刀で木の幹に目印の傷を付けながら移動する。
主に聴覚に神経を集中させ、微かな物音も聞き逃さない様にして。
(おかしいな……静か過ぎる)
森の中だと言うのに、風の音、枝葉が擦れる音が聞こえない。
(やっぱり、現実じゃないんだろうか……?)
だが、土を踏み締め、小枝を折る感覚は偽物とは思い難い。
同じ独りでも、見える物があり、触れる物がある事は――それが当たり前なのだが――、
ラビゾーには嬉しい事であった。
(……これは本当に帰れるのか、いよいよ怪しくなって来たな)
そう心の中で呟きながらも、今までとは違い、幾分の余裕がある。
彼の意志は既に固まっている。
(何が何でも、子供を見付けるか、ソームと言う人に会う。
帰れる帰れないで悩むのは、後だ、後)
足取りは勇ましく、力強い。
ラビゾーは暫く歩いた所で、子供の声を聞いた。
遊んでいる中で発せられる様な、笑い混じりの高い声だ。
どこか聞き覚えのある……。
(あの2人か?)
ラビゾーは声がする方向に急いだ。
そこで彼が見た物は、信じ難い光景であった。
笑い声を上げながら、男児と女児が、1手位の球状の物体を、両手で抱えて、
交互に地面に叩き付けている。
最初は何をしているか、判らなかった。
ベタベタと潰れる音がする。
投げている物は……。
(ゴトゴト虫?!)
白い巨大なカール・グラブ(甲虫の幼虫)。
叩き付けられる度に、カール・グラブからは、悪い色の体液が噴き出す。
「何してるんだ!」
ラビゾーは慌てて止めに走った。
子供の残虐な行動は、時に常軌を逸する。
「あ、ラビゾー!」
男児が振り向いて反応したが、虫を甚振るのは止めなかった。
「ウフフ、止められないの」
女児の方は、目も呉れない。
その嗜虐性に、ラビゾーは戦慄した。
禁断の地の子供等は、遊びで小動物を狩るが、少なくとも、好んで生き物を虐げる姿は、
ラビゾーは見た事が無かった。
カール・グラブの多くは、作物の根を食害する害虫なので、土を掘り起こした際に発見されると、
極普通に叩き潰される運命にある。
だが、単なる駆除と、嗜虐心を満たす為に好んで痛め付ける事は、区別しなければならない。
どちらが非道かと言う議論は扨置き、幼児期にあり勝ちな苛虐性向を抑えるには、
それは悪い事だと教える必要がある。
「そんな事やってる場合じゃない!
皆、心配している。
帰ろう!」
しかし、何と言って良いか、直ぐには思い付かないラビゾーは、咎めるのは後回しにして、
この場からの脱出を訴えた。
所が、子供2人の様子に変化は見られない。
にやにや笑っているだけだ。
ラビゾーが声を掛けた時も、希望を持った風でも、安堵した風でもなかった。
その事を思い出した彼は、逆に2人の子供を怪しみ、警戒した。
(偽者か?
それとも操られている?)
たじろぐラビゾーに、男児は言う。
「帰れないよ。
ソームの夢に捉まったら、帰れないんだよ」
「ウフフフフ……」
常に笑顔が張り付いた、不気味な表情の子供に、ラビゾーは気後れする。
操られているなら何とかしたいが、もしかすると偽者かも知れない。
どちらにしても、迂闊に近付くのは危険。
……だからと言って、放って置く事も出来ない。
ラビゾーは葛藤する。
長い数極間、悩み抜いた後、彼は取り敢えずソームと言う魔法使いについて、訊く事にした。
今は情報が欲しい。
「ソームの夢って何なんだ?」
虫に御執心の女児は措いて、男児の方に尋ねる。
「ソームは夢の神様。
ソームなら良い夢も悪い夢も、自由に見れるし、見せられる」
「夢を操る魔法使い?」
「知らない」
「これは悪夢なのか?」
「知らない」
冷淡な反応にラビゾーが戸惑うと、その僅かな隙に、男児はカール・グラブを苛める作業に戻ろうとする。
その為、ラビゾーは矢継ぎ早に質問をして、引き留めなければならなかった。
「ソームは、どこに居る?」
「夢の中」
「ソームに会った?」
「会った」
「どんな人?」
「こんな人」
男児はラビゾーを指差した。
それが冗談で言われた物か、本気で言われた物か、ラビゾーには判らなかった。
自分に似ていると言うのか、それは性格なのか、容姿なのか、彼が思案した、本の僅かな隙に、
男児はカール・グラブを苛めに行ってしまった。
まるで己に課せられた義務であるかの様に、子供2人は一心不乱に虫を虐げ続ける。
どうせ言っても聞かないだろうと、ラビゾーはカール・グラブを、2人から引き剥がす事にした。
もうカール・グラブは死んでいるだろうが、この2人が本物だろうが偽者だろうが、
残虐性を助長させる様な、この悍ましい行為は、止めなければならないと思っていた。
「待った!」
子供2人に向かって歩き出すラビゾーを、留める声がある。
ラビゾーは驚いて、素早く振り返った。
そこに居たのは、彼と全く同じ外見をした、謎の人物だった。
ラビゾーは二度驚く。
「……誰だ!?」
射抜く様な鋭い目、自信に満ちた微笑、泰然とした構えは、どこかしら何時も抜けている、
ラビゾーの雰囲気とは似ても似つかないが、個々の部品は全く同じ。
その気持ち悪さは、中々形容し難い。
これは自分に似ている別人ではなく、自分の姿を借りた別人だと、ラビゾーは直観した。
「誰だと尋ねる前に、君から名乗るべきでは?」
返された非常に嫌味な言い方に、こんな声で自分は話していたんだと、ラビゾーは頭を抱えた。
自分の生の声を、自分で聞く機会は、そうそう無い。
貴重な体験ではあったが、言い様の無い恥ずかしさが、胸から込み上げる。
「止めろ、黙れっ!!」
「おいおい、それじゃ名乗る事も出来ないよ」
「人の声で喋るな!」
ああ言えば、こう言う。
ラビゾーは怒りと羞恥で、顔を真っ赤にして震えた。
ラビゾーの姿をした人物は、沈黙した儘、にやけた表情でラビゾーを見詰めていた。
自分の顔だけに、その憎らしい事と言ったら無い。
「……黙れと言ったから、黙ってるのか?」
ラビゾーが尋ねると、ラビゾーの姿をした人物は肯く。
ラビゾーは心を落ち着かせ、改めて尋ねた。
「お前は誰だ?」
「喋っても良いのかな?」
元々長い付き合いだった顔である。
相変わらず態度は憎らしく、嫌悪感も拭い切れないが、見慣れてしまえば、どうと言う事は無かった。
「……良いよ」
「答えても良いが、名乗るなら――」
「ラビゾー」
それが自分の名だと、ラビゾーは虚勢を張って答える。
「嘘は良くないよ、ラヴィゾール」
「発音の違いだ」
ラビゾーの姿をした人物は、「ほほぅ」と感心した様に息を吐き、漸く真面に答える。
「僕はソーム」
不敵な笑みを浮かべる彼だったが、ラビゾーは驚かなかった。
予想していた通りの答えだった。
ラビゾーは、夢の支配者ソームに言う。
「お前がソームか、子供達を帰せ」
彼が初対面の相手を、「お前」呼ばわりするのは、それが目下の者か、軽蔑している人物、
或いは、感情的になっている時に限られる。
「その高圧的な態度、君らしくない」
「僕の何を知ってるって言うんだ?」
「僕は夢の世界を思う儘に出来る。
夢と言うのは、不思議な物だ。
普段思ってもいない事が起きたりするだろう?
それは夢が当の本人ですら知らない、心の底と繋がっているからさ」
「だったら、僕の言いたい事も、全部解るだろう。
今直ぐに子供達を解放しろ」
開き直ったラビゾーは強い。
ソームは肩を竦め、戯けて見せた。
「いやいや、それは出来ないんだ。
僕にも一応、役目と言う物があるんでね……」
「役目?」
「危険を教える役目さ。
好奇心旺盛な年頃の子供は、大人の注意なんて、幾ら言っても聞きやしないからねェ。
迂闊に村から離れると、酷い目に遭うって事を、嫌と言う程、心に刻み込むんだよ」
邪悪な笑みを浮かべるソームに、ラビゾーは眉を顰める。
「フフ……そう睨まないでくれ。
これは必要な事なんだ。
私達魔法使いの為にも、村の平穏の為にも。
禁断の地には、魔法使いより恐ろしい魔法生命体が、うじゃうじゃいる」
言い繕うソームだったが、虫を苛めるのが、一体何の戒めになるのだろうと、ラビゾーは疑問に思った。
彼は念の為に確認する。
「向こうにいる、あの子供は、本物なのか?」
「そうだ。
暫くは、悪い夢を見て貰う」
(悪い夢にしては、楽しそうにしているが……)
2人の子供は、喚声を上げている。
「……仕置きが済んだら、無事に帰すんだな?」
「約束しよう」
「変な真似はするなよ。
……特に、その顔では絶対に」
「変な真似」とは、詰まり、そう言う事である。
「ああ」
本当に信用して良いのか、迷うラビゾーに、ソームは言った。
「安心してくれ、魔法使いは約束を違えない」
その真剣な眼差しに免じて(自分の顔なのだが)、これ以上ラビゾーはソームを疑わない事にした。
「分かった。
それは良いが……どうやって帰るんだ?」
「全ては夢だ。
覚めれば終わる」
ソームがラビゾーに近付くと、ラビゾーの視界が歪んで、ぐるぐる回り、暗転した。
ラビゾーは目覚めた。
彼は村から余り離れていない森の中で、独り立ち尽くしていた。
見覚えのある風景に、ほっと安心したのは束の間。
太陽は大きく西に傾いていた。
序でに、やや空腹である。
(は?
……夢?
立った儘で眠っていたのか??)
ラビゾーは、そこらの木に縋っていたのでもなく、落ち葉の上に倒れていたのでもない。
普通に両の足で立っていた。
彼は自分の体を確認し、どこか異常が無いか、持ち物が無くなっていたりしていないか調べたが、
特に何も変わった所は無かった。
唯一つ、手に小さな傷が残っていた。
今までの事が夢だったとすると、ラビゾーは立った儘で眠っていた事になる。
それに、夢で付けた傷が残っているのも変なので、ソームに夢を見させられていたと言うよりは、
幻覚を見せられていたとする方が、自然だ。
寝惚けていたとも考えられるが……。
夢だったのか、幻覚だったのか、ラビゾーは深く考えるのを止めた。
どちらでも、現実でない事には変わり無い。
(一体、どこから幻覚だったんだろう……?)
ふとラビゾーは疑問に思った。
屋敷に入った所から?
それとも屋敷を発見した所から?
まさか、屋敷に向かう所から、既に現実ではなかったのだろうか?
冷静に思い返せば、幻覚の中での自分の行動は、随分と不合理で支離滅裂だったと、
ラビゾーは頭を掻く。
それと同時に、別の疑問も浮かぶ。
(幻覚の中で起きた事を真に受けて、その儘帰って良いのか?)
よく考えなくとも、良い筈は無い。
子供等の手前、連れて帰ると言ったのだから、幻覚の中で説得されて帰って来ました――等と言って、
信用される訳が無い。
現実に戻ったラビゾーは、再びソームの住家に向かって歩いた。
この後も、何かしら面倒な出来事が控えていると、予想していたラビゾーだったが、
彼はソームの住家に着く前に、男児と女児を発見出来た。
2人の子供は、大きなセドラスの木の下で、仲良く寄り添って眠っていた。
「おい、大丈夫か?」
ラビゾーは2人を揺すって起こそうとしたが、ぐっすり眠っており、目覚める気配は無い。
だが、悪夢を見ている風でもなく、その安らかな寝顔に、ラビゾーは少し安心する。
彼は2人の子供を抱えて、村へと帰った。
村に着いたラビゾーを、2人の子供の両親が出迎える。
余りにラビゾーの帰りが遅かったので、子供等は不安から、黙り通している事が出来なかったのだ。
ラビゾーから半ば奪う様にして、我が子を胸に抱える母親達。
そして、ラビゾーに頭を下げて、繰り返し礼を言う。
父親達は、どうやってソームの元から帰ったのかを訊ねて来たが、ラビゾーは幻覚の事は省いて、
偶々セドラスの木の下で眠っていた所を発見したと伝えた。
翌日、意識を取り戻した2人の子供は、それぞれの親に、こってり搾られたと言う。
悪夢を見させられ、帰ったら帰ったで怒られるのだから、自業自得とは言え、災難である。
こうして禁断の地の人々は、村から離れなくなるのだろう。
ラビゾーは、そう思った。
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